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TOKYO卍REVENGERS

第伍章 黎明の詩

 第拾漆話 あとのまつり

 ゆっくりと瞼が開いていく。
 微睡の中に沈む意識は朧げで、身体は鉛のように重かった。
(ここ、どこだ……オレは何して……)
 見覚えのない真っ白な壁、脈拍に合わせ一定のペースで流れ続ける電子音、嗅ぎ慣れた消毒液の匂い。一瞬自分が何処の誰なのか、何歳なのか、今は何年何月何日なのかわからなかった。無理矢理停滞した思考をぶん回し、記憶を反芻する。すると、錆びついたブリキの玩具が動き始めるように、ミシミシと軋む音を立てて、今まで起きた出来事が頭の中で再生されていった。
 未来で万次郎に殺された。
 命尽きて、また時を遡り、掌から溢れ落ちてしまった人たちを、今度こそ救うべく奔走した。その結果、真一郎は一虎に殺されることなく、場地も一虎も龍宮寺もエマも、誰一人欠けることなく万次郎の傍にいる未来を辿ることができた。
(でも、それだけじゃ駄目だった……)
 このままいけば大丈夫だと思っていたんだ。傲慢なことに。次第に万次郎の表情が暗くなっていくことに、愚かな自分は気づかなかった。気づこうともしなかった。
 ――そして、関東事変が起きた。
(そうだ……関東事変……っ)
「っひ、ぅ……ゲホッ、ゴホッ」
 声を出そうとして噎せ込む。
 渇ききった喉は息を吸い込むのも辛く、ひりひりと焼けつくような痛みを訴えた。とりあえず水を飲みたい。ベッドサイドに置かれた水差しへ目を向ければ、少し手を伸ばせば届きそうな位置にそれは在る。しかし武道の意志とは裏腹に、身体は指先一本動かすことすらできそうになく、予想以上の状態の悪さに辟易した。
「……花垣?」
 ガシャンッ、というけたたましい音が響く。花瓶が割れた音だった。少しだけ視線を下へズラすと、見舞いの花が無惨な姿で水浸しの床に散らばっている。
(早く拾わないと)
 ぼんやり思った直後、金色の塊が飛び掛かってきた。
「はながき……ッ!」
「うぐっ」
 このまま締め殺されるのではないか。
 そんな物騒な考えが頭を掠めるほどの強い抱擁。宥めるべく白金の髪を撫でてやれば、頭を抱え込む腕にさらに力が籠められる。そろそろ力を緩めて欲しいのだが。そう伝えたくても、今の彼は到底話ができるような状態ではなく。武道はため息を一つ漏らした後、諦めて彼の背中へ腕を回した。
「よかったっ、本当によかった……!」
「……ぬ、ぴーく、」
「イヌピー、気持ちはわかるがそこまでにしとけ。ボスが死んじまう」
 見かねた九井が乾を引き剥がし、苦言する。そこでようやく冷静さを取り戻したのだろう。乾は申し訳なさそうに肩を縮こまらせた。
「……あ、わりぃ」
「ぷはっ」
 ゴホゴホと咳き込む武道の口元へ、そっと乾が水差しを宛がってくる。遠慮無く彼の手ずから水を呑み下せば、幾分か喉の痛みが和らいだ。
「はぁ……死ぬかと、……思った」
「すまねぇ。花垣の目が覚めたと思ったらつい……」
「ケホッ……もう大丈夫だから。あんま気にしないで」
 九井がナースコールを押した後、間もなくして医者と看護師がやってきた。彼らの説明曰く、どうやら己は丸三日意識を失っていたらしい。また、左脇腹を刺された傷は、幸いなことに内臓を傷つけてはおらず、後遺症をもたらす可能性は低いとのことだった。
