*wHiteOut

Harry Potter

 空を見上げれば分厚い雲が太陽の光を遮っている。初冬には珍しく、ちらほらと眼前を舞う粉雪は、コンクリートの道にうっすらと雪化粧を施して、冬の訪れをありありと見る者に訴えていた。

 バークシャー州・メイデンヘッド。

 そこは、六万人ほどのマグルたちが住まう街である。魔法省を出たハリーは、次のターゲットと思われる人物に接触するべく、このどこか薄暗さの漂う街へ足を運んでいた。
「……ここか」
 真正面にそびえるは、煉瓦造りの古びた教会。名をオールセインツ教会という。日中は礼拝に通う人たちで溢れているのだというそこは、今は夜ということもあり人気が皆無で、些か寂れた印象を受けた。
(……血の匂い。遅かったか)
 ギィ……ギィ……、と。
 礼拝堂へ繋がる大扉が、半開きのまま風に煽られ蝶番を軋ませている。さあ、早くお入り。何も恐ろしいことなどないのだから。ここにお前の求めるモノが待っている。そうハリーに囁きかけてきているように感じて、ゾッと背筋が粟立った。まるで吸魂鬼とでもでくわしたかのような心地だ。
「やぁ、キミが噂の悪魔かい?」
 暗闇に身を潜め、努めて出した平静な声は、思っていた以上に軽薄な響きでもってして礼拝堂に木霊した。
「……誰だ」
 雲の切れ間から覗く月光が、ステンドグラスを透過して七色に輝く。粛々たる天光の下、炙り出された現実はあまりに悍ましい姿をしていた。
 透き通る白い肌、緩やかにウェーブする濡れ羽色の髪、興奮から赤く染まる鋭い双眸。歳の頃が十代前半と見られる男は、噂に違わず悪魔のように美しかった。しかし、身体中に飛び散った返り血と、男の腕に抱かれた物言わぬ死体が、彼の美貌を悉く台無しにしている。
(悪魔の『よう』だなんて生温い)
 そんな忠告じみた言葉が、脳裏に浮かんでは消えていった。アレは紛れもなく悪魔そのものだ。これ以上関わるのは危険である。ややあって、本能がけたたましく警鐘を鳴らし始める。鉄でできたフライパンを、耳の奥でひっきりなしに打ち鳴らされているみたいだ。頭が割れそうなくらい痛い。
 危険だと?
 思わず鼻で笑ってしまう。そんなことは百も承知だ。それこそ、嘗てあの男を葬り去ったあの頃から、嫌というほどに。
「僕を忘れたかい? 酷いな、あんなに深く繋がり合った仲なのに……」
「意味がわからない。気色の悪いことを言うな。どうせお前も無能な警察なんだろう。お望み通り殺してやるから、そんなところに隠れていないで出てこい」
 コツ、コツ、と乾いた靴音が反響した。
 逸る鼓動とは裏腹に敢えてゆっくりと、焦らすように男の方へと歩いてゆく。男は相当警戒しているのか。暗がりで底光りする赤い瞳を、一瞬たりともこちらから離そうとはしなかった。
 何故だろう。その姿に少しだけ違和感を覚える。記憶の中のトム・リドルは、いつだって憎たらしいほど余裕綽々だった。あんなにあからさまな表情で、ハリーのことを脅威としてその目に映すことはしなかった。それこそ周りを飛び回る鬱陶しい羽虫でも見るかのように、いつだって傲岸不遜に周囲を見下ろしていた。
「……っお前、は」
 ハリーの姿を捉えた瞬間、男の瞳孔がキュッと縮まる。
「十年ぶりの再会だね、トム。ありがた過ぎて涙が出るよ」
「……ッ!」
 挨拶もそこそこに、互いに杖先を向け合った。間髪入れずに飛んできた緑色の閃光を避け、武装解除の魔法を仕掛ける。
 最終決戦を迎えたあの日のことを、未だ鮮明に覚えている。自分を守るために沢山の人たちが犠牲になった。ダンブルドア、スネイプ、ドビー、リーマス、フレッド……シリウス。彼らの死を無駄にすることなど許されない。自分は彼らから託されたのだ。未来の魔法界の安寧を。もしも終わったのだと思っていたあの日の戦いが、まだ続いていたのだとしたら、今ここで決着をつけてやる。絶対に逃がしてなるものか。
「お前だけは絶対に許さない……ッ! ヴォルデモート!」
 そして、次の攻撃に備え保護呪文を唱えた直後であった。男の手元から弾け飛ぶ白い杖を目にしたのは。
「え、……⁉」
 まさかこんなにもあっさり決着がつくはずがない。とても信じられなかった。けれど、事実リドルの愛杖はハリーの魔法によって武装解除され、華麗に宙を舞っている。
(こちらを油断させるための幻覚魔法? いや、違う。痛覚がある。杖の下に影がある。これは現実だ!)
