ぺらり。
静寂に包まれた埃まみれの空き教室に、紙を捲り上げる音が響く。歪んだ窓枠に腰掛けた少年の瞳は、一心に綴られた文字を辿り続け、今日もまたその冷めた眼差しが己を映すことはなかった。
(相変わらず綺麗な顔……)
ここは、ある偉大なる魔法使いが残した記憶の中。舞台は懐かしきモラトリアムの象徴・ホグワーツ魔法魔術学校。それも、まだ闇の帝王が君臨するより前の、過去の世界である。
かの闇の帝王を倒してから、早いもので八年もの月日が過ぎた。
ホグワーツを卒業したハリーは、その後魔法省からのスカウトを受け、今は配属された闇祓い局にてその杖腕を振るっている。今までのあれこれから魔法省に対する印象は底辺を下回っていたものの、目も当てられない壊滅的な状態も、ハリーが本格的に進路について考え始めた頃には幾分か改善され……また、最終決戦にて世話になった者たちが熱心に誘ってくれたことも相まって、彼は役人の一人としてこの魔法界を支えることを決めたのだった。
そして、二十六歳を迎えた今。ハリーは再び人生の岐路に立たされようとしている。なんと魔法界中にその名を知らぬ者はいない、というほど有名な英雄様は、闇祓い局の局長に就任することが正式に決まったのだ。
《英雄ハリー・ポッター。最年少闇祓い局局長に就任》
《偉大なる魔法使いに最も近い男》
《これで魔法界も安泰か》
今朝目にした、日刊予言者新聞の一面を飾った見出しの数々が、脳内を駆け巡る。昔から何かと話題にされることの多かったハリーであるが、今回の記事の反響は今までのそれらとは比べものにならないくらいに大きなものだった。
(疲れたな……少しだけ)
肩書きが重みを増せば増すほど、当たり前のことであるが多忙さに拍車が掛かる。学生の頃から交際していたジニーに振られたのは、何十回目のデートをすっぽかした時だろう。おかげでロンとは未だに気まずかった。彼は気にするなと言ってくれてはいるけれど。
「……はぁ」
ため息が漏れる。疲弊しきった声だ。我ながら嘆かわしい。
(飽きないのかな)
未だ魔導書を読み耽っている少年の姿を見下ろす。一向に顔を上げる様子のない彼は、余程集中しているのか三時間近くずっと、飲まず食わずのままボロボロの紙面と睨み合っていた。
「……また君は、そんな物騒な本を読んで」
少年が手にしている魔導書のタイトルは《闇の魔術禁忌目録》。明らかに禁書扱いの代物だ。こういった教育に悪いものを校内で、しかも一学生の身分で手に入れることは非常に難しい。だというのに、彼は一体どんな手を使ってこういった怪しげなものたちを仕入れてくるのか。少年が禁忌指定の魔導書や魔法道具を片手に、意味深に口角を吊り上げる様を見るのは、実のところこれが初めてのことではなかった。
「トム、君はやっぱり……」
どうしてこんな無意味なことをしているのだろう。ふ、と思う。局長に就任するに伴って引き継がれた、役人御用達の魔法道具『憂いの篩』。そこにアルバス・ダンブルドアの記憶が保存されているのだと知ったとき、気がつけばハリーは此処にいた。
――まだ彼がヴォルデモート卿となる前の、トム・リドルとして生きていたこの時代に。
「ここにいたのか、トム」
あぁ、やはりよく似ている。
プラチナブロンドの長髪を結い上げ、機嫌良さそうにやってきた乱入者を見上げる。この少年の正体が誰なのか、ハリーは嫌というほど知っていた。これで「やぁ、親なしポッター。ご両親に代わって、僕が正しい挨拶の仕方を教えてやろう」だなんて宣いだしたら、まさに奴そのものだろう。あまりにも瓜二つなムカつく面構えを前にして、ハリーは触れられないとわかっているのに、スカスカとそのお綺麗な御尊顔のど真ん中に拳を突っ込んだ。
