真夏の残滓

Ace of Diamond
 第四話 蜃気楼の向こう側

 高らかなラッパの音色が、グラウンドに響き渡った。
 内臓を揺さぶる太鼓の雄叫び。空気を染め上げる一拍のズレも無い、演奏家たちの指先から放たれる魂の声。熱が立ち込めた歴史ある試合場には五万人もの人が押し寄せ、すし詰め状態となっていた。そして、点が入るたびに沸く大音量のどよめきや歓声が、更に試合を盛り上げていく。
『えっさえっさー!』
『エッサエッサー!』
『あげあげほいほい!』
『アゲアゲホイホイ!』
 止まることの知らない音楽が、そこに流れていた。食うか食われるかの世界。三年間続けてきた野球人生が、ここで終わるか終わらないかの瀬戸際。互いに一分の隙も許されない闘いに、人は魅了され、自然と目で追いかける。終わる瞬間はあっという間で、コンマ数秒での違いが勝敗の決定打となり、マスクを被った審判はいつだって公平に残酷なジャッジを下す。
 阪神甲子園球場。全国高等学校野球選手権大会、準々決勝。ベスト4進出を決める白熱した闘いが、そこで行われていた。
「奥村くん!」
「大丈夫。浅田、いつものリズムを忘れないで。俺のリードを信じてくれたらいい。そうしたら、勝てる」
 一点のリードを相手に許した状況下、ここを凌げば逆転が見えてくる。そんな場面だった。一年の頃は線が細く、頼りない印象の強かった浅田も、この三年間揉まれたことで見違えるほど逞しくなっていた。そう簡単に揺らぐ質ではないとわかってはいたけれど、ツーアウト二塁のタイミングで念のためタイムを取る。
 浅田は笑っていた。わざわざタイムを取るまでも無かったのに。そう言い切った彼の顔は、負けているとは思えないくらいに落ち着いており、全幅の信頼を光舟へ向けてくれているのを感じる。不思議と、光舟は負ける気がしなかった。追っているのは自分たちなのに、焦りも、不安な気持ちも、何もない。自分たちのプレーをすれば次のステージへ進める。当たり前のように前しか見えなかった。
「……よし、行こう」
 時刻は正午。真夏の太陽が真上に位置するグラウンドは、酷く熱い。せっかく試合前に湿らせた土も、あっという間に乾いてしまっていた。相手は大阪の強豪で、今大会で放ったホームラン数は早々に歴代の最高記録を更新したらしい。強烈な打線と手堅い投球に定評のある、派手さは欠くが安定性抜群のピッチャーが特徴的な高校だった。
 沢村は、光舟たちの闘いを何処かで見守ってくれているのだろうか。不意に、そんなことを思う。
(次のバッターは例の投手だ。継投で球数は抑えられているとはいえ、この暑さの連戦でそれなりに疲労してるはず。今まで見てきた限りだと内角に苦手意識があるようだし、ここは一度外側に外してみても……)
 選択は決まった。サインを送る。光舟の意図が伝わった浅田は一つ頷くと、普段穏やかなその目をギラリと輝かせた。
 くる。
 爆音で流れるブラスバンドの音色にも負けない。キャッチャーミットにボールが収まる音が、戦の始まりを告げる法螺貝の如く会場に響いた。反撃の狼煙は上がった。ますますボルテージを上げていく観客たちの歓声につられて、依然として空に君臨する太陽の日差しも強まる。
 ふとその時、焼け焦げた匂いが、鼻腔を掠めた。
 擦り切れそうなほど集中力の限界に達した光舟の瞳に、土煙の奥で笑う彼の姿がちらつく。
『アウト!』
 わぁっ!