「アクシオ……!」
 リドルの杖を掴み取り、もう一度自身にプロテゴを重ね掛けする。純粋な驚愕を浮かべた男の顔は、あまりにも無防備なそれだった。やはり、何かおかしい。そこにきてハリーは違和感の正体に行き当たる。まさかこの男は……。
「キミ、記憶がないのか?」
 ガン、と横っ面を殴り飛ばされたみたいな衝撃を受けた。疑う余地もないくらいに、この男の纏う空気は同じなのに、見た目もそっくりなのに、肝心の彼を彼たらしめるモノが無いなんて。このふつふつと込み上げる怒りを、激情を、何処にぶつければいいのかわからなかった。
「ふざけるなっ……!」
 誰かのなりすましだったとしたらタチが悪い。衝動的に口を開いて、変身解除の呪文を唱える。
「レベリオ!」
 されど男の姿は変わらない。
 いっそまったくの別人であってくれ。そんな懇願は敢えなく潰え、目の前が暗くなった。
「お前も『特別』なんだな」
「……?」
「ますます気に入ったよ……ふふ、」
 狂ったように男が笑い出す。心底おかしくてしかたがない。そう言わんばかりに、血溜まりの中で笑い転げる男の姿は異様であった。
「僕の知らない『僕』に手酷くイジメられたようで」
「っうるさい……!」
「可哀想に。まるで怯えきった子羊のようだ」
 男がゆっくりとハリーの方へ近づいてくる。後退しようとして、両足がひくりとも動かないことに気づいた。まさか石化呪文か。慌てて解除を試みるも、両足どころか両手も動かなくなっていて、杖を振るうことが叶わない。いつの間にこんな魔法を掛けられたのだろう。記憶が無いとはいえ、嘗て闇の帝王として魔法界を蹂躙したその実力は、忌々しいことに未だ健在のようだった。
「お前は何者だ」
 低く唸り、問いかける。男は酷薄な笑みを浮かべ、大仰に肩を竦めてみせた。
「何者? さぁ? そんなの僕の方が聞きたいね」
「はぐらかすな! お前はトム・リドルなんだろう! 何故お前が生きている!」
「……」
「お前はあの時僕が倒したはずだ! お前の魂の末路だってこの目で見た! なのにどうしてお前が、」
「何もわからないながらに、一つだけ理解していた」
 唐突に、男の目がとろりと蕩ける。
「あちこちに跳ねる癖のある黒髪、意志の強さを伺わせる翡翠の瞳……一目見ただけで、大いに心揺さぶられた」
 恍惚を晒すその顔は、同じ男でも直視が憚られるほど艶を帯びていた。思わず生唾を呑み込む。理性を総動員してガチガチに自制しなくては、惹き込まれてしまいそうだった。
「コイツだけは殺さなければならない。そんな衝動のままに似たような男たちを殺し続けた。それでも満たされず、飢えは増し、渇きは酷くなり、気が狂いそうになっていた時だった」

 ――僕は、キミに出会った。

 ひたり。
 獰猛な視線に射抜かれる。秘密の部屋で初めて彼と邂逅した時のことを思い出した。あの不思議な既視感と、昔から知っている友と再会したかのような懐かしさ。己と彼を繋ぐ魂の結びつきが、その錯覚を作り出したのだと、今となっては理解している。けれども、それを失った今でさえ、男に対して形容し難い感情が込み上げてくるのはどうしてか。
「あぁ、……僕はきっとお前を殺すために生まれてきたんだ」
 力の抜けた指先から、リドルの杖が抜き取られていく。ハリーの愛杖と芯を同じくした、世界にたった二つだけの兄弟杖。主人であるヴォルデモートの死と同時に、彼のイチイの杖も失われたものだと思っていたのだが、まだ残存していたとは夢にも思わなかった。
「まるで目障りな羽虫だ。いくら振り払おうとも消えない」
「……トム、」
「お前をむごたらしく殺してやりたい。この世のあらゆる恥辱と苦痛を与えてやりたい。こんなにも凶悪な感情を、お前にぶつけたくなるのは何故だ? お前は僕にとっての何なんだ?」
 血を吐くような声で、苦しげに男は言い募る。
 この男は本物のトム・リドルなのか。だとすれば、十年前に倒したはずの宿敵が、何故再び姿を現すこととなったのか。気になることは山ほどある。
(見たところ実体はあるようだ。記憶は無いみたいだが、意識はハッキリしているし己がトム・リドルであるという自覚もある……)