「隣、失礼しても?」
「どうぞ」
未来の孫の天敵に嫌がらせされているとも知らずに、プラチナブロンドの少年――アブラクサス・マルフォイは、空き教室に放置された椅子の上にシルクのハンカチを敷き、その上にゆっくりと腰掛ける。その仕草ひとつひとつがいやに上品なものだから、やはり生粋の純血貴族というものは鼻持ちならない、と苛立った。
「ここはいつ来てもカビ臭くてかなわんな。よくもまぁこんな所で大人しく本なんて読めるものだ」
僅かに眉間に皺を寄せながら、アブラクサスが言う。
「ここが一番静かで良いんだ。外は少々――賑やかなものでね」
クスクス。
意地の悪い笑い声を漏らして、リドルは本を閉じた。
此処へ飛んだのは三度目のこと。追憶の傍観者となって痛感したのは、アルバス・ダンブルドアという男の偉大さと、その残酷さだった。
まず前提として、保存された記憶というのは、あくまで記憶の所有者本人の目線で物事が映し出される。そのため、本人のあずかり知らぬ場所で起きた事象については、干渉することは叶わない。しかし、ハリーがダンブルドアの記憶を覗いた時、どうしてか本人不在の場所で起きた事象も、ホグワーツ校内で起きたことに限り干渉が出来た。それはつまり、ホグワーツ校内において、彼の目の届かないところは存在しないということの証左で。
とうことは、だ。あの大魔法使いは噂通り、校内で起きたそのすべての事象を『見て』いたに違いなかった。その上で、彼は見聞きした情報の半数以上を、敢えて見逃していたのだ。
(どうして……)
彼がどうして日和見に徹していたのか、ハリーにはわからない。わからないが、あの人のことだ。何かしら考えがあってのことではあるのだろう。人好きの良い笑みを浮かべ、にこにことレモンキャンディを頬張る好々爺の姿を思い浮かべる。心臓がチクン、と痛んだ。彼の墓参りに行けたのはいつのことだったか。ここ最近、忙しくて顔を出すことが出来ていない。
(どうしてですか、先生)
伝えたいことが沢山ある。闇祓い局の局長となったこと、闇の陣営の残党をすべて検挙したこと、ジニーに振られたこと……あなたの記憶に、何度かお邪魔していること。それから、
(ダンブルドア先生、)
何故、どうしてあなたは――、
(見ていたなら、すべて知っていたならば……彼を止めてくださらなかったのですか……)
「アブラクサス、お前の家はどうだ? 僕の考えに賛同してくれる者は?」
とぷとぷ、と。ティーカップに紅茶を注ぎながら、リドルが問う。
「あぁ、父上が君に興味がおありのようでね。一度話をしてみたいとおっしゃっていた……」
「それは光栄なことで」
「ふ、思ってもいないことを」
二人はまるで普通の少年たちのように談笑し、スコーンを頬張りつつ紅茶を嗜んでいる。外側から眺めているだけでは、それはなんてことのない学友同士の交流のように見えた。しかし、ここへ何度も飛んだことのあるハリーだけは、彼らの関係がただの学友などで収まる領分ではないと知っている。
「……明日には『秘密の部屋』を開くことが出来そうだ」
アブラクサスの目がカッと見開かれた。興奮した面持ちで頬を紅潮させた彼は、ごくり、と唾を飲み込み前のめりになる。その目は期待から輝いている。獲物を前にした蛇みたいだ。話の重要度にそぐわない、無垢な子どもの表情。それは、ハリーの心に刻まれた古傷を、容赦なく抉った。
