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TOKYO卍REVENGERS

第参章 淵源回帰

 第玖話 はねやすめ

 ぽちゃん。
 揺らぐ水面にルアーが沈んでゆき、魚が罠にかかるまでの時間をぼうっと過ごす。時折釣り竿を上下に振っていると、隣で暇を持て余していたイザナが、武道のバケツを覗き込んできた。
「まだゼロかよ。ダッサ」
 鼻で笑うイザナのバケツを見れば、既に三匹もの活きの良いクロダイが、狭苦しそうに詰め込まれている。
「コラ、武道を馬鹿にするんじゃありません」
 同じくビリ争いをしている真一郎が、武道を庇った。
「いやだってコイツ毎回釣れても一、二匹じゃね? 流石にスルーされ過ぎだろ。雑魚すぎ」
「ぐ、何も言えねぇ……っ」
「俺まで刺さってんだワ。やめろやめろ」
 三人でワイワイ騒いでいると、少し離れたところで釣っていた乾が、バケツを抱えて武道のところにやって来る。彼の隣に九井はいない。いつもセットで行動していることが多い二人だが、真一郎がいる時は別行動している時が多かった。恐らく乾がいない間の九井は、赤音と一緒にいるのだろう。仲が良さそうで何よりだ。
「花垣が釣れなくても、その分俺が釣るから問題ねぇ」
 そう胸を張る乾のバケツの中には、四匹のメジナが入っている。褒めてくれと言わんばかりのドヤ顔が、こう言ってはなんだが、本物の犬みたいで可愛らしかった。いつものように指通りの良い金髪を撫でてやると、ブンブンとちぎれそうなくらいに幻の尻尾が振り回される。
 そんな彼の忠犬ぶりを目の当たりにして、イザナはあからさまにドン引きし、真一郎は微妙な顔をした。
「オマエ……それでいいんか」
 呆れた声でイザナが漏らす。
「ん? どういう意味だ?」
「イヌピー君はそのままでいいんです。オレの数少ない癒やし要員っスから」
 余計なことを吹き込まれる前に、武道が遮った。純粋な乾がイザナの影響を受けて暴君になるだなんて、想像しただけで卒倒ものである。突然「テメェ今から俺の下僕な」とか言い出したらどうしよう。多分泣く。引くほど泣く。
(イザナ君はもう手遅れだけど、イヌピー君はどうかずっとそのままで……!)
 なんて、イザナに知られればぶん殴られそうなことを考えつつ、尚もぐいぐいと頭を押し付けてくる乾を構い続ける。そして、すっかりボサボサになってしまった彼の髪を、なんとか整えてやろうとあくせくしていると、突然左肩に重みが加わった。
「って、そもそも何でコイツも当然のようについてきてんだ。テメェ犬の躾はどうなってやがる」
 オレでさえも鶴蝶置いてきてんだぞ。
 横を見れば武道の肩へ無防備に頭を預けたイザナが、苛立たしげに乾を睨みつけている。何よりも先に「鶴蝶はペット枠なのか」という言葉が飛び出そうになるも、咄嗟に喉奥へ押し込んだ。流石に生臭いバケツの水をぶっかけられるのは御免被りたい。
「何とか言ってみろやオイ」
「いててててて」
「おい、花垣に乱暴すんな」
「うっせぇな。これがオレらなりのコミュニケーションなんだよ。新参者は黙ってろ」
 んなわけあるかい。
 反論したいのは山々だが、ここは黙って耐える。理不尽に絡まれた時はスルー一択。強く頬を抓られようと、脳天に拳骨が降ってこようと、尻を蹴り飛ばされようと、岩の如くどっしり構えて、決して動じてはならない。とにかくイザナが飽きるまで耐え抜く。それが長年の付き合いで学んだ、暴君のあしらい方であった。
「たく、なんかもっと反応しろっての。最近のオマエ可愛くねぇぞ」
 案の定武道を突き回すのに飽きてきたイザナが、あくび混じりに苦言する。
「花垣はいつだって可愛い」
 すかさず乾が突っかかり、こめかみに青筋を立てたイザナが、いよいよ立ち上がって指を鳴らし始めた。
「テメェ……さっきからいい度胸してんな。そんなにぶっ殺されてぇンか。ァ゙ア゙?」
