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TOKYO卍REVENGERS
 第拾陸話 狂宴

 二〇〇五年十月三十一日 十五時〇〇分
 スクラップにされた車と鉄屑が積み上がった、赤羽の廃車置き場。
 錆び付いたトタンの柵に囲まれた無法地帯で、赤い特攻服と黒い特攻服を纏った男たちが睨み合う。
「……ギャラリーが多いな。千冬ぅ、気ぃ引き締めろよ」
「うす!」
 ピリピリと神経を尖らせた場地が言う。威勢良く千冬が頷いて、やる気満々と言わんばかりに拳を鳴らした。
 なるほど確かに、場地の言う通りやたらと野次馬が群れている。背中越しに隊員たちが鼓舞し合う声を聞き流しつつ、万次郎は周囲に視線を巡らせた。仕切りとして呼ばれたICBMの阪泉、上野のガリ男、目黒の蛇ノ眼じゃのめ、銀座の九頭クズ……。少し目を滑らせただけで、東京中の顔役みたいな不良たちが、ゾロゾロと雁首揃えて並んでいる。よくもまぁ、あんな協調性皆無の男たちが、ここまで集まったものだ。
 その奇跡的なオールスターっぷりに感心すればいいのか呆れるべきか。さらには千葉の木更津洲照羅や栃木の蜃鬼楼しんきろう、埼玉の赫怒夜兎レッドナイトといった県外チームの幹部たちの姿まであって、思わず眉間に深い皺が刻まれた。
(黒龍の同盟チーム……。てことはタケミっちは……いねぇか)
「黒龍の奴らは来てねぇようだな」
 どうやら万次郎と同じ疑問を抱いたらしい。きょろきょろと忙しなく首を動かす龍宮寺が、怪訝な顔で呟いた。
「チッ……高みの見物かよ。うぜぇ」
 苛立ちを露わにした三途が吐き捨てる。
「アイツら命拾いしたな。ま、どっちにしろ天竺ボコしてから、黒龍にカチコんでやることには変わりねぇ。それが今日から明日に変わっただけだろ」
 瞳孔をかっぴらいた一虎が、ニ、と口角を吊り上げた。
 黒龍がこの場にいない理由はともかく、黒龍の同盟チームがここへ来ているワケは容易に想像がつく。大方この抗争が終わった後、黒龍につくか今日の勝者につくか決める腹積もりなのだろう。まったくもってくだらない。有象無象の視線を蹴散らしながら、万次郎は阪泉の下まで歩いて行く。向かいには既に入場し終えた天竺の面々が待ち構えており、先頭に立つイザナと万次郎の間で、バチッと激しく火花が散った。
「阪泉君! まずは今日の仕切り引き受けてくれてありがとうございます」
 万次郎が殊勝に礼を述べれば、ハンッと鼻で笑い飛ばされる。
「くだらねぇ喧嘩ならオレが潰すぞぉー」
「両チームの代表者! 前に!」
 ICBMの隊員が声を張り上げた。呼び掛けに応じて東卍からは龍宮寺が、天竺からは鶴蝶がそれぞれ前へ出る。
「腕に自信のある奴、五対五のタイマン。それとも全員で乱戦。どっちにする?」
「『魁戦』での一対一のタイマン。からの乱戦一択だ」
 迷いなく示された鶴蝶の選択に、それまで傍観を決め込んでいたギャラリーが、どっと沸いた。
 魁戦。S62世代の間で流行った儀式のようなものだ。ここで勝利するかどうかがチームの士気を左右するため、自ずとそれなりに腕の立つ者が、代表者として選ばれることになる。ちなみに、東卍側に魁戦経験のある者は、万次郎と龍宮寺を除いて誰もいない。S62世代の殆どがネンショーにぶち込まれた空白の期間――不良の数がぐっと減少した二〇〇〇年以降――魁戦という名のパフォーマンス文化は次第に廃れていき、現在では滅多に行う者がいなくなったためだった。
「まずはオマエが出ろ……獅音」
「おう」
 イザナの指名を受けた斑目が、すぐ傍にあった廃車の上に飛び乗る。
「今日の魁戦はオレが引き受けた! 天竺四天王・斑目獅音!」
「東卍は誰が出る?」
 考えるまでもない。万次郎の中で答えは決まっていた。
「一虎、オマエが行け」
「……わかった」
 指名された一虎の表情は、いつになく強張っているように映った。当然だ。こんな錚々たるギャラリーの面前で、チームの命運を賭けたタイマンなど、彼は経験したことがないのだから。しかし、一虎が緊張した様子を見せたのはその一瞬だけで。すぐに調子を取り戻した彼は、余裕を見せつけるかの如くゆっくりと、土埃に覆われた鉄屑の山へと近づいていく。
「仕切り? 魁戦? テメェらママゴトしにきたのかよ?」
 踵の潰れたスニーカーが、廃車のルーフパネルを踏みつける。そして、一虎はいつの間にか手に入れた鉄パイプを振りかぶると、思い切りフロントガラスへ叩きつけた。
 ガッシャン! バリンッ!
