第一話 ラムネ瓶とガラス玉
澄んだ瓶の中に閉じ込められたガラス玉を、欲したことはあるか。
これは、幼い頃に胸を掠めた、あの感情に似ている。カラコロと冷涼な音を響かせるそれが欲しくて堪らなくて、幼い自分は母に泣き縋った。最初は戸惑いを見せていた母だったけれど、滅多に我儘を言わない光舟が見せた珍しい駄々に、終いには何処か嬉しそうな顔で折れてくれた。
どうやって取り出したのかはわからない。物理的にあの飲み口の大きさから中のガラス玉を取り出すことは不可能なので、恐らく瓶を割って取り出してくれたのだろう。ようやっと手に入れた玉を握り締め、何気なく太陽の光に照らして見た時のあの輝きの鮮烈さは、未だに覚えている。ずっと欲しくて堪らなかったあのガラス玉の行方は、今となっては不明だが。けれどもずっと欲していたものを手に入れた時の妙な達成感だとか、唐突に湧き上がった高揚感は、きっと一生心の中に残り続けるのだろうと思う。
光舟にとっての沢村栄純という男は、まさに綺麗な瓶の中に閉じ込められた至極の宝玉だった。
持って生まれた柔軟な関節から生み出される、予測不能のムービング。捕手としての本能を疼かせる七色の球質と、彼の放る白球同様、単純明快且つ繊細で複雑な、リードのし甲斐のある面倒臭い性格。それら一つ一つが、また一層光舟の心を惹きつける。でも、欲しいと思ったその時には、彼は御幸という頑丈で美しいガラス瓶の中に閉じ込められていて、必死に手を伸ばしたところで手に入らないものになってしまっていた。
何度、悔しさに呻いたことか。なまじ透き通っているばかりに、中の様子がよく見えるのがいけない。カラコロと音を立ててこちらの意識を存分に惹きつけておいて、彼自身は決して、瓶の中からこちら側に転がり込んでくることはないのだ。
「沢村先輩」
誰より遅くまでトレーニングに勤しむ背中へ、声を掛ける。残酷な男。そんな言葉が腹の底で渦巻いた。
「んあ? 光舟じゃん。まだいたのか?」
息を荒くし、こめかみから流れる汗を乱雑に拭った姿に、視線が釘付けになる。ぽた、ぽた、と顎を伝って地面に落ちる水滴は、当分引いてくれそうにない。
「……俺は今から風呂に向かうところです。ところで沢村先輩、コレ、明らかにオーバーワークだと思うんですが」
どういうことですか?
何となく、勿体無いと思った。彼の努力の証が、流れ落ちてしまったような、残念な気持ちに苛まれる。そんな降って湧いた気持ちを振り払うように、光舟は毒吐いた。とは言え、指摘された当の本人もちゃんと自覚があるのだろう。途端にバツの悪そうな顔をした彼は、気まずげに自らの髪をくしゃりと搔き上げ、心なしか俯く。
「……別に、もう上がるトコだったし」
「……」
「……っ」
「……」
「わーったよ! 今すぐ上がればいいんだろ、上がれば!」
まったくもう、うちの捕手様たちは皆んな頭がかてーの何の。
無言で圧を送る光舟に、降参したとばかりに両手を挙げた沢村が、そばに置いていたスポドリやタオルを手に持つ。不満げにブツブツと文句垂れているものの、本気で怒っている様子はなかった。そして、転がっているバットやら何やらを片付け、小走りでこちらへ駆け寄る彼に、ふ、と。緩んだ息を吐き出して、光舟は目を細める。
「……焦っても、何にもなりませんよ」
ぴくり。
半歩前を行く沢村の肩が、小さく震えた。隠しきれぬ動揺に気づいていたが、構わず言葉を続ける。
「……」
「御幸先輩たちが引退して、焦るのはわかります。ましてや、貴方は主将に選ばれたんですし」
そう、御幸たちの代が引退し、次の代のキャプテンには沢村が選ばれた。
今年は前主将による指名ではなく、二・三年の先輩方の満場一致の意見と聞いている。監督の部屋に呼び出された彼は、話を聞くまでずっと金丸が新キャプテンになるのだと思っていたようだが、結果的に新主将は沢村に、それから小湊と金丸が副主将のポジションに収まった。半年程度しか共に過ごしていない一年たちにとっても、その采配は実に納得のいくものであったのだから、あれは改めて彼の人望と信頼の厚さを痛感させられた出来事だったと言える。
「……わかってるよ」
ぎゅう、と。力一杯握り締められた左手。