「順調にいけば二、三ヶ月で普通に歩けるようになるでしょう」
 丸眼鏡を掛けた白髪の医師の言葉に、ホッと胸を撫で下ろしていると、今にも泣き出しそうな顔をした乾に再び抱き締められる。
「よかった……」
「イヌピーくん、」
 生温かい視線が突き刺さり、気恥ずかしさのあまり離れるよう嗜める。だが、彼は駄々を捏ねる子どもよろしく首を横に振るだけで、離れる気配は無かった。
「はながき……はながき……」
「……重症だな」
「あちゃ、これは無理なやつっすね」
 もうどうにでもなれ。
 くたりと身体から力を抜き、なされるがままになる。居た堪れなさの募る緩んだ空気の最中、気の強そうな女性看護師がジト目を向けてきた。前世で散々嫌味を吐かれた長谷川を彷彿とさせる圧に、自ずと武道の背筋が伸ばされる。
「……いいですか。絶対安静です。今痛みを感じないのは、麻酔が効いているだけですからね。もしフラフラ立ち歩いてるところを見かけようものなら、問答無用でベッドに括り付けますからそのおつもりで。何かありましたらナースコールしてください。田河先生がすっ飛んで参ります」
「は、はい。わかりました」
「それと、この特別室は防音仕様になっているとはいえ、同じフロアに患者様がいらっしゃいます。廊下や受付、休息所付近では決して騒がないように。それでは」
 ぞろぞろと医師たちが退室して行った後、ややあって病室のドアが開かれる。何か伝え漏れでもあったのだろうか。そう思い、ドアの方ヘ視線をやると、二メートル近い体躯をした青髪の男――柴大寿が立っていた。
「よう大将。元気そうじゃねぇか」
「あ、大寿くん」
 来て早々に、大きな紙袋を手渡される。
「これ、着替えとタオル。あと充電コードとか必要そうなもん一通り持ってきた」
 紙袋の中には、何枚かの部屋着や暇潰し用の漫画などが、一式詰め込まれていた。すべて黒龍の拠点に置いていたものである。娯楽関係の物は基本的に家ではなく拠点に置きっぱなしであったため、こうして持ってきてもらえて助かった。
「あざっす!」
「別に」
 ふん、と鼻を鳴らし、大寿はそのままリビングスペースのソファへ腰を下ろす。
(ん? リビングスペース?)
 そこで、ふと違和感を覚えた武道は、上手く動かない身体の代わりに、ぐるりと視線を巡らせた。そしてみるみるうちに顔を青褪めさせる。
「何っすか、この部屋⁉」
 自分の知る病室と明らかに様子が違う。悲しいかな武道が昔住んでいた、一人暮らし用のボロアパートよりも綺麗で広かった。
 部屋の奥に鎮座しているのは、この時代でお目に掛かること自体珍しい、大型液晶テレビではなかろうか。しかも洗濯機や冷蔵庫、ミニキッチンまである。どこぞのスイートルームもかくやという至れり尽くせり具合だ。明らかに庶民が使って良い部屋ではない。
「大部屋でいいんすよ! 大部屋で! 今すぐ部屋変えましょう!」
「でもなぁ、わざわざ無理言って特別室押さえてもらったからなぁ」
 面白がるような声色で九井がボヤく。
「一泊いくらだと思ってるんすか! 金の無駄でしょ! なんだってこんな超上流階級向けの部屋を取っちまったんすか!」
「俺らの愛してやまないボスを、何処ぞの馬の骨とも知れねぇ野郎犇めく魔窟に、放り込むわけねぇだろうが」
「オレ自身が馬の骨なんですが⁉」