 粉々に砕けたガラスの甲高い悲鳴が、辺りに響き渡る。
「東京卍會壱番隊副隊長! 羽宮一虎ァ!」
 血気盛んな猛虎が咆哮した。
「テメェらみてぇなヌリぃ時代遅れの老害どもなんざ、嬲り殺しにしてやるよ!」
 おおおおおお!
 舞台は整った。後は仕切りである阪泉の開始の合図を待つだけ。
「阪泉さん」
「……ん」
 ICBMの副隊長らしき男と阪泉が目配せをする。いよいよおっ始まりそうな気配に、一斉にギャラリーが静まり返った。天竺側の男たちは、斑目が勝つと信じて疑っていないのだろう。小馬鹿にした嗤いを貼り付けて、暢気に斑目へ野次を飛ばしている。だが、そんなに余裕をぶっこいていられるのもここまでだ。
「一虎、」
「ふっ……わかってるって、マイキー。勝つぜ、オレは!」
 まさに意気衝天といった顔をした一虎の宣言に、東京卍會のメンバーの心は一つになった。
(アイツが負けるワケがねぇ!)
「始め!」
 勝負は一瞬だった。
 直後に駆け出した一虎が放つ、渾身の右ストレート。目にも留まらぬ速さで顔面を捉えた拳により、斑目の体勢が大きく崩される。その後、無防備になったみぞおちに膝蹴りが打ち込まれ、男は白目を剥いて倒れ込んだ。その間僅か数秒ほど。文句のつけようもない、完膚なきまでの圧勝だった。
「よっしゃあ! 信じてたぜ一虎ぁ!」
「ペヤング奢ってやンよ!」
「オマエらいくぞ!」
「おおおおお!」
 天竺の男たちが怯んでいる隙に、全員で畳み掛ける。
 最初は東卍の勢いに呑まれていた天竺側であったが、神奈川の支配者の名は伊達ではなく。「ビビってんじゃねぇ! 殺すぞ!」というイザナの物騒な一喝により、すぐさま体勢を立て直してきた。また、事前に打ち合わせていたのだろう。赤い特服の男たちは真っ先に万次郎の周りを取り囲み、大人数で執拗に攻撃を仕掛けてくる。
「まずはマイキーを抑えろ! 東卍の支柱はマイキーだ! 死ぬ気でぶっ潰せ!」
「はい!」
(うぜぇ……ッ)
 舌打ちが漏れる。何度相手を沈めても、次から次へと敵が湧いて出てきてキリがない。ならばさっさとイザナを潰してしまおうと、目立つ銀髪を探してみれば、目的の人物はうずたかく積まれた車の上から、退屈そうに抗争の様子を静観していた。
「イザナッ、テメェ……!」
「マイキー!」
 名前を呼ばれ、視線だけを声の方へと滑らせる。すると、完全に包囲されてしまった万次郎を援護するべく、龍宮寺がこちらに合流しようとしているのが見えた。しかしあと一歩というところで、龍宮寺は鶴蝶の蹴りに吹っ飛ばされ、惜しくも目的を阻まれてしまう。
「何処行くつもりだ? テメェの相手は俺だぜ」
「鶴蝶……! クソッ」
 龍宮寺と鶴蝶が本格的に交戦し始める。
 場地と千冬は半間に捕まり、三ツ谷は八戒と共に灰谷兄弟相手に苦戦を強いられていた。彼ら以外の隊長クラスも、皆悉く天竺の幹部連中に妨害されており、万次郎と合流できそうな者はいない。
「おいおい! そんなんじゃオレんとこまで辿り着く前に負けちまうぜ、マイキー!」
「こ、の……!」
「オレが勝ったら、アイツはオレの国に迎える。黒龍も天竺の傘下にして、関東一の国を創ってやるんだ。テメェには、もう二度とタケミチに手出しさせねぇ」
「……ア゙?」
 ブチッ、と何かがキレる音がした。全身の血液が沸騰したみたいに身体が熱くなり、目の前が真っ赤に染まる。
 ――オレ以外の誰かに、アイツが奪われるかも知れない。
「……殺す」
 殺す、殺す、殺してやる。
 全身が総毛立った。ず、ず、と腹の底を這いずる黒い衝動が心を蝕み、殺意以外すべての感情が掻き消されていく。この世のあらゆる負の感情を煮詰めたような不気味な声が、万次郎の頭の奥に木霊した。あの男を生かしてはおけない。アレは敵だ。武道を、オレの『すべて』を奪おうとする、敵。
 きゅうっと瞳孔が収縮する。
 目の前の男たちの動きがスローモーションのように映った。向かってくる赤い群れを一撃で捻じ伏せ、モーセの如く拓かれた道を闊歩する。
「行かせねぇぞ」
「……何のマネだ、ムーチョ」
 銀髪の王が踏ん反り返る玉座まで、あと少し。
 そこにきて、伍番隊の隊長であるはずの武藤が、万次郎の前に立ちはだかった。
「悪ぃな、マイキー。俺の王のために、お前をここから先へ行かせるワケにはいかねぇ」
「隊長⁉」
 突然の隊長クラスの裏切りに、東卍側に動揺が広がる。目を大きく見開き、驚愕する三途とは裏腹に、万次郎の頭はどこまでも冷静だった。邪魔する奴は、徹底的に潰すまで。凍てつくほどの冷たい殺意が、僅かに残る理性の欠片をズタズタに切り裂いていく。
「退け、ムーチョ。元仲間だろうと殺すぞ」
「退かねぇ。俺は王を守るためならアンタと刺し違えてでも止めてみせる。それが兵隊の使命だ」
 躊躇いなど微塵も覚えなかった。
 核弾頭と称される蹴りをこめかみにお見舞いし、素早く意識を刈り取る。無様に泡を吹いて倒れた武藤を前に、万次郎の感情は一切波打つことはなかった。裏切りに対する憤りも、嘗ての仲間に手を下したことへの悲しみも、信頼していた友を失った胸の痛みも、何も感じない。
「……バケモンかよ」
 誰かの呟きが耳に入る。やはり何も響かなかった。あぁ、ついに己の情緒はぶっ壊れたのか、と。頭の片隅でぼんやりと考える。
 一歩、また一歩、民を見下ろす王のもとへと距離を詰めていく。明らかに暴走状態となっている万次郎を止めようとする者は、誰もいなかった。気がつけば、それまで夢中で拳を振るっていた男たちは皆手を止めて、イザナと万次郎の行く末を固唾を呑んで見守っている。
 ――アイツを奪われる前に、敵を排除する。
 恐怖に限りなく近い焦燥。それだけが、今の万次郎を突き動かしていた。
「言葉も通じねぇ畜生に堕ちたか? 愚弟」
「下りてこい。もう二度とその口利けねぇようにしてやる」
「……上等だ」
 す、と。イザナが立ち上がる。「ダメだ!」と背中越しに誰かが叫んだ。軽快な音を立てて下りてくる男へ、視線を縫い止めたまま、周囲の人間の動きに神経を研ぎ澄ませる。天竺の幹部が三人。それから東卍の奴らが四人。何事かを必死に叫びながら、万次郎の方へ走り寄ってくる気配を感じた。
「マイキー! ……き、だ! ……ろ!」
「イザナ! 今は……る場合じゃ……ッ! ……だ!」
「……?」
 イザナをぶっ殺すことしか頭になかった万次郎が、仲間の言葉に耳を傾ける気になったのは、微かな空気の振動を鼓膜が捉えたが故だった。
「何だ、この音……」
「イザナ! マイキー! 一旦中断しろ!」
 息を切らした龍宮寺たちが捲し立てる。
「襲撃だ! アイツら、この場にいる全チームを食うつもりだ!」
「もしかしたら阪泉たちもグルかもしんねぇ!」
「……は?」
 バリバリバリッ。
 次いで、聞き覚えのある重低音を耳が拾った。ビリビリと鼓膜を痺れさせる音の群れの中で、一際存在感を放つ、あの特徴的な唸り声は……。
「な……に……?」
 バ、ブーッ!