 不安定に揺らぐ陽炎。空中を揺蕩う幻影は、確かにあの人の形をしていた。

 *

『ここで十八番沢村への継投。オープン戦初登板となる彼は、今日は何を観せてくれるのでしょうか』
『この前のハプニング、笑っちゃいけないけど笑ってしまいましたよねえ』
『いやぁー、外野守備中のあの派手な転倒……あれはある意味スタンドが湧きました』
『あれを笑いに変えてしまう沢村選手がすごい!』
『愛ある野次もいくつか飛んでいましたが……それもご本人の魅力あってのことでしょう!』
 箱の中の実況は、今日も好き勝手言っている。
 ついに始まった二月のオープン戦。先発としては初登板となる沢村のチームの試合は、青道高校野球部の引退生たちが見守る中、粛々と始められた。爛々と目を輝かせた沢村の正面でキャッチャーマスクを被っているのは、相変わらず底意地悪そうな笑みを湛えている御幸だ。元青道バッテリーの復活ということもあり、おお! と部員たちが興奮気味に声を上げたのは、致し方ないことだと思う。また、感慨深く息を吐いた面々の中に、片岡と落合、太田、高島という、監督者たちが勢揃いしていることには触れた方がいいのか、触れない方がいいのか。十中八九後者だろうと早々に結論づけた光舟は、カオスと化したこの状況を放置して、目の前の試合を楽しむことに集中した。
(愛されてますね、栄純さん……まったく、あの人誑しめ)
 これは余談だが、応援しているメンバーの中に瀬戸や由井を筆頭とした、沢村が何かやらかしてくれるのではないかと期待している面々が混ざっているのには、とりあえず見ないふりをする。そして暫く、光舟たちがひやひやと画面を眺めていると、爽快な金属音が響き会場が沸いた。
『さて、バッティングに苦手意識があるとの沢村選手ですが、この局面どう切り抜け……打ったぁー! 五回裏、ツーベースヒット! これは良い当たりだ!』
「流石沢村くんね!」
 何故か胸を張った高島が、自慢気に眼鏡の位置を正す。
「沢村が、あの沢村が……片岡監督〜……」
 感極まって半泣きになっているのは太田だ。その隣で厳しい表情のまま画面を睨み続ける片岡を、周りの部員たちはごくりと息を呑み見つめる。得も言われぬ緊張感が辺りに立ち込める中、人相の悪い我らが監督は不安定な椅子をギシッと軋ませて居住まいを正すと、ギラついた瞳をそのままに不敵な笑みを浮かべた。
「……ふん」
『孫の初打席を見守ったような心境でした……良かったな沢村ァ!』
 ここは野球好きなおっさんの集まる居酒屋か何かか。
 思わず心の中でそうツッコんだのは、光舟だけではないと思いたい。何かを言いたげな顔をしている浅田と目が合い、自分だけでは無かったのだと安心したのも束の間。彼はニヤニヤと笑う由井に肩を組まれて、何処かへ引き摺られていった。笑いを耐え過ぎて涙目の瀬戸と共に。きっと連れて行かれた先では沢村と同室時代の珍エピソードでも根掘り葉掘り聞かれるのだろう。妙な慕われ方をしている沢村も、格好のターゲットとなった浅田も、両者共にご愁傷様である。
「成長したなぁ、沢村」
 感慨深そうにそう呟いたのは、それまで試合を黙って見守っていた落合だ。思わず、といったように吐き出された言葉を、光舟はもう一度自分の頭の中で反芻する。
 プロになった沢村は、苦手意識の強かったバッティングを何とか克服し、投球も更に磨きが掛かっていた。身体つきも無駄な肉が削ぎ落とされ、引き締まったと一目で分かる程に変化している。そして、その裏には現チームでバッテリーを組む御幸の影が見え隠れしていて、理不尽だと我ながら理解はしていても、不快に思うのが正直なところだった。とはいえ沢村の今季は文句無しの絶好調といえよう。よくここまで沢村を仕上げてくれたという感謝の気持ちは勿論ある。それでも、やはり沢村の成長をこの手で支えられなかったという現実は、光舟の胸にやたらと重くのし掛かってきて。どうにもならない感情を持て余している自分が、昔から何一つ成長していないみたいでつくづく嫌気がさした。
