わかれ花

 今にも割れてしまいそうな薄いガラスへ、横殴りの雨が勢いよく叩きつけられる。頭上に広がる空は曇天。どんよりと濁った重々しい天候が、息苦しさに拍車をかける。
「ねぇ、君って馬鹿なの?」
 いい加減出てけよ。
 呆れたような声で嫌味を投げ掛けられるのも、もう何度目か。
「おまえよりは成績はいいはずだが? あぁ、その鳥頭じゃ、三日と記憶が持たないのか。かわいそうに」
「成績の話なんてしてないよ。空気読めないのかよこいつ……」
 苛立たしげに舌打ちをして、ハリーの視線が窓外へ移る。こうなったら何を言っても無視されると、ここ数日のやり取りで学習していたドラコは、フンッと鼻を鳴らしてから定位置となったソファに腰を下ろした。とりあえず、今日の勝負はハリーが戦線放棄したためドラコの不戦勝のようだ。幾分か胸の空いた気持ちで懐から取り出した杖を一振りすると、テーブルの片隅に置かれたティーセットがひとりでに動き出す。
 ちなみにこのやけにお高そうな陶器たちは、ドラコが個人的にこの部屋に持ち込んだものである。それ以外にも、いくつか私物を持ち込んで着々と部屋の乗っ取りを進めているのは、ひとえにハリーの嫌がる顔が見たいが故だ。そして、今のところその目論見は割と成功している、と。忌ま忌ましげに顔を歪めながら、必死にこちらを向くまいと意地になっている男を見て鼻白む。顔で何を考えてるのかバレバレだ。単純な奴め。
「おい、ポッター。おまえ、いい加減僕の不名誉な噂を否定しろ」
 カシャン。
 ティーカップをソーサーへ置き、語気強く言い放つ。
「やだね。本当のことだろ? この痴漢、変態」
 ふふん、と機嫌良さげに鼻を鳴らしたハリーが、ようやくこちらを見た。その目は猫のように細められており、悪戯っぽい光がゆらゆらと揺れている。
「おまえみたいな痩せぎすに痴漢なんて誰がするか。まだ死神犬とじゃれあった方がマシだ」
「鼻の下伸ばしてお尻揉んでたくせに」
「被害妄想も大概にしろ!」
 ――あのドラコ・マルフォイがポッターに痴漢をはたらいて、しかもビンタのお返しを喰らいながらこっ酷く振られたらしい。
 なんていう背びれに尾びれにツノまで生えたんじゃないかというレベルの悍ましい噂を流され、怒りのままドラコが再びこの部屋へ乗り込んだのは昨晩のこと。あの日もあの日で激しく喧嘩し、生傷を増やして後日マダム・ポンフリーの下へ駆け込んだ二人は、『これ以上傷を増やしてごらんなさい。仲直りするまで、マルフォイとポッター二人を一つのベッドに押し込んでやりますからね!』という、悪夢のような罰則宣言をされて以来、喧嘩といえば言葉での殴り合いオンリーという生温いスタンスにならざるを得なくなった。
 おかげで最近は校内ですれ違う時は無言で睨み合うのがデフォルトに。加えてこれまでの倍以上に濃縮された毒を吐き、壮絶な舌戦を繰り広げつつ。夜になったらこの部屋で杖を向け合えない分の憂さ晴らしをする……というのが、一日のルーティンになりつつある。
「……生憎だけど、君の相手をしてる時間はないんだ。君だって僕といても不快なだけだろ。さっさと帰れよ」
 ふい、と視線を逸らされて、ハリーはまた窓の外をぼんやり眺め始める。こんなに天気が悪いというのに、何を見ているのやら。あの男はドラコがこの部屋にやってくると毎晩、割れた鏡の破片を片手に空を眺めている。まるで何かを探しているように、身体だけ置き去りにして、心だけ何処かに飛んで行ってしまったような。そんな抜け殻みたいな顔をして。
