第拾話 月を喰らう
深夜。天を劈く咆哮を響かせ、黒き龍の躯体が闇夜を裂いた。まるで暴れ狂う嵐の如く荒々しく乱れ踊りながら、されどいつになく流麗に、いつになく獰猛に。夜の覇者は眼の合うモノを、片っ端から喰い尽くしてゆく。
「おいおいボス、そんなに荒れてちゃアイツらも身構えちまうぜ」
乾のナナハンキラーに同乗した九井が、茶化すように声を掛けてきた。
「……そう?」
「運転荒いし、笑顔も硬ぇし、一目見て何かあったってバレバレだっての」
ネオンが煌めく新宿の繁華街。
賑やかな喧騒の中、数台のバイクが大通りをひた走る。集会前に新宿拠点で幹部会を行った武道たちは、兼ねてより検討を進めていた資金調達絡みの案件や、急を要する報告内容などをざっくりと取り纏め、教会広場へと向かっていた。
「まぁ、今回ばかりは事が事だからな……仕方ねぇか」
九井が不快そうに眉根を顰め、ボソリと呟く。すると、それまで静かに会話を聞いていた乾が、低く唸った。
「花垣のダチを巻き込みやがって……アイツら全員ぶっ殺す」
「ははっ。いつになくヤる気だなァ、イヌピー」
「……っ」
先頭を行く武道の表情に影が差す。本当は、こうなる前に食い止めたかった。チームを巻き込んで、大事となってしまうその前に。
結果的に、溝中メンバーとキヨマサ一派の間に起きた衝突は、防ぐことができなかった。七月四日当日、彼らの動向には逐一神経を尖らせていた上、恥も外聞もかなぐり捨てて尾行までしたというのに。翌朝学校へ行ったら、全身怪我だらけとなった彼らが登校してきた時の衝撃といったら。筆舌に尽くし難い。
(……クソッ)
後日タクヤを問い詰めて吐かせたところ、あの日武道がもう大丈夫だと判断して帰宅した後、彼らは新しくできた駅前のゲーセンに向かい、そこで突然キヨマサたちに絡まれたとのことだった。絡まれた理由は特別なものでも何でもない。ただキヨマサたちが根城にしていた休憩所に、彼らがたむろっていたから。それだけの話だ。そして、そのまま彼らは路地裏へと連行され、一方的に袋叩きに遭い……そこからの流れは前の世界と同じだ。
――オマエら今日から、『東京卍會』の兵隊な。
いいように使われる、地獄のような日々の始まり。
結局何も変えることができない無力な武道を嘲笑うかのように、同じ出来事が繰り返されていく。これも歴史の強制力とでもいうのだろうか。だとしたら反吐が出る。
「……助けなきゃ」
やりきれない。どこにも吐き出しどころのない怒りや焦燥が募ってゆく。このままじゃ喧嘩賭博に巻き込まれて、彼らはもっと酷い目に遭う。そうなることを武道は『知っている』。だからこそ、今すぐにでもタクヤたちを助けたいという気持ちは強かった。
だが、そうなると武道の置かれた立場上、どうしても黒龍の総長として動かざるをえない。勿論一人で好き勝手に動くこともできる。しかし、それで後から武道が黒龍の総長と知られた場合、かなりややこしいことになるのは目に見えていた。場合によっては黒龍側が制裁される立場になるだろう。当代の黒龍総長として、そんな不用意な真似をするわけにはいかなかった。
(かといって東卍との全面抗争も、可能なら避けたい……けど)
東京卍會に所属している奴らが、黒龍総長の幼馴染みに手を出した。これは十二分に東卍からの宣戦布告と捉えられる。つまり黒龍は東卍へ攻め込む絶好の大義名分を得たというわけだ。この事実を知れば、今まで散々ちょっかいを掛けられ苛立っていた隊員たちは、ここぞとばかりに東卍狩りを始めることだろう。そうなれば東京は混沌と化す。
あちこちで抗争が勃発し、最悪一般人が巻き込まれ……今まで築き上げてきた秩序が崩壊してしまう。
(そうなる前に、ある程度こっちで統制しておかねぇと)
ズルズルと中途半端な状況を続けていれば、この危うい均衡がいつ崩れるとも知れない。最悪の事態になる前に、腹を括らなければ。
