鮮やかな命の花が散った。
緑の閃光が眼前を過ぎる。緊迫した状況下、女の放った死の呪いが名付け親へあたるまで、世界がスローモーションのように映った。
『あいつがシリウスを殺した……! 僕が殺してやる!』
明確な殺意が芽生えたのは初めてのこと。その後、名付け親を殺した女が狂ったような高笑いをしながら逃げ出したのを見て、反射的にハリーも駆け出す。ルーピンの制止の声は耳に入らなかった。その時心を埋め尽くしていたのはどす黒い殺意と怒り。ただそれだけ。そして、衝動のままに磔の呪文を唱え、女を呪った。
禁じられた魔法を使ってしまったことも、誰かをはっきりと殺したいと思ったことも初めてだった。シリウスを失った喪失感を埋めるための防衛本能かなんなのか。とにかく猛烈な怒りが身体を支配して、誰かにぶつけなければ自分を保っていられない。かろうじて頭の片隅に残っていた冷静な己が躊躇いを主張しなければ、女にぶつけた拷問の呪いは正常に作用していたことだろう。それだけは断言できた。
この世界は理不尽でできている。
齢十五のハリーは、既にそのことを嫌というほど痛感していた。一度目の理不尽は、両親を殺されたこと。二つ目の理不尽は、望んでもいないのに生き残った男の子としてもてはやされ、苦難の道を歩むことになったこと。そして三つ目は……、
「ポッター、おまえは死んだ」
――名前だけが一人歩きしているせいで、何かと面倒ごとに絡まれること。
忘れもしない。どん底で蹲り、すべてのことがどうでもよくなっていたあの日。ゴーストのようにふらふらと玄関ホールの大階段を上がっていた時だった。偶然鉢合わせたドラコ・マルフォイに絡まれた。
「……」
開け放たれた窓から漏れ聞こえる動物たちの鳴き声。
そばを駆け抜ける生温い風。
川辺で遊ぶ生徒たちの楽しそうな笑い声。
うるさい、うるさい。全部が気に障って仕方ない。自分はこれほどまでに苦しんでいるのに、何も知らずに笑っている子どもたちが恨めしい。シリウスのいない世界が――ハリーのずっと憧れだった家族となりえたはずの男のいない世界が、ハリー一人を取り残していつも通りの時間が流れていることが憎らしい。
(……もう僕には、何も残っていないのに)
濁った翡翠が男を映す。苦虫を噛み潰したように顔を歪め、剣呑とした光を湛えた蒼い瞳が、ハリーを射抜いた。
「見てろ。おまえをやってやる。父上を牢獄なんかに入れさせるものか……」
どの口が、と思った。好き勝手言ってくれる。お前の父親のお仲間のせいで、また大切な人が死んだ。ハリーから大切な人を奪ったのだから、当然の報いではないか。投獄なんぞ生温い。この手で、生まれたことを後悔するくらいの苦痛を与えてから、嬲り殺してやりたい。暴力的な衝動がハリーの精神を掻き回す。
「……うるさいな」
一言、吐き捨てる。
死を目の当たりにしたこともないくせに。本当に大切なものを失ったこともなく、家族に恵まれ、甘やかされて育ってきたくせに。ハリーにないものをすべて持っているくせに。わざとらしくそれらをひけらかして神経を逆撫でするこの男が、昔から大嫌いだった。しかしながら所詮は器の小さい負け犬の遠吠え。親友の言葉を借りるなら、『たかがマルフォイ』だ。相手にする価値も無い。そう自分に言い聞かせて数年、ハリーはこの男から向けられる理不尽な敵意を適当にあしらい続けてきた。だが、今はあまりにもタイミングが悪かった。いつもなら無視できたはずの安い挑発も、名付け親を失ってから周りに対して過敏になっていたハリーには、無視できるだけの余裕もなく。結果として、天敵とも言える男からそう言われた瞬間、腹の底で渦巻いたのは……シリウスが殺されたあの瞬間己の意識を乗っ取った、殺意にも似た鋭利で猛烈な怒りだった。
「……君にやられる前に僕がやってやる。やれるものならやってみろよ」
マルフォイの手が杖を掴む前に、ハリーが先に杖を抜く。杖先を天敵の心臓へ向けた。どちらが死んでもかまわないと思った。もう何もかもがどうでもいい……。
「……ポッター。おまえ、」
「何をしているのだ、ポッター!」
ピクリ、と整った片眉が上げられる。マルフォイがいつになく殺気立つハリーへ、何か言いたげに口を開いた。しかし、吐き出された声は言葉にならない。その先に続く言葉を遮るようにして、緊迫した空気を発する二人の間にスネイプが飛び込んできたからだ。
(こいつが、閉心術の特訓を投げ出してさえいなければ……っ)
ハリーの怒りの矛先がマルフォイからスネイプへ移る。あぁ、うるさい。ここは雑音が多すぎる。根元から引きちぎられ、握り潰された花のように、心が不穏な音を立ててぐしゃりとひしゃげる。痛い、悲しい、憎い。足下に散らばった汚らしい色をした赤黒い花弁が舞い上がり、視界を埋め尽くしていく。
一面の赤。
警告の色だ。理性はあと少しで完全に失われる。さて、なんの呪いを掛けてやろうか。もうハリーには何も残っていないのだ。ここで誰が死のうとなんとも思わない。だって、家族になろうと言ってくれたシリウスは死んでしまった。彼はもう二度と帰ってこないのだ。そして自分はまた、あの豚箱にぶち込まれた方がまだマシなくらいに最悪なダーズリー家に連れ戻される。ハリーを頭のおかしい奴だと決めつけて犬以下の扱いをしてくる、あいつらのところへ。
(僕が何をしたっていうんだ)
行き場のない怒りのはけ口はどこにある。この今にも爆発してしまいそうな感情はどこに向けたらいい? ハリーはわからなかった。また、怒りの矛先は外側だけでなく、ヴォルデモートの策にまんまと引っかかってしまった己自身にも例外なく向けられている。自責の念に押し潰されそうになって、ズタズタに心を引き裂いて、己を責め続けた地獄の数日間。もう立ち上がることすらままならないほどに、ハリーの心は疲弊していた。
「まったく何をしているのですかあなたたちは!」
あの後、マクゴナガルが止めに入ってくれなければ、きっとハリーはあの二人に呪いを放っていただろう。それからこの理不尽な世界を呪いながら、今度こそ自分の命も絶っていたに違いない。それほど限界だったのだ。
「さあ、ミスター・ポッター、ミスター・マルフォイ。こんなすばらしいお天気の日には外に出るべきだと思いますよ」
そんなマクゴナガルの催促に従うまま、ハリーはさっさとその場から退散する。ここに長く留まっていたところで碌なことにならない。小指の爪の先程度に残っていた理性が、ハリーに強制退場の指示を下した。未練たらたらにハリーを睨みつけてくるマルフォイの横を、まるで何事もなかったかのような顔をして通り過ぎていく。
まだ何か言いたげにしているマルフォイには、知らんぷりをして。鉛のように重い足を叱咤し、階段を駆け上がった。
マクゴナガルの目が光っているところで、マルフォイがそれ以上何かを言うことはなかった。