 分霊箱のようなものだろうか。しかし彼が残した分霊箱は、最終決戦の時にすべて破壊済みだ。リドルの日記、スリザリンの首飾り、ハッフルパフのカップ、レイブンクローの髪飾り、ゴーントの指輪、ナギニ……。それ以外にも、あの男に纏わるいわく付きの代物は、すべて闇祓い局にて押収し、厳重な管理下に置かれている。つまり無力な赤子の姿のまま、あの白い駅に今も取り残されているであろう男が復活する可能性など、万に一つもありえない――そのはずだった。
「お前の存在が僕を狂わせる……」
 この世のあらゆる憎悪を煮詰めて溶かしたような視線が、ハリーに絡みつく。
「ワォ……まるで愛の告白みたいだ。とびきり趣味の悪い、ね」
 緑色の閃光が顔スレスレを通り過ぎていった。お得意の禁じられた呪文だ。記憶がないくせに、こういう無駄な知識だけは忘れていないだなんて、本当に嫌になる。
「随分とコントロールが不安定なようだね。やっぱり記憶がないと、知識はあっても実戦は難しいものなのかい?」
「……すぐにそんな軽口を叩けなくしてやろう」
 石化していた身体を自力で解く。早速応戦してやれば、自身の魔法を破られたことが余程癇に障ったのか、リドルが苛立ちを露わに舌打ちした。端麗な顔がみるみるうちに怒りに歪められていく。
「キミ、黙ってればハンサムなんだから、そんな鼻の穴に杖を突っ込まれたトロールみたいな顔しないでよ」
「……っ殺す」
 あれだけ自分の容姿と魔法に絶大な自信を持っていた男だ。その部分を突いてやれば、案の定簡単に安い挑発にも乗ってきた。良いぞ、その調子だ。ハリーは内心でほくそ笑む。このままダドリー仕込みの毒舌に煽られまくって、隙を見せてくれればいい。そうしたら一瞬で片をつけてやる。虎視眈々とリドルの調子が崩れる瞬間を狙いつつ、ハリーはひたすらに舌を回した。頭の中はどこまでも冷静さを保ちながら。
(くそ……っキリがないな……『プロテゴ・マキシマ』!)
 暫しの間、無言呪文での応酬が途切れることなく続く。あちこちで緑と赤の閃光がぶつかり、教会のベンチを盛大に吹っ飛ばした。これは後日始末書ものかもしれない。マグル界の教会で魔法を使っての大乱闘。明らかに国際魔法機密保持法違反だ。頼むから目撃者はいてくれるなよ、なんて厚かましくも神へ祈って、また飛び掛かってくる拷問呪文を退け壁を破壊する。
「しつこいぞ……! いい加減死ね!」
 激昂するリドルは、魔法使い同士の戦いに関する記憶がないためか、戦闘時の立ち回りにおいて拙い印象を受けた。ただ威力のある攻撃魔法を放っているだけで、ハリーからの攻撃を魔法でいなしたり弾いたりする様子も見られない。恐らく魔法のコントロールが不安定な状態なので、そういった小細工ができないのだろう。このままなら近いうちにガス欠しそうだ。
 そこまで計算して、ハリーは腹を括った。正直キツいが持久戦に持ち込もう。
「コンフリンゴ!」
 派手な爆発を起こして目眩しする。
 咄嗟に目を庇ったリドルが油断した隙に、再び武装解除の呪文を放った。
「エクスペリアームス!」
 闇祓い局の局長という肩書きは伊達じゃない。修羅場を乗り越えた数だけなら人一倍ある。今は仲間たちがいないけれど、代わりにこれまで培ってきた経験が己の力となってくれる。
 ――あと一歩、というところであった。
 杖を失った魔法使いは魔法の威力やコントロールが格段に落ちる。このまま一気に畳み掛ければ、ハリーの勝利はほぼ確実であった。しかし、これぞ絶好の好機といったタイミングで、その異変は起きた。
「……⁉」
 リドルの身体の周りから、黒い靄のようなものが立ちのぼっていく。見覚えのない現象だ。新手の闇の魔術か何かか。咄嗟に靄に触れないよう距離を取り、男の様子を観察していると、彼は赤い瞳を底光りさせて憎々しげに吐き捨てた。
「時間のようだ。お前は今度じっくり甚振ってから殺してやる」
「……」
「どこに隠れていようとも見つけ出して八つ裂きにしてやる。覚えていろ。『僕はお前がどこにいようと、お前を見つけ出す』」
「待て……!」
 怪しげな靄が離散すると同時に、男の姿も消えた。どうやらあの靄の正体は、闇の陣営がよく使っていた移動魔法であったようだ。
(時間って何のことだ。それにあの靄……どこか違和感が……)
 周囲に敵が潜んでいないかザッと確認した後、祭壇近くに横たわっている遺体を調べる。魔法の存在を知らないマグルの被害者は、自分の身に何が起きたのか理解できないまま絶命したのだろう。その表情は驚愕の色を残したまま、冷たい大理石の床に倒れ伏していた。
