真夏の残滓

Ace of Diamond
 第二話 蝉時雨の残響

 泥濘んだグラウンドを走る。一歩踏み出す度に跳ねる泥水が、洗いたての練習着の裾を汚した。昨日洗濯したばかりだというのに、容赦のないことだ。この時期には毎度うんざりするほど打ち当たる通過儀礼のようなものなので、今更文句を言うつもりはないが。やはり不快なものは不快であった。
 梅雨の入り口。
 今朝見た天気予報によると、ここ一週間は不安定な天候が続くらしい。蒸し蒸しとした暑さが徐々に迫り来る中でのこの悪天候は、普段開放的なグラウンドで全力の汗を流すことを生き甲斐としている高校球児たちに、少なからずストレスを与えている。必然、持て余した体力は面白味のない室内トレーニングで発散することとなって、単調な運動にいい加減飽きてきたというのが、部員たちの本音であった。そんな環境に置かれて暫く、久方ぶりの晴天であったからだろう。青々と晴れ渡る空を見上げ、思わず走り出してしまったのは、本能というより他なかった。
「うおお! 気っ持ちいいー!」
 誰よりも晴れの似合う男が、先頭を駆け抜ける。
「足元見ないと危ないよ、栄純くん」
 後続する親友の注意を無視して、暴走機関車と化した主将はペース配分も考えず、いつものランニングコースを走り回った。それどころか彼と競い合うように隣に並び続けるライバルに、わざと挑発するような言葉を掛けて煽る始末で。こういう昔から変わらないところを見ていると、果たしてこの人は本当に主将としての自覚があるのか、と疑問に思いたくもなる。
「わっはっは! どうだね降谷くん! このチーター先輩仕込みの沢村の俊足には追いつけなかろう? そうだろ?」
「……負けない」
「あ! ちょっと二人ともー!」
 結果として、足元の悪さだとか三周目以降の体力だとか。そんなことは一切考えず、二人はさらにスピードを上げて行ってしまって、残された小湊が『……後で覚えてなよ』とボソッと呟いたことを、一介の後輩でしかない光舟たちはそっと目を逸らし見ないフリをしてやり過ごすのだった。誰だって自ら祟りに触りたくはないものだ。
「はは、やっぱスゲェな。沢村先輩たち」
 隣でマイペースにランニングをしていた瀬戸が、苦笑しながら言う。
「……こんな足場の悪い中で……怪我したらどうするんだ」
「お前は逆に心配し過ぎなんじゃね?」
 イライラとした心中を隠しもせずに返した光舟に、瀬戸はますます苦い笑みを深めた。
 春の選抜ではそれなりの結果を残すことが出来た。西東京大会にも順調に駒を進めた青道は、来週からはついに大会入りをすることになる。成宮が卒業した稲実も、順調に投手陣を仕上げてきていると聞くし、市大三高も、薬師も、それぞれが夏大会に向けて調整を進めている。少しの油断も許されない状況下において、今なすべきことと言えば兎に角今まで積み重ねてきた武器を更に磨き上げ、鋭利な武器とすることで。己の明確な課題を見つけひたすら弱点を潰して行く時期は、もうとうに過ぎ去っていた。
 机の上に積み上げられたスコアブックの量も、そろそろ百冊を越える。
 今まで行われた全試合のスコアブックに目を通し、投手全員分の癖やチーム全体の課題を探るのは勿論のこと。特に沢村のことに関しては、不本意ながら御幸に頭を下げて、自分が入学する前まで遡り沢村が登板した試合すべてのスコアブックを譲り受けた。よって、現在の沢村が形成されるまでの流れや、昔の癖、球質の変化、ナンバーズの完成過程に至るまで丸ごと、光舟の頭の中に入っている。
『大した執着だな』
 電話越しに、御幸からそう言われたのを思い出す。少し羨望の混じった、欲を押し殺した声だった。
「沢村先輩」
 ランニングを終え、一目散にスポドリを煽る沢村の元へ駆け寄る。噴き出す汗を紺色のスポーツタオルで拭いながら振り向いた彼は、光舟の姿を捉えるや否や口角を緩めた。そんな些細な仕草を目にするだけで、胸の中が満たされていく。
「今日は練習後に調子を確認したいので、」
「球数には気をつけろ、だろ?」
 してやったりとした顔が小憎たらしい。だが愛らしくも思えて、つい柔らかそうな頰に手が伸びる。
「うおっ! 何だよ」
