第拾壱話 声
オレの一番大事な奴には、俺以外にも沢山の大事なモンがある。
「おい、マイキー! 聞いてんのか!」
場地、春千夜、じいちゃん、エマ、イザナ、真一郎……黒龍。オレ以外のモノをアイツが優先するのは昔からだ。助けを求める声を聞いたら、アイツは残酷なほど平等に救いの手を差し伸べる。それまであのデカくてキラキラした綺麗な目に映っていたモノが、容赦なく世界の外側に弾き出されて、アイツはヒーローみたいに困ってる奴のところへ一直線に駆けていく。
そんな途方もなくお人好しで、優しくて、カッコいいアイツが、昔から大好きで……大嫌いだった。
「マイキー!」
(……うるせぇな)
アイツの一番は呆気なく入れ替わる。興味の移り変わりの激しい子どもが、ある日突然飽きた玩具に見向きもしなくなるように。視界の端にすら映らなくなる。飽きられた玩具の気持ちなんて、アイツはこれっぽっちも考えない。しかも顔を合わせるとこちらに期待させるようなことばかりするものだから、尚更タチが悪かった。まだ遊んでくれるんじゃないか。またこっちを見てくれるんじゃないか。そんな気持ちにさせられて、しかし次の瞬間痛いほどに、自分はアイツの世界の外側にいるのだと自覚させられる。
考えれば考えるほど酷い奴だ。嫌いだ。大嫌いだ。
――いっそ殺してしまいたくなるくらいに。
「やり過ぎだって、落ち着け!」
「止めろマイキー!」
それでも、好きなのだ。好きで好きで堪らない。気が狂いそうなほど愛してる。
「……ア?」
元の顔がわからなくなるほど殴り続けた男の頭を蹴り飛ばし、ゆらりと立ち上がる。両手を見れば夥しい量の返り血で赤く染まっていた。
「……きったね」
ゴッという重い衝撃が頬に走って、身体がふらつく。遅れて痛みがやってきて、口の中に鉄の味が広がった。口の中がクソまずい。苛立ちから舌打ちを漏らせば、己を殴った親友が青筋を立てながら胸ぐらを掴み上げてくる。
「ちったぁ頭冷えたかよ」
「……ってぇな。いきなりなに?」
何が「頭冷えたかよ」だ。突然殴ってきておいて白々しい。
腹の底でふつふつと煮え滾る怒りを隠しもせずに、男を睨みつけた。すると、般若の如く歪んだ顔がさらに険しいものとなり、今にも殴り合いに発展しそうな一触即発の空気が流れ始める。周りで慌てた仲間たちが何か言っている気がするが、まったく耳に入らない。とにかく目の前のデカブツが気に入らなくて、その偉そうに見下す顔面を地べたに沈めてやりたくて仕方なかった。
徐々に軸足へ体重を乗せていく。狙うは脳天。一発で飛ばしてやる。
「なんでこんなことした」
殺気立った龍宮寺が問う。対して万次郎は、何食わぬ顔で平然と答えた。
「コイツらが悪ぃんだろ。喧嘩賭博なんて東卍の名前落とすようなことしやがって」
「だからっていくらなんでもやり過ぎだろうが!」
「ドラケン、お前も落ち着け」
見かねた三ツ谷が仲裁に入る。だが一度火がついた万次郎たちは、そんな軽く窘めた程度で引き下がることはなく。寧ろ二人の言い合いは、どんどんヒートアップしていくばかりであった。
「やり過ぎ? どこが? 殺したって足りねぇくらいじゃねぇか」
あちこちに転がる死屍累々を見回す。白目を剥いて気絶している男たちは、誰も彼もが血だらけの凄惨たる有様であった。無我夢中で殴っていたので詳しいことは覚えていないが、肋骨の二、三本、さらには手足の一、二本は折れていることだろう。中でも主犯であるキヨマサだけは特別丁寧に潰してやったため、鼻は曲がって変形しており、歯も何本か無くなっているようだった。
