美しい街

Harry Potter

 何気なく埃の積もった床へ落とした視線の先。長く伸びた影の揺らぎを、ただただじっと見つめていた。じわりと滲んだ汗を洗いざらしの白いシャツが吸い取って、何とも言えない不快感が胸を過ぎる。
 忙殺された社会人生活の中、いつの間にか春は終わっていた。代わりに訪れた夏は強烈な日差しと共に何の前触れもなく現れ、只でさえ疲弊していた職場の戦友たちの体力を容赦なく削ってくれて。お陰で体調不良を理由に溜まりに溜まっていた有給を消化する者が続出し、最終的な皺寄せが局長たるハリーに向けられることとなっている。
 冗談じゃない。愛する子どもたちは今日から夏休みだと聞いている。せっかく帰省している彼らを出迎えてやれないなんて、本当にありえない。いっそすべてを投げ出してしまおうか。そんな気持ちを何とか押し留めて、気合いでこの場に立っている現実。思えば思うほど、何だか虚しくなってしまった。
「……」
 局長室に唯一設置された窓からは、長年守り続けてきた英国魔法界の景色が一望できる。黄昏時、沈みかけた夕陽が辺り一面を照らし出し、街全体が燃えるような黄金色に輝いていた。この美しい景色を守ったのは他でもない自分たちだ。数多くの犠牲もあったが、やはりこの光景を臨む度に、どこか誇らしい気持ちにさせられる。
 ただ一つ、嘆くなら。
 この景色は今は亡き両親や、名付け親たちと、もう二度と会えなくなってしまった大切な人たちと、肩を並べて見たかったと。そんなことを未だに諦め悪く考えてしまう己の弱い心か。
「……まだ、忘れられないか」
 ガタッ。
 徐に、立て付けの悪いデスクの引き出しを開ける。中から取り出したのは、一冊の日記帳。大きく穴の空いたそれは、見間違いようもなくトム・リドルの日記だった。
「馬鹿だな、僕は」
 いつまで、こんな背徳に塗れた想いに苛まれなければならないのか。世帯を持ち、守るべきものが増え、恐怖から解き放たれた現代の魔法界において、何故自分一人だけが、嘗ての闇の深い世界に取り残されたような気持ちのままなのだろう。
 これは、夜明け前の暗さに似ている。
 何一つ光源の無い世界で、必死に踠いている学生時代の自分。無力なあの頃のハリーが、まだこの胸の奥で叫んでいる。
(……まったくもって愚かしい)
 共にこの景色を見たいと思った人たちが、いる。
 その中には、両親を殺し、心底憎んですらいた彼もまた、含まれていた。理屈でどうにかなるような感情では無い。彼はハリーと似ていて、哀れで……同情してしまった。それだけの存在であった。これは切り捨てなければならない感情、だったはずなのに。
「……屠られて尚、縛りつけるか」
 大したものだ。あの、人を惹きつけてやまない才能の塊のような男は。
「情けない顔をしているな」
 その時、不意に後ろから話し掛けられた。まったく気配を感じなかったことに驚きつつ、一気に警戒を強めながら振り返れば、そこに立っていたのは一人の青年。随分と若い男だ。全身真っ黒の古臭いローブを纏った男は、ゆらゆらと不安定な動きでその場に佇んでおり、何が面白いのか口端を釣り上げている。顔全体は目深に被ったフードのせいで見えないけれど、何となくその下に隠された容貌は、整っていると――そう思わせる何かがあった。
「こんな男に屠られたとは、信じたくないね」
「君は……っ」
 フードが、とられる。
 風もない室内。目に見えない力でふわりと揺蕩った薄い布は実にあっさりと、それまで秘されていた男の全容を明らかにした。その下から現れた顔は嫌という程見覚えのあるもので、深緑の双眸はこれでもかと見開かれる。
「久しいな、ハリー・ポッター」
 男の正体は、トム・リドルだった。
「な、んで……」
「さぁ? どうしてだろうな。僕にもさっぱりわからない」
 鬱陶しそうに前髪を触る彼は、飄々とした顔で宣う。十数年ぶりに見たリドルの姿は、憂いの篩越しに見たあの頃と何一つ変わらない、ともすればさらに妖艶さの増したものであった。
「キミ、何歳なの」
「十七といったところか。このローブはボージンで働いていた頃の気に入りでね」
「……へぇ」
