真夏の残滓

Ace of Diamond
 第三話 ある群青の喪失

 カァン、と響いた清々しい金属音。
 去年見た光景を彷彿とさせる、天高く弧を描いた白い影。嫌味なくらいに晴れ渡った群青を縦真っ二つに切り裂いて、白球がスタンドへ消えていく。
 わぁあああ!
 地鳴りのような観客の声が、聞こえる。寡黙な片岡の吠える声が、ベンチから響いた。日本で一番長い夏が幕を降ろし、グラウンドもベンチも揉みくちゃになっているのが見える。拳を天へ突き上げながら噛み締めるようにベースを踏む男の背中には、背番号『1』の文字が。その番号に込められた彼の想いや重責を思うと、一番若い番号である筈なのに、どの番号よりも重く感じた。
『ご覧のように二対一で、青道高校が勝ちました』
「アイツやりがった! 沢村ァー!」
「栄純くん!」
 淡々と会場に流れるアナウンスの声は、感極まっている選手たちには残念ながら聞こえていない。兎に角喜びが大き過ぎて、早く整列しなければと思ってはいるのに、皆興奮を持て余して泣きながら抱き合っていた。
 点差は一点差だった。なかなか点の入らない極端なくらいの投手戦。なんと十回裏まで両校共点が入らず、十一回表でついに相手にリードを許してしまった。それからやっとの思いで裏に一点取り返し、同点のままズルズルと引きずった十三回裏。最後の勝負を決めたのは、今までバッティングセンスの無さに苦しみ続けてきた我らが主将の放った、圧巻の単発ホームランだった。
「光舟!」
 眩しい笑顔が弾ける。
 マウンドでは、未だ何が起こったのかわからないといった顔をした、相手チームのエースが白球の消えた空を見上げていた。その姿が、去年の沢村と重なる。
「生きて帰ったぞ!」
 帰ってきて第一声が、それか。
 どこまでもムービングな彼に小さく笑い、光舟はマスクを放り投げると両手を広げた。
「栄純さん!」
 全力疾走で腕の中に舞い込んできた相棒を、力一杯抱き締める。二人に煽られたチームメイトたちが、どんどん二人の元へ突撃してくる。衝撃で背骨が痛みを訴えたが、そんな些細なことは何も気にならなかった。それよりも、勝利の余韻が強烈過ぎて。
 青道の――二人の、日本一長い夏が終わった。
 鮮やかな群青が頭上に広がる、快晴の空の下。泣きながら喜びを分かち合ったこの光景は、きっと一生忘れない。

 コンビニ行こうぜ。
 そう沢村から誘われて、光舟たちは夜の街を歩いている。青々とした草の生い茂る土手道からは、穏やかな虫の音が響いていて、会話のない二人の間に流れる空気を幾分か和らげてくれた。チカチカと点滅する切れかけの電灯には羽虫が群がり、時折バチっと音を立てては、文字通りその命を燃やしている。見慣れた風景はされど、前に見た時とは全く違う景色に様変わりしており、夏の終わりというものの影響力の強さを、まざまざと思い知らされるところとなった。節目に立つだけでこうも違うものなのか。感心すると共に、それを少しだけ恐ろしいとも思う。
「終わっちまったな」
「……はい」
 沢村から振られる会話にぽつり、ぽつりと言葉を返すが、そのどれもが長続きしない。
 寂しい、終わりたくない、ずっと一緒に白球を追い続けていたい。あれほど歓喜で満ち溢れていた心は、沢村の引退を意識し始めた途端に急激に冷めてしまって。自分でもコントロールが効かないところまで落ち着いてしまっていた。そして、そのことを目の前の男も気づいているのだろう。光舟から漂う哀愁に苦く笑いつつも、敢えて何気ない言葉を見繕って、気づかないフリをしているように思える。
「今まで、ありがとうな。お前のミットに投げるの、すげぇ楽しかった」
「いえ、俺の方こそ。栄純さんの投げるボールは色々な意味で、受け止め甲斐がありました」
「俺そんなノーコンじゃねぇだろ⁉」
「偶に荒れてたくせによく言いますよ」
「はは、やっぱ手厳しいなお前!」
 大口を開けて笑う彼を横目で見る。屈託無く笑うその存在が、こんなにも愛おしい。
