――家族が欲しい。
「何もかもを預けて、ただ傍にいてくれる。一人だけでよかった。そんな特別が、ずっと欲しかった」
流した涙を何も言わずに拭ってくれる存在を、何か不安に思ったときに相談出来る親のような人を、何もかも諦めた振りをしてずっと渇望していた。両親が死んでからずっと一人で生きてきたような気持ちで毎日を過ごしてきて、そんな中ようやく現れた名付け親だというあの人に猛烈に焦がれた。
「家族、か」
「君は何もかもが恵まれているから……なのに、恵まれているのに本当の意味でそのことを理解していなくて、そういうところが大嫌いだった」
ぽつり、ぽつり、と。降り始めの雨の如く吐き出される独白に、ドラコは瞑目する。閉じた瞼の裏側で、一体何を考えているのか。今まで何ひとつ会話が噛み合ったことのない生粋の箱入り息子の考えることはわからなかった。
「……謝らないぞ」
「まさか。君に謝罪なんて期待していないさ。寧ろ謝られる方が気持ち悪いから、君はそうやってふてぶてしくふんぞり返ってればいいよ」
毒のある言葉には不釣り合いなほどの、楽しげな声色。手持ち無沙汰に近くにあった左手に己の右手をあてがうと、雪のように白い肌を撫で上げる。
「夏休みが終わったら――」
そこまで言って、ドラコは不自然に口ごもった。その先を告げるのを躊躇うみたいに。
「もう、この部屋には来ない」
続きを聞く前に、ハリーが答えた。ドラコはハリーが何と言うのかわかっていたのだろう。そうか、とだけ呟いて静かに目を伏せた。
終業式を控えた早朝。日の出前の薄暗い部屋の中、ベッドの上で肩を並べながら言葉を交わす。色々とあった今学期も、じきに終わろうとしていた。夏期休暇が明けたらハリーたちは六年生だ。闇の帝王が復活し、死喰い人たちの動きが活発化している今、ますますハリーたちは危険に晒されることとなるだろう。あまり考えたくはないが、身近な人間の中からまた新たに死人が出るかも知れない。
悲しみに浸る時間はもうない。前を向いていかなければ、もっと人が死んでいく。
シリウスを失って自暴自棄に陥っていたハリーが、現実を受け止め前向きになれたのは、この部屋の存在と……痛烈な毒舌で頻りに自覚させようとしてきたドラコのおかげだった。
「ここで見たことや知ったことは全部忘れて欲しい。僕はここで得たもののすべてを、ここに置いていく」
「……」
「この部屋を出た後、僕たちはまた敵同士に戻る。僕らにはそれぞれ守りたいものがあるから、逃げ出すわけにはいかない……そうだろ、ドラコ」
緩慢な動作で振り向いた顔からは、血の気が失せている。いつになく強張った表情は悲しみのどん底にいた時のハリーの表情と似ていて、思わず苦笑した。あぁ、そうか。彼もまた、自分と同じ感情を抱いていたのか。失うことを恐れているのか。そのことに気づいてしまったが最後、歯止めが利かなくなる。ひたすらに目を逸らしていたものと再び向き合って、綺麗に昇華して、そして全部、ここに置いていこう。ドラコの顔を見て、ハリーは固く決意した。
僕らは捨てなくてはならない。
光と闇は、絶対に表舞台で相容れることはないのだから。
「……ドラコ」
どうせ、ここに置いていくのなら。捨てなくてはならないものならば。
「ハリー、僕は――」
ちゅ。
軽い口づけでもってして、言葉を奪い去る。その先は言わせない。一線を越えてはいけない。己のために死んでいった人たちに報いるためにも。ただでさえ、目の前のこの男に心奪われてしまったことが罪なのだ。これ以上深みに嵌まってしまうなど、絶対に許されない。
「ドラコ、その胸の中のものは摘み取って、置いていかないと。じゃなきゃ、君も大事なものを失うことになる……戦いはもう始まってるんだ」
杖先を向け合う関係に戻る時。その感情は邪魔になる。いざという時に躊躇いが生じてしまえばそれは隙となり、結果命が奪われる。それが、戦争というものなのだ。ハリーは、ドラコに死んで欲しくない。自分が死ぬつもりもまったくないけれど。だから、互いに枷となりかねないこの感情は、互いが生き延びるためにもこの箱庭に置いていかなければ。
