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TOKYO卍REVENGERS
 第拾弐話 哀の雫

「は、ぁ……」
 暑い。身体の火照りが止まらなくて、喘ぐように口から吐息を漏らした。それをきっかけに僅かに意識が浮上して、感覚が研ぎ澄まされてゆく。
 汗ばんだ肌の上を、空調の冷たい風が擽る。じっとりと濡れたシーツの感触が不快で、眉を顰めた。ここはどこだ。目につく白い天井は見慣れぬもので、少なくとも自室のものでないことだけは確かだった。そもそも自分は今、何故こんなところに裸で横たわっているのか。眠りにつく前に起きた出来事について反芻し、ゆるゆると記憶を掘り返していく。
 雨の中、バイクを飛ばしたこと。ボロボロの廃墟と化した九代目黒龍のアジトと、関東卍會の男たちとの乱闘の数々。ようやく見つけた探し人。
「……っまん、じろう」
 途端に、冷水を浴びせられたかの如く、急速に意識が覚醒した。そうだ。あの時自分は万次郎を見つけて、そして彼によって気絶させられたのだった。あれからどれくらいの時間が経っている? 万次郎はどこだ? まさかまた逃げられたんじゃ……。
「ひ、ア⁉」
 考え事に夢中になっていると、突然あらぬところから脳天まで、痺れるような衝撃が突き抜ける。同時に己のものとは思えない甲高い声が、喉奥から押し出された。
 なんだ、今のは。何が起きたのかわからなくて、慌てて口を閉じようとして気がつく。おかしい。身体が思うように動かせない。全身が弛緩しきっていて、上手く力が入らなかった。おまけに熱に浮かされた頭はぼうっとして、思考を阻んでは判断を鈍らせる。
(なんだ? 何か変……っ)
 今更異変に気づくなんて。普段ならありえない失態だ。一体この身体はどうなってしまったというのか。
「あぁ、起きたんだ。おはよ」
 場にそぐわぬ平常な声が、頭上から降ってくる。いつからそこにいたのだろう。万次郎が覆い被さるような体勢で、己の顔を覗き込んでいた。視界に映る淡麗な面立ちが、水彩絵の具みたいにじわじわと輪郭を失っていく。
「まんじろ……?」
 生理的な涙が止まらない。不安になって彼の名を呼んでみれば、ふ、と短い吐息が落とされた。
「寝ぼけてんの? かわいい」
「う、あ……」
「……呂律、回ってないね。ちょっと量が多かったかもな。せっかく弱めのやつにしたのに」
 量とは何のことだ。まさか何か盛られたのか。
 即座に思い至った傍らで、本来なら焦らなくてはならない場面であろうに、不自然なまでに心が凪いでいる。言葉の意味が表面を上滑りして、すべてが他人事のように感じられた。
(なんだこれ……)
 このままではまずい。鈍った思考なりにそう判断して、とりあえず起き上がらんとすれば、力の入らない腕はぶるぶると震えるばかり。情けないことに寝返りすら打てなかった。また、それまでじっと武道の様子を眺めていた万次郎は、武道が碌に抵抗できないことを察してか。機嫌良さげに鼻を鳴らして、赤く火照った首筋へと顔を寄せてくる。
「タケミっちはそのまんま寝てていいよ。大丈夫、安心して。オマエが寝てる間に綺麗にしといてやったし、準備もちゃんとしたから」
 ちゅ。
 汗ばんだ肌に吸いつかれる。ビクッと肩が震えた。剥き出しの神経に直接口づけられたみたいだ。軽く触れられただけでこれなら、罷り間違って噛み付かれでもしたらどうなるのだろう。このまま壊されやしないかと、男の一挙一動が途端に恐ろしくなってくる。
「ただ死ぬほど気持ち良くなるだけ。痛い思いなんて絶対させねぇ」
 ずくずく、と。腹の奥が疼く。暑い、熱い、あつい。
「疼いてきた? タケミっち、えっちな顔してる」
「……ぐ、ぅ」
「はぁ……たまんね……」
 男の指先が、下肢の蕾に触れる。「やめろ」という、か細い拒絶の言葉は、忽ち蕩けて艶を帯び、媚びた鳴き声へと変わっていった。こんなこと、したくないのに。一線を越えてしまえば戻れなくなる。いざという時に拒めなくなる。正常な判断が下せなくなることを恐れたからこそ、武道は今まで一定の距離を保ってきたのだ。それは前の彼との関係も同じ。にもかかわらず、当の本人はそんな武道の事情など知ったことかと言わんばかりに、強引に事を押し進めていく。
「ダメ、だ……やめ――ッ」
 つぷり。