(死の呪文による殺害……。魔力痕も一致している。やはりこれまで起きた一連の事件も、リドルがやったとみて間違いないだろう)
 見開かれた瞼をそっと下ろしてやり、静かに十字架を切る。敬虔なキリストの信者というわけではないが、被害者が安らかな眠りにつくことを心から祈った。
 左手で握り締めていたリドルの杖は、兄弟との再会を喜ぶかの如く掌の中で息づいている。心なしか懐にしまったハリーの杖も、じんわりと温もりを宿し、歓喜に震えているように思えた。そんな愛杖の姿を前に、この世に一つしかない兄弟杖を破壊する気にはなれず、ハリーは複雑な感情を持て余しながらもリドルの杖をホルダーにしまう。
 頭では壊すべきだと理解していた。分霊箱をそうしたように。闇祓いとしての己は、情に流されることなく今すぐリドルの杖を破壊しろ、と頻りに喚いていたけれど、ハリーはそうしなかった。
「そうだ、この杖を囮に使えばいい。杖を持っている限り、アイツはきっと取り返しに来るだろうから」
 青白く光る杖の柄を握り、一振りしてみる。スッと抵抗なく魔力が循環してゆくこの感覚は、やはり兄弟杖だからこそ成せる御技か。
「君と僕を繋ぐモノは、もうこれだけだ……」
 杖先を撫で、独りごちる。込み上げてきた想いには蓋をして、ゆっくりと目を瞑った。
 真冬の凍てつくような静けさが、無言でハリーを責め立てる。
 重苦しい沈黙に、心が押し潰されそうだ。
「……痛い」
 ぽつり、と独り言ちる。
 胸が、痛い。

 *

 リドルとの思わぬ邂逅を果たしたあの日以降、連続殺人事件はぱたりと途絶えた。突然足取りを掴めなくなったシリアルキラーXについて、魔法省は今後も調査を継続する方針であることを公表したものの、その成果は芳しくなく。マグル界と魔法界の間には殺伐とした空気が流れ始めている。
「『例のあの人』が復活しただなんて、まさかそんなこと……」
 闇祓い局の執務室にて、紙のように白い顔をした部下が、恐る恐るといった風に言う。
「正確に言えばヴォルデモートの姿をした『ナニか』だけどね」
「しかし信じられません……『例の』……失敬。ヴォルデモートが復活したとしたら、また以前のように支持者を集めて、いの一番に魔法省に報復しに来そうなものですが……」
「奴にしてはおとなし過ぎると?」
「ええ……」
 ハリーが出くわした闇の帝王が本来の姿を取り戻し、尚且つ記憶を失くしているという事実は、一部の人間を除いて対外的には伏せられることとなった。魔法省もまだまだ一枚岩とは言えない。実際闇祓い局にも何人か、闇の陣営側のスパイが紛れ込んでいたことがあった。仮にリドルの記憶が無いと知られた時、彼を傀儡にしようと企む輩が出る可能性がある。そのような懸念から、ヴォルデモートに纏わる詳細の事情については、ハーマイオニーとロンの二人だけに伝えられたのだった。
「レディ・マージ。この調書なんだけど、ここのサインが抜けてるから、ちょっと忘術本部まで貰いに行ってくれる?」
「かしこまりました」
「ありがとう」
 扉の閉まる音が響く。人気が無くなった部屋の中、自動筆記羽ペンがガリガリと紙を削る音だけが延々と繰り返された。
 カラン、カラン。
 その時、澄んだドアベルの音色が、束の間の平穏を打ち破る。この部屋はハリーの許可無しでは入れないよう、かなり複雑な結界魔法を掛けていたはず。反射的に立ち上がり杖を構えたハリーは、目の前に立つ男の顔を見るや否や、うんざりした顔を隠しもせず杖先を下げた。
「また来たのかい、トム」
 予期せぬ侵入者はまさかのリドルであった。
 まったく。この執念深さには恐れ入る。この男はあれから有言実行とばかりに、ハリーがいつどこで何をしていても姿を現すようになった。音もなく背後に立たれることもあれば、今日のように堂々と入り口から入ってくることもあり、最近はほぼ毎日といっても過言ではないレベルで顔を合わせている。
「お茶を淹れたんだ。せっかくだから飲んでいく?」
「僕の杖を返せ」
「そうピリピリしないでくれよ。生理前の女子じゃあるまいに」
「……本当にお前はいちいち癇に障る」
「ティータイムは英国紳士の嗜みだよ? 大丈夫、毒なんて入れないから。多分ね」
