真夏の残滓

Ace of Diamond
 prologue

 白球を追う。
 ただひたすらに駆け抜けた夏はあっという間で、熱に茹る会場の狂ったような喧騒も、泥だらけのユニフォームが示す先輩たちの背中の大きさも、あと一歩掴めなかった勝利への血反吐を吐くような悔しさも、一週間もすれば何もかもが泡の如く消え去った。
 あんなに大きく感じた先輩達の背中。死闘を終えて掴んだ結果は甲子園準優勝。彼らでさえも、日本で一つしか設けられていない日本一の王座には、あと一歩届かなかった。試合終了後、いつも飄々としていて、人を食ったような笑みを浮かべている性悪キャプテンが、あの日。全ての感情をあのグラウンドに置き去りにしてきたような、そんな無防備な顔をしていたのをやけに覚えている。沸いた観客の声は耳に入らなかった。何が起きたのか信じられないとばかりに唖然と突っ立つ先輩達の乱れた息遣いと、じわりとこめかみに浮かぶ嫌な汗。身の内に燻った消化出来ない感情ばかりに意識が囚われて、あの時控えベンチにいた光舟は何も考えられなかった。
(あぁ、まただ)
 普段煩いとどやされることの多かった沢村が、白球の消えていった空の向こうを静かに眺めていた姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
「……しゅ……ぅ」
 遠く向こうで鳴り響く蝉の大合唱、何処かの家から聞こえてくる涼しげな風鈴の音。未だに真夏の残骸がちらつく中、同じ季節であるというのに、あの夏の遠さを思う。あの、肌をじりつかせた甲子園の舞台は、一度終わってしまえばこんなにも遠く――やっと掴めたと思った日本一長い夏への切符は、とうの昔に期限が切れて使えなくなってしまった。
 先輩たちが引退した寂しさに浸る間も無く、新しいチームは既に動き始めている。無情であるとは言えない。青道高校野球部は強豪だ。こうして一軍メンバーたちが悔しさを引きずっている間にも、二軍のメンバーたちは新しく空く先輩たちの分のレギュラー枠を奪わんと目をぎらつかせている。そういう面では、この消化不良を起こしている感情を忘れさせてくれる環境は、都合が良かったのかも知れない。
 いつまでもあの夏に囚われているわけにはいかない。それはわかっている。
 御幸一也という青道にとって絶対的な正捕手の存在が引退した今となっては、苛烈なレギュラー争いは光舟とて例外ではない。だが、煮え切らない思いを抱えているのも確かで、その思いの正体がわからないまま、宙ぶらりんの気持ちを提げてここに立っているのも紛れも無い事実で……。
「光舟!」
 そこで、はっと目が醒める。
 意識を現実に引き戻したのは、ここのところ多くバッテリーを組むことになった沢村だ。
「……っ、すみません」
「珍しいじゃん、お前が食事中ぼうっとするなんて。いっつも必死で飯をかき込んでるのに」
 どうした?
 野球部の面々が顔を揃える食堂の片隅で、夕食の乗った盆を手に持つ沢村が、いつも座る小湊たちの座る場所ではなく光舟の隣に腰を下ろす。一瞬触れそうになった肩に、心臓が高鳴った。自分が今何を考えていたのか察せられたのでは。そんな懸念は、小首を傾げて無邪気に問うてくる彼を前に、杞憂であることを悟る。彼は至って普段通りだった。それこそあの夏を迎える前から、何一つ変わらない。いっそ不自然なぐらいに。
「いえ、何でもありません」
「そうか? 何かあったら、この青道一頼れる男・沢村先輩に何でも相談するんだぞ!」
 ガハハ、なんていう薬師の某スラッガーを彷彿とさせる笑い声を上げて胸を張る彼に、「そうですね、金丸先輩に相談します」と素気無く答える。すると、面白いくらい猫目になった沢村が「何でだ!」と吠えた。これも、いつもの変わらない何気ない日常の一コマ。周囲が何一つ不審に思うことのない見慣れた光景だ。
 しかし、光舟は知っている。
 彼の身の内に、己と同じ悔恨という楔が根深いところまで埋もれていることを。大きな丸い瞳の中に、どろりとした、普段の天真爛漫さからは想像もつかない、手負いの獣のような物騒な光を宿していることを。捕手として、投手である沢村の正面に座り続けたからこそ読み取れたそれ。まだ誰にも見せていない沢村の危うい一面を知っているということに、場違いにも優越を抱いていた。