 頭が、真っ白になった。
「『黒龍』だ! 奴らが、総員引き連れてカチコミに来やがった!」
 日の傾きかけた黄昏時。
 燃え盛る火の輪を背に負って、大地へ降り立つ闇色の巨躯。白き狂雲を侍らせし傲岸不遜な暴走龍は、逃げ惑う哀れな獲物をめつけた。
「なんで、」
 なんで、どうして、なんのために。
 急速に回転しだした脳が答えを弾き出そうとして、唐突に暗転する。迷走する思考が映し出したのは、黒龍と木更津洲照羅ステラの同盟をぶち壊しに乗り込んだ、九十九里浜での出来事だった。
『ターケミーっち♡』
 梅雨明けの少し湿気を帯びた生ぬるい風。
 月光が揺らぐ漣に、夜の静寂を彩る波の音。
 あの時の万次郎たちは、今の黒龍とは逆に奇襲を仕掛けた側だった。自分のあずかり知らぬところで交友を広げていく武道が、とにかく気に入らなくて。子どもじみた独占欲を暴走させての凶行であった。反省はしているが、後悔はしていない。あの日のことがなければ、武道が万次郎の存在を意識することはなかったし、後ろ暗い手段を使ったとはいえ、彼と身体を繋げることだってなかったはずだから。
 彼の翼を手折るためには、あれは必要な過程であった。
『千葉のチームと同盟組むんだって?』
「横浜天竺と派手にやり合っているそうで?」
 ――そうか、これはあの日の再現か。
 嘗ての己の声と、武道の声が重なる。ストン、と。その男の意図するところを理解した。つまるところこれは仕返しだ。あの日、せっかくの同盟をぶち壊された黒龍による報復行為。
「全部真一郎君から聞きました。水臭いなぁ。何でオレに教えてくれなかったんすか? オレと万次郎の仲なのに……」
 口からよだれを滴らせた龍群が、今か今かと王の号令を待っている。
 武道の傍に控えた番犬どもを、万次郎は睨みつけた。当然のような顔をして彼に侍る男たちが、妬ましくて仕方ない。視線だけで人が殺せたなら、まず真っ先にあの乾とかいう側近の脳天に風穴を開けていただろう。だが、当の本人は殺気を飛ばし続ける万次郎を、どうでもよさげに一瞥したきり、飄々と武道の隣に立ち続ける。
 途端、激情の猛火がこの身を焙りたてた。
「あんのクソ野郎が……ッ」
 ソイツの隣に立つのはオマエじゃない、オレだ。気安くオレのモノに触れるな。そう叫びたいのに身体が言うことをきかない。己の身体を制御できなかった。血が出るほどに強く握り締められた拳が震えだす。
 やっと、やっと手に入れたんだ。奪われてたまるか。武道を奪おうとする者は何人だろうと容赦しない。とことん追い詰めて、徹底的に排除してやる。
「今からこの場を、オレたち黒龍が制圧する」
 逆光の中、蒼を宿した双眸がギラギラと浮かび上がった。その怪しい輝きに目が釘付けになった次の瞬間、悠々たる声で愛しい男は宣う。
「骨まで残さず喰い尽くせ!」
 山颪やまおろしの風に乗って、乱雲が凄まじい速度で駆けてくる。一瞬にして赤と黒の特服を呑み込んだ青嵐は、みるみるうちに屍の山を築き上げていった。
「テメェ、オレたちをハメやがったのか!」
 阪泉に掴みかかる龍宮寺の怒声が響く。あちこちで男たちが乱闘を繰り広げ、口汚く罵り合いながら拳を交えていた。阿鼻叫喚のその様は、まさにこの世の地獄絵図といったところか。思えば黒龍の同盟チームがやたらと集まっていたのは、この時のためだったのだろう。今はまだ県外のチームたちは静観の構えをみせているが、この状態もいつまでもつものか……。
「マイキー君、イザナ君……和解してください」
 夜の海のように凪いだ瞳を、静かに見返す。
「……は? 意味わかんね」
「下僕ぅ……こんな奇襲仕掛けといてナメてんのか?」
 万次郎同様、イザナもまた憤りを隠しきれぬ声で、低く唸った。
「この抗争は危険です。……死人が出るかも知れない。だから、今すぐ仲直りして停戦してください」
 そうこうしているうちに、場地と一虎がやられた。また、天竺の幹部らしきヒョロ長い男も、柴大寿に敗れたようだ。九井とかいう黒龍の幹部が、部下に命じて気絶した三人を場外へ運び出していく。人質にするつもりなのか、はたまた何か別の目的があるのか。黒龍側の考えが読めなくて苛立った。一方、そんな万次郎の機微を察したのであろう。時折隊員たちの方を気にする様子を見せながらも、武道は先程より固い声で言葉を重ねる。
「黒龍の同盟チームを入れて、七百人の隊員が君たちを包囲しています」
「……」
「このまま和解するなら、オレらは大人しく引きましょう。……停戦を受け入れてください」
 それは紛れもなく最終宣告だった。