「頭じゃ、わかってんだよ」
爪が食い込むほど強く力んだ掌へ、ゆっくりと手を伸ばす。
投手の利き手を、そのようにぞんざいに扱うことは許せなかった。咎めるような色でもってして目の前の金色の瞳を見つめながら、左手の甲をやわやわと撫でる。ややあって、徐々に沢村の手の力みは取れていった。同時にカァッと真っ赤になった彼の頰が、美味しそうに熟れていて、噛みつきたくなる衝動を必死に押し込める。
「俺はどう足掻いても御幸先輩にはなれません。でも、貴方だけの捕手にはなれる。一緒に作品を作り上げるんでしょう? なら、ちゃんと足並み揃えてください」
――置いていかないで。
ガラスの瓶はとうの昔に割れた。
彼を大事に大事に囲っていた御幸は引退し、中に閉じ込められていた宝玉は光舟の掌の中に転がり込んできて、コロコロと転がっている。光に翳せばキラキラと輝く。眩しいくらいの太陽の輝きを閉じ込めて、薄水色のそれは透き通った光を放ち続ける。
唯一つ、己を至極の宝玉でも何でも無い、ただのガラス玉だと思い込んでいる彼自身が、何とも厄介だった。御幸がいなければ自分は輝けない。彼は、心の何処かでそう思っている節がある。まるで産まれたての雛鳥が初めて見た生き物を親だと勘違いしているかの如く、骨の髄まで刷り込まれているそれは、修正するのに些か骨が折れた。その洗脳とも言うべきそれを、自分に向けさせるには。最近、そんなことばかり考えている。
「……やっと割れたんだ」
「え?」
やっと、割れた。自分の手が届くところまで、彼は転がり落ちてきた。されど思わず光舟が呟いた言葉は、彼の耳に届くことはない。それでいい。彼には、こんな己の歪んだ執着に気づいて欲しくない。そう、切に願った。
「いえ、何でもありません。沢村先輩、そういうことなので、あまり暴走しないでくださいね」
尻拭いが面倒なので。
「な、なにおう! オオカミ小僧が生意気な!」
ぶんぶんと大仰に左手を振って、怒っているアピールをする沢村に背を向ける。そのまま我関せずと歩き始めれば、うぬぬ、と唸り声を上げた彼は渋々といった体で後ろをついてきた。
無言の空間が広がる。
しかし、不思議と不快ではなかった。ふん、と鼻息荒く後ろから歩いてくる沢村の存在に、安堵していたからかも知れない。
「お前はいつも、一言余計なんだっての」
「沢村先輩は言葉こそ拙いですが行動が余計ですよね」
「なァ⁉ 俺、先輩!」
「御幸先輩の真似しないでください。イラッとします」
戯れ合いのような軽口の応酬が心地よい。
冗談の中にほんの少し本音を織り交ぜて、偶に飛んでくる行儀の悪い右手を器用に避けながら、二人は寮への帰路を辿った。
あれだけ虚しさを残していた夏の残骸は、不思議なことにもう光舟の意識を絡め取ることはない。鮮烈に意識を攫っていくのは、悔恨の滲む夏ではなく、この馴れ馴れしくて面倒な先輩。ただそれだけだった。
「沢村先輩」
「んー?」
後ろを振り返ると、唇を突き出して拗ねた顔をした彼と目が合う。
「……来年の夏は、日本一長い夏にしましょう」
面食らった彼は瞬く間にその顔を不敵な笑みに変え、頷いた。俺がエースになる! そう宣言する時の彼と、同じ表情だ。
「おう!」
心地よい風が吹き荒ぶ。
もう夏の終わりかけ。うっすらと汗ばんだ肌を掠めるには、少々肌寒いそれは、秋の入り口に差し掛かることを示唆していた。
目を開けたら、太陽のような笑顔が視界いっぱいに広がっていた。
「……?」
眩しい。その一言に尽きる。寮の自室に何故この人が、と疑問に思う前に、ニカッと音がするような笑みを浮かべたその人は、おきまりのセリフを宣った。
「球受けて、こーしゅー」
あぁ、またいつもの発作か。
全く朝っぱらから迷惑な人だ、と無視して寝返りを打つと、容赦なく布団を引っ剥がされる。無視はよくないなー、無視は! とニヤニヤ頬を緩ませるこの人は、きっとこのまま光舟が無視し続ければ、同室だった兄貴分たる倉持仕込みのプロレス技でもかけてくるに違いない。ウズウズと声を弾ませているのがその証拠だ。
仕方ない。朝から関節の痛みに呻くなんて事態を避けるため、ぼーっとした頭を叱咤して上半身を起こす。