「テメェこそ花垣と知り合ったのが俺より『ほんの』少しだけ早えからって、調子乗ってんじゃねぇぞ」
「あはは……」
 こうなっては二人を止めることなど無理である。彼らが満足するまで放っておくのが一番だ。
(この隙に二人の記録抜いてやろ)
 いそいそとルアーを回収し、今度はポイントを変えてもう一度投げ込んでみる。大人げないなどと言ってくれるな。猛獣同士の喧嘩に首を突っ込んでも、碌なことにならないのは自明の理である。ならばいっそ天災か何かだと思って潔く諦めるのも、時には必要な措置なのだ。そう、つまり、あれだ。あまりにも武道のことが眼中になさすぎて拗ねている、というわけではない。断じて。
「万次郎とはその後どうなんだ?」
 ゴングが鳴って暫く、イザナと乾の二人が戯れ合いという名の泥仕合に突入した頃。不意に真一郎が尋ねてきた。隣を見上げると、口に煙草を咥えた男が、飄々とした顔をして釣り竿を上下に揺らしている。本人はさりげなさを装っているつもりなのだろうが、煙草に火をつけるのを忘れている時点で、気にしまくりなのはバレバレだった。肝心なところでキマらない人である。仕方がないので胸ポケットからライターを抜き取り、無言で火を差し出してやれば、彼は苦笑して顔を近づけてきた。
「あー……」
「オレはなんも気づいてませんよ」
「やっぱお前にはバレバレか」
「気づいてませんってば」
 ふ、と放置されたままのイザナの竿を見る。大きく竿が湾曲しており、何かが掛かったようだった。イザナに教えてやるか悩んだものの、器用なことにリールを巻き上げながら乾を足蹴にし始めたので、そもそもその必要がなくなった。また、どうやら乾も何か掛かったらしく。自ずと喧嘩よりも釣りの方に意識が向いた二人は、無事に一時休戦を迎えるところとなった。
「で、どうなんだよ」
 真一郎に急かされて、武道は渋々答える。
「相変わらず黒龍見かけたら一目散に潰しにきますね。まぁ、オレらもタダでヤられるわけにはいかないんで、それなりにやり返してますけど」
「んなまどろっこしいことしてねぇで、アジトに乗り込んでぶっ潰しちまえばいいだろうが」
 絶妙な緩急をつけてイザナが竿のハンドルを回す。激しく波打つ水面に、銀色の細長い魚影が映り込んだ。徐々にはっきりとしてくるその輪郭を見る限り、かかった獲物はかなりの大物なようだ。
「んー、それはちょっと……規模がデカくなり過ぎると危ないですし」
 関東事変の惨劇を覚えている。
 大きなチーム同士の争いというのは、ある程度統率が取られていなければ危ういものだ。最悪死人が出る場合もある。万次郎もその辺りのことは理解しているのだろう。ちょっかいを掛けてはくるものの、本気で潰しにこようとはしてこなかった。
「傘下に入れてやろうか?」
 にやり。意地の悪い笑みを浮かべながら、イザナが言う。
「神奈川最大の族の傘下に降れば、あのクソガキも手ぇ出してこねぇだろうよ」
「あ、天竺に吸収されるのはナシの方向でオネシャス」
「ァ゙ア゙⁉ てめ、雑魚のくせに何断ってんだ! 光栄の極みだろうがっ!」
 バシャン! と激しい水音が鳴って、魚が打ち上げられた。おー、これはすごい。セイゴ、いや、フッコか。ここら辺では滅多に出会えない大きさだ。コンクリートの上で飛び跳ねる四十センチほどのフッコへ、羨望の眼差しを送っていると、イザナはそれを鷲掴みにして、なんと武道のバケツへ放り込んだ。
「え、なに、くれるんスか! イザナ君が優しいとか今日がオレの命日⁉」
「勘違いしてんじゃねぇ。オレのバケツにこれ以上入らねぇんだよ。だからオマエの寄越せ」
 どうせ今日もバケツは空っぽのまんまだろ。
 そんな決めつけた言い方にムッとする。確かに今は空だが、もしかしたらあと五分後には、満員御礼になっているかも知れない。今日こそはイザナの記録を抜いて、武道が一番になってやるのだ。そして、コンビニのちょっとリッチなデザートを奢ってもらおう。あ、やっぱり唐揚げ棒も追加で。何だかお腹が空いてきた。