 ここまでしてこの戦いを止めたがる、武道の狙いはなんだ? 若干冷静になった頭で考えてみる。彼がここにいる理由は十中八九真一郎だ。そして、あの武道に甘い兄のことである。きっと要らぬことまでペラペラと吹き込んだに違いない。
 要するに、このお人好しは抗争の原因が自分であることを知って、万次郎たちの諍いを仲裁するべく、わざわざお仲間を率いてやってきた、と。そこまでの流れは簡単に予測がついた。
 だが、何か引っかかる。それだけが理由にしては、やけに真剣というか、どこか焦っているような……第六感的な部分が『それだけではない』と告げている。
(なんなんだ……)
「断る」
 隣に立つイザナが、きっぱりと切り捨てた。
「テメェの言われた通りにしたところでメリットがねぇ。ていうか、七百人だろうが何だろうが、数の差なんざウチの兵隊どもには何も意味がねぇんだよ。……黒龍も東卍も、纏めてオレらがぶっ潰せばいいだけの話だ」
「イザナ君……」
「それに、愚弟の躾がまだ終わってねぇ。あぁ、テメェも説教が必要だったな」
 ――さて、『道徳』のお時間だ。
 近くを通り過ぎようとしていた黒龍の男の襟首を、褐色の掌がガッと鷲掴んだ。間髪入れずに鳩尾に蹴りが叩き込まれ、衝撃で吹っ飛んだ身体が、後ろに立っていた数人を巻き込み、廃車へ激突する。瞬く間に起きた出来事だった。だがその時間にして僅か一秒にも満たない一撃が、起爆剤となったことは明らかだった。
「テメェらなにチンタラしてやがる。キビキビ働け愚民ども!」
 雄叫びが上がった。対照的に勢いに乗っていた黒龍側の空気が、ガラリと変化する。天竺側の士気が再び高まり、赤い特服姿の男たちの動きが、格段に良くなっていくのがわかった。
 一人、二人、三人……逢魔が時の茜空が、真昼の蒼空を焼き尽くす。これなら勝てるかも知れない。悔しいが、この絶望的な状況下において、そんな希望を抱かせるイザナの手腕は見事であった。
「……クソ兄貴」
 東卍も負けちゃいられない。
「日和ってんじゃねぇぞテメーら! 黒龍潰すゾ!」
「オラァ!」
 万次郎が叱咤すると同時に、龍宮寺が一気に十人ほどをぶっ飛ばす。
 流石は東卍の誇る副総長。タイミング的に完璧な反撃の狼煙であった。まだ動揺が残っていた隊員たちも、そこでようやく我を取り戻す。そうだ、思い出せ。オマエらの後ろにはオレがいることを。そして『無敵のマイキー』がいる限り、東卍が倒れることはあり得ないということを!
「良い機会だ。ここで関東最強を決めちまおうぜ、タケミっち」
「いいなソレ。オレらの傘下になれっつってんのに、黒龍には散々逃げられたからな。ここでテメェらを纏めてぶっ潰して、天竺を関東最強の王国にしてやるよ!」
「……っ」
 黒龍の乱入により、抗争はさらに激化した。結果的に東京卍會と横浜天竺が手を取り合うことはなく、三つ巴の状態のまま戦闘へ突入。殴り殴られ、潰し潰され、戦況は混乱を極めていった。
 そんな中、次第に押され始めたのは東卍だった。
 理由は同士討ちの続出。万次郎と龍宮寺の諍いで不満を募らせていた派閥同士が、ついに本格的に対立しだしたのだ。
「元々テメェらのことが気に入らなかったんだよ! 後から入ってきたくせにデカい顔しやがって!」
「上等だコラァ! 腰抜けの古参風情が! ここでぶっ殺してやる!」
「調子乗ってんじゃねぇぞ新参がよぉ!」
「テメェら何してやがる!」
「今そんなことやってる場合じゃねぇだろうが!」
 武藤を筆頭に、何人か裏切り者が出たのも痛かった。ようやく持ち直した士気はドン底まで落ち込み、みるみるうちに東卍の勢いが失速していく。
「だから言っただろ。今のオマエに総長の器はねぇって」
「……ッ」
 鋭い蹴りが、万次郎の耳元を掠める。すんでのところで躱し、回し蹴りを繰り出せば、すかさず両腕で衝撃を押し殺された。
 カランカラン、と。
 イザナが動く度に鳴る耳飾りの音が、やたらと耳につく。
「オマエにアイツは任せらんねぇ」
「別にテメェの許可なんざ要らねぇしっ」
「性欲処理ならテメーの右手でシコってろ。アイツ巻き込むな……っと、」
 隙を見て、隣で戦っている男たちの方へと意識を向ける。
 武道は次々襲い掛かってくる天竺の男たちの相手で手一杯。いつもは護衛として張り付いている大寿も不在。黒龍を潰すなら今が絶好のチャンスであった。しかしその前に、どうしてもイザナの存在が邪魔になる。
 また、その考えはイザナも同じであったらしい。万次郎対イザナの潰し合いが、さらに激しいものとなっていく。