「なんだ、起きるのかよ」
つまらなそうに言うこの先輩に、少しばかり報復しても許されるだろうか。そんな物騒な考えが頭を過ぎった。
「わっはっは! この沢村のプロも真っ青な手腕には、生意気なオオカミ小僧であれど流石に恐れをなしたかっ! わーっはっは、ぇ?」
「五月蝿い……」
右手首を掴み、無理矢理ベッドの中に引きずり込む。自分のテリトリーに入れてしまえばこちらのもの。獣じみた発想が起き抜けの思考を乗っ取って、ほぼ無意識に行動していた。予想だにしない光舟の行動に驚いた沢村はというと、普段の騒がしさが嘘のように大人しく光舟の腕の中に収まっている。
「こ、こーしゅー……?」
「黙っててください」
夏が過ぎ、秋も過ぎ、冬目前の朝一番。冷え込んだ早朝の気温は布団を剥がれれば身震いする程肌寒く、肌に直接触れる沢村の体温とのギャップも相まって何とも気持ち良い。
夢現だった。朧げに映る夢の中では、光舟のミットを真っ直ぐに見つめる沢村が、マウンドの上に立っている。舞台は甲子園球場決勝戦。十二回裏、二死満塁。ここを乗り切れば優勝という、重要な場面。金色の双眸に宿る木漏れ日のような柔らかな光が、燃えるような燦然とした輝きに変わり、構えたミットのど真ん中を鋭利に射抜く。沢村の前に立っているのは、光舟――その事実に途轍もなく……興奮した。これ以上ないくらいに。加えてもっともっとと求めてしまう貪欲さが、飢えから涎を滴らせている。
「沢村せんぱ、……」
御幸の抜けた後の正捕手の座は、今のところ一年の由井と光舟のどちらかで固定化されてきている。だが今ひとつ決定打に欠けているのは、降谷と相性の良い由井と、沢村と相性の良い光舟。奇しくもエース争いを繰り広げる二人の攻防に、由井と光舟も巻き込まれているからであって。こうなっては個々人のレギュラー争いというよりは、バッテリー対決と化しているのが現状だった。
「俺が、あなたを、……エースに……」
「……ばーか」
くしゃり。
一方的に髪をわしゃわしゃと掻き回される。男の割に身嗜みに気を使っている光舟にとって、無闇矢鱈と髪を乱されるその行為はあまり歓迎できるものではなかった。しかし、喉から手が出るほど欲した彼の掌だからか。拒むだなんて考えは微塵も浮かばず、それどころかもっと撫でて欲しいとすら思えて、自ら離れていこうとする温もりに擦り寄る。
「……お前のためにも、頑張らなきゃなぁ」
俺のためとかそんなんじゃなくて、今は自分のことだけ考えてください。
そう言えたなら、よかったのだけど。生憎夢と現実の狭間を彷徨っていた光舟に、そんな気の利いたことを言えるはずもなく。結局、彼が満足いくまで撫で回された頃には、再び深い眠りについてしまっていた。
目が覚めた時には、既に沢村の姿はなかった。
だが、僅かに布団に残る温度と、嗅ぎ慣れた匂いが彼の来訪を示していて、靄がかかったような不明瞭な記憶も、彼がここにいたことを強く訴えていた。昨晩遅くまで素振りをしていたらしい同室の二年である木村は、疲労のためぐっすりと寝入っている。沢村が来襲したあの騒がしさですら起きる気配はなかったため、彼に聞いたところで今朝の出来事など何一つ覚えてはいないだろう。こうなっては沢村と過ごしたひと時が夢だったのか現実だったのかは、今更確かめようがない。
まぁ、元より沢村との出来事は、どんな些細な事でも何一つ他人に漏らす気は無いので、この状況は都合が良いものであるのだが。
「……いつか、」
彼と正式なバッテリーになって、あの甲子園の舞台で。
「……んー? お、もう起きてたのか。おはよ」
「……おはようござます」
ごそごそと布団から抜け出た木村が、先に起きていた光舟を見つけて軽く目を瞠る。低血圧で寝起きはいつもぼーっとしている光舟が、自分より早く起きてきたことに驚いたらしい。
(あの人をエースにするのは……俺だ)
テキパキと身支度を整えていく木村を尻目に、空っぽの二段ベットを睨みつける。そこは、夏までは御幸が使っていた場所だった。時折、心許ない顔をした沢村がこの部屋を訪れる時、光舟に甘えるフリをして不審がられない程度に、この場所へ視線をやっているのを知っている。
今の貴方の相棒は、俺でしょう?
