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TOKYO卍REVENGERS

第肆章 蒼冥に沈む

 第拾参話 信仰と献身

 腫れて火照った目元にヒヤリとした感触が伝わり、目を開けた。露わになった空色の瞳が、窓から差し込む陽光を湛えて煌めく。
「悪い、起こしたか」
 武道の視界にまず飛び込んできたのは、申し訳なさそうに端正な顔立ちを歪めた乾だった。泣き腫らした瞼を見兼ねて、冷やしてくれようとしたのだろう。足元に氷水の張られた風呂桶が置かれており、その手には濡れた白いタオルが握られている。
「あ、オレ……」
「疲れてるんだろ。もう少し寝てろ」
 起き上がろうとした武道を、乾が制す。肩を掴んだ掌は、布越しでもわかるほどに冷たくなっていた。
「いや……風呂入んないと」
 いつの間に眠っていたのか。あらゆる体液でベタついた身体が不快で、眉を顰める。早く中に出された彼のモノを掻き出さなければ、腹を下してしまうだろう。経験こそないけれど、そのあたりの知識は昔調べたので知っていた。だが、乾が言ったように身体が疲弊しているのも確かで、このままもう一眠りしようか悩む。今休んで後で地獄を見るか。それとも今多少無理してでも後の極楽をとるか。究極の選択に唸っていれば、徐に乾が立ち上がった。
「風呂に入るなら、俺が手伝ってやる。その感じだと一人じゃ無理だろ」
「え、」
 それはまずい。首筋の痕跡を見ただけでもあんなに荒れていたのに、服の下にびっしりつけられた噛み痕やら鬱血痕やらを見られたらどうなるか。それこそ気でも触れてしまうのではないか。そんな懸念が脳裏をよぎる。それに、ナカに注がれた白濁を掻き出す必要もある。そんな生々しい事後処理をしているところを、人に見られたくはなかった。
「あ、えっと……それは大丈夫。オレ一人でも入れるし……」
「絶対に風呂で寝落ちしないって言いきれるか?」
「あー……」
 これまでの記憶を掘り返す。大事な商談の後だとか、チームの同盟式の後だとかは、どうにも気が緩んでしまって、既に何度かやらかしていた。
「今までも風呂で寝てたことあっただろ。その度に俺や大寿がお前のこと回収してたよな? 溺れかけたこともあったよな?」
「……はい」
「断言する。今日のお前は絶対に寝る」
「う……」
 乾の懸念はごもっともである。しかし、今回だけはわけが違うのだ。男としての矜持を守るためにも、何が何でも彼の申し出は断らなければならない。かといって、あの乾がこのまま大人しく引き下がるとは思えないし、このままずるずると押し問答していてもきりがない。どうしたものか。
「イヌピー君、こんな話をするのはほんっとうにアレなんだけど……」
 疲れ果てた頭で導き出した最適解は、全部正直にぶち撒ける、という単純明快なそれだった。
「その……アレを、ですね。掻き出さなければいけなくて……」
「アレ? かきだすってどういう意味だ?」
 言葉に詰まる。どうにも気恥ずかしさが勝ってしまって、つい言葉を濁してしまった。案の定、そういった方面に疎そうな乾には伝わらなかったらしく。平然と聞き返されてしまい、じわじわと顔に熱が集まってくる。
「えっと……男の……その……アレです。掻き出すっていうのは……アレを……アソコからっていうか……」
「花垣、アレとかアソコとか意味がわかんねぇ。もうちょいわかりやすく言ってくれるか?」
「……っ」
 ブチン。頭の奥で、何かが切れる音がした。
 ええい、まだるっこしい。こんな拷問みたいな時間をこれ以上引き伸ばしにしてたまるか。ついに羞恥心が臨界点を突破して、口からとんでもない言葉の羅列が続々と吐き出されていった。
「あー! もう! 精液! 精液ですよ! 中出しされたから、それを掻き出さなければいけないんです!」
「え、」
「男同士でセックスした後は、ほんとはすぐにお風呂で事後処理しないといけないんです! 女の人と違ってお腹壊しちゃうから!」
 やけっぱちになって言い募ると、乾はぎょっと目を見開いて可哀想なくらいに固まってしまう。無理もない。そういう世界を知らない健全な青少年であれば、大変刺激の強いお話である。そして、火がついたようにボッと顔を赤らめた彼は、ややあって小刻みに肩を震わせて、決まり悪げに視線を逸らした。本気で居た堪れない。男からレイプされたって知られただけでも十分ダメージが大きいのに、精液だとか中出しだとか、そんな生々しい放送禁止用語を己の口から吐かされる羽目になるだなんて。これは新手の羞恥プレイか?