 初めの頃は無言で拷問呪文を放たれたり、不意打ちに死の呪文を投げつけられたりと散々な目に遭ったものだが。どれも杖無しで不完全な魔法であったが故に、まったくもって効き目無し……とくれば、流石のリドルもお手上げだったのだろう。最近は無駄な労力を使わずに、言葉で応戦してくるようになった。
 とはいえダドリーに鍛え上げられた口の悪さは、あのハーマイオニーにも『一周回って尊敬する』と言わしめたほどなので、ハリーが負けるはずがないのだけれど。
「君は不思議だね。いつも何処からともなく現れる」
「……」
「何か特別な追跡魔法でも掛けられているのかな?」
 ハリーが淹れたハーブティーに、何の疑いもなく口をつけるあたり、随分と信頼されたものだなと思う。あれからもう半年か。彼がハリーを襲撃し始めた頃なんて酷いものだった。手負いの獣の如く暴れ回り、怨念を込めた呪詛を撒き散らし、激しく罵倒し、対話なんてとてもでないが望めぬほど、凄まじい荒れ具合だった。
「……あの女は、」
「?」
「いつもお前に纏わり付いている女だ」
 突拍子もない話題を出されて面食らう。はて、誰のことだろうか。ざっと普段よく話す女性たちの名前を思い起こし、されどまったく心当たりが見つからず首を傾げた。ハーマイオニーは学生時代ならともかく、社会に出てからはめっきり話す機会が減ったので除外。部下たちだって、英雄・ハリー・ポッターという肩書きに色目を使うわけでもなく、寧ろ権力闘争絡みのトラブルを煩わしく思っている者しかいないため、これも除外。
 考えれば考えるほどわからなくなる。リドルは誰のことを言っているのだろうか。
「さっきまでこの部屋にいた」
「あぁ、レディ・マージのことかい?」
「あの女とお前は親しいのか?」
 リドルがソーサーの上にティーカップを置く。カチャリ、という食器のぶつかる音がやけに耳に残った。
 ハリーと近しい人間を殺すことで、報復する腹積もりなのだろうか。二人の間の空気に僅かな緊張が走る。特定のパートナーがいないことを、心底有り難く思う日が来るだなんて思わなかった。
(どういうつもりだ……?)
 この男はいつだってハリーから大切なものを奪っていった。両親も、友も、家族になろうと言ってくれた名付け親も。失う度に身を裂くような深い悲しみがこの身を襲った。心が折れかけて、いっそ自分も同じところに行けたなら、なんて血迷った考えをしたことさえあった。
 将来家族となる人と暮らすはずだった、がらんどうの大きな家に一人きり。灯りの消えた部屋の片隅で、死者に思い馳せながら涙する虚しさは、もう二度と味わいたくない。
「君はそれを聞いてどうするの?」
 マナー違反だと知りながらも、質問に質問で返す。ぐっと眉根を寄せたリドルは、しかし予想に反し不機嫌になることもなく、途方に暮れたような声で小さく答えた。
「……わからない。ただ気になっただけだ」
 まるで幼い子どものようだ。今の彼の言葉は、嘘偽りのない本心であるのだろう。いつもは凜然とした眼差しを向けてくる瞳は動揺から揺らいでおり、普段感情を顔に出さない彼にしては珍しく、不安げな表情を露わにしていた。
「何となく不愉快に思った。それだけだ」
(やめてくれ)
 胸の奥が耳障りな音を立てて軋む。この男はすべての元凶たるヴォルデモートだ。ゆめゆめ忘れるな。そう必死に己へ言い聞かせるも、一度緩んだ感情の綻びから、するすると理性が解けていってしまう。目の前の男は、白い駅に閉じ込められ、永劫贖い続けることを強いられた魂とは異なる存在だ。ならばこそ、過去のあれこれを彼にぶつけるべきではないのではないか。逆に言えば、二人の間にあった蟠りを抜きにして、彼となら腹を割って話すことも……。
(いやいや、血迷ったか)
 今更、期待させてくれるな。自分も自分だ。仇である男相手に、理解し合うことができるかもしれないなんて、そんな甘い考えがチラリとでも頭を過るとは。これは死者への冒涜である。手酷い裏切りだ。
 この男の所業を思い出せ。あの惨劇を二度と繰り返してはいけない、絶対に。
「……君は恐らく人ではないのだろう」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。君は多分リドルの思念が込められた何かが具現化したものだ」
「……」
「彼であって彼じゃない……」