「ほう……それは良い話を聞いた。やはり君は天才だ、トム。君は僕らスリザリン生にとっての誇りで、希望で……そして、君こそがこの魔法界の頂点に立つべき絶対的な『王』だ。僕は今、そのことを再確認したよ」
彼らの非情な応酬は続いていく。生贄には獅子寮のあいつが相応しい……いやそれだと目立ちすぎる……どうせなら死んでもすぐに忘れられそうな奴……あぁ、ならあの冴えない女はどうだろう……それはいい。ならあの女が一人になる瞬間を狙って……。聞くに堪えない悪巧みを、平然とやってのける二人を、止める者なんていやしない。
リドルは最後まで冷静だった。昂揚するそぶりを微塵も見せず、アブラクサスのように段々声が大きくなっていくことも、饒舌になっていくこともない。ただ淡々と、革張りのソファでふんぞり返って、それが当然という顔をして人殺しの計画を練っていた。
恐ろしい。そう思うのが普通なのだと理解している。だが、ハリーにはどうしても、恐ろしさよりも、憐れむ気持ちの方が大きくなってしまうのだった。ここで誰かが、彼を引き留めてくれたなら。彼を理解し、彼の進む道を光り差す方へと導いてくれる誰かがいたなら。あんな、目を背けたくなるような最後にはならなかった筈なのに。
リドルとハリーは似ていた。生まれたときから両親がいない。孤立した幼少期を過ごし、魔法の才覚に恵まれ、魔法界にてようやく居場所を見つけられた世の中のはみ出しもの。また、彼の魂が赤子の頃からハリーの身体に埋め込まれていたせいか、その魂の資質も自ずと近しいものとなっている。
二人の違いは、自分を本当の意味で愛してくれる人と出会えたかどうか。
ただ、それだけだった。
「トム」
気づいてくれ。美しい微笑を湛えながら語り続ける少年へ、懸命に話し掛ける。
「君はそんなことをしなくたって、凄いんだ。君は確かに天才だった。あのダンブルドアを手こずらせたくらいに……」
ははは、笑い声が上がる。
温度の無い、凍りつくような嘲笑だ。底冷えのする地下空間に響き渡った、あの悍ましい声を思い出す。今目の前にいる彼はまだ誰も殺していない、ただの子どもでしかないリドルだ。しかし、この子は紛れもなくあの部屋で出会った、トム・マールヴォロ・リドルと同一人物なのだと悟ってしまえるほど、彼の性質はこの頃からハリーの目に冷酷に映った。
「……行ってはダメだ」
どうして、こんなに必死になっているんだろう。わからない。彼と初めて会った時から、ずっとそうだった。不思議なほど彼の存在感に惹きつけられて、彼のことを考える頻度が多くなっていって、そして残酷な現実に打ちひしがれた。裏切られたようにすら思っていた。やっと自分の理解者が出来たのだと、そう思えたのになんで、と。
すべての真実を知った後で、その原因はハリーの身体に入り込んだ彼の魂の一部にあることがわかったのだけれど。それでも、それだけを理由にするにしては、ハリーは些か彼に執着し過ぎていた。
まるで、そう。愚かにも、あの男に恋でもしているかのように――。
(馬鹿げてる)
ありえない。なんて、不毛な。
彼らの笑い声が耳にこびりついて離れない。苦しい。こんな感情、抱くべきではない。わかってる。わかってるんだ。でも、忘れられない。
ボーン。
古ぼけた置き時計が、十二時を告げる鐘を鳴らした。同時に視界が歪む。夢を見る時間はもう終わり。何とも言えない寂寥感に、心の柔い部分を突き刺された。
「トム、」
急激に意識が引っ張られて目を閉じた。頭がぐらぐらする。帰りたくないと思った。そして、帰りたくないと思った自分に嫌気が差した。
「……あぁ、」
閉じた瞼の裏側で、あの作り物みたいに美しい男が、無邪気な笑みを浮かべている。
*