「ならおまえが帰るといい。僕はこの部屋が気に入ったのでね。おまえは寮でご自慢のお仲間たちに慰めて貰えよ。こんなところでこれ見よがしに哀れな英雄を気取らずに」
「……」
 破片を持つハリーの手が、不意に強張った。ぎゅう……と加減もせず強く握ったせいで、手を切ってしまったのだろう。指先から真っ赤な血が流れ落ち、窓辺の床に敷かれた絨毯が赤く染まっていく。痛みを感じると正気に戻る、というのは幻覚魔法や催眠をかけられた時の対処法としてよく耳にするセオリーだが。それなりに痛みを感じているはずだろうに、ハリーの抜け殻のようなあの顔は、一向に正気を……人間らしさを取り戻すことはない。
「都合の悪い話は無視か? ポッター」
 気に入らない。
 あの空のような曇った顔をして外を眺めている姿も。進んで一人になろうとするその態度も。今にも消えてしまいそうなぐらいの、希薄な存在感も。
「そのうるさい独り言をやめてくれないかな。気が散るんだけど」
「元々集中できているご様子ではなかったようだが?」
 せせら嗤いながら言ってやると、血塗れになった手の力がさらに強められた。このままでは指が切り落とされてしまいそうだ。そこまで思い至り、ドラコの眉間に皺が寄る。
「……君がこの部屋にいるから」
「いいや、僕がいてもいなくても変わらなかった。難癖つけるならもっと上手くやってほしいね」
「あのさ、もうどうでもいいから、それ以上関わらないでくれる?」
 ぼたぼた。
 また、血が落ちた。床だけ見たら軽くホラーだ。スプラッタな光景が苦手な者なら、一目見ただけで卒倒するであろう。ビロードの絨毯に次々と赤い花が咲いてゆく。目を背けてしまいそうなほどの痛々しい惨状が、骨の髄まで染み込ませるようにゆっくりと完成されていく……。
「君、何が目的なわけ?」
 見苦しい。だが、治癒しようとは思わない。完全にこの男の自業自得であるし、それに傷が、痛みが、完全に無くなってしまったなら、何となくあの男はそのまま何処かに溶けて消えてしまいそうな気がしたから。
「……血が出てるぞ」
 とはいえこれ以上はまずいことになりそうだ。マダム・ポンフリーとの約束もある。ドラコのせいではないにしろ、これ以上傷を増やされるのは勘弁願いたい。
「それを離せ」
「やだ」
 項垂れたくしゃくしゃ頭が乱雑に振られる。
「そのまま素手で持つのは危ない。離せ」
「嫌だって」
「いいから、離せ!」
 右手首を掴み、無理矢理掌を開かせようと硬直した指先に触れた。かなり抵抗されて、左手に噛みつかれたり耳元で何事か喚かれたりしたけれど、問答無用に凝り固まった拳をこじ開ける。案の定、真っ白い掌は血だらけで、くっきりと鏡の破片の形に痕が刻まれていた。何となくその色濃い傷跡から並外れた執着の形が透けて見えて、全身に鳥肌が立つ。
「ついにイカれたか、ポッター」
 掌から出てきたガラス片は、割れた両面鏡の破片だった。
 何度か実家で見たことがある。これは連絡手段としてよく用いられ、この鏡の片割れを持つ者といつでもどこでも会話ができるという便利な代物だ。そして、これをハリーが持っているということは、この片割れを持っている者がどこかにいるというわけで。そのことを思うと何だか気分が悪くなってくる。腹の底に巣くう蛇がとぐろを巻いているかのような、頭を擡げ、牙を剥いて臨戦態勢に入ったような、そんな落ち着きのなさと薄気味悪さが身を襲う。これは、一体。
「こんな故障品を後生大事に隠し持っているとは……貧乏人の勿体ない精神には感服するよ。それで、今度は誰とスキャンダルだい? 随分とお相手に入れ込んでいるようじゃないか。おまえに未練タラタラのチョウ・チャンか? それとも赤毛一家の小煩い末妹か?」