「奥村、お前は進学組だったな」
 握り締められた拳に気づいたのか。
 結城が画面に視線を向けたまま、光舟に話し掛ける。
「……あぁ」
「そうか。お前はてっきり、沢村さんを追い掛けるものだと思っていた」
 何とも言えない空気が、二人の間に降りてきた。互いに口を開こうとしない状況は、緊張はあるものの険悪というわけではない。
 結城が疑問に思うのも最もであった。今までの光舟は、周りから見てもわかりやすく沢村を追い掛けていたし、光舟自身も自分がまさか沢村の待つプロではなく、大学野球の道に進むとは思っていなかった――その意識が決定的に変わったきっかけは、先日とあるテレビ局から光舟に手渡しされた、非公開映像の収録されたDVDを見てからだ。
「将司の言っていることは間違ってない。俺の決断の裏には、必ずあの人の存在があるから」
 言葉通りの意味である。彼の球をより多く受け止めていくために、今の自分が出来ること。それを考えた結果の進路が、大学で野球をすることだった。
 青道を卒業した後にそのままプロへの道を進む者は少なくない。特に、光舟の世代は甲子園を三度経験している。三度目は優勝こそ逃したものの、ベスト4の好成績を残したチームの、それも一軍メンバー。華やかな実績を経たダイヤの原石たちは、皆何処かしらから推薦の話やプロチームのスカウトから声を掛けられていた。それはスタメンマスクを被っていた光舟も例外なく……寧ろチームの中では多い方だったろう。そんな状況にも関わらず大学進学を選んだことは、結城だけでなく様々な方面に驚愕と戸惑いをもたらした。
「ふ、やはりお前は真っ直ぐな男だな。沢村さんに似てるよ」
 絶対に曲げないという光舟の頑固さを感じ取った結城が、小さく笑う。彼は高校を卒業したらプロになるのだと聞いている。一足先にプロの世界へ足を踏み入れた兄の背中を追うために。
 皆、それぞれの想いを胸に秘めながら、着実に一歩を踏み出していた。結城のようにプロへの道を選んだ者、光舟のように大学野球を選んだ者、門出を機に別の道へと進むため、小中高と続けてきた野球人生に幕を下ろす者。彼らの選択は、その根底に揺らぐことのない信念が、そこに在る。これから先、光舟の仲間たちはそれぞれ自身の決めたフィールドで何かしらと戦うことになり、同じゴール地点を見ることは二度とないのかも知れない。共に走り、汗を流し、涙し、喜びを分かち合った、戦友のようなもの。例えもう共に白球を追うことはなくなっても、それだけは一生変わることはないに違いない。それは確信だった。
「大学卒業の時にはこちら側に来るんだろう? またお前たちのバッテリーとやり合えるのを楽しみにしている」
「将司、」
「あぁ、そうか……ドラフトもあるしどのチームに所属するかはわからない筈なのにな。何故だか奥村は沢村さんとバッテリーを組んでる姿しか想像がつかない」
 お互い、悔いのないようにしよう。
 最後にそう行って、結城は背を翻した。どうやら沢村の試合よりも腹を満たすことを優先したらしい。思えばもう夕食の時間か。そろそろ練習を終えた後輩たちが、疲れた身体を引きずりながら帰ってくる頃だろう。彼らと鉢合わせる前に潔く姿を眩ませたのは、マイペースで天然な彼らしいというか、何というか。好きなことを好きなだけ宣って、あっさり去っていく姿は、次男としての強かさが伺い見えた。
『奥村は沢村さんとバッテリーを組んでいる姿しか想像がつかない』
 その言葉に、柄にもなく浮き足立ってしまった。
 本当に、そうなるといいのに。しかし警戒心の強い己の心は、期待はするなとすかさず上から抑圧してくる。
「プロ、か」
 強い相手と戦うことは楽しい。そして、願わくば共に闘うのは、あの人であって欲しい。
 わあぁ!