(ごめん、マイキー君……)
きっとこの決断は、彼を悲しませる。
わかっていても、武道は個人的な感情よりも、黒龍総長としての責務を果たすことを優先した。今だからこそわかる。あの華奢な肩に乗っていたものたちの重みを。彼が如何に、佐野万次郎という一人の人間としての感情と、東京卍會初代総長という肩書きに付いて回る重責の狭間で葛藤し、苦渋の選択を余儀なくされてきたのかを。
同じものを背負う立場となって初めて、武道は理解した。
(最初で最後だ。俺は今回、黒龍の方を優先する)
初めは万次郎のために黒龍を利用するつもりで、十一代目総長の肩書きを背負った。黒龍を引き継ぐまでの間、武道の中での優先事項は、唯一つ佐野万次郎だけだったのである。だが、今では万次郎と黒龍どちらもが、比べようがないくらいに大切な宝物となった。その二つを天秤に掛けて、一方を選び取ることなどできないくらいに。
「……皆んなには、迷惑をかけることになる」
すべての感情を押し殺し、何とか言葉を喉奥から絞り出す。
「そんなの今更だろうが」
すかさず後ろから声が飛んできた。左のミラーを覗き込むと、赤いハーレーに跨がった大寿が、呆れたようにこちらを見ている。
「ボスに振り回されるなんざ、こちとら慣れっこなもんでねぇ」
「俺はどこまでもお前について行くと決めた。背中は任せろ」
「ココ君、イヌピー君……」
心強い。このチームならば、何処までも先へ行ける。たとえ乱気流に呑まれたって、激しい雷雨に見舞われたって。立ちはだかるモノすべてを喰らい尽くし、さらに上へ上へと羽ばたいてゆける。黒龍は紛れもなく関東一最高で最強のチームだ。心の底からそう信じている。
「……ごめん、ちょっと弱気になってた」
「フンッ」
愛機と揃いの色を纏った大寿が、不遜に鼻を鳴らす。
「皆がいるから、大丈夫だな」
その日の晩。十一代目黒龍の定例集会にて、東京卍會が主催する喧嘩賭博の現場に乗り込むことが決定した。実のところその喧嘩賭博は、東卍幹部に黙って勝手にキヨマサたちが開催しているものなのだが、その事実を知る者は武道の他にいない。
「七月六日水曜日の十六時〇〇分より、喧嘩賭博が開催されるとの情報を掴んでいる」
つらつらと淀みない言葉で、九井が幹部会での決定事項を周知していく。
「平日だからテストとかで無理な奴は、ちゃんと学業優先しろよー」
「俺はボスのためなら全部投げ打ってでも参加する」
「いや、イヌピーこそ成績ヤベェんだから、ちゃんと勉強しろ」
「……」
「イヌピー……」
これまで東卍に対し鬱憤が溜まっていた隊員たちは、幹部からの報告を聞いて一斉に沸いた。これで心置きなく東卍の奴らをボコれる。やり返すなら、正当防衛の証拠を握った上でこっそりと。そして、二度と刃向かう気にならぬよう、徹底的に潰せ。そんな幹部たちのお達しなど、いちいち考えず派手に相手をぶん殴れる。降って湧いた報復の機会に、隊員たちは狂喜乱舞した。
「当日はボスの関係者を含めた、巻き込まれた側の被害者を間違えてボコらねぇように気ぃつけろ。キヨマサたちの情報は後で書類回すから、事前に顔とか名前ぐらいは頭に入れとくように」
「はいっ!」
「ボスの幼馴染みに失礼してみろ。……俺がその頭かち割ってやっからな」
「うっ……はい!」
血湧き肉躍る狩りを前に、牙を剥き出しにする隊員たちの威容は、まさしく天の覇者そのもの。普段は大人しく戒律に従い、諍い事を避けて通るよう行動してきたとはいえ、その本性は蓋を開けてみれば雷雲を従え暴れ狂う龍なのだ。それも、一度地の底に堕ちてから執念で天に舞い戻った、比類なき猛者揃いである。そんな面子が志を一つとすれば、恐れるものなど何もなかった。
「俺らの総長の身内に手ぇ出したんだ。ヤる時は徹底的に。骨の髄まで黒龍の恐ろしさをわからせてやれ」
「ハイ!」
漲る闘志に身を震わせ、興奮が最高潮まで高まっていく皆の様子を、武道は静かに壇上から見下ろす。