「テメェのケツも拭けねぇクソガキが頭張れるほど、世の中甘くねぇってことを教えてやるよ」
「イザナァ……!」
 ここで万次郎は、重大なことを見落としてしまっていた。
 自チームを纏めることに必死な東京卍會。黒龍を潰すことに躍起になるあまり、視野が狭まっていた横浜天竺。一度に二者を相手取ることとなり、普段より余裕を失くしていた黒龍。加えて万次郎とイザナは、食うか食われるかの死闘の渦中。各チームの幹部たちも、皆誰かしらと交戦しており、周囲に気を配る余裕など皆無であった。
 つまりこの時点で、武道へ意識を向ける者は誰もいなかった――只一人を除いて。
「この時を待ってたぜ……!」
「……?」
 陶酔に浸った男の声が、すぐ傍を通り過ぎてゆく。訝しく思った万次郎が、攻撃の矛先を変えようとしたその刹那。右足を高々と掲げたイザナの肩越しに、銀色の鈍い輝きがチラついた。
「な、」
 ゾワッと、背筋に悪寒が走った。
「花垣武道ぃ……!」
「逃げろ! タケミっち!」
「えっ……⁉」
 トスッ。
 ともすれば小鳥の囀りにすら掻き消されてしまいそうなほどの、軽い音。喧騒に満ちたこの場では到底聞こえるはずのないそれが、異様なほど鮮明に耳へ届いた。
「ぐっ……ぅ!」
 ぐらり。
 武道の身体が前へ倒れていく。背中に突き立てられた凶器ごと、糸の切れた人形みたいに、ゆっくり、ゆっくりと。
「ぁ、ぁあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!」
 尋常ではない万次郎の叫び声に、イザナの動きが止まった。そして、その視線の先を目で追って、紫水晶の瞳が大きく見開かれる。
 武道が刺された。目の前で起こった惨劇に、時が止まったのではないかと錯覚するほど、その場にいた全員が一斉に硬直する。脇目も振らずに万次郎は駆け出した。うつ伏せに倒れた武道の背中が、赤く色を変えてゆくのが見える。そんな、ダメだ、止めなくちゃ、でもどうやって。
(医者は……そうだ救急車……っ、携帯、……何番だっけ。早く、早く……!)
 携帯を持つ手が震える。混乱を極めた頭では、救急車一つ呼ぶことすら手間取ってしまい、己の不甲斐なさに涙が出てきた。
「医者、呼ばねぇと、オレが……オレが……」
「マンジロー、それ貸せ。オレが通報する。オマエはタケミチの傷口押さえてろ」
 イザナが万次郎の携帯を奪い、素早くコールする。指示通りに傷口を圧迫してみるも、じわじわと滲み出る血が止まることはなかった。もし、このまま血が止まらなかったら。最悪の未来が脳裏をチラつく。このまま武道が助からなかったら。もう二度とあの笑顔を見ることができなくなったら。考えるだけで気が触れそうになった。
「ははっ……やってやった……やってやったぜ……!」
「テメェ! よくも、よくも花垣を……っ!」
 激昂した乾が、言葉にならぬ怒号を轟かせ、武道を刺した男に殴り掛かる。
「殺す……っ! テメェだけは絶対に! 殺す!」
「ぐ、ぁっ! がっ、」
「ッイヌピー! やめろ!」
「バカ、殺すんじゃねぇ!」
 九井と柴大寿が二人がかりで乾を止めて、意識を失った男から引き離した。そんな奴、壊しちまったって何の問題もないじゃないか。頭の中で悪魔が囁く。
 何ならオレの手で殺してやってもいい。
 武道が味わった痛み以上の苦痛を与えて、殺してくれと泣いて縋っても殺さずに、ただひたすら甚振って、苦しめて、追い詰めて……。恐怖に顔を歪めたまま縊り殺してやれば、どれだけ痛快な心地になるだろう。あぁ、そうだ。ちゃんと武道が仕返しできるだけの『ゆとり』も用意しておかなくては。でも彼は優しいから、あの男の苦しむ姿を見て、あっさり許してしまうかも知れない。
 まぁ、そうなったらなったで、武道の分も万次郎が手を下すだけのこと。いざとなったら、彼には汚いトコロなんてカケラも見せずに、綺麗な場所で待っていてもらおう。
「ま、ん……じろ……」
「っタケミっち……?」
 憎悪と殺意に支配されかけていた時、そっと右手を握られた。じわじわと溶け込む体温に、どうしようもなく泣きたくなる。
「殺しちゃ、ダメ」
「……なん、で」
「この手、オレ……大好きだから……汚さない、で……。ね、おねがい」
 そこまで言われてあの男を殺すなんてこと、できるわけないじゃないか。ついに涙腺が決壊し、ボロボロと大粒の涙が溢れ出る。
「タケミっちは酷い、酷いよ……」
 そんな情けないツラをした万次郎を見上げて、武道は小さく笑った。
「泣き虫」
「……うっせ」