 ふにふにとした感触は実に心地良かった。動揺から猫目になっている沢村を尻目に、暫くつきたての餅のような頰を堪能する。最近、自制心が働かなくなってきているのは自覚していた。しかし今更、こんなにも近づいた距離を手放すことは出来なくて、おかげで悶々とした夜を過ごすことも増えた。沢村は知らないだろう。純粋に見せかけた下心だらけの接触を。ポーカーフェイスの裏に隠した獰猛な獣の顔を。
 それが少し、寂しくて。それ以上に安堵している自分もいる。
「相変わらずよく伸びますね」
 そっと手を離し、何事もなかったかの如く感想を述べる。
「と、年上をからかうな!」
「いじられ役はどの場面においても美味しいポジションですよ。甘んじて受け入れてください」
「こっの……っ〰〰!」
 真っ赤な顔をした沢村が地団駄を踏み、大仰に悔しがった。
 いつの間にか見上げていた目線は同じになり、やがて少しだけ見下ろすようになっていた。時の経過と共に変わらなかったものもあれば、変わってしまったものもある。身長もそうだが、一番に挙げられるのが精神的な距離感。入部したての頃の険悪さから言うと驚く程に、沢村と光舟の距離は近くなっていた。
 二人こそ青道の正バッテリーなのだと、今なら自信を持って言える。御幸のミットを追い続けていた沢村は、ちゃんと光舟のミットを見てくれるようになった。また、自惚れではなく御幸と光舟を同等の『捕手』だと認めてくれていると、そう自負している。未だ実力的に拮抗している降谷と由井のバッテリーとは、食って食われての攻防を繰り広げているものの。それでも今年の夏はほぼ間違いなく、エースナンバーを背負うことになるのは沢村だろう。それは、彼の捕手としての贔屓目を無しにしても、公然の事実であった。
「沢村ァー! テメェサボってねぇでさっさと来い!」
「げ、やべ! 軽くミーティングすんだった」
 じゃあまたな、光舟!
 青筋を立てた金丸に呼ばれ、そそくさと沢村は光舟の元を離れていく。反射的に伸ばしかけた手を寸でのところで耐えて、小さくなる背中を見送った。
「あ……」
 まただ。
 こんなに短時間でさえ、彼と離れている時間が寂しく思う。膨らみ続けてきた欲は留まることを知らなくて、こんなにも大きくなってしまった。自分は一体、どうしてしまったのだろう。前まではこんなことは思わなかった。練習に集中する姿や太陽のような笑顔を遠目から見て、それだけで満足していた。
 思えば触れることが許される距離に、近づいてからだ。
 いつだって彼の一挙手一投足を見逃したくなくて、大した用もないのに彼の隣を陣取るようになった。先のランニング後のこともそうだ。一つの練習が終わる度に、無意識に沢村の姿を探してしまう。そして、いつも人に囲まれている彼が一人でいると浮き足立って、自然と彼の方に足が向かっている。捕手の役目と見せかけて世話を焼き、気がついたら触れていて、もっと、彼の温度を求めてしまう。それこそ、キリがないくらいに。
「あつい……」
 喘ぐように息をした。
 湿度の高い空気が、呼吸を妨げる。海の底にいるような息苦しさと、水中独特の足元の覚束なさ。加えて押し寄せる海流に煽られる水草のような心許なさが、精神を苛んだ。
「光舟、シートノックするから一軍はAグラ集合だって」
「わかった」
 終わりたくない。
 夕暮れのグラウンドに思う。真夏の太陽は必ず沈み、夜がやってくる。明けない夜はないと、かの偉大なる文豪は言った。この、息苦しい真夏の日々を、あと何日彼と過ごせるのだろう。
 ――日本一長い夏に。
 この誓いは、一年の頃から何一つ変わらない。例え身長が彼を越えようと、バッテリーとしての距離が縮まろうと、変わることのない願いだった。
 バチッと音を立ててナイター塔が点灯する。
 夜の閨が、降りようとしている。
 じとりと肌に纏わりつく、湿り気のある風が頰を撫で、すぐそばを通り過ぎていった。
 一つでも多くの夏の残滓に縋りたいと、そんな不毛なことを考えた。

 *

 移動教室でもなければ使われることのない、人気の無い校舎裏の渡り廊下。予め決められていたかのようなお決まりの場所に、光舟は今立っている。
「奥村くん、来てくれてありがとう」
 二年生になってから、こうして女子生徒から呼び出される機会が増えた。
 瀬戸たちは光舟が呼び出しのせいで遅れる度に、面白そうな顔をして揶揄ってくるけれど(主に由井が嬉々として揶揄ってくるのが意外だ)。正直迷惑に思っているのが本音だった。だが、それをそのまま言ってしまえば、モテる男はこれだからと嫌味だの何だのを言われることになるのは目に見えているので、特にこちらからは何も言うことはない。