「ボス、お願いします」
「うん」
さっと幹部メンバーたちが道を空け、武道は前へ歩み出た。それまで騒いでいた隊員たちは忽ち静まり返り、皆それぞれ居住まいを正す。ゆるりと翼を広げた黒き龍が、足首まである特服の裾を風に靡かせ、瞼を閉じた。まるで神に祈るような、何かを固く決意するような、そんな侵し難い神聖さ。不意に訪れた束の間の静寂に、清浄な空気が満ち満ちていく。
そして、その凜然たる佇まいに観衆が魅入られた、次の瞬間。
「……」
冷ややかな天色の双眸が大地を睨めつけ、畏怖にも似た緊張の糸が、隊員たちの間で張り詰めた。
「オレは、自分の宝を傷つけられた時、絶対に許しちゃいけねぇと思ってる」
大切なモノほど簡単に掌をすり抜ける。刈り取られる魂に善も悪も関係ない。定められた神のレールに従って、死神の鎌は嫌になるほど平等に振り下ろされていく。
「一度失ったモノはもう二度と還ってこない」
数多くの死を見てきた。嘆き悲しむ人を見てきた。武道からまた奪おうとする不届き者を、神であろうと人間だろうと許すつもりはない。ヤる時は徹底的に。二度とそんな気を起こさぬよう、完膚なきまで叩き潰す。特に今世では、前のようなタイムリープの能力は失われているのだ。正真正銘の一発勝負。やり直しは利かない。少々やり過ぎなくらいで丁度良い。
「会場に到着してから暫くの間、皆には手を出さないで欲しい」
広場がザワつく。一体何を言っているのかと、後ろで待機している乾たちの表情が驚愕に染まっていった。
「正式な決闘じゃないのは百も承知だ。でも今回は……魁戦を取り入れる」
乾が堪らず飛び出しそうになったのを、九井が止めた。大寿もかなり動揺しているようだが、ひとまず全部話してみろ、と目線だけで先を促される。
「この一件の首謀者である清水将貴に、オレはタイマンを申し入れるつもりでいる。黒龍側の代表は……オレだ」
「ボス……!」
「花垣っ! お前、何言って……ッ」
公衆の面前ではボス呼びを徹底している乾が、悲鳴じみた声で武道の名を叫んだ。
ずっと考えていたことだった。キヨマサとの一騎打ち。前の世界の武道は、キヨマサ相手にタイマンを申し出て、ボロボロになるまで殴られまくった。殺すつもりでやれと煽りに煽り、そして最後まで立ち続けたのは武道の方であった。しかし、途中で万次郎たちが乱入してこなければ、恐らく武道は負けていただろう。あれはたまたま運が味方しただけだ。純粋な勝利とは言えない。
「オレがやらなきゃいけないことなんだ」
謂わばキヨマサは、武道にとって恐怖の象徴だった。
罪の証とも言える。あの男の支配から逃れるために、嘗ての己は恋人や仲間たちを切り捨てた。その後いくらやり直して未来を変えたとしても、一度逃げたという事実は変わらない。
未だにその過去が心にしこりを残しているせいだろうか。薄情で臆病な花垣武道は、心が弱ってくると意気揚々と顔を覗かせて、嘲笑混じりに耳元で囁いてくる。もうすべて諦めて投げ出してしまえ。どうせお前の性根は変わらない。あの時と同じように楽な方に流されてしまえ、と。しつこく、しつこく。
「オレは絶対に勝つよ」
もう、うんざりだ。
「だって皆がいるのに、オレが負けるわけねぇじゃん」
喰らい尽くしてやる。眼前に立ちはだかる恐怖の化現も、身の内に巣くう臆病な己自身も。全部丸呑みにして、消化して、踏みつけて先へ進んでやる。
「キヨマサはオレがやる。だから皆、あとはお願いします」
己に打ち勝ってみせる。そうしてようやく前に進める気がするのだ。だから、オレはやらなくちゃいけない。キヨマサをぶっ飛ばして、弱い自分と完全に決別してやる。
「……っ」
唖然としていた隊員たちは、武道が言い終えるや否や、ハッと目が覚めたように我に返った。正気を取り戻した者たちから順に、続々と歓声が上がってゆく。
うおおおお!