「オマエそれ本気で言ってんのか?」
やけに真剣な目をして、龍宮寺が万次郎を問いただす。
「ケンチンさっきから何なワケ。そろそろうぜぇんだけど」
「二人とも、よせって!」
三ツ谷に加えて場地も仲裁に加わったが、状況が好転することはなかった。
さっきから龍宮寺が何を言いたいのかわからない。いきなり殴ってきたかと思えば、どうでもいいことをいちいち持ち出してきて、一方的に万次郎を責め立てる。キヨマサたちを殴ったからといって何だというのだ。あれだけチームに迷惑をかけておきながら、お咎め無しでハイ終わり、だなんてヌルい話で済まされるわけがなかろうに。ましてや黒龍の……それも武道の前で恥を晒しやがって。本当に、何度殺しても殺し足りないくらいだ。
思い出しただけで怒りが再燃する。
「昔からそうだ! オマエは黒龍が絡むとおかしくなるっ! あの花垣とかいう男の前だと特にだ!」
「……、」
ひくり。
万次郎の眉根が僅かに顰められる。
「オマエと花垣の間に何があったかは知らねえ! 知りたくもねぇ! でもなぁ、オマエの癇癪に周りを巻き込むな!」
「おい、それ以上はやめとけ!」
花垣武道。その男の存在は、万次郎にとっての地雷だ。わざわざ目に見えた不発弾を踏み抜くような愚行を、龍宮寺がしでかすとは。コイツはそんなに死にたいのだろうか。万次郎の中のドス黒い衝動が、不気味に蠢く気配を感じる。
「確かにアイツらはやっちゃいけねぇことをした! 喧嘩賭博なんてナメた真似して、挙げ句あの黒龍の関係者に手ェだして……でもよ、そんな奴らだって東卍の一員だろうが! 仲間だろうが! それをこんな、拷問みてぇに痛めつけて、一度の失敗だけで追放って……っ」
「ケンチン」
音が遠ざかる。自分の周りに薄い膜が一枚張られているような錯覚に襲われて、いまひとつ現実味が湧かない。世界から色が失せていき、代わりに汚らしい鼠色で視界が埋め尽くされた。思考が停滞する。考えることができなくなって、身体が言うことを聞かない。
「言い残したことはそれだけか?」
「テメェ……ッ!」
「マイキー! ドラケン! やめろ!」
こめかみを狙い、強烈な蹴りを放つ。だが流石というべきか。長年背中を預けてきた親友は、目にも留まらぬ速さの万次郎の攻撃をいなし、間髪入れず反撃に打って出た。頭上から加減なく力を乗せた拳が降ってくる。
「このチビが! ガキみてぇな我が儘ばっか言ってんじゃねぇぞ!」
「っ!」
龍宮寺の拳を避け、その勢いのままガラ空きの腹目掛けて回し蹴りを繰り出す。攻撃を避けられたことでバランスを崩した龍宮寺は、もろに万次郎の蹴りを食らう羽目となり、二メートルほど後方へ吹っ飛ばされた。階段に強く背中を打ちつけた衝撃と痛みで、なかなか立ち上がることができないのか。微かに呻き声を漏らしながら、龍宮寺はその場で蹲る。
「うるっせぇんだよデクノボーが。テメェさっきから何様のつもりだ? ア゙?」
灰色の世界が、黒く塗り潰されていく。鉄のように固い『ナニカ』が、甲高い悲鳴を上げて醜くひしゃげる音がした。その後もピキピキと『ナニカ』はひび割れていき、強い痛みを伴って、一つ、また一つと欠片が剥がれ落ちてゆく。
「ここで殺してやるよ」
これは心が砕けていく音なのだと、気づいたときには遅かった。
「マイキー!」
「ドラケン!」
こちらを睨みつける目がやけに癇に触って、龍宮寺の顔を重点的に殴りつける。躊躇いなど微塵もなかった。殴りたいから殴る。壊したいから壊す。ただそれだけ。羽交い締めにされて龍宮寺から引き離されても尚、破壊衝動が抑えられない。
