はらはらと舞う白い花びらの行方を、目で追う。
この永遠の牢獄にも雪が降るらしい。だだっ広い空間にぽつんと置かれたベンチの下には、悍ましい鳴き声を上げる『ソレ』が、変わらず人目を忍ぶように押し込まれていた。
「トム」
ギャアギャアと耳障りな声で何事かを叫びながら、ギョロリとした黒い目がハリーを捉える。
「君と話がしたいんだ」
土砂降りの雨のような鳴き声が止んだ。後ろを振り向くと、ホグワーツの旧制服を着た青年が、こちらを忌々しげに睨めつけている。
夢なのか現実なのかわからないこの白い駅で、彼と顔を合わせたのは初めてではない。ヴォルデモートとの繋がりは最終決戦で完全に切れたはずなのに、ハリーは度々この夢を見た。誰にも顧みられることのない閉じた世界へ、惨めに打ち捨てられた哀れな赤子。かの偉大な魔法使いに「我々の救いの及ばぬもの」とまで言わしめた、幾つもの大罪を犯した魂のカケラが、白一色の牢獄に囚われ続ける悪夢だ。
「やぁ、久しぶり。元気……は、その様子だと有り余っているようだね」
「何の用だ」
深々と刻まれた眉間の皺が、ハリーの来訪を不愉快だとあからさまに主張している。勿体無い。せっかくの美貌が台無しだ。
「『アレ』は本当に君なのか、確かめにきたんだ」
リドルの表情が一層険しいものとなった。血が出るほど強く唇を噛み締め、目元を吊り上げて憤怒の表情を浮かべている。
「あんなモノとこの僕が同じと?」
「僕には同じに見える」
「……」
沈黙は即ち肯定。疑惑が確信に変わる。やはりアレは彼と繋がっていたのか。
「彼の記憶が無いのはどうして? 君がすべてを持っていってしまったからかい?」
リドルは何も言わなかった。徐に空を見上げて、未だ降り続ける粉雪をじっと見つめている。その整った横顔には何も感情が浮かんでおらず、ハリーは目の前の男が何を考えているのかわからなかった。
「あんなのは唯の残り滓だ。僕であって僕じゃない」
「残り滓……?」
「分霊箱と同じ原理さ。しかし魂ではなく別のモノを軸に存在している」
残り滓、というのがどういう意味なのかはわからないけれど、そうか、なるほど。魂を軸にしていたなら、トム・リドルの記憶は分霊箱側にも引き継がれるはず。それができていない時点で、魂以外の何かが関与している可能性があることを、もっと早く気づくべきだった。
しかし肝心の軸が何なのかがわからない。魔法は使え、ハリーのみという制限付きだが物に触れられる。飲食は無理だが、はっきりと自我を持って話すこともできていた。ほぼ分霊箱に等しい存在を作れるほどの、強い力を秘めたナニか。それは一体……。
「くっ、くく、」
突然、リドルが笑い出す。
「……何がそんなにおかしい」
「お前は真実を知ったところで、アレを手放せるのか?」
ずくり、と心臓が嫌な音を立てた。彼を手放す。いつか必ずやってくる未来だ。闇の帝王が復活する可能性を完全に潰すために、あの人の正体がわかったら迅速に対象を破壊する。英雄として当然の行動だ。そもそも、それ以外の選択肢は許されていない。魔法界を守るために死んでいった仲間たちのためにも、ハリーは為さねば成らぬのだから。
「無理だよ、お前には」
す、と目を細めて、リドルが断言する。穏やかな声だった。駄々を捏ねる子どもを宥めるような、どこか懐かしさを覚える優しい声。
「お前にアレは壊せない」
「できるさ」
「無理だ」
できるに決まってる。今までだってそうしてきた。ヴォルデモートに纏わる品々は、二度と日の目を浴びぬよう粉々に破壊し、この手で封印してきた。よって、彼だけが例外なんてありえない。
「……できるよ」
雪の勢いが増す。小さく呟かれた言葉は、ゴウッと唸りを上げた風音によって掻き消されていった。リドルは未だ生ぬるい微笑みを貼り付けたまま、凪いだ眼差しをハリーに向けている。なんだか妙な気恥ずかしさを覚えて、ハリーはあの時と同じように、白い靄の奥から馴染みのマントを取り出した。そして、いそいそとそれを羽織る姿に、また男が小さく笑い声を上げる。
「君、なんだか楽しんでない?」
「あぁ、僕のせいで翻弄されるお前を見るのは最高だ」
「ほんとヤな奴……」
居た堪れなくなり、フードを被って顔を隠した。ブツブツとリドルに対する恨み言を呟いていれば、当の本人は軽快に鼻を鳴らしながら、無遠慮にフードの下を暴かんとしてくる。
「ハリー、僕はお前のその瞳だけは気に入っている」
つ、と目尻を親指で撫でられた。性の匂いを感じさせない、どこまでも自然な戯れ。まるで血の繋がった兄弟がするような、二人には無縁な触れ方であった。
「なに、ついに悔い改めたのかい?」
角が取れたとでもいうのだろうか。いつになく落ち着いた様子のリドルに、思わずハリーが問いかける。
「まだ言うか」