(いや、違うな)
ここは箱庭なんてかわいらしい代物では無いか。棺だ。思い出という名の骸を、美しいままの姿で閉じ込める、檻のような棺。そして僕は、その中に鮮やかな手向けの花々を敷き詰めて蓋をする。彼へ向けられた憧憬も、思慕も、愛情も。そのすべてをしまい込んで、二度と蘇らぬように。
「僕のために泣くのも、それで最後にして」
「……相変わらずの傲慢だ」
「何とでも言うがいいさ……でも僕は、君のために泣いてなんてやらない」
「……っ」
「泣かない。もう……決めた」
手向けの言葉の一つや二つ、くれやしないか。くれないか。温室育ちで甘ちゃんなマルフォイ坊ちゃんだからな。キスのテクニックは確かにこの男の方が上だけれど、気の利いた口説き文句一つ出てきやしない。まったく嫌になるよ。こんな男に惚れただなんて。
「キスしたい」
腰を抱かれ、ぐっと力強く引き寄せられる。
「うん……」
「手向けの言葉一つ送らせてくれないなんて、おまえは本当にムード作りが壊滅的にへたくそで無粋な男だな」
「あぁ、あれは手向けのつもりだったんだ? ごめんね?」
「もう二度と言ってやらないからな」
「うん、うん……ごめん」
棺の蓋が閉じる音がする。物々しく、悲しく、虚しい音が、反響する。狭苦しいこの部屋に、木霊する。
「んっ」
最後に触れた唇は甘かった。糖蜜パイには負けるけれど、何だか胃もたれしそうになる。そんな味。過ぎたる甘味は毒にも等しく、されどやみつきになる。
「……僕はいずれ死喰い人になる」
「そう……」
指を絡めた掌に、ぎゅっと力がこめられる。
「杖先を向け合うことになったその時は、容赦しない……」
さよならをしよう。棺の蓋は閉じた。視界はブラックアウトし、ひたすら暗がりが続いている。恋慕を抱いた男の顔も、これで見えない。寂しいとは思わない。思っては、いけない。
「っ……は、ふぁ」
「……、」
あぁ、最後ぐらい、笑ってみせればいいのに。あんなに甘く感じたキスが途端にしょっぱくなってしまった。頑なに彼は笑わない。あの日、この部屋で初めて出くわした日のハリーよりも、痛そうな表情を晒して泣いている。笑え、笑えよ。そう言ってやりたかったが、声は嗚咽となり言葉にならなかった。これじゃあ人のことを言えないな。
さぁ、終わりにしよう。すべてを。リセットしよう。
二人の秘密の箱庭。檻であり境界線。がらんどうの棺は、痛いくらいに静まり返っていた。
「そろそろ時間だ……」
ぎゅうっと抱き締め合って体温を分け合う。離れたくなかった。それは二人とも同じで、少し身体を離せばキスをしたり、腰を撫でたり、ズルズルと触り合いが続く。
「ん、……行こうか」
ドアノブを持つ手が震える。この一歩を踏み出せば、それで僕らの蜜月は終わりだ。
恋をしていた。どうしようもなく。苛烈に燃え上がるような恋をしていた。燃え上がった後に残るは、吹き飛ばせそうなほどに軽い、軽い、灰塵だけ。
愛していた。そして、ずっと愛しているのだろう。
行き場をなくしたこの恋心は――この部屋に置いていく。
部屋中を満開の花で彩った。極彩色の花たちが、閉じ込められた想いを美しく飾り立てる。開いたドアの隙間から漏れる朝陽は、これで見納め。身が引き裂かれそうな思いで一歩を踏み出したその時、それまで繋いでいた手が名残惜しげに離された。
(綺麗だ、嫌みなくらいに)
互いに背を向けて歩き出す。緑色のローブを纏った少年は影の落ちる方へ。深紅のローブを纏った少年は光溢れる方へ。後ろは振り返らない。振り返ってしまえば、歩みが止まってしまうことを二人は知っていたから。
役目を終えた部屋の入り口が、泡の如く溶けて消えた。
二人分の温度を残した空っぽの棺の中。枯れることを知らぬ花々の骸は、人知れず永遠に眠り続ける。
【わかれ花 完】