epilogue
夢現の微睡みの中で、揺蕩う。
薄っすらと目を開くと、視界の端で白いカーテンが揺れた。肌を撫でる風が気持ち良くて、覚醒しかけた意識は再び水底へ沈む。
『……わ……ら、ぱい』
ごぷごぷ、と。水の中で話しているかの如く。掻き消えてしまいそうな小さな声は、薄らぐ意識という名のベールに阻まれて、消える。
『……沢村先輩』
誰かの呼ぶ声がした。聞き慣れた声だ。だが、咄嗟に思い浮かべた声の主は、到底こんな優しい声を出すような奴ではない。あいつは俺のことが嫌いで、目障りで、消えろとまで言いやがった男。そんな生意気な狼小僧が、こんな甘い声を出すか? ――あり得ないだろう。瞬時にそう結論付け、別の候補を探す。この声の持ち主が誰なのか、妙に気になった。
生意気な後輩に似た、知らない男の声。
男は尚も沢村の名を呼び、果ては眠る沢村の頭をゆっくりと撫でつける。同じ男の名前を呼んで、何がそんなに面白いのだろう。擽ったい動きを繰り返す手を振り払いたいのは山々だったが、疲労による身体の怠さは尋常じゃなく。指先一つですら言うことを聞かなかった。次第に肌を掠める冷たい掌が気持ち良くなり、その手の正体を暴かんという心とは裏腹に、どんどん眠気は強くなっていく。
『……は、』
吐き出される吐息一つ一つが、熱を帯びて。 耳を犯した。不思議と嫌ではない。それどころか得も言われぬ高揚感が芽生えつつあるこの状況は、マウンドに立つ瞬間のソレに似ていた。
(だれ……)
顔が見たい。
優しく触れる掌の、熱の正体が知りたい。
身の内に巣食う衝動の名前を、教えてほしい。
『……おく、むら』
一度ふるり、と震えた指先は、呆気なく離れていってしまう。名残惜しいと思ったところで後の祭り。追いすがる術を持たぬ己では、何を言うこともできない。
とあるオフの日の、昼下がり。
部室の片隅でうたた寝をしていた、春真っ盛りのこと。三年生たちの卒業を経て、大きく口の空いた心の穴を埋めるのに、必死になっていた頃の話だ。
思えばあの頃にはもう、気になっていたのかも知れない。あれから光舟が一軍に上がり、練習で共に組むことが多くなって、御幸が引退してからは自他共に認めるバッテリーとなった。いつか自分たちはそうなるのだろうという漠然とした予感は、ずっと心の奥底で燻っていたのだと思う。あれ程苦手意識を持っていた存在が、特別な位置に収まるまで、そう時間は掛からなかった。
『こーしゅー』
甘えたな声を出す時に見せる、一瞬だけ緩む涼やかな目元が愛らしい。
『そんな拗ねるなって』
偶に沢村の球を受ける由井へ、捕手としてライバル心を燃やす彼を宥める時間が、楽しかった。
いつから、なんて覚えていない。自覚したのは高三の夏だが。沢村が本当の意味で光舟に惹かれたのは、恐らく周りが考えているよりも遠い昔のことなのだと、今ならわかる。
彼と過ごした季節が一巡した、今なら。
「栄純さん」
ざわっとクラスが騒めき立った。特に女子たちが、何やらそわそわと落ち着かない様子になっている。原因には心当たりがあった。教室のドアの前に立つ、一人の後輩。コイツがすべての元凶だ。
光舟の容姿は目立つ。陽の光を反射してきらきらと輝く金の髪、すべらかな陶器のような白い肌。形のいいアーモンド形の目には、吸い込まれてしまいそうな輝きを湛える蒼が嵌め込まれている。涼やかな色味を帯びる瞳はしかし、時に煮え滾るマグマを閉じ込めたような熱を宿し、鋭く沢村の身体を射抜いた。そんな彼の荒々しい獣じみた一面を、周りの人間はきっと知らないだろう。そのことがまた、沢村の優越を煽った。
「沢村ぁ〜、なになに、あの子。後輩?」
沢村の前の席に座っていた女子が、興味津々とばかりに耳打ちしていくる。
「んあ? そうだけど」
「後で紹介しなさいよね」
ギラ、と鋭く光った女の目は、まさに肉食獣のそれだ。率直に言って面白くなくて、全力で首を横に振る。
「はぁー? やだよ、めんどくせー!」
「何よー! ケチ! ちょっとくらいいいじゃん」
「えいじゅーん、お願い! そこを何とか!」
「さわむらぁ〜」
「だからやだって!」
周りの女子生徒たちもわらわらと集まってきて、収拾がつかなくなってきた、その時だった。