「いいや! あと五分後にはめちゃくちゃ釣ってるね! イザナ君に譲るスペースなんか微塵もないね!」
「万年最下位がなんか吠えてら」
「今日こそはビリ脱却するんですぅ!」
 これを人はフラグと呼ぶ。
 その日、陽が傾くまで釣りに明け暮れた四人は、各々の成果を披露すべくバケツを見せ合った。イザナは計十八匹、乾は十四匹、真一郎は七匹。そして武道は、
「二匹……」
「ちっさ」
 思わずといった風に真一郎が呟く。ギロリと睨んでやると、伝説の不良はわざとらしくそっぽを向いた。無意識に飛び出た言葉が一番傷つくって、この男はいい加減学んだ方がいい。武道渾身の大外刈りが炸裂する前に。
「しかも稚魚二匹とかオマエ徹底してんな。逆に尊敬するわ」
 ちくしょう。好き勝手言いやがって。武道とて好きで稚魚を釣り上げたわけではない。流石に可哀想なので二匹は海に帰してやり、こんなはずじゃなかった、とズンと肩を落として項垂れる。あたふたと慌てた乾が言葉に迷って、結局何も言えずに困った顔で右往左往している姿が、唯一の癒やしであった。
「ここまでくるとオマエの連敗記録がどこまで続くか気になるな……ぶふ、」
 笑うなら笑え。下手に笑いを堪えようとする方が、余計惨めになる。ひー、だの、ふー、だの、イザナの笑いを堪える息遣いが、傷心中の武道に容赦なく突き刺さった。さらばコンビニのリッチなデザート。こんにちは、また会いましたね金欠。来たる未来を想像して気が滅入る。武道の懐事情を気にしてくれるのは乾だけで、佐野兄弟は遠慮という言葉が辞書にないため、ビリになるとそれなりに出費が嵩むのだ。
「もー! ミルクレープでもプレミアムガトーショコラでもなんでもこいやクソぅ!」
「お、ならお言葉に甘えて遠慮なく」
「今日は煙草カートン買いしてもらおうかなー」
「いや待って、ウソです。調子乗りました。手加減して欲しいです。お願いします」
 氷の入ったクーラーボックスに本日の戦利品を入れて、真一郎とイザナがそれぞれ担ぎ上げる。車に一旦荷物を置いてから、四人は近場のコンビニへ向かった。
 鮮やかな茜が薄まり、みるみるうちに空が紫紺に染まっていく。昼と夜が入れ替わるその刹那、風が死に絶え、束の間の夕凪が訪れた。穏やかな波の音に耳を澄ませながら、己の足元へ目をやる。海岸沿いの土手道に伸びる、四つの長い影。そこにもう一人分の影が無いことを、酷く寂しく思う。
 何故ここに彼の姿がないのだろう。兄弟三人でのんびり釣りを楽しんで、揶揄い、揶揄われ、時には怒ってみせたりなんかして。そんな何でもない日常の幸せを受け取るのは、本来彼であるべきなのに。なんで、肝心の彼がいないのか。
「花垣」
 仄暗い思考に囚われかけていた時、声を掛けられハッとする。後ろを振り返れば、迷い子のように顔を曇らせた乾が、不安げに武道の様子を窺っていた。
「……大丈夫か?」
「え?」
「苦しそうな顔してた」
 しまった。顔に出していたか。
 それとなく周りを見回せば、真一郎とイザナは既にコンビニの中へ入っており、店の前で不自然に立ち止まった二人に気づいた様子はない。そこまで確認して、武道はすぐに当たり障りのない笑みを貼り付けることにした。大丈夫だ。安心しろ。自分に言い聞かせるように、無理矢理口角を上げてみせる。しかし予想に反して乾の表情は硬くなっていく一方で、和らぐことはなかった。
 依然としてこちらを見据える双眸は、誤魔化しは一切許さないと言わんばかりにギラついている。
「はぁ……」
 そこでようやく武道は、取り繕うことを諦めた。
「……やっぱり誤魔化しきれないか」
 鈍感なようでいて、彼は鋭い。これ以上の悪足掻きはかえって不安を煽るだけだ。純粋に自分を心配してくれた人を相手に、そんな不誠実なことはしたくない。
「夏って、あんまり好きじゃないんですよね」