 またテレビ画面の中が沸いた。立ち上がって拳を握る中年の実況と、頭を抱えて信じられないといった顔をするコメンテーター。次にゆっくりとベースを回遊する、したり顔の御幸が映し出され、沢村の間抜け面がアップですっぱ抜かれた。あれ程口を酸っぱくして顔に出すなと言ったのに、あの人は。テレビに映るプロとしての自覚が足りないと、今度会った時に説教することをこっそり腹に決めた。
『それでは、まずは本日の勝利の立役者・読日タイタンズの御幸一也選手に、話を聞いてみましょう! 今日は先発としては初登板となりました沢村選手ですが、如何でしたか!』
 場面は変わり、試合後のヒーローインタビュー。興奮覚め切らない様子の空気の中、無人となったホームベース付近に姿を現したのは、やはり御幸と沢村の二人であった。慣れたように淡々とした受け答えをする御幸と、明らかに慣れておらず目が泳いでいる沢村の対比が面白い。
『相変わらず馬鹿みたいに俺を信じて投げ込んでくるので、これは期待を裏切れないなと気が引き締まりました』
『馬鹿みたいって! 御幸……センパイの方が、俺のリードにゼッタイフクジュウって感じの悪人ヅラしてたんじゃないっすか! あれは脅しっすよ脅し!』
『はっはっは、馬鹿がバレるから、お前はちょーっと静かにしてような』
 まるで漫才のような会話を聞き、楽しそうに声を上げたインタビュアは、尚も質問を続ける。
『ファンの皆さんは青道高校黄金バッテリーの復活と盛り上がっていたようですが、やはり何か思うところはあったのではありませんか?』
 黄金バッテリー。
 その言葉に、光舟の中の仄暗い何かが首を擡げた。テレビに映る沢村の顔が、一瞬強張ったように見えたのは、自分の作り出した都合のいい幻か。本物であることを願う自分から目を逸らして、いつの間にか戻ってきていた浅田たちの方を見た。浅田の後ろに立つ瀬戸が、やけに真剣な顔で画面を見つめている。
『嬉しかったですよ、そりゃ。懐かしいとも思いましたね。何しろ今日は無事沢村と一緒に勝ててよかったです。コイツ、ちょっといい事があるとすぐ浮かれてやらかすんで』
『なっ! そんなことないっす! いつだって冷静且つ熱い漢・沢村は、これしきのことでそう簡単に浮かれたりは……むがっ!』
『はいはい、静かにしてようねー』
 調子に乗るなよー!
 御幸ぃ! もっとちゃんと躾しろ!
 笑い声と愉快な野次の飛び交うインタビューが終わる。カメラのアングルは徐々に引かれていき、二人肩を並べて更衣室へと向かう御幸と沢村が、スポンサーのテロップと共に映し出された。
 去り際、唐突に振り向いたテレビの中の沢村と目が合う。とろり、と溶けてしまいそうな、試合後特有の熱を宿す黄金色に、情欲が疼いた。
 救いようがない。
 心底忌々しい痛みを携え、光舟もまた現役生たちが戻る前に、引退生用の食堂へ足を向けた。あの場所へ立つために何をすればいいのか。焦る気持ちを抑え込み、己に言い聞かせるように何度も何度も理由を並び立てながら。

 *

 少し過去の話をしよう。
 卒業後、沢村と初めて連絡を取ったのは、光舟たちの引退が決まったその日の晩だった。
《甲子園ベスト4おめでと。お疲れさま》
 下手な慰めの言葉が無いのが、沢村らしい。
 彼が卒業してから一年間。ずっと連絡の無かったくせに、こんな時ばかりは躊躇いなく連絡をくれる。それが少し腹立たしいが、腹立たしさ以上に嬉しかった。
「……栄純さん?」
『おう、久しぶり』
 程なくして鳴った電話は、返事を送ろうとしては何度も文を消して、書いて、と繰り返していた、その相手からで。若干声が震えるも、何とか言葉を絞り出す。約半年ぶりに耳にした彼の声は、前に聞いたものと何一つ変わらず、まるでつい昨日も会ったのかと思うほどに自然なものだった。
「どうしたんですか? こんな時間に」
 もう日を跨ぐ時間だ。寮生は就寝の時間だと、わかっているだろうに。訝しげな声を出すと、電話の向こうの彼は『わりぃな』と、果たして本当に悪いと思っているのか疑うくらいに、軽く侘びを入れる。そして、動揺する光舟を他所に、落ち着いた声で言った。