「あ、ぅ……悪い……」
「いえ……」
 二人の間に流れる微妙な空気から逃げるため、覚束ない足取りで立ち上がり、よろよろと風呂場へ向かう。明らかに腰を庇いながら歩く武道の様子を見て、乾もまた後ろに並んだ。付かず離れずの距離を開けて歩く男の様は、傍から見れば子犬がよちよちと歩くのを、静かに見守る親犬のようで。気にかけてもらっていることをありがたく思う反面、男としての矜持が、素直に彼の好意を受け取ることを躊躇わせた。
「って……なにしてるんですか」
 脱衣所に到着し、そこで武道は違和感を覚える。そういえば、どうして乾もここにいるのだろう。普通は脱衣所の外で待っているものではなかろうか。しかも武道が服を脱ぎ出すと、どうしてか彼もまた同様に自分の服を脱ぎ始める。
「……? 服を脱いでる」
「それは見ればわかります」
「脱がなきゃ風呂に入れねぇだろ」
「え? イヌピー君は外で待っててくれるんスよね?」
「さっきも言っただろうが。花垣が風呂に入るなら俺が手伝う」
「なんで⁉」
 当然のように答える乾に、思わずツッコんでしまった。いやいや、何を考えているのだこの男は。あれだけ赤裸々に事情を打ち明けたのに、それをさも無かったかのような顔をして、一緒に風呂に入ろうとするなど、とても正気とは思えない。前から天然なところがあったが、今日は殊更に思考がぶっ飛んでいた。
「さっきも言ったよね⁉ オレ尻の穴から精液掻き出さないといけないんスよ⁉」
 動揺のあまり、言葉をオブラートに包むことも忘れて叫ぶ。
「それも手伝う」
「お願いだからヤメテ⁉」
 そこから武道と乾の双方一歩も譲らぬ戦いが始まった。
 手伝わなくていい、何が何でも手伝う、マジでやめて、お前が諦めろ。そんな不毛なやり取りを始めて十分程経った頃。一向に平行線を辿り続ける会話に、いい加減痺れを切らしたのだろう。乾が「しつけぇ」と据わった目で武道を睨みつけ、あれよあれよという間に服を脱がされてしまった。いくらなんでも強引過ぎる。あまりの急展開に置き去りにされていると、一糸纏わぬ姿となった武道を見て、水浅葱の目が険しく細められた。
「……痛むか?」
 瘡蓋となっている首筋の噛み痕を撫でて、乾が問う。
「まだ少し……」
「これだと湯が染みるな……痛かったら悪い……」
「ほんとに手伝うつもりなんすね……」
 呆れ気味に返すと、こくん、と言葉も無く頷かれた。地獄の底から這い出たような、深いため息が漏れる。乾の頑固さは筋金入りだ。彼がそう言うのなら、とことん手伝うつもりなのだろう。こうなったら武道が諦めるほかない。
「……引かないでくださいね」
「だからいつも言ってるだろ。俺は花垣の全部を受け入れるって」
「不安しかないなぁ……」
 苦笑しつつ二人共に風呂場へ入っていく。
 白い湯気の立ち上る浴室内は暖かかった。ザッとシャワーで髪を濡らし、シャンプーのボトルへ手を伸ばす。そのまま自分で髪を洗おうとした武道はしかし、横から伸びてきた腕に腰を絡め取られて、流れるように椅子に座らされた。
「花垣は何もしなくていい。全部俺がやる」
「いや、髪を洗うぐらいできるって」
「いいから」
 アジトの浴室は、例えるならファミリー向けマンションのユニットバスに近い内装をしている。大人が二人で入っても余裕のある広さがあり、バスタブは悠々と足を伸ばして浸かれる程度に大きい。とはいえ、男二人が入るとなるとやはりそれなりの窮屈感があって、武道が椅子に座っている間は必然的に、乾は膝をつく体勢にならざるをえなかった。