 武道の弱々しい抵抗も虚しく、ついに秘孔の中へ指先が入れられた。浅いところをまさぐるそれは、生き物みたいに蠢きながら、先程強烈な快感を生み出したしこりの周りを、焦らすように這い回る。
「……ここさ、さっき解した時に、タケミっちの反応が一番良かったんだ」
 戯れに、その場所を軽く押し潰された。
「ぅう、ぐ……っ」
 再びピリッとした感覚が下腹部に走って、堪らず呻き声が漏れる。
「キュッてオレの指にしゃぶりついて、抜こうとすると、『いかないで』って締め付けるの。可愛くて可愛くて……おかしくなっちまいそう」
 そこは既に綻んでいた。意識のない間に奥まで流し込まれたローションが、彼が指を動かす度にくぷくぷと卑猥な水音を響かせる。不意に、ずっと前に見たアダルトビデオの映像を思い出した。嫌だ嫌だと泣き叫びながらも無理矢理押さえつけられて、男たちに犯されるAV女優の淫猥な姿。大きく足を開き、悦楽に耽るあの獣のような痴態が、今の己と重なる。
「……ッ」
 ゾッとした。自分もあの女のように貪られるのか。
 初体験もまだだというのに、こんな形で奪われるのか。
「やだ、」
 興奮から乱れる二人分の呼吸音に、肋骨を押し上げる力強い鼓動の音。それから、万次郎がわざとらしく立てるリップ音。嫌でも耳にこびりつく、情事を連想させる音の群れが、理性を溶かしていく。
 このまま身を委ねてしまえ。すべてを受け入れろ。理性などかなぐり捨てて、本能のままに精を貪れ。傍らで囁かれる誘惑の声に、いけないとわかっているのに耳を傾けてしまう。あぁ、身体中を舐る男の舌が気持ち良い。許されるならば、今すぐにでも目の前の男へ縋り付いて、一つになってしまいたかった。足りない。もっと強い刺激がほしい。欲しい、欲しい。
「い、……っだ、め、」
 このままでは自分が自分でなくなってしまう。そんな危機感から必死に身を捩って抵抗するも、やはり逃げ出すことは叶わず。それまで腹の上を撫で回していた男の左掌が、無様に足掻く足を鷲掴んだ。
「大人しくしてろって」
「ぐぁ、……っ」
 どうやらこの男はとことん武道を追い詰めたいらしい。一気に指の本数を増やされ、無遠慮にナカを掻き回された。三本もの指を挿入されても痛みはなく、それどころか昂る身体は鋭敏に快楽だけを拾い上げる。
「だ、め……! まんじろ、ァ、ア……〰〰ッ!」
 逃げ出そうとしたことへの仕置きのつもりなのだろう。ジタバタと抵抗すればするほど、強く前立腺を抉られる。何度も責められたソコはすっかり腫れ上がっていて、少し爪先が掠めただけでも鳥肌が立つほどの快感を引きずり出した。いっそ本能のままに狂ってしまえたなら、まだ楽であったろうに。中途半端に残る自我が邪魔をして、一向に理性を手放すことができない。
「ヒ、……ッぐ、やめ、」
 最早叫びに近い、嗚咽混じりの嬌声が部屋中に響き渡る。これは本当に己の声なのだろうか。まるで発情した獣だ。おぞましい。穢らわしい。猛烈な羞恥と自己嫌悪を覚え、血が出るほど固く唇を噛み締めた。わけのわからない薬に侵された身体はどこまでも無力で。男の手に少し導かれれば、あっさり両足を割り開かれる。
「……っ」
 自ら男を受け入れているような体勢に、カッと顔が熱くなった。曝け出された恥部を舐める男の視線は、危うげにギラついており、頭の奥でけたたましい警鐘の音が鳴り響く。
「はぁ……可愛い……タケミっち……」
 この野郎。人の気も知らないで好き勝手しやがって。薬まで使って辱めようとするなど、無敵のマイキーの名が聞いて呆れる。合意のない性行為はただのレイプだ。卑劣極まりない。こんなの明らかに不良の領分を外れている。
 息絶え絶えになりながらも男を睨みつければ、武道の腰を嬉々として抱え込んだ男が、舌舐めずりしてこちらを見ていた。興奮から開ききった瞳孔のそのまた奥に、嗜虐を含んだ劣情の影が見え隠れしている。今にも食らいつかれそうだ。怖い。苛烈なまでに己を求めるその瞳が、怖い。だが、彼から求められていることに、仄暗い悦びを覚えている自分がいるのもまた事実で。混沌を極める感情のままならなさに涙が出てきた。
「うん、そろそろかな。……タケミっちほんとに処女? 才能あるんじゃね? まぁ、処女じゃなかったら相手ぶっ殺してるけど」