 明日には沢村たちの学年は引退生用の寮に移ることになっている。棟が離れてしまえば滅多に会うことは叶わないし、こうしてゆっくり話すことも、少なくなってしまうだろう。それに、引退した先輩たちは後輩の士気を緩めないため、余程の理由が無ければ部内での接触は許されていない。十月に行われる国体に出場する者や、プロ志望や野球推薦での進路を考えている者なら、それなりの段取りを踏めば一緒に練習に参加することも可能だが、それでも一軍と同じグラウンドで練習することは禁止されている。
 夏を終える前と後とでは、こんなにも違う。一学年の違いというだけで、隔たりはこれほどまでに大きい。
「……」
 途端にしんみりした気持ちが押し寄せて、無言で俯く。すると、光舟の足取りが重くなったことを悟った沢村が、無駄に明るい声で言った。
「おやおや、寂しいのか狼少年? わっはっは! そうでしょうとも、そうでしょうとも! この大エース・沢村がいない青道は、静かだろうからなぁ。あ、でもその分外野の野次もなくなるのか。それは……いやいや、それを抜きにしてもだ! 例え薄情なお前でも寂しいに決まって――」
「寂しいですよ」
 二人同時に、歩んでいた足が止まる。
 人っ子一人いない夜の土手道。二人だけの世界に入り込んでしまったみたいに、辺りの音も、匂いも、温度も、何もかもが失せていく。色褪せた写真のような朧げな景色は、眼前の沢村だけが鮮やかに輝いていて、暗闇だというのにはっきりと、小さく驚いた彼の表情まで窺い知ることが出来た。
「寂しいに、決まってるでしょう」
 色んな感情を押し殺したような、我ながら酷い声だ。
「……そっか」
 再びこちらに背を向けてしまった沢村は、ゆっくりと歩き始める。ぶらぶらと無防備に揺れる彼の左手を、攫ってしまいたい。ふ、とそんな衝動が胸を過ぎった。
「……光舟?」
 これで、最後だ。
 豆が潰れて皮膚が硬くなった掌を、そっと握り締める。無邪気な笑顔の裏で、人知れず努力を積み重ねてきた男の手。この手から放たれるボールに焦がれ、自分はここまで走ってきた。自他共に認める不器用な男は、周りの支えが無ければ主将の重責に押しつぶされていたかも知れない。だが、上手く周りを巻き込んで、彼がチームを纏めてこれたのは偏に、この人自身に寄せられたチームメイトたちからの信頼と、血の滲むような努力に裏打ちされた実力への尊敬。そして、どうにも惹き込まれてしまう鮮烈な魅力があってこそ、成せる技だった。
「……一年の頃、俺は貴方に突っかかってばかりでしたけど……でも、ずっと貴方の球を受けてみたいと思ってた」
 気がつけば、普段なら絶対に口に出さないようなことを口走っていた。自分らしくないことをしている自覚はあれど、語る言葉は止まらない。矜持や恥よりも、気持ちを伝えたい。頭にあったのはそれだけで、そんな気持ちになること自体が、大事に囲ってきた箱庭の終焉を示す予兆であった。
「青道に入学するのを決めたのも、実は中三の時に見た秋大会で、栄純さんが登板しているのを見たのがきっかけです」
「……知ってた」
「あぁ、拓から聞きました?」
 半分予想していた言葉に、笑ってしまう。
 照れ臭そうに頭を掻いた沢村は、居心地悪そうに視線を彷徨わせると、こくんと小さく頷く。
「おう」
「そうですか……」
 そこからは、色んな話をした。
 寝惚けた沢村が、トイレから帰る時に光舟の部屋に入ってきたこと。体育でバレーをやることになり心配した光舟が、二年の体育教師に沢村を見学させるよう直談判しに行ったこと。片岡相手に入学して早々啖呵を切った沢村に続き、光舟までもが反抗したことで、陰ながら似た者夫婦なんて言われて結局三年間揶揄われ続けたこと。どれも大切で、温かい、宝物のような思い出ばかり。
「お前はさ、やっぱ俺と似てるよ。真っ直ぐで、コレ! って決めたら、もうそれしか見えないの」
 懐かしさに目を細めた沢村が、徐にそう言った。