 半泣きになって叫べば、しゅんと眉を垂らした乾が武道の目を見つめてくる。うっ。その捨て犬のような顔に武道が弱いとわかっていての所業か。なんてあざとい。
「花垣、わかってくれ。お前の弱った姿を俺ら以外に見せたくないんだ。お前は人誑しだから……どうせ大部屋の奴らともあっという間に仲良くなっちまうだろ? ポッと出の奴らに花垣を奪られるとか、考えただけで……」
 ぶっ殺したくなっちまう。
 発された声のあまりの低さに、ゾッと背筋が寒くなる。そこまで嫌か。乾が怖くて二の句が継げないでいると、九井が演技じみた身振り手振りで訴える。
「おお怖い。ボス、イヌピーが我慢してるうちに妥協すんのが吉だぜ。じゃねぇと弁償代の方が高くついちまう」
「もうどっからツッコめばいいのか……!」
「おい、田河先生から伝言だ」
 ついに頭を抱えた武道を綺麗に無視して、大寿が気怠げに口を開く。堂々たる風格でどっしりソファに身を沈めながら、ガラケーに文字を打ち込む姿は、あの台風のような荒々しさからは想像もつかない、酷く大人びたものだった。
「『いい加減自分の身体を第一に考えろ。こんなことばっかりしてたら幾つ命があっても足りん』だとよ」
「あはは。いやぁ、あの人には頭が上がらないっすね……」
「先生は乾家の恩人だからな。あんま心配ばっかかけてると、赤音も怒るぞ」
「赤音さんが怒ったらおっかねぇぞー」
「肝に銘じます……」
 ちくり、と乾からも刺されて肩を落とす。
 田河は、乾家が巻き込まれた連続放火事件の時に世話になった老医師だ。世間では何かと疎まれがちな不良という存在を、穿った目で見ることのない希有な大人である。
 どこまでも平等に患者を扱うその姿勢に心打たれ、田河を慕う医療従事者は多い。武道たちもまた、そんな彼へ絶大な信頼を置いており、今ではこの病院は、何かと怪我の多い隊員たちの駆け込み寺的な存在となっていた。
「さて……ボスの意識もはっきりしたことだし、そろそろ本題に入るぞ」
 それまでの緩んだ空気が引き締められ、どこか緊張を孕んだものに変わる。武道は無意識のうちに、真白の掛布を握り締めた。
「まずボスを刺した男のことだが……」
 武道を刺した犯人はキヨマサであった。
 あの喧嘩賭博の一件で徹底的に万次郎に潰された彼は、有無を言わさず東京卍會を追放され、以来その原因となった武道へ根深い恨みを抱えていたらしい。しかし、復讐するにも常に部下に囲まれている武道へ手を出すことは容易ではなく。大人しく族から足を洗ったと見せ掛けておいて、虎視眈々と一矢報いる機会を窺っていたのだそうだ。
「んで、関東事変の噂を聞きつけたアイツは、混乱に乗じてボスを殺す計画を企てたってわけだ」
 そこで九井は一旦言葉を区切り、ペロリ、と戯けるように舌を出す。
「あのクソ野郎は警察に引き渡してある」
「警察……」
「ネンショー行きが決まったが、収容期間は通常のそれより長引くみてぇだ」
「チッ……一生出てくんな」
「こらこらイヌピー、皆思ってても口に出してねぇんだから。ちったぁ我慢しろって」
 いい笑顔で毒を吐く九井と、青筋を立ててぶちギレる乾。そんな二人に苦笑しつつ、武道は静かに先を促す。
「……それで、チームの様子は?」
「あぁ、ボスが刺された時は『東卍の奴らを皆殺しにしてやる』っつって荒れてたんだけどよ。そこは俺と大寿で抑えておいたぜ」
「うん……ありがとう。そこで報復してたら収拾がつかなくなってた。あっ、そうだ」
 場地君と一虎君は?
