第拾伍話 血のハロウィン
ゴッという重い衝撃を腹に受け、身体が吹っ飛んだ。テーブルの上に並べられていた皿が雪崩れ落ち、甲高いガラスの割れる音が響く。
「いってぇな……」
舌を打ち、口端を舐める。
殴られた時に切れたらしい。ピリッとした痛みと共に、口内に鉄の味が広がった。血が繋がっていないとはいえ、流石は兄弟というべきか。敵に回せば厄介なことこの上ない。
「もういっぺん言ってみろ」
紫水晶の瞳がカッと見開かれる。瞳孔は縮まり、目の奥は物騒な光がギラついていた。こめかみに浮かぶ青筋の深さが、男の怒りの度合いを表している。そんなにアイツが大事かよ。アイツはオレのもんなのに。なにテメェのモンに手ェ出されたみたいなツラしてやがる。
ぐらぐらと腹の底で苛立ちを煮えたぎらせつつ、万次郎は内心で吐き捨てた。
(あー、クソムカつく)
さも自分のモノみたいな顔をして武道に近づく男たちに、昔から腹が立って仕方なかった。特に兄二人は、武道と疎遠になってしまった万次郎に構わず、嬉々としてその手の話題を出しやがるからタチが悪い。ただでさえ、自分の知らない武道の顔を、別の男が知っているというだけでも許し難いのに、それが身内となれば殺意も倍になるというもの。いっそ死ぬほど殴って武道と関わるなと脅してやろうか、なんて物騒な考えが何度脳裏を過ぎったことか……。
だが、万次郎はひたすら耐え続けた。兄二人が武道と釣りだの花見だのツーリングだのとキャッキャしている横で、あからさまに不機嫌になることはあれど、万次郎の方から突っかかることはなかったのである。
そう、今日までは。
「何度でも言ってやるよ。テメェらが大事に大事に囲ってたタケミっちは貫通済みで、もうオレのなわけ」
一度あの身体を知ってしまえば、やっと己のモノにできたのだという充足感を覚えてしまえば、もうダメだった。
「人のモンに余計なちょっかい出してんなよ」
「この……っドクズ野郎が……ッ!」
「万次郎」
パンッ!
乾いた音が鳴る。たった今、己を平手打ちした兄の方へ顔を向けると、真一郎はいつになく真剣な眼差しで、万次郎を見下ろしていた。
「それ、マジの話か?」
地を這うような低い声に、ビク、と肩が揺れる。
「冗談じゃねぇんだな?」
「……っああそうだよ、マジだよ。何度もオレがタケミっちを抱いて、」
今度こそ拳が飛んできて、ゴキャッと嫌な音がした。キッチンからエマの悲鳴が聞こえる。真一郎のくせに、なかなか効いた一撃だった。未だじんじんと痛みを訴える鼻へ手をやると、右手が真っ赤に染まる。あぁ、鼻血が出たのか。他人事のようにそう思った。
「人として、やっちゃいけねぇことがある。お前は一線を越えたんだ、万次郎」
こんな真一郎は見たことがない。否、一度だけ見たことがある。兄がまだ初代黒龍の総長として名を馳せていた頃、仲間を傷つけられたと知った時に見せた表情だ。人好きのする朗らかな笑みを浮かべた顔から一転、すべての感情が削ぎ落とされ、周りの温度が急激に下がっていく……あの怖じ気が走る威圧感。伝説の不良とまで呼ばれた男の剥き出しの殺気が、万次郎に向けられている。
「お前、取り返しのつかねぇことをしたって自覚はあんの?」
うるせぇ。テメェに何がわかる。昔から何でも持っていた真一郎には理解できまい。どんな手を使っても欲しいという渇望が。唯一無二の存在が離れていくことの恐怖が。
「武道の気持ちを、ちゃんと考えたことがあるか?」
よりによってオマエが、アイツを語るなよ!
ずず、と己の中の黒い衝動が膨らんでいき、表層に引きずり出されていく。
『あ、真一郎クンの弟じゃねぇか。でっかくなったなぁー』
頭の中で、ボロボロに擦り切れた言葉たちが、浮かんでは消えていった。
『佐野? あぁ、真一郎君の弟さんか!』
『オマエ、真ちゃんの弟なんだって?』
佐野真一郎の弟。
万次郎と関わった者たちがまず真っ先に言うのがそれだ。
近所を歩いていた時に声を掛けてきた大人も、そこら辺にたむろする柄の悪い不良たちも、万次郎と歳の近い子どもたちだって、皆兄越しに万次郎を見る。うんざりして、嫌気が差して、自分だけのモノが欲しいと渇望するようになったのは、いつからか。そしてその頃から、突然何もかも壊してしまいたくなるような、強烈な破壊衝動に襲われるようになった。
『だってシンイチローくんの方が優しいもん!』
『まんじろうクンは怖いからやだ!』
力の加減ができずしょっちゅう玩具を壊し、短気であるが故にすぐに手が出てしまう己は、昔から同じ年頃の子どもたちから恐れられていた。
それは別に構わない。ビビってる奴らが臆病なだけ。自分は悪くない。そうわかってはいても、万次郎の前ではビクビクして碌に話せもしないガキどもが、真一郎によく懐く姿を何度も見せられて、流石に何も感じないわけではなく。そんなことを繰り返すうちに、心の防衛本能か何なのか知らないが、周りの人間の気持ちに疎くなっていった。
真一郎のことは尊敬している。だがそれ以上に、超えたいという気持ちの方が大きかった。オレは佐野真一郎の弟ではなく、佐野万次郎なのだと、何度も声を大にして叫びたかった。
初代黒龍総長の佐野真一郎。
東京一の暴走族を率いる伝説の不良。
なら、万次郎が兄を超えるような最強のチームを作ってやったら?
兄を知らない『オレの』ダチと作った、兄とはまったく関係ない『オレの』チームで、天下を取って新たな不良の時代を築いたなら。あの偉大な兄の背中を超えられるのではないか。佐野真一郎の弟ではなく佐野万次郎として、堂々と胸を張って生きていけるのではないか。
そんな鬱屈とした気持ちをずっと抱えて、ここまで走ってきた。
「オマエにだけは……」
そんな目で、見るな。
アイツと似た、怖いくらいに真っ直ぐな目で。己は清廉潔白なのだと言わんばかりのその澄んだ眼差しを、オレに向けるな。
「真一郎、テメーだけには……っ!」
絶対に、武道は渡さない。狂おしいほどに欲しいと願ったアイツだけは、どんな手を使ってもオレのモノにする。
『シンイチローくんの方がいい!』
名前も知らないガキの声がリフレインする。
奪わせるものか。奪われるくらいなら、いっそ。
「教育的指導だ、愚弟」
目の前が真っ赤に染まると同時に、イザナが言った。
「今のテメェに総長の器はねぇ。タケミチがうっせぇから柄にもなく大人しくしててやったが、もうやめだ」
――潰すわ、東卍。
気怠げに言い放たれた言葉に、万次郎は思わずイザナを睨みつける。総長の器じゃない? 東卍を潰す? 言ってろ。やれるもんならやってみやがれ。横浜一のチームだろうがなんだろうが、絶対に負けねぇ。
万次郎がいる限り、東卍は決して倒れない。
「十月三十一日の十五時。廃車場」
「……」
「逃げたら殺す」
簡潔にそれだけ言い残して、二人目の兄はリビングを出て行った。
慌ててエマがその後を追いかけていき、扉越しに必死に彼を引き留めようとする声が聞こえてくる。真一郎はその様子を静かに見ていた。いつものようにイザナを諌めるわけでも、仲裁に入るわけでもなく。ただただ凪いだ瞳で、万次郎たちのやり取りを眺めているだけだった。
「……イザナんとこ行ってくるわ」
そして、男は万次郎に背を向ける。
最後に投げられた視線は険しかった。まだ許していないぞ、と。その目は顕著に物語っていた。しかし、今までもこれからも、きっと万次郎が己の行いを悔いることはないのだろう。だって、ああでもしなければ武道は万次郎の手の中に落ちてこなかった。手ぐすね引いて待っていたら真一郎に奪われる。兄は知らないからあんな綺麗事が言えるのだ。この身を苛む渇望を、狂おしいほどの恋しさを、いっそ死にたくなるほどの苦しみを、失う恐怖を。あの男は知らないから……。
「万次郎」
「……なに」
「お前、いっぺんちゃんと武道と向き合え。ビビんな。ちゃんとアイツのことを知ろうとしろ。話はそっからだ」
ぱ、たん。
扉が閉まる。一人取り残されたリビングで、万次郎はぼうっと宙を眺めた。自分が間違ってるなんてことは、もうずっと前からわかっている。わかった上で禁忌を犯した。そうまでしてでも、欲しいものがあったから。
武道と向き合え、か。なかなかキツいことを言ってくれる。もう既に、万次郎は十分己の本音を晒してきたつもりだ。離れないで欲しいと縋りつき、オレのモノになってと懇願し、己を見ろと言葉をぶつけた。
それでもアイツは、万次郎の隣にいてはくれなかった。黒龍なんかに入って、チームの頭になって、身も心も寄り添うどころかどんどん万次郎から離れていく。
つまりはそれが、答えだろう?
「……はは、」
笑える。
そうか、あの偉大なオニイサマは選ばれない側の絶望も知らないのか。
乱雑に部屋着の袖で鼻血を拭う。血はとっくに止まっていた。逆流してきた鉄の味が気持ち悪くて、早くうがいがしたい。だが尻に根が生えたみたいに、まったく動く気になれず。なんならこの割れた皿の破片だらけの床に倒れ込み、深く眠ってしまいたかった。
己の掌を見る。両の手が、赤く染まっている。あの時と同じだ。黒い衝動に支配されて、幼馴染みの口を裂いたあの時と。
――お願いだから、キミの大事なモノを傷つけようとするなよ……!
「はぁー……」
自身が汚れることも厭わず、万次郎の手を掴んだあの温もりは、もうない。
「……いってぇ」
*
二〇〇五年十月二十八日 十五時〇〇分
十一代目黒龍新宿総本部 幹部会
万次郎からの呼び出しが無くなった。
彼との連絡が取れなくなってから早十日。毎日のように重ねていた逢瀬はぱたりと途絶え、メールも電話も一切繋がらない状態が続いている。直接事情を聞こうにも東卍のアジトに乗り込むわけにはいかず、かといってこんな後ろ暗い事情を抱えて佐野家に押し掛けるのも気が引けてしまい、武道はただただ悶々とする日々を無為に過ごしていた。
(……飽きたのかな)
彼の口から現実を叩きつけられることが怖くて、結局何も行動できないでいる。そんな自分が情けなくてしょうがない。
(でも、学校にはちゃんと顔を出してるみたいだし、関東卍會を再結成する感じでもない。単純に飽きただけなら、あの約束も反故にするはずだし……)
す、と息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
これ以上の考察は不毛か。ともかく原因がわからなければ打つ手がない。一旦堂々巡りする思考回路に蓋をして、テーブルに一人ずつセットされた資料を手に取る。余計なことは考えず、今できることに専念しよう。常に最悪の事態を想定して行動する。それだけだ。
「では、予算会議を始めます」
ざっと目を通した資料に事細かに記載されている内容は、主に先月分の収支内訳についてだ。有価証券取引、投資不動産、情報屋業、その他個別の依頼案件。これらはすべて黒龍が手掛けている事業であり、チームの貴重な活動資金源であった。ちょっとした小遣い稼ぎのつもりで始めた金策は、今や資金繰りの天才である九井、将来は経営者志望の大寿の助力あって、かなり本格的な運用がなされている。
そして、分野ごとに計上される金の流れを、黒龍では月に一度の予算会議で、共有する機会を設けていた。
「今月の予算はこれで、こっちが先月かかった経費と収益。株と不動産に関しては問題なく右肩上がりだ」
財務部門を統括している九井が、詳しい状況について説明する。
「池袋の不動産収入が落ちてるようだが?」
すかさず疑問をぶつけたのは、武道の隣で静かに資料を読み込んでいた大寿だった。やはり頭が切れる男なだけあって、情報を把握するスピードが誰よりも速い。
「そちらは先月半ば頃にテナントが二件退去しておりまして、」
一方、そこを突っ込まれることは想定内であったのだろう。予め用意されていたカンペを読み上げるように、九井のサポート役であるアキが淀みなく答えた。
「とはいえ別の物件に移転しただけですので、全体の収益的には寧ろプラスになるかと。あと港区のアパートの件なのですが、管理会社からそろそろ大規模修繕を行うべきだと打診がありましたが、如何なさいますか?」
「あー、確かにそろそろ時期だったな。ならそっちの手配もよろしく」
「かしこまりました」
資料を片手に九井とアキが真剣な顔であれこれ話し合い始める。大寿もまた気になった点があれば逐一指摘し、その優秀な頭脳を使って改善案などを積極的に出していった。会社の経営会議か何かか? と問いたくなるこの光景は、黒龍内ではすっかり見慣れた光景である。
「あの土地の地主が五千万なら売ってもいいと……」
「あの地主は他にも土地を持ってる。こっちが素人だと思ってふっかけてんだろ」
「アイツの持ってる土地のうち、いくつかは土地開発の計画もある。四千万くらいを落としどころにして……」
「交渉役はアキ、お前に任せた」
「えぇ、それでは手筈通りに」
この三人が揃うと、自ずと飛び交う会話は大人顔負けの小難しい内容になる。こうなってはごくごく普通の中高生である武道たちに出番はないため、遠巻きに見守る側に徹しつつ。彼らの議論が白熱している間、こちらはこちらで別の話を進めていくことにした。
「ボス、各拠点から報告が上がってんぞ」
ノリが面倒そうに分厚い茶封筒を開けて、報告書を手渡してくる。
「……」
「おい、聞いてんのか」
「っ! あ、すいません」
しまった。意識が飛んでいた。慌てて返事をした武道へ、怪訝な視線を寄越したノリは、しかし深く事情を問うこともなく。気怠げに欠伸を漏らしながら、自身の携帯へと視線を戻した。
(相当キてんな……気ぃ引き締めねぇと)
会議中にぼさっとするなんて、総長として示しがつかない。集中しなければ。
「えっと……あぁ、傘下になったチームのリストか」
詳しいプロフィールの情報と共に、見たことのない顔ぶれの写真がずらりと資料の中に並んでいる。各拠点の自治は、拠点ごとに配置した幹部たちに任せていた。今回の主な報告内容は、新しく傘下に入ったチームの素行調査の結果であったようだ。
「新しいチームが多いな。最近不良流行ってんのかな?」
「黒龍に憧れてチームを作り、自ら傘下に入れて欲しいと頼みにくるケースが増えているみたいだね」
「へぇー……」
ショウタの言葉に何だか感慨が湧いてくる。
初代黒龍。東京中の不良たちが憧れた伝説のチーム。武道率いる十一代目黒龍はそんな初代の再来とまで謳われ、東京内に留まらず関東全域にその名を轟かせていた。
神奈川以外の関東圏にあるチームとはほぼ同盟関係を結び、縄張りに点在する裏社会の者たちとも、筋を通して不可侵の盃を交わしている。今や黒龍に面と向かってカチコミを仕掛けられるようなチームは、関東には存在しなかった。
そう、嘗て真一郎に誓ったように、黒龍は関東圏で右に出る者がいない最大規模の暴走族と相成ったのだ。
「……残るは神奈川攻略か」
ぽつり、と乾が呟く。
神奈川を支配下に治めているのは天竺だ。あそこは総長であるイザナを王と崇め、盲信的に慕う隊員が多く、一種の国のような独自の統治を行っている。また、同盟を持ちかけようにも傘下に降れとしか返答されないため、なかなか扱いが難しいチームであった。可能であれば同盟を結びたかったのだが、相手があのイザナなのだから諦める他ない。
「神奈川は……難しいだろうね」
無理に吸収しようとせずとも、一方的に蹂躙されかねない力量差があるわけでもなし。あそこは放っておいても問題はないはずだ。それに、このような絶妙な均衡を保っている状況では、ぶつかり合えば互いにそれなりの痛手は避けられない、と相手に思わせることこそ重要なのである。その点は既に成功しているといえた。
「……確かにオレの目標は関東統一だけど、無理矢理周りのチームを従わせてまで果たしたいものじゃないんだ。向こうにその気がないなら、それはそれで仕方ない。今は互いに牽制し合って、丁度良いバランスが取れてると思うし、変に藪を突く必要はないと思うよ」
所謂裏社会寄りの半グレの者たちには、暫く監視をつけるということが決まり、次に新入隊員の配属について話し合う。途中、隊員が茶を淹れてくれたので、初代の面々が差し入れてくれた茶菓子を摘んだ。ちなみにこれは静岡までドライブしに行った時の土産らしい。スピード狂の若狭の運転で何度か死にかけた、と遠い目をして語ったのは武臣だったか。余程地獄を見たのだろう。無事帰還した真一郎たちは、哀れなほどげっそり窶れてしまっていた。
「花垣」
「ん?」
「ついてるぞ」
武道の口端についていた食べかすを、乾がせっせと拭き取る。加えてごく自然な仕草で頭を撫ぜられ、天色の瞳がゆるりと細められた。
そんな明らかに慣れた風に触れ合う武道と乾を見て、こっそり二人の様子を窺っていた者たちはぎょっと目を剥く。今まで乾が何かと武道の世話を焼いていたのは知っていたが、皆の前で乾があからさまに態度に出すことはなかったのである。それに、武道自身も照れが勝って「一人でできる」と突っぱねてしまうため、九井たちがこうして大人しく甘やかされている武道の姿を目の当たりにするのは初めてだった。
「なんだ、お前らついにくっついたのか?」
「おいバカ、」
どこか楽しげな声色で九井が揶揄い、盛大に顔を顰めた大寿が窘める。
「くっつく? どういう意味だ」
「べ、別にオレらはそんなんじゃないっすから!」
不思議そうに小首を傾げる乾とは反対に、武道がすぐさま否定した。しかし九井は武道の言葉をまったく信じていないのか。ふーん、とニヤつきながら相鎚を打つだけで、的外れな邪推を撤回する様子はない。また、大寿に至っては「心底関わりたくない」とはっきり顔に書いており、我関せずを貫きながら、報告書の文面をひたすら目でなぞっていた。
「な、なっ……!」
他にも気まずげに目を逸らすアキや、九井に便乗して悪辣な笑みを浮かべるショウタやノリを見る限り、この場にいる誰もが武道と乾の関係を勘繰っているのを理解する。いつの間にこんな、子どものお遣いを見守る親のような目を向けられていたのだろう。そこまで自分たちはわかりやすかったのか。
(いや、待てよ……)
そもそもどこまで察せられている?
流石に武道の身体の隅々までを、乾に触れられているとは思うまい。というか、そこまで察せられていたら怖すぎる。頼むから中学生らしい青い春めいた想像にとどまっていてくれ、なんて切実に願いつつ。武道は勢い良く席を立つ。
すぅ……。
そして、力一杯否定するべく、大きく息を吸い込んだ。
「ほんとにちがっ」
「お話中失礼します!」
だが、武道の言葉は、思わぬ来客によって遮られることとなった。
「ICBMの阪泉さんが、花垣総長に至急お話ししたいことがあると……!」
池袋クリミナルブラックメンバーズ。通称ICBM。池袋を仕切っている高校生主体の中堅チームだ。阪泉といえばそこのリーダーで、最近同盟を結んだばかりの仲である。
「……っお通しして」
「はい!」
滅多に池袋を出ないあの男が、わざわざこんなところまで足を運ぶなんて。何か余程のことがあったに違いない。それまでの和らいだ空気が一転し、緊張を帯びたものへと変わる。
「よお、久しぶりだな花垣」
「阪泉君……お久しぶりです」
煙草をふかしながら部屋へ入ってきたのは、左耳に大粒のピアスをギラつかせた、厳つい角刈り頭の男。紛れもなくICBMのリーダーである阪泉であった。さっと武道が立ち上がり、頭を下げる。続いてガタガタ、と黒龍の幹部全員が立ち上がり、彼らもまた頭を下げた。同盟関係にあるとはいえ、相手は年上で何年もチームを背負ってきた池袋の顔役だ。きちんと敬意を示さねばならない。
「そういうのいいって。頭ァ上げろや」
「阪泉さん、こちらへどうぞ。おい、茶ぁ淹れてやれ」
「は、はい!」
新たに用意された椅子に、アキが阪泉を座らせる。
彼が座ったのを見て、武道たちもまた己の椅子に腰を下ろした。さて、いよいよ本題だ。緩みきった頭を交渉モードに切り替える。一体彼がここまで来た理由は何なのか。詳しく教えてもらわなければ。
「阪泉君、なんかあったんすか。こんなところまで来るなんて」
「まどろっこしい話は好きじゃねぇ。だから単刀直入に言うぞ」
「……」
「近々天竺と東卍がぶつかる。俺はその仕切りを任された」
「えっ」
「なんだと⁉」
会議室が騒めき立つ。東卍と天竺がぶつかる? このタイミングで? 阪泉の話を咄嗟に信じることができなかった。血を血で洗う惨劇、あの関東事変が起きたのは、もっと先であったはずだ。それに、二つのチームがぶつかる原因となった真一郎は、今世では生きている。そもそも彼らが争う理由がない。
「どういうこと、ですか……なんでそんな、突然……」
声が震える。また未来が変わったのか。しかも悪い方に。
「理由はわからんが、天竺の総長と東卍の総長が揉めたらしい。十月三十一日に廃車場で潰し合うってんで、お互い殺気立ってやがったぜ」
十月三十一日。
待て、待ってくれ。東卍と天竺がぶつかるという部分にばかり意識がいっていたが、その日は、まさか。
「……『血のハロウィン』」
さあっと顔から血の気が失せていく。本来血のハロウィンで争うはずだった芭流覇羅は存在しない。だが、その代わりとでもいうかのように、今度は同日同じ場所で東卍と天竺の間で抗争が勃発するという。
これは果たして、偶然か?
「そんな……」
稀咲と一虎は恐らくこの一件に絡んでいない。となると、必然的に天竺に所属している半間が、裏で糸を引いている可能性が高くなる。しかし、だとすれば動機が思いつかなかった。
イザナの指示か。いや、それでも色々と説明のつかないところが多い。今のイザナと万次郎は健全な兄弟関係なのだから、揉めたとしても取っ組み合いの喧嘩でもして終わらせればいい話だ。あのチーム想いの王様が、わざわざ自分の国を巻き込んでまで、こんな大事にするメリットがない。
(なんでだ。なんで今になって……)
「というわけで、お隣さんが神奈川と揉めるわけだから、念のためお前らの耳に入れといた方がいいかと思ってよ」
「……はい。教えてくれてありがとうございます」
最後に湯呑みをグッと煽って、阪泉が席を立つ。
「仮にも同盟組んだ仲だからな。……面倒なことになるようなら頼れよ」
「すんません、色々と気ぃ遣ってもらっちゃって……」
「気にすんな。じゃ、俺はもう行くわ」
阪泉が出て行った後の会議室は、暫しの間、形容し難い沈黙に包まれた。
険しく眉根を顰めながら思案する者や、降って湧いた神奈川攻略のチャンスに野心を燃やす者、深刻な表情で周りの様子を窺う者。各々が、今後の行末を思って考えを巡らせている。
「天竺と東卍がやり合うとなりゃあ、天竺の方が優勢か……」
一番に口火を切ったのは大寿であった。
「だろうな。マイキーとドラケンの衝突が尾を引いて、水面下じゃそれぞれの派閥でバチバチしてるって話だし、今の不安定な東卍が天竺相手にするのはキツいかもな」
そして、大寿の意見に九井が同意する。
「俺ら的には天竺が勝ってくれた方がありがたい。東卍が勝って天竺を吸収してみろ、速攻黒龍にカチコミにくんぞ」
「だが渋谷が天竺の管理下になるんだろ? それもそれで面倒そうじゃね? ただでさえ灰谷兄弟がちょっかいかけてきてんだ。どちらにせよ面倒事は増えるだろうよ」
議論が飛び交う様を無言で眺める。やはり全体的な意見としては、東卍を不利と見る考えの者が多いようだ。いくら無敵のマイキーといえど総力戦となれば、神奈川を完全に支配下に置いている天竺を相手取るには、些か役不足感が否めない。つまりはそういうことなのだろう。
「どうするよ、ボス」
血のハロウィンは何としても止めなければならない。でなければ最悪死者が出る。前の世界と同じ歴史を辿るなら、ここで命を落とすのは場地か一虎か……。誰にしろ、ここで失うわけにはいかない。
「……少し出てくる」
「え? あ、おい、ボス!」
拠点のビルを出て、裏手に回る。普段喫煙者たちのたむろするそこは、タバコの吸い殻や空き缶があちらこちらに転がってはいるものの、人の気配はなかった。周りに誰もいないことを確認して、武道は尻ポケットから携帯を取り出す。呼び出した連絡帳の名前は勿論、すべての経緯を把握しているであろうあの男だ。
『はい』
「……もしもし、真一郎くん?」
この人なら、万次郎とイザナの間に起こった諍いの原因を知っているかもしれない。藁にも縋る思いだった。
「あの、万次郎とイザナ君のことなんだけど、」
『俺は口出すつもりはないぜ』
ひゅ、と喉が鳴る。
低い声で返されて、一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「え、……? なんで、」
『弟がダメなことをしたら、ちゃんと叱ってやらなきゃならねぇ。特に人としてやっちゃいけねぇ一線を越えたなら尚更だ』
「……」
『意味、わかんだろ? 武道』
心当たりなら嫌というほどにある。そうか、この人は知っているのか。自分と万次郎の爛れた関係を、重ねた罪を。そこで武道はすべてを悟った。恐らくイザナも事実を知って、激昂したのだろう。でなければ抗争なんて物騒な方向になるわけがない。