 きっと、これから彼の話す内容こそ、本題なのだと漠然と察する。同時に、聞きたくないと思った。どうしてかはわからない。わからないが、この先を聞いたら深く傷つくことになる。そう本能が警鐘を鳴らして、無意識の内に心も身体も身構えていた。
「真っ直ぐなのはいいことだけど、それだと可能性は広がらない。俺は去年、それを思い知らされたんだ」
 ――思い知らされた。
 何を? 本当はわかっている。沢村は、御幸の引退のことを言っている。ずっと一直線に見つめていたあの大きなミットを、失った日のこと。それはきっと盲目的なまでにあの人しか見えていなかった当時の沢村にとって、何者にも変えがたい苦痛であったことだろう。
「失って初めて気づいた。俺の前には、いくつもの別れ道が用意されてるんだってことを。俺がどんだけ馬鹿みたいに一本道を走っていて、周りが見えていなかったかってことを」
「栄純さん……」
「馬鹿みたいだろ? 実際俺は救いようもないくらいの大馬鹿野郎だった。自分で道を選んだつもりになってイキがってたんだ。無知な俺は野球ってもんの奥深さも、本当の楽しさも全然見えちゃいなかった」
 やめろ。
 それ以上は、やめてくれ。
 切実に思う。何故、興奮冷め切らない夏大会翌日の晩に、わざわざ彼が自分を呼び出したのか。同室の後輩であり、同じ投手の後輩である浅田ではなく、光舟を選んだのか。コンビニに行くと言った割に、わざわざ遠回りをしてまでランニングコースの土手道を歩いているのか。
 聡明な光舟の思考回路は、彼が言わんとしていることの意図を、早くも弾き出してしまっている。
「あの頃の俺は、御幸先輩のミットしか見えていなかった」
「……っ」
「なぁ、光舟」
 こぷり。
 川のせせらぎの音が、逸る鼓動を鎮めんと場違いなほどにゆっくりと流れている。遠く向こうで魚の跳ねた水音が聞こえた。
「俺、卒業したらプロに行くよ」
 ガツン、と強烈な一打が、脳天を襲った。
「お前は、お前自身の道を見つけて、前を向いて走れ」
 贈るはずだった手向けの言葉は、あまりにも残酷で、痛烈な沢村の一言によって、ズタズタに切り刻まれてしまって。あまりのショックの大きさに、その日の晩どうやって光舟たちが寮に帰ってきたのかさえ、正直なところあまり覚えていなかった。
 翌日、引退生たちの引越しを見送った光舟は、監督の部屋に呼び出された。薄々何の話をされるのかは察していて、頻りに心は行きたくないと泣き叫んでいたけれど。そういうわけにもいかず、年季の入った監督室の扉を開ける。情けないことにその手が小刻みに震えていたのを、はっきりと覚えている。
「奥村、覚悟は決まったか?」
 そして、冷静な監督の目を見て、腹を括った。
 あの人が任せてくれた、この大役。精々全うしてやろうじゃないか。好戦的な色が色素の薄い双眸に浮かび上がるのを見て、片岡の隣に座る太田が安堵の息を漏らす。
「お前に、主将を任せようと思う」
 ――三年生の総意として、光舟が主将を引き継ぐことが正式に決まった。
 副主将には由井と結城が抜擢され、本格的に新チームは始動していくこととなる。まだ、夏の名残を残した八月下旬。一新された青道野球部に、あの夏の日差しを思わせるエースナンバーを背負う人は何処にもいない。
 青道のイメージカラーである群青。
 清々しい青が一番似合っていた光舟の唯一人のエースは、後日晴れ晴れとした表情でプロ志願届けを出しにきたのだと、いつになく嬉しそうな顔をした高島から聞いた。

 *

 二度目の春が来た。
 別離の日だ。門出を祝う声を胸に、それぞれの生徒が旅立ちの時を迎える。
「沢村せんぱーい! 写真撮ってください!」
「ちょっと待ってなー!」
「沢村ァ! サッカー部で撮るからお前も来いよ」
「いやいや、何でだよ!」
「沢村くーん! 次はこっちね!」