 今回の抗争において、一番気になっていた二人の名を出すと、暇そうに大欠伸を漏らした大寿が説明し始める。
「オマエの指示通り、抗争が始まってすぐにノして縛っておいたぞ。アイツら目ぇ覚ましてからうっせぇのなんの……とりあえず黙らせて、東卍のアジトに捨ててきた」
「よかった……色々任せちゃってすいません」
「報酬はずめよ」
「はは、当然っす」
 芭流覇羅は結成されていない。しかし結局血のハロウィンは勃発し、東卍は近年最大規模の抗争に巻き込まれた。
(少しやり過ぎかと思ったけど、却って良かったかも知れないな)
 今回の抗争はかなりイレギュラーだった。相手が変わっただけではない。抗争が起きた理由も経緯もまるで異なる。ここまで事情が滅茶苦茶になってしまえば、それこそ何が起こるかわからなかった。だからこそ念には念を入れて、場地たちの身の安全確保を最優先させたのだが、無事被害を最小限に抑えられたようで安心した。
「……半間君は何か言ってましたか?」
 恐る恐る武道が問うと、大寿がぎゅっと眉間に皺を寄せて答える。
「なにも」
「一応俺からも探り入れてみたんだが、マジで何も知らなそうだったぜ」
「……そうですか」
 前回の血のハロウィンにて暗躍していた稀咲の右腕、半間修二。あの歌舞伎町の死神が関与していないとなると、やはり今回の抗争は人為的に仕組まれたものではなさそうだ。
 俄には信じ難いことだが、人知の及ばぬ何かの影響を受けたとしか思えない。それほどに絶妙なタイミングで事は起きた。
「じゃ、俺らはそろそろ帰るわ。あんま無理すんなよ」
 ぐるぐると思考が迷走しかけていた時、九井がさっとソファから立ち上がる。
「また明日来る」
「はい、その……色々と迷惑かけてすいませんでした」
 九井の後に乾が続き、まだ起き上がれない武道は横向きに寝転んだまま、小さく首を動かし謝った。すると、三人分のため息が降ってくる。
「ボスは働き過ぎな。これも良い休養期間だと思ってゆっくりしてろ」
「花垣は何も気にするな。後は俺たちに全部任せておけば良い」
「ココ君……イヌピー君……」
 二人の気遣いにじんわりと感じ入っていると、今度は首が折れそうな勢いで髪を撫で繰り回された。
「いてて……ちょ、大寿君、痛いっす!」
「族の頭がンなヘコヘコ頭下げてんじゃねえ」
「おーい大寿、あんまボスいじめんなよー」
 三人の背中が徐々に遠ざかってゆく。病室のドアの隙間から、燃えるような茜が差し込み、眩しさから目を細めた。もう外は夕暮れ時か。随分長い時間話し込んでしまったみたいだ。賑やかな喧騒が遠ざかる気配に、少しばかり物寂しさを覚えて俯けば、隅々まで清掃の行き届いた白い床が目に入る。
「……ココ、大寿。先に行っててくれ」
「はいはい」
「あんま待たせやがったらド突くぞ」
「おう」
 九井と大寿が部屋を出て行き、何故か乾だけが武道の方へ引き返して来る。一体どうしたのかと不思議に思っていると、ベッドのすぐ傍までやってきた彼は、徐に武道の耳元で囁いた。
「お前が目を覚まさなかった三日間、俺は生きた心地がしなかった」
「……っ」
「俺はお前のモノだ。この身体も、心も、命さえ、ぜんぶお前に捧げてる」
 するり、と。拳を解かれ、指の一本一本が絡め取られる。目の前の美しい男から目が離せなかった。血潮が脈打ち、全身に彼からもたらされた熱が循環していく。
 絶対に逃がさない。
 トドメにそうありありと訴える強い眼差しに射抜かれ、ゾッと肌が粟立った。
「お前が死ぬ時は、俺と一緒だ。一人だけ遠くに行くなんて許さねぇ」
「いぬ、ぴー……くん」
「好きだ、花垣」
「ッ……、」
「……二度とこんな思いをするのは御免だ」
 息が、止まる。噛み付くような口づけと共に捧げられた愛は、遅刻性の毒のように身体を巡り、理性を溶かした。
「は、ぁ……ぬぴ、く、……やめ、」
「……愛してる」
 神に赦しを乞う愚かな罪人の如く、絡まり合った指先が祈りの形を取る。視界が滲み、自ら口を開き受け入れたなら、嬉々として己を嬲る舌の動きに翻弄された。