『まずは、三年間お疲れさま。テレビで観たよ。主将として、ちゃんとチームを引っ張ってた。すげぇ頑張ったな。皆んなもお前を支えようと一丸となって戦ってて……良いチームだなって思ったよ。やっぱ、お前らは俺の自慢の後輩だ! 優勝は出来なかったけど、胸張れよ! あ、そういやあんまり嬉しくて食堂で騒いでたら、御幸に蹴飛ばされてさ。喧嘩になった隙に鳴さんにも唐揚げ取られるし、マジであの人たちひっでーの』
 くすくす、と笑う声は、妙に色がある。
 大人の魅力、とでも言うのだろうか。時折悪戯に吹き込まれる低音が、本能を鷲掴みにする。この人は本当に沢村なのか。昔はこんな声を出すことはなかったと、思えば思うほど切なくなっていった。自分のいないところで、彼はどんどん変わっていく。テレビの向こう側でしか会えなくなってしまった想い人に、今まで必死に見ないふりをしてきた焦燥が積もる。
 消化不良の怒りすら沸いた。
「あの、もう遅いですし……」
 万一にも、己の黒い部分を見せたくない。そう思い、せっかくの電話を切るよう遠回しに促す。
『ん、あぁ、ごめん。あのさ、……』
 珍しく、沢村は言い淀んだ。
 いつにない様子にそれまで沸いていた怒りは離散し、代わりに心配が顔を覗かせる。何かあったのか。そう素直に問うことが出来れば、良かったのだけれど。何如せん対沢村に対しては不器用な自分の質が、そう簡単に変わるわけもなく。口を突いて出てくるのは、大した意味もない言葉の羅列だった。
「栄純さん? どうし――」
『お前卒業したら、どうすんの?』
 心臓が跳ねた。
 未だ迷いのある、光舟の進路。彼がどういうつもりで問うたのかはわからないが、何となくありのままを伝えるのが憚られて、あやふやに濁す。
「まだ、終わったばかりなので……」
『あー……そうだよな。悪い。無神経だった』
 素直に謝る沢村は、今度こそ心から悪いと思っているような声色だった。
 そこからの会話は、当たり障りのないものが続いた。連絡を取っていなかった間の互いの近況、共通の知り合いに関する世間話。何せ半年にもなる空白の時間は大きくて、何も考えずとも、必然話題の引き出しは沢山用意されていた。元来コミュニケーションにおける頭の回転の早い沢村だから、という部分もあったのかも知れない。不自然に途切れることのない会話はその後暫く続き、いよいよ眠気が酷くなってきたという絶妙なタイミングで、沢村は通話を切り上げた。
 あれ以来、光舟と沢村は週に一度か二度ほど連絡を取り合っている。
 どちらからともなくSNSでメッセージを送っては、くだらない内容のやり取りをずるずると続けるだけ。何の意味もなさないそれが心地良く思えて、光舟はすぐに夢中になった。こんな自分を瀬戸が見たら、また苦い顔をしながら不毛だなんて言われてしまうのだろう。
《卒業祝い、何がいい?》
 月日を重ねるごとに増えていく既読済みのメッセージ。
 目に見える希薄な彼との繋がりに、光舟は縋っている。
「あ、栄純さん。今大丈夫ですか?」
『おう! 珍しいな、お前から電話なんて』
 あれからまた月日が経った。
 メッセージでのやり取りが主だった光舟たちにとって、今日の電話は引退したあの日以来。久方ぶりの機会越しの会話に、柄にもなく浮かれる。
「忙しい時にすみません。今日、テレビで観ました。先発初登板おめでとうございます」
『……さんきゅ。オープン戦だけどな。光舟に言われると、やっぱ嬉しいわ……』
 好きだと、こういう時に思う。
 彼が卒業するまではあれほど口にしていた好意は、彼と連絡を取り出してからは未だ一度も伝えていない。これは一種の願掛けであり、覚悟だった。次に彼へ想いを伝えるその時は――、
「卒業祝いなんですが……会いたいです」
 ひび割れたノイズ混じりの音が、相手の息を呑む音を隙なく拾いあげる。正直、沢村と直接顔を合わせるのが怖かった。久しぶりに目の当たりにする彼に、何をしてしまうか自分でもわからなかったから。