「今は野球のことしか考えられないから、だから――」
「あー! さわむら、こんなとこにいたっ!」
 ごめん、と。
 そう続けられる筈だった言葉は、途中乱入した声に掻き消された。ふ、と声のした方へ視線を送ると、女子生徒たちに囲まれた沢村の姿が見える。親しげに言葉を交わし、何の警戒もなく少女たちに身体を触れさせている男は、人懐っこい笑みを浮かべながら、「わりー、わりー」と全く反省していない声で謝り続けていた。一年経った今となっては見慣れた光景だ。沢村の周りにはいつだって人が集まる。騒がしくて、温かくて、楽しそうな、そんな空気が常に彼の周りを取り巻いている。
 光舟同様目の前の名前も知らぬ女子生徒も、同じタイミングで沢村たちのことを見ていたらしい。小さく「あ、沢村先輩だ……」と呟いたきり、彼女はじっと騒がしい集団が過ぎ去るのを見つめていた。告白の最中だったのだ。早く通り過ぎて欲しかったに違いない。そわそわと指先を弄りながら沢村たちがいなくなるのを待つ姿は、何の感情を抱いてなくとも、十分慎ましく、愛らしくみえた。
「沢村先輩のこと、知ってるんだ」
「……え?」
 唐突な光舟の問いに、不意を突かれた少女は戸惑う。
「今、名前言ったから」
「あぁ……うん、そりゃ知ってるよ。沢村先輩って有名だし」
 有名。
 その一言が、忌々しい響きとなって脳内で反芻される。
 甲子園出場校のレギュラーともなれば、それだけ名前が一人歩きすることは多い。御幸然り、成宮然り。色めき立った声を上げられる選手たちは、皆それぞれ結果を残した上で、同じ道を辿っている。ましてや、沢村は前年、甲子園決勝の抑え投手としてとあるスポーツ雑誌に特集が組まれたのだ。その名は校内だけに留まらず、全国的に知られてしまっていた。そして何より、あれから一年近く経ったとはいえ、あの記事をきっかけに彼に興味を持った人間たちが記憶の片隅に彼の存在を追いやるには、あまりにも彼自身の魅力は痛烈で……鮮やか過ぎた。
 心惹かれる気持ちは分からなくもない。光舟もまた、あの強烈な光に惹かれた烏合無象の中の一人なのだから。だが、マウンドの上に立つあの人の輝きを、本当の意味で知らない人間たちが、挙って黄色い声を上げている現状は滑稽で。何処か鼻白んだ気持ちで見ているのが実情だった。
 ――何も知らないくせに。
 歪んだ優越が顔を覗かせる。
 ――上辺だけの彼にしか、興味がないくせに。
 あの人の裏の努力を一番知っているのは、自分だけ。彼を心から強く欲している人間は、自分以外には無いのだと端から決めつけて、平穏を保つ。こんな醜い一面を知ったら、あの影なんて知らない太陽のようなあの人はどう思うか。想像しただけで悍ましい。そして、彼が離れていってしまうことが何より恐ろしく、積み重ねた嘘だらけの日々も相まって隠し事ばかりがどんどん上手くなっていた。
「奥村くん?」
「あ、……えっと、ごめん」
「ううん、いいの。伝えたかっただけだから」
 野球、頑張ってね。
 最後に投げられたのは、何度も聞いたお決まりの台詞だ。気まずげに去っていった女子生徒の背中は、小さく震えていて。気丈に振る舞っていたのは彼女自身の矜持からだと、それをわかっていたからこそ、敢えて何も言わずに見送った。
『さわむら』
 仄かに色づいた唇が、甘い声であの人の名前を呼ぶ。
 男である自分には、あんなに誘うような、鈴を転がすような声は出せない。あぁ、目の前が真っ暗になりそうだ。気安く彼の名を呼ぶな。そう叫びたかった。
「……えい、じゅん」
 光舟よりも告白されることの多い彼は、今は大会に集中したいから誰とも付き合う気はないと、どんな美女からのお誘いも断っているらしい。そんな話をしていたのは結城だった。まさかの情報源に驚けば、彼の兄経由で知ったことなのだと、あっさり教えてくれた。どうやら三つ上の代の先輩方は沢村がモテている状況が心底面白いらしく、偶に御幸の代の誰かを捕まえては、沢村の学校での様子を聞き、話の種にしてるのだとか。どこまでも愛されているあの人に妙に感心しつつ、一方で面白くないと思う余裕の無い自分に自嘲したのは、記憶に新しい。
『今は大会に集中したいから、付き合う気はない』
 今はいい。あの人には明確な目標があるから。
(なら、夏を過ぎたら?)