隊員たちの雄叫びが響き渡る。大地を揺るがす龍の咆哮が、天上まで轟いた。
(……覚悟は決まった)
――タケミっち、今日から俺のダチ! なっ♡
もう二度と見ることの叶わない、己に向けられた笑顔を思い出す。これで、彼との間に入った亀裂は、今度こそ修復不可能なくらいに深くなることだろう。けれど、この選択に後悔はしていない。
(どのみちオレたちも向き合うべきだった。これも良い機会だ)
黒い特攻服を翻し、愛機の待つ駐輪場へと向かう。彼のものと双子のエンジンを積んだ、特別なバブ。前世から変わらない、武道の唯一無二の相棒だ。艶めく躯体を指先でなぞって、使い込んだグリップを握り締める。シートに跨がりキーを回せば、馴染みの爆音が鼓膜を大きく震わせた。
「行こう」
風と共に闇路を翔け、数多に散らばる星を呑む。
天に坐すは真珠色の月光冠。七色に輝く月の輪を、王冠の如く頭上に従え、黒き龍は今日も夜空に君臨する。
(オレたちなら、どこまでも飛べる)
あの星の行く先だって、月の裏側だって。
何にも縛られることのない、広大で、自由で、色鮮やかな我らが終の棲家。
叶うならば、この静謐な揺り籠の中で眠るように果てたい。
零れんばかりの宝珠の山を、その腕に抱きかかえながら。
*
二〇〇五年七月六日。
「しゃあああああ!」
「ぶっ殺せ!」
「寝てんじゃねぇぞゴラァ!」
品のない野次が飛び交う渋谷の某所。喧嘩賭博の会場にて、溝中の面々は顔色を悪くしながら俯きがちに立っていた。
「ハーイ! お集まりのみなさーん!」
司会役の赤石が、大仰な身振り手振りで進行していく。
「本日の対戦カードは……桜中の小島! そして溝中の山本だぁ!」
「オラ山本ぉ! テメェに千円賭けてんだぞ!」
「小島ァ! 負けたらぶっ殺すからな!」
いくつもの物騒な激励が投げ掛けられ、いよいよタクヤが踊り場へと連れ出される。役者が揃い、粗方の準備が整ったところで、赤石の視線が階段に座り込むキヨマサの方へと向けられた。すると、それまで野次を飛ばしていた観客たちは、一斉に口を閉ざして静まり返る。
「……」
「……」
餌を前にした犬の如く、汚らしく涎を垂らしながら。観客たちは目をギラつかせて待機する。この場の仕切りであるキヨマサの号令が、無慈悲に下される時を。哀れな獲物が惨めに痛ぶられるだけの、凄惨なショーの始まりを。ある者は日頃の鬱憤を晴らすために。またある者は己の私利私欲を満たすために。
今か今かと引き金が引かれる瞬間の訪れを渇望した。
「胸糞悪ぃな……」
異様なまでの盛り上がりを見せる会場を見て、隣に立つ乾が吐き捨てる。
「ま、手っ取り早く資金集めするには、丁度いい余興だがな」
「大寿」
咎めるように九井が遮った。しかし、金を作る天才と称されるだけある男だ。彼自身も大寿と同じ考えが脳裏を過ったのだろう。その柳眉は気まずげに顰められている。
「フッ……だが品がねぇ。オレたちには合わねぇよ」
「大寿君……」
胸を張って言い切った大寿に、武道は込み上げてくるものがあった。
前の世界の彼は、黒龍の暴力を売って金を得ていた。目的のためなら法を犯すことも厭わず、仲間どころか家族でさえも手駒として使い潰す。圧倒的なカリスマ性の裏側で、そんな身震いするほどの冷酷さを覗かせる男。それが十代目黒龍総長としての柴大寿であった。だが、今の彼は前と同じように暴力を売っている立場ではあるものの、その本質は大きく異なったものとなっている。前の彼ならば、こんな発言は決して出てこなかったはずだ。
「そうだな」
九井が気の緩んだ笑みを溢す。
それまで二人のやり取りを静観していた乾もまた、端麗な顔を綻ばせ、武道に耳打ちしてきた。
「花垣、そろそろ……」
「うん。イヌピー君、特攻は頼みます」
「了解、ボス。お前ら行くぞ」
「はい」
愛用の鉄パイプを握り締め、乾が数名の隊員を率いて持ち場へ向かう。
さて、本当の『余興』はここからだ。
「始めろ」
堂に入った仕草で煙草をふかしたキヨマサが、とうとう開始の合図を送る。
「おいおいおい、随分と楽しそうなことしてんじゃねぇーの?」
しかし、いよいよ幕開けという絶妙なタイミングで、九井が割って入っていった。
「あ……? なん、だ?」
ガツン!