 本当は、何もかも投げ出して会いに行きたかった。それでも会いに行かなかったのは、彼が最後に与えてくれた《主将》の役目が、体のいいストッパーとなってくれて。光舟の足をここに縛り付けておいてくれたからだ。会って何をしたいとか、そんなことは何も考えていない。ただ、彼の顔も、声も、何も繋がりのない場所に位置する己の現在地が、酷く寂しくてならなくて……少しでも彼の近くにいたかった。それだけだった。
『……暫くは難しそうだな。オープン戦始まったばっかだし。あ、でも再来週の水曜が休養日になってて、』
「なら、水曜で」
『……平日だぞ?』
「構いません。夜に、少しだけでいいんです」
『わかった。なら、また連絡するわ』
 ツー、ツー、という無機質な音と共に通話が切れる。通話画面をそのままに、光舟は安堵の息を吐いた。
 断られると思っていた。きっと、沢村は光舟の誘いの意味を理解していて、煩わしいことにわざわざ首を突っ込むまいと、断るものだと。けれども彼自身の後輩思いでお人好しな気質も知っていたから、光舟はそこに付け入ったのだ。
「これで、最後……」
 次に好きと言った、その時。もし、答えがもらえなかったならば、
「もう、追いかけない」
 諦めるんじゃない。戻るだけ。
 そっと、遠くからあの人を眺めて、大切な宝物として心の奥底にしまい込む。好きだと伝える前までの自分に、戻るのだ。
 元より男同士の不毛な恋心。インタビューを受け、雑誌に載り、名の知れた選手となった彼の姿を目にする度に、考えていた。決して褒められたものじゃないこの気持ちに、いつか終止符を打たなければならない日が来るだろうことを。
 どうせ潰えることになるのなら、その引導は、直接彼の手から渡して欲しい。
 手向けの言葉なんて、何も要らないから。

 約束の日は思いの外早くやってきた。
 学校終わりの逢う魔が時。沈みかけの夕陽が、辺りをオレンジ色に染め上げていく。
「こーしゅー!」
 前方から大きく手を振る男が駆けてくる。自主練をすると言っていたが、わざわざ着替えてきたのか。沢村は私服だった。見慣れたジャージ姿でなく、サックスブルーのシャツと細身のホワイトデニムが、すらりとした躯体を引き立てている。
「久しぶり!」
 今日の彼は本人の快活な雰囲気も相まって、女性好みの爽やかな好青年に仕上がっていた。その事実を裏付けるようにして、彼が通る度にそばにいる女性たちがチラチラと視線を送っているのに気づき、光舟は苛立つ。前々から思っていたが、この人。プロとしての自覚や危機感が無さ過ぎやしないか。昔から嫌でも周りの視線を集めやすい想い人は、魅力ばかりが増して肝心のところが純粋なままという、悪魔的な変貌を遂げたらしい。
 思わずため息を吐きそうになって、耐えた。何もせっかくの再会を険悪にしたいわけではないのだ。
「なんで変装してないんですか」
 それでもちくりと嫌味を言うくらいは許してほしい。元より光舟自身、そこまで器が大きいわけではないのだから。
「え? 要らねぇだろ、芸能人じゃあるまいし」
 だが、光舟が様々な文句を耐える一方で、あっけらかんと沢村が言う。
「……見られてますよ」
「え、マジ? やっぱオープン戦でも先発投手って違うのな」
「喜んでる場合ですか」
 呑み込んだため息が、再び漏れそうになった。
 折角二人で会うことが出来たのに。この空気を他者に壊されるのだけは御免だ。沢村も、そうではないのか? そう思ったところで、何が解決するわけでもなく。いっそ沢村としては光舟と二人きりでいない方が有難いのではないかとまで考え始めて、思考を止めた。
 わかってはいたが、キツイものはキツイ。別に想いを返して欲しいなんて、思わない。思ってはいけない。今までは、ポーカーフェイスで何事も上手くやってきていた。にも関わらず、対沢村に限ってはそうはいかない。惚れた方が負け、なんて言葉があるけれど。それは奇しくも的を射ているものだと痛感した。
 こんな形で思い知らされたくはなかったが。
「近くに店を予約したんだ。光舟、ちょっと付き合ってくれよ」
 左手を取られる。躊躇いのない接触は自然で、ドキドキと脈打つ鼓動とは裏腹に、急激に胸の奥は冷めていった。
 ここまで意識されていないと、いっそ笑えてくる。
「……わかりました」
「焼肉な。チェーン店だけど許せよ。御幸先輩と俺じゃ、給料なんて天地の差なんだからな!」