「君がちゃんと反省するまで、ずっと言い続けてやるさ」
「この世界でお前だけだろうな。こんなにもしつこくて哀れな生き物は」
「誰のせいだと……」
遠く向こうで汽車の警笛が聞こえた。目覚めの時は近い。漠然とそう思う。この駅はハリーの頭の中にある場所だ。夢とも現実とも言える世界。ダンブルドアは嘗て言っていた。ハリーが望むのであれば、このキングス・クロス駅は『先』へと連れて行ってくれるだろうと。先、というのが何処なのかは、お得意の言葉遊びで濁されてしまったけれど。でもきっと、そう悪いところではないはずだ。
「いつか、」
「……?」
「いつか、僕が死んだ時――」
まだ、早い。自分はダンブルドアの言う『先』へ進むべきではない。強い意志を込めて、徐々に近づいてくる煙を睨みつける。白い駅に辿り着く汽車は、やはり白いのだろうか。ふ、と確かめてみたい衝動に駆られたが、慌てて目を逸らし好奇心に蓋をした。
やるならいつかその日が来た時、じっくりと思う存分確かめればいい。
「僕はまたここに辿り着く。君を迎えに来るよ」
「……」
「その時は二人で迎えの汽車に乗るんだ。大丈夫、今の君ならきっと、僕と同じところへ行ける。そんな気がする」
そこで一旦言葉を区切り、ハリーは元の世界へ戻るべく目を瞑った。冷たくも温かくもない靄が身体を包み込んでいく。そんな中、唇を冷たいものが掠めていった。雪とはまた違う、柔らかな何かだ。すぐに目を見開き、それが何なのかを確かめようとするも、その時には既に辺り一面深い靄に覆われていて、視認することは叶わなかった。
前後左右があやふやになっていく。五感が失われ、ついに視界が真っ白に染まった。もう、何もわからない。自分が今何処にいるのか、何をしているのか、誰と共にいるのか……。
「待っている」
ぼやぼやと反響する声が、そう言っていたのは幻聴に違いない。
だって、あの捻くれ者の性悪男が、ハリーが望む言葉をくれるわけなどないのだから。
*
メラメラと小さな火花を散らし、暖炉の中で炎が弾ける。
テーブルの上に置かれたティーカップには、蜂蜜入りのホットミルクが並々と注がれていた。それに一口だけ口をつけて、ほっと一息吐く。ほんのりと甘いミルクの味が、心を落ち着かせてくれた。そして、良い具合に気が緩んだところで、ハリーは目の前に座る親友の方へと視線を移す。
「これはあくまで想定の話よ」
キッチンの奥で忙しなく揺れる赤毛を微笑ましげに眺めつつ、ハーマイオニーは言った。
「端的に言って、彼の正体はヴォルデモートの魔力だと思うわ」
博識な彼女はハリーにもわかりやすいようにと例え話をしてくれた。曰く、この話はゴーストを例に考えるとわかりやすいのだと。
マグルの世界にゴーストのような存在はいない。しかし魔法界には当たり前のように死んだはずの人間が、ゴーストとして存在している。なら、なぜ魔法族は死後も尚、現世に留まり続けることが可能なのか。それは偏に、魔力を宿しているかいないかの違いであった。
魔力と魂は強く結びついている。そのため、魔力を持たないマグルの魂は、死後この世からなす術なく消滅するしかない。一方、魔力を持つ魔法族の魂は、現世に留まるための手段がいくつか確立されている。それは、魂と深く結びついた魔力を別の器へ保管するといった方法であったり、魔力の塊となって現世を彷徨ったり、魂そのものを引き裂いて器に封じ込めたり……と、その方法は様々だ。
無から有を生み出す魔法の力は無限大である。
特にかのサラザール・スリザリンの末裔であるリドルは、魔力が桁違いに多かった。だからこそ、今回のような現象が起きたのだろう、とハーマイオニーは冷静に推察する。
「普通のゴーストは現世に干渉できないの。物に触れることはできないし、魔法で誰かを傷つけることもできない。せいぜいできたとしても、ちょっとしたポルターガイストを引き起こすくらいね」
「だが、トムは私に触れることができるし、魔法でマグルを殺した」
「それに関しては、彼の魔力が封じられている『モノ』が影響しているんじゃないかしら。日記帳だって、記憶を記録し、第三者に見せるという能力を持っていたでしょう?」
出来の悪い生徒を見るような目で、ハーマイオニーがハリーを見た。彼女の後ろに立つロンへと目配せすれば、彼は軽く肩を竦め、ふるふると力なく首を横に振る。
「……分霊箱は破壊したし、それ以外のヴォルデモート絡みの魔法具たちは処分したはずだけど、」
「何言ってるのよ。まだあるはずよ。未だ現存する『ヴォルデモートの愛用品』が」
褐色の瞳が、腰からぶら下げたハリーの杖ホルダーを捉える。
「まさか、」
「そう、ヴォルデモートの膨大な魔力に耐え続け、この世界で最も彼の魔力の質を知る『モノ』……」
――そうでしょう、トム・マールヴォロ・リドル?
