わかれ花

 人の気配のある場所で眠れなくなった。
 神秘部での戦いから三日後。ハリーの睡眠不足は悪化の一途を辿っている。目の下には色濃い隈が刻まれ、食欲が湧かず頬がやつれた。歩く時もどこかふらついていて、今にも床にキスしてしまいそうなハリーに、親友たちが苦言を呈したのは最近のこと。だが、ハリーとシリウスの関係を知る近しい者ほど、ハリーの心痛が推し量れないほど深いものだと理解しているため、軽率に慰めの言葉をかけようとはしなかった。
 慰められたいわけではない。ただ、一人になりたかった。シリウスの死を受け止める時間が欲しかったのだ。だというのに悪目立ちする『生き残った男の子』という己の立場が、どこまでもハリーの邪魔をする。
『シリウス・ブラックが死んだらしい』
 後ろに座る男子生徒が囁く。
『これで安心ね。アズカバンの集団脱獄以来色々と不安定だったもの』
 斜め前に座る女子生徒が日刊予言者新聞を広げながら言った。
『ナンバーツーの幹部が死んだんだ。闇の陣営側もさぞ痛手だろう』
(何も知らないくせに)
 これ以上何も聞きたくなくて心を閉ざした。闇の帝王が戻ったというハリーとダンブルドアの主張を信じなかった連中が、滑稽なまでに掌返しをして、こぞってシリウスの存在を死後も貶めようとする。何度杖を抜きそうになったことか。何度、「シリウスは無実だ!」と叫びそうになったことか。付き纏う幾多もの視線を、周囲との関わりそのものを断ち切るために、父から受け継いだ透明マントにくるまって。息を押し殺し、己の存在を押し殺そうとするまでに、そう時間はかからなかった。
(一人になりたい……)
 夜な夜な寮を抜け出し忍び足で向かった避難先は、アンブリッジに破壊されたあの必要の部屋だった。
「……まだあるといいんだけど」
 粉々に粉砕されたあの壁が、いつの間にか修理されたことは知っている。ただ、部屋の場所を知るDAの元メンバーが、再び必要の部屋に行っても部屋が見つからなかったらしく。壁こそ元通りになったけれど、必要の部屋自体はなくなってしまったのではないか、とまことしやかに噂されているのが現状だった。だからこそ、ハリーがその夜必要の部屋を探しに行ったのは、ダメ元だったのだ。もし無くても仕方ない。だが無くなってしまったとわかっていても探してしまうほどに、今のハリーは誰にも見つからない唯一の逃げ場所を渇望していた。
(やっぱり無くなったのかな)
 消灯時間を過ぎ、静まり返った八階廊下。透明マントの下で忍びの地図を確認しながら、『バカのバーナバス』がトロールに棍棒で打たれている壁掛けの前を、行ったり来たりする。以前は絵の向かい側にある何の変哲もない石壁に、必要の部屋の入り口はあったのだが……一向に部屋が現れる気配はない。
(誰にも見つからない、一人きりになれる場所をください……。誰も僕を見ない、時の流れが止まったような、そんな静かな場所を……)
 ガチャン。
 その時、鍵が開くような独特の金属音が廊下に響いた。慌てて来た道を引き返し、音のした方へ振り向く。すると、それまで何もなかった石壁に模様が描かれていった。
「あった……」
 吐息に紛れて絞り出した声は震えていた。あった、見つけた。まだ部屋はそこで己を必要とする者を待っていた。以前よりもずっと強く望まねば姿を現さなくなってしまったけれど。確かに、そこに存在していた。
「……っ」
 必要の部屋を見つけたと同時に、どっと疲労感が身体を苛む。今まで蓄積された疲労が一気にハリーの肩にのしかかった。ティーカップに並々注がれた紅茶が、一気に溢れ出したように。それまでギリギリのところで保たれていた何かが綻んだのを感じる。
 コツ、コツ……。
 チェス盤のような模様を描く白と黒の大理石の床が、乾いた靴音を立てる。月明かりの差し込む薄暗い部屋の中には、外の景色を眺めるには十分な大きさの嵌め殺しの窓と、その前には簡素なベッドが設置されていた。加えて部屋の片隅には、グリフィンドール寮の談話室にあるような大きな革張りのソファに、これまた寮を彷彿とさせる温かみのある暖炉が、お気持ち程度に備え付けられている。さらに奥まった場所にある扉はシャワールームに続いていた。小綺麗な部屋全体の大きさはそれほど大きくはない。とにかく穏やかな気持ちでいられること、眠ることに特化した部屋だという印象を受けた。