「それ、は……」
お世辞にも同意の上とは言えない始まりだった。何度も抵抗して、何度も屈服させられて、何度も心が折れかけて……。でも最近は、この関係を甘受している節があった。武道が万次郎のモノである限り、彼は道を間違えない。その何にも替え難い安心感を手放すのがあまりに惜しくて、次第に反骨心や罪悪感は薄れていった。いや、違うな。武道は見ないふりをしただけだ。逃げただけだった。
そして、ずっと目を瞑ってきたツケが、こうして最悪の形で目の前に現れた。完全に自業自得だ。
「東卍が天竺とぶつかったのは、俺のせいですか」
通話越しに、ふぅ、と息を吐く音がする。煙草を吸っているのだろう。カチ、カチ、とたまにライターを弄る音が聞こえた。
『いくらなんでもそりゃあ自意識過剰ってもんだ』
「……」
『お前のせいじゃない。これは俺ら兄弟の問題だ。弟が悪いことをしたから叱る。これは悪いことなんだって理解するまで怒る。当たり前だろ? なんてったって、俺らはあいつの兄貴だからな』
「でも、」
『俺はもうマンジローをぶん殴って叱ってやった。大事なことは伝えたつもりだ。だから、次はイザナの番ってワケ。イザナだってなぁ、あれでちゃーんとお兄ちゃん業頑張ってるんだぜ?』
楽しげに笑ってみせた真一郎が、幼い子どもに言い聞かせるように「大丈夫だ」と告げた。後は俺たちに任せておけば大丈夫、と。いつもの飄々とした、聞く者に安心感を与える声で。
『俺の弟が悪かった。いや、謝って済むもんでもねぇな……。怖かっただろ』
「……別に。怖いと思ったことはなかったかな。万次郎だし」
『ははっ、そっか。あいつ相手にそう言えるのはお前ぐらいだよ』
「真一郎君」
あの人を叱る役目は、もう武道のものではない。そんな現実を突きつけられて、心にぽっかり穴が空いたような寂しさを覚えたことは秘密だ。同時に、肩の荷が下りたような、ホッと気の緩む瞬間があったことも。
「オレ、それでも万次郎たちを止めたい。嫌な予感がするんだ」
『……』
「オレは万次郎の兄貴じゃないし、家族でもない。なんなら敵対チームの総長なんてやってるし、あの人を叱る筋合いなんてないのかも知れない。でもさ、オレだって一発ぶん殴る資格ぐらいはあると思わねぇ?」
『……、』
「当事者ほっぽり出して、万次郎もイザナ君も好き勝手しやがって。普通はオレが一番怒る立場でしょ?」
参ったなぁ、なんて漏らしつつ。まったく困っていなさそうな声で、真一郎が言う。
『お前にそれ言われちまったら、誰も文句言えねぇだろ』
それからいくつか言葉を交わして、通話が切れた。ツー、ツー、と鳴り続けるコール音が虚しい。
陽の当たらない高層ビルの裏手で、淡く浮かび上がる携帯のブルーライトを眺める。通話終了の画面をなかなか消すことができなかったのは、心の何処かでまだ真一郎を頼ろうとしている自分がいたから。無意識のうちに胸ポケットを探る手に苦笑して、今日はポケットの無いただのTシャツを着てきたことを思い出す。ヤニ切れだ。普段はそれほど意識することはないのに、気分が沈んでくると急に吸いたくなるから困る。
「……煙草、吸いてぇな」
「ダメだ。煙草は肺が真っ黒になる」
不意に投げかけられた言葉にハッとして、顔を上げた。
「いつから、」
気配もなく現れたのは乾だった。彼以外に人影は見当たらない。どうやら一人で武道を追ってきたらしい男を前に、胸の奥の蟠りがするすると解けていくのを感じる。
「行くなら、俺も連れて行け」
向けられた眼差しは鋭い。絶対に譲らぬという強い意志の覗く眼光に、心臓をギュッと鷲掴みにされたような、鈍い痛みが走った。
「イヌピー君……」
何でだろう。彼といるとすごく安心する。どんなに難しいことでも、きっと成し遂げられる。そう思えるのだ。