 そういうお前は老けたなぁ。そうぬけぬけと言いながら、下から覗き込んでくる彼の顔は心臓に悪い。思わず目を逸らすと、色々と聡い男はそんなハリーの心情を一言一句違わず読み取ったらしく。くすり、と楽しそうな吐息を漏らした。成る程、この溢れ出る色香。闇の帝王のカリスマ性に魅入られ多くの人間が足を踏み外したというのも頷ける。耐性のない者はあっさり落ちただろうに。かくいうその中の一人に、己もなりかけているのを自覚して、内心苦笑した。
「……まだ、傷は残っているようだな」
 ひやり。
 油断も隙もない。躊躇いなくハリーの額の傷へ手を伸ばしたリドルが、小さな声で呟く。不意を突かれる形で己への接触を許したハリーは、されどその手を振り払うことはしなかった。それどころか心地よさげに目を細め、暫しの戯れに酔い痴れる。
 果たして、これは現実か、忙殺された日々の見せたタチの悪い夢か。
 どうか夢であってほしいと、そう願ってしまう。
「もう、蛇語は話せないよ」
「……そうか」
「キミの夢も……見ない」
「……だろうな」
 惜しむような声のくせして、残念だ、とは言わない。そこがまた彼らしくて、懐かしさのあまり泣き出しそうになった。もう二度と会えないと思っていた。彼を想うことへの背徳感に押し潰されそうになっていた。身動きの取れない闇の中で、ただひたすらに彼のカケラを探し続ける本能。いい加減、決着をつけたかった。
「何でまた、僕の前に現れたんだい」
 額の傷に触れていた指先が、ゆっくりと降ろされる。瞼、頰、そして唇。確かめるような動きで、するすると滑らかな肌の感触を楽しんでいる。
「……さぁな」
 会いたかった。
 ずっとずっと、会いたかった。
 本当はこうして、向き合って話してみたかった。
「会いたかったのかも、知らないな」
 本当は、一目見た時から彼のことを。
「……、」
 ちゅっ。
 子どもがするような頰へのキスは、昔喉から手が出るほど欲しかった親愛のキス。家族のいなかった二人が願った、愛の形。
「……今更、遅いよ」
 全て投げ打って彼を選ぶには、大切なものが多過ぎた。彼と話して自分の気持ちを自覚したところで、後の祭り。身動きの取れない状況は変わらない。だというのにリドルの魅力はハリーの意識を惹きつけてやまなくて、とてもではないが正気を保っているのが難しくなっていた。
 だから、だろうか。
 自ずと彼の唇へ、己のそれを寄せていた。
「……いいのか?」
 疑心暗鬼の彼の声を、聞かないふりをする。そっと触れた唇は柔らかかったけれど、やはり氷のように冷たくて。彼の存在が現実には無いものなのだと、思い知らされた。
「……」
 茹るような暑さに反する、冷涼な存在。
 光の反対に位置する影のような、そんな男。己と正反対の道を行く彼に、同じものを感じた。それが、最大の敗因だった。
 陽の光が弱まるにつれて、リドルの身体が透けていく。これは恐らく、優柔不断な自分に下された罰のようなもの。急激に膨らんで収集のつかなくなった淡い想いを、これから一生抱えて生きていけと、そう言われているのだろう。裏切り者の自分には似合いの悲劇だ。
「リドル、ん……っ、」
「……ずっと、触れたかった、こうして……くそっ」
 永遠に己の心を縛り付けるであろう、魔性の男。
 もつれ合うようにして唇を重ねる二人を嘲笑いながら、夕陽はその姿を隠す。
「忘れるな、」
 黄金色に輝く街は、途端に色を失ってしまった。
「……忘れるなよ、お前は僕の――」
 声も、姿も、何もかも、消えてしまった。苛烈な光に照らされたアスファルトの上に揺らぐ、陽炎の如く。散々ハリーの領分を踏み荒らしていった男は、もう影も形もない。
 縛り付けられている。魂を。切っても切り離せない縁が、強固に結ばれてしまっている。
「……は、」
 熱い口づけの余韻が、身体の芯を痺れさせる。

 横目で見たデスクの上。中途半端に開かれたリドルの日記帳だけが、そこに在った。
 あれほど誇らしいとすら思えた美しい街並みが、途端に空疎なもののように、ハリーの目に映った。
 

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