 聞きたくない。信じたくない。力無く頭を振ると、クスクスと嘲笑めいた笑いを向けられる。屈辱だ。怒りのあまり目の前が赤く染まった。こんな醜態、彼にだけは見せたくなかったのに。まんまとしてやられた自分にも、卑怯な手を使った万次郎にも腹が立つ。
「いい加減に、」
「タケミっちがオレのモンでいてくれる間は、オレはちゃんと『イイ子』でいてやる」
「……、」
「約束する。だからさ、いい加減腹括りなよ」
 カチャカチャと音を立てて、万次郎のベルトの金具が外された。皺だらけの黒いスラックスを脱ぎ去れば、中心が盛り上がった赤いボクサーパンツが露わになる。その予想以上の大きさに、武道は無意識のうちに息を呑んだ。
「どこまで入るかな。ここらへん? それとも、ここらへん?」
 つ、と欲を掻き立てられる淫靡な手つきで、下腹部をなぞられる。
「一番奥までハメてやるよ。オマエが一生忘れられないように、骨の髄までオレの存在を刻みつけてあげる」
 好きだよ、タケミっち。
 下着の中から取り出された男根の先端が、いよいよ濡れそぼった尻穴へ擦り付けられる。ダメだ、やめろ。嘘だ。やめてくれ。
「万次郎、まっ、……!」
 ドチュン!
 雷に打たれたような衝撃が、腹底から脳天までを駆け巡った。
「ひ、ィ、〰〰ッ⁉」
 ぎゅううう。息が詰まり、肉壁が収縮する。身構える間も無く押し入ってきた剛直へしゃぶりつくソコは、男の欲望をさらに奥へ奥へと導いた。
「はっ……やば、」
「ゥぐ、ぅっ……!」
 呻き声が漏れる。痛い、気持ちいい、苦しい。もう心も体もぐちゃぐちゃだ。目の奥でチカチカと星が瞬き、息ができない。押し広げられた穴の襞は限界まで伸びきっており、今にも縁が裂けてしまいそうだった。腹の中の圧迫感が凄まじい。初めての行為に対する純粋な恐怖と、後戻りできない現実に直面した絶望。そんな嵐のように荒れ狂う感情はされど、ひっきりなしに訪れる快楽の波に押し流されて、みるみるうちに姿を眩ませてしまう。
「は……、」
 もう、何も考えられない。
「あは、嬉しい……タケミっちの処女、……オレが……」
「は、ぅ……まんじろ……」
 恍惚とした表情で悦に入る男に、助けを求めてしがみつく。唐突な接触に驚いたのか。目を丸くして硬直した彼は、ややあって何かに耐えるように歯を食い縛り、深く息を吐き出した。そして、束の間の静寂に浸った後、万次郎の腰が緩慢に動き始める。
「ふ、ぐ……」
 排泄を思わせる、ずるり、と内側から抜け出ていく感覚。えもいわれぬ官能に、ぞくぞくと背筋が粟立った。
 とんでもなく気持ちいい。張り出たカリ首が浅いところに引っかかり、悶絶するほどの甘い痺れが脳髄を蕩けさせる。そして、呼吸をするのもやっとの中で、散々イジメ抜かれたしこりを先端で抉られれば、ひとたまりもなかった。
(あ、オレ……勃って……)
 触れられてもいない中心に、捌け口のない熱が溜まる。視界の端で、白い両足がぶらぶらと心許無く揺れていた。ギシギシと悲鳴を上げながら軋むベッドと、汗とローションの匂い。あぁ、オレたちは今一つになっている。身体を繋げている。漠然と、そんなことを考えた。
「あ、ア……っ!」
 意識がそぞろになっていた時だった。ヒクヒクと尻の筋肉が痙攣し、腰が跳ねた。ダメなのに、感じてしまう。これも全部、薬のせい。そうだ。薬にあてられているから、多少淫らになっても許されるのではないか。己の中の甘えた部分が顔を出す。もう何年も心の奥深くに封印されていた、逃げてばかりだった弱い自分。あの頃の悪い癖が、武道の意志を揺らがせる。
「や、」
「ほら、もっと喘げよ」
「う、ぅ、まん、じろ、やめろ、て、ぇ……っ!」
 はしたなく開きっぱなしになっている口の端から、唾液が滴り落ちていく。餌を前に従順に待てを遂行する犬みたいに。あらゆる体液でぐちゃぐちゃになった己の顔は、鏡を見ずとも酷いものだということは容易に想像できた。しかし、そんな武道の顔を穴が開くほど見つめながら、万次郎は一心不乱に腰を振り続ける。
「はぁ、タケミっち……!」
 ゴリュゴリュと、また武道の弱いところをイジメられる。
「ぐ、ぅう……っ」
「声、聞かせてっ」
 シーツに散らばる金髪を乱れさせ、左右に頭を振った。何とか口元まで持ち上げた自分の腕に噛みつき、嬌声を押し殺す。すると、そのことに気づいた万次郎が、やっとの思いで手に入れた口枷を取り上げてしまった。シーツの上に両手首を縫い止められた直後、ガツガツと容赦なく奥を掘られる。耐えきれずに獣の咆哮のような喘ぎ声が漏れた。嫌だ。やめろ。こんな声、聞きたくない。聞かせたくない。