「眠い……」
 まどろみの中で漠然とそう思う。眠いと感じたのはいつぶりだろうか。四六時中ずっと気を張っている状態で安眠などできるわけもなく。久方ぶりに感じた眠気だった。ふらふらとベッドの方へと近づいて、そのまま倒れ込む。しなやかに弾むベッドスプリングがハリーの身体を優しく受け止め、きしりと音を立てた。そして目を瞑り、視界がブラックアウトした直後、意識が急激に遠ざかってゆく。
「シリ……ウス……」


 その日から、ハリーは可能な限りの時間を必要の部屋で過ごすようになった。
 空きコマの間の隙間時間や、昼休みの余った時間、消灯を過ぎた夜。一人になりたい時に、自分の好きなタイミングで部屋に入り浸った。
 時折姿を眩ませるハリーに対し、有り難いことにロンとハーマイオニーは、訝しげにしつつも何も言わないでいてくれた。何でも相談してきた二人だけれど、こればかりはハリー自身の問題であって、彼らにできることは何もない。聡い彼らのことだ。やんわり境界線を引いたハリーの拒絶を、本人たちも察していたのかも知れない。そして、意外なことにそんなハリーの行動などお見通しであろうダンブルドアも、ハリーが必要の部屋に通っていることについては静観の構えを保つつもりのようだった。
 ありがたい。
 敢えて触れないでいてくれる彼らに、心の中で感謝する。ロンとハーマイオニーがいつだって、摩耗していくハリーの様子に何か言いたげな顔をしていることには気づいていた。それでも、そっとしておいてくれる遠回しの優しさに、ハリーは甘えている。
 ――しかし、そんな束の間の平穏はあっさり崩れ去った。
 それは残酷なまでにあっさりと、ハリーに何一つ悟らせることもなく、唐突に。
「こんなところで何をコソコソとしていらっしゃるのかな? 英雄殿」
「っ!」
 嫌というほど聞き覚えのある声にハッとして、部屋の入り口へ振り返る。
 見開かれた目に飛び込んできたのは、扉に寄りかかりこちらを睨みつけてくる天敵の姿だった。消灯を過ぎた頃合いだというのに、彼のローブの下は何故か制服のままだ。その格好からは、授業後彼がずっとこの部屋の前で張り込んでいたのだろうことが伺える。
「……マルフォイ」
 口の中がカラカラに乾く。息をのんだ。よりによってこの男にバレてしまうなんて。
「いいざまだな、ポッター。いつもの間抜けヅラがますますロングボトムみたいな馬鹿ヅラになってるぞ」
 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべたマルフォイは、石像の如く固まってしまったハリーを楽しそうに見下ろしている。男がゆらりと部屋の中へ滑り入ると、中途半端に開きっ放しになっていた部屋の扉が、無慈悲な音を立てて閉じられた。
 部屋の中に二人きり。
 いつもなら二人を止めてくれる大人の目はない。今ここで喧嘩になったなら、ストッパーがいない分互いに無傷では帰れないだろう。ハリーのこめかみを嫌な汗が伝った。
「何の用?」
 警戒を滲ませてハリーが問う。マルフォイはやけに機嫌良さそうに鼻を鳴らした。
「ここ最近おまえが消えることが多かったから、また何か企んでいるんじゃないかと思ってね。物覚えの悪いトロールのようにまたこの部屋にのこのこと現れるなんて……今日こそおしまいだな、ポッター」
「馬鹿らしい」
 ふんっと鼻で笑う。マルフォイの顔がこれでもかと不愉快そうに歪められた。
「禁じられた魔法を使っていたわけでもなし。ちょっと門限を破っただけで、僕は何もしてないじゃないか。何がおしまいだって? お得意のお父上への告げ口や泣き落としで、何をでっち上げようっていうんだい?」
「な、」
「言っとくけど」