 大会に集中したいという断り文句は、逆に言えば大会が終わってしまったら付き合う可能性があるということ。もしかしたら、タイミングよく告白してきた女子生徒と付き合ってしまうかも――冗談じゃない。そんなの絶対認めない。認めない、だなんて偉そうなことを言っているが、彼の恋愛にあれこれ口を出す権利など無いのだけれど。それでも、認めたくないものは認めたくなかった。
「栄純」
 今度はもっとはっきりと、彼の名前を呟いてみる。カッと身体に火が灯った。全身が燃えるように熱い。下の名前で呼び捨てだなんて、本来ならば後輩の立場である光舟には許されることではあるまい。でも今だけ、今だけだ。誰もいないこの場所でなら、彼の名前を呼ぶのも許されるのではないか。そんな甘えが、油断を招いた。
「えい、」
「呼んだ?」
 思いがけず返事が返ってきたものだから、大袈裟に肩が震える。誰だ、なんて言うまでもない。この声は、光舟がたった今、秘密裏に名前を呼んだその人。
「……さ、わむら先輩」
「よう、オオカミ小僧」
 ひひ、と悪戯っ子みたいに笑う沢村が、光舟の隣に座り込む。血の気が失せた。聞かれていたのか。今までのを、全部。
「……聞いて、たんですか」
 閉じ込めた想いが溢れた言葉を、隠してきた熱を。この人に聞かれてしまった。
 あまりのことに頭が真っ白になった。
「名前、呼びたいんならもっと早く言えよ」
「え?」
「呼び捨ては後輩の手前ダメだけど、お前になら『栄純先輩』って呼ばれるのも悪くねぇ」
 ――だって俺ら、バッテリーだろ?
 周りが言うほど、この人は馬鹿じゃない。
 ちゃんと空気を読めるし、人の些細な機微に気づけるだけの嗅覚を持っている。子どもっぽい言動の裏にも、相手への気遣いや思い遣りが隠されている。それを理解していたからこそ、沢村がいつものように「呼び捨てなんて生意気だ!」と怒ることもなく、ただ静かに凪いだ視線を送ってくることが、全部を見透かされているみたいでゾッとした。
「あ、俺……」
 拒絶されてしまう。
 息が、苦しい。ヒュ、と情けない音を発した喉は、まるで役に立たない。羽を奪われた鳥のような、鰓呼吸が出来なくなって水中で踠き苦しむ魚のような、当たり前のことが突然出来なくなる恐怖。正体不明の不穏な何かが、心を支配していく。
「せんぱ、」
 ちゅ。
 指先一つ動かすことすら出来ない身体の、たった一箇所だけ取り戻された感覚。薄い皮膚から伝わる柔らかさと温かさが、極限状態の緊張を解いてくれる。
 今、唇に触れたのは、まさか。
「……こーしゅー」
 甘えたな口調。キャッチボールの合図。見慣れた景色の中で唯一異質なのは、その距離の近さ。
「……球、受けて」
 キスを、された。
 そう理解したと同時、一気に膨らんだ幸福感と絶望感に押し潰された。狡い。なんて酷い男だ。わかった上でやったのだとしたら、あの御幸一也よりもよっぽど性悪だ。こちらの好意を理解した上で想いを踏みにじり、土足で領域を踏み荒らした罪は、重い。
「……それ、一番残酷だってわかってやってるんですか?」
「さぁ、何のことやら」
「ふざけないでください!」
 拒絶も、返事もしないくせに、貴方はそうやって受け入れる。中途半端なそれが一番残酷なことだって、わかっているのか。問うても、はぐらかされるばかり。胸ぐらを掴んで詰め寄っても、優しい眼差しは変わらない。普段雄弁に語る口が言葉を発さず、行動に移した。裏を返せば、其の場凌ぎのキスに『逃げた』。
 答えるつもりはないと、そう言われたも同然だった。
「何も知らないふりをしてくれればよかったんだ! それを、そんな、中途半端に首を突っ込むくらいなら、いっそ拒絶してくれれば、そうすれば、」
「んなの無理だよ」
「……っ」
「だって俺、お前のこと嫌いじゃねぇもん」
 棒立ちの身体を引き寄せられる。無理矢理押し付けられた肩口に、鼻先を埋めた。
「今にも死んじゃいそうなお前を見て、ほっとけるわけねぇだろ」
