序章 霖雨の慟哭
「……マイキー君は間違ってる」
最後まで抗ったのは自分だけだった。
いつのまにか彼を支えてくれたであろう仲間たちは、周りからいなくなっていた。残ったのは、今はもうボロボロになって擦り切れた断片的な思い出たちと、痛いくらいに凪いだ寂寞、それから死に損ないの自分だけ。何度も何度もやり直し、今度こそは間違えないと未来には帰らず、幾つもの大切なものを犠牲にしてまで、彼の傍にいることを選んだというのに。運命というものはとことん二人に残酷だった。
「もういっぺん言ってみろよ」
「アンタが言ったんじゃないか。『挫けそうな時、オレがオレでなくなりそうな時』、」
「……黙れ」
「『オレを叱ってくれ』って、マイキー君が言ったんじゃないか!」
「黙れ!」
パァンッ!
銃声が轟く。激痛が胸を裂いた。僅かに急所から外れていたおかげか、幸いなことにあと数分くらいは息が続きそうだ。ヒュッという鋭い呼吸音が鼓膜を震わせ、両足から力が抜けて倒れ込む。
煤けたきったないコンクリートの床が、やたらと近くに映った。
「タケミ、っち……」
「……、ぐぅ……っマイ、きぃ……く……」
巡る走馬灯に沢山の人たちの笑顔が過る。
自分の命を賭けるほどに、好きで好きでしょうがなかった橘日向とは別れた。
何よりも幸せを願った仲間たちとは縁を切った。
愛情をもって己を育ててくれた実の両親の前から、一切の痕跡を残さず姿を消した。
全部、全部、全部、たった一人の男の傍にいるためだ。
「もう何も喋んな……今度こそお前を殺しちまう……」
「なんで……オレたちは、こう……なっちまうん……でしょ、う……」
「やめてくれ、頼むから……」
「万次郎」
「……っ」
――愛してる。
あぁ、これは命の流れる音だ。
どくどくと自分から流れ出ていく血脈の音色を聞きながら、武道は目を閉じる。雨の匂いがした。じめっとしていて、カビ臭くて、肌に纏わり付いてくる煩わしさはいつもなら不快に感じるのに、今は不思議とそうは思わない。頬を生温かい何かが伝い薄目を開けば、美しい顔が悲痛な面持ちに歪んでいた。彼のこの顔を見たのは、果たして何度目のことだろう。結局最後まで、あの満ち足りた笑顔を取り戻すことは叶わなかった。
それだけが、心残りだ。
「……笑って、万次郎」
「タケミっち……」
「オレ、アンタが笑ってる顔がいちばん好き」
強張った表情筋を叱咤して笑顔を見せてやると、さらに万次郎の顔がくしゃくしゃになった。だから笑えって。そう形の良い額を小突いてやりたいのに、身体が鉛のように重くて指先一つ動きやしない。
「……死なないで」
「……はぁ……は、」
「殺したくない……殺したくないんだ……」
「まい、き……」
「ダメだ、オレ……お前がいないと……」
乾いた音が鳴った。悲鳴のような銃声だった。
「大丈夫、タケミっち。オレもすぐに逝くから」
「が、はっ」
「お前を殺して、オレも死ぬ。地獄まで道連れにしてやるよ……ゼッテェ離さねぇ」
深淵を覗き込んだ気分になる、真っ黒い瞳をギラつかせながら、男が言った。まるで呪いだ。この男のことだから本当に実現しそうでタチが悪い。
次第に五感が遠のいていく。死ぬのか、オレは。生きるのはあんなに大変なのに、終わりは呆気ないものなんだな、なんて漠然と考える。この世に神様がいるのなら、さぞ腹を抱えて爆笑していることだろう。蟻みたいなちっぽけな存在である自分が、何度も何度もみっともなく足掻いて、喚いて、嘆いて、踏まれても踏まれても立ち上がって、ようやく掴んだ未来がコレなんだから。
自分でも、滑稽だと思う。
(あぁ、)
ついに視界が真っ暗になった。それまで頬に感じていた温もりも、鉄臭さが混ざった雨の匂いも、甘く甘く己を呪う泣き声も、何もかも無になる。
(かみさま)
叶うなら、もう一度だけ。
もう一度だけでいい。彼が屈託なく笑う顔を、見たかった。
『タケミっち、今日から俺のダチ! なっ♡』
死の間際に再生されたいつかの思い出は、あどけない笑みをこちらに向ける、東卍の特服を羽織った中学時代の佐野万次郎の姿だった。