 ぴしゃり、とマルフォイの言葉を遮る。鋭利な言葉のナイフで、彼の一番柔い部分を抉り取るイメージで。さらには傷口に塩を塗り込むように、ゆっくりとハリーは続けた。
「アズカバンにいる君の父親は無力だ。何もできやしない。それに、君の嘘にまみれた卑怯な告発なんて、あのダンブルドアには通用しないぞ」
 父親を馬鹿にされたマルフォイが、顔を真っ赤にして怒りを露わにした。鼻の頭も耳も全部が真っ赤に染まり、今にも湯気が出そうな勢いである。青白い吸血鬼のような顔色がみるみるうちに上気していくのを見て、ハリーの胸の内がすっと晴れた。やっと見つけた自分だけの居場所へ無造作に踏み込んでこられて、ただでさえ気が立っていたのだ。目の前のこの男を傷つけてやりたい。いたぶってやりたい。普段の恨み辛みを思い出し、そんな凶暴な感情が胸の奥を駆け巡る。
 今まで散々やりたい放題されてきたのだ、少しばかりやり返したってバチはあたらないはずだ……。
「父上を馬鹿にするな! この親無しの醜い傷物め!」
 マルフォイが叫ぶ。既に何度も使い古された悪態だ。今更何とも思わなかった。
「マルフォイ家が悪さをしていたことはもう皆んなが知ってる。なのにまだそんなに威張り散らす余裕があるんだね? 君の両親のような面の皮が厚い恥知らずが親になるくらいなら、初めから親無しの方がよっぽどマシだ!」
「……っなんだと!」
 先にアクションを起こしたのはマルフォイだった。ローブのポケットにしまわれた杖へ手を伸ばした彼は、険しい表情のまま杖先をハリーに向ける。
「ステューピファイ! 麻痺せよ!」
「エクスペリアームス! 武器よ去れ!」
 緑と赤の光が部屋の真ん中でぶつかる。
 バチン! と光がはじけた後、さらに二人は攻撃呪文を放った。次々と間髪入れずに放たれる魔法もまた、空中で相殺されて光の粒となり消え去る。ベッドの足は折れ、窓辺のカーテンもズタボロ、砂埃の舞う部屋の中はかなり悲惨な状態であった。放たれる魔法の危険度はどんどん増していく一方で、しかし、完全に頭に血が上っているマルフォイは攻撃の手を緩めることはない。同じかそれ以上に怒りが頂点に達していたハリーも、容赦無く危険な呪いを放っていった。
「レダクト! 粉々! フリペンド! 撃て!」
「プロテゴ! 護れ!」
 暖炉の中にくべられた薪が爆発する。マルフォイの魔法によって粉砕された燃え盛る木片が、一斉にハリーへ襲いかかった。咄嗟に保護呪文を唱え、弾丸並みの速さでこちらに向かって飛んできた木片を弾き飛ばす。
「エクスペリアームス! 武器よ去れ!」
 跳ね返った木片を避けるため、マルフォイの攻撃の手が緩んだその隙に、武装解除の呪文を放った。
「あっ!」
 手の中から杖が抜け落ちたマルフォイは目に見えて焦り出し、親の敵とばかりにハリーを睨みつける。甘ったれた坊ちゃんのひと睨みなど怖いものか。バジリスクのように目が合うだけで死ぬわけわけでもない。挑発しがてらニヤリと笑って、無様に焦る男へ余裕を見せつけた。
「純血純血って偉ぶってる割には大したことないんだな? 温室育ちのマルフォイ坊ちゃん。君の両親は貴族のマナーを教えるのに必死で、肝心な魔法の使い方は教えなかったのかい?」
「この……っ!」
 ガッ!
 やってくれたな。力一杯頬を殴られて、ハリーの身体が横に吹っ飛ぶ。衝撃でハリーの杖も床に転がった。そこからは杖無しの原始的な殴り合いの始まりだ。伊達にダドリーのサンドバッグになってきたわけじゃない。すぐにハリーもやり返し、マルフォイの左頬にカウンターパンチを食らわせる。
「くそ……っ! この英雄気取りの鳥の巣頭!」
 ガツン、と嫌な音をさせてマルフォイの顎にハリーの拳がクリーンヒットした。
「没落貴族の甘ったれ!」
 入れ違いにみぞおちへ蹴りを入れられ、ぐっと歯を食いしばった瞬間、口の中に血の味が広がる。
「没落だと⁉ よくもそんなことが言えたな! 純血貴族落ちの成金ポッター!」
「ハンッ! 純血貴族なんて時代遅れの小っ恥ずかしい称号、こっちから願い下げだ!」
「純血の尊さを理解もできない無能! マグル混じりの雑種!」