 このリドルにその自覚があるのかはわからない。でもこれだけは断言できる。彼は人ではない。人でないからこそ強力な結界がある場所でも好き勝手に入り込めるし、いくら追跡魔法を施しても完全に気配を絶つことができる。そして極めつけは、目の前のティーカップだ。一口でも口をつけたのだ。多少は中身が減っているはずなのに、こっそりカップの内側につけた印の位置から、水面の高さが変わっていない。彼が飲んだふりをしていたという証拠だ。
「お前、自覚しているのか?」
「なにが」
「その言い方、まるで僕に『トム・リドルであって欲しかった』と言っているようだ」
「……っ」
 言葉に詰まる。咄嗟に否定しようとして、できなかった。
「ずっと不思議でならなかった……『何故お前なのだろう』と。会ったことはないはずなのに、初めて会った気がしなかった。一目見た瞬間に、僕は間違いなくお前を求めていたのだとわかった」
 ふるふる、と。力なく首を左右に振る。それ以上言わないでくれ。沈痛な面持ちでハリーが示すも、彼の言葉が途切れることはなかった。
「まず怒濤の勢いで噴き出したのは、猛烈な怒りだった。お前を殺したい。虚を映したお前の瞳を見てみたい。空っぽになったお前の形をした骸を、この腕に抱いてみたい」
「トム、そこまでだ。もうこれ以上は――」
「次に湧き上がったのは……理解できない感情だ。その額の傷痕が目に入る度に、胸の奥がじりじりと焦げ付く。かと思えば、無性に触れたくなって、腹立たしくてしかたないのに目が離せない」
 すらりとした指先が、ハリーの方へと伸ばされた。滑らかに頬をひと撫でした掌は、悪戯に唇を掠め、その後額の傷がある場所へ触れる。この男の残虐性を思えば信じ難いほど、優しい手つきであった。
「……あぁ、やはり僕はお前には触れられるんだね」
 ほう、と恍惚と微笑むその顔から、堪らず目を背ける。ごめんなさい。誰に向けたものでもない謝罪を、胸中で呟いた。リドルの手は酷く冷たかった。ゴーストの身体の中を通り抜けた時と同じだ。独特の薄ら寒さが背筋を走り、反射的に身震いする。
「ハリー、目を逸らすな。僕を見ろ」
 頬を掴まれ、無理矢理顔を上げさせられる。
「僕は誰だ?」
「……トム・リドル」
「そうだ。僕は他の何者でもない、トム・リドルだ。そうだろう?」
 瞼の上にキスを落とされた。ひく、と肩が跳ね上がり、キツく目を閉じやり過ごす。駄目だとわかっているのに、愛撫を受け入れた。抵抗する気にはならなかった。
 彼と触れ合えば触れ合うほど、心の穴が埋まっていくのを感じる。満たされた気持ちになっていく。ハリーはリドルで、リドルはハリーだった。二人とも混血で、孤児で、マグルに育てられたという異色の経歴を持つ者同士。言葉はなくとも通ずる部分は多かった。
「……君は少し道を違えた先に立つ、もう一人の僕だった」
 どうしようもない孤独に押し潰されそうになったら、いつもリドルの存在を思い出していた。ロンと喧嘩した後や、英雄ハリー・ポッターとして色眼鏡で見られることに疲れた日、長期休暇前の浮かれきった空気に居心地の悪さを覚えた時……。リドルの日記の中で見た彼の姿を、何度も思い返していた。
『僕はむしろホグワーツに残りたいんです。その、あそこに帰るより……』
 彼も、帰る場所のない者だった。独りで生きてきた側の人間。ハリーと同じ……。
「今の君に言ってもわからないことかもしれない。でも、僕はずっと君と話してみたかった。君に僕を理解して欲しかった」
「……」
「君しか僕を理解できないと思っていたんだ。その証に君の兄弟杖は僕を選んだ。以来、この杖は僕の中から君の魂のカケラが失われても、ずっと僕に忠誠を捧げ続けてくれている……元々僕らの魔力は近しいものがあったのだろう」
 呼応するように、二本の杖をしまっているポケットがほんのりと明滅する。兄弟杖、という単語に興味をそそられたらしい。赤い光のチラつく黒い瞳の中で、瞳孔がキュッと収縮する様を見た。
「昔、君は言っていたね。『僕たちには不思議に似たところがある』と。その通りだ。本当に……怖いくらいに僕らは同じだ」
「……そうか。そういうことか。僕らが惹かれ合ったのは、何もおかしなことではなかった」
 秀麗な顔が凶悪に歪められる。興奮しきった獣を彷彿とさせる、獰猛な笑みだった。
「『そう在るべき』と予め定められていたんだ。あぁ、最高だ。最高だよ、ハリー!」
「ト、……ッ」
 バシンッ!