 泣いてない。泣いてたまるものか。子どものように感情を爆発させて、喚いて、詰め寄って、挙句泣くだなんて。これ以上情けない姿をこの人の前で晒すわけにはいかない。さっき光舟に告白してきた少女と同じだ。今の自分は、己の矜持だけでこの場に立っている。
「……それに、お前に名前で呼んで欲しいと思ったのは、ホント」
 好きだ。
 残酷なくらい、優しい貴方が好きだ。
 夏の匂いを纏い、閃光を宿した金色の瞳で真っ直ぐに構えたミットを射抜く、その強い眼光も。投球に入る瞬間にうねるしなやかな筋肉も、大きく振りかぶった後に浮かべる不敵な笑みも。貴方を形作る一つ一つのカケラに惹かれて止まなくて、どうしようもなく意識を絡め取られる。
 抱き締められた腕に身を任せ、恐る恐る背中に手を回す。ふふ、と小さく笑う沢村が憎らしくて、骨が軋むくらい腕に力を籠めた。ぐえ、と不恰好な呻き声が耳元で聞こえたが、知ったことか。
「おーい、苦しいって」
 思い知ればいい。
 この想いの深さを。己の心に渦巻く感情の、醜さを。そして、いっそ嫌ってくれ。
「なぁ」
 ぽす、ぽす、とリズミカルに背中を叩かれるも、腕の力は緩めない。身体が言うことを聞かないのだ。もう暫くはずっとこのままになることは、沢村には悪いが確定事項だ。
「沢村先輩が悪い」
 鼻声でそう訴えれば、途端に身動いだ沢村が気まずげに頰を掻く。
「……名前で呼んでくれねぇの?」
 まったくこの人は。甘えたな声に堪らない気持ちになって、頬擦りをした。ここまできたならどうにでもなれという、一種の開き直りだ。
「えい、じゅん」
「……先輩はつけねぇのな」
「栄純さん」
「んー?」
 舞い上がってしまいそうだ。
 我ながら現金過ぎて嫌になる。きっと、今自分に尻尾が付いていたのなら、千切れんばかりに振っているに違いない。次から次へと溢れ出るこの気持ちを、無理矢理飲み込まなくてもいい。たったそれだけで、こんなにも違う。例え自分と同じだけの熱量を返してくれなくとも、受け止めてくれる。拒絶されない。その何と稀有で、有難いことか。
「……あんま一人で抱え込むなよ。言ったろ? 青道一頼りになる男・沢村先輩を頼れって」
「……ん、」
「はは、可愛い奴。いつもそんだけ素直ならいいのになー」
 キスしたい。しかし、抱き着くくらいは許容範囲でも、流石に唇は許してもらえないだろう。それに先ほどの沢村からのアレは、あくまで光舟の気持ちに区切りをつけさせるための、トドメのような意味合いが強かった。かといって、このまま熱を燻らせていれば、また変な方向に走るのは明らかだったので、耐えきれずに吸い付くような肌触りの頰へ口づけを贈る。すると、不意を突かれた沢村が真っ赤に熟れた。
「なっ……!」
「……すみません」
「……っ」
「好きになって……すみません」
「光舟、」
 ぎゅう。
 沢村の腰を抱く腕の力を、更に強める。何度謝っても足りない。好きな人に、こんなことをさせている自分が嫌になる。だがそれ以上にこの状況を少なからず幸せに思っている自分が、何より忌々しかった。
「『一人では死なせません』」
「?」
「昔、そう言ってくれたろ」
 死なば諸共。
 あの時の覚悟はまだ、純粋な捕手としてのものだったと思う。思えばあの頃から、光舟の中の淡い気持ちは芽吹き始めていたのかも知れない。素直になれない自分が、初めて本音を吐露した一場面。覚えてくれていたのか、この人は。あの拙い告白紛いな言葉を。
「すげぇ嬉しかった。こいつとなら、最高の『作品』を作り上げることが出来るって、そう思った」
 お前が死ぬ時は、俺も死ぬ時。
 まさに一連托生の関係。お前が苦しいなら、俺が受け止める。楽しいことも、悲しいことも、苦しいことも、全部二人で分かち合う。独りぼっちになんてさせない。何があっても、手を取り合って進み続ける。そんな絶対的な信頼の元で成り立つ強固な絆を、自分たちは育んできた。
 真っ直ぐに強い眼光が光舟を射抜く。マウンドの上に立つ彼と同じ、こちらが食われそうになるくらいに強烈な、燦然たる眼差し。