 思考が押し流されていく。
 何も考えられない。ただ、気持ちよくて。分け与えられた熱に縋った。そこでようやく、己はずっと寒かったのだと自覚する。
「ン、……ぅっ」
 彼の愛に応えたいと思った。武道を失うことを恐れ、震える背中に腕を回してやりたい。もう何も心配はいらないのだと、沢山のキスをして慰めてやりたい。彼の心を支えてやりたい。その盲目的な献身に、報いてやりたい。
 何度も角度を変え唇を貪られつつ、口端から垂れた唾液を舐め取られる。生理的に溢れた涙が頬を伝うのを、じっと愛おしげに見つめる、男の顔の甘ったるさといったら。元の造形の美しさも相まって、腰が砕けてしまうかと思うほどの破壊力だった。
「イヌピーくんは、……綺麗だね」
「え、?」
「君は綺麗だ」
 あぁ、なんてみっともない。胸の内に渦巻くのは、無垢なこの人に似つかわしくない、欲に塗れた醜い感情ばかり。されど強烈な自己嫌悪に浸ると同時に、この感情こそ紛れもなく恋なのだと知った。知ってしまった。
「……オレもイヌピー君が好き」
「っ! はなが、」
「だから、ごめん」
 オレは君のように清廉な人間ではないから。
「ごめんね……」
 脳裏に浮かぶ愛しい人の顔。それは目の前の彼だけじゃない。いつだって幸せを願ってきたあの人の存在が、武道の中で風化されることは一生ないのだろう。
 こんな優柔不断な自分に、彼の献身に報いることなどできやしない。
「……」
 カーテンの隙間から伸びる斜陽の光。長く伸びた二人分の影が重なる。このまま彼の手を取れたなら、どれだけ幸せだったろう。でも結局、乾を選ぼうと武道が万次郎の手を離すことはできないのだ。あの人と自分は、そう在るように運命付けられている。
 他ならぬ武道自身が、万次郎の傍にいたいと思っている。
「……わかった」
 長い沈黙の末に吐かれた言葉は、彼らしい簡潔なものだった。
「今日のところは引いてやる。病み上がりなのに悪かったな」
 最後にふわりと髪を撫でつけて、乾は今度こそ部屋を後にした。途端にどっと疲れが押し寄せてきて、堪らず目を瞑る。麻酔が効いているはずの傷口がやけに痛むのは、きっと気のせいに違いない。病は気から、なんてよく言ったものである。
「……最低だ、おれ」
 同時に二人の人を愛してしまった。どちらか一方を選ぶことなどできない。どちらも同じくらいに大切で、守りたくて、幸せであってほしいと心から願う人。だからこそ、こんな宙ぶらりんの気持ちのまま、乾の想いに応えるわけにはいかなかった。
 ――ピッ、ピッ、ピッ。
 断続的に流れる電子音を聞いているうちに、段々と眠気が襲ってくる。呼吸が深く、長いものへと変わっていった。死にも似た深い眠りに落ちる感覚はこの上なく魅惑的で、特に抗いもせず思考を手放す。
 間も無くして、ぷつり、と。唐突に意識が途絶えた。
 それはあまりにも呆気なく。まるでブレーカーが突然落とされたかのように。それまでスポットライトの当たっていた舞台から、一切の明かりが消える感覚。
 そして派手な化粧を施した道化師は、明日も不安定な玉の上で踊ってみせるのだ。
 誰も見ていない無人の観客席に向かって。


 *


 開け放った窓から律の風が入り込み、目に優しい薄緑のカーテンを揺らす。秋の陽光の降り注ぐ、穏やかな昼下がり。うつらうつらと船を漕ぐ武道は、悪戯に髪を攫う指先へ大人しく身を委ねていた。
「この後抜糸なんだってな」
「うん」
 髪を撫でつけていた掌が、今度は頬の上を滑る。気持ち良さからうっとりと目を細めると、あまり表情の変わらない冷たい美貌が綻んだ。
 氷霜を纏った蕾が、雪解けと共にゆっくりと花開いてゆく様。どうしようもなく心惹かれた。本当に綺麗な顔をしている。次元が違い過ぎて嫉妬すら覚えぬほどに、彼の造形は完璧で感嘆のため息が漏れた。
「痛くされたら呼んでくれ。俺がぶん殴ってやるから」
 眉尻を下げ、物憂げに表情を歪めた乾が言う。
「ふっ……ダメだって。田河先生は恩人なんだろ? 赤音さんに怒られるよ」
「花垣さーん、そろそろ行きますよ」