鈍い音が鳴ると同時に、人影が飛ぶ。本来ならファイターたちが戦うはずの踊り場の中央部分。そこで白目を剥いて伸びている男は、先程まで意気揚々と司会をしていた赤石だった。
「……撲殺」
振りかぶった鉄パイプを地面へ下ろしながら、乾が呟く。
季節は夏だというのに薄ら寒さすら感じるほど、場の空気が急激に冷え込んだ。調子に乗って威勢良く吠えていた連中は、周りを取り囲む白い特攻服を見た途端に表情を強張らせ、鬼や悪魔にでも出くわしたかのような形相のまま硬直している。挙げ句の果てには、一目散に逃げ出す者までいる始末で。あまりの体たらくぶりに、内心馬鹿馬鹿しくなってきた。
「そっち行ったぞ、イヌピー」
逃げ出した者の内、主犯格の男たち数人を瞬く間に乾が沈める。
「もう仕留めた」
「ヒューッ、さっすが」
(情けねぇ……)
こんな奴らに過去の自分は苦しめられていたのか。奴隷のように扱き使われて、怯えて逃げ回って、大切な人たちと縁まで切って。本当に、自分が情けないったらありゃしない。
「ハ……?」
突然起きた惨劇に理解が追いつかないのか。キヨマサの口から、間の抜けた声が漏れる。あれだけ恐れていた男は、嘗て無いほど動揺を露わにしており、あちこちに目が泳ぎまくっていた。
「……?」
暫く男の醜態を眺めていると、ふ、と。形容し難い違和感が胸を掠める。小首を傾げ記憶を探ってみるも、特に心当たりは見つからない。一体、何だというのか。
「うちのボスの身内に、こーんな無粋な歓迎会をご用意してくれちゃってよぉ、ありがた過ぎて涙が出ちまうなァ!」
嬉々として煽り立てる九井の言葉に、クスクス、と蔑みを乗せた嘲笑が沸く。あからさまに小馬鹿にされたことで、プライドを傷つけられたのだろう。まんまと挑発に乗ったキヨマサが、鼻息荒くその場に立ち上がった。
「何だテメェら! ふ、ふざけんじゃねぇぞ!」
「おっと。うるっせぇなぁ……」
「俺らは東京卍會だぞ! うちのシマで好き勝手やりやがって、生きて帰れると」
「キヨマサ君」
ザッと白亜の城壁が左右に割れる。唯一黒い特攻服を身に纏った武道が、拓かれた門戸から進み出た。
「オレの幼馴染みが随分と世話になったみたいで」
「タケミチ⁉」
何事かと目を白黒させていたタクヤが、武道の存在に気づき素っ頓狂な声を上げる。驚くのも無理はない。色々複雑な事情があって、幼馴染みには武道が黒龍の総長だということは伝えていなかった。だから今回が初めての、『十一代目黒龍総長』としての対面となる。
「黙っててごめんな、タクヤ……」
「……っ」
唖然と突っ立つ幼馴染みから視線を剥がして、辺りを見回す。
喧嘩賭博に集まった人数は、ざっと目算して四十人前後。内、キヨマサの取り巻きたちは全部で五人。残りは高みの見物を気取った賭博参加者か、溝中メンバーのような被害者たちだ。主要人物の顔と名前はチーム内に周知してあるので、非の無い者まで巻き込む心配はない。何事もなければ円滑にこの場の制圧は完了するだろう。
後はそう、武道の野暮用を済ませるだけだ。
「清水将貴」
キヨマサと武道の一騎討ち。前世の因縁を断ち切るリベンジマッチだ。何としてでも勝ってやる。
「オレは十一代目黒龍総長・花垣武道だ。……アンタにタイマンを申し入れる」
痛いほどの沈黙が破られ、騒めきが波紋の如く広がっていった。ここに集まっているのは仮にも不良を名乗る者たちばかり。黒龍総長からキヨマサへのタイマンの申し入れ。それが何を意味するか、わからない愚者はいない。
「お、俺は東京卍會に所属して、」
「だから?」
今まで水面下で火花を散らしてきた、黒龍と東京卍會。武道からキヨマサへの宣戦布告は、つまりはチーム同士の争いも辞さない構えであるという、黒龍側からの意思表示。ここでキヨマサが下手を打てば、最悪チーム全体に多大な迷惑を掛けることになる。
「あ、……っ」
みるみるうちにキヨマサの顔から血の気が失せていく。まさかここまで大事になるとは夢にも思っていなかったに違いない。
「オレの幼馴染みに手ぇ出したんだ。アンタが責任取ってオレとタイマン張ってくれるってんなら、今日のところは引いてやる。だが断ってみろ」
その時は黒龍が全力で、東京卍會をぶっ潰してやる。
「う、受ける」
キヨマサなら絶対にタイマンを引き受ける。そう確信していた。目論見通り相手が話に乗ってきて、武道は内心安堵する。これで断られたらどうしようかと思った。正直に言って、大規模な抗争に発展するのは避けたかったから。
「ボス……」
「大丈夫だって」
心配そうな顔をする九井に特服を預けて、階段を下りてゆく。凝り固まった筋肉をほぐすため軽く屈伸していると、キヨマサが目の前に立ちはだかった。こうして見上げるとやはり大きい。だが何故だろう。不思議と前の時のような恐怖は感じない。
(あれ……?)
まただ。違和感を覚える。何かがおかしい。
「始め!」
「さっきからナメてんじゃねぇぞこのガキ! オラァ!」
身体全体を捻って、右から繰り出される強烈なアッパー。マトモに食らってしまえば、かなりのダメージを受けることになるだろう。しかし遅い。パワーはあるが、動きはやはり素人だ。見切れないほどじゃない。
(……?)
攻撃を避け、相手がバランスを崩したところで軸足を払う。そのまま襟ぐりを掴み上げて地面へ引き倒せば、体格差などあってないようなものだった。すかさず関節技をキメて、キヨマサの動きを封じる。
(キヨマサって、こんなに小さかったっけ?)
これだ、違和感の正体は。
キヨマサが小さい。物理的なものではなく、精神的なものとして。前の世界では目が合うだけで、尻尾を巻いて逃げ出したくなるくらい、途方もなく大きく感じたのに。今はどうしてかやたらと小さく見える。
「クソッ! 離せ!」
「そう言われて離す奴がいるかよ……!」
勝敗は拍子抜けするほど呆気なく着いた。
絞め技によるキヨマサの失神。奇しくも最後は、重傷を負った龍宮寺を守るために戦った時と、同じ顛末となった。あまりの手応えの無さになかなか実感が湧いてこない。終わってしまえばこんなにも呆気ないものなのか。
「……タケミチ」
戸惑いがちな声で、名前を呼ばれる。耳馴染みのある声だ。振り返れば、複雑そうな顔をした幼馴染みと、未だ困惑を隠せない様子の溝中の面々が立っていた。
「タクヤ……」
「なぁ、お前同じクラスの花垣だよな……?」
赤髪の男がおずおずと尋ねてくる。千堂敦だ。何度も武道と稀咲の因縁に巻き込まれ、不幸にしてしまった人。
「うん」
「その、色々とまだ頭が追いついてないんだけどよ……」
ありがとな。
真摯な眼差しに射抜かれて、少しだけ身じろいでしまう。本当は、自分は彼に感謝される資格なんてない。かといって、前世のことを持ち出すわけにもいかず、消化しきれない感情を持て余す。自分と関わると、いつか彼はまた不幸になるかも知れない。そんな思考がいつまでもチラついて、真面に向き合うことすらできそうになかった。
「まさかこんな身近に黒龍の総長がいたとはな。でも、今はそんなことよりも……花垣。オレらのダチ、守ってくれてありがとう」
右手を差し出され、固く握り返す。泣きそうになった。本音ではまた千堂たちと友人となって、溝中五人衆と名乗りながら、馬鹿やって笑い合いたい。しかし自分たちはどこまでいっても、暴走族の総長と一般人という関係で。彼らをこちら側の事情に巻き込まずに良好な関係を築くのは、かなり難しいことなのだと理解していた。
それでも、やはり夢を見てしまう。また前のように対等な関係が築けないものか。いざという時に助け合えるような仲間になれないか、と。性懲りもなく、何度も、何度も。
己の諦めの悪さにほとほと愛想が尽きる。
「……タケミチでいいよ。オレらタメだろ?」
「っ! おう!」
「ボス、制圧完了しました」
溢れ出そうになる涙を必死に堪えていれば、制圧を終えた隊員たちが報告にきた。
キヨマサ一派は皆ガムテープでぐるぐる巻きにされた上で、踊り場の端に転がされている。ロープでは無くガムテープなのは、武道なりの仕返しだ。みみっちいとは自分でも思うが、前にキヨマサたちから同じことをされた時は、心底腹が立ったのだから仕方ない。私怨上等である。
「わかった。それじゃあ、アイツらだけ残して他の奴らは解散させて」
「ハイ!」
「あとは予定通りによろしく。アキ、時間なくなってきたからなるべく早く頼むな」
「かしこまりました」
思ったよりあっさりと解決したおかげで、何事も無く済みそうだ。だが、あんまりもたもたしていたら、万次郎と龍宮寺がやってきてしまう。とにかく場所を変えて、キヨマサたちに入念にヤキを入れてから、もう二度とタクヤたちに手を出さないと誓わせて……。