トム・リドルという生徒は、想像よりもずっと大人しくて、静かな生徒だった。だからといって気弱で引っ込み思案なのかと言われると、そういうことではなく。ただ酷く大人びていた。その一言に尽きた。
「おい、そこの混血」
彼が新入生であった頃の話である。彼は純血主義を掲げるスリザリン寮へと、混血の身でありながら組み分けされた。当時はハリーたちが在籍していた頃よりもずっと差別的意識が強く、マグル生まれの魔女・魔法使いたちや、混血児への風当たりがキツかった。となれば、当然あのトム・リドルといえど偏見の対象にされることは想像に難くなくて――彼もまた例外なく、寮生たちからの悪意の標的とされた。
「……」
「おい、聞いてるのか? お前だよ、お前」
「……? あぁ、まったく気づかず申し訳ありません。僕は『混血』でも『お前』なんていう名前でもないもので。いえ、先輩方の覚えが悪いなんてことは言っているわけではありませんよ。えぇ」
「こいつ……っ」
「それで、僕に何か御用でしょうか……『先輩』?」
ガッと強く肩を掴まれ、痛みからリドルの顔が僅かに歪められる。しかし、彼の表情はすぐに貼り付けたような笑みへと変わった。そして、烈火の如く怒り狂うかと思いきや、彼は淡々と寮生たちから浴びせられる罵声に応対していく。
あくまで表面上は人好きの良い笑顔を浮かべ、物腰柔らかく言葉を返す。けれどもその裏に隠された苛烈な敵意は、赤みがかった瞳の奥でギラついていた。
(おー、こわ)
恐らくこの場にいる誰にも察せられぬそれに、ハリーだけが勘付く。あれだけ彼の殺気を浴びてきたのだ。流石に敏感にもなるというものだった。
「なんで我が寮にこんな奴が入ってきたんだ」
三人の真ん中で偉そうにしている、如何にも純血貴族といった少年が言う。
「スリザリンの恥晒しめ」
「お前みたいな薄汚れた血にはグリフィンドールがお似合いだ!」
後ろに控えていた、ゴイルとクラッブによく似た二人が続けた。ニヤニヤと品のない笑みを浮かべながら、己の鬱憤を晴らすためだけに罵詈雑言を吐き出す三人は、お世辞にも品があるとは言えない。その点、嫌味一つとっても何処か高貴さを漂わせていた(そこがまた一層苛立ちを誘う)ドラコは天才だったんだな、なんて馬鹿なことを考えた。
まったく、悪口のバリエーションを増やしてから出直してこいっての。
「……あぁ、わざわざ僕のために、とても『為になる』ご忠告を頂けるとは。まったくもってありがたいことだ」
クスクス。
リドルが笑う。まったく堪えた様子のない彼に、三人組の間に動揺が走った。きっと、今までは少し突いてやるだけで怯えるような、甘ちゃんばかりだったのだろう。ハリーは白けた気分になりながら、四人のやり取りを眺め続ける。
「勉強になります。よく吠える犬は弱く見えると……」
「な、んだと……!」
「どうしたんですか? 顔が真っ赤だ。まるで窒息しかけた水中人のよう……ふふ、」
よく口の回ることだ。遠回しに間抜けと言っている。副音声で生きるのが向いてない、なんていう言葉も聞こえた。
「この……っ言わせておけば……!」
上級生たちが杖を取り出す。ついに乱闘騒ぎになるかと思いきや、
「うわっ!」
「ぐっは、……?」
「うぅ……」
――少年たちは呪文を放つことも許されず、次の瞬間勢いよく背中から壁へ叩きつけられていた。
ドゴッという重々しい音が、無人の談話室に響く。いやに静かだった。聞こえるのは、少年たちのか細くなった呼吸音と、ゆっくりと部屋を闊歩するリドルの靴音だけ。その後、不気味な沈黙が降りてきて、痛いほどの静寂が鼓膜を刺した。