「それじゃ、イヌピー君。いい子で待っててくださいね」
「……ん」
 呼びにきた看護師に連れられて、武道は診療室へ通された。もう一人で歩けるぐらいには回復している。キヨマサに刺された傷は順調に塞がっていたため、今日は最後の診察を受けてから抜糸をする予定になっていた。
「それにしても目を見張る回復力ですな。大体の患者様は炎症が長引いたりして縫合不全が起きるのですが……二週間でここまで元通りになるとは」
 診察室へ到着して早々、武道の傷の治りを確認した田河が、軽く目を瞠る。
「身体が頑丈なのが自慢なので」
「いやはや若さとは素晴らしい」
「ははは……」
 抜糸はすんなりと終わった。あの威圧感のある女性看護師から、あと一週間は安静にするよう再三釘を刺され、診察室を後にする。
 病室へ戻る途中、何気なく窓の外を見下ろすと、花に囲まれた中庭のベンチで老夫婦が寛いでいた。木漏れ日を浴び読書をする妻と、その隣でのんびりと缶コーヒーを嗜む夫。絵画の一場面のような平和そのものの図は、幸福の象徴のように映る。
「……疲れたなぁ」
 そう呟いたのは無意識だった。なるほど、己は思ったより参っているらしい。
 色々なことがあった。本当に色々。やっと幸せな未来になるのだと期待した矢先に、予想外のことが起きてまた振り出しに戻る。何度同じことを繰り返したのだろう。いっそ全部投げ出して逃げてやろうか、なんて思ったこともザラだった。
「……結局マイキー君、来てくれなかったな」
 彼は今頃どうしているのだろう。
 リハビリやら見舞客の対応やらでここ最近慌ただしく、結局乾たちに聞けずじまいだった。あれだけの騒ぎになったのだ。上手く警察から逃げ切って、暫く大人しくしていてくれたらいいのだが。
 大金持ちになりたい。
 権力者になって、世界のすべてを我がものにしたい。
 そんな分不相応な夢を追っているわけではなかった。その辺にいくらでも転がっているようなありふれた幸せを手にし、笑顔のまま生きる未来を掴み取りたい。ただそれだけを願ったはずなのに。どうしてこうなってしまうのか。
「花垣」
 名前を呼ばれて振り向く。視線の先に立っているのは、学生生活の方が忙しいであろうに、欠かさず毎日見舞いに来てくれた大切な人。お馴染みのド派手なピンクのダボジャーに、ピンヒールを履いた不良少年は、この病院という閉鎖的な場所では些か浮いて見える。
 あまり変化のない表情に比べ多弁な瞳は、何処か必死さを帯びた輝きを放ち、一心不乱に武道だけを見つめていた。
「イヌピー君」
「おせぇから迎えに来た」
「あぁ、すんません。ちょっとぼうっとしちゃって……っわ、」
 ぐ、と腕を掴まれた。そのまま引き寄せられ、突然の行動に身構える間もなく、たたらを踏む。
「……イヌピー君?」
「お前が今にも消えちまいそうだったから」
「え?」
「もうちょっと……このままで」
 聞けない。ここまで自分を大切に想ってくれている人に、あの人が今どうしているのか聞くなんてこと、できない。
 己をキツく抱き締める男の背を、ぽん、ぽん、と軽く叩いて宥める。気休めにもならない慰めはしかし、多少なりとも昂った精神を落ち着かせることに成功したらしく、徐々に腕の力は緩められていった。
「……悪かった」
「ううん、全然大丈夫っす。イヌピー君は落ち着いた?」
「ん。帰ろう、花垣」
「はい」
 病室へ戻り、二人で退院の準備を進めていく。元々持ち込んだ荷物が少なかったこともあり、存外支度はすぐに終わった。あとは軽く掃除して花瓶の中身を捨てたり、忘れ物がないかチェックしたりと、細々とした作業だけだ。
 ――そうして迎えた翌日、ついに退院の日がやってきた。

「お世話になりました」
「またなんかあったらおいで」
「はい、遠慮なくそうさせてもらいます」
 穏やかに笑う田河が、冗談めかして言う。隣に立つ乾は苦笑し、神経質そうな女性看護師は、ひくりと片眉を跳ね上げた。
「田河先生。ここはもうこういったことがないようキツく注意すべきところです。大体彼は普段から怪我が多過ぎで……」