 一年の頃は卒業式には参加出来なかった。青道高校の卒業式は全校生徒の人数が多いことから、代々一年生の一部(吹奏楽部や放送部といった、式典に関係する部に所属する生徒)と二年生、それから卒業生たちだけの参加と決まっている。初めて参加した卒業式は、思っていたよりも義務的に進んでいき、寧ろ式の終わった後のHRや、部活動ごとの送別会が本命な節があった。
「卒業おめでとうございます!」
「おう! さんきゅ!」
 最後まで、沢村は笑っていた。
 先輩たちの卒業を彩るために、部活を中止してまで運動部に所属する部員が総出で仕上げた、門出の舞台。その舞台に卒業生一同が整列している時も、式が終わり、これでもかと女子生徒たちから囲まれていた時も、部のラストミーティングの時も、ずっと笑顔を絶やさなかった。かと言って、無理をしているわけではなさそうなので、ただ純粋に己の新たなる一歩を踏み出す瞬間を喜んでいるのだろう。いつだって前向きな沢村の姿はやはり、彼の背を見て育ってきた後輩にとっては尊敬して然るべきもので。改めて、彼という存在の大きさを実感した。
「ボタン全部毟り取られちまってさ〜。いやー、女子って怖えなって、足震えたわ」
 大仰に身震いしてみせる沢村の制服には、ボタンは一つも残されていない。それを残念な思いで見つめていると、隣に立つ瀬戸がこっそりと肘で小突いてくる。
「んだよ、自慢かよ」
 沢村の言葉に触発された金丸が、いつものように喧嘩腰で突っかかった。
「またまたぁ、そんなこと言ってカネマールくん。君だって吹奏楽部の女の子に第二ボタン求められてたじゃありやせんかぁ」
「うるせえわ! その喋り方腹立つからヤメロっての!」
「案外隅に置けないムッツリスケベだよな、おま……て、いだ! いったぁー! おい! 痛いって! ギブ! ギブギブ……まじでっ!」
 このやり取りも今日で見納めか。そう思うと、寂しいような、仲の良さを見せつけられずに済んで安堵するような。そう思っているのは光舟だけではなさそうで、取っ組み合いの喧嘩に発展した二人を、周囲の者たちは温かい目で見守っていた。瀬戸に至っては「最後の最後までブレねぇなこの人ら!」なんて言いながら爆笑している。
 賑やかなひと時はそれだけ終わるのが惜しく思えて。あと一時間後には部活が始まる、という時間になり、ようやく沢村たちは校門に向けて歩き出した。
「あ、光舟!」
 彼らの最後の学生姿を目に焼き付けようとしていたその時、唐突に振り返った沢村が、光舟の名を呼び手招きしてくる。
「早く! こっち!」
 言われるがままに駆け寄ると、有無も言わさず「手を出せ」と言われた。おずおずと訝しげに右手を差し出すと、コロン、と軽い何かが掌の上に転がる。
「……っ! これ、」
「死守しといた。やっぱ俺の心臓は、女房に預けとかねぇとな」
 涙が出た。
 卒業式でも泣かなかった。今日初めて流した涙だった。
「頑張れよ」
 これほどに手離したくないと思ったものが、今まであっただろうか。否、これから先二度と、彼以上にそう思えるものは現れないに違いない。そう確信するほどに大切で、大好きで、欠け替えの無い人だった。
 プロの世界に挑戦すると決めた沢村は、以来ずっとあのマウンドで見たような激しい熱を、瞳に宿し続けている。絶対にやってやる。そんな覚悟が見ているこちらにも伝わってくるような、気迫が感じられた。そんな彼が突き進む道は、果たしてどんな景色が広がっているのだろう。気にはなるが、彼と同じ道を追いかけるのではなく、自分で掴み取った道に広がる景色がどんなものなのかを、知りたいと思った。
 あの、深い傷を負った夜からずっと考え続けていたことが、ある。
 光舟はずっと、沢村の球を受け止めることしか考えていなかった。嘗て失望すら覚えた野球という競技の意義を変えてくれた彼が、光舟の野球のすべてだった。
 それは一種の依存とも言えた。信仰にも等しい沢村への思慕。きっとこのままでは、己の道は狭まり、沢村の言っていた『野球の本当の楽しさ』を知ることのないまま――知る必要性すら感じられないまま、光舟の野球人生は終わっていただろう。しかし、それを良しとせず、更なる可能性に挑む道を突きつけてくれたのも、他でもない沢村だった。