 という、何かの弾ける音がした。姿くらましをした音だ。しまった、と思った時には既に遅く、次の瞬間ハリーは何処かの部屋に飛ばされていた。
「僕の記憶に唯一残っている家だ。少々古いが、まぁ使えないことはないだろう」
「っどういうつもりだ」
「……さて、どうして欲しい?」
 微かに口端を上げ、リドルが穏やかに微笑む。
「僕がお前を欲しいと言ったらどうする?」
 窓際に置かれた簡素なベッドに押し倒され、リドルが覆い被さってきた。緩くウェーブした黒い前髪が、頬を擽る。直後、艶めいた声で囁かれ、腰がビリビリと甘く痺れた。なんだ、何なんだこの状況は。思考が混乱を極める一方で、己の中の冷静な部分は、これから己が何をされるのか明確に理解していた。
 恐怖から身体が強張り、指先一本動かすことすら叶わない。この状況になっても尚、男のしようとしていることが信じられなかった。勘違いだと思いたかった。
「ついにイカレたのか? 僕は男だ」
 唖然とした顔で、ハリーが言う。
「それが?」
「まさか君にそんな趣味があるなんてね。君の信者が知ればさぞお嘆きになるだろうよ」
「知ったことではないな。お前以外どうでもいい」
 引き攣った声でさらに言い募ろうとしたところで、強引に口を塞がれた。
「ン、」
 唇の隙間から舌が入り込み、ハリーのそれをいやらしく絡め取る。口内を好き勝手に蹂躙され、息苦しさから生理的な涙が溢れた。苦しげに喘ぐハリーを見て、リドルがクッと喉の奥で嗤う。
「僕の下でみっともなく足掻くお前を見るのは、随分と気分が良い」
 この悪趣味め。この世のありとあらゆる罵詈雑言を投げつけてやりたい気分であったが、生憎足りなくなった酸素を取り込むことに必死で、薄く開かれた口からは荒い息が漏れるだけだった。
 布擦れの音が響く。シュル、とベルトが引き抜かれ、スラックスの前を寛げられた。問答無用でジャケットが床に投げ捨てられ、シャツの前ボタンが外されていく。冷えた空気に触れた肌が粟立つ。これ以上の暴挙を許すまい、と震える手でリドルの腕を掴むも、そんな些末な抵抗は鼻で嗤われ一蹴された。
「や、めろ」
「その顔で言われてもね」
 首筋に思い切り噛みつかれる。ぶつ、と皮膚を突き破る感覚に危機感を覚えた。両足をバタつかせて本格的に抵抗し始めると、今度は胸元に強く吸いつかれる。
「いッ……! だめだ、て……こんなの許されない」
「誰に許しを乞う必要がある。神か? 死人か? 彼らが僕たちに罰を下すとでも?」
 ギラついたリドルの目が、潤んだ翡翠を射抜いた。この世に神なんていない。二人はそのことを嫌というほどに知っている。もしも本当に神がいるのなら、二人の運命をここまで過酷なものにしたソイツは、余程のろくでなしか究極のサディストだ。
「……トム、頼むから、……ん、」
 ついに生まれたままの姿となり、男の指づかいに翻弄される。時折気まぐれに硬くなった下半身を擦り付けられ、羞恥で頭がおかしくなりそうだった。
「最近ご無沙汰だったんだな。溜まってる」
 やわやわと陰嚢を揉みしだきながら、リドルが嘲る。
「そこ、あんま触らないで……」
「パンパンだね」
「いちいち感想言わなくていいから!」
 あからさまな指摘に、ボッと顔が熱くなった。確かに最近は目が回るほど忙しく、自らを慰める暇もなかった。人間の三大欲求のうちどれなら満たせていただろう。食事は栄養ドリンクに頼りきり、睡眠は多忙のあまり削られる一方で、性欲なんて言わずもがな。特に例の連続殺人事件が起きてからの生活は酷かった。
「『英雄様』なら寄ってくる女も多いだろうに」
 す、と眇められたリドルの瞳に、一瞬だけ苛烈な色がチラつく。
「寄ってくるのは僕の命を狙う君の信者くらいだよ」
「ふっ」
「思えば君に振り回されるばかりの人生だった」
「それは光栄なことで」
「ふざけんな」
 またゴリッと硬くなった雄芯を擦り付けられる。君だって人のこと言えないじゃないか。そう言い返してやりたかったけれど、できなかった。何故ならその瞬間、ハリーの両脚がグッと押し広げられ、なんとあらぬところにリドルが顔を埋めたからだ。
「ちょ、何やって……ッヒ、!」
 ペロリ。
 仔犬みたいな拙い仕草で、己の逸物を舐め上げられる。最近その手の刺激にご無沙汰だったハリーの分身は、鋭敏に快楽を拾い上げ、ふるふると小さく戦慄き涙を零した。
「やめ、えっ……汚いから……!」
 そこからの時間は嵐のように過ぎ去った。
 散々下半身を弄られ、しかし急所を握られているばかりに碌な抵抗も許されず、気が狂いそうなほどの快楽を与えられ続ける。少しでも彼を拒もうとしたり、他のことを考えて気を紛らわせようとすると、すかさず根本を握られ先端を舌で虐め抜かれた。堪らず「イかせろ」と叫ぶも、ハリーが騒げば騒ぐほど男は興奮する始末で、ついには「あまり反抗的なことばかり言っていると犯すぞ」だなんて物騒なことを言い始めたものだから、手に負えなかった。
「トム……ッ、トム、」
「ん……、ハリー……」
「アッ、ん、ぁ……も、……やっ……」
 ビクビクとはしたなく腰が跳ね上がる。もう限界だ。滲む視界の中、揺らめく黒髪をそっと撫で、懇願する。
「トム、イきたい……っ」
 ――いい子にしていたでしょう?