「ぐ、あ、ァア!」
「タケミっちの感じてる声が聞きたい。ね、お願い」
「んあっ! ぁあ〰〰! いや、やだこれ、やだ、アッ、やだぁ!」
 こちらを見据える眼差しに剣呑とした光が宿る。次の瞬間、ぐ、と身体を折り曲げられて、上から叩きつけるような腰使いへと変わった。バチュバチュと水泡の弾ける音が激しくなり、男の腰骨を思いきり尻たぶへ打ちつけられる。
「奥までブチ込まれて、アンアン喘いで、タケミっち、女みたいだね」
「うう、ッ」
「オマエのそんなえっちな顔、あのスカした黒龍の奴らが見たらどうなるか……。あー、やべ。マジでイきそ……もうケツ穴とろっとろじゃん。タケミっちエロすぎ」
 ゴチュンッ! パチュンッ!
 聞くに堪えない破裂音と共に、さらに奥を貫かれる。突き当たりの壁をノックされて、眩暈がするほどの衝撃に見舞われた。それ以上はだめだ、ダメ。怒濤の責め苦に息をする暇も無い。呼吸もままならず、酸欠から視界が霞んできた。
「あ、! ぐ、ぅ……っ、や、も、まんじろ、たすけて、まんじろう、」
 啜り泣きながら、ひたすらに己を犯す男の名を呼ぶ。もう嫌だ。気持ち良過ぎて、頭がおかしくなりそうだ。絶頂しそうになると、達しないようペニスの根元を強く握り込まれる。さながら瀕死の獲物を弄ぶかの如く、男は獰猛な笑みを浮かべながら、絶叫する武道におあずけを食らわせた。酷い。苦しい。痛い。早く出したい。イキたい。次第にそれしか考えられなくなり、武道は生まれたての赤子のように、みっともなく泣きじゃくり始める。
「まんじろう、たすけ、……っ」
「ふ、……かーわいい……」
「も、ア、だめ、ぇ――ッ」
 ゴリッと前立腺を容赦なく押し潰される。息が、止まった。それまで小刻みに痙攣を繰り返していた武道の細腰が、これまでの比ではなく勢い良く跳ね上がる。
「ヒ、ぁああアア!」
 戒めを解かれたソコから、ぷしゃ、ぷしゃ、と白濁が溢れ出す。いつもとは違う、内側から強引に押し出されるような吐精の感覚。まさか粗相をしてしまったのか、と胸の内に不安が渦巻いて、ショックのあまり放心した。
「はぁ……は、」
 壮絶な絶頂の余韻に、意識が塗り潰されていく。気持ちいい。気持ちいい……。そして、何気なく己の上に覆い被さる男の方を見て、武道は凍りついた。
「はは……っ」
 男は笑っていた。人ひとり殺していそうな、物騒な目をして。おかしくて堪らないとばかりに、口角を吊り上げて笑っていた。
(な、に……)
 全身が総毛立つ。なんだ。なんなんだ。なんだよ、その顔は。
「もう終わりだと思った?」
「あ……」
「終わらねぇよ。終わるわけねぇじゃん」
 知らしめるように、腰を前後に揺すられる。ナカに突き入れられた楔は依然として勢いを失っておらず、その硬度を保ったまま肉壁に埋もれていた。
「オレ、イッてないんだけど。最後まで付き合ってくれるよな?」
「ヒ、……ッ抜いて、」
「もっとオレを求めてよ、タケミっち。じゃないとオレ、寂しくて……マジで何しちゃうかわかんない」
 結局その淫らな拷問は、武道が意識を失うまで続けられた。
 ただ犯すことだけを目的としていた行為が、武道を快楽に堕とすためのそれへと変わり、執拗に施される愛撫に気が狂いそうなほど翻弄される。いくら泣き喚いても、懇願しても、万次郎は許してくれなかった。ただ獣のように武道の身体を貪っては、宣言通り骨の髄まで武道が万次郎のものなのだと刻みつけていく。
「やだやだ! やめろ! まんじろう! や――っ」
 血の滲んだ歯形と、濃紫の鬱血痕。身体中に散らばる所有の証。特に内腿のそれなんて酷いもので、元の肌の色がわからぬくらいに、隙間無くびっちりとつけられた。
「がっ、……は、ッ」
 もう何度イッたかわからない。万次郎とて無尽蔵なわけではなかろうに。何度も吐精して萎えた雄を、それでも頑なに武道のナカから抜こうとしなかったあたり、彼の執着の強さが窺える。
「これでタケミっちは、オレのだよな……?」
 掠れた声で漏らされた問いかけに、答える気力はなく。
 鉛のように重い全身の倦怠感に抗えず、武道はうとうとと瞼を下ろした。
「早くオレと同じとこまで堕ちてきて。もっとオレを求めて。オレだけを見て……」