「俺たちはバッテリーだ。それも、青道の名前を背負う、正バッテリーなんだよ。お前を一人、俺が置き去りにするわけないだろ?」
「沢村、先輩」
「それに、足並み揃えろってお前が俺に言ったんだ。ならお前だって、一人で突っ走ってないで俺の隣を走れよ! お前は俺の、女房なんだから」
 ゾクゾクと身震いした。
 これだから、この人を好きでいることをやめられないのだ。球質と同じムービング甚だしい、予測不能な性格。いつだって想定外なことをしでかして、こちらの想像以上のことを返してくる。
 心底惚れ抜いた夫は、一生掛けて愛するだけの価値のある、絶対的な『投手』だった。
「……好きです」
「……ん」
「好き、すき、好きなんです」
 馬鹿らしい。
 こんな人を好きになるなという方がおかしい。痩せ我慢は、もう終わりだ。
「名前のついた関係になれとは言いません。ただ、気持ちを伝えることだけは、許してください」
「……おう」
 くしゃり、と髪を掻き回される。甘えるように擦り寄った。もっともっとと求めた。受け身ばかりだった自分が初めて求めたのは、そんななんて事ない日常の触れ合いだった。
「……好き」
 溢れ出る想いを飲み込まない。
 癖になる。黙って受け止めてくれる愛しい人に、また想いが降り積もる。際限がなかった。でも、もう息が出来なくなるほどの苦しさは感じない。
 心臓は未だちくちくと痛みを訴えている。
 本能は、彼に同じだけの熱量を返せと吠えている。
 気を抜けば飲み込まれる状況は変わっていないけれど、今はこの人がいる。その事実だけで、光舟はまた一直線に彼へ繋がるこの道を、駆け抜けることが出来そうだった。
 今朝方まで空を覆っていた分厚い灰色の雲は影も形もない。目に痛いくらいの真っ青な晴天が、頭上に広がっている。梅雨が明けたのだ。その澄み渡る青空に、光舟は無限の可能性を見た。あれだけ終わりたくないと思っていた夏を、恋しいとさえ思った。
 空蝉が鳴く。
 否、今まで鳴いていたのだろう。これだけ煩い声すら聞こえなくなっていたほど、余裕がなくなっていたことに、今更気づかされた。
「キャッチボール、しようぜ」
 どこに隠していたのやら。
 茂みの奥から引っ張り出してきた二つのグローブのうち一つを、沢村が投げて寄越す。曰く、渡り廊下を歩いている時に光舟の姿を見つけて、キャッチボールに誘うために慌てて部室から貸し出し用のグローブを拝借してきたのだとか。それを耳にした光舟は、ブレない人だな、と小さく笑う。
「おっしゃ! こーい!」
 眩しい笑顔に、目がチカチカする。
 どんどん好きになる。
 愛する人の構える一点目掛け、光舟は掌にすっぽり収まった白球を投げた。

 *

 ぐるぐる悩んでいた後輩は、上手いことガス抜きが出来たらしい。同時に色々と吹っ切れたようで、積もり積もった彼の中の何かが限界値に達した時、一人で抱え込むのでは無く沢村に吐き出すようになった。
 いい傾向だ、と思う。
 時折、熱を閉じ込めた冷涼な色の瞳に見つめられると落ち着かなくなるが。それでも前みたいに何も言わずに溜め込まれるよりは、遥かにマシだった。あんなボロボロな相棒を見ているくらいなら、嫌われたって殴られたって、相手の領分に踏み込んでいっそ何もかもを壊してしまった方がいい。そう思ったからこその、あの口づけだった。
「こーしゅー」
 いつもと同じ、球を受けての合図。
 コレをすると涼やかな目元に僅かな綻びが生まれることを、果たしてこの男は自覚しているのだろうか。意図して行われてきた甘えたなおねだりは、結局彼の強固な理性に突っ跳ねられてしまうことの方が多いのだけれど。それでも何回かに一度はこの、心優しい後輩が折れてくれることを知っているからこそ、やめられなかった。
「十球だけなら」
 彼から向けられる熱の籠った視線の正体には、情けないことに最近気づいた。