偶に、そう泣き縋ってしまいたくなる。脇目も振らず俺の構えるミットだけを見て欲しい、と。御幸のミットに名残惜しさを覚えている彼を目の当たりにする度に、どす黒い感情が溢れてきて、どうしようもなく悲しく、惨めに思えてしまう。だが、みっともなく泣き縋るなんて無様な真似は己のプライドが許さないから、じっと。息を潜めて、来るべき時のために身構えておくくらいしか、今の光舟には出来ないのだ。
いつ、いつだろう。
彼の、本当の意味での相棒になれる日。バッテリーだと胸を張って言える日は、一体いつ訪れるのか。掌の上に転がったガラス玉は確かに手中にあるはずなのに。
何一つ満たされないのは、何故。
「……いつって……いつだろう」
目の前に広がる道は一直線にあの人の元へ繋がっている。ただ、その道のりはあまりに遠く、急勾配にあって、眩しい光の放たれているゴール地点を、ここから覗き見ることは叶わない。
途方も無い旅路に思えた。
終わりのない道のり。
この一本道を駆け上がらない限りは、あの太陽のような存在まで辿り着くことは出来ない。だからこそ、ただがむしゃらに走り続けるしかない。
(耐えられるのか、俺に)
我ながら修羅の道を行くなぁ、なんて呆れて。それでも突き進む覚悟を決めた腹に、うっかり涙が出そうになる。
地獄の冬合宿を目前に控えた、とある朝。
年季の入ったガタガタの扉を、光舟は開く。半開きのドアの隙間から入り込んできた澄んだ朝の空気を胸一杯に吸い込んで、外へ踊り出た。薄明かりの中、唐突に顔を覗かせた朝陽が目に眩しい。既にグラウンドで練習を始めているその人は、今頃戦友たるタイヤを引いて、全力疾走の外周をしていることだろう。今日こそは夢にまで見たあの眼を自分へ向けてもらわんと、自然と足が彼のいる場所へ走り出す。
早く、早く。辿り着かなければ。彼のいる場所に。
走る、走る。息が乱れようと、心臓が悲鳴を上げようと、兎に角走った。
どこか喉元を締め付けるような息苦しさには、見ないフリをして。
*
マウンドに立っている。
舞台は甲子園決勝戦。あと一人抑えたら勝てる。そんな場面だった。無情にも会場に響いた軽い金属音は、沢村の願いも虚しく白球を攫っていく。逆転満塁ホームラン。真正面に座っていた御幸は徐に立ち上がり、何の感情も映さぬ表情で、ひたすらに白い影の行方を目で追っていた。
不意に、俺を相棒と言ってくれたその人と目が合う。
あぁ、終わったのだ。その瞬間、猛烈にそのことを自覚させられた。自分と、あの人の夏は終わった。思えばあっという間の二年間だった。
「……わ、……むら……」
小さく、唇の動きだけで、己の名を呼ばれたことを悟る。
「みゆ、き……」
長野の仲間を置いてまで、沢村はこの男を追いかけてきた。純粋な憧れと、思慕、尊敬……色んな感情が入り混じって、盲目的なまでに彼しか見てこなかった。時にそれは危うく、周囲の目から見て馬鹿みたいに一途に見えていたことだろう。だが大袈裟でなく、沢村にとっての野球とはイコールで、すべてが御幸という存在に繋がっていたのだ。
真正面に構えられるミットは誰よりも大きく見えて、彼の構えた場所に投げ込むことこそが最善だと、そう思って投げてきた。盲目的に、忠実に、刷り込みをされた雛鳥のように。御幸と共に完成させたナンバーズ。勿論、クリスによる鍛錬の成果が礎となって、花を開かせることが出来たということも、理解している。だが、御幸の形作る野球こそが、沢村栄純にとってのすべてだった。
沢村を取り囲んでいた透明で美しい世界は、いつだって御幸と二人で守ってきたものだった。
「終わっちまったん……すね」
あれは、寮に帰ってきて泣きながら夕食を食べた後のこと。頑なに涙を流そうとしない御幸を、沢村からコンビニに行こうと誘って外に連れ出した時のことだ。
頭上には星が瞬いていた。長野ほどの澄んだ夜空ではない故に、そんなに数はなかったように思う。けれど、二人で見上げた空は、今まで見たどんな夜空よりも綺麗で、美しく見えた。この景色を守ってきたのは他でもない。沢村と御幸だ。そのことを二人とも意識していたのか、いなかったのか。それは今となってはあずかり知らぬところだが、無言で、その光景を目に焼き付けるように空を見上げていた自分たちの姿に、沢村は永遠を見た。
「あぁ……終わった……終わっちまった」
ぽっかりと穴の空いた心は、あの夏からいつだって悲しさを訴え続けていて。いい加減聞こえないフリをすることにも限界に達していた。
そんな時だ。御幸が言った。