「……好きです」
 沢村にだけ聞こえるような声量で、告げる。
 やはり拒絶はされなかった。その返事の代わりに、彼の左手が光舟の頰にあてがわれ、そっと涙を拭い去ってくれる。
「……ありがとう」
 頰の熱が遠ざかった。
 名残惜しい、夏の残滓のような熱が。あれほど焦がれた存在が、遠くにいってしまう。今すぐ追いかけたい。愚かにもそんな不毛なことを考え始めた頭に、理性が必死に待ったをかけた。
 校門の前では、光舟たちの別れを見守っていた金丸たちが、何気ない談笑をしながら立っている。東条、金丸、小湊、降谷……共に野球に打ち込んできた尊敬する先輩たち全員が、沢村が帰ってくるのを待っていた。この人の居場所は、もう青道のグラウンドにはない。あの門の外側にある。そのことを、実感させられた瞬間は胸が痛かったけれど。それ以上に、いつか自分もそこへ辿り着いてやると、鼓舞される気持ちの方が強かった。
「栄純さん」
 前を向いて走れ、と。沢村は言った。
 己の道を見つけろと、自分ばかりを追うのではなく、他にも目を向けてみろ、と。率直に言われた言葉は、沢村の目論見通り鋭利に心に突き刺さって、一時は気持ちが潰えそうになった。しかし、嫌われて、トラウマになってしまえばいい。真っ直ぐなストレートの裏に、そんな思いが見え隠れしているのに気づいたから。だから、ちゃんと向き合うことが出来たのだ。
 一つだけ、彼の誤算がある。
 それは、光舟の想いの強さだ。中三で彼を見つけてから追いかけ続けてきたこの執念と諦めの悪さを、彼は見誤っている。
「首を洗って待っていてください」
 貴方と同じ舞台に、すぐに立ってみせる。
 彼の付けた足跡を辿るのではない。自分なりの道を見つけて、その上で最短距離で辿り着いてみせる。彼と、いつか同じ景色を見るために。
「貴方の隣は、俺のものですから」
 いつか、と願っていた。
 届かない晴天の青空に手を伸ばしながら、必死に太陽を求めた。美しい透明な瓶に閉じ込められた貴方を見つけたあの瞬間から、誰も知らない至極の玉を手中に収めたいと、友に『不毛』と言われるほどに求め続けて。近づいては離れ、離れては近づいて、一定の距離を保ちながらも手を取り合い、夏を駆け抜けた。
 貴方の唯一無二の『捕手』になりたい。その想いは昔から何一つ変わっていない。でも今は、それだけでは飽き足らず、相棒として、パートナーとして、彼の隣に立ちたいと思っている。我ながら貪欲で、苦笑してしまうほどに、切に。
「ふは! わかった! 待ってる! その約束、絶対忘れんなよ!」
 夏はいなくなってしまった。
 蝉の声はもう聞こえない。青々と茂っていた草木は、辺り一面を覆う薄桃色の花弁へと移り変わり、湿り気を帯びた温い空気は涼やかなものとなった。肌触りのいい風が、何処かから甘やかな香りを運んでくる。
「じゃあな!」
 愛しい人は、遂に校門を越えた。
 振り返ることはしない。彼は今も昔も、良くも悪くも前しか見ない人だから。そんな彼の背中に、光舟は惚れたのだ。
「光舟ー! 部活行くぞ!」
「……あぁ」
 あと三十分も経てば、光舟たちの野球が始まる。
 さぁ、また走り出そうじゃないか。馬鹿みたいに直向きに、一直線に。
 来るべき夏を越えた先にある、あの背中へと繋がる道を。

 *

 六畳一間の1K、球団に与えられた独身寮。そこが、新しい沢村の城だ。
 プロの世界に入り一ヶ月。厳しい現実に打ちのめされそうになりながらも、実力のある選手たちと共にする野球はまた格別で、毎日が充実している。一年目は二軍からスタートになるが、今のところ沢村の調子は絶好調で、このまま順調に行くと半年程で一軍の練習に合流することになるだろう。それは、二軍を監督している田辺コーチから、直々に言われていることであり、沢村自身感じている手応えを思えば、当然の結果であった。