「はは、」
今この場を支配しているのは、紛れもないリドルその人だ。愉快そうに小さく笑いを漏らした絶対王者は、いつのまにか手にしていた己の杖を、細く長い指先でくるくる弄んでいる。実に楽しそうに、愉悦に瞳を浸らせながら。
「さて、お話は以上でしょうか、先輩?」
「お前っ、いつのまに、仕掛けた……!」
「さて、何のことでしょう? 先輩たちが勝手に飛び上がって、勝手に後ろへ吹っ飛んだ……僕が見たことといえば、それぐらいです」
「白々しい!」
「……うるさいな」
ジジッ。
三人の口が不自然に閉じられる。杖を振ったモーションすら無かった。当たり前のように放たれた、ノーモーションの無言呪文。魔法の実力では手も足も出ないと悟って、三人の顔色がさっと青ざめる。今更なことだ。急に焦り始めた彼らをリドルは鼻で笑い、冷たく見下ろした。
「まるで醜い石像のように固まっていらっしゃる。そんなに震えて……嘆かわしい」
「ヒッ」
「我が寮に相応しくないのはどちらだ? 僕の下で無様に震え上がり、怯えきっているお前たちが、誇り高き純血の一族だって? 僕よりずっと優れているって? 冗談だろう。あのノロマで無能なトロールの方が、まだマシな魔法を使う」
うー、うー! っという死にかけの犬みたいな声がした。あれだけ威勢よくリドルに突っ掛かっていた三人は、今やなりふり構わず彼へ赦しを乞おうと必死になっている。その掌返しの速さはまさしく蛇寮という感じだった。だが口は封じられ、先ほど壁へ叩きつけられた時のダメージで起き上がることすらままならず、ましてリドルの威圧感に完全に屈服させられている状態の彼らに、なす術はない。
「……失せろ。二度と僕の前に顔を見せるな」
それは死刑宣告であった。
談話室横にある地下階段に向かって、三人の身体が投げ飛ばされる。受け身を取る間もなかった彼らは、悲鳴を上げながら文字通り階段を転がり落ちていった。一歩間違えれば死にかねない事案だ。だというのにリドルはというと、既に彼らへの興味を失ったのか。何事もなかったかの如くソファの上で教科書を開き、また紙面の文字を目で辿り始める。
「なぁ、トム」
君はそんな澄ました顔をしているけれど、心はまったくの無傷ではいられなかった筈だ。浅い傷跡も数が多ければ十分致命傷となりえる。君はきっと、幾度となく向けられる悪意や心無い言葉たちに、自分でも知らぬ間に摩耗していたのではないか。
本当に信じられる友と出会えなかったから、傷ついた己を癒やす手段もわからなかった。その惨さと言ったら。垂れ流された血は足元に深い湖を作り、やがて水底へと沈んだ彼は、息も出来ないほど溺れていく。気がつけば、そこは光の届かぬ深海で……ハリーはずっと、そんな彼へ手を差し伸べてやりたかった。
彼は彼なりに、その手を血で染め上げても尚、息をしようと足掻いていたのかも知れない。だが、そのSOSに気づけた人間は、果たしてどれだけいたのだろうか。肌寒い真冬の談話室で一人きり、魔導書を読み耽る横顔を見つめていれば、胸がきゅうっと切なくなる。
「……周りの雑音になんて耳を傾けなくていい。辛いなら逃げたっていいんだ。時には泣いたっていい」
僕は自分とよく似た君に、自由に生きて欲しかった。己の出自のことも、大衆の目も、何も考えずに。ただ綺麗なものを綺麗だと感じ、楽しいと感じたことを思う存分やり尽くすような、子ども然りとした無邪気な姿を見てみたかった。
「……僕が、君のそばにいれたなら」
途方もない悔恨が滲む。こんな、記憶の残滓でしかない彼を慰めて、自己満足に浸る虚しい行為に、何の意味がある?