ハーマイオニーが彼の名を呼ぶと同時に、黒い靄が杖ホルダーから噴き出した。ロンが即座に杖を構え、ハーマイオニーを背中に庇う。黒い靄は部屋中に広がった後、今度は部屋の中心へと集まり始め、ぼんやりとした輪郭は瞬く間に人の形を象っていった。
「出たなヴォルデモート……!」
ロンがリドルへ杖先を向けた。煮え滾る怒りと憎悪が、青い瞳の奥で燃えている。
「……そうか、君は……彼の杖だったんだね」
緊張の糸が張り詰めた空間で、ハリーの惚けた声は浮いていた。ロンとハーマイオニーが何事かを叫んでいるような気がするが、何と言っているのか聞き取れない。否、聞こえてはいるが、頭が意味を理解しようとしなかった。目の前の男しか目に入らず、思考が停止する。
「トム・リドルだよ、ハリー。僕という存在はそんな、只の無機物ではありえない」
「あぁ、確かに君は間違いなくトム・リドルだ。嫌というほどそのことは理解している」
長い腕の中に囲われた。ぎゅう、と力いっぱい抱き締められて、愛おしげに頬擦りされる。親友二人は絶句していた。それもそうだろう。いきなり闇の帝王が現れたと思ったら、其奴が今まで目の敵にしてきた英雄に、人目も憚らず縋りついているのだから。
「そして僕はヴォルデモートとも違う……この渇きは、飢えは、希求は、僕だけのものだ。……僕だけの感情だ」
濡れ羽色の髪に指を滑らせる。痛切な響きを持つ言の葉は、ハリーの心を容赦なく抉った。己の肩に顔を埋めているせいで、男の表情は窺えない。けれど、何となく泣き出す寸前の顔をしているのだろうと思った。
(しかたのない人……)
そして彼と同じくらい、いやそれ以上に己もイカレてる。
「そう遠くない未来で、君は自分の犯した罪の重さを知るだろう」
「……?」
「その時、君は想像を絶する恐怖と苦しみを味わうことになる」
白い駅のベンチの下で足掻いていた、憐憫を誘う子どもの姿を思い出す。あの時、ヒーヒーと泣いて震える赤ん坊を憐れんだハリーを、ダンブルドアは嗜めた。その哀れみは、死者ではなく生者へ向けるべきであると。
「……大丈夫、一人にはしない」
ダンブルドアのことは心から尊敬している。彼ほど偉大な魔法使いの称号にふさわしい人はいないと、今でもそう信じている。しかし、その言葉だけは素直に頷けなかった。ならば、ヴォルデモートがまだトム・リドルとして生きていた頃、ダンブルドアはどうして彼を哀れみ、手を差し伸べようとしなかったのか。彼に寄り添い、その孤独を理解しようとしなかったのか。
ずっと、それだけが引っ掛かっている。
「死が二人を分かつとも、僕と君は一緒だ」
「ハリー⁉」
悲鳴じみた声で名前を呼ばれた。耳の周りで一枚膜が張られたみたいに、音声がぼやけて聞こえる。視界は白く染まり、急激に意識が遠のいた。姿くらましにしては、随分と反動が大きい。
「トム、」
手を伸ばす。固く握り返されたのがわかった。よかった。指先の感覚はまだ残っているようだ。
「君に愛を教えてあげる」
パチンッ! と暖炉の炎が弾けた。
ロンとハーマイオニーが慌ててリビングを見回すも、そこには二人以外誰の姿もない。しかし、はらはらと舞う魔力の残滓と、飲みかけのティーカップだけが、確かに親友がそこにいたことを証明していた。