 意識を手放す、その刹那。
 重ねられた唇に伝う一掬の涙は、果たしてどちらが流した哀の雫か。
「……愛してる。タケミチ」


 *


 散々無体を強いられた夜の後朝。武道が目を覚ました時には、万次郎の姿はどこにもなかった。
「……」
 痛む身体に鞭打って、床の上に転がる携帯を手に取る。新着通知が来ている受信箱を確認すると、一通の未読メールが入っていた。
《おはよ》
 差出人は万次郎で、件名には味気ない一言が綴られている。
 メールの内容は、情を交わした相手に送るものとは思えない、どこまでも事務的なものだった。曰く、武道が万次郎のモノである限り、万次郎は武道の言う通りに行動すること。今日はこのまま佐野家に帰り、学校にもちゃんと顔を出すこと。龍宮寺たちに謝ること。ただし、武道が約束を破れば、すぐにでも道を違える覚悟があること。これらの内容が、簡潔に箇条書きにされている。
「……ふぅ」
 目頭を押さえ、寝台に横になった。頭が重い。身体の至る所が軋んで痛む。錆びついたブリキの玩具の方がまだ円滑に動けることだろう。特に長時間無理な体勢をとらされ続けた下半身は、暫く使い物にならなさそうだった。
「げ、こりゃあまた派手にやられたなァ」
 虚ろな目で天井を見上げていると、耳馴染みのある声が思考を遮る。
「……場地君」
 扉の向こうからひょっこり顔を出したのは、絶賛行方不明中の場地圭介その人であった。いかにも元気そうな様子に、深いため息が落ちる。まったく、万次郎も大概だが、その周りも周りで思い切ったことをしてくれる。此度の一件で、皆がどれだけ振り回されたことか。
「アンタが言いますか、それ」
 だらしなく寝転がりながら、敢えて意識して棘を含んだ言葉を吐いた。きっとこの男は武道がこうなることを知った上で、万次郎に協力していたに違いない。だから、多少毒吐いたって許されるはずだ。
「怒んなって」
「怒ってないです」
「どーでもいいけどよ。お前なんでそんなマッパで堂々としてるわけ?」
「何言ってんスか。場地君は男相手に欲情なんてしないでしょ」
「同じ男にレイプされた奴の言うことじゃねぇんだよなぁ……」
 まさしく捕食後の獲物の如き惨状を体現した肢体を見て、野性味のある顔が複雑そうに歪められる。少しだけ胸がスッとした。せいぜい武道を謀った罪悪感に苦しめられるといい。八つ当たりなのは重々承知の上で、噛み跡だらけの身体を見せつけるように寝返りを打つ。すると、そんな武道の捻くれた意図を察してか。重苦しい吐息を漏らした確信犯は、渋々といった風に両手を上げた。
「悪かったって。でもよ、お前も悪いんだぜ? あいつが昔からああなのは知ってただろ?」
「……」
「先に藪を突いたのはお前だからな。そこは譲らねぇぞ」
 むっつりと黙り込んだ武道は、何も答えない。
 昔から、己に向けられた万次郎の執着には気がついていた。しかしその上で、敢えて見ないふりをしてきたのは紛れもなく自分だ。その事実がある以上、場地にそこを突かれてしまえば、当然何も言えなくなるわけで。
 己が招いた事態ともいえる惨劇に、弁解の余地はなかった。
「いつかこうなるとは思ってたんだ。お前が黒龍に入った時からな。だからそん時は、俺は全力でマイキーの味方になるって決めてた」
「……なんで、」
「お前は知らねぇだろうが、タケミチが黒龍入るって聞いた時のアイツの荒れ具合、マジでやばかったんだからな」
 死んじまうかと思ったくらいだ。
 ぽつり、と漏らされた場地の言葉が、重く胸にのしかかる。
「んじゃ、回復したら声掛けろよ。チェックアウトまではまだ時間あるし、家まで送ってやっから。今のうちにゆっくり休んどけ」
 言いたいことだけ言って、場地はそのまま部屋を出て行ってしまった。何だかどっと疲れが増した気がして、皺だらけのシーツの上に倒れ込む。全部、夢だったら良いのに。性懲りもなく現実逃避しようとする己に自嘲して、目を瞑った。
 想いを交わすことなく、身体だけの関係を持つこと。
 そんな在り様を世では何と言ったか。そうだ、あれだ、セックスフレンド。俗に言うセフレだ。爛れた関係になったものである。だが、この身を差し出すことで彼が踏みとどまってくれるなら、それ以上に好都合なことはない。まぁ、すべてをなあなあにしたまま不毛な関係を続けたところで、本当に彼は幸せになれるのか、という懸念は残るが。