「……」
「答えないということは図星か。いい身分だな、ポッター。夜な夜な鏡で逢引とは」
「……は、ぃ……」
「ん?」
「……もう、相手はいない」
 掠れるような弱々しい声が、鼓膜を震わせた。初めてこの部屋で会った時と同じ、あの壊れる寸前のような声。ここにきてようやくドラコは、ハリーが憔悴しきっている理由が、この鏡の相手にあることを悟る。
 一番に芽生えたのは怒りだった。手懐けるのが不可能なほどの猛烈な怒り。この鏡の相手がハリーの特別であるということをまざまざと思い知らされ、喉の奥から熱い塊がせり上がってくる。
「いない……?」
「死んだ。僕を置いて、逝ってしまった……いや、大丈夫。まだあの人は傍にいてくれる。帰ってきてくれるはずなんだ。だって、約束したから……家族になるって。多分、ひょっこりこの鏡の中に顔を出してくれるはず……だからこうして……待ってる」
 あの人が会いにきてくれるまで、ずっと……。
「……っ」
 涙に濡れた目が、唖然とした顔をするドラコを捉えた。ついに涙がこぼれ落ち、赤い花の咲き乱れる絨毯に新たなシミを作る。吸い込まれてしまいそうなほどの美しい翡翠の輝きから、目が離せなくなって。吐息がかかるくらいに近い距離にあるその顔から、目を逸らすことは許されなかった。
 痩せたな、と唐突に思う。以前見た時よりも頬がこけた。目の下には以前見た時よりも濃い隈があって、顔色も月明かりの加減かかなり悪そうに見える。一目見て、正常な状態とは言い難かった。こんな状態になるまで放置し続けてきたこの男の周りの者たちへの苛立ちが募ると共に、今己の中に確かに芽生えつつある感情の数々を信じ難い気持ちで一つ一つ咀嚼していく。愛しい、守ってやらなければ、傍にいてやらなければ、支えてやりたい。そんな甘ったるい感情が、からからに渇いた心に染み入って、急速に成長したそれらはやがて蕾となる。花開く前に、咄嗟にドラコは思考を停止させた。このままではまずいことになる。慌てて色とりどりの蕾たちから目を逸らして、来た道を引き返さんと踵を返す。
(なんだ、……これは)
 こんなはずではなかった。
 こいつは己の天敵で、目の上のたんこぶのような存在で、嫌いで、憎くて、心底忌ま忌ましい存在で。視界に入れることすら不快なレベルで互いに嫌悪し合っていた。守りたいだなんて、傍にいてやらねばだなんて、そんな庇護欲めいたものを抱く対象になど、なるわけがない。
「……ポッター」
 何かを確かめるかの如く、頬に触れた。幾分かこけてしまったそこは決して触り心地が良いとは言えない。骨張り、固く、乾いていた。彼が元気になったなら、もう少し肉付きが良くなって、ほんのり染まるその頬を撫でることが許されたなら。そんな淡い感情がまた一つ、二つ、三つ、と芽生えては、理性が頑丈な檻の中に閉じ込めていく。半端に開いた行き場のない花たちを、ぽとり、ぽとり、と棺の中にしまい込む。
「……さわ、るな」
 痛そうに顔を顰めた男の声に、びくりと指先を震わせる。
「……」
「見るな……そんな目で……僕を、見るな」
 蹲り、自身の腕の中に顔を埋めてしまった男の存在へ、急激に惹き寄せられる。甘い匂いを放つ花に集る蝶のように。甘い蜜を求めて近づく己は、蝶なんて可愛らしいものではなくただの獣なのだが。とにかく、目の前のこの天敵が、気になって仕方がない。
「……もういない、と言っていたな」
「……っ」
「死んだのか」
「違う! まだ、」
「いいや、もう死んだ。受け入れろ」
「死んでない! また会いに来てくれる! だって、迎えに来てくれるって、約束して――」