「やくそく……殺さない、って……」
「……」
「万次郎、」
「ん、……わかったよ……」
「ふふ……ひで、ぇ、顔……」
 どれくらいの時間が経ったのか。ようやく救急車が到着した。
 短い息を繰り返す武道の双眸が、ぼんやりと車から降りてくる救急隊員たちの姿を映す。長時間ずっと激痛に耐え続けているせいか、顔色が悪い。脂汗の滲む狭い額を、万次郎はそっと袖で拭ってやった。
「北区中央総合病院にお願いします」
「田河先生には話を通してある。すぐに運んでくれ!」
「は、はいっ」
「道を空けろ! どけ!」
 黒龍の部下たちが救急隊員と何事か話しながら、万次郎たちの方へとやってくる。すぐさま武道は酸素マスクを取り付けられ、担架へ横向きに寝かされた。身体を持ち上げる時に傷が痛んだのだろう。ぐっと歯を食い縛り呻いた彼は、されど亜然と突っ立ったままの万次郎に向かって、ぎこちなく笑いかける。
「タケミっち……」
「……大丈夫」
「……っ」
「オレ、頑丈、だから……だいじょう、ぶ……」
「下がってください! そこ、通ります!」
 耳障りな車輪の音を響かせて、武道を乗せた担架が運ばれていった。
 ――この抗争は危険です。……死人が出るかも知れない。
 不意に、頑なに和解するよう求めてきた武道の言葉が蘇る。
 武道がここへ乗り込んできた時、彼の言う通りにイザナと和解していたら。彼の話をもっと本気で受け止めてやっていれば。もっと隊員たちの様子に気を配っていれば。後悔ばかりが胸の中を巡っていった。
(そっか……)
 武道を刺した男は東卍の特服を着ていた。あの顔は覚えている。チームに無断で喧嘩賭博なんてモンをした挙げ句、武道の幼馴染みたちを巻き込み、黒龍の前で恥を晒しやがったクソ野郎。万次郎が直々に制裁を下した、追放済みの元隊員だった。もう二度と武道たちに手出しする気を起こさぬよう、徹底的に痛めつけたつもりであったが、あれでもまだ足りなかったのか。
(全部、全部……っ)
 ゴッ!
 踏みしめられて固くなった土を殴りつける。武道と約束した手前、あの男を嬲り殺しにすることはできない。捌け口のない怒りをぶつけるように、拳から血が出ようが指が折れようが全部無視して、ひたすらに地面へ拳を振り下ろし続けた。
「オレのせいだ……!」
 ゴッ、ゴッ、ゴッ。
「オレの……っ!」
「もうやめとけ」
 流石に見かねたイザナが、血だらけの手を掴み上げる。
「……ちったぁ落ち着けバカ。大丈夫だ。アイツはいくら殺したってくたばんねぇよ」
 そういうイザナの声も、微かに上擦っていた。武道の意思を尊重し、怒りを必死に耐えているのが伝わってくる。万次郎の腕を掴む右掌は小刻みに震え、瞳孔の開いた瞳の奥で、激情の炎が揺れていた。
「……っ」
 じっとりと肌に纏わりつく湿った風が、万次郎の傍を駆け抜けていく。思い切り泣いていい。そう武道の声で囁かれたような気がして、きゅっと唇を噛み締めた。泣かねぇよ。泣いて堪るか。これ以上、オマエに甘えることをオレは許せねぇ。
「やべぇ、サツだ!」
「逃げるぞ!」
 どうやら誰かが通報したようだ。焦燥を煽るサイレンの音が、猛スピードでこちらへ近づいてきている。阪泉の指示で集まっていたギャラリーは解散し、隊員たちもまた我先にと逃げ出した。残るは東卍と天竺、そして黒龍の幹部数名だけ。
 腹は、括った。
「……マイキー、どうする?」
 神妙な顔をした龍宮寺が、じっと万次郎の返事を待つ。
「オレが残る」
「だが、」
「これはオレの不始末だ。オレが残って警察に事情を説明する」
 憑き物が落ちたような顔をした万次郎を前に、龍宮寺は重々しく頷いた。万次郎が警察に行けば、ほぼ確実になんらかの処罰を受けることになる。渋谷一円を仕切る暴走族の総長。それだけでも警察が万次郎をしょっぴく理由は十分な上、今回に至っては刀傷沙汰まで起こしているのだ。きっとタダでは済むまい。
 そして、龍宮寺はそこまでわかった上で、万次郎の覚悟を受け止めてくれた。
「悪ぃ、ケンチン……ありがとう」
 何も言わずに、ただ首を縦に振ってくれた親友へ、頭を下げる。
「マンジロー」
 それまで静かに話を聞いていたイザナが、口を開いた。
「かってぇ煎餅布団とクッセェ飯が出る格安ビジホだと思えばいい」
「イザナ……」
「案外快適だぜ。気ぃ抜くとすぐ首が痛くなるがな。それに、一人で色々考えるには丁度イイ場所だ。せいぜい己の行いを深く反省するこった」
 ぐしゃり、とピンクゴールドの髪を掻き回し、イザナは万次郎に背を向ける。