「沢村……」
「……はい」
「来年、勝てよ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
自分勝手なことはわかっている。でも、その託すような物言いが、悲しくて、切なくて。仕方のないことだとはわかっていても、やはり、彼の口からそんな言葉を聞きたくはなかった。
「……御幸先輩」
俺があの時打たれなければ。
俺があの時、違う場所へリードしていれば。
たらればの希望観測はキリがない。そのことを互いに理解し、納得までは出来ずとも無理矢理腹の底に飲み込んでいたことを、知っていたからこそ、下手な言葉は命取りとなった。それをわかっていたにも関わらず、御幸が沢村に言葉を投げた。それはつまり――、
「俺、おれ……っ」
切り捨てる、つもりなのか。
否、切り捨てさせるつもり、か。これ以上沢村が引きずらないように、前を向いて再び走り出せるように。
「どうしたら……っ!」
道標を失ったような気持ち。
御幸にはわかるまい。彼は常に前を向いていたのだから。後ろから追いかける人間の気持ちは、きっと彼には理解出来ない。
二人の外側を覆っていたガラスの壁は、無残に割れて朽ちてしまった。放たれた雛鳥が、右も左もわからず途方に暮れている。一方で囲っていた親鳥はというと、立派な羽を広げ、颯爽と旅立ち、もう二度とこちらを振り返ることはない。
「……俺は、青道を卒業したらプロに行く」
「……っ」
「お前も、……いや、それはいい。それは、お前自身が決めることだ」
道を示す。その、何という難しさ。強い意志で、道を自ら切り拓いていく。自らの生き様を後続する者たちに見せ、誰よりも広い背中でもってして、皆を引っ張っていく。そんな男に、沢村は魅了された。
これから先も、この人と同じ道を行くのか。
雛鳥のまま、自立せずに彼の足跡を辿り続けるのか。
それが本当に、己の思い描いていたエースなのか?
決断の時が、迫っていた。
「……今は、答えが出ないけど」
「……」
「でもいつか、いつか。俺が本物のエースになったら……」
エースになったら、
続けられる筈だった言葉は、御幸からもたらされた力一杯の抱擁により途切れた。距離を詰められたことで間近に迫った整った顔が、切なげに顰められている。目は潤み、鼻っ柱は赤くなっている。いつになく弱った表情が、沢村の心の柔い部分に突き刺さって、何も考えられなくなった。
「そん時は、俺が球受けてやるよ」
「みゆき……」
「受けてやる。いくらだって受けてやるから……」
「はは、……プロポーズかよ」
そう言って、沢村が無邪気に笑う。かくいう御幸も、照れ臭そうに頭を掻き、笑った。
今はまだ、答えは出ない。卒業後の進路より、目の前の秋大、そして春の選抜、夏大。新チームとして乗り越えなければならない壁は高く、おまけにいくつも目の前に聳え立っている。それらを自らの力で打ち破らぬ限りは、この、本人には言わないけれど……憧れを抱いている先輩と同じ土俵にすら立てないのだ。そう考えれば、目の前が真っ暗に感じていた先程までの自分も、幾分か鼓舞されたような気持ちになった。
だって、道はこんなにも拓けている。
御幸という目標が無くなってしまった今。沢村の目の前には、色んな道が見えている。どれを選択するのか、どこへ向けて走るのかは、すべて自分次第。無限の可能性は、何が起こるかわからない分不安でもあるが。でも、ワクワクした。
「御幸先輩」
楽しんだもん勝ち。
けど、やっぱり寂しいものは寂しいから、
「俺、アンタのこと、やっぱ誰よりもカッコよくて、スゲェ人だって思う」
古いアルバムを捲るように、時折大切な思い出を掬い取って。穴が空いたままの心の空洞を埋めるため、アンタのことを考えるのは、許してほしい。決して、後戻りはしない。この星空に誓うよ。引きずったりも、しない。前だけを向く、ていうのはちょっと難しいけど。でも、ほんとに偶にくらいなら、思い出に浸ることだって、悪いことじゃない筈だ。
「……初めてお前のことが可愛い後輩だって思えたわ」
「なにぃ⁉ 俺はいつだって御幸先輩の可愛い可愛い、目に入れても痛くない超絶可愛い後輩ですよ⁉」
「はっはっは! 冗談は頭の悪さだけにしてな」
「かぁ〜! そーいうとこ! そーいうとこっすよ! この性悪眼鏡が!」
好き勝手叫びながらの帰路は、一瞬別離を忘れてしまうほどに楽しかった。
思う存分戯れて、遊んで、喧嘩して。すっげぇムカつく時もあるけど、野球してる時の御幸は悔しいけどカッコいい。こんな先輩に出会えてよかった。多分、こんな鮮烈な出会いはもう二度と味わえないだろう。