「……どうすればいいんだろ」
 いつか、潰れてしまいそうな気がする。あの人は存外繊細で、優しい人だから。
「……ねむ、」
 安っぽいピンクのカーテンに遮られた向こう側はまだ暗い。日の出を控えた黎明。己の周りを取り囲む常闇に身を任せ、武道は静かに瞼を閉じた。
「おら、起きろドブ! ぐうたらトドみてぇに寝てんじゃねぇ!」
「ぐえっ」
 それから昼過ぎまで泥のように眠った武道は、青筋を浮かべた春千夜によって文字通り叩き起こされた。
「いってぇ!」
「きったねぇな。よだれ垂らしてんじゃねぇよ。とっとと顔洗ってこい!」
「いや起こし方よ。鳩尾にタックルて……理不尽すぎる」
 おざなりに身支度を済ませ、一階部分の駐輪場へと引き摺られていく。起き抜け一番に引き合わされた相手は、まさかの一虎で。今世で初めて顔を合わせることとなった男の姿に、途端に懐かしさが込み上げた。
「おい、やめろって。俺はいいから……って押すなよ、場地!」
「一虎、いい加減逃げんなよ。ずっとタケミチに礼言いたかったんだろ?」
 場地に背中を押される形で、一虎が武道の前までやって来る。往生際悪く逃げようとする一虎を宥める場地の表情は、心底呆れていると言わんばかりのそれだった。
「あー……」
「?」
 気まずげに唸った一虎が、落ち着きなく視線を彷徨かせる。片手で自らの首筋を撫で擦り、流し目を送ってくる立ち姿は、同じ男として複雑な心境になるほどに様になっていた。どうやら場地との会話を聞く限り、一虎は武道に礼を伝えたいと思っていたようだが、気まずさが勝ってずっと逃げ回っていたらしい。
(そんなこと、わざわざ気にしなくてもいいのに)
 しかし、武道としては『そんなこと』で済ませられるものも、一虎としては引っかかるものがあるのだろう。彼は真一郎の店へ強盗に入ることを持ちかけた側だった。そのあたりが、場地と比べて罪悪感が強い理由なのかも知れない。
「えっと……一虎君」
「っ!」
「その……」
 感情はそう簡単に割り切れないものだということは、身を以て知っている。
 だからこそ、臆病風に吹かれている一虎のことを、笑うつもりは毛頭なかった。彼が躊躇しているのなら、こちらから歩み寄ろう。そうこっそり心に決めて、未だ気まずげに顔を俯けている男へ、武道の方から声を掛ける。
「いいんすよ。もう背負わなくても」
「……っ」
「結果的に、一虎君たちは真一郎君の店に盗みには入らなかったし、君たちの友情が壊れることもなかった。結果オーライってやつです」
 がばり、と。一虎が勢い良く顔を上げた。少しだけ潤んだ琥珀色の瞳が、不安げにゆらゆらと揺れている。
「だからさ、そんな重たいモンはここに置いていきましょ。あんまり何でもかんでも抱えたままだと、肩凝っちゃいますよ」
 泣くのを耐えているせいか。深々と刻まれた眉間の皺のせいで、せっかくの端正な顔立ちが台無しだった。苦笑しながら場地の方へ視線を向けると、彼もまた薄らと涙ぐみながら、それでも凜と背筋を伸ばして一虎の背中を見守っている。本当に、強い人だ。一虎も、これから場地のように己の罪を受け入れた上で、前を向いて生きてほしい。背負った十字架の重さに押し潰されそうになって、苦しんでいた時の彼の姿を見ていたからこそ、心からそう思う。
「……ありがとう」
「いえいえ」
 平日の午後。本来なら学校のある時間帯に、明らかに未成年であろう子どもたちがたむろっていれば、目立つことこの上ない。ぎこちない動きを見せる武道の身体を気遣って、一虎たちが家まで送ると申し出てくれたものの、そのまま家に帰るには色々とまずい状態であったため、とりあえず黒龍の拠点ビルまで送ってもらうことにした。あそこならば浴室もあるし、何より着替えや救急セットも置いてある。両親に不審に思わせない程度には、身なりを整えることは可能だろう。
「黒龍のアジトか。カチコミに来たって勘違いされたらどうすっかなー」
 渋谷から新宿への短距離タンデム。運転手役として選ばれた一虎が、自在にハンドルを捌きながら冗談めかして言う。
「その辺りはちゃんと教育が行き届いてますから、多分心配要らないっすよ。あ、でももしトラブったらソイツの名前か外見の特徴を教えてください。再教育しとくんで」
「……お前、やっぱアイツらの頭やってるだけあるよな」
「え?」