「オレと、心中してくれますか」
するりと滑り落ちてきたのは、なんとも物騒な言葉だった。僅かに目を見張り、面食らった顔をした乾はしかし、瞬きの間にくるりと表情を変え、仄かに微笑む。
「当たり前だ。言っただろう。俺はお前のモノだって」
「……うん」
「どこまでもついていく」
雨晒しのコンクリート壁に染み付いた煙草の匂い。つん、と鼻腔を劈くタールの残り香が、ビル風に煽られ離散した。渇きに似た口寂しさはもう覚えない。蟻のたかる空き缶を踏み潰し、右手を前に差し出す。もう幾度も繰り返された握手の合図だ。そして武道の意図を察した乾が、無言で左手を重ね合わせる。
「全面抗争だ。舞台は赤羽の廃車場。相手は東京卍會と横浜天竺。総勢約五百人がぶつかる戦場ど真ん中に、十一代目黒龍総員で特攻を仕掛ける……!」
自分の都合でチームを振り回すことに、抵抗を覚えないわけではない。だが、ここで使わずして何のための『十一代目黒龍総長』の肩書きか。
原点を思い出せ。己は何のために黒龍を率いてきたのかを。
理由は実に単純だ。東京卍會が暴走した時の抑止力となる。失われるはずだった人達の命を救い、万次郎の笑顔を守る。この二つの目的を達成するために、有事の際には円滑に動けるよう備えてきた。
今こそ、これまで築き上げてきた成果のすべてを発揮する時だ。
「ただでさえ現場は混戦しているはず。そこにオレらが乗り込んで、勝敗を有耶無耶にする。仕切りを立てるほどの正当な喧嘩をぶち壊すんだ。黒龍は制裁を受けるかもしれない。でも、東卍と天竺の争いは止められる」
今回の抗争はほとんど私闘に等しい。誰が勝っても得にはならない諍いだ。関東統一を目指す黒龍だって、対立関係にある東卍が勝てば揉め事は避けられないし、天竺が勝っても面倒事が舞い込んでくるのは明らかである。これまで保たれてきた絶妙なパワーバランスが崩れる可能性がある以上、最早他人事ではいられないのだ。
「黒龍が出張るだけの名分なら揃ってる。それに、元々これはオレとマイキー君の問題だ……テメェのケツはテメェで拭く。でも、もしチームを巻き込むなって言うなら、オレ一人でも――」
「水臭ぇこと言ってんなよ、ボース」
「……っ!」
突如として割り入ってきた声に、ざっと後ろを振り返る。ずらずらと物陰から出てきたのは、黒龍の幹部メンバーたちだった。まったく気配に気づいていなかった武道が目を白黒させていると、九井とノリがしてやったりとした笑みを浮かべる。
一体いつから聞いていたのだろうか。徐に乾の方へ視線を投げれば、彼は僅かに苦笑して肩を竦めた。
「こんなシケた場所で悪巧みか? 混ぜろよ」
「大変興味深いお話でした。ついに神奈川攻略を決心してくださったのですね」
「横浜中華街の高級店、予約しとこうよ。祝勝会はそこでやろう。あ、女の子何人か呼んでイイ?」
ノリ、アキ、ショウタと続き、今度は歯を剥き出しにして、獰猛さを露わにした大寿が前に出る。
「丁度良い。飲食にも手ぇ出そうとしてたところだ。東京で試すよか横浜の方が、幾分か地代が安い分リスクも下がる。そうと決まりゃ、さっさと作戦立ててボコりに行くぞ」
「……はは、」
反対どころかノリノリなメンバーを前に、思わず笑ってしまう。そうだった。この男たちはそういう人たちだった。
「巻き込んですいません……なんて言うのは野暮っすね。それじゃ、一言だけ」
一瞬、白雲が太陽を遮る。
大きな龍の形をした影が、地上を自在に泳いでいった。
逆風すら糧にして、強靭な翼で天を翔る龍の眼と、不意に目が合う。海を越え、山を越え、夜を喰らう暴走龍群。武道が作り上げた十一代目黒龍は、そんな最高に強くてカッコ良い、関東――否、天下一のチームだ。
「喰い尽くすぞ!」
うおおおお!
開戦の狼煙は上がった。
血に飢えた暴走龍たちの狩りが、ついに始まる。