第壱章 天ツ雲居翔りて
第壱話 円環の尾
甘くて優しい匂いがした。
ぼやけて見える視界の中、暫く視線を彷徨わせていると、何処からかカランカランという不思議な音色が聞こえてくる。耳馴染みの無い音であるのに、不思議と懐かしい気持ちになるのは、どうしてか。
「あぅ……ううう、んぎゃあああ!」
何ら理由はないのに、やたらと涙が出る。元々涙腺がぶっ壊れている節があったが、ここまで酷くはなかったはずだ。止めようとしても次から次へと意味の無いそれは溢れてきて、やがてままならない身体に痺れを切らしたのだろう。感情が爆発したみたいに凄まじい泣き声が上がる。
(うわっ! うっせぇ!)
他人事のように感じる心とは裏腹に、後先考えず大声を上げたせいで痛くなってきた喉と、蒸れて不快極まりない尻の感触が、ひしひしとこの身体は自分のものだと告げてくる。果たして、この状況は一体どういうことなのか。混乱しきった頭ではなかなか正解に辿り着くことは難しく、ただひたすらに泣き喚くことしかできない。
そう、まるで産まれたての赤子のように。
(産まれたてって……まさか!)
「あらー、どうしたの武道?」
(この声、覚えてるのより若ぇけど……おふくろ⁉)
暴れまくる両足をあっさり掴まれ、ぺろりと下履きを捲られる。
「ああ、オムツを替えて欲しいのね。ちょっと待っててねぇ」
ここは地獄か。人って羞恥で死ねることもあるんだな。そんな馬鹿げたことを思いながら、焦り過ぎてパニックになりかけている思考回路をフル回転させる。もしかしなくとも自分は、タイムリープどころの話ではなく、もっととんでもない事に巻き込まれてしまったのではないか……?
「うあ、だぁ!」
「はいはい、気持ち悪いでちゅねぇー。今替えてあげるからね」
(え、待って、嘘だろ、ちょっと待って)
「すぐに済むからねー」
(や、やめろおおお!)
こうして武道は己の尊厳と引き換えに、自分に起きた奇跡のような出来事を、半強制的に自覚させられたのであった。
花垣武道、享年二十八歳と二ヶ月半。
何度も過去と未来を行き来して、元恋人の橘日向や大切な仲間たちが不幸な道に進まないよう、幾度も幾度も過去を改変してきた。そして最後の世界では、どうやっても巨悪と化してしまう佐野万次郎を監視するため、未来に帰る選択肢を自ら捨て去り、ひたすら彼の傍で彼が道を誤る度に叱り続けた。
昔交わした約束を頑なに守り続けた結果は、今こうして新しい生を受けていることで察して欲しい。恐らく、前の世界での自分は死んだのだろう。あれだけバカスカ銃で撃たれまくったのだから、当然のことである。正直一発で逝かせて欲しかった。マジで。痛すぎて最後の方なんて、あの男が何て言ってるのか碌に聞き取れなかったくらいなのだから。
「んで、気づいたらオレは三歳児ってか……」
やってらんねぇぜ。
三歳児に似合わぬ哀愁を漂わせながら、そこら辺に転がