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TOKYO卍REVENGERS
 第拾肆話 泥中に咲く花

 平日の夜二十一時、道玄坂のラブホ街。
 万次郎からの呼び出しは、大体がこのパターンで指定されることが多い。黒龍の集会が平日中心に行われていることから、それに敢えて被せてきているのだろう。おかげで最近の武道の集会出席率は、最低記録を更新し続けている。また、武道が集会を休んだ日の彼は決まって上機嫌で、しかも行為の後に動けないよう念入りに抱き潰されるため、それもまた非常に頭が痛い問題だった。
(そろそろまずいよなぁ……)
 このままでは総長としての面目が丸潰れである。ずっと大寿に任せっぱなしなのも心苦しいし、何より隊員たちのことが心配だ。如何せん血気盛んな連中なので、日々あちらこちらで要らぬ揉め事が勃発している。まぁ、唯一事情を話してある乾が目を光らせてくれているので、大丈夫だとは思いたいが……。
「ばあっ」
「うわっ⁉」
 うんうん頭を悩ませていると、突然視界の外から万次郎が現れる。
「ターケミっち、お待たせ♡」
 身体を重ねるようになって二ヶ月。
 万次郎の中の黒い衝動は、それまでの暴走具合が嘘のようにすっかり鳴りを潜めていた。関東卍會は実質解散となり、龍宮寺とも無事和解したことで、今の彼はまた東京卍會初代総長としてそのカリスマを存分に発揮している。
「……こんばんは、マイキー君」
 週に三回程度、彼は武道を呼び出しては気紛れに抱いていく。恋人同士のような甘ったるい逢瀬に耽る時もあれば、物のように荒々しく扱われることもあった。最初は言葉で説得を試みようとしていた武道であったが、「そんなにオレに抱かれたくないの?」と怒り狂った万次郎に、何度か腹上死一歩手前まで抱き潰されてしまえば、流石に諦めざるをえなくて。結局何もかもを宙ぶらりんにしたまま、この爛れた関係だけがずるずると続いてしまっている。
「今日はどこにする? 広いジャグジー付きとか良くない?」
「あー、確かにゆっくりお風呂に入りたい気分かも……」
「じゃあ前行ったあそこにしよっか」
 寂しい、のだろうか。いや、違うな。痛みに耐えているような、苦しげな表情。彼がそんな風に笑う時はいつも、一人で何かを背負い込もうとしている時だった。
「マイキー君、」
 目の前で揺れていた掌を掴み取る。指と指を絡ませ合って、絶対に離れていかないよう傍に縛り付けた。一人でなんて行かせるものか。死なば諸共。寧ろ死ぬ前に引っ張り上げてやる。
「行きましょ」
 へらりと笑ってみせながら、軽く手を引っ張る。すると、軽く目を見張った彼は、ホッと表情を綻ばせ、すぐにいつもの調子で武道を揶揄ってきた。
「なに、そんなに早くシたいんだ? タケミっちのえっち」
「ちょ、茶化さないでくださいよ! なんか恥ずかしくなるでしょうが!」
「ははっ」
 部屋に入るや否や、すぐに待ちきれないとばかりに口づけられる。ぬるりと滑り込んでくる彼の舌に、己のそれを絡めて応えてやれば、興奮を煽られた万次郎が武道の服を脱がせ始めた。
「ん、ふっ」
「ふ……、タケミっち、昨日の痕がまだいっぱい残ってるね」
 つつ、と昨日新しく刻まれた胸の噛み痕をなぞり、万次郎が言う。
「誰かさんが毎回飽きもせずに噛み付くもんだから、消える暇も無いんすよ」
「ばーか、わざとやってんだよ。タケミっちはオレのなんだから。ちゃんと印付けとかないとだろ……」
 男の胸なんて触って何が楽しいんだか。暫く武道の胸を揉んでいた万次郎が、ゆっくりと淡く色づいた先端へ顔を近づけてゆく。そして、ちゅ、と音を立てて吸い付かれて、堪らず武道は腰をくねらせた。
「は、ん……」
 今まで執拗に吸われ、摘まれ、擦られ、数々の愛撫を施されてきたソコはぷっくりと立ち上がり、立派な性感帯として開発されてしまっている。女みたいに胸で感じて、硬くなった下半身を彼の太腿に擦り付けた。「悪い子」と意地の悪い笑みを浮かべた獣は、さらにそれまで放置されていた反対側の胸の飾りを摘み上げ、実に楽しそうに獲物の鳴き声を堪能する。
「はぁ……可愛い、タケミっち……」
「う、い、たい……っ」
「でも強くつねられるの好きじゃん。ほら」
「ァアッ」
 強く乳首をつねられ、堪らず嬌声を上げる。痛いのに、気持ちいい。下腹部の熱がだらだらと先走りを垂らし、下着を汚した。濡れた布が纏わりつく感触が不快で、僅かに眉根を顰める。早く脱いでしまいたい。でも勝手に脱ぐと怒られる。これまでの経験上、万次郎の地雷をよくよく理解していた武道は、今度は臍のあたりを舐め始めた男へ懇願した。
「……万次郎、」
「んー?」
「パンツ、脱ぎたい」
「だーめ」
「ぅ、……っなん、で」
「お漏らししたみたいになってるタケミっちがエロいから」
「あ、……ひど、んっ」
 玉袋を優しく揉まれて、グッと射精感が高まる。
「それ、ダメ……ッ」
 気を抜けばすぐにでもイッてしまいそうだ。しかしこのまま吐精してしまえば、下着が悲惨なことになるのは目に見えている。何とかそれだけは回避したくて、ひたすら万次郎の責め苦に耐えていると、ガリッと血が出るほど強く、胸の媚芯に噛みつかれた。
「んァッ!」
 やばい。少しだけ出てしまった。じわ、と広がっていく股間の生温かい感覚に、情けなさから半泣きになる。瞳を潤ませ、ぐずぐずと鼻を鳴らす武道を哀れに思ったのだろう。優しく頭を撫でられ慰められた。
「お漏らし、しちゃったね」
「ぅう……、ひどい……っ」
「すっごい可愛かった。ね、パンツ脱ぎたい?」
 脱ぎたい。こくこくと首を上下に動かす。
「ならタケミっちからキスして」
 細長い、されども女とは違う節くれだった指先が、彼自らの唇を指し示した。
 万次郎は時折、武道から与えられる『何か』を求めた。それはキスであったり、言葉であったり、心であったり。その日の男の気分によって、強請られるものはバラバラだ。そして、どうやら今日はキスの気分であったらしい。期待に目をギラつかせながら、武道の一挙一動も見落とさぬとでも言うかのように、黒い双眸がじっとこちらを見つめている。
「……目、瞑ってください」
「やだ♡」
 即答され、思わず呆れ混じりのため息が出る。
「え、いや、そこは大人しく瞑ってくださいよ」
「だってタケミっちが恥ずかしがってるところ見てぇもん」
「普通に嫌なんスけど……」
 さっさとやれよ、だなんて理不尽に急かされて、渋々腹を括る。とにかくこれ以上彼を待たせるのはまずい。機嫌を損ねて、翌日一日中ベッドに缶詰コースはご遠慮したかった。こうなればやるしかない。
「い……いきます」
「童貞くせぇ〜」
「どうせ童貞ですよ!」
 突き刺さる視線を必死に気にしないようにして、顔を寄せていく。互いの吐息が感じられる距離になって、耐えきれず武道は瞼を閉じた。なんだろう、めちゃくちゃ恥ずかしい。心臓がドクドクと激しく脈打っている。キスなんて前世を含めれば、それこそ彼とは数えきれないほどしてきたはずなのに。どうしてこんなに羞恥心を煽られるのだろうか。
「……っ」
 ふに、と。
 ついに、柔らかい感触と共に、唇が重なった。
「……ぅう」
 触れた、と思った瞬間、弾かれたように身体を離す。顔が熱い。万次郎の姿を直視することができなくて、とりあえず目線を俯けた。頼むから、何も言ってくれるな。されど、そんな武道の心境などつゆ知らず、万次郎はあっけらかんと口を開く。
「なんか……」
 不思議そうに首を傾げて、男が自身の唇に触れた。その仕草は未知のものに遭遇した幼子が、木の枝でそれを突いて遊んでいるような、この場に不似合いの純真さを彷彿とさせる。
「……いつもよりスゲェ……イイ……」
 相乗効果、という言葉が武道の頭に浮かんでは消えた。
 目を見合わせ、互いの真っ赤になった顔を見て、さらに気恥ずかしさが増していく。先程までの余裕が嘘のように、男は赤面したまま視線を彷徨わせ、武道の顔をチラ見しては一人身悶えていた。武道のことを散々童貞だと馬鹿にしていた万次郎であったが、これでは人のことを言えないではないか。いつになく動揺している様子の彼を見ているうちに、ちょっとした悪戯心が顔を出す。
「……童貞くせぇー」
「うっさいな。タケミっちのせいだろ」
 すかさずやり返してやれば、ムッと顔を歪めた万次郎に頭突きされた。丁度鳩尾に入ってしまい、派手に咽せ込む。地味に痛いからやめろっていつも言ってるのに。まったく困った人だ。
「オレ別に何もしてないし。万次郎が勝手に恥ずかしがってるだけだし」
「クッソ生意気。抱き潰す」
「え、嘘でしょここで? せめてベッドで、うわっ! ちょっと!」
 抵抗する間もなく身体がぐるんと回転し、そのままドアに押さえつけられた。次いで流れるように下着ごとズボンが引き摺り下ろされ、外気に晒された肌が、ゾッと粟立つ。秋の盛りを控えた十月。室内は空調で温度管理されているとはいえ、汗ばんだ肌を攫う冷気は少しだけ肌寒い。
 安っぽい場末のラブホテルなだけあって壁は薄く、特に立て付けの悪い扉付近は、廊下の話し声が鮮明に聞こえるほど無防備な有様だった。これでは喘ぎ声や情事のあれこれがすべて外に筒抜けである。ここでおっ始めるのだけは心底遠慮したい。だが万次郎は既にヤる気満々のようで、熱く滾った楔を執拗に武道の尻に擦り付けてくる。
「あー……マジでいい尻……」
「ぅ、揉むなって……、」
「いいじゃん。減るもんじゃないし」
 暫く双丘を揉みしだかれ、ぐっと左右に割り開かれる。そして、いよいよ中を指で解していく、となったところで、唐突に万次郎の動きが止まった。
「えっ……」
 露わになった窄みから一切視線を外さぬまま、男は唖然と呟く。
「タケミっち、これ……っ」
 ソコは既に解れていた。それどころかてらてらと濡れて、雄を誘うように艶やかにヒクついている。明らかに予め仕込んできたとわかる穴の具合に、万次郎は言葉も忘れて目が釘付けになった。
「……準備してきた」
「なん、で……」
「わかって欲しかったから……、」
 この関係が始まって間もない頃。武道がいくら万次郎を大切に思っていることを伝えても、彼は信じようとしなかった。それどころか、この行為を止めさせたいが故のご機嫌取りだと誤解されて、却って彼の怒りを買ってしまったこともある。しかし、いくら力で押さえつけられても、乱暴に抱かれても、武道は諦めずに仕置き覚悟で、自分の気持ちを伝え続けた。
 ――見え透いた嘘言ってんじゃねぇよ。
 だが結局、頑なに耳を塞いだ男の心に、武道の言葉が届くことはなく。ここまでしても無理なら、後は行動に移すしかない、と。そう腹を括った結果が、この状況というわけである。
「……まだんなこと言ってんの」
「ずっと言い続けるよ。君が信じてくれるまで」
「……いい加減しつけぇ」
「諦め悪いのだけが取り柄なもんで」
「……」
 沈黙の中、不埒な手が穴の周りをなぞる。男は僅かに漏れ出たローションを指先で絡め取り、手慰みのようにそれを尻たぶに塗り広げていった。
「万次郎……もう、入れていいから」
 細腰を揺らし、自らの手で尻たぶを掴んで、男の欲を煽る。苦しそうに息を吐いた万次郎が、甘い蜜の滴る雌の誘惑を憎々しげに見下ろした。
「オマエのそーいうとこ、昔からすっげぇ嫌い」
「……うん」
「どんなに汚しても、汚しても、オマエだけはずっと綺麗なままでさ……全然近づいた気になんねぇの。なぁ、なんで?」
 ぬるついた指がナカに突き入れられて、柔らかくなった肉壁を押し開いてゆく。時折ぐぱっと縁を広げられて、芳醇な欲の香りが醸し出された。来る衝撃に備え、声が漏れぬよう唇を噛み締めんとすれば、その動きを察した万次郎の左手が口内に滑り込んでくる。
「オレのことが大事って言うならさ、なんで傍にいてくんなかったの」
「んう、……っ」
「なんでアイツらのことばっか見てたの。真一郎のことだってそうだ。オマエらが揃うとすぐに二人の世界に入って、オレはいつだって蚊帳の外……」
「ふあっ……ん、」
 内側を弄られながら、上顎をなぞられる。ビクビクと内腿が痙攣して、媚肉が収縮し始めた。身体が、彼を求めている。そうなるように躾けられている。
「オレはこんなにオマエのことしか考えられないのに……ズルいよ」
 ずぷっ。
 一気に指が引き抜かれ、限界まで広げられた縁が、代わりに押し入ってきた雄芯を呑み込んだ。肉壁が大きくうねる。ず、ず、と腰が進められるにつれて、凄まじい圧迫感が下腹を苛み、押し出されるようにして吐息が漏れた。
 気持ちいい。
 敏感なしこりを先端が抉り、声にならない悲鳴が上がる。ドロドロに思考が蕩けて、だんだんと頭が回らなくなってきた。
「……身体は素直なんだけどな」
「ん、ッ……は、ぅ……っ」
 パチュッ、パチュッ、と水音を立てて、本格的な律動が始まる。武道の感じる場所を徹底的に貫いて、両足が浮くほど強く腰を打ちつけられた。痛い。痛いのに気持ちいい。無意識のうちに腰が揺れて、自らイイ場所に当てようとしてしまう。
「まん、じ……ろ……」
 ふー、ふー、という獣のような息遣いが、耳元を掠めた。行為に夢中になっているのか、返事はない。
「あい、して……ん、!」
「やめろっ! 言うな!」
 みるみるうちに自我が擦り減っていく中、舌足らずに愛を紡ごうとした時のこと。突然口を塞がれ、息ができなくなった。なんで、どうして。胸がキュッと締め付けられ、鋭い痛みを訴える。痛い、苦しい、切ない。ちゃんと言葉として伝えたいのに、何故最後まで言わせてくれないのか。こんなにも胸の奥から溢れてくるというのに、吐き出すことを許されないなんて。
「これ以上、惨めにさせんな……っ」
 惨め……?
 一体何のことだ。何がそれほどに彼を追い込んでいるのだろう。わからない。ただでさえ思考回路が鈍ってしまっているせいで、彼の考えていることを察することができなかった。
(……オレだって、愛してる、のに)
 身体は熱くなる一方なのに、真逆に心は冷めていく。
 虚しい行為だった。満たされるための行為であるはずなのに、二人の間に横たわる深い溝は埋まることなく、亀裂は広がるばかり。必死に埋めようと足掻いても、当の相手がそれを拒否するものだから、なす術がなかった。ひたすらに哀しかった。哀しくて、苦しくて、どうしようもなく胸が痛かった。
「あ、ぅ……ひ、く……ぅっ」
 嗚咽混じりの嬌声が胸を裂き、万次郎の頬に汗が伝う。淡い光を湛えるそれを拭うこともせず、男は腰を揺らしながら、武道の名を呼んだ。
「タケミっち……、」
「はぁ、は、……ぅぅっ、……」
「好きだよ……大好き……」
「ひ、ぐ……ぅ、なら、なん、で……」
「好きだから、オマエがオレだけのモンじゃないのが許せないの。それとも、オレだけのタケミっちになってくれる?」
「……っ、それ、は、」
「……ん。だよな……やっぱりさ、タケミっちとオレの好きは、違うんだよ」
 絶頂に向けて、万次郎の動きが快楽を追うためのものに変わる。息を乱し、言葉もなく己を犯す男の様は、お世辞にも幸せそうだとは言い難かった。寧ろ痛みに耐えるような表情を浮かべていて、その痛々しさは見ているこちらの方が、いっそ泣いてしまいたくなるほどだった。
「はっ……ぐ、うっ……!」
「ッ! は、ふ、……ぅ、あ……ァアッ」
 絶頂の寸前、食いちぎられるんじゃないかと思うほどの強さで、頸に噛みつかれる。ぶるり、とナカを貫く剛直が震えて、最奥に白濁が叩きつけられた。
「は、ぁ……はぁ、……っ」
 未だ痙攣の続く下腹部を、汗で湿った掌が撫でる。
「オマエが女だったら……孕ませることだってできたのに……」
「……、」
「ガキができたら速攻で籍入れて、結婚して、家族になって……そしたらオマエも観念して、離れようとしなくなるだろ?」
「万次郎……」
「なぁ、苦しいよ。なんでこんな胸が痛ぇんだ? オマエと出会ってからずっとだ。愛って、こんなに苦しいモンなの?」
 大好きで、大嫌い。相反する感情の狭間で苦しむ男の気持ちを、きっと武道が根本から理解することはできないのだろう。それは仕方のないことだ。何故なら武道と万次郎は違う人間なのだから。
(……オレは、無力だ)
 こういう時、何も気が利いた言葉が出てこない。
 思い浮かぶ言葉たちは、どれも使い古された定型文のようなものばかりで、とても今の彼に伝える気にはなれなかった。
 そして、武道が言葉に迷っている間にも、血を吐くような男の独白は続く。
「いくら苦しくたって捨てる気になれねぇ。全部捨てちまえば、忘れちまえば、楽になるのはわかってるのに……。何度もオマエを恨んだよ。今でも心底嫌いだし、殺してやりたいって思ったこともあった。けど、それでもやっぱり好きで堪らなくて、」
「……っ」
「……このナイフでズタズタにされたみたいな痛みも、黒くてドロドロしたきったねぇ感情も何もかも、全部ひっくるめて、これがオレの『愛』なんだ」
 何も、言葉が出てこなかった。
 万次郎の言葉は単純なのに難解で、愚直なまでに真っ直ぐで。剥き出しの感情そのものを、ありったけぶつけられたような衝撃を受けた。
 オマエの『好き』はオレとは違う。ずっとそう言われ続けてきた。確かに武道は万次郎のように、相手を独占したいとか、自分のモノにしてしまいたいとか、そういった考えはない。それでも、互いに抱えた想いの質量は、同じくらいだと思っていた。何なら彼よりも自分の方が想いが強いとすら自負していた。
「あ……おれ、」
「……いいよ、別に。ただオレから離れないでいてくれれば」
 黙り込んだ武道の耳元で、万次郎が囁く。
「もう何も考えんな……」
 そっと腕の中に閉じ込められて、戯れに唇を甘噛みされた。角度を変えて口づけを交わすうちに、それはより深く、互いの呼吸を奪うようなものへと変わっていく。
「ん……まんじろ……」
 汗で冷えた身体に火照った彼の肌は心地良く、つい温もりを求めて擦り寄ってしまう。そんな武道の幼げな仕草に、クスリと小さく笑いを零して、万次郎は言った。
「……ベッド、行くぞ」
 波の音が聞こえる。押し寄せては引いて、また押し寄せては引いて。砂浜に描かれた子どもの落書きを呑み込み、打ち上げられた貝殻を攫い、それは在るべき場所へと還ってゆく。
 漣の立つシーツの上に寝転がり、脚の間に身を滑らせた男の髪を撫でた。愛おしいと感じる。すべてを投げ打っても構わないと思えるほどに、大切だとも。だが、この感情の奔流は果たして、何処から来たものなのか。執着か、憐憫か、それともよくありがちな恋というやつか。そのどれもが違和感を覚えてならない。そんなに軽いものでもなければ、簡単に言葉で言い表せるほど、単純明快なものでもない。だとすれば、何だというのか。
 そこで一旦思考を止め、潮の流れに身を任せた。さながら水の中を浮遊する海月の如く。上へ下へと揺さぶられながら、ただただ嬌声を上げて悦楽に溺れる。
『どんなに汚しても、汚しても、オマエだけはずっと綺麗なままでさ……全然近づいた気になんねぇの』
 天を仰いだ。
 水面に揺らぐ月光を海底から眺めつつ、彼の言葉を反芻する。
(なるほど、確かに……)
 ここから見上げる月は、ひどく――遠い。


 *


 クローズと書かれた札が出ている扉を開けて、勝手知ったる我が家の如く、迷いのない足取りで店の奥へと進んでいく。整備中であったのだろう。作業スペースに敷かれたブルーシートの上には、一台の年季が入ったバイクが停められており、その周りにはオイル塗れの雑巾と、幾つかのスプレー缶が転がっていた。
「真一郎くーん、お邪魔してまーす」
 居住区となっている部屋に向かって声を掛ける。すると、ややあってガタガタという物音が聞こえてきた。これは椅子を引く音と、カトラリーのぶつかる金属音か。もしかしたら夕飯でも食べていたのかも知れない。