「ほんとに大丈夫だって。それよりイヌピー君の身体が冷えちゃいますよ」
「俺のことはいいんだ。お前はまず自分の心配をしろ。そんなボロボロのくせに」
「でも、」
「これくらいさせてくれ。俺がしたいんだ。……頼む」
 鼓膜を震わす低い声に、痛切な響きが宿る。聞いているだけで胸が痛くなった。その感情の意味するところを武道は知っている。強烈な自責の念、己の不甲斐なさを恥じる心、そして無力さへの苛立ち。今回武道が万次郎に抱かれたのは、別に乾のせいではない。武道自身が招いたことだ。言ってしまえば自業自得なのである。しかし、彼は昔から武道のこととなると極端に、自分のことを責めるところがあった。
「イヌピー君、」
 しっとりと濡れた白金色の前髪を掻き分け、その下から覗く双眸を射抜く。
「……それで君が満足するなら」
「ッあぁ、」
 みそぎの如く頭のてっぺんから足の先まで清められた。乾の手つきは繊細なガラス細工にでも触れるかのように優しく、しきりに傷口が痛むかどうかを尋ねながら、丁寧に身体の汚れを落としてゆく。そして全身を洗い終わり、ふ、と一息吐いた時。ほんのりと赤く色づいた指先が、武道の柔い双丘を撫でた。
「っそこは、自分でやるから、」
「いや、俺がやる。させてくれ……」
 慌てて乾の手を掴んで制止するも、相手は一度決めたらてこでも動かない頑固者。案の定食い下がってくる。
「イヌピーくん……っ」
「……入れるぞ」
「ちょ、」
 バスタブの縁を掴まされ、促されるまま膝立ちの姿勢になると同時に、乾の指がナカへ滑り込んできた。一晩中踏み荒らされたソコは、潤滑油などなくともあっさり綻び、いとも容易く奥への侵入を許してしまう。
「ん……、ぐっ」
 昨夜の火照りはまだ残っている。まずい。下唇を噛み、声が漏れそうになるのを咄嗟に耐える。熟れた媚肉はひくつきながら突然の乱入者に絡みつき、貪欲に快楽を強請った。
 どうか気づいてくれるな、と。必死に願う。乾に邪な気持ちなどなく、ただ純粋に武道の助けになりたいと思ってくれているのはわかっていた。だからこそ、その先の行為を期待してしまう己の身体の卑しさが、心底嫌で堪らない。彼から向けられる忠誠を穢してしまうような、信頼を裏切っているような、そんな後ろ暗さが芽生えて、その真っ直ぐな眼差しから目を背けてしまいたくなるのだ。
「……花垣?」
「……っ」
「やっぱり痛むか?」
「いや……、だいじょ、んっ」
 乾の問いかけに答えようと口を開いたタイミングで、敏感な部分を指が掠める。
「ァッ……あの、イヌピーく、ん……ちょっと、待って、」
 努めて平静を装ったつもりだった。
 だが、平静を取り繕うことに必死になっていた武道は、己を映す雄の目に不穏な光がよぎったことに気づかない。また、その凶兆は彼から向けられる感情が、欲を含んだそれであることを明確に示唆していて。そんな重要なサインを見逃してしまったからこそ、男の理性が焼き切れる寸前であったのを察知することができなかった。
「指、抜いて……っ」
「……やだ」
 ――ついに、檻から解き放たれた獣が、哀れな獲物に牙を剥く。
「いぬぴ、く……?」
「……ふ、……かわいい、花垣」
 唐突に指の本数が増やされた。手の動きが激しくなるにつれて、浴室に響く淫猥な水音が大きくなり、昨夜の情事の記憶が引き摺り出されていく。散々ナカを掻き回した肉棒に、何度も熱い白濁を吐き出される感覚。絶え間なく耳を犯す獣のような息遣いと、軋むベッドの音。そして、青臭い精の匂いに塗れた、あのどうしようもなく苦しくて甘美な時間。
 ダメだ、思い出すな。そう己に言い聞かせるも、一度昂ってしまった体を鎮めるのは容易なことではなく。散らばりかけていた理性を総動員して、なんとか押し寄せる快楽の波に抗う。
「ぅ、……ぐ、ぅ」
「……花垣、」
 ギリギリのところで理性を繋ぎ止めていた。しかしそんな武道の努力を嘲笑うように、うねる肉壁をまさぐっていた二本の指が、凝り固まったしこりをぎゅうっと挟む。
「んァッ⁉」
 再びあの脳天を横殴りにされたような衝撃が、身体中を駆け巡った。さらにはコリコリと強弱をつけて扱かれれば、悶絶するほどの気持ちよさが武道を襲い、鼻にかかった声が出る。
 あぁ、やばい。気持ちいい。ドロリと蕩けた思考の片隅で、漠然とした危機感が募っていく。このままでは、みっともなく乞うてしまいそうだ。早くこの熱から解放してくれ、と。いっそのこと手酷く犯して、この自我ごと粉々に壊してくれ、と。
「ぅ、わ……っ」
 元々限界だった身体から力が抜けるまではあっという間で、いい加減無理が祟ったのだろう。武道は盛大にバランスを崩し、タイル張りの床へ前のめりに倒れ込む。
「や、」
 自ずと尻が浮き上がり、何とも不格好な四つん這いの姿勢となってしまった。最悪だ。これでは乾の方からあらぬところが丸見えではないか。べったりと床に顔をつけ、雄に向かって尻を突き出す。その様はまるで春本で挑発的なポーズをとる女のよう。そこまで思い至り、人知れず頬が引き攣った。
 茹だった頭からみるみるうちに熱が引いていき、すぐに体勢を戻すべく立ち上がらんとする。されどそんな武道の目論見は、腰にがっちりと回された腕によって、敢えなく阻まれるところとなった。
「イヌピー君、はなし、て――」
「……」
 絡みつく腕から逃れようと後ろを見て、固まる。まず目に飛び込んできたのは、宝石みたいに美しい、水浅葱の瞳。穢れを知らぬあの純粋無垢な双眸が、今やあからさまな肉欲を露わに、武道の痴態に魅入られている。やめて、見ないで。そう半泣きになって懇願する武道の声はしかし、食い入るようにヒクつく穴を見つめる男には届かなかった。
「……ッは、」
 乾の唇から、恍惚とした吐息が漏れる。その艶めかしい息遣いを耳にした武道が、ビクッと腰を震わせた。あのいつだって涼しい顔を崩さない乾が、己の身体で興奮している。その事実をまざまざと思い知らされて、ぶわっと身体が熱くなる。
「……やばいな」
 苦しそうに喘ぐ男の声に、ナカが反応した。己の胸中などお構いなしに、淫らな窄みが指を締め付け、内側からとぷとぷと白濁を溢れさせる。
「……い、ぬぴー、くん」
 どろり。
 粘り気のある液体が、内腿を伝う。そのあまりに卑猥な光景を前に乾の瞳孔がキュッと細まり、痛いくらいの沈黙が降りてきた。もう、流されてもいいのではないか。そんな思考が頭をチラつく。
「……はながき」
「……っ」
 ゆっくりと乾の顔が近づいてきて、その美術品の如く整った面立ちを息も忘れて見つめた。互いの吐息が鼻にかかり、そのまま唇が触れそうになる。男を受け入れるべく目を瞑った武道を前に、ごくり、と乾が生唾を飲み込んだ――次の瞬間、
「……ぐッ」
 ドゴッ! という、肉を打つ音が浴室に反響した。
「え、」
 武道が驚いて目を見開くと、頬を真っ赤に腫らした乾が、不自然に右を向いている。
「……悪い。ちょっとおかしくなってたから殴った」
「んぇ……?」
「花垣がすげぇエロかったから、なんかこう、ムラムラしちまって……」
 最低だな、俺。
 そう最後に吐き捨てた乾が、しょんぼりと肩を落として項垂れる。すっかりいつもの調子に戻ったようだ。へなりと垂れた幻の犬耳まで完全再現されている。
「もう大丈夫だ。誓って、お前が嫌がることはしない」
「……」
「……続き、するぞ」
 そこからは、ひたすら無言で作業が進められていった。
 最低限の接触で中から白濁を掻き出し、仕上げにシャワーで洗浄する。流石に洗浄は自分の手でやりたかったのだが、昨晩に続き身体に無理を強いたこともあって、慣れない姿勢のまま長時間肛門と格闘する気力はなく。ここは恥を忍んで乾にすべてを任せることにした。
(オレは猫……イヌピー君に飼われてるペットの猫……)
 羞恥心さえ捨て去れば、案外快適かも知れない。そう、自分はペットの猫だ。飼い主に甲斐甲斐しく世話をされる猫。そんな馬鹿げたことを自分自身に言い聞かせながら、何とか羞恥を耐え忍ぶ。やがて全部の処理が終わり、湯の中でうとうとと微睡んでいた時だった。
「花垣はちゃんと温まってから出てきてくれ。俺は先に上がる」
 手早く自身の身体を洗い終えた乾が、そう言い残して先に浴室を後にした。一人きりになった浴室はやけに静かで、ほっと気の抜けた吐息を漏らす。何だかとても疲れた。身体はもちろんのこと、精神的にも。
 万次郎は一体何がしたいのだろう。こんな脅すようなことをしてまで武道を手に入れて、本当にそれで満足なのだろうか。情事の最中、彼は結局自身の本音を吐露することはなかった。ただ『オレのモノになれ』の一点張りで、それ以外には何も答えてくれなかった。好きだとは言われた。愛してるとも。だがそれ以上に武道が大嫌いなのだと吐き捨てて、苛立ちをぶつけるように激しく抱かれた。
 終ぞ武道は、彼の心に触れることを許されなかった。ショックだった。何故ならそれは、武道が彼からの信頼を失っていることの証であったから。
(……のぼせそう。そろそろ出よ)
 ばしゃ、と立ち上がった拍子に湯が溢れる。重い身体に鞭打って武道が風呂から這い出ると、先に出て行ったはずの乾が、何故か脱衣所で待ち構えていた。
「ん。身体拭いてやるから、ここに座れ」
 すらりとした指に示された先では、大寿のお気に入りであるアンティーク調のロッキングチェアが置かれている。
「へ? 何でこれがここに?」
「大寿の部屋からパクってきた」
「殺されますよ⁉」
「大丈夫だろ。アイツなんだかんだでお前に甘いし」
「いやいやいや!」
 ロッキングチェアの後ろに見える大寿の睨みが怖過ぎて、座るのを全力で拒否する。すると、呆れた目をした乾が強制的に武道を抱きかかえて座らせた。
「ほら、拭くぞ」
「えっ。いやいやここまでしてくれたんだから大丈夫ですって。後は自分でやります!」
「俺がしたいだけなんだ。頼む。……全部俺に任せてくれないか?」
 こいつ、学習してやがる……!