「おいっ! 手が空いてるやつは救急車呼べ!」
「このままだとヤベェ……っ止血するぞ」
「どうしちまったんだよマイキー……っ! オマエ正気か⁉」
痛い。苦しい。もうダメだ。限界だ。
オレがオレじゃなくなる。意識が黒い濁流に呑み込まれていく。
(……タケミっち)
オレだって救いを求めてる。オマエが手を差し伸べてくれるのをずっと待ってる。なのにどうして、こっちを見てくれないんだ。オレに気づいてくれないんだ。一度だけでもいい。少しだけでいい。後ろを振り向いて、その澄んだ瞳に哀れなオレの姿を映して。そして、オレがどれだけオマエを求めているのか思い知って欲しい。理解して欲しい。
『マイキー君』
思い浮かぶアイツの姿は、どれもあの忌ま忌ましい龍に護られた背中ばかり。
「肋骨も折れてやがるな……」
「ぐっ……まい、きー……」
「ドラケン、傷に障る。あんま喋んな」
ここは暗い。何も見えない。聞こえない。
怖い。怖いよ。早く助けて、オレを救って。
「イカレてるよ、オマエ……」
なぁ、オレはどっか壊れちまったのかな。
誰に何を言われても、もうオレの心に響かないんだ。
*
すべての歯車が狂いだしたのは、一本の電話からだった。
『もしもし、武道? あのさ……』
あぁ、クソッタレ。
降りしきる雨の中、がむしゃらにバブを走らせる。全身がびしょ濡れになろうが、グリップを握る手が滑ろうが、気にする余裕はなかった。とにかくあの人のところへ行かなければ。そんな焦燥に急かされるままに家を飛び出して、今武道は愛機と共に国道を突っ走っている。
(クソ……ッなんだってんだ)
万次郎がいなくなったと真一郎から連絡があったのは、つい先程のことだ。
彼が連絡も無しに友人の家々を泊まり歩くのは、昔からよくあったことだそうで。だからこそ彼がいなくなって数日は、誰もが不思議に思うことなく普通に過ごしていたらしい。しかし、事態が急変したのは、万次郎がいなくなってから一週間以上が経過した頃。流石に不安を覚えた真一郎が、心当たりのある友人たちに彼の所在を聞いて回ったところ、行方知れずになっていることが発覚したのだった。
『アイツの行きそうな場所も全部探してみたんだが、全然見つからねぇ』
真一郎たちで無理なら、武道に万次郎の居場所なんてわかるわけがない。内心舌打ちして毒を吐く。現に武道の中で心当たりがある場所といえば、どれも今の彼とは関係のない場所ばかりだった。芭流覇羅がアジトにしていた廃れたゲームセンター、血のハロウィンが起きた廃車場、未来の彼が飛び降りたボウリング場の跡地、梵天の拠点があった雑居ビル。到底彼がいるとは思えない。
『あと、気になる話を聞いちまって……。かなり驚いたんだけどよ、』
――東京卍會、解散したらしいぜ。
「なんでこうなった。どこで間違えたんだ、オレは!」
武道の悲痛な叫び声は、車のクラクションによって掻き消される。
東京卍會が解散した。突如として真一郎から聞かされたその話は、武道にかなりの衝撃をもたらした。
(過去にはなかったマイキー君の失踪、早すぎる東卍の解散、一体何が起きてんだ? 意味わかんねぇよ!)
橘日向と花垣武道が出会わなかった影響で、稀咲鉄太は不良の道に進むことはなかった。彼は都内有数のエリート学校に進学し、我が世の春とばかりに、健全で順風満帆な学校生活を謳歌している。稀咲が日向に告白する現場まで、溢れる殺意を抑えながらこの目で確認したのだ。だから今回の一件に、稀咲が絡んでいないことだけは間違いない。
(今までが順調にいきすぎたのか?)