 涙目で訴えかければ、リドルは赤く染まった瞳をギラつかせ、ハリーを見つめた。貪るような視線であった。期待から生唾を飲み込み、彼が動き始めるのを待つ。だがそこで、そういえばリドル自身にはまったく触れていなかったことに気がつき、ハリーは言った。
「一緒にイこう、トム……君と一緒がいい」
「……っ」
「とむ、」
「クソ……!」
 ぐるん、と身体がひっくり返り、腰を高く掲げさせられる。熱に浮かされた頭では、何が起こったのか理解が追いつかず、ただ男にされるがままだった。
「足、もっと力入れて閉じろ」
 ややあって、ピッタリと合わさった太腿の間を、リドルのソレが割り入ってくる。今まで触れていなかったにもかかわらず、男の雄芯は天を向き、すっかり硬くなっていた。ハリーの痴態に煽られたのだろうか。だとしたら嬉しい。そう思ってしまう時点で、もう手遅れだった。
「……ハ、」
「ん……」
 ぱちゅ、ぱちゅ、と弾ける水音がいやらしい。
 彼が腰を動かす度に、ペニスの裏筋が容赦なく擦られ、女のような媚びた喘ぎ声が漏れた。音だけ聞いていれば本当にセックスしているようだ。そこまで思い至って、猛烈な自己嫌悪に襲われる。
(ごめんなさい……ごめん……)
 身体は熱くなっていくのに、心は冷めていく。気持ちいい、温かい、ずっと二人でくっついていたい。そんな満たされた心地になればなるほど、胸の奥がぎちぎちと締め付けられて痛んだ。ハリーの心を雁字搦めにする頑丈な鎖の正体は、仲間たちを裏切っていることへの罪悪感だとか、宿敵を打ち破っても尚消えてくれない、ヴォルデモートに対する憎悪だとか、そんなところだろう。
 つくづく己の弱さが嫌になる。
「う、……ぁ、アッ!」
「ふ……クッ」
 ばちん!
 最後に強く腰を打ちつけられ、強い快感に抗えず内腿がピクピクと痙攣する。そして、ぎゅっと尻たぶが引き締まり、押し出されるようにして精液が溢れ出た。直後にリドルもまた達し、埃臭いシーツの上で二人分の白濁が混ざり合う。
「……ハリー?」
「……っ、……ず、」
「泣いているのか?」
 肩を震わせ、嗚咽を堪える。情けない。嫌いだ、こんな自分。消えてしまえ。全部、全部、何もかも、消えてしまえ……。
 他人を慰めるなんてしたことがないであろう、傍若無人な王様は、静かに啜り泣くハリーの後ろで固まっている。お得意の嘘くさい微笑みと軽薄な言葉で、上っ面だけでも慰めてくれればいいのに。彼はらしくもなく何度か言葉に詰まりながら、恐る恐るといった風にハリーの身体を抱き締めた。
「なんで泣いている? 痛かったのか?」
「……っひ、ぅ」
「泣き止め。お前の泣き顔は確かに唆るが、今のお前の顔はなんとなく……嫌だ」
 不器用な触れ方だ。しかしハリーに泣き止んで欲しいという思いは伝わってくる。あの打算だらけの酷薄な男とは、到底似ても似つかない。顔の造形は同じなのに、まるで別人を相手にしているみたいだった。
「泣くなって」
 涙を拭わんと頬を摩る男の手を取る。上半身を起こし、彼の着崩れた白いシャツに顔を埋めた。
「トム……」
 躊躇いがちに彷徨っていた左手が、ハリーの背に回される。その手は冷たいのに、温かい。そして泣きたくなるほど優しくて、叶うことなら、もう何も考えずに男の腕の中で生きていたいとすら思った。
「なんで、どうして、わたしは……ぼく、は……」
 あぁ、気づきたくなかった。
 ただ話ができたなら、それだけでよかったんだ。同じ場所、同じ深さ、同じ大きさの傷を抱えた者同士、虚しさを押し殺して互いの傷を舐め合っていれば、この執拗に付き纏う孤独感から逃れられる。理不尽な現実を憎まなくてすむ。
 それだけで満足していれば、よかったのに。
「なんで……っ」
 こんな気持ち、今更知りたくなかった。

 ――この男を愛している、だなんて。


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