 所謂『褒美をぶら下げられた馬』のような状態に目一杯やる気を燃やしている己は、心底単純だなぁと思う。けれど、やはり一軍に早く上がりたい気持ちは強く、その時が待ち遠しかった。試合に出る出ないは別として、一軍の練習は参加するだけで与えられる刺激が違う。勿論、二軍の練習が物足りないというわけではないが……兎にも角にも、一軍選手に囲まれて練習するという環境に、それだけの価値がある。だからこそ尚更、昇進したい気持ちは大きかった。
「あー! いたいた、さーむらぁ〜」
 突然ドアを開けて入ってきたのは、プロとなってからチームメイトとなった、元稲実のエース・成宮鳴だ。プライバシーは何処に。思わずそう呟いてしまいたくなるほどの横暴っぷりは、社会人の荒波に揉まれた今となっても健在である。実は連絡先を交換して個人的に遊んだりもしていた同学年の元稲実の正捕手・樹からも、愚痴混じりに散々聞き及んでいた通りの我儘っぷりに、早くも泣きを入れさせられたのは、記憶に新しい。
「げぇ! 白アタマ! 何しに来た!」
 警戒心剥き出しの沢村が吠える。
「おっと? 最年少一軍入りのこの鳴様に向かって、随分な口の利き方じゃん。く・そ・が・き!」
 それを面白そうに見た成宮は、獲物に狙いを定めた猫のように目を細めた。
「あだー! そこ首! くび! やばいって、死ぬ!」
 気まぐれなこの男は偶に沢村の寮室にやって来ては、散々構い倒して帰っていく。曰く、溜め込んだストレスのいい吐け口、なんだとか。人をサンドバックか何かと勘違いしている先輩に何も言えないのは、決して彼にビビっているからではない。社会人となり縦の序列の厳しさを知った、沢村の処世術だった。
(くっそー、コイツ実力はあるから尚更悔しいんだよな!)
 ぎりぎりと奥歯を噛み締めながら、楽しそうに声を上げて笑う金髪青目の美青年を睨みつける。同じ金髪青目の美青年でも、あの可愛らしい後輩とはえらい違いだ。そんなことを思いながら、無駄に強い力を籠められた腕の中で踠いた。そして、足掻いたところでビクともしない逞しい腕が、一層の悔しさを掻き立てる。
「この沢村は大人ですからね! 後輩いびりにだって何も言わず、耐え抜いてみせますとも!」
 胸を張って言ってのける。あ、要らない事を言ったかも知れない。ギラ、と不穏な光を目に宿した成宮に、ちょっとだけ及び腰になったのは秘密だ。
「あっそ。沢村のくせになっまいきぃ〜」
「ひぇっ! く、擽るのは反則っすよー! ぶはは!」
「鳴、ほどほどにしとけよ」
「あ、御幸ぃ〜! 助けて!」
「おい、呼び捨て。俺、先輩ね」
 沢村たちの騒ぎに仲裁に入ったのは、そう、何を隠そう高校時代にバッテリーを組んでいた御幸その人だった。実は、なんと御幸も同じチームになったのだ。
 まさかの甲子園を経験した西東京の天才投手・捕手の最強バッテリーを、一位・二位指名で根こそぎ奪っていったウチの監督は、周りに妬まれながらも飄々とした顔で、更に三位指名で沢村を獲得した(ちなみに沢村の代の一位指名は轟雷市だ)。噂によると、偉い人から臨時ボーナスが出たのだとか、出なかったとか。プロチームの諸事情はよくわからない沢村であるが、今回のことはそうあることではなく。監督の運の強さが尋常じゃないのは、何となく察せられるところである。
「それよりお前、一軍のキャンプ入りがチラつかせられてるからって調子に乗ってなーい?」
 にやにやと意地の悪い笑みを見せる成宮に、嫌な予感が過ぎる。
「んな! 何故それを!」
「そんなお前の鼻っ柱をバッキバキに折ってやるために、この鳴様直々に引導を渡してやろうと思って、わざわざこのむさくて狭苦しい部屋に遊びに来てやったってわけ」
「インドォー⁉ 俺まだまだここでやってくつもりっすよ⁉ 勝手に辞める人扱いしないでくだせえ、て、技掛けようとすんなァー!」