何処かで理性的に見ている自分がいる傍で、ずっとこうしていたい、追いかけていたいと願う我儘な自分もいることに、苦笑する。
「……っ」
来年の夏までは、あっという間だ。目先の一つ一つを丁寧に。誰が主将になるのかはわからないけど、多分金丸あたりだろう。自分が死ぬほど不器用なことはとうの昔に自覚しているから、俺は俺なりに金丸たちを支えていけばいい。そう、固く心に決めた。
「もうちょっと……御幸先輩と、バッテリー組みたかったな」
「……ん、だな」
そんな予想が見事に裏切られ、まさかの自分が主将に抜擢されることになると知るのは、その三日後。
茹るように暑い、夏の残滓が色濃く残る日のことだった。
*
桜色の天蓋が広がる。
木漏れ日の下、目の前を舞い散る暖色の吹雪は、一抹の寂しさをも塗り潰さんとしているようで。冬の寒々しい景色からは想像もつかない華やかな光景に涙する者もいれば、笑顔で学び舎を去る者もいた。そんな中、三年生を混じえた野球部の正真正銘ラストミーティングを終えた光舟は、今日も今日とて飽きもせず一人の男を遠目から見つめている。
「あ、御幸先輩……と、沢村先輩」
沢村の名を呼ぶ時に気遣うようなそぶりを見せたのは、光舟の視線の先を興味深々といった体で覗き込んだ瀬戸だ。結局気まずげにするぐらいなら、いっそ素知らぬふりをすればいいのに。この器用そうに見えて不器用な男は、随所随所でこんなヘマをやらかす。そんなところもまた、憎めないところなのであるが。それにしても、そう真剣な顔をされてしまうと、こちらとて冗談めかして躱す事も出来ない。難儀なものである。
「……笑ってるな」
晴れ渡る空、舞い散る花弁。額縁の中に閉じ込めたような完成された世界に、二人は立っている。見たこともない綺麗な笑みを浮かべ、送る言葉を述べているのであろう沢村は、心の底から美しいと思った。天真爛漫、がさつで快活。そんな普段のイメージからは考えられないくらい。
「……うん」
悪戯っぽく笑う御幸が、沢村の頭に手を置く。随分久しいが、御幸が現役の頃はよく見かけた光景だ。そう遠くない過去の話なのに、何とも懐かしい。わしゃわしゃと犬にするような手つきでさらさらの黒髪を掻き乱す卒業生の姿を見ていると、不意に、沢村から頭を撫でられたあの夜の出来事を思い出した。
ぼんやりとした意識の中、沢村の熱い掌の温度だけを鮮明に感じ取っていた。指と指の間に絡め取られた己の髪が、優しく引っ張られる感覚。愛しそうに、慈しみながら触れられているのだと勘違いしそうになるほどの軽い接触に、心臓が締め付けられたのを覚えている。
「あんな顔、見たことない……」
自分でも驚くほど感情の乗っていない声だった。
この胸中で渦巻く得体の知れない靄のようなそれは、表に出してはいけない感情だと、本能で悟っていたのかも知れない。
「てっきり、あの人は泣くと思ってた」
みっともなく、子どもみたいに。周りの視線なんて完全無視で、感情を露にするものだと。だというのに、あんなにも綺麗な笑顔を浮かべている姿を見てしまうと、拍子抜けというか。まだ自分たちはここで終わりなわけではないのだと、見せつけられているかのような。そんな気にさせられる。
「……あんな顔も出来るなんて、思いもしてなかった」
その時、じっと、瀬戸が光舟の横顔を見つめる。やけに真剣な眼差しをしているものだから首を傾げると、長年腐れ縁を拗らせてきた親友は、小さな声で呟いた。
「……不毛だな」
「え?」
「もう、やめたら?」
冷涼な色合いの瞳が見開かれる。
春風に乗って揺れる木々のざわめきと共に、折り重なった花弁の隙間からちらつく光源が、光舟の瞳をゆらゆらと不安定に輝かせた。ラムネ瓶の中に入っているガラス玉を、そのまま埋め込んだような色。どうしてか、そんな季節外れな感想を瀬戸は抱く。
涙こそ流していないが、透き通った空色の瞳が泣いているように見えたのは、気のせいか。
「向いてないよ、お前」
「何の話だ」
「じっと待ってるだけなんて、向いてない」
ぶわり。
突風が、光舟の金髪を攫う。ついに限界まで見開かれることとなった蒼い瞳が、柔らかく微笑む瀬戸の姿を映し出した。やっぱりな、と。そう声に出さず呟いた親友は、一体どこまで光舟の心を見透かしているのか。もしかすると、自分でも理解しきれていないことでさえ、阿吽の呼吸の彼には把握されてしまっているのかも知れない。