「君の隣にいることを許されたなら、僕は今すぐに君を抱きしめて、まるで血の繋がった兄弟のように親愛のキスを君へ贈ってやれるのに」
そして、嫌がる君の顔をしたり顔で笑い飛ばして、傷ついたその心に温もりを与えられたなら――あぁ、なんて幸せで、虚しい夢なのだろう。
「トム、……」
今、自覚した。
トム、僕は君のことを愛している。血の繋がった家族のように、己の一番の理解者であり、だからこそ最後まで相入れることのなかった君を、いつだって想っている。
「……愛してる」
ちゅ。
こめかみにキスを落として、そっと彼を抱き締めた。とはいえ触れることは叶わないので、あくまでそう『見える』ようにしたというだけのこと。冷たくも温かくもない感触の心許なさに、心の中にじわりと空虚が広がってゆく。
「愛してるんだ……」
目を瞑り、涙が溢れ落ちないよう耐えるハリーは気づかなかった。
「……っ」
ページを捲る彼の指先が、僅かに震えていたことを。俯けられた彼の表情が、痛そうに歪められていたことを。
『……やめてくれ』
声になる前に喉奥へと押し殺された少年の声は、ついぞ届くことなく。誰にも知られることのないまま塵となり、形を為す前に儚く消えた。
*
セピア色のモラトリアムは閉鎖的で、息が詰まる。
これで何度目のことか。今日も今日とて、ハリーは憂いの篩の中にいた。部下たちから顔色が悪いと言われ、強制的に消化された有給休暇を使い、することといえば療養するでもなく亡霊の如く過去を彷徨くことだというのだから、我ながら救えない。
「ん……」
ぐるりと城を取り囲む広大な湖のほとりで、木漏れ日を浴びながらうたた寝をする。酷く気分が良かった。頭の重さもなくなり、冷え切っていた指先もその温度を取り戻している。いつになく気分が浮き足立っていたので、偶には学生気分を味わおうと変身術まで使い、今のハリーは在りし日の……十二歳の姿となって、懐かしい我が家での生活を満喫していた。
「あ、れ……?」
ふ、と隣を見上げる。己は木の幹にもたれかかって寝ていた筈だ。だというのにいやに温かくて柔らかい。
「あぁ、起きたのか」
「え、」
己が身体を預けていたものの正体を知り、ハリーは固まった。そこにはなんとリドルがいたのだ。
「なんで、え、」
「ふん、ただでさえ良くも悪くもない平々凡々な顔が、さらに不細工になってるぞ」
「ふがっ」
鼻を摘まれ、うりうりと顔を揺らされる。なんだってこの子がここにいるんだ? そもそも何故彼が僕を認識しているんだ? これは都合の良い夢なのではないか? 次々と浮かび上がる疑問に、心が追いつかなくて混乱する。そんな一人で百面相するハリーを見て、リドルはおかしくて堪らないと言わんばかりに性悪な笑みを浮かべていた。
「どうして君、僕が見えてるんだ……?」
上機嫌な彼に、恐る恐る問いかける。彼に未来の記憶があるのなら、十中八九この後殺し合いに発展するだろう。相手の懐に入り込み、油断させたところで丸呑みにする。それがリドルの常套手段だと知っているからこそ、ハリーは警戒を解かなかった。
「なんだ、やはりお前はゴーストなのか」
「はい?」
「手、半透明になってる」
「うわ、ほんとだ!」
己の手を目の前で透かして見せる。掌の向こう側に、訝しげにこちらを見るリドルの顔が見えた。興味津々といった目をして、彼はこちらを見つめている。
(綺麗……)
ほう、とため息が漏れた。陽の光に照らされて、黒真珠のように輝く艶やかな黒髪、感情の色が滲んだ同色の瞳、それからほんのり色づいた薄い唇。見れば見るほど、今のハリーと同じ歳の頃の少年は美しかった。
「おい、ゴースト。聞いてるのか?」
「……ゴーストじゃない」
「は?」
「ハリーだ……名前はハリー」
きょとん。年相応の反応に胸の奥が疼く。自然と彼の頭へと手が伸びて、そっとその水のように滑らかに流れる黒髪を撫でた。
「……へぇ、ハリー、ね」
きゅう、と瞳孔が細くなる瞬間を見た。同時に確信する。今の彼には、未来の記憶がない。その事実にガツンと頭を殴られたような衝撃を受け、愕然とする。
(そんなことって……)