「無能は君だろ! 思い上がりの恥知らず!」
 拳が痛くなってきたので胸ぐらを掴み頭突きした。勢い余ってやってしまったが、己の額にもそれなりにダメージを食らう。痛みは感じなかった。幸いなことに興奮しているせいで痛覚が鈍くなっているらしい。ダラダラと頭から流れ落ちた血が目に入り、鬱陶しい。自分の服を汚すのは嫌だったので、ちょうど手元にあったマルフォイのローブで乱雑に拭ってやった。
「やめろ! 無能が移るだろ!」
 血で染まったローブを見て、マルフォイが悲鳴を上げる。
「君こそ鼻血を僕のローブで拭くなよ! 性悪が移るじゃないか!」
 ガツガツと靴底で相手を蹴り上げ、ついにバランスを崩して二人同時に床へ倒れ込む。マウントを取るため、ハリーが上になったりマルフォイが上になったりと暫く床を転がり、もう殴る箇所は無いとなった頃に辿り着いたその先は、罵詈雑言による言葉での殴り合いだった。
「魔法使いの恥晒し!」
「高慢ちきの勘違い貴族!」
「……英雄気取りの無能なポッティ、ポッター! 高慢ちきはおまえだろ!」
 英雄気取り。
 キン……という鋭い音が耳の奥で鳴り響いた。呼吸が止まる。目を見開き、マルフォイを見下ろす翡翠の瞳から、それまでのギラギラとした光が失われた。
「……は、」
 今、この男は触れてはいけないところへ触れた。踏み込んではいけないハリーの領分を侵した。胃液が逆流してきたみたいに、喉元が熱くなる。あまりの怒りから身体がうち震え、目の前の世界から色が失せていく。英雄なんてからかい文句は、いつもこの男から散々言われていることだった。だが、ダメだ。今だけは受け流せない。自分のせいで沢山の大切なものを失ってしまった。そんな自責の念で押し潰されそうになっている今だけは、どうしても無視できない。
「英雄英雄って……そんなもの、なりたくてなったんじゃない!」
「……っ」
 マルフォイの身体の上に馬乗りになったハリーが叫んだ。血を吐くようなそれだった。
 あまりにも鬼気迫った慟哭に、一瞬マルフォイが呆気に取られる。くそっ。こんな奴のせいで、なんで心乱されなければならないんだ。こいつには怒鳴るほどの価値もない。頭ではわかっている。わかっているのに、震えが止まらない。思うように息ができない。
(僕が『選ばれし者』なんかにならなければ……『生き残った男の子』なんかにならなければ……)
 父さんと母さんも、セドリックも、シリウスだって。
「……大切な人が死ぬところを、見たこともないくせに」
 ぴくり。
 マルフォイの目が、僅かに瞠られる。不意にハリーの脳裏に浮かんだのは黒い翼を広げ、颯爽と空を駆け抜けるセストラルの姿だった。『死』を見たことのある者だけが目にすることのできるという、あの死神のような出で立ちの魔法生物。
 ――シリウス・ブラックが死んだらしい。
 ――これで安心ね。アズカバンの集団脱獄以来色々と不安定だったもの。
 ――ナンバーツーの幹部が死んだんだ。闇の陣営側もさぞ痛手だろう。
 巡る、巡る。ハリーを置き去りにして移り変わる世界。何も知らぬ者たちの心ない言葉。愛した人を貶める目に見えぬナイフが、ハリーの大切にしてきたものを傷つけていく。
「何も知らないくせに……」
「……、」
 いっそ、こいつの目の前でこいつの大切なものを壊したなら。そうすれば、理解するのだろうか。自分以外すべて消えてしまえと心から願ったことなど、この男はないに違いない。所詮、生まれ落ちたその時からすべてを持っていた者には、奪われ続けてきた者の気持ちなど絶対に理解できないのだ。
 何で自分だけが。そう思ったのは一度や二度ではない。
 疎まれて嫌われて厄介者扱いされながら、召し使いどころか奴隷や家畜のように生かされたこの気持ちが、そう簡単にわかってたまるか。魔法界の存在を知って、自分の居場所を見つけて、十一歳になりようやく鏡に映った両親と再会した時の喜びと、じわじわと心に広がった生々しい悲しみと虚しさは、きっと誰にも共有などできやしない。最初から理解してもらいたいとも思わないし、そんな期待もしていない。でも、シリウスだけは……ハリーと同じように、両親の死を悲しんでくれたシリウスなら、理解できたはずだった。なのに、その彼も、ベールの彼方に消えてしまった。