そこまで察すれば、自尊心の高い光舟とて流石に白旗を上げてしまった。これは降参だ。
「一軍になるまで球を受けませんって、沢村先輩に啖呵きった時のあの威勢は何処に行っちまったんだよ」
「拓、」
「自分から掻っ攫っていくくらいのつもりじゃなきゃ、あの人からは奪えないぜ」
視線を戻すと、そこには御幸が一人佇んでいただけで、既に沢村の姿はなかった。同時に示し合わせたかの如く視線が絡まった男に対し、光舟は眼光を鋭くする。卒業を祝う後輩の態度としては如何なものかと思えど、反射的にそうしてしまったのだから致し方ない。また、御幸自身も光舟の態度に思うところがあるのだろう。はは、と小さく苦笑を漏らすと、わざとらしく両肩を竦め、ゆっくりとこちらに向かって歩き出した。
「んじゃ、俺は倉持先輩んとこ行ってくるわ」
空気を読んだ瀬戸が、御幸と光舟が話しやすいよう席を外してくれる。
「奥村」
相変わらず感情を読ませない飄々とした顔。無礼を働く光舟にも特に苛立った様子は見せず、あくまで大人の対応をしてみせる御幸の態度に、たった二年の歳の差は大きいことを思い知らされる。
「卒業、おめでとうございます」
「おう……あー、と」
気まずげに頭を掻きながら言葉を選んでいる御幸は、存外不器用だ。
「お前とは同室でもあったし、そのくせ特に何かしてやれたってわけでもなかったけどよ。その……まぁ、頑張れよ」
完全無欠の印象が強い、自らの背中で周りを引っ張るタイプのキャプテンだった。言葉より行動で示す、不言実行の男。軟派な印象を持たせる見た目のくせに、やってることは硬派な職人気質みたいなところのある彼は、噂で聞いたことのある寡黙な彼の父親に似たのだろうか。そういえば、新キャプテンとなったばかりの頃は、言葉が少な過ぎて誤解されることが多かったと沢村は言っていた。その背中はいつも数歩先にあって、追いかけることで精一杯だった。青道に入学してからこの男を追い越すことを目標にしてきた。だがそれも、遂に叶わぬ夢と成り果てた。
「……やっぱお前、あいつに似てるわ。あいつより気難しい分、色々大変そうだけど」
「それは、……」
「俺、お前はもっと客観的に周りを見れて、器用なタイプだと思ってた。けどやっぱ、違うのな。なんつーか……うん、似てる。それしか言えねぇ。すげぇ真っ直ぐ向かってくるところとか、誰かを追いかける時の必死さとかさ」
今年の夏、きっとお前も思い知ることになる。気をつけろよ。
意味深な言葉と共にくしゃ、と頭を撫でられて、御幸が悪戯っぽく笑う。沢村にしていた時とは少し違う、歪な笑み。お前も、と言うことは、御幸も何かを思い知らされたのか? 彼が何を意図して言ったことなのかは計り知れないけれど、何となく不穏な響きを有していたそれに、心臓が嫌な音を立てる。
「……御幸先輩」
今なら、素直に言える気がする。
「俺は、沢村先輩だけじゃなくて、貴方だって目標にしていましたよ」
面食らった顔が、何だか可笑しい。
「はっはっは! やっぱ似てる。ありがとな。そうだなぁ……本音を言うと、俺はお前が――」
今度は、光舟が驚かされる番だった。
「じゃあな。甲子園、絶対勝てよ」
桜並木の向こうに消えていく背中は、誰よりも大きな背中だった。絶対的な正捕手として、四番を背負って、主将として皆を先導する。純粋に尊敬出来る先輩だった。
「……絶対、越えてみせる」
越える壁は高ければ高いほど良い。
あの悪夢のような男が泣いて悔しがるくらい実力をつけて、彼のミットを見つめ続けるあの健気な人にとっての『捕手』の座を、見事攫ってみせる。絶対に。
「こうしゅーう!」
名を呼ばれた瞬間、ピクッと小刻みに身体が反応した。
沢村の声だ。求めてやまないあの声が、自分を呼んでいる。まるで飼い主に名前を呼ばれた忠犬みたい、なんて大変不本意な比喩が頭に浮かんで、慌てて振り払った。犬はあの人のアイデンティティだ。この俺が犬だなんて冗談じゃない。それにしてもあまりに素直な己の反射神経に思わず唸り、声の方を向く。
「球受けてー!」
「いいですよ」
きょとん。
あっさり了承してみせれば、面白いくらいに沢村が固まる。これは予想外の反応だ。偶には優しくしてみても……いや、やっぱり調子に乗るから基本は拒否を貫こう。絆されかかった気持ちを再び引き締め直し、光舟は駆け寄ってきた沢村と向き合う。
「な、何かお前変なものでも食ったのか⁉」
「失礼ですね。投げる気ないなら受けませんよ」
「待った! 投げる! 投げるから!」
なぁ、待って? 光舟! ほんと待って! なァって!