稀咲が不良にならなかったことで生じた変化は絶大だった。
まず稀咲と長内が手を組むことがなくなり、長内が族の総長となる未来がなくなった。それに引きずられる形となって、前の世界であれだけ極悪のチームだった愛美愛主は、今や黒龍の傘下のチームとして監視下に置かれている。稀咲が万次郎のために設立した芭流覇羅だって存在しないし、当時の右腕だった半間も何がどうしてそうなったのか。イザナの下僕の一人として絶賛パシられ中だ。
ブレーンとして暗躍した稀咲と、莫大な資金の流れを作った九井。
この二人のキーパーソンが関与していないだけで、東京卍會が巨悪として君臨する可能性はぐっと低くなった。このままいけば東京卍會は穏便に解散するか、暴走族の範疇に収まったまま次代に引き継がれていくか。そんな平和な未来を辿るはずだった。
それなのに、
(……『関東卍會』)
まさか、ここでその名を聞くことになるなんて。
(キヨマサの処遇を巡ってマイキー君とドラケン君が対立。そして二人の仲は修復できずに東卍の解散へ……そこからの流れは前と同じだ。マイキー君が頭になって、新しく関東卍會が設立された)
すべては最近黒龍のメンバー入りした山岸から聞き出した情報である。不良辞典と呼ばれた通ぶりは相変わらずのようで、武道が電話をすれば快く詳細に至るまで説明してくれた。
キヨマサを必要以上に甚振り、東京卍會から追放処分とした万次郎と、その処遇に納得のいかなかった龍宮寺。二人の間で意見が対立し、結果的に東卍は二つに割れた。そして、万次郎が龍宮寺を病院送りにした翌日、彼は東京卍會の解散を宣言し、数人の仲間たちと共に忽然と行方を眩ませたのだという。万次郎について行ったと思われる場地と一虎、春千夜の三人も彼と同時期に消息を絶っており、場地に関しては捜索願いが出される騒ぎにまでなっているそうだ。
早速巷では万次郎が『関東卍會』という新しいチームを設立し、仲間を集めているという噂が出回っている。僅か一週間のことと言えど、無敵のマイキーのネームバリューは流石なもので。東京近郊に点在していたチームは、続々と関東卍會に吸収されていった。おかげで黒龍や天竺といった、同じく関東を拠点としているチームは、かなりの緊張状態に突入している。
(見つけたら、何としてでも止めないと)
関東卍會は未来の梵天の前身になった組織だ。三天戦争により六波羅単代を吸収、梵を解散に追い込んだことで、関東卍會はさらに勢いに乗り、裏社会を牛耳る組織へと成長していった。未来でそうなる可能性を秘めている以上、彼らにこれ以上力をつけさせたら厄介だ。それに、このままでは九井たちの身も危ない。
「万次郎の大馬鹿ヤローッ!」
バブー!
武道の怒声と呼応するように、愛機が唸る。法定速度なんてもんは破るためにあるものだ。通りすがりの車をぶち抜き、赤信号だろうと何だろうと狂ったように走り続ける。今は一分一秒すら惜しい。とにかく急げ、速く、もっと速く。
「……っ」
その時、混乱を極める思考の中に、とある情景が思い浮かんだ。錆びついたトタンの壁、天井から吊り下げられている壊れたクレーン、埃を被って放置された大型の加工機。場面はまた切り替わり、床に散乱したゴミたちと、倒れ伏す男たち。それから、じっとこちらを睨みつける暗い目をした男の顔。
「……まさか、」
ハンドルを大きく右に切る。身体を大きく前に傾け、クラッチを軽く握った。そのままアクセルをフルスロットルまでぶん回し、エンジンを吹かす。身体に染みついたクラッチ操作で急加速してみせれば、眼前に広がる景色は次々と置き去りにされていった。
風に乗り、爆音を響かせて、薄れかけていた記憶を辿りつつ街道を駆け抜ける。目指すはあの廃工場だ。武道と万次郎が決定的に袂を分かつこととなった、因縁の場所。
「……万次郎っ」
会ったら絶対、ぶん殴ってやる……!