 一番に思ったことはそれだった。眉尻を下げ、捨てられた子犬みたいな眼をして、上目遣いにお強請りをする。乾のその顔に武道が弱いと知った上での所業だと、今回ばかりはピンときた。今までのあれこれも計算してのものなのかどうかは、考えたくないので置いておくとして……今日こそは騙されない。
「それ……っわざとでしょ!」
「……なんのことだ」
「あざといイヌピー君は解釈違いです!」
「解釈違い? 花垣の言ってることがよくわからない」
「くぅううう……っ!」
 何だかすごく負けた気がする。心の中で地団駄を踏んでいるその隙に、わしゃわしゃと髪を拭かれ始める。結局こうして、乾の望みを聞き入れてしまう自分の甘さに、ほとほと呆れた。オレのバカ。こうなってはもう覆しようがない。やけに肌触りの良い大判のバスタオルに顔を埋もれさせながら、武道はついに諦めの境地に達した。
 全身をくまなく手入れされた後、甲斐甲斐しく服を着せられ、休憩室まで運ばれる。その頃には心身共に疲れ果てていた武道は、飼い慣らされて野生を忘れたペットのように、大人しく乾の腕に抱かれていた。
「なんか……イヌピー君って前から結構過保護でしたけど、ここまで世話焼きな人とは思いませんでした」
 休憩室のソファに二人一緒に腰を下ろして、点けっぱなしにされたテレビをぼんやり眺める。
「そうか? そんなことは初めて言われた」
「もっと末っ子気質だと思ってたんだけど、なんか今日のイヌピー君を見てたら、どっちかというとお兄ちゃん気質だなって」
『夏の風物詩となっている東京湾大華火祭が、いよいよ来週土曜日に開催されます!』
 取り止めのない話に興じていると、溌剌としたアナウンサーの声が、二人の会話に割り入ってきた。そして、恐らく前年のものであろう、花火大会の映像が画面に流れ始める。
『十八回目を迎えたこの花火大会。去年は台風の影響で中止されたため、今年は二年ぶりの開催となります。当日の人出はおよそ七十二万人に上ると見込まれており――』
 ふ、と隣に目をやる。乾もまた集中している様子で、静かに画面の中で打ち上がる花火を見つめていた。その横顔からは、彼が何を思っているのかまでは読み取れない。
「……何も聞かないんすね」
 ひく、と。
 金の柳眉が僅かに震える。
「……約束、したから」
 ――何も言わずに消えたりしないって、俺と約束してくれ。
 夕凪に囚われた刹那、長い影の伸びる、海岸沿いの土手道。そこで二人は約束を交わした。乾が武道に何も聞かない代わりに、武道は彼に黙って消えてはならない、と。
 指先が真っ白になるほど、強く拳を握り締めている乾は、本心では何があったのか問い詰めたいに違いない。しかし武道との約束を守るために、何も聞かずにただ寄り添う道を選んだ彼の覚悟は、じんと武道の胸を熱くさせた。
「……嫌じゃ、なかったんだ」
 気がつけば、口から滑り落ちていた。このまま武道が口を閉ざしたままならば、乾は自ら事情を聞き出そうとはしてこなかっただろう。黙りを決め込んでいても良かったはずなのに、そうしなかったのは、きっと。心の何処かで、この身に渦巻く葛藤や苦悩を、誰かに聞いて欲しかったからなのかも知れない。
「昔は、仲良かったんだ。オレの前でもよく笑ってくれてた。すげぇ我が儘で横暴な、超俺様って感じの人だけど、優しくて……家族みたいに思ってた」
「それは……」
「うん、多分イヌピー君が考えてる人で合ってる」
 其処彼処に散らばる懐かしい記憶を手に取っては、空に翳して眺めてみる。
 昔の彼とどんなことをして、何を話したか。彼がどんな人で、どれほど自分にとって大切な人なのか。地上に散らばる星の欠片は、色褪せることなく当時の色を残したままそこに在って、降り注ぐ天光を浴びると煌々と輝きだす。
「あの人を幸せにするために離れたのに、その決断が彼を苦しめてたなんて……オレ、こうなるまで全然気づかなかった。いや、気づこうともしてなかったんだ。前にさ、ダチに『オマエは視野が狭過ぎる』って言われたことがあったんだけど、ほんとその通りだわ……」
「花垣……」
「オレ、どうすりゃよかったのかな。オレなりに考えて色々やってきたけど……もうわかんねぇや……」