「……?」
「暑くて、ジメジメしてて、空気が纏わりつく感じが鬱陶しいし……嫌なことを思い出すから」
 真一郎の命日は八月十三日だった。
 晩夏。盆の時期を控え、彼岸と此岸の境界線が徐々に曖昧になってゆく季節。じりじりと肌を焦がす陽の光に焼かれながらも、武道は一人で毎年墓参りに通い続けた。心が折れそうな時には、泣きながら墓前で手を合わせた。雨の日に傘も差さず、まるで生者の如く生ぬるい温度を宿した墓石に、縋りついたことさえあった。
 エマや万作の命日には、そんな醜態を晒すことはなかったというのに。どうして、真一郎の命日だけは違ったのか。その理由は、今でもよくわからない。
「……嫌なこと?」
「うん。もう大丈夫なはずなんだけど、偶に思い出して苦しくなる」
 そして、まだあちこちに夏の残滓が散らばる九月の半ば。やたらと蒸し暑い日のことだった。武道は万次郎に殺された。血塗れとなった己を掻き抱く赤い両手が、哀れなほど震えていたのを、今でも鮮明に覚えている。
「……今はもう、本当に大丈夫なんだ。ただちょっと、そう、悪い夢を見てるような気分になるだけ」
 凪が終わる。一度死んだ風が再び息を吹き返して、潮の匂いを纏ったそれから、みずみずしい緑の香りを運ぶ陸風へと生まれ変わった。ずっと遠ざかっていた蝉の鳴き声が、途端に音量を上げ、容赦なく脳髄を揺さぶってくる。同時に濁りきっていた灰色の視界も、鮮やかな色彩を取り戻していった。
「……詳しくは聞かねぇ」
 色を失くした世界でも、変わらず煌めいて見えた水浅葱が、はたはたと瞬く。
「その代わりに一つだけ、約束してくれ」
 じっとりと汗を掻いた掌を掴まれた。然り気なく振り解こうとしてもビクともしない。それどころかどんどん力が強くなっていって、いつにない男の乱暴さに戸惑った。
「何も言わずに消えたりしないって、俺と約束してくれ」
 骨が軋み、捕らわれた右腕が痛みを訴える。
 ふ、と。遠い昔に見た情景が脳内を駆け巡った。真一郎の命日が近くなるにつれ存在感が希薄となり、幽鬼の如く危うい空気を放ち始める、万次郎の姿。蛾の群がる街灯に照らされ、ふらつきながら夜道を歩く小さな背中が、記憶の中で甦る。
「オレ、そんなに死にそうに見えます?」
「……あぁ」
「消えそうに見える?」
「ん、」
「そっか……」
 大丈夫。安心して。オレは大丈夫だから。
 口を開いては閉じて、また開いては閉じて。何故かいつもみたいに、安っぽい気休めの言葉を吐き出すことができない。陸に打ち上げられた死にかけの魚みたいに。惨めで、無様な、剥き出しの『花垣武道』という一人の男の姿が露わになってゆく。
「約束しろ」
「……」
「花垣」
 いつからか、自分も幽鬼の仲間入りを果たしていたらしい。
「……っ、」
 えも言われぬ恐怖と不安が這い上がってくる。乾の手がなかったら、その場に膝をついてしまいそうだった。ようやく自覚する。今の自分が酷く不安定になっていたことを。ともすれば自分が何処に立っているのか判断できないくらいに、武道の精神は過去と現在の狭間で揺らいでしまっていた。
「……約束……す、る」
 喉から声を引き絞る。
「どこかに逃げたくなったら……イヌピー君にだけ、教える……」
 己の存在を認めて、引き留めてくれる人の存在というのは、こんなにも心強いものなのか。あの頃の万次郎にとっての武道も、今の武道にとっての乾のような、そんな存在になれていたなら……。いや、これ以上考えるのはよそう。過去のことをアレコレ考えたところで、何も意味がない。
(大切なのは、『今』だ)
「絶対だぞ」
「うん」
 どこまでも真っ直ぐな眼差しを、真正面から受け止めて、小さく頷く。
「どっか行くなら、俺も連れてけ」
「……はい」
「俺はあの日、お前に命を預けた。俺がお前を選んだし、お前も俺を受け入れた。俺はお前のモノなんだ。今更放り出すなんて許さねぇから」
「……っ」
 すり、と節くれだった指で頬を撫でられる。ほう、と安堵の吐息を漏らしたところで、痺れを切らしたイザナたちがやってきた。
「おい下僕! テメェまさかバックレるつもりじゃねぇだろうな!」
 御託はいいからさっさと財布を出せ、だなんてカツアゲじみた命令を下されて苦笑する。真一郎は待ちきれずに自分で煙草を買ってしまったようで、今回は他に欲しいものもないので何も要らないとのことだった。本当に、佐野家の兄弟たちは皆自由過ぎて困る。
「オラ、さっさと行くぞ」
「はいはい、待ってくださいよイザナ君」
 開かれた自動ドアの隙間から、すぅっと冷えた空気が流れ出てくる。少々肌寒く感じる温度差に小さく身震いすれば、見慣れた白いパーカーが肩に掛けられた。
「え、あれ、」
「羽織ってろ」
「でもイヌピー君が、」
「俺のことは気にするな」
 さらにはタオルで額の汗をぬぐわれて、あまりの甲斐甲斐しさに気恥ずかしくなってくる。自分の方が精神的には年上であるはずなのに、この包容力の差は何なのだ。普段は甘えたな弟気質を発揮してくるくせして、こんな時ばかり歳上ぶるのは狡い。
「……ありがと」
 照れ隠しから小さく礼を言えば、無言で頷かれる。
 よくわからないが、胸の奥がむずむずした。尻の据わりが悪いと言えば良いのか。妙に落ち着かない気持ちになってくる。手持ち無沙汰となった両の手で、冷えた肌を撫で摩り、大して乱れてもいない髪を弄った。それでもソワつく心を紛らわせることは叶わず、手慰みに乾のパーカーへ袖を通そうとした、その時。
「タケミチ! 財布!」
 般若の如く険しい顔をした暴君の声が、コンビニの店内に響き渡る。
「イザナ君、流石にスイーツ買いすぎでは?」
 無造作にカゴの中へ投げ込まれたプリンやケーキ、シュークリームといった甘味の山を見て、頬が引き攣った。ざっと数えて二十個以上ありそうだ。いくらなんでも買い込み過ぎでは。消費期限のことちゃんと考えてるのか、この人は。
「ばーか。オレ一人分なわけねぇだろ。こっからここまでは天竺の奴らの褒美」
「はぁ、仲間思いの良い総長様っすねー、って言うと思いました? え? なんでオレの財布から、天竺メンバーのご褒美買わなきゃいけないんスか⁉」
 意味がわからなすぎて我慢できずにツッコんでしまう。途端、ニヤリと歪められたイザナの口元を見て、内心で舌を打った。しまった、やられた。あれだけ苦労して暴君のあしらい方を学んだというのに、まんまと挑発に乗せられてしまうなんて。
「稼ぎに稼ぎまくってる黒龍の総長様が、みみっちいこと言ってんじゃねぇよ」
 心底楽しそうに笑いながら、イザナが武道の肩に腕を回してくる。
「いやいや稼いでんのは否定できないっすけど、チームの活動資金を勝手に総長が使うわけにはいかな」
「花垣ならいくらでも使ってイイってココが言ってたぞ。むしろ遠慮し過ぎだって寂しそうにしてた」
「イヌピー君⁉ ちょっと今はお口閉じましょうか⁉」
 必死の武道の抵抗を見事にぶち壊してくれた乾を嗜めれば、彼はしゅんとして項垂れた。果たしてこの男は、その顔に武道が弱いことをわかってやっているのだろうか。否、天然でやっているに違いない。逆に確信犯だとしたら泣いてしまう。そんな乾は嫌だ。
「奢りますよ、奢ればいいんでしょ!」
「お、やっと観念したか」
「その代わりカクちゃんには、この『新作・俺のプレミアムエッグプリンタルト!』もあげてくださいね! 昔から好きなんですこのシリーズ」
「オマエのその突然かましてくる幼馴染みムーブなんなの」
 夏は、嫌いだ。嫌なことを思い出すから。
 じっとりと纏わりついてくる湿った暑さも、頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回してくる蝉の声も、目に痛いほどの緑葉の輝きも、全部。此処が今自分が生きている、ありのままの現実であることを嫌でも突きつけてくる。その躍動に溢れた世界の眩しさを、煩わしく思う時だってあったけれど、今は不思議とそれほど不快に感じない。
「はたから見ると、イザナ君がオレをカツアゲしてるみたいっスね」
 客観視した自分たちの絵面を言葉にしてやると、イザナが不本意そうに鼻を鳴らす。
「雑魚相手にンなダセェことするか」
「なら黒川は花垣に一目置いてるってことか」
「はぁ⁉ 何でそうなんだよ! テメェふざけたこと言ってんじゃねぇぞ!」
「ここで喧嘩はヤメテ」
 いつか、この当たり前の光景の中に、当たり前のように彼の姿が在る日を、拝める時がくるのだろうか。その時の自分は、一体何をしているのだろう。平和な世界に浸りきって、くだらない毎日を笑いながら過ごしているのだろうか。相変わらず誰かを救おうと躍起になっているのだろうか。それとも……。
「ポイントカードはありますかぁ」
「あ、ないっス」
「はーい」
 やる気のない店員の間延びした声を聞き流しつつ、レジ裏の壁にぶら下がったカレンダーへ視線を投げる。青いバツ印のついた、二〇〇五年七月二日。この二日後、武道は未来で線路に突き落とされ、初めてのタイムリープを経験することになる。
(てことは、あいつらが渋谷三中に……)
 今世では幼馴染みのタクヤ以外に、溝中メンバーと連むことはしなかった。特に千堂は武道のせいで何度も殺されている。さらには、夢を叶えた後も家族を人質に取られたり、武道や日向を殺すよう脅されたりと、かなり酷い目に遭わされていた。そんな未来を知る武道が、今更どの面下げて彼と親しくしようというのか。
(一応注意して見ておかねぇとな……)
 キヨマサ、奴隷、喧嘩賭博。七月四日にまつわる記憶は、悲惨なものが多過ぎる。今世において、武道が溝中メンバーたちと交友を持っていない以上、彼らが渋谷三中へ乗り込む理由がないとはいえ、何が起きるともわからない。
「一万二千三百八十円になりまぁす」
「いちま……っ⁉ う、はい……」
 慌てて財布を取り出して、会計を済ませる。
 武道たちがコンビニを出れば、真一郎が暇そうに煙草をふかしながら、三人の帰りを待っていた。燻る白煙を静かに目で追い、過去の記憶を反芻する。香炉の中から立ち昇る線香の匂い。供物台の果物に埋もれるようにして置かれた煙草の箱。夏の日差しの下、生き生きと咲き乱れる菊の花束。
「遅かったじゃねぇか。さっさと帰んぞ」
 墓石に縋りついて泣いたあの日のように。今にも真一郎の下へ駆け出してしまいそうになるのを、ぐっと堪える。すると、固く握り締めた右掌へ、そっと冷たい指先が触れてきた。
「行こう、花垣」
 あぁ、今はまだ誰一人として欠けていない。皆んないる。生きている。改めてその事実を確認して、徐々に身体が弛緩していく。人知れず深く息を吸い込み、身の内に渦巻く黒い靄ごと吐き出した。
「うん」
 前を歩く二人に気づかれないよう、こっそり乾と手を繋いだまま、明かりのない夜道を歩く。駐車場までの距離は五分ほど。そんな僅かな時間であったが、それでも強張った心が解けるには十分な時間で。真一郎の車へ乗り込む頃には、すっかり武道の精神は安定していた。
「うわっ、めちゃくちゃこもってんな」
「窓開けるぞ」
 全開にされた窓から、新鮮な外の空気が流れ込んでくる。バイクとはまた一味違った、低いエンジン音が唸りを上げ、ゆっくりと白いセダンが走り始めた。
 帰路の途中、辿り着いた湾岸線。通り過ぎるネオンライトが線を描き、流れ星のように視界の端を駆けていく。次々と高層ビルの間に吸い込まれてゆく光の残像を、武道はぼうっと眺め続けた。車に乗ってから尚も繋がれたままの掌は、未だ解放される気配はなく。しかし自身を拘束するその左手を、振り解く気にはなれなかった。
「またフラついてる。シンイチローまじで車の運転ヘタクソだな」
「るっせーな。慣れてねぇだけだっての」
 前を見れば、助手席に座ったイザナが、また真一郎のことを揶揄って遊んでいる。乾は疲れたのか武道の隣で船を漕いでおり、今にも寝落ちてしまいそうだった。
「イヌピー君、眠い?」
「……ん」
「寝るならパーカー返しますね。風が冷たくなってきましたし」
「……いい、……オマエが……、」
 とろん、とした目で見つめられる。
 身体が火照り、一気に鼓動が速くなった。赤音に似た中性的な顔立ちは、こうして暗がりで向き合うとかなり心臓に悪い。とはいえここまであからさまに動揺してしまうのは、武道が女慣れしていないというのが、一番の理由ではあるのだが。そもそも乾の顔立ちが、同じ男でもドキリとさせられるほど綺麗過ぎるのがいけない。あの躊躇いなく鉄パイプを振り回す、頭のネジがぶっ飛んだ男と、とても同一人物とは思えなかった。
「はな、が……き……」
 ついに眠気の限界がきた乾の身体が、ゆっくりと倒れ込んでくる。すり、と甘えるように肩へ擦り寄られて、そのまま膝の上に彼の頭が乗せられた。乱雑に散らばった金髪を丁寧に掻き分けてやりながら、武道はそっと己の胸を押さえ込む。
「……っ」
 顔が熱い。何だ、何なんだ。この今にも叫び出したくなるような、どうしようもない衝動は。固く目を瞑り、なるべく何も考えないよう頭の中を空っぽにする。悶々としながらひたすら羊の数を数えていると、目論見通り徐々に意識が薄らいでいき、思考が鈍っていった。いいぞ、その調子だ。このまま眠ってしまえ。何度も何度も己に言い聞かせて、なんとか夢の入り口に片足を引っ掛ける。
 ゆうるりと、微睡みの中へ浸かってゆく。
 次第に呼吸が深くなり、五感が遠のいた。入れ替わるようにして現れたのは、死の間際に覚えるそれとよく似た、独特の浮遊感で。
 そして、武道の決死の努力は見事に実り、深い眠りの淵へと落ちていったのだった。
「武道ー、着いたぞ」
 再び意識が浮上したのは、真一郎の車が武道の家の前に停められた時だった。
「ん……あ、れ?」
 下を見れば、変わらず乾が武道の膝の上で寝息を立てている。起こすのも忍びなくてどうしたものかと悩んでいると、眉根を顰めたイザナが突然、助手席から身を乗り出してきた。黙ってその後の行動を見守っていれば、容赦を知らない暴君は突然左手を振りかぶり、眠る乾の横っ面に思い切り拳を叩き込む。
「イッて!」
「う、わっ」
 あまりにも素早い一撃だったので、制止する間もなかった。予想外の出来事に呆気に取られる。
「犬畜生の分際で、オレの下僕に手ェ出そうなんざ百億万年早えんだよ」
「はぁ⁉ いきなりなんだテメェ!」
「あー、イヌピー君。起きて早々にゴメン。オレんちに着いたみたいで……」
「え? あ、わりぃ……っ」
 まだ寝惚けているのか。慌てて武道の上から退いた男は、おろおろと忙しなく視線を彷徨わせている。武道が車から降りる頃には、完全に意識が覚醒したのだろう。幻の犬耳をへなりと垂らした乾から、物凄い勢いで謝られた。
「本当に悪かった」
「そんな謝らないでいいよ」
「だが……重かっただろう?」
「全然ヘーキだって」
「おーい、荷物全部降ろしたぞ」
 釣り道具や分けてもらった魚たちを家の中に運んだ後、真一郎が声を掛けてくる。はしゃいだ母に何か土産を持たされたらしい。車の方へ戻ってきた真一郎は、大きな紙袋を手に引っ提げていた。
「それじゃ、真一郎君。今日はありがとうございました」
「おう、さっさと風呂入って寝ろよ」
 くしゃり、と髪を掻き乱される。
 相変わらずの雑な撫で方に苦笑していると、車で待機していたイザナがすかさず野次を飛ばしてきた。
「隅々まで身体洗っとけよ。クソ犬のマーキングが鬱陶しいのなんの」
「ァア゙? ヤんのかテメェ」
「イヌピー君、どうどう」
 またな、と短く挨拶を交わし、三人の乗った車が走り出す。白い車体が曲がり角の向こう側へ消えるまで、武道は手を振って見送った。喧騒が遠ざかり、虫の声の響く静寂が辺りを侵す。形容し難い寂しさが込み上げてきて、徐に右手を空へ翳した。指の隙間から漏れる月明かりが、細められた空色の瞳の中でチカチカと反射する。