 数十分ほどで目的地に到着し、ビル前の脇道にバイクが停められる。スーツを着た大人たちが行き交うオフィス街で、あからさまな族車に乗った一虎は浮いていた。本人も自覚しているのだろう。突き刺さる視線を鬱陶しげに蹴散らして、イライラと愛機に跨がったまま貧乏揺すりをしている。
「こんなところに族の拠点作るとか。お高く止まり過ぎじゃね?」
「あぁ、これはココ君がたまたま株で勝ったらしくて……前のアジトはあの状態ですし、見かねて借りてくれたんですよね」
 うちのココ君は凄いでしょ!
 にっかり笑って言ってのければ、「テメェが威張ることじゃねぇよ」と軽く小突かれる。同じ中学に通っていることを伝えてから、武道と一虎はかなり打ち解けることができた。今は異なるチームに所属している身なので、堂々と仲良くすることは難しいのだけれど。いつか、そういった柵が取り払われた時には、場地や千冬も交えて食事にでも行きたいものだ。
「それじゃ、一虎君。ここまでありがとうございました」
「おう。まぁ、色々あったし、あんま無理すんなよ」
「はい!」
 真っ昼間の新宿を、爆音を轟かせながら黄色いケッチが駆け抜けていく。一虎の背中が見えなくなり、独特の爆竹みたいな排気音が完全に聞こえなくなったあたりで、武道はフラフラとビルの中へ入っていった。
 目指すは四十二階。そこは十一代目黒龍が拠点としているフロアである。フロアごと貸し切っているため、エレベーターにさえ乗ってしまえば、後は大体なんとかなるはずだ。子鹿の如く震える両足を引き摺って、エレベーターホールへ向かう。幸いなことに、武道以外の人間は誰もいなかった。
(まずいな)
 迎えのエレベーターに乗り、ほうっと一息吐く。身体はとっくに限界を迎えている。一虎たちの手前、平静を装ってはいたが、本当は今にも床に倒れ込みそうなくらいに満身創痍だった。やはり数時間かそこら眠ったぐらいでは、回復にも限度があるようだ。とにかく頭と身体が重くて、一歩踏み出すだけでもかなり根気がいる。
「……ッ」
 ドロリ。さらには散々ナカに注ぎ込まれた万次郎の精が、勝手に奥から溢れ出てきた。ホテルを出る時はシャワーを浴びる時間がなかったため、適当に備え付けのトイレットペーパーで拭ってきたのだが。それだけでは後処理が不十分であったのだろう。後で事後処理の方法について詳しく調べなければ――。
(オレ、なにやってんだろ……)
 急に虚しさが胸をつく。
 救おうとして奮闘してきた努力が何もかも空回って、挙げ句万次郎は道を踏み外しかけた。前の世界の失敗を繰り返さないために、だとか。いざという時に彼と相対するだけの力をつけるために、だとか。色々と武道なりに頭を使って行動してみたのだが、その選択が却って彼を苦しめる結果となっている。ならば、オレは初めから選択肢を誤ったのか。何が一番正解だったのか。
(こんな時……ナオトがいればなぁ……)
 やっぱり、武道がいくら頭を捻って行動に移したところでたかが知れている。かといって、この世界には的確なアドバイスをくれたナオトも、傍で支えてくれた相棒である千冬も、誰もいない。一人で何とかするしかない。
(もう……無理かも……)
 チーン。
 目的階の到着を告げるベルが鳴る。軽い振動と共にエレベーターの扉が開かれ、外へ出た。ホールを挟んで右側の最奥の部屋。そこは大きなソファが置かれた、メンバーたちの溜まり場となっている休憩室だ。目と鼻の先にあるその場所はしかし、何故だかやけに遠く感じる。
(あれ、……オレ、どうやって歩いてたんだっけ)
 歩き出そうとする意思に反して、両足が縫い付けられたようにピクリとも動かない。おかしい。音も無くその場に崩れ落ちて、ずるりと壁に寄りかかった。
「……?」
 ずっと救ってばかりいた。助けを求められるがままに駆けつけて、身を削る思いで手を伸ばし続けて、救って、救って、救って。それがあの人の幸せに繋がるのだと、愚かなまでに信じ込んでいた。今度こそ彼を救いたかったから、幸せにしたかったから、ずっと走り続けたのだ。
(……やっぱ、オレには無理だったんだ)
 笑える。全部無意味だったなんて。結局こうして崖っぷちに追い詰められてようやく、思い知らされることになる。昔からそうだ。何一つ変わっちゃいない。
 ――オレが悪いことをしたら、オマエはオレを見てくれるだろ?