ドタドタと足音すら騒がしい男が後ろから必死に追いかけてきているのが嬉しくて、つい意地の悪いことをしてしまう。
(あ、そうか)
御幸はいつも、こんな気持ちを味わっていたのか。こうやって、自分を追いかけ続ける後輩を背中越しに感じながら、ずっと。否、この人の存在を感じていられたからこそ、前だけを向いていられたのか。御幸の強さの一端に、それどころか核となる中心には、常に、沢村の存在があったのかも知れない。
ふ、と。先刻、御幸に言われた言葉を思い出す。
『本音を言うと、俺はお前が羨ましいよ』
(……そんなの俺のセリフだ)
「光舟! 早くー!」
「はしゃぎ過ぎです……」
羨ましい。
その一言に込められた想いは、到底簡単に語れるようなものではない。沢村との未来があることが羨ましい、愚直なまでに彼のことを追いかけることが出来るのが羨ましい。俺には主将という枷があって出来なかったことを、当たり前のように叶えることの出来る奥村が羨ましい。それは、紛れもなく御幸が主将の顔の裏側に隠していた一人の投手への執着と、醜い独占欲が垣間見える一言で、光舟自身にもあまりにも身に覚えのある感情だった。
「……沢村先輩」
不思議そうな顔をした沢村が、顔だけ光舟の方へ振り向く。
「御幸先輩と、ちゃんと話は出来ましたか……?」
軽く目を見開いた騒がしい先輩は、暫しの間光舟が何を思ってそう言ったのか測りかねているような印象だった。だが次の瞬間、裏表のない笑顔でニカッと笑うと、彼は御幸と同じように光舟の髪を搔き回す。
「おう! ちゃんと話して、俺も腹括ったわ!」
甲子園、絶対勝つぞ!
御幸と同じ仕草、同じ言葉。似ているようで、あの元主将よりも容赦のない撫で方をするこの人の手が、何よりも尊いものに思える。
沢村の手が触れた場所が熱い。
御幸にされた時は、まったく何も思わなかったのに。同じ尊敬する先輩でもこうも異なる。それはやはり、拓の言っていた通り、この人が自分の最も執着している人であるから。その執着が、この人の投手の部分に対してなのか、この人自身に向けられたものなのかはわからない。わからないが、何となく薄っすらと気づき始めている。
「本当……不毛だな」
まったくだよ、拓。
何てものを自覚させてくれたんだ。少しくらい、恨み言を言うくらいは許してほしい。
「それより光舟、お前あんま気乗りしてないみたいだけど、やっぱ無しとかナシだかんな!」
「だから受けますって」
「ほんとか? 嘘じゃないな?」
「しつこい」
この人が、好きだ。
そんな浮き足立った心を必死に隠して言い放った言葉は、いつもより幾分かキツイ響きになっていて。でもそんな光舟の態度に不快になることもなく、わっはっは! と大きな笑い声で上機嫌に先を行く沢村が、とても眩しく見えた。
コロコロ、と。光を反射したガラス玉が、転がる音が聞こえる。
夏は近い。
嫌味なくらい澄み渡った青空に、肌をじりじりと焼く太陽の光。空蝉の鳴き声と青々と茂る草の匂いに包まれて、18.44メートル先から放たれる白球を受け止めるその日を、ずっと待っている。
沢村と光舟。二人が正バッテリーと呼ばれ、エースと正捕手の座を勝ち取るその日を、ずっと、ずっと。