「おー、武道じゃねぇか。こんな時間にどうした?」
 もう少し時間帯を考えればよかったな。そう己の至らなさを反省していれば、首からタオルを引っ提げた作業着姿の真一郎が顔を出す。
「んー、なんとなく! なんか久しぶりに真一郎君に会いたくなっちゃって」
「ははっ、なにそれ。彼女みてぇなこと言うね。部屋上がってく? 今ちょうど飯食ってて散らかってるけど」
「うん! お邪魔します!」
 モノトーンの色合いで纏められたシックな1LDK。シンプルだけどセンスを感じさせる、まさに大人の男の部屋といった感じのこの場所には、まだ片手で数えるほどしか訪れたことがない。
 さりげなく部屋を見回して、ホッと短く息を吐いた。チャコールグレーの布張りのソファには、恐らく貰い物であろうイェス・ノー枕や、名前のわからないゆるキャラのクッションが乱雑に置かれている。また、白いチェストの上には、初代黒龍の現役時代に撮ったと思われる写真が並べられており、本棚はバイク関連の雑誌や車両整備のマニュアルで埋め尽くされていた。
 真一郎らしい、思い出と趣味の詰まった優しい空間だ。
(落ち着く……)
 ここに来るといつも気が抜けてしまう。目に見えない何かに護られているような、久しぶりに実家に帰った時のような、そんな不思議な安心感に包まれて、つい自分の部屋並みに寛いでしまうのだ。
「んで、今日はどうしたよ」
 ヤカンで湯を沸かしながら、真一郎が問うてくる。
「別に、真一郎君の顔見に来ただけ」
 ぐでん、とソファに寝転がって、武道が答えた。だらしないとは思うものの、今更取り繕うつもりはない。これは武道なりの甘えであったし、真一郎もそれをすべて理解した上で、勝手を許している節があった。互いに踏み越えてはいけない一線を弁えているからこそ成り立つ、この絶妙な距離感。いつだって逃げ道を用意してくれている真一郎の優しさに、武道は救われている。
「おい、それじゃ俺が座れねぇだろが。もうちょいそっち行けって」
 湯が沸騰するまでの間、手持ち無沙汰になったらしい。リビングに戻ってきた真一郎が、武道の尻を丸めた雑誌で引っ叩いた。
「えー……」
「家主は俺な?」
「ならオレはお客サマです」
「こんな偉そうな客がいてたまるか」
 ぽす、と今度は頭を叩かれる。とはいえかなり力加減がされているので、まったく痛みはないのだが。そして、暫く問答した末に、武道に退く気がないことを悟ったのだろう。呆れた声で文句を言いながらも、真一郎は渋々といった風に毛足の長いラグに座り込み、開き癖のついた雑誌を捲り始めた。
「真一郎君、」
 んー? と、生返事が返ってくる。あの人と似た整った横顔は、四本出しマフラーの特集ページを熱心に目で追いかけていた。
「……『愛』って、なんだと思います?」
 貼り付いたように雑誌を見ていた双眸が、徐に上を向く。
「何それ、哲学?」
「いや、真一郎君が思う愛って、どういうもんなのかなーって」
 あれからずっと考えていた。万次郎が言っていた『愛』と、武道が彼に抱く『愛』について。万次郎の語ったそれは、今武道の中に根を張るものとあまりに質が違い過ぎて、己のこの感情が一体何なのかわからなくなってしまった。
「愛なぁ……それってさ、必ず『こう!』っていう型にハマった答えを出さないといけないもんなの?」
「え?」
「何を愛だと思うかなんて人それぞれだろ。価値観だってバラバラなわけだし。それに、恋愛にしろ友愛にしろ、んなもん種類があり過ぎて、一個に絞りきるなんてぜってぇ無理だろ」
 真一郎が、す、と人差し指を立てて、その先を武道へ向ける。
「俺がお前に対して抱いてるこれも『愛』」
 次に自分を指差して、伝説の不良はニッと不敵に笑ってみせた。
「んで、お前が俺に対して抱いてるのも『愛』だ」
「……っ」
「な? 全然違うけど一緒だろ?」
 ピー!