 果たされることのない約束に縋る男を、初めて哀れだと思った。今まで嘲笑の対象として見下してきた存在が、途端に哀れで、愛らしく、庇護欲をそそられるものへと変わる。自分でもこの劇的な感情の変化に追いつくことができなかった。それまで抱えてきた感情たちと、何もかもが真逆のそれに、頭が追いつかない。だが、身体だけは純粋に気持ちの変化を受け入れ始めていて、男へ触れる手の動きは止まることを知らない。
「……ポッター、おまえは可哀想な奴だ」
 癖のある前髪をそっと撫でつけながら、擦り込むように囁く。
「……うる、さ……っ」
「可哀想だから、仕方ないから慰めてやろう」
「いらない! 触るな、……んっ」
 唇を奪った。色気なんてへったくれもない。勢いのままに口を塞いだだけの行為。これ以上己を拒絶する言葉を聞きたくなくて、無我夢中でかぶりついた。
「辛かったな、と言って欲しいか?」
 角度を変え何度も口づけながら、戯れの言葉を囁き続ける。
「な、」
「哀れまれたらそれで満足か? だから、わざと僕の目の前でうじうじしていたのか。だとしたら実に、浅慮だ」
 挑発することは忘れずに、額、瞼、頬へと次々とキスを落としていく。羽根のように軽いその触れ方は、まるで恋人に与える愛撫のようだ。言ってることとやってることの矛盾に否を唱える者はいない。唯一抵抗できうる存在たるハリーは、突然のドラコの行動に動揺しきっていて、大きな瞳は困惑と怒りで揺れていた。
「好き勝手言いやがって……っ」
 胸ぐらを掴まれ押し倒される。ドラコの上に馬乗りになった彼は、今にも泣き出しそうな顔をしてこちらを見下ろした。
「慰めなんていらない! そんなものが何になる? こうして悲しみに浸っていてもあの人は帰ってこない……そんなことはわかってる!」
 言っていることは支離滅裂だ。そして、最後にはそれでも悲しまずにはいられないのだと言って、ハリーは崩れ落ちる。体裁を保つことすら諦め、ドラコの胸へ額を押しつける様は、それだけこの男の余裕が無いことを示唆していて。人知れず、ドラコはほくそ笑んだ。実に気分が良い。こんな男の姿を見るのを、己だけが許されていることに。きっと、ここまで取り乱した姿は、この男の親友たちでさえも見たことがないに違いない。
「だが、一時の慰めで癒やされるものも、ある」
「それはどういう、……っ⁉」
 訝しげに顔を上げたところを掠め取った。唇から伝わる柔らかな感触に酩酊する。マナー違反だということは重々承知で薄目を開くと、苦しそうに喘ぐ男の顔が、次第に苦いものから甘やかなそれに変わっていった。上気した頬、口の端から伝うどちらのものともわからぬ唾液、偶に漏れ聞こえる吐息と声。ばちり、と合わさった眼光は鋭く、艶のある表情とは裏腹に今にも喉笛を掻き切ってやらんと、爛々と輝いている。
 満たされていく。
 少しずつこの男の中に自分という存在を刻み込んでいっているということに、酔い痴れていた。後先考えず衝動的に始めた行為が、言い訳の出来ない欲を孕んだものにすげ替えられていく。果たしてそのことに、この天敵は気づいているのだろうか。
(気づいてくれるなよ)
 胸中に咲き乱れる花々が、ついに蕾から満開へ形を変える。思えば初めて出会ったあの時から、ドラコの心の奥底には既に種が植え付けられていたのかも知れない。だからこそ、差し出した手を振り払われた瞬間に、それまでの好意が極端なまでに逆転して嫌悪に変わってしまったのだろう。あれからもう五年か。我ながら自覚が遅すぎて嫌になる。
(……絶対に言ってやらない)