「なぁ、こーしゅー」
 甘えたな声は、おねだりの合図。次の言葉は予測せずとも反射的に分かる。
「球受けて」
 す、と一瞬だけ沢村の方を見た光舟は、何もなかったかのように咀嚼を続けた。これ以上はオーバーワークだ。だからといって面と向かって断ったとしても、こちらが食事中であることなど構わず駄々を捏ねだすというのは、これまでの経験上容易に想像がついたので、無視を決め込む。一方、それを見て今日はもう受けるつもりがないことを察した沢村は、不意に後ろを振り向いて言った。
「光舟ダメだった〜、そっちは?」
 彼の視線の先を目で追うと、もぐもぐとリスのように頰を膨らませた降谷がいる。
「由井もダメだった」
「ちぇー」
 成る程。どうやら光舟に断られた時のために、予め保険を用意していたらしい。大方、元より自分にも他人にも厳しい光舟とは異なり、比較的彼らのおねだりに寛容な態度だった由井が、三年生が引退してから手厳しくなったことで、降谷と利害が一致したのだろう。馬鹿なりに無い知恵を絞ったんだな、などという失礼な感想は、隣で尚もぐずっている沢村にはわざわざ言うまい。
「……由井にも声を掛けていたんですね」
 恨みがましい声でそう漏らしてしまったのは、完全なる油断からだ。今更我に返ったところで、吐き出してしまった子どもっぽい恨み言は消えない。
「だって、光舟全然球受けてくれねぇんだもん」
 さらっと光舟の言葉を流してくれた彼に胸を撫で下ろしつつ、光舟は返す。
「オーバーワークです。俺に受けて欲しいなら、いい加減自分で調整出来るようにしてくださいよ」
「えー、なら光舟が調整して」
「嫌です」
 ――俺がいなかったら先輩、何も出来なくなりますよ。
 そんな言葉は慌てて飲み込んだ。一体何を口走ろうとしていたのか。咄嗟に喉奥へ押し込んだ得体の知れない何かに、ゾッとしたものが背筋を凍らせる。
「ま、いいや。今日のところは勘弁してやるけど、明日は受けてくれよな!」
 カネマールー!
 と叫びながら慣れた手つきで食器を片付けに行った沢村の背中を見つめる。ノート見せて、と。先程まで自分に向けられていた甘えたな声を、今度は金丸に向けている姿をこれ以上見たくなくて、そっと目を逸らした。最近やっと慣れてきたこの大盛りの食事が、途端に砂を噛んでいるような不快な儀式に変わる。そんな己の苛立ちを察してか、それまで黙って向かいに座っていた瀬戸が、物珍しそうに口を開いた。
「お前がそんなに誰かに執着してんの、初めて見た」
「……は?」
 しれっと言いたいことだけ言ってまた自分の食事に戻った親友を、ひと睨みする。だが、これ以上何かを言うつもりがないのだろう彼は、そのまま何事もなかったかのように彼の隣に座る結城に話しかけ、今日の練習メニューについての話題に話をスライドさせていった。
「執着……」
 果たして、自分は彼に執着しているのか。
 時折彼を見ている時に噴き出す、このどうしようもない感情には、未だに名前がつけられていない。そもそも、時折自分が沢村に対して抱いている苛立ちだとか、焦燥だとかが、何処からきているのか――悪意からなのか、好意からなのかすら、朧げなのだ。
 ただ一つ、願うことは。
(あの人と、正式なバッテリーに……)
 ただ貪欲に、思う。もう二度と、自分以外の誰かとバッテリーを組んで、敗北した彼の姿を見たくない。
(そうか、あの時……)
 カァン、という聞き慣れた金属音が、不意に頭の中で蘇る。
 天高く弧を描いた白球を、目で追った。
 じりじりと肌を焦がす暑い夏の、刹那。
 感情を何処かに置き忘れてしまったような、正捕手と控え投手だったあの人たちの、あの二人の、あの顔。それを黙って外側から見ることしか出来なかった己の不甲斐なさに、歯を食いしばって耐えた。あの時感じた悔しさと、やるせなさこそ、答えだった。
(俺は、あの人の唯一無二の捕手でありたかった……)
 俺だったら、あんな顔をさせない、
 あんな、二人で心中した後のような、そんな――。


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