「沢村先輩!」
苛立ちを隠さぬ声で、光舟が吠えた。おまけに本当に怒った時だけ言う『沢村先輩』呼びで。美形が怒ると怖いとはよく言ったもので、無表情に見目の良い少年が凄んでいる姿に、流石のクラスの女子たちも何も言えなくなる。その空気の変化を鋭敏に感じ取った沢村は、今がチャンスとばかりに自分を取り囲んでいた雌豹たちの輪から抜け出ると、不機嫌そうにしている光舟の手を掴んだ。そして、そのまま勢い任せに歩き出す。
「わり! 場所変えるぞ」
次の移動教室には遅れるなよー、なんていう金丸の言葉が、背中越しに掛けられる。いたなら助けろよ、などという恨み言は無意味だ。凶悪な面構えに反して平和主義の彼のこと。助けを求めたところで見放されたに違いない。
「……光舟?」
暫く人気のない階段を登って、屋上の入り口に辿り着いた。
ドアを開けるや否や、半ば突き飛ばされるような形で開放的なそこへ雪崩込み、すぐさま抱き着かれる。
「……すみません」
光舟は、何も言わなかった。ただ無言のまま、沢村の腰に腕を巻き付けて、胸板に顔を埋めている。ここ最近、この存外甘えたな後輩はこういうことをするのが増えた。明らかに痛そうな顔をしているのに、何故そんな顔をしているのかも、沢村を責めることもしない。何を言うこともなく、そっと傍にいるだけ。信頼されているとかされていないとか、そんな次元ではなくて。まるで自分にはその権利が無いのだとでもいうような、一線引いた態度。
それが、沢村は気に入らなかった
「巻き込んで悪かったな。あいつらだって悪い奴らじゃねぇんだ。ただうっさいだけで」
「……」
ぐっ。
腕の力が僅かに強まる。
「お前のことを紹介したりとか、そんなんぜってぇしないから。な?」
「……はい」
小さく漏れた声は、迷子の子どものようだ。
異国の血が色濃く感じられる顔が、不意に間近に迫る。ふわりと漂う甘やかな香りは、彼が使っているシャンプーの匂いか。変なところに拘りのある彼は寮の備え付けではなく、わざわざ自分専用のもの買ってきて、皆んなとは別のものを愛用している。何だか妙な気分になって、沢村は顔には出さずに焦った。
触れたい。
衝動的にそう思った。真っ直ぐにこちらを見つめる瞳があまりに熱っぽいものだから、絆されてしまったのだ。少しだけかさついている、愛想のない一文字に結ばれた唇は、普段なら何も思わない筈なのに、急に己のそれを重ねたくなった。
「栄純さん……」
我ながら、酷いことをしている自覚はある。自分へ想いを寄せる後輩を好きなように振り回して、決して同じだけの想いを返してはやれない。残酷で、一番辛いことを、沢村はこの馬鹿みたいに真っ直ぐな後輩にしている。
「好きです」
昼下がりの太陽が、真上から二人を見下ろしていた。まるで断罪するその時を待っているかの如く、じくじくと肌を焦がしながら。
どうやら天から見下ろす断罪人は、そのまま高みの見物を決め込むらしい。光舟の指先は沢村の頰を辿り、耳たぶ、瞼、そして唇へと触れていく。確かめるような仕草は焦れったく、何処か躊躇いが感じられた。
「……ん、」
触れた場所から、熱が伝わる。身体に入り込んだ火種は血脈に乗って全身を巡り、身の内から大切な何かを消し炭にしていく。
「光舟」
「はい」
「……キスしたい」
消し炭になったのは、この淡い恋心か、それとも――。
生産性のない行為。不純な己の恋心。醜い独占欲と、嫉妬。少女漫画で見た恋愛はどれもキラキラと輝いて見えたのに、自分のそれは地面で踏みつけられた花よりも酷い形をしている。
好き。
貴方が、好き。
決して言葉にはならない想いは、胸の奥にしまい込む。時が来るまで、頑丈に鍵を掛けて。
「は、……ん、ぅ」
息苦しさに喘いだ拍子に、こめかみを汗が伝った。誰もいない屋上を駆け抜ける晩夏の風は、嗅ぎ慣れた最愛のシャンプーの香りと、青々とした草の匂いを攫っていってしまう。揺らぐ蜃気楼の、その向こう側。湾曲した青空に、真っ白な入道雲がもくもくと立ち昇っているのが見える。
夏の終わりは、すぐそこに迫っていた。
諦めの悪い真夏の残滓は、尚も沢村の身の内に燻る熱のカケラに燃え移り、今日も密やかに息をしている。