「ほっほっほ。そこまでにしといておやり」
「その節はご心配をおかけして大変申し訳なく……」
「花垣、そろそろ行くぞ」
「あ、うん。それでは先生、失礼します」
 病院の駐車場へ向かうと、迎えの車が軽くクラクションを鳴らし、己の存在をアピールする。白いセダン。真一郎の愛車だ。流石に二週間分滞在した荷物となれば、手で持って帰るには多いため、九井が真一郎に迎えを頼んでくれていたのだ。
「よう、武道。一昨日ぶりだな」
 運転席に座る真一郎が、全開にした窓から煙草の煙を吐き出す。その瞬間、レモンのフレーバーの香りが広がった。確か兵庫までツーリングした時に買った地域限定煙草であったか。赤マルは女子ウケが悪いと知って、今は色々試行錯誤しているらしい。
「すみません。わざわざ車出してもらっちゃって」
 乾と二人でトランクの中へ荷物を運び入れ、車に乗り込む。殊勝に謝ると、真一郎は携帯灰皿に煙草を押し付け、からりと笑った。
「気にすんな。可愛い後輩のためなら、足でもなんでもなってやンよ」
「あ、それ前言ってた限定煙草っすよね? せっかくだから退院祝いに一本ご相伴にあずかりたいなー……なんて」
「花垣」
 ギロ、と隣に座る乾から、鋭い視線が飛んでくる。
「やめておけ。お前は病み上がりだろうが。小西さんに言いつけるぞ」
「うげ、それだけはヤメて……」
 ぴしゃりと乾に言われ、項垂れた。あの威圧感のある看護師の名前を出されたら、大人しく引き下がるしかない。悪い人ではないのだが、いかんせん怒るとおっかないのだ。
「はは、武道もようやく女の恐ろしさを知ったか」
「んなもんとっくの昔に思い知らされてますよ……」
 車を走らせること暫く、首都高の入り口を通過する。土曜ということもあり車の通りはそこそこ多かったものの、大型のトラックは少なかった。ぼんやりと窓の外の景色を眺めていれば、暇を持て余した真一郎が話しかけてくる。
「行き先は武道の家でいいんだよな?」
「……っす。一旦荷物置きたくて」
「どうせならその後アジトまで送ってやるけど、どうする? アジトの方にも置く荷物あるんだろ?」
「流石にそこまで真一郎君に頼るのは……」
「いいって。今日はイザナに店番頼んでるし。それにケースケたちも手伝いに来てくれてるからな」
「うーん、そういうことなら……」
 話に場地の名前が登場したことで、そういえばと思い出す。
 昔、真一郎の店に強盗に入ろうとした場地と一虎は、未遂で終わったもののずっとその過去を悔いており、せめてもの償いの為にと店の手伝いをするようになった。一時は真一郎に対してギクシャクしていた二人だけれど、今は幾分か関係が改善しているらしく、時折真一郎が彼らの働く様子を楽しげに語ってくれる。
「そっかイザナ君たちが……。どうせならマイキー君もこき使ってやればよかったのに。少しは反省してもらわねぇと!」
「……」
 軽い冗談のつもりであった。しかし、帰ってきたのは重い沈黙で、冷たいものが背中を走る。
「万次郎は……今は身動きとれねぇから無理だ」
「っ! 真一郎君!」
「……え? どういうことっすか?」
 真一郎の言葉に、乾が弾かれたように反応する。心がミシリと不穏な音を立てた。身動きが取れない? まさか、自分が意識を失ってる間に、彼の身に何かあったのか。
「今は鑑別所にぶち込まれてる。いつ院送りになるかは……まだわからない」
 鑑別所。
 まだ少年院にいるのでないなら、今は彼の身柄をどうするか審議中ということなのだろう。大怪我をして入院中だとか、生死の淵を彷徨っているだとか、そんな話ではなくて安堵した反面、あの万次郎が警察に捕まったという事実にショックを受けた。動揺を抑えきれず、武道は震える声で乾に問う。
「なんで万次郎が……あの時、あの人が逃げるだけの時間は十分あったはずだよね?」
「……」
「そんなこと聞いてない……イヌピー君、なんで教えてくれなかったんすか」
「青宗を責めてやるな。ただでさえ病み上がりのお前に、これ以上心労をかけたくないっていう部下心だろ。それに、万次郎は自分の意志で捕まったんだ。俺らにできることは、あいつの覚悟を受け入れてやることだけだ」