 連れていかれた先の店は、沢村の言った通りコストパフォーマンスに優れていることで有名なとあるチェーンの焼肉屋で、案内された席は個室だった。誰の視界にも入らず、好きなことを話す。ただその為だけに誂えられたような部屋は、正直息苦しい。しかし目の前で生き生きと食べ放題メニューを開いている人は、そんな気まずさなど何も感じていないようで。今ばかりは沢村の鈍感さが羨ましくなった。
「前にも言ったけど、主将三年間お疲れ。卒業祝いは焼肉ってことで。他の後輩には奢ったりしてねぇから、これ内緒だぞ?」
 にひひ。
 白い歯を剥き出しにして、悪戯っ子のように笑う彼。芳しい匂いのする白い煙の向こう側から、沢村は光舟を見ていた。穏やかに光を湛える双眸の輝きを見ていると、甲子園のマウンドで見た幻影を思い出す。今目の前にいるのは、幻でもなんでもなく紛れもない本物。そう思うと堪らない気持ちになった。手を伸ばしたら、届いてしまう。こんなにも近くに、沢村がいる。あの、もうテレビの中でしか見かけることのなくなった人が、目の前に。
 ――触れたい。
 二人の間に横たわるテーブルが忌々しい。だが防波堤の如く不埒な衝動を防いでくれる存在が、同じだけ心強かった。少しでも気を抜けばこの手は沢村へ伸ばされることだろう。理性的に見せかけて衝動で生きているような己の弱さを自覚している分、有難みが増す。
「それは、俺が特別ってことだと受け取っても、いいんですか」
 カラン。
 運ばれてきてからずっと放置されているコップが、水滴を垂らし机上を濡らす。半分ほどあった氷は溶けてしまっていた。温くなってしまっているのだろう水を一口煽ると、光舟は口を閉ざしてしまった沢村の方を見る。
「……お前、」
 沢村が何か言いかけて、やめる。俯き、何かを考えている彼からもたらされる言葉を、断頭台の上に立っているような心境で待ち続けた。言いたいことがあるなら、言えばいいのに。普段何も考えずに思ったことを好き勝手発言するくせして、こう言う時ばかり頭が回るのだから、タチが悪い。
 何も考えなくていいんですよ、と言ってやりたかった。貴方は馬鹿なのだから、と。憎まれ口を叩いて、怒る彼を粗雑に扱う。そんな何気無いやり取りが、こんなにも遠い。
「好きですよ、俺。ずっと、貴方のことが」
 忘れたくても、忘れられなくて。自分を見て欲しくて、素気無い言葉で軽口を叩いた。笑顔も、怒る顔も、悲しそうな顔も、滅多に見せない泣き顔も、全部愛しい。好きと伝える声が密かに震えていたことを、貴方は知っていただろうか。時折照れたように顔を綻ばせる姿を見て、抱き寄せたくなる衝動に抗っていた。
「……俺、男だよ」
 躊躇いがちに、沢村が言う。
「だから何ですか」
「可愛くも何でもない」
「栄純さん以上にバ可愛い人はいません」
「バは余計だろ、バは……お前のそれは、投手としてのそれとごっちゃにしてるだけじゃ、」
「ありえません」
 尚も不安げに瞳を揺らす沢村に、光舟は言い募る。
「だって俺は、ずっと貴方を抱きたいと思ってた」
「だっ……!」
 流石にここまでストレートに言えば伝わるだろう。そう考えての物言いだった。
 触れたい、程度では生温い。この凶暴な衝動の裏に隠された情欲も、泣き縋りたくなるほどの切実さも、身を焦がす想いの苛烈さも、すべてを知って欲しい。知った上で、確かな返事が欲しかった。あの、誤魔化しのためのキスから始まった、このあやふやな境界線を、目に見えるものにしたい。そう思ったのだ。
「おま、何、言って」
「引きましたか? 同性の後輩にこんなことを言われて。でも、俺の好きはそういう意味のものです。栄純さんは、暫く様子見していたら目が覚めると思っていたのでしょうが……」
「……っ」
「卒業式の日にも言いました。首を洗って待っていてくださいって。貴方の隣は俺のものだって……あんまり俺を、ナメないでください」
 何とも言い難い空気が、二人の間に流れた。
 唖然とした沢村の顔を眺めて、光舟は視線を逸らす。今日で終わらせると決めた、この恋心。潰える瞬間は試合終了を決めるジャッジの如く残酷で、あっさりしていた。終わり方は色々あれど、光舟の場合はまず間違いなく敗者の側だろう。返事は聞いていないが、きっとそうに決まっている。