 このキスが嫌がらせだと思われたなら、それでいい。弁解などする気は毛頭ない。この想いをわざわざ言葉にするつもりもない。ただただ触れたかった。今までが今までなのだ。好意を伝えたところで拒絶されることは目に見えている。それなら、嫌がらせと思われたまま触れる方がマシだった。
「……くそっ、マルフォ……、っ覚えてろ」
(バカめ)
 せいぜい勘違いして勝手に怒っていろ。ひび割れた心の内側で嘲笑を浮かべながら、ドラコはもう一度深く口づけた。
 鼻腔を掠めた甘い香りに埋もれて、理性をぐずぐずに溶かされる。いっそ痛々しいまでの慟哭を押し殺したまま、口づけた。それでいいと思い込み、それだけで満足だと諦めて。滑稽なまでにひたむきな感情の矛先を見失った哀れな獣は、呼吸すら奪い去る激しさでもってして目の前の唇を貪り続けた。
 雨が、降っている。
 傾いた窓の隙間から入り込む湿った風が、二人の肌を撫で回す。風にさらわれた花弁の行方は、果たして。牙を剥き出しにし、威嚇した風に見せかけたその実、途方に暮れていた。持て余した想いのはけ口の在り処も、満開の花を捨て去る方法も何一つわからずに。

 *

 魔法で決闘まがいの喧嘩を繰り返していた日が懐かしく思える。
「ん……っ、おい、この……!」
「キスの時は目を瞑るのがマナーだぞ、ポッター。だから女と長続きしないんじゃないか?」
 鼻で笑いながらそう揶揄ってくるドラコに、純粋な殺意を覚える。
 マダム・ポンフリーの忠告のせいで杖先を向け合うことが出来なくなってからというもの、ハリーとドラコの喧嘩は口先だけで毒を吐き合うそれへと形を変えた。しかし、ここ最近でその形はまた新たなものに変化しつつある。それは、もっと欲の孕む艶やかなもので、間違っても敵同士ではしないような、そんなものに……。
「君のキス、しつこいんだよっ……ぃって!」
 べちん、と間の抜けた音を立ててハリーの掌がドラコの額を打つ。乱れた前髪を掻き上げた男は、不機嫌なのを隠しもせずに今度はハリーの鼻先に噛み付いた。
「そういうおまえは舌遣いがへたくそだな。おまけにムード作りもおざなりで最悪。これじゃ女に愛想を尽かされるはずだ」
「なんだって⁉ ……ん、っの」
 どうしてこうなった。
 何度自問自答しても満足する答えなど見つかるわけもない。気がついたら言いくるめられてキスをする仲になっていた。なんて言ったら、和解したのか? などと言われそうな気もするけれど。お生憎様、ハリーとドラコの関係は依然として『天敵』同士のままだ。
「な、で……こんな」
「口喧嘩も、ん……飽きてきたからな」
「だからって、意味がわからない……っ」
 舌先が口内を這い回る。上顎をなぞられた瞬間、ぞわぞわとした悪寒が背筋を走った。何度でも言ってやる。本当に意味がわからない。口喧嘩に飽きたからってキスのテクニックでマウントを取り合うだなんて。こいつの頭は完全にイカれてしまったのか。確かにハリーへの嫌がらせとしては効果覿面である。あるのだが、だからといって己の恥やそれ以外の色々と大事なものを放り投げて捨て身の攻撃に打って出るのは、いくらなんでも早まり過ぎだと思う。
「それとも勝つ自信がないのか? テク無しポッターは」
「……はぁ?」
 あ、今のはめちゃくちゃカチンときたぞ。
 いつになく下品な言い様に腹を立てる。単純だって言われても知ったことか。こうまで言われて引き下がるのは男のプライドが許さない。
「へぇ……言ってくれるじゃん。温室育ちのドラコ坊ちゃん」
 ――それからものの見事に挑発に乗り、馬鹿馬鹿しい戯れに勤しむこと早二日。