 けたたましいヤカンの音が響く。すぐに真一郎が立ち上がって、キッチンの方へ駆けて行った。そんな彼の後ろ姿を、武道は唖然と見送る。違うけど、同じ。真一郎に対して抱く気持ちと、万次郎に対してのそれはまったくの別物だ。だが、それら全部が同じ『愛』なのだと、真一郎は語った。
「……そっか」
 少しだけ、胸が軽くなる。長きに渡って降り続けていた雨がようやく明けて、澄み切った空気に満たされた秋晴れの空が、胸の内に広がっていった。
 視界が、拓けていく。
「……同じじゃなくて、いいんだ」
 真一郎は凄い。いつも、武道が一番欲しい言葉をくれる。道を見失った時には明かりを灯して、こっちへ進むのだと教えてくれる。得難い人だ。本当に。だからこそ皆に慕われ、頼りにされているのだろう。最弱王、なんてよく揶揄われているけれど、実は誰よりも尊敬されていることを武道は知っている。この人を失うことにならなくてよかった。改めて、そう思った。
「たけみちー、コーヒーか紅茶か緑茶、どれがいい?」
 ガサゴソと戸棚を漁る真一郎が、気怠げに聞く。何かと客人が多いこの店は、もてなし用の飲料のストックがやたらと豊富であった。棚の奥から、色や形の異なる茶缶が次々と出てくるのが面白い。
「ココアで!」
「ばっか、んな洒落たもんねぇよ。醤油な、了解」
「わー! うそうそ! 緑茶! 緑茶で!」
 急須と湯のみを盆に乗せて、真一郎が帰ってくる。ソファで横になりながら茶が淹れられるのを待っていると、適当に盆ごと机に置かれて、「後は自分でやれ」と丸投げされた。
 せめて最初の一杯くらいは給仕してくれてもいいであろうに。あまりの扱いのぞんざいさに笑ってしまう。
「そういうとこですかね」
「あ? なにがだ?」
「真一郎君がモテない理由」
 のろのろとソファから起き上がり、真一郎の隣に座り直した。あぁ、落ちつく。無心で湯のみへ茶を注いでいると、どす、と脇腹を小突かれる。
 反動で茶が零れそうになり、慌てて急須を机に戻した。まったく、突拍子もないことをするのは佐野家の遺伝か。この男といい、イザナといい、万次郎といい、もう少し落ち着いて欲しいものだ。
「うっせ。お前も人のこと言えないくせに」
 唇を尖らせて、男が拗ねる。
「俺だって彼女くらいいましたー」
「なにぃ⁉」
 何気なく返せば、途端に眦を吊り上げた真一郎が、さっと急須を取り上げた。
「この裏切り者! やっぱ醤油でいいだろ。茶葉が勿体ねぇわ」
「いや余裕なさ過ぎじゃね⁉ 大人げねぇ!」
「大人だってムカつく時はムカつくんですぅ」
 武道が吠えるも急須が帰ってくることはなく、真一郎はツンとそっぽを向いたまま、終いにはテレビを見始めてしまった。マジで大人げねぇな、この人。バラエティ番組の白々しい笑い声をBGMに、尚も二人の醜い争いは続く。
「幼稚、最弱王、告白四十連敗……」
「あ、お前今地雷踏んだな! もう許してやんねぇ! 次から武道が来た時は醤油出してやる!」
「理不尽! オーボー! 佐野家の長男!」
「いや佐野家の長男は別に悪口でもなんでもねぇから! ただの事実だから!」
「……自覚してない人って幸せですよね」
「おい」
 その後、日付が変わる頃まで談笑に興じた武道と真一郎は、何気なく壁に掛けられた時計を見て、ハッと夢から覚めるように沈黙した。そろそろ良い頃合いだ。このままでは真一郎に迷惑をかけてしまう。時間を確認し、そう判断した武道は、財布とバイクの鍵を掴んで立ち上がる。
「遅くまですいませんでした。そろそろ帰りますね」
「……もう遅いし泊まっていけば?」
 名残惜しそうな表情を浮かべ、真一郎が引き止める。そんな顔をされたら、離れ難くなってしまうではないか。彼の言葉に甘えたくなるのをグッと堪えて、武道は頭を振った。
「いや、明日は学校だし帰らねぇと」
「わかった。なら玄関まで見送りに行くわ」
 店の前に停めていた愛機に跨がり、キーを差し込む。そのまま捻ると重厚感のある低い音が響き、黒い躯体が震え始めた。店の扉にもたれ掛かった真一郎が、すっかり操作に手慣れた様子の武道を見て、ほうっと感心したように息を漏らす。
「なぁ、武道」