 ぽんっという軽い音を立てて、乾の手が頭に乗せられた。そのまま乱雑に髪を掻き乱されて、腰を引き寄せられる。
「お前ら二人の間に、俺たちじゃ立ち入れないような、なんか複雑な事情があるんだろうってのは薄々わかってた」
 伏せられた水浅葱の上に、長い睫毛の影が落ちる。一瞬、泣いているのかと思ってぎょっとした。だがよくよく見てみれば、そんなことはなく。潤んで見えたその瞳の煌めきは、テレビの中で狂い咲く花火の光を反射していただけだった。
「俺が口出す義理はねぇけど……でも、花垣をこんな風に傷つけたあいつを、俺は許せねぇと思う」
「……それはオレが、」
「花垣は悪くない。ずっと近くで見てきたから、お前がどんだけ頑張ってきたか俺は知ってる。……それとも俺の言うことが信じられないか?」
「っそんなこと……!」
「お前は十分頑張ってきたよ。他でもない花垣自身が、過去の自分の努力を否定してやるな」
 なんて、真っ直ぐな人なのだろう。
 この人の言葉はいつも飾り気がなく、故に深く胸に突き刺さる。何もかも無意味だったのだとヤケになっていた。自分自身に『オマエはダメな奴だ』とレッテルを貼って、失敗したと知ればそれ見たことかと否定する。武道を一番傷つけていたのは、他でもない自分自身だった。
「オレさ……イヌピー君がそこまでしてくれるほど凄い人間じゃないんだよ……っ」
 涙が溢れて止まらない。情けねぇ。何でこんな冴えない男を、この人は慕ってくれるのだろう。心底理解できない。
「ダサくて、取り柄なんて何も無くて、頑張っても失敗することの方が多くて、」
「……んなことねぇよ」
「そんなオレだけど……っ」
 ちょっとは、認めてやってもいいのかな。
 息が苦しくなるくらいに強く抱き締められる。泣き喚く子どもを宥めるように背中を撫でられて、ますます嗚咽が酷くなった。際限なく甘やかされている。この人なら、どんな自分だって認めてくれる。そう思えば思うほど、このぬるま湯みたいな優しさに溺れていって、もうダメだった。
「……お前は俺のヒーローなんだ。あの時から、ずっと」
「……ぅ、ひっ……く、」
「赤音を抱えたお前が二階から飛び降りた時、俺はそれを下から見てた。すげぇカッコよくて、テレビの中で見たヒーローみたいで、こいつになら俺の命だって預けられるって、そう思った」
「……っ、う、」
「花垣はダサくなんてない。最高にカッコいい、俺のヒーローだ」
 うわぁん、と幼子のような泣き声を上げた。精神年齢は良い大人のくせに笑える。みっともなく泣いて、泣いて、涙や鼻水でぐちゃぐちゃになった顔は全部乾に拭ってもらって、武道は今まで溜め込んできたものをすべてぶち撒けた。
 そして、泣き疲れて寝落ちる寸前。夢と現を彷徨いながら、ずっと抱え込んできた秘密を明かす。
「あのさ……オレが、……未来からきたって言ったら、どうする?」
 頭がイカレてると思われるかもとか、嫌われるかもとか。そんな不安なんて、微塵も覚えなかった。
「未来……? なら花垣は、いつか未来に帰っちまうのか……?」
「……もう帰れない、かな。多分これが、最後のタイムリープだと思う」
「そっか。ならいい。問題ない」
「……ふふ、」
 あまりにもサラッと受け入れられて、思わず笑ってしまう。一番気にするのはそこなのか。
「……イヌピー君、」
「ん?」
「ありが、と……」
 乾の肩に頬を擦り付け、彼にもたれかかったまま瞼を閉じる。おやすみ、と声を掛けられた記憶を最後に、武道の意識はふつりと途切れた。夢も見ないほどの、深い眠りに落ちていく。
「……寝たのか?」
 弛緩しきった身体を抱えて、乾はそっと眠る少年の額に口づけた。
「……いい夢を」
  
 貴方の身に降りかかるあらゆる不幸を、私は払い退けましょう。
 貴方の苦しみも痛みもすべて、私が代わりに受け止めよう。
 貴方を護り、貴方を愛し、貴方の望みを叶えましょう。
 胃の腑を炙る嫉妬の炎も、胸を裂く切ない痛みも、そのすべてを呑み込んで。
 尚も忠誠を捧げる男の姿は、さながら滅私に努める従順な騎士のようであった。


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