確固たる決意を胸に秘めて、武道は先を急いだ。
あのわからずやの子どもを叱りつけるために。
久しぶりに訪れた元九代目黒龍のアジトの前には、予想通り派手にカスタムされた族車がずらりと並べられていた。
「あ゙? テメェ何の用だ」
エンジン音に気づいた下っ端たちが、わらわらと建物の中から飛び出してくる。
「ここが東卍のシマだってわかってンだろうな? ァ゙ア゙?」
「死にてぇのかオイ!」
男たちの怒鳴り声を軒並み無視して、武道は地面に転がっている鉄パイプの方へと歩いていった。泥に塗れた錆びだらけのそれを拾い上げ、何度か素振りを繰り返す。うん、これなら問題ないだろう。雨に濡れたせいで多少滑りやすくなってはいるが、すっぽ抜けたならその時はその時だ。素手で戦えば良いだけのこと。
(短期決戦でキめよう。逃げられたら面倒だ)
ちなみに、今日は黒龍の総長としてではなく、あくまでただの花垣武道としてここに来ている。そのため黒龍の特服は着ていなかった。
「なに無視してんだコラ」
私服姿の武道は、どこにでもいる普通の一般人に見えるらしい。貫禄というのだろうか。そういうものが私服になった途端に皆無となるのだと、以前九井たちが苦笑交じりに言っていた。加えて生まれつきのこの童顔。ぱっと見ただけでは武道が暴走族の、それも関東中に名を轟かせるチームの総長だと気づく者はいないだろう。
「痛い目見ねぇとわかんねぇか? ボクちゃーん」
要するに、武道は侮られやすい容姿をしている。そして、この場においてその事実は、最大の切り札となり得た。
何故なら、
「うるっせぇな……」
ぎゅっと強く握り締めた鉄パイプを、トタンの壁目掛けて勢い良く振り抜く。
バ、キンッ!
思い切り壁に叩きつけられた鉄屑は、悲痛な断末魔を上げて真っ二つにへし折れた。そして、鋭利に尖った先端を男たちに突きつけて、武道は苛立たしげに吐き捨てる。
「……ゴチャゴチャゴチャゴチャうるっせぇんだよ。オレは今すこぶる機嫌が悪ぃンだ。死にたくなけりゃそこ退けクソが」
「なっ……!」
「なんだコイツ、ヤベェぞ……っ」
人間とは、自分の予想を上回る存在を前にすると、怯む生き物である。昔ナオトに教えた不良の心得然り。中途半端な奴は、こうして凄むとみるみるうちに戦意を喪失していった。これはナメられやすい容姿をしている武道にしかできない、所謂ギャップ戦法というやつである。それに、ドスの効かせ方には昔から自信があった。伊達に物騒な裏社会の首魁とずぶずぶに馴れ合っていたわけじゃない。
「う、」
案の定、武道の威圧に屈した一部の男たちが、ずるずると後退していく。
「なにビビってんだよ。こんなガキ一匹相手によぉ」
そんな中、依然として余裕綽々な笑みを浮かべている者たちは、灰谷兄弟と同類の変態か。それとも、単純に危機感が機能していないバカか。どうでもいいが、武道の見た目だけで格下だと決めつけているのであれば、懇切丁寧に教えてやろう。
「こちとらさいっこうにドタマにキてんだよ! 邪魔する奴はぶっ殺すぞゴラァ!」
喧嘩で勝つのは身体能力に優れた天才ではなく、並々ならぬ決意を秘めた鋼鉄の心を持つ凡人なのだと。
「万次郎どこだこの野郎! 人の気も知らねぇで! 見つけたらゼッテェぶん殴ってやっからな!」
「おい、コイツ強ぇぞ! 増援呼ん」
「呼ばせるわけねぇだろ!」
「ぎゃっ!」
両手に握った鉄パイプで、次から次へと襲いかかってくる男たちをノしていく。積み上がった屍の山を踏みつけて、武道は朽ち果てた建物内部へと雪崩れ込んだ。恐らく先程沈めた、ダサいソフトモヒカンの男で最後だったのだろう。敵がアジトに侵入したというのに、出迎えの者が誰一人として出てこない。