「自分の……意志……?」
 理解が追いつかない。万次郎が捕まったというのも受け入れ難いのに、あのチームを殊更大事にしている彼が、自らの意思で連行されただなんて。自分の影響力の大きさを、彼自身知らぬわけではなかろうに。だというのに、なぜ。
「あいつにも考える時間が必要なんだ。一人でゆっくり、考える時間が……」
 息の詰まる静寂が車内を満たす。
 家に到着するまでの時間、武道はひたすらに真一郎から伝えられた言葉たちを頭の中で反芻し続けた。一人でゆっくりと考える時間。兄妹や仲間たちのいない孤独な部屋で、彼は一体何を思うのだろう。今彼が置かれた環境について考えれば考えるほど、胸が切なく痛んだ。
「ほんとにいいのか?」
「うん……ちょっと疲れちゃって。拠点に顔を出すのは明日にしようと思う」
 車に積んだ荷物は、すべて降ろしてもらった。
 物憂げな顔をした武道を心配し、乾も一緒に車を降りようとしたのを、やんわりと制止する。ここで彼に甘えるのは、何だか違う気がしたのだ。あの人が一人で答えを出すというのなら、武道も一人で向き合うべきである。それが彼の覚悟に対して、武道が差し出せる精一杯の誠意であったから。
「真一郎君、イヌピー君、今日はありがとう」
 黒龍の拠点への送迎は大丈夫だと伝えれば、真一郎は物言いたげな目を向けてきた。しかし言葉には出さずとも、一人になりたいという武道の意を汲み、すんなりと引き下がってくれる。
 きっと、これを機に武道と万次郎の関係は大きく変わってゆく。そんな予感がする。だから少しでも、心の整理をつけておきたかった。彼がどんな選択をしても、受け止められるように。
「ただいま」
 真一郎たちを見送った後、暫く冷えた外気を吸い込んでから、家の中へ入る。
「あら、おかえり。真一郎くんは?」
 真一郎を気に入っている母は、案の定開口一番に問うてきた。苦笑しつつリビングで寛ぐ母の傍を通り過ぎ、とやかく言われる前に手を洗う。
「もう帰ったよ。お店あるのにあんまり引き止めるのも悪いし」
「そうなの……お礼したかったんだけど、それならまた今度ね。次来た時は、帰る前に教えてちょうだい」
 怪我の具合はどうなのか、入院中は何か問題はなかったか、田河先生たちにはちゃんと礼を言ったのか等、前にも言われたことをしつこく再確認される。どれだけ信用がないのだ。一応中身は三十路なんだぞ。そう言ってやりたい気持ちは山々だが、そういうわけにもいかず。適当に相槌だけ打ってから、さっさと自分の部屋へ籠城を決め込んだ。
 久方ぶりの自室はやはり落ち着く。豪華な特別室と比べれば、狭いし汚いし物がとっ散らかっているものの、それでも生まれた時から暮らした場所は、鬱いだ気持ちを幾分かマシにしてくれた。
「……」
 ごろりとベッドに転がり、思い馳せる。
 まだ少年院に入っていないなら、外部から手紙を送ることも可能なはず。そこまで思い至るも、肝心の筆を執る気力が湧かなかった。頭の中で白紙の便箋を思い浮かべ、目を瞑る。だが、どれだけ時間が経っても、伝えたいことが多過ぎて、便箋一枚分どころか一行分すら文字が埋まることはなかった。
「……万次郎のばか」
 まったく思い通りにならない人。近過ぎるぐらい距離を縮めたかと思えば、またあっという間に遠ざかってしまった。
「馬鹿やろ……」
 寄る辺の無い心の置き場所を教えてくれ。
 ゆらゆらと水面に揺蕩う花弁の如く、行く当てのない放浪は不安で苦しい。早く誰か掬い取ってくれまいか。でないと腐り落ちて沈んでしまいそう。
 ポツポツと降り出した雨音に、嗚咽が掻き消されていく。突如として訪れた秋霖しゅうりんに打たれ、徐々に広がる幾多もの波紋に翻弄されながら、武道は必死に足掻いた。
 悲哀の波に攫われてしまわぬように。
 これ以上、あの人と引き離されることがないように。


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