――されど、綿密な計画を悉くぶち壊しにくるのが、佐野万次郎という男である。
「ケンチーン、どら焼きなくなっちゃった」
「あ⁉ そのアダ名で呼ぶんじゃねーよ、マイキー」
(嘘だろ……っ)
龍宮寺を伴った万次郎が、会場に到着してしまった。あと少しだったのに。このままキヨマサたちを新宿まで連れ出してしまえば、ミッションコンプリートのはずだったのに。ここで彼らに邪魔をされては目的を達成できないどころか、却って事態が悪化してしまう。
(交渉するにしても、オレたち二人が揃ってる時点で上手くいくわけがねぇ……っ)
「白い特服……? おいおい、こりゃ何の騒ぎだ」
睨みつけるように会場を見渡して、龍宮寺が訝しげに問う。だが誰一人として答える者はいなかった。説明しようにも主催側の人間は軒並み気絶しているし、何より一連の経緯を話せば、龍宮寺の怒りの矛先が自分たちに向けられるのはわかりきっている。だからこそ、皆一様に口を噤んでいるのだ。
「……タケミっち」
ばちり。黒々とした双眸と目が合う。
「テメェ、どういうつもりだ……」
「手ぇ出したのは、そっちが先だぜ」
今にも怒りが爆発する寸前、といった様子の万次郎に、九井が冷静に告げた。同時に護衛を任された大寿が、武道を守るよう前に立つ。
「はぁ? 何言ってんだ。適当なことぬかしてんじゃ――」
「ボスの幼馴染みたちをリンチして、無理矢理ファイターにしようとしてたんだよ、そこのクズどもがな」
そこで初めて万次郎の視線が、端の方で伸びているキヨマサたちの方へ向けられた。その表情は険しく、九井の話が真実なのかどうか、真偽の程を見定めんとしているように映る。そうこうしているうちに、やがて不気味な沈黙が降りてきて、一層緊張感が張り詰めた。押し黙った万次郎がどう動くか予想がつかない。万が一の事態に備えて、黒龍側が臨戦態勢に入ろうとした、その時。
「タケミチは俺を庇ったんだ!」
命知らずにも幼馴染みが、万次郎の前へ飛び出した。
「タクヤ、」
「俺の身体が弱いこと、コイツ知ってたから。だからわざわざキヨマサ君にタイマン挑んだんだ! んなことしたら東卍と揉めるってわかってたのに……!」
「タクヤ、下がれ。これはオレたちの問題だ」
一触即発の空気が流れ、危機感が募ってゆく。これ以上一般人のタクヤを危険に晒すわけにはいかない。その一心で武道はどうにか彼を宥めようとするも、憤慨する幼馴染みの勢いは止まらず。伸ばした手は振り払われてしまった。
「違ぇよ馬鹿! それこそタケミチは巻き込まれただけだろうが! 俺たちのせいでこんなことになってんだろ⁉」
「……っ」
「一人で全部背負い込もうとすんなよ! 大体なぁ、黒龍総長ってなんだよ! 俺まったく聞いてねぇんだけど⁉」
「……嘘ではなさそうだな」
ため息混じりに、龍宮寺が言う。
一方万次郎は、タクヤから説教を受ける武道をじっと見つめたまま、何一つ言葉を発することはなかった。そして、どこか心ここに在らずといった様子で、ふらふらとキヨマサたちの方へと歩いていく。
「マイキー?」
龍宮寺の隣にいたはずの、万次郎の姿が消えている。
タクヤに胸ぐらを掴まれ身体を揺さぶられながらも、武道はすぐにそのことに気がついた。しかし咄嗟に視線を彷徨わせるも、己を囲む黒龍の隊員たちが壁となり、彼の姿を見つけることは叶わない。早く見つけなければ。何となく今の万次郎から目を離してはいけない気がして、じりじりと燻るような焦燥が武道の身を焼く。
「まんじ、ろ」
ようやく探し人の姿を捉えた時には、彼は大きく足を振り上げていて――、
「……起きろよ」
ドガンッ!