 人間の順応性というのは恐ろしいもので、たちの悪い意地の張り合いが始まって何日か経つと、キス自体への抵抗感はめっきり無くなってしまった。校内で鉢合わせた時の互いの態度は今まで通り。しかし、夜になるとそれまでの険悪さに危うい色が孕み、どちらからともなく唇を重ねる。相手を貪り喰うようにキスをする様は、恋人と言うには殺伐としていて、些か纏う空気が物騒だった。
『ハリー、あなたなんだか雰囲気が変わった?』
 そういう時に発揮される女の勘ほど、厄介なものは無い。探るような視線を浴びせつつ、微妙なハリーの変化に言及してくるハーマイオニーを躱すのは骨が折れた。
 のらりくらりと躱すことに頭を悩ませるくらいなら、いっそ全部ぶちまけてしまった方が楽だというのはわかっていた。あんな馬鹿げた戯れのことなんて、犬に噛まれたとでも思えば別に親友たちに知られようと恥ずかしくも何ともなかったし、実際何度かあの横暴高慢ちき男のことを愚痴ってやろうとしたこともある。でも、出来なかった。何故か、あの部屋で起きたことを外に持ち出す気になれなかったからだ。
(いや、何故か、なんて白々しいか。僕はロンたちに教えたくなかったんだ)
 あの、二人きりの時にだけ熱を孕むアイスブルーの瞳の色も、キスを交わす合間に漏れる吐息の熱さも、普段の嫌みで傲慢な態度からは想像もつかない慈しむような触れ方も。全部、自分のものだけにしたかった。
(あぁ、もう……!)
 いい加減認めよう。ハリーにとって、いつしか夜の時間は心地よいものになっていたのだ。誰の目もない。完全に無法地帯な必要の部屋でだけは自由に息が出来る。相変わらずドラコも部屋に通い続けているものの、あれは元よりいけ好かない天敵だ。ハリー的には奴に好かれようと嫌われようとどうでもいい存在でしかなく、良いか悪いかそんな薄っぺらい関係性のおかげで、あの男の存在は予想外にも負担にならなかった。
「……変なの」
 無意識のうちにまた唇へ触れていた手を慌てて離し、呟く。
 根比べのために始まったドラコとのキス。あんなにイカれていると思った行為は、今や荒んだ心を癒やすそれにすり替わってしまっている。普段の刺々しい言動からは考えもつかないほどに優しく触れてくる掌に、束の間の安寧を得ていたのは紛れもない事実だ。今更言い逃れも出来ないくらいに、ハリーはあの天敵の存在を受け入れていた。
「……さいっあく」
 苦い顔をして言う。もしかしたら自分でもあずかり知らぬところで、人肌を恋しく思っていたのかも知れない。シリウスを失ってぽっかり空いた虚に入れ替わる形で湧き出した、狡猾で無粋な侵入者。名付け親の分の空白を埋めるには逆立ちしたって物足りない彼はしかし、どんどんその存在感を大きなものにしている。そんな現実が苦しくて、受け入れたくなくて、必死に目を逸らしているが。そんな逃避もいつまでもつのか……。
「遅かったじゃないか、ポッター」
 必要の部屋に入るや否や、不機嫌そうな声色でドラコから迎えられる。何様だと言いたくなるほどふてぶてしくソファに腰を下ろす姿は、まさしく偉ぶった純血貴族然りとしていて。どこからどう見ても良家の子息だ。
「なに、そんなに僕を待ち焦がれてたってわけ?」
 冗談めかして言ってやれば、小綺麗な顔がこれでもかと顰められる。あぁ、いい顔。やっぱりマルフォイはサンドバッグ扱いで十分だ。余計なことを考えるのはやめよう。目の前の男に知られれば間髪入れずに呪いが飛んできそうなことを考えながら、ハリーはそのままソファの方へ歩み寄った。
「カモミール?」
「母上から良い茶葉が送られてきたものでね」