 覚悟はしていたけれど、いざその場面になると辛いものがあった。
「……参ったな」
「……っ」
「ここまで熱烈に言われると、……堪んねぇ」
 こつ。
 机の下で、沢村の靴先が光舟の脛を蹴った。子どもっぽい意趣返しだ。何処と無く拗ねた顔をした彼が、横目で光舟の顔を睨む。睨まれたところで全く怖くない。寧ろ愛らしい。おまけに尖った肉厚の唇は肉の脂で艶が出ていて、今すぐむしゃぶりつきたいくらいに魅力的に映った。
「今日が平日でよかったわ。じゃないと俺、多分ホテルに誘ってた」
「……は?」
「俺の負けだよ、光舟。やっぱ俺、お前のことが好きみたい」
 何が、起きたのか。
 その場で立ち上がった沢村が、光舟の隣にやってきて、徐に座り込む。間近に迫った顔をじっと見つめていれば、唇を柔らかな感触が掠めた。信じられないとばかりに目を見開き、離れていく彼を目で追うと、照れ臭そうに真っ赤な顔をした沢村が、光舟の肩口に頰を擦り寄せて来る。幸せで、死んでしまいそう。これは都合のいい夢ではないのか。あまりの衝撃に、何も反応出来なかった。
「……はぁ、緊張した。お前すげぇわ、こんなこと何回もやってたの?」
「あ、の」
「……好き、ほんと好き。大好き、こーしゅ……むがっ」
「ちょっと、黙って、ください」
 色々と限界なんで。
 緩んだ顔をしている自覚はある。とてもではないが、沢村には見せられない。そんな顔をしている自信があった。また、耐えようにも口角は緩みっぱなしだし、頰は熱いし、挙句アイスブルーの瞳はその色合いでは隠しきれないほど、雄弁に欲を露わにしている。こんな自分を見られるのは恥ずかし過ぎて、出来ることなら逃げ出してしまいたかった。
 沢村を攫って、このまま美味しくいただ……いやいや、落ち着け。物騒な考えを慌てて追い払う。危ない危ない。
「……いつ、から」
 掌で覆った口元から、声を振り絞る。情けないことに声が震えていた。しかし、そんな光舟を笑うこともなく、懐かしそうに目を細めた沢村が答える。
「高三の夏。引退前ぐらいだったかな……」
「なら、なんで!」
「あの頃には次の主将をお前にしようって決めてたし……負担になりたくなかったんだよ。現にお前、最初の頃いっぱいいっぱいだったろ?」
「そんなことは……」
「あったの! 俺にはわかるの!」
 ぐうの音も出ない。
 沢村の言ったことが事実であったからだ。確かに主将就任直後は慣れない仕事内容や、チームメイトたちへの気配りなどに奔走し、余裕がなかったように思う。とはいえ頭を悩ませていたのは沢村自身にも原因があったのも事実で、それを当の本人に指摘されてしまうと、何とも複雑な心境になる。
「お前には伸び伸びと野球をして欲しかったし、色んな景色を見て欲しかった。これは、ただの俺のワガママ」
「……なんでそんなところだけ急に年上らしくなるんですか」
「当たり前だろ。好きなやつの前ではカッコよくありたい、そう思うのは男の性なんだから。お前が年上だったとしても同じようにカッコつけたさ」
 あぁ、堪らないな。
 心底惚れた人から、こんなことを言われて。何も感じないなんてあり得ない。学生の頃は積もり積もった分だけ吐き出していた好きという感情が、今となっては溢れてしまうのが勿体無くて、口にするのが憚られた。言葉の代わりに、未だ己の肩口に顔を埋めたままの彼の旋毛へ、キスを贈る。
「……それで、お前はどんな景色が見えた?」
 ごそごそ、と。身動ぎした沢村が、顔を上げて不敵に笑う。マウンドに立つ瞬間の彼と同じ、ギラギラと輝く黄金色に、無性に心惹かれた。
「……確かに、道はいくつも分かれていたようですが」
 ――その道の先のすべてが、貴方に繋がっていました。
 なんて、言ったらどうするのだろう。
 気にはなったが、やめた。これ以上図に乗らせたら厄介になることが、目に見えていたから。
「後悔しない一本道を、選択しました」


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