(万次郎はどこだ……? ここだと思ったんだけど)
もしや目論見が外れたか。
あまりの人の気配のなさに、疑心を抱き始めたその時だった。
「タケミっち?」
探し人の声が聞こえた。
「……っ」
慌てて声がした方へ振り向く。ガラクタが積み上がったスクラップの山の上。その中に埋もれるようにして、彼は座り込んでいた。
未来の分岐点の一つで、同じような光景を見た。天井の向こう側に広がる晴天の青空と、頭上から降り注ぐ目に眩しいほどの陽光。あの頃の彼は黒髪だった。嘗ての友を皆殺しにした彼は、最後に思い出の地へ辿り着き、武道の腕の中で笑顔のまま死んでいった。
当時の記憶が蘇り、ずくずくと古傷が痛みだす。
「万次郎……!」
弾かれるようにして万次郎の下へ駆けて行く。怒り余って男の胸ぐらを掴み上げた。
「何してんだよアンタ……ッ! ドラケン君殴って病院送りにして、真一郎君たちにいっぱい心配かけて!」
怒濤の勢いで捲し立てるも、黒く澱んだガラス玉は無機質に武道の顔を映すばかり。どれだけ武道が声を荒らげても、ぐらぐらと身体を揺さぶっても、彼は何の反応も示さなかった。何故そんな、苦しそうな顔をしているんだ。感情のすべてを削ぎ落としたような目をして。これじゃ前の世界の彼の生き写しではないか。
「何とか言えよ……!」
何でもいい。何でもいいから言葉を返して欲しかった。年端もいかない幼子がするような稚拙な言い訳だっていい。どれだけ理不尽な駄々でも構わない。こんな抜け殻みたいな彼を叱るために、ここまで来たわけではないのに。
「……と、……た」
「あ?」
しかし、武道の怒りはそこで強制的に断ち切られることとなった。
「……やっと、オマエがこっちを見てくれた」
ぶわり、と。蕾が一斉に花開いたかの如く、スクラップに埋もれた人形の瞳に生気が宿る。熱を孕んだ恍惚とした眼差しに射抜かれて、思わず武道はたじろいだ。
「……は?」
「ずっと待ってたんだ、オレのヒーロー」
突然手を引かれてつんのめる。バランスを崩し、万次郎の腕の中へ飛び込むこととなった武道は、背骨が軋むほどの強さでキツく抱き締められた。ややあって男の鼻先が首筋へと埋められ、あちこちに跳ねたピンクゴールドの髪が頬を擽る。昔から、黒い衝動に呑まれた彼の残酷さを目の当たりにしてきた。いざとなれば刺し違えてでも止める覚悟でここへ来たのだが、この展開は想定外だ。
「オレが悪いことをしたら、オマエはオレを見てくれるだろ?」
どくり。心臓が嫌な音を立てる。冷や汗が止まらない。
「叱ってくれるんだろ?」
やめろ、やめてくれ。頼むから、気づかせないで。
佐野万次郎を今度こそ幸せにする。その一心で武道は今まで奮闘してきた。現状彼の大切な人は誰一人として失われていないし、順調に事は運んでいる。それに、万が一彼が道を踏み外したとしても、その抑止力となるだけの大きな組織だって作り上げた。きっと、このままいけば彼の未来は明るい。もうあんな悲惨な運命を辿ることはない。このまま突き進んでも大丈夫。僅かな隙間から差し込む光明は希望となり、武道の心を照らし続けた。
そして、希望があったからこそ突き進んでこれたのだ。迷うことなく前だけを見ていられた。それなのに、その前提が間違っていたとしたら。
(バカか、オレは……)
未来は明るい。万次郎は幸せになれる。よくもまぁ、そんなお気楽なことが言えたもんだ。目の前が真っ暗になる。また例に漏れず、万次郎は同じ道筋を辿ろうとしているではないか。ならばそうなった原因は、元凶は、なんだ?
否、悩むべくもない。
(オレの、せいなのか……?)