「はいはい、お前ら迷惑だから。沢村、さっさと支度しろ」
 すかさず噛み付けば呆れた顔をした御幸に首根っこを掴まれ、沢村は無理矢理服を着替えさせられた。ついでにあれよあれよという間に髪もセットされ、余所行きの格好に仕上げられる。甲斐甲斐しく世話を焼く御幸は高校時代とまったく変わっていなくて、懐かしい気持ちが胸を満たす。同時に光舟と過ごした時間のことも思い出され、心臓が軋んだ。
「行くぞ」
 余計な考えを振り切り、目の前のことに集中する。
 何だというのだ、まったく。部屋で寛いでいたというのに。しかし、そんな沢村の疑問は、数分後に呆気なく解決することとなる。それも、予想もつかない方向で。
「え、雑誌取材⁉」
 着飾った沢村たちを待ち構えていたのは、プロに入りよく目にするようになった撮影機材だった。ご丁寧に三人分の椅子まで用意されていて、その前にはインタビュアであろう美人な女性記者が座り、ノートを読み込んでいる。
「ぷぷぷーっ! ダサい反応! 取材慣れしてないのバレバレだね、沢村」
「う、うるせー! です!」
「……頼むから静かにしろよお前ら」
 取材内容は、プロとしての意気込みと、西東京で名の知られた三人が揃ったことへの感想、らしい。恐らく後者が本命と思われる取材の話が沢村に伝わっていなかったのは、丁度今沢村の身体が空いていることを知ったプロデューサーが、是非沢村選手も一緒に! と言い出し、急遽沢村の出番が決まったからだそうだ。生まれて初めて受けた雑誌取材はそれなりに緊張したが、本番に入る前に簡単な打ち合わせをした後で、存外順調に和気藹々と進められていった。
 可愛らしい雰囲気の女性記者さんだったのだけれど、昔は男に混じって野球をしていた根っからの体育会系だったみたいで、そんなに意識せずに話せたのが大きい。
「御幸選手と沢村選手は高校時代からバッテリーを組まれていて、当時は青道高校を甲子園に導いた《黄金バッテリー》なんて言われてましたよね! やはり、同じチームになることが決まった時は、色々思うところがあったのではありませんか?」
「え……」
 黄金バッテリー。
 何気なく言われたのであろう、それ。きっと御幸と二人でバッテリーを組んでいたあの頃の沢村だったら、全力の笑顔で嬉々として御幸とのバッテリーについての想いを語ったことだろう。しかし、今となってはそれは『違う』と、心の奥底で否定している自分がいる。
(……なんで、)
 御幸とのバッテリーは確かに特別だ。沢村は御幸に球を受けて欲しくて、青道高校への進学を決めた。御幸が載った雑誌は全部チェックしたし、彼に受けてもらうために青道のエースになろうと誓った。青春の殆どを御幸を追いかけることに費やしたような二年間だった。だが、それでも《黄金バッテリー》と呼ばれるのは何かが違うのだと、心が叫んでいる。本当なら、舞い上がるほど嬉しい言葉の筈なのに。
 18.44メートル先に座る相棒が、マウンドに立つ沢村を見つめる。
『栄純さん』
 キャッチャーマスクから覗く瞳の色は、熱に茹る――青。
「……沢村?」
 心配そうな声色を有した御幸が、俯いた沢村の顔を覗き込む。
 縋るような響きだった。見てはいけないものを見てしまったような、戸惑いを隠せない表情。いつも飄々とした、感情を悟らせない仮面を張り付け続けているような男がしたとは思えないほど、今の御幸の顔は雄弁に彼の心情を語っている。
「あ、すいやせん。えっと……」
 そこからは何を話したのか覚えていない。きっと適当な言葉を見繕って、へらへらと笑ってその場を凌いだのだと思う。インタビュアの女性記者は特段不審に思うことなく、すんなりと取材は終わった。ただ、取材が終わった時に言われた「捨て犬みたいな顔してんじゃないよ」という成宮の言葉が、ずっと小骨が喉に突き刺さっているかの如く、思考の片隅に引っ掛かっている。