 何もしなくても朝は来て、夜になる。
 滞りなく一日は巡ってゆく。
 自分がしていることは、長い目で見れば無駄なことなのかも知れない。それでも、武道は足掻き続けると誓った。不確定な未来を思って、逃げたくなることもあるけど、その時は一緒に行くと言ってくれた人がいる。
 ――今更放り出すなんて許さねぇから。
「……ふっ」
 まったくもう、とんでもないモノを押し付けられたものだ。命を預ける、なんて。前の世界の乾といい、今の彼といい、覚悟が重過ぎる。
「でも、重いくらいで丁度良いのかもな」
 オレたちは、油断するとすぐに一線を越えてしまいそうになるから。
「そうだろ、万次郎……」
 乾は凄い。あんなに真っ直ぐ人を信じて、自分のすべてを預けると躊躇いもなく言ってのけてしまう。あの潔さが、強さが、純粋さが、心底羨ましい。前の世界の武道は結局最後まで、失うことを恐れるあまり、あの人にすべてを委ねることができなかったから。尚更そう思う。
「あの日、オレはとっくに全部君のモノなんだって、ちゃんと言ってやれてたら……違ったのかな」
 唇の輪郭を、指の腹で辿々しくなぞってみる。ずっと考えないようにしていた。彼からもたらされた口づけの意味を。
 ――なぁ、早くオレのモノになって。
 今世の万次郎も、武道を己のモノとすることにやけに執心していた。前の世界の彼とは違い、何も失っていないにもかかわらず、執拗に武道を求め続ける理由はわからない。
 彼の渇望を満たすべく、己を明け渡すのは簡単だ。何も見なかったことにして、ただ盲目的に彼に付き従っていれば良いだけなのだから。しかし、同じ失敗を繰り返さないために、今世での武道は黒龍に入った。彼の抑止力とならんと、関東制覇目前と囁かれるほどに、黒龍という組織を大きくしていった。なのに、ここでまた万次郎の傍に侍る道を選んだら、これまでしてきたすべての努力が水の泡となってしまう。それだけは避けなくてはならない。
(……君の傍にはいられない。でも、)
 傍にはいられなくとも、ずっと君を想っている。
(愛してる……)
 たとえ彼が求める形とは違っても、花垣武道は今も昔も変わらず、佐野万次郎を愛している。今までも、これからも、ずっと。
「あ……」
 無意識に白いパーカーの袖を掴んで、気づく。
「……パーカー、返すの忘れてた」
 乾には後日改めてお礼をしよう。彼は何が好きなのだろう。それとなく赤音に聞いてみようか。
(……会いたいな)
 次に乾と顔を合わせたら、何を話そうか。またこっそり手を繋ぎながら、緩やかな時の流れに身を任せ、中身のない世間話に明け暮れるのもいい。それか真一郎と共にいる時みたいに、言葉はなくとも傍に寄り添って、互いの体温を分け合うのでもいい。新しく芽生えた感情の温かさに微睡んで、夢見心地に未来を想う。
 心が軽い。今なら空も飛べそうだ。
「……よし、」
 覚悟は決まった。くよくよ悩んでいる暇はない。すべての始まりとなった七月四日。まずは溝中メンバーが、キヨマサたちの奴隷となる未来を回避しなくては。
 天に翳した掌を握り締め、月を掴み取る。
 高鳴る胸と、逸る鼓動の音。生々しい生命の調べに耳を傾け、目を瞑った。自分は一人じゃない。こんな自分に命を預けてくれた人がいる。己が迷った時に手を引いて、こちら側へ連れ戻してくれる人がいる。……いざとなったら、道連れとなってくれる人がいる。
「待ってろよ、万次郎」
 一人も漏らさず全員救って、これ以上ないくらいの最高な未来を、アンタに叩きつけてやる。だからそれまで、首を洗って待っていろ。
「絶対に、幸せにしてやる」


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