――すべての原因は、オレだ。
今まで積み重ねてきたものが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちてゆく。足下に広がる薄氷がひび割れ、粉々に砕け散っていった。押し寄せる濁流に呑まれて、冷たい海の水底へと攫われる。
「タケミっち」
冷たく暗い、深い、深い、水底へ、沈んでいく。
「オレに『イイ子』でいて欲しいなら、オレのモノになって」
オレはオレのものですよ。もう何度吐いたかわからない決まり文句は、言葉となる前に潰えてしまった。徐に手を伸ばされる。拒めない。拒むことなんてできない。そんなことは許されない。だって、こうなってしまったのはすべて己のせいだから。
「逃げたら殺す」
「……っ」
ほろり、と涙が零れた。
どこで選択を間違えたのか。いくら考えてもわからなかった。それともこういう察しの悪いところが、彼を苦しめてしまったのだろうか。
「オレを拒むな」
確かめるように、そっと唇が触れ合った。唐突に交わされた口づけは、次第に深いものとなり、自ずと互いの呼吸が乱れていく。
「ん、ぅっ」
「……はぁ、タケミっち」
「ふ、まんじ……ッグ、」
一瞬鳩尾に強い衝撃が加わって、息が詰まる。目が眩んで視界がブレた。頬を、幾筋もの涙が伝い落ちる。
「……なんで、躊躇ってたんだろうな」
音が二重三重に反響し、上手く言葉が聞き取れない。今何て言ったのか。彼はどんな顔をしていて、これから何をするつもりなのか。わからない。わからないことが怖い。手遅れになる前に止めなくては。そう思っているのに上手く身体が動かなくて、心とは裏腹にどんどん意識が薄れていく。
「たとえオマエに嫌われても、オマエをオレのモノにする」
「……ぅ、」
「拒否権ないから」
ちゅ。
最後にまたキスを落とされ、ついに限界が訪れた。
(万次郎……)
糸の切れたマリオネットみたいに、だらりと手足が垂れ下がる。力の抜けた肢体は万次郎に受け止められ、完全に意識が途切れる前に、緩慢ながらも視線を移ろわせた。霞む視界の真ん中で佇む男の表情は、どこか痛みを堪えるように歪められている。
「……泣かな……で」
何とか振り絞ったその声は、最後まで続くことなく途切れてしまった。
「……そういうとこ、ほんと……ヒデェやつだよな……」
微かに震える男の声を、ピクリとも動かなくなった武道の耳が拾うことはない。
一方、腕の中に抱えた金髪に頬擦りをして、万次郎はほうっと艶めいた吐息を漏らした。
「やっと……」
「マイキー、終わったか?」
「……あぁ」
奥の部屋から場地と三途が顔を出す。気絶した武道の姿を見て、僅かに眉根を顰めた二人はしかし、特にその話題に触れることもなく。指示通り表に用意させた車へと、荷物を運び入れていった。そして、未だ意識のない武道を抱えたまま、万次郎は後部座席へと乗り込む。
「オマエにはオレ以外にも、大切なモノがいっぱいあるけどさ」
膝の上に乗せられた頭を、そっと撫ぜる。
「……オレの一番は、昔からオマエだけなんだ」
――出せ。
短く命じれば、運転席から「はい」と必要最低限の言葉が返される。暫くして、二人を乗せた車はゆっくりと動き出した。
スモークガラス越しに臨む、暗く濁った世界。救いようのない陰鬱さが、まるで己を映した鏡のようだ。そんなことを考えながら、ぼうっと流れる景色を眺める。
「……」
今日はついに、喉から手が出るほど欲した男を手に入れた、最高の日。だというのに心は晴れず。おあつらえ向きに、バケツをひっくり返したような大雨が降りしきる荒天ときた。とことん己は空に嫌われているらしい。
「……タケミっち」
ごめんな。離してやれなくて、ごめん。
そんな男の独りよがりな懺悔の言葉は、何ら意味を持たぬ吐息となって、僅かに開かれた唇から零れ落ちた。
水光煌めく青い天蓋を追いかけて、浮かび上がる小さな泡沫。
在るべき形を見失い醜く歪んだ想いの残滓は、やがてさざ波に呑まれ弾けて消えた。