「はい?」
「また来いよ」
 穏やかに笑う男と、視線が絡まる。
「ここはお前の第二の実家だ。だから遠慮なんていらねぇ」
 第二の実家。
 言葉の意味をじっくり咀嚼し、視界が滲む。最近は万次郎のことで一杯一杯になっていて、他の事まで気を回す余裕がなかった。追い込まれているな、とは感じていたのだ。しかし、だからといって現状どうすることもできず。己の中で明確な答えが出ないまま、彼に抱かれ続けた。そして、そんな空虚な交わりを繰り返すうちに、心が摩耗していって――。
「真一郎君、」
 気がつけば吸い寄せられるように、真一郎の店へ足を運んでいた。神に懺悔し、赦しを乞う罪人のように。縋る何かを欲したのかも知れない。偶像崇拝が、一番手っ取り早い逃げ道だから。
(……敵わないなぁ)
 思わず苦笑した。こんな弱い自分にも、彼は帰る場所を用意してくれると言う。どんなに深く傷ついてボロボロになっていたとしても、何も聞かずにありのままを受け入れてくれる。そんな場所が在ることが、どれほど稀有なことか。
「何でモテないんすかね?」
「この期に及んでまだ言うか」
「見る目なさすぎでしょ。こんなに良い男を振るとか」
「えっ」
「やっぱさ、」
 ブゥン、と愛機が唸る。
 エンジンが温まってきた。そろそろ走り出しても良い頃だ。
「アンタは、かっけぇ人だ」
 今も、昔も。伝説の不良と呼ばれた佐野真一郎は、ずっと武道の憧れである。それだけは変わらない。
 この人みたいなでっかい男になるために、日本一の不良になる、だなんて馬鹿げた夢を追ったりもした。オレは無敵なんだって無邪気に信じ込んで、どんな相手にも怯まず突っ込んでいった。勿論ボコボコにやり返されることもあったが、それでも気持ちで負けることは一度もなかった。
 だがそんな自称無敗伝説は、ある日突然潰えることとなって。束の間の安寧と平穏を守るために、一番捨てちゃいけないものを、昔の自分は捨ててしまった。小さなヒーローが持っていた不屈の闘志を。花垣武道という男を形作る上で、重要な核となったはずのそれを。そう、愚かな自分は宝と知らずに、粉々に砕いて捨てたのである。
「オレが女なら、きっと真一郎君に惚れたよ」
「っ!」
「じゃあ、また」
 もう、あの時のように間違えたくない。
 そんな強迫観念に囚われ、身動きが取れなくなっていた武道を救ってくれたのは、またもや真一郎だった。
 風が気持ちいい。サラッとした冷涼な秋風と共に、深い闇夜を駆け抜ける。あれほど遠く感じた月が、近くに感じた。幼い頃に在ったあの無敵感が、全身に漲っているのを感じる。これで肩からマントでも羽織れば、まんま昔の自分じゃないか。大人になった武道がマントを靡かせ胸を張る姿……そこまで想像して、小さく笑った。
 心の整理をつけるのは、とても難しいことだ。
 頭ではわかっていても、感情はどうにもならない。紐解くのが難しいくらいに複雑に絡み合っていたり、建前とか理性とかが外側をベタベタにコーティングしていたりして、時々自分でさえも己の本心を見失ってしまうことがある。だが、沢山悩んで、うんと苦しんで、その先でようやく答えを出せた時。
 ――人はきっと、うんと強くなれるのだ。
「よしっ」
 もう一回、万次郎に伝えてみよう。キレた彼に手酷く抱かれようと、泣かれようと……嫌われようと、武道はもう譲らない。
 根拠もなく、このまま事態は良い方向に向かっていくと、勝手に思っていた。追い風が吹いている。ちゃんと腹を割って話をすれば、今は難しいかも知れないけれど、いつかはわかってもらえる時が来る。互いの想いを認め合って、対等な関係を築き直すことができるのだ、と。理想の未来を夢想していた。
 しかし、事態は予期せぬ方向へ進むことになる。
 その日を境に、万次郎からの連絡はパタリと途絶えた。
 代わりに俄に信じ難い話が武道の耳に飛び込んできたのは、それから十日後のこと。
 二〇〇五年十月三十一日
 嘗て『血のハロウィン』とまで呼ばれた惨劇の日が、刻一刻と近づいていた。


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