やはりこれは、ハリーにとって都合の良い夢なのだろうか。彼に記憶がないとわかって、考えてしまったのだ。このまま彼のそばで、彼の不安定な心に寄り添って生きてゆけるなら、と。
「君の、名前は……?」
風が吹き抜ける。あまりにもリアルだ。此処はダンブルドアの記憶の中だというのに、まるで現実のようにそこに在る。吹き荒ぶ風の冷たさも、二人へ降り注ぐ陽の光の眩しさも、肩に触れる彼の温もりも。全部、本物みたいだった。
「……トム・マールヴォロ・リドル」
「……トム?」
「リドルだ。リドルと呼べ」
ありふれた自分の名前を彼は嫌っていた。この頃から既に片鱗はあったのか、なんて内心驚きつつ、ゆっくりと頷く。手は半透明だというのに、握手は出来た。突然放り込まれたチグハグな状況に、かといって数多くの修羅場をくぐり抜けてきたハリーは、特段焦ることもなく。ただ無感動に現状を受け止めた。
焦ったところでどうにもならないのがオチなのだ。無駄な労力を使うくらいならば、流れに身を任せてしまった方が余程マシだ。
「よろしく、リドル」
――そこから、ハリーとリドルの逢瀬は続いた。
仕事をして、疲れを感じたら憂いの篩の中へ沈む。リドルを見掛けたら声を掛けて、記憶の端までずっと語らって過ごした。不思議なことにハリーの姿は、リドル以外には見えないようだった。ある日そのことに気づいたリドルは「これは興味深い」と爛々と目を輝かせて、ハリーの存在についてあれこれ考察した。やれ、限定的な人間にしか見ることの叶わないゴーストなのではないのかだの、新種の吸魂鬼ではないのかだの(これには本気で怒った)、どんどん考えを膨らませていく彼はとても楽しそうで。取り繕うこともせず素直にはしゃぐその姿は、見ていて微笑ましい。
『明日には秘密の部屋を開くことが出来そうだ』
不意に、アブラクサスと語らっていた時の彼を思い出して、慌てて頭を振った。どうせ夢だというのなら、彼をあんな暗がりには行かせない。手離してなんてやらない。今の自分が子どもの姿をしているのをいいことに、ハリーはリドルがアブラクサスたちと話そうとする度に、イヤイヤと駄々を捏ねた。
「お前は甘えただな」
呆れを見せながらも、最終的には自分を優先してくれる彼に、ハリーはみるみるうちに夢中になっていった。気がつけば掌はしっかりと実体をもっていて、体の一部が透けることもなくなっていた。
「ハリー、君はとても面白い。だから消えてくれるなよ。僕はまだ、君に興味がある」
共に過ごした夜の数が、両手どころか足の指を入れても足りなくなった頃。二人はどちらからともなく顔を寄せ、口づけを交わした。それは紛れもなく誓いのキスであった。あまりにも薄っぺらい、口先ばかりの《そばにいる》約束。いつ破れるとも知れぬ薄氷の上に立ちながら、その上で優雅にワルツを踊るような心地で、ハリーはリドルのそばにいた。
「随分とはっきり見えるようになったな」
満足そうに、彼が言う。
自分の身体を見て、違和感を覚えた。何故だろう。自分の本来の姿は、こんなものではなかった気がする。もっとよく思い出そうとすると、記憶にモヤが掛かったかのように思い出せない。
「なぁ、ハリー。お前はずっと、僕のそばにいるんだろう?」
腰を抱かれ引き寄せられると、必然リドルの方へと体重を預けることになる。埃の積もった空き教室のソファの上で、二人は静かに寄り添い合った。
「ねぇ、リドル。なんだかおかしいんだ……僕って……んぅ、」
「ん、……なんか言ったか?」
「いや……もういいや、忘れた」
ふは、と。唇をくっつけたまま、リドルが笑う。
生暖かい吐息が肌にかかり、背筋が粟立った。全ての神経がゾクゾクと甘く痺れる。反射的に彼から離れようと身を捩れば、そんなことは許さないとばかりに長いリドルの腕が、ハリーの身体へ蛇のように巻きついてきた。
先ほどまで抱いていた違和感が、ほろほろと溶けてゆく。体の芯が熱を帯びてきて、堪らなくなった。触れたい、触れられたい。そのことしか考えられなくなる。自分たちは二人で一つの存在だったと言われても納得してしまうぐらい、ハリーたちは互いの考えていることがわかった。
だからこそ、強く、強く、溺れるみたいに互いの身体を抱き締めた。
「キスしたい……」
「……あぁ、いいだろう」
帰れなくなる。
どこに?