「へぇ、僕には淹れてくれないの?」
「自分でやれ」
「えー」
 軽口も慣れたものだ。何処となく擽ったいやり取りを、大変不本意ながら楽しんでいる自分がいて、つい笑みが漏れてしまう。そして、次の瞬間ハッと我に返る。こんな緩んだ顔をこの男に見られるわけにはいかない。無理矢理上がりそうになった口を引き結ぶと、かなり険しい顔になった。感じが悪いと言われようが構うものか。どうせ今自分と話しているのはドラコだ。今更気を遣う必要もない。
「……ドラコの淹れた紅茶が飲みたい」
「……っ」
 甘やかな声で強請る。
 ドラコ、とファーストネームで呼んだ時に、一瞬だけその表情が強張ることを、彼自身は恐らく自覚していない。以前キスの合間に嫌がらせのため呼んでやったら、ぽかんと呆けた顔を晒してくれて。あんまり無防備な顔を晒すものだから、仕掛けたこちらの方が驚いてしまったのは、記憶に新しい。あれは傑作だった。
 あの面白い反応にすっかり味を占めたハリーは、あれ以来二人きりの時だけファーストネームで呼ぶようにしている。初めこそかなりの抵抗感を覚えたけれど、ドラコとて天敵にキスをするなんて捨て身の方法をとっているのだ。こちらもこれくらいしなければフェアじゃない。元来の負けん気を発揮した結果の悪足掻きだった。
「ダメ?」
「おまえな、……くそっ」
 おやおや、これは珍しい。今日は素直にお願いを聞いてくれるらしい。耳まで真っ赤になっているのを見る限り、こいつは不意打ちに大分弱いようだ。
「ふ、……ほら、はやくしてよ」
 脳内のメモに新たな情報を書き込んで、ハリーは底意地悪く笑う。繕う事も忘れて自然と漏れた笑みだった。
「……腹の立つ顔をするな」
「失礼だなー。人の顔を見て『腹の立つ顔』だなんて」
 クスクスと笑いを零すハリーをひと睨みして、ドラコは杖を振る。テーブルの上にセットされていた予備のティーカップがハリーの前に置かれ、その中に並々と熱い紅茶を注がれた。ちくしょう。このまま飲んだらまず間違いなくこぼして手を火傷する。こんな地味な嫌がらせをするなんて、みみっちい男。
「地味な嫌がらせしないでくれる?」
「さて、何のことやら」
 部屋にいつの間にか持ち込まれていた大きな振り子時計が、淡々と時を刻む。カチ、コチ、と響く音は不思議と馴染みがよく、自然と気持ちが凪いでいった。
「ドラコ」
 紅茶を飲み終えたタイミングで、小さく名を呼ぶ。もう幾度となく繰り返された応酬だ。こちらの意図を察してゆっくりと振り向いたその顔へ、己のそれを近づける。
 驚くことはない。機嫌よく細められた彼の目が、啄ばむような口づけを当たり前のものとして受け入れている。一分の隙も見せない男が少し癪で唇を舌先で突くと、それを合図に口が少しだけ開かれた。すぐさま舌を滑り込ませ、いつも毒を吐く嫌みったらしくて無神経な男の舌を搦めとる。
「いいの?」
「あぁ」
「ふーん……」
 どうやら今日はこちらに先攻を許してくれるようだ。どうせ勝てるわけがないと侮られているのが一目瞭然で、ムキになって口内を犯していく。
「……ん、」
「は、……それで?」
「んぅ……ぅ……?」
「それだけか?」
 ぴちゃぴちゃという水音が官能を刺激する。
 ドラコの息は一切乱れていない。いつもハリーの方が息絶え絶えにさせられるというのに、その余裕綽々ぶりが鼻についた。何とかして腰砕けにしてやりたいと思えど、元々この手のことには不器用なハリーには、とてつもなく難易度の高いことだった。
「今日も……僕の勝ち、だな」