 言い訳をさせて欲しい。あまりにも純粋な輝きだったものだから、あの熱の源は捕手として向けられたそれなのだと勘違いしてしまって、気づくのが遅くなったのだと。もっと早く気づいていれば、と思わなくもないが、気づいたところで何をしてやる事も出来なかったのだから、どうしようもない。
 沢村は、奥村光舟に恋愛感情は抱いていない。
 否、目の前の道を行くことに必死で、それ以外のことを考えている余裕がなかったと言える。だから初めてなのだ。こんなにも誰かのことを想い、悩める夜を過ごしたのも。この可愛い後輩に何をしてやれるのか、無い頭を振り絞って真剣に考えたのも――例え嫌われてもいいからと、踏み込む覚悟を決めたのも。
(こんなに悩んだの、御幸先輩が引退した時以来じゃねぇかな)
 練習後の投球練習は、あっという間に終わりを告げた。
 滲み出す汗を拭い、傍に置いていたスポドリを勢い良く飲み干す。そのまま一息吐いていると、同じく息を整えていた光舟が近寄ってくる。
「今夜、部屋に行ってもいいですか」
 感情を悟らせぬポーカーフェイスで、光舟が言った。内心心臓がばくばくしているのであろうことを知っているが故に、見ているこっちが恥ずかしくなってくる。ほんのり赤らんだ顔を見られたく無くて、スポーツタオルで汗を拭く振りをしながら頷くと、彼は満足げに口角を緩めた。
「ん、風呂入ってから集合な」
「ありがとうございます」
 一週間に二日程度の頻度で、光舟は沢村の部屋にやってくる。明日は遂に夏大会の初戦だというのに、今日も変わらず光舟は沢村の部屋に来るつもりのようだった。
 二人きりになったからといって、恋人でもない自分たちは特に何をするわけでも無い。たわいもない話をして、沢村が苦手とする指先のメンテナンスをやってもらったり、その日の投球に関する反省をしたりと、やることといえば野球に関係することばかりだ。また、それは奇しくも御幸が現役だった頃にも行われていたもので、沢村にあれこれ世話を焼く光舟を見ていると、時折酷く懐かしく思える。
 重ねるべきではないとわかっている。だが、やっぱりバッテリーという関係は特別で、御幸と光舟は全くの別人だと頭では理解していても、気が付けば無意識の内に御幸と違うところを探している自分がいた。
「なぁ、光舟」
 だが最近、痛感するのだ。
 光舟に向ける感情と、御幸に向けられたそれの違いを。だって、沢村は御幸に対して、衝動的に『触れたい』なんて思わなかった。
「ん、もうちょっとですから。我慢してください」
 可愛いな。
 触りたいな。
 ふ、と沸いて出た衝動を、ぐっと耐える。目の前でさらさらと流れる金色の髪だとか、真剣な眼差しを送るアイスブルーの瞳だとか、中性的な外見に見合わぬ節くれだった指先だとか。愛おしいと思う。彼に触れられた場所に熱が宿って、ふよふよと宙に浮き上がるような、気持ちの良さが心を満たしていく。
 確か伊佐敷に借りた少女漫画に、同じ描写があった。そのことを、何となく思い出す。
 ドキドキと高鳴る胸を押さえたヒロインが、いじらしく片思いの相手を想う時。そんな衝動に苛まれていた。自分が今まさに体感しているこの状況も、思えば他人事で紙面を見て身悶えたあのシーンと酷似している。
(あ、そっか。俺……コイツのこと好きなんだ)
 ストン、と。驚くほど素直に落ちてきた、自覚。自覚と同時に潰えたのは、この芽吹きたての恋心を成就させようという、ごくありふれた欲だった。
(コイツには、これから先色んなもんを背負ってもらうことになる)
 まだ誰にも話していないが、光舟には沢村が引退した後の青道を率いて貰おうと思っている。
 代々受け継がれてきた主将の重責は、生半可な覚悟では背負えない。きっとこれから先様々な壁に、彼自身ぶつかることになるだろう。そんな時沢村は、頼れる良き先輩として、元主将として、彼を支えてやりたい。まかり間違っても恋人となり、野球に直向きに向き合う彼の気を削ぐことになるのだけは、どうあっても避けたかった。
 これは只のエゴだった。
(俺と同じ景色を、光舟にも見せてやりたいんだ。目の前に広がる無限の可能性を、感じさせてやりたい。そのためには、)