自分に帰る場所なんてあっただろうか。
心臓がバクバクと激しく脈打っている――後戻りがきかなくなる――突如芽生えた焦燥感はしかし、呼吸を奪い去るような深い口づけによって離散させられた。
「お前だけだよ、僕を理解出来るのは」
「……リドル、」
「言ってくれ、ハリー。僕を愛しているって……僕だけを愛して、僕だけを見つめると言ってくれ……」
身体の力を抜いた。
帰る場所なら、此処にあるではないか。自分は何をそんなに悩んでいたのだろう。
「リドル……愛してる」
「……ん」
「は、ぁ……ンッ……」
思考が茹だってゆく。穴だらけの写真には、果たして誰が写っていたのだったか。微かに残る記憶の中で、大口を開けて朗らかに笑う赤毛の少年の名前は、もう思い出せない。癖のある茶髪を靡かせた女の子の声も、顔も、塗り潰されたみたいにわからなくなっていった。
「ハリー」
「……ん、ぇ?」
「何も考えるな」
真剣な目に射抜かれる。
そうだ、そう、僕には彼しかいないんだから、彼のことだけ考えていればいい。
「あぁ……、やっとだ」
頭がぼうっとする。
リドルが何か言っている。答えなければ。
「……ずっと待っていた……繋がるのを……気が狂いそうな白一色の空間で、ずっと……」
首筋にすり、と擦り寄る彼の頭を撫ぜてやる。少しだけ自分より低い体温。今となってはすっかり肌に馴染んでしまった。
「これでダメなら……また、引き摺り込んでしまえばいい……もう逃さない……二度と、……何度でも、繰り返してやる……」
魔法には、人の心が宿るのだと、誰かが言っていた。
だから最も優しく、美しく、気高い愛の魔法こそが、この世界中で最強の魔法であるのだと。
彼がハリーへ向ける執着は美しかった。酷く歪で、粘着質で、お世辞にも綺麗なものとは言えないけれど。それでも、直向きに自分を求めるその思いの強さに、ハリーは愛を見た。
もしも、本当に魔法に人の心が宿るなら。
心の宿った魔法がやがて人の形を取り、誰かを守るために手と足を与えられ、愛を紡ぐための口を得たのなら。きっとその人間の形は彼の姿をしているのだろうと、漠然と思う。だって、あまりにも美しかったから。ハリーを想って涙を流し、欲しい欲しいと強請る子どもの姿が、愛らしかったから。
「リドル……」
何を捨てても、彼を選びたいと思ってしまった。
「……ハリー、僕のものになって」
返事の代わりに、優しい口づけをひとつ。
次に生まれてくる時は、タイミングを間違えないようにしなくては。
「……なら、君も僕のものになって」
頭上には雲ひとつない青空が広がっている。周りを取り囲む広大な檻の中、二人はまたキスをした。
彼の肩越しにずっと遠くを眺めても、もう記憶の最果ては見当たらない。
ただひたすらに、痛々しいほどに澄んだ青空が、地平線の向こう側へと続いている……。
【LOOP 完】