人の身体から発せられたとは思えない、重い音が響いた。
「チッ……起きろっつってんだよ」
「ぐァ、」
「マイキー! 何やってんだ!」
慌てて龍宮寺が抑えにかかるも、万次郎の凶行は止まらない。キヨマサの意識が戻った後も、ひたすら無防備な腹を蹴り、顔を殴り、執拗に痛めつけようとする。
「よりによって黒龍の……アイツの前で、こんなザマ晒しやがって……」
黒い影に呑まれた鬼神が、衝動の赴くままに目の前の標的を破壊する。こうなっては最早誰の言葉も届かない。完全に理性がぶっ飛んでしまっている万次郎に、誰もが何も言えずに立ち尽くした。あの龍宮寺でさえも、彼を止めることを躊躇している。
「万次郎……」
寺野サウスが殺された日の記憶が蘇った。あの時も、彼には誰の言葉も届かなかった。親友の死を悼む心すら失くし、ひび割れた空っぽの器からは黒い衝動が漏れ出して、その両手を赤く染めながら彼は寺野を殴り殺した。
「やめろ、やめてくれ……、」
そっちに行くな。戻ってこい。それ以上はダメだ。
「花垣……っ!」
乾の手を振り払い、キヨマサの上で馬乗りになった万次郎を後ろから抱き締める。また腕を折られるかも知れない。自分も寺野やキヨマサみたいに死ぬまで殴られ続けるかも知れない。無意識に芽生えた恐怖心から身体が強張り、声が震えた。だが何を犠牲にしてでも、彼を止めたいという気持ちの方が強くて。
「それ以上は死んじまう……やめて、万次郎……っ」
心を持たない機械のように、淡々と振り下ろされていた拳の動きが止まった。
「まんじろ、」
「タケミっちはさ」
おずおずと顔を上げた武道に、万次郎が言う。
「……酷い奴だよ。ほんと」
今にも泣き出しそうな黒曜の瞳が、蒼穹を捉えた。無理矢理作られた笑みの痛々しさが、胸を締め付ける。
「思わせぶりでさ。こうやってオレのことをちゃんと叱ってくれたかと思えば、オレを置いていつの間にか遠くに行っちまうの」
「あ……」
「そんなオマエが大好きで……大嫌いだ」
男の掌が頬へと触れる。慈しむように撫でられて、反射的に目を閉じた。鼻先に彼の吐息がかかる。寄せられた顔はしかし、唇が触れ合う前に離れていって、ぐっと何かを堪えるように万次郎が奥歯を噛み締めた。
「……大嫌いだ、オマエなんか」
大きく頭を振って、万次郎が立ち上がった。
龍宮寺が物言いたげにこちらを見ている。すぐさま乾が駆けつけて、手に持っていた黒い特服を武道の肩に羽織らせた。少しだけ、冷静さを取り戻した気がする。気が引き締まる思いとでも言うのだろうか。己の肩に乗せられた重石の存在を思い出して、ほう、と息を吐く。
己の立ち位置を、在るべき場所を、再確認する。
「万次郎」
最初で、最後。
彼以外の他の何かを優先するのは、これで最後だ。
「……ごめん」
「……っ」
ピクリ、と微かに震えた肩には気づかないフリをして。今度こそ後ろを振り返ることなく、武道は歩き出した。
雲の切れ間から差す光芒を辿り、空に架かる虹を渡る。
飛び立った大地を顧みることはなく、黒き龍は天だけを見つめて宙を舞った。
己に向けられる希求の眼差しにも気づかずに。
仲間たちが待つ、雲上の楽園を目指して。