 ――来年、勝てよ。
 去年の夏。寮への帰路の途中で、御幸に言われた言葉が蘇った。
 特別だった。沢村の野球のすべて。ずっと追いかけ続けていた人。他人事のように投げかけられた言葉に深く傷つき、思わず立ち竦んだあの日。もしかすると、あの言葉を吐いた御幸自身も、身を切るような思いでああ言ったのかも知れない。
(ひでぇな)
 同じ立場にならなければ、わからなかった。
 自分はプロに行くと、きっぱり言い切った次の瞬間に、沢村にも追いかけてこいと、そう言いかけた時のあの顔。恐らく、あの瞬きよりも短い間に見せた表情こそ、御幸の本心だった。
 そして、それと同じことを、沢村もしようとしている。自分だけを見つめ、一心に追いかけ続けてくれた、可愛い後輩に。残酷な言葉を吐こうとしている。
(ひでぇ男に惚れたな、お前)
 進路のことはまだ何も考えていない。大学へ進学するのか、プロへ挑戦するのか。ありがたいことにいくつか声を掛けてもらってはいるけれど、今ひとつピンとこなかった。
 夏の大会が終われば、結論は出るのだろうと思う。それは確信だった。茹だるようなあのマウンドを降りた時に、自ずと進むべき道は見えてくるのだろう。それはスカウトの人たちも同じことを言っていた。焦らず、じっくり考えて欲しい、と。沢村の選択が、御幸の待つプロの世界へ飛び込むことなのか、それともまた違った魅力を持つ大学野球で経験を積むというものなのか。それはわからない。ただ、後悔のしない選択を、それだけを思った。
「光舟はさ、ずっと俺を見てくれてるだろ?」
「はい? 何ですか、藪から棒に」
「まぁ、聞けって。だから、お前はすげぇ真っ直ぐなんだよ。俺に似てさ」
「……」
 ――御幸先輩にも、同じことを言われました。
 苦虫を噛み締めたような顔をしながら話す光舟に、噴き出してしまう。そうか、もう言われていたのか。なら、御幸はきっとあの頃から既に、こうなることは読んでいたに違いない。相変わらず末恐ろしい男だ。
「お前には、もっと広い世界を見せてやりたいと思ってる。世の中にはすげぇ野球をする奴がいっぱいいるんだって……」
「……栄純さん?」
「だから……うん、勝とう。甲子園で、日本一になろう。俺たちが日本一の黄金バッテリーなんだって、見せつけてやろうぜ」
 きっと今だけだ。
 聡明な彼はすぐに気づくことになる。投手は沢村だけじゃないのだと。だったら今のうちに、こいつは俺の自慢の捕手なんだと見せつけるくらい、いいだろう?
「栄純さん」
「ん?」
「左手、握ってもいいですか」
「いつもマッサージとかしてんじゃん。今更だろ」
 ほれ。
 そう無防備に伸ばした掌を、丁寧に握り締められる。ゆらゆらと揺らぐ瞳はその色も相まって、透き通った水面のようだ。
「俺が、貴方を日本一の投手にします」
 あまりにも自然に行われた口づけは、誓いの儀式のよう。否、今この瞬間だけは、紛れもなく想いを通わせた二人の愛の誓いであった。
 ずく、と心臓が疼く。鼓動が早い。なんて奴だ。こんなの反則だろう。この素直じゃない可愛い後輩が、こんなに質の悪い奴だなんて思わなかった。自覚したばかりの恋心に、この突拍子も無い接触は毒でしかなく、思わず沢村は右手で口元を覆う。
「……好きです。ずっと、ずっと好きです」
 至近距離にある整った顔は、依然として感情を読ませぬポーカーフェイスのまま。長い睫毛が陰を落とす双眸に射抜かれ、指先一つ動けなくなった。リップでも塗っているんじゃと思うくらいに鮮やかに色づいた唇が開閉する度、視線が引き寄せられて仕方ない。
「……なら、俺はお前を日本一の投手の女房にしねぇとな」
 徐に光舟の右手を取り、キスをする。
 目を見開き、驚いた顔が面白い。ぐらぐらと揺らぐ頭で光舟を見つめて、沢村は笑った。
 今なら死んでもいい。
 そう思えるくらい、幸せだった。


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