「いっそ、いっそ君の目の前で、君の家族を殺してやろうか……っ」
 ヒュッ。
 小さな風音が、ハリーの喉元から発せられた。まずい。そう思った時には既に遅く、呼吸が大きく乱れる。この感覚には覚えがあった。極限まで追い詰められた夜、時折呼吸ができなくなって、息が乱れるあの感覚。
「は、……ぁ……」
「ポッター……? おい、どうした」
 喉がヒクヒクと痙攣し、みるみるうちにハリーの顔から血の気が失せていく。肺が急激に萎んで捻られているような、そんな独特の痛みと苦しさに、思わず胸を押さえて蹲った。マルフォイの声が、やたらと遠くに聞こえる。ぐらぐらと視界がぶれて、上下に世界が反転したかのような錯覚に陥った。肋骨を押し上げる心臓の悲鳴が、繰り返し体中に響き渡る。
「ふ……っ、はぁ……」
「ポッター、……ポッター!」
 苦しい。何が起こっている? 自分でも理解できないうちに、四肢の感覚が無くなっていく。死ぬのだろうか。マルフォイに何か遅刻性の呪いでも掛けられたのでは。そうこうしているうちにも不規則な呼吸音が鼓膜を震わせ、唇が乾いていく。意識が遠のいていくのを、何処か他人事のように感じていた。
「ぐぅ……ぅっ、うぅ……」
 走馬灯が流れていく。写真の中で笑顔のまま踊り続けるジェームズとリリー、目の前でヴォルデモートに殺されたセドリック、ベラトリックスの放った死の呪いが胸にあたった時のシリウスの姿、延々とリフレインする吸魂鬼に襲われた時に耳にした母の叫び声……。全部、全部ハリーのせいだ。ハリーが選ばれたせいで、皆んな死んでいった。自分は英雄でもなんでもない。ただの非力な子どもだ。だって、もっと自分に力があったなら……英雄と呼ばれるに相応しい力があったなら、ハリーの大切な人たちは死なずにすんだ筈なのだから。
 自分は何処までも無力で、愚かな子どもだった。
「僕が……あの人たちを……っ殺した」
 つぅ、と。涙が流れ落ちる。一度緩んだ涙腺は止まることを知らず。次から次へと溢れてくる。
「もう……見たくない」
 大切な誰かが死んでいくところを。
「ポッター……」
 これ以上はもう、耐えられない。
 キャパシティなどとうの昔に超えていた。ただ親友たちや自分を支えてくれている人たちを心配させたくなくて、悲しませたくなくて、いつも無理して立っていた。ギリギリのところで踏ん張って耐えていたものが、シリウスという精神的支柱を失ったことで一気に崩れ落ちてしまった。
「……ひ、……っく、ぅ……なんで、僕が……っ、」
「っ、」
「なんで、僕なんだ……っ」
 そっと、恐る恐るといった手つきで肩を掴まれた。そのまま身体を前に引き倒され、固い何かに顔がぶつかる。
 酸欠で回っていない思考回路は考えることを放棄して、自分が今どうなっているのか理解が追いつかなかった。唯一理解できるのは、今自分は何かを支えに上半身を起こしていて、その何かというのは温かくて固いものだということ。ただそれだけ。
「……ゆっくりと息をしろ。深く吸え……そうだ。そして、ゆっくりと吐け」
 気のせいだろうか。
 いつになく弱々しい天敵の声が、すぐ近くで聞こえた気がする。
「おまえの汚い血と涙と鼻水で、僕のローブが台無しだ。さっさと回復してクリーニングしろ」
 目を開くも、視界に色は無い。色どころか目の前は闇が広がるばかり。何一つ情報が入ってこない。
 甘い香水の香りがした。嗅ぎ慣れない匂いだ。とっ散らかった記憶が甘い匂いにつられて現実へ引き戻されていく。グリフィンドール寮にこんな香りのトワレを身につけている者はいなかった。のろのろと鈍った思考を叱咤すること数分。ようやく今自分の置かれた状況を思い返し、この香水がマルフォイのつけているものなのだと理解する。
(てことは……今僕の背を摩ってるのは……マルフォイ?)