「じゃあな。出所祝いはエマ特製お子様ランチにしてやンよ。……鶴蝶、アイツのバブ回収してやってくれ」
「……あぁ」
 簡単に部下へ命じた兄は、天竺の幹部連中を引き連れてこの場を後にした。龍宮寺たちもまた各々の愛機に跨がって、簡単な別れの挨拶だけして去って行く。
「で、オマエらは行かねぇの?」
 何故かこの場に残り続けている二人組に、渋々声を掛ける。
「勘違いすんじゃねぇ。花垣が刺された時の状況を説明するために、オレらが残る必要があるだけだ」
「あ、ちなみにオレたちは無罪放免確実だからな。残念だったな『無敵のマイキー』?」
 言葉の端々に棘を含ませてくる男たちに、思わず深いため息を吐く。これ以上話していても腹が立つだけだ。早々に頭を切り替えて、会話を放棄した。
 到底噛み付く気にはなれなかった。
 これが逆の立場なら、万次郎は自分をボコボコにしていただろうから。
(だっさ……)
 錆び臭い廃車場に転がる間抜けヅラしたクソ野郎と、ボロボロの特攻服を着た惨めな自分。空は毒々しい真紫に染まり、おまけに分厚い雲に覆われて、星なんて一つも見えやしなかった。
 最低最悪な日だ。
 だが、不思議と気持ちは軽かった。否、心にぽっかり穴が開いて、伽藍堂になっていると言った方が正しいか。
「なぁ、アンタ」
 猛烈な寂寥感に襲われながらも、それが己が一生抱えるべき痛みなのだと自分に言い聞かせて、声を絞り出す。
「……タケミっちのこと、頼みます」
 他の男にアイツを託すなんて死んでも嫌だったし、聞き分けのない心は未だ駄々を捏ねているけれど。深く、嘗てないほど深く、万次郎は頭を下げた。
 この男が武道に執着じみた恋情を向けているのは知っている。同じだからこそすぐに気がついた。アイツを見る目が、己と同じ欲を孕んでいることを。だからこそ憎くて仕方なかった。どうしてアイツだけ。なんでオレは隣にいられないんだ。オレだってあの男よりもずっとタケミっちのことを好きなのに、と。そして、勘違いでないのなら多分武道も……。
「テメェに言われるまでもねぇ。花垣はオレが幸せにする」
 あぁ、本当に。
 死ぬほど羨ましくてムカつく男だ。
「……そーかよ」
 会話はそこで途絶えた。その後すぐに警察がやってきて、キヨマサと共に無理矢理パトカーへ詰め込まれる。
 窓外に流れる景色を無心で眺めつつ、思い浮かべたのは武道のことばかりだった。初めて彼と出会った日の出来事、まだ仲が良かった頃に食べたアイスの味、それから……彼と道を違えてからの、生き地獄のような日々の記憶。
「……タケミっち」
 諦めることは簡単なのだと、誰かが言っていた。
 もし本当にそうだったとしたら、この胸の痛みは何だというのか。
(もう、いいよ。今までごめん)
 きっと、オレたちは一緒にいるとお互いを傷つけ合ってしまう。だから、
(解放してあげる)
 愛してる、ずっと。
 オレの、オレだけの、永遠のヒーロー。
 俯けられた顔から流れた涙が、手錠を嵌められた両の手を濡らしていく。指先が冷えて堪らなかった。寒い。あの身体の温かさを知っているだけに、今感じている冷たさが、より一層際立つように感じる。
 もう、欲しがったりしないから。
 オレのモノ、なんて傲慢を振りかざしたりしないから。
 どうか、どうか。彼を二度と会えない場所に連れて行かないで。アイツがいないと、オレは凍えて死んでしまう。虫のいい話だってわかってる。自分の身勝手さは痛いくらいに自覚してる。それでも、アイツの命を奪うことだけは、どうか。
「……っ、」
 狭い車内に、声を押し殺した嗚咽が響く。
 きっと同乗していた警官たちは、万次郎が泣いていることに気づいていただろう。しかし、誰も下手な慰めの言葉を吐くことはしなかった。かといって冷たく突き放しているわけではない、その労りの空気を帯びた沈黙が、酷くありがたい。
 胸を抉る初恋の喪失が、暗く澱んだ心を軽くする。その代償に、これほどまでの痛みを伴うことを、初めて知った。
『マイキー君』
 滲む視界の向こう側で、屈託無く笑う武道の姿が、徐々に輪郭を失っていく。
(好き……大好き……タケミっち、)
 冬を目前に控えた晩秋の夜、万次郎は愛を手放した。
 引き攣った呼吸音に紛れた告白は、終ぞ形を成すことはなく。
 あの廃車場に積み上げられたスクラップたちのように、ぐちゃぐちゃに潰えた恋心を道連れにして、人知れず喉奥へ呑み下されていった。


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