 多分、あの言葉は沢村に向けられただけでなく、御幸のことも指していたのだ。その証拠に、成宮は去り際に御幸の肩を叩くと、何らかの言葉を耳元で囁いた。それは、慰めの言葉であったのかも知れないし、いつものような揶揄い混じりの軽口だったのかも知れない。わからないけれど、成宮の言葉を耳にしてから御幸は目の色を変えて、沢村を見た。
 それは彼が主将であった頃によく見せた、しょうがねぇな、という目だった。
「御幸先輩、あのさ」
 凪いだ目をした、ずっと憧れ続けてきた男の背に、声を掛ける。
 振り返った御幸は、先程までの不安定な顔をあっという間に隠してしまっていて、代わりに穏やかな笑みを浮かべていた。それが沢村を揶揄う時の人を食ったような笑みではないことに、彼がそれだけ感情の乱れを抑え込むことに必死であることが察せられる。そんな顔をさせてしまったことに罪悪感を抱きつつも、ここで逃げてはいけないと理解していたから、昔と同じように真正面から向き合った。
 あぁ、懐かしい。この、全力でぶつかっていく感じ。
「俺、アンタのこともちゃんと特別だよ」
 完璧な仮面が綻びを露にする。軽く瞠られたハシバミ色の双眸には驚きの色が揺らいでおり、真剣な顔をした沢村をはっきりと映していた。
「ずっと、御幸先輩のミットばっかしか見てこなかったから、俺は知らなかったんだ。あんな、受けて貰う度に身体が熱くなって、興奮して、もっともっと投げたいって思える奴が、アンタ以外にもいるんだってこと」
 御幸のミットは、誰のものよりも大きく見えて、そこにあるだけで沢村の中の《特別》を陣取る。どっちの方がいいとか、そういう話じゃない。ただ、アイツじゃないとダメ。そんなところが、御幸にもあるか、無いか。それだけの違いだった。
「……沢村」
「捕手としてなら、御幸先輩と光舟は同じくらいに特別で、大切なんだ。でも……何て言うか、俺、馬鹿だから上手く言えねぇんだけど……光舟は、捕手としてだけじゃなくて、それ以上も欲しいって、初めて思えた奴だから、その……」
「わかったって。もういいよ。だから、そんな顔すんな」
 ともすれば沢村よりも痛そうな顔をした御幸が、そっと沢村の頭を撫でる。
 昔からの御幸の癖だった。沢村に対して、どう接したらわからない時や、不安になった時。御幸は手持ち無沙汰の掌を、無意識の内に沢村の頭へあてがう。そのまま乱雑にわしゃわしゃと掻き回すときは、宥める時。ぽん、ぽん、と軽く叩く時は、我慢しろの合図。それから、そっと毛並みを整えるように撫でるのは――。
「お前も、色んな景色を見てきたんだな。んで、知っちまったんだな」
「……ん」
「ていうか、こんな彼氏と彼女みたいなこっ恥ずかしい会話、聞かれてたらどうすんの? お前とゴシップの記事に載るとか勘弁だわ。あと、お前の今の顔、プロにあるまじきぶっさいくな顔になってるぞ」
 不器用な慰めが、身に染みた。
 どうしたらいいのかわからなかったから。いっそそうやって軽口を叩いてくれる方が有難い。
「あはは、俺はどんな顔をしていても男前なんっすよ!」
「うっわ、生意気〜」
 なぁ、御幸。
 アンタが思っている以上に、俺はアンタのことを尊敬してるし、特別だと思ってる。
 全部、言い訳にしか聞こえないんだろうけど。でも、御幸にとっての『投手』が大勢いるように、俺にも『捕手』は沢山いて、その中でも特別だと感じたのは御幸と、アイツで。そして『捕手』以上の何かが欲しいと、手を伸ばしたのは、アイツが、光舟が、
 ――最初で最後だったんだ。
「あ、お前さぁ」
 さっさと告るなら告れよ。
 そんな爆弾発言を残して、意地の悪い先輩は沢村を置き去りにする。そこでようやく、沢村は自分が死ぬほど恥ずかしいことを言っていたことを、自覚したのだった。
「あーっ! 御幸ぃー!」
「うるせっ! あと俺、先輩!」
「秘密で! 後生だから秘密にしてつかぁさい! 特に鳴さんには絶対言わないで!」


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