 ず、ぐす。
 呼吸は随分と落ち着いた。涙の余韻に浸って、熱をもっている鼻をぐずぐずと鳴らす。今の自分たちの体勢に思うところはあれど、突き飛ばすほどの力はハリーの身体には残っていなくて。渋々この状況に甘んじた。というか、気に食わない男の香水を良い香りだと思うだなんて……屈辱だ。自分の思考は末期だ。喧嘩中に吹っ飛んだ理性に代わり、図々しく居座っている本能に従って、ハリーは己の居心地の良い場所を求めマルフォイの腕の中で身動ぐ。
「ん、……」
 ふわふわとしたハリーの髪が、マルフォイの肌を撫ぜたらしい。擽ったそうに息を漏らす彼は、いつものあの不遜な印象とはほど遠い、年相応の少年らしく見えた。

 *

 英国式の庭園……俗に言うイングリッシュガーデンは、一昔前までは王や貴族が富と権力を誇示するために利用されていた。そのガーデニング文化の存在意義は、一般階級の国民へ広がっていく過程でかなり親しみやすいものへと変化していったが。貴族の間では未だに権力誇示のためのツールという認識が根強く残っている。かくいう英国魔法界に住まう魔法貴族たちも、それは例外ではなく。中でも名家として名の知られているマルフォイ家では、それはそれは広大で立派な英国式庭園を所有していた。
(まったく。なんだあの授業は。森の番人だか何だか知らないが、やっぱりあの木偶の坊の教える授業は碌なもんじゃない)
 あいつはおまけにポッター贔屓だしな。
 先程まで受けていた魔法生物飼育学の授業中に起きた出来事を思い出し、眉根を寄せる。何であの木偶の坊の連れてくる魔法生物たちは、どれもこれもポッターなんかを気に入るやつらばかりなのか。ズカズカと乱雑な足取りで、ドラコは中庭を歩く。マルフォイ家には劣るものの、ホグワーツに雇われた屋敷しもべ妖精たちによって隅々まで手入れされた庭は、まぁそれなりに見れたものに整えられていた。
「ドラコ、その傷は大丈夫なのか?」
「あぁ」
 戸惑いながら問うてくるゴイルに、素っ気なく返事をする。
「腫れてるじゃない! 私がガーゼを取り替えてあげましょうか?」
 頬を赤らめ、上目遣いにこちらを見上げるパンジーが手を伸ばしてきたので、それとなくドラコはその手を避けた。
「いや、いい。三日もすれば治るだろうから放っておきなさいというのが、マダム・ポンフリーの『お言いつけ』でね。フンッ……即効性の治癒薬でも煎じてくれればいいものを……父上がこのことを知れば何とおっしゃるか……」
「おい、見ろよ」
 左隣を歩いていたクラッブが、ニヤニヤと口元を歪めながらドラコの肩を小突いた。クラッブの顎で示した方に目をやると、そこには何処にいても目立つ赤毛と談笑している、丸眼鏡の間抜けヅラが立っている。ドラコと同じように左頬に貼られた大きなガーゼが、あの時代錯誤の丸眼鏡を窮屈そうに押し上げていた。笑う時に偶に痛そうに顔を歪める姿を見て、率直にいい気味だと思う。
「だからさ、僕はあの時言ってやったんだよ。アンブリッジの衣装箪笥にフィリバスターの長々花火を仕掛けるのと、あの趣味の悪いまっピンクの部屋に糞爆弾をしこたま投げ込むの、どっちがいい? って」
「そしたら?」
「そしたら、執務机の下に肉食ナメクジを忍ばせるって。足の指の一本か二本もってかれたらラッキー。あの趣味の悪い指輪だらけの指をニフラーに噛みちぎられるのが先か、肉食ナメクジに足の指を持ってかれるのが先か……」
「流石だね。僕らはまだまだ甘かったみたいだ。もっと早くそのことを知ってたら、足の小指に五シックル賭けたのに」
 あはは、と楽しげな笑い声を上げながら、二人が話している。
 急に胃がムカムカとして、唇を噛んだ。妙に苛立ち、いてもたってもいられなくなる。そういえば、木陰で暢気に話し込んでいる二人の傍には、いつも連れ歩いている出しゃばり女の姿がない。大方あの女のことだから、図書館にでもこもっているのだろう。それか、また喧嘩でもしたか……。
『……大切な人が死ぬところを、見たこともないくせに』
 ひくり。
 唐突に昨晩の出来事を反芻し、教科書を持つ手が震えた。同時に彼を抱き締めた時の感触までもが生々しく蘇り、感情が乱れる。歳の割に華奢な腰つき、肌を擽る柔らかな黒髪、潤んだ翡翠に、苦しそうに喘ぐ唇の隙間から覗く赤い舌。時が止まったような心地になって、無性に意識が惹きつけられた。
 ……チッ。
(何なんだ。昨日から……)
 つい舌打ちが漏れる。あの時のハリーの姿が、一日中頭から離れなかった。教室や廊下ですれ違う時、ふと覗き込んだ窓の外で見かけた時、大広間で騒ぐ背中が視界に映り込んだ時……。
 奴を見かける度に、あの弱りきった姿が脳裏を過る。いくら雑念を振り払おうとしても無駄で、別のことを考えようとすればするだけ、またあの男のことを考えてしまう。すっかり負のループに嵌まってしまっていた。だというのに、当の本人は何事もなかったかのような顔をして飄々と過ごしている。こちらはこんなにも不快な気持ちになっているというのに、腹立たしいことだ。現に今だって、ギロッと思い切り睨みつけてやっても、ウィーズリーとの会話に夢中なハリーがドラコに気づく様子はない。
(馬鹿にしてくれる……くそっ)
 このマルフォイ家の嫡男である僕を蔑ろにするなんて、お高くとまったものだ。その高々と伸びた英雄気取りの鼻っ柱など、根元からへし折ってやる!