 あぁ、そうだよ。アンタが道を外れるなら、オレは全力でそれを阻止する。どんな手を使っても、アンタをそっち側には行かせない。
 ――叱ってくれるんだろ?
 当たり前だろ。約束したんだから。オレがアンタを叱り続けるって、約束、して……。
「……ッぁぁあ!」
 ガンッ!
 壁に額を打ちつける。何度も、何度も、血が出ることも厭わず打ちつけ続ける。
 悔しい。悔しくて堪らない。これが最善だ、という最適解がわからない中で、精一杯足掻いてきた。勉強は苦手だし、大した学歴があるわけじゃない。気を抜けば反社の幹部になりかねないほどには流されやすいし、単純だからおだてられればすぐに調子に乗ってしまう。数え切れないほど失敗した。取り返しのつかない失敗を重ねて、死にたくなるほど数多くの反省を経て、今がある。
「こんなの、どうしたって……」
 万次郎は言っていた。武道が彼のモノになるならば、これ以上堕ちることはないと。実質選択肢なんてあってないようなものだ。いっそ、何もかも投げ出して彼が求めるままに身も心も捧げるか? でも、それで本当にすべて解決するのか? 未来は良い方向へ進むのか?
「……なんか、疲れたな」
「花垣?」
 反射的に、声のした方へ顔を向ける。ぬるりと生温かい液体がこめかみを伝って、床に真っ赤な花弁が散った。血が流れている。もう痛みさえ感じない。ただぼんやりと宙を眺めていると、絶句した様子の乾が慌ててこちらへ駆けてきた。
「血が出てる」
「……ん」
「それに顔色が悪い……一体何が……ッ!」
 視線が、武道の首の辺りに突き刺さる。
 歪な所有の証が刻まれた身体。加えて、尋常でない様子の武道と、皺だらけの乱れた衣服。それだけで武道がどんな目に遭ったのかを悟ったのだろう。血の気の引いた顔をして、乾は壁を殴りつけた。
「……クソがッ!」
 ドガッという鈍い音が無人の廊下に反響する。
 そして、真っ赤になった左手には目もくれずに、彼は武道の傍にしゃがみ込んだ。
「……っ、悪い、運ぶぞ。痛むようなら言ってくれ」
 そっと身体を抱き上げられ、その手の優しさに涙腺が緩む。そうだった。彼がいた。命を預けるとまで言ってくれた彼が。情けないところを見られたくなくて、男の胸元に顔を埋める。嗚咽を漏らしながら震える肩を、ぎゅっと力強く掴まれた。もう大丈夫だと、まるでそう言っているかのような触れ方に、さらに涙が溢れ出てくる。
「今日は俺以外誰もいないんだ。他は皆学校に行ってる。俺は気分じゃなくてサボっちまって……」
 淡々とした声で、乾が言った。さりげなく、人の目を気にしなくていいのだと伝えたかったのだろう。その不器用な気遣いを有り難く享受しながら、武道もまたいつものように軽口を叩く。
「……ちゃ、んと学校、……行かないとダメだよ」
「あぁ、……そうだな」
 淡い笑みを浮かべて、「風呂を沸かしてくる」と一言だけ残し、乾が部屋を後にした。下肢の汚れのこともあり、ソファの上に座るのは何となく躊躇われて、タイル張りの床に座り込む。
「ひ、ッく……」
 もう、なんで泣いているのかさえわからなかった。
 心を覆う暗雲を晴らす術はなく。
 薄暗い部屋に零れる掠れた嗚咽は、終夜よもすがら、寂寞を奏でる雨声に似ていた。


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