 躾のなってない猫を撫でるような手つきは、完全にハリーを下に見ているようで腹立たしい。反撃に打って出るため、するすると肌を撫でる掌に自ら擦り寄り、上目遣いに視線を送ると、その媚びた態度に不愉快だと言わんばかりの顰めっ面を返された。ふぅん、なるほど。天下のマルフォイ坊ちゃんはうんざりするくらい媚びを売られ慣れてるってわけね。また一つ、こいつの嫌がることを見つけた。
「はぁー……」
 ぽすり。
 唐突にキスを終わらせて彼の肩に顎を乗せる。深くため息を吐くと同時にドラコの動きも止まり、訝しげな視線を寄越された。
「……ハリー?」
「もうちょっとこのまま……」
 今日は疲れた。寮の自室に置いてきた日刊預言者新聞の存在を思い出す。記事のタイトルは『凶悪犯シリウス・ブラックの罪』。シリウスのことをここぞとばかりに貶め、あまつさえ彼の死は天罰なのだと訳知り顔で断罪する内容の、胸糞悪い記事だった。
「どうした。そんなに甘えて……薄気味悪い」
「はは……君はいつでも容赦ないな。まぁいいよ、それで。その方が楽だから。何も考えなくていいし……」
 ただ少し、そう、人肌恋しいだけだ。
 そして、もう怒り疲れてしまった。シリウスを失った直後のハリーなら、あんな新聞記事を見たらその場で燃やして怒り狂ったかも知れない。だが、今となっては帰らないあの人を想って泣き暮らすのも、狂ったように喚き散らすことも……消化しきれない気持ちを発散するために何か行動を起こすだけの気力がない。
 こんな弱さを見せてしまえば、ロンとハーマイオニーは心配してしまう。それはいけない。彼らにこれ以上心労をかけることを、ハリーの中の理性がよしとしなかった。その反面この目の前の男なら、包み隠すことなく己を晒け出せる。好かれても嫌われてもどうでもいい天敵たる男ならば、何をしても許される、そんな気がした。だからこそこうして、疲れたときには疲れたと言いながら、目の前の男に寄りかかることが出来ている。
(世も末だな)
 要するに、甘えているのだ。悍ましいことに。まさか、こんな形でこの男と歪な関係を築くことになるなんて。ついこの間までの自分は夢にも思わないに違いない。
「ちょっと……疲れた」
 微睡みが押し寄せてきて、思考にノイズがかかる。
 直に触れる男の温もりがやけに沁み入り、満たされていくような錯覚を起こした。潤った土から芽が出て、無限に伸びた蔦が逃れようともがく自分を雁字搦めに捕らえようとする。ポツポツと咲き始める名前のない花々は甘い匂いを放ち、否が応でも己が抱く感情の種類を自覚させられる。
「ドラコ、」
 止まれ、止まれ。何も考えるな。余計なことを考えてしまいそうな時は、冷たいアイスブルーの瞳を見てやり過ごすに限る。今にも咲いた花を摘み取らんと冷静にこちらを見るあの瞳を前にすると、浮き足立った思考がみるみるうちに萎えていくから。
(線引きはしないと……)
 この男から与えられるものなんて、不快感と苛立ちだけ。そう思っていなければ傷つく羽目になるのは自分だと、理解している筈なのに。こうして触れていると何かを期待してしまいそうになる。
 このままではいけないと、でも今だけはこの閉塞的な空間で息をさせて欲しいと、俯けた顔が諦めたような笑みを形作る。
「……やっぱりおまえは、かわいそうな男だな」
 あちこちに跳ねた黒髪を撫でる掌は、温かい。
 そんなハリーの胸中など知らずに思うがまま振る舞う男が、なんとも憎らしく。一方で、徐々にほだされつつある己の単純さと脆弱さを、心底呪った。


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