「これはこれは、ポッターじゃないか」
 もう我慢ならなかった。
 苛立ちのあまり素通りしてやろうかとすら思っていた数秒前の自分は、ドラコの存在を認識しようともしないハリーの態度を前に、あっという間に頭の隅に追いやられる。振り返った時に見せた、奴の嫌そうな顔ときたら! 昨日のしおらしい態度が嘘のようだ。もっとあの出来事を気まずく思って避けるなり何なりして反応を寄越せば、まだ可愛げがあったものを。
 いや、こいつに可愛げなど微塵も求めていないのだが。
「こんなところで立ち話とは。英雄殿は随分と暇を持て余していらっしゃるようで。O? W? Lに余程の自信がおありらしい」
 クスクス、とドラコの後ろに控えたクラッブとゴイル、それからパンジーが、獅子寮の二人を見ながらせせら笑う。「感じわっるぅ……」と呟いたウィーズリーが、あからさまな嫌悪の眼差しをドラコたちへ向けた。
 が、そんなもの、まったく気にならない。何故ならドラコの視線はウィーズリーの隣に立つハリーに集中していて、ウィーズリーのことなど視界の端にも入っていなかったのだ。そうとは知らず何事かをわめき散らす赤毛を無視して、ドラコはハリーを挑発的に煽ってみせる。
「君こそわざわざ僕に絡みに来るなんて。その『英雄』とやらの取り巻きになるのに必死だね? 流石は純血貴族さまさま……」
 そんなにステータスに執着してて虚しくならない?
「ぶっ!」
 ハリーの横でウィーズリーがわざとらしく噴き出す。そこでやっとドラコはウィーズリーの方を見て、「行儀が悪いぞ貧乏人!」と吐き捨てた。
「僕がおまえの取り巻きに? 自意識過剰も大概にしろ。『選ばれし者』と持て囃されて、少しいい気になってるんじゃないか?」
 頭の中でチカチカと点滅する『英雄』と『選ばれし者』のキーワード。昨晩は天敵をかなり揺さぶることに成功したが、今日はどうなのか。再び顔を真っ赤にして怒り狂い、ドラコへ杖を向ける未来を予想して、知らず口角を吊り上げる。向こうが攻撃に出たらこっちもやり返してやる。怪我をしたなら我が寮の厳しい寮監に突き出してやれば罰則いきだ。さあ、やれるものならやってみろ!
『なんで、僕なんだ……っ』
 ――まただ。意気込んだ矢先にまた、あの夜のあいつが思考を遮る。
 細い腕で自分自身を抱き締めて、身体を震わせ、声を押し殺しすすり泣く天敵。その姿はともすれば、そのまま消えてしまいそうな程に儚く、痛ましくて、思わず男を抱き締めた。己の腕の中で大人しく丸まった彼が、ドラコの胸へ控えめに頬を擦り寄せてくる。あの瞬間ドラコの胸は、うるさくて仕方なかった。
(そもそも何故僕は昨日、こいつを慰めたりなんてしたんだ。気でも触れたか?)
「……、」
「何だよ」
 暫しの間睨み合う。一触即発の空気はいつものこと。昨晩の名残など綺麗さっぱり失せていた。
(あぁ、大丈夫だ)
 大丈夫。自分はイカれてなんていない。何度も自分に言い聞かせ、ほっと胸を撫で下ろす。昨日は流されて抱き締めてしまったけれど、今はそんなことは思わない。たとえ今ハリーが泣き出したとして、鼻で笑いながら追い討ちをかけてやれる自信がある。うん、自分は正常だ。まかり間違っても昨日のように、この男を抱き締めたいなどと……おぞましいことは考えない。
「……ロン、行こう」
 ぐるぐるとドラコが考え込んでいるうちに、この気に食わない英雄気取りは一切無視を決め込むことにしたらしい。ウィーズリーの制服の袖を引っ張って、ハリーはこちらに背中を向けた。
「なんだ、逃げるのか」
「……」
 返事は無い。そのあまりに無礼な態度に、カッと血が沸騰したかのような激しい怒りを覚える。衝動的にウィーズリーの袖を掴んだままの手を叩き落として、目の前で揺れる獅子寮のローブを力一杯引っ張った。
「待てよ、ポッ――」
「ぅわ、」
「は、⁉」
 どさどさ!
 しかし予想外にもハリーの身体はあっけなく引き寄せられ、加えて足を滑らせドラコの上に倒れ込んできた。一方で、全体重を掛けられたドラコの方もバランスを崩し、盛大な尻餅をつく。
「いっ……」
 軽すぎやしないか、こいつの身体。昨晩のやつれ具合からして、きっと碌に食事をしていないに違いない。健康管理ぐらいちゃんとやっておけ! なんて見当違いの方向でイライラしながら、ハリーの後頭部が直撃した顎の痛みをやり過ごした。すると、ややあってドラコの頭上から呻き声が降ってきて、ハリーが未だに己の膝の上に乗っかったままなことに気づく。
「おい!」
 この野郎。いつまで僕の上に乗っているつもりだ。そもそもの原因が自分にあることを棚に上げ、一言文句を言ってやろうとドラコは顔を上げた――。
「危ないだろう! 何簡単に倒れて……」
 しかし、言葉はそれ以上続かなかった。
「いったぁ……」
「……っ⁉」
 こちらを振り向いた奴の顔が近い。途轍もなく近い。少し身動げばキスしてしまいそうな程の至近距離に、ドラコは大仰に肩をビクつかせた後に固まる。思考は完全に停止した。何も考えられない。ただ、目の前にある薄らと色づいたハリーの唇が妙に艶めかしく映って……ごくり、と喉を鳴らした。
「それはこっちの台詞だよ! 危ないじゃないか! 急にローブを引っ張りやがって……っ」
 頭をぶつけた痛みからか。涙目になったハリーの瞳が鋭い視線を向けてくる。その潤んだ目が、昨晩の扇情的なそれと重なって、大きく動揺した。
「さ、さっさと降りろ……! いつまで僕の上に乗っているつもりだ!」
「……はぁ?」
 扇情的? 意味がわからない。断じてそんな風にこの男を見たことはない。大体、さっきから自分は何を考えてるんだ。動揺から目を右往左往させているドラコをよそに、ハリーの怒りのボルテージはみるみるうちに上り詰めていく。そして、ついにそれが頂点に達した時、彼は急に胸ぐらを掴んでドラコへ怒鳴りつけた。
「なら君がこの手を離せよ!」
 変態! 痴漢!
 続けざまに投げられた罵声に唖然とする。変態……痴漢……だと。とんでもない濡れ衣に身の毛がよだつ。何か言い返してやらんと鼻息荒く手に力を込めて――何やら柔らかなものを右手が掴んだ。
「……は?」
「うわっ……マルフォイがハリーの尻を揉んでるぞ!」
 途端に鬼の首を取ったように騒ぎ立てるウィーズリー。おい、目が無駄に輝いてるぞ。顔を真っ青にしてドラコを見るクラッブとゴイル、それからパンジー。何だその目は。何が言いたい。さらにはウィーズリーの叫びを聞きつけぞろぞろと集まってきた野次馬たちが、ヒソヒソと何事かを噂し始める。
『前から怪しいと思ってたのよね……』
 怪しいって何だ。
『やっぱりそうだと思った……』
 やっぱりって何だ。
『振られるのは時間の問題だろうな……』
 待て。今おまえ、何か聞き捨てならないことを宣ったな。振られる? 誰が誰に? まさかありえないと思うが……この僕がポッターに?
(あいつらは何処の国の言葉を話しているんだ?)
 フリーズしたドラコの頭はパニックに陥る。
「は、え……? 尻……?」
 ドラコの悪夢はまだまだ続く。まさか、と思い視線を下ろすと、そこにあったのはハリーの腰をがっしりとホールドする己の左腕と、ちょうど彼の尻の上に重なった右手だった。成る程、あの柔らかな感触はハリーの尻を掴んだ時の感触だったようだ。なんて、一周回って冷静になった頭で考え絶望する。そのまま放心状態で動けずにいると、顔を真っ赤にしたハリーが大きく左手を振りかぶった――のを、ぼうっと眺めていた。
「だから、離せって言ってるだろ!」
 ばちん! という派手な音と共に、右頬に痛みが走る。
 不可抗力だ、と叫びたかったが、あまりのことに指先一つ動かせなかった。唖然と口を半開きにしたままハリーを見つめるドラコは、さぞ間の抜けた顔を晒していたことだろう。結局肩を怒らせて立ち去ったハリーたちが見えなくなるまで、ドラコの石化が解けることはなかった。
「……は、ち、違う! 違うからな!」
「ドラコ……」
「違う!」
 あいつ……! 絶対に許してなるものか!
 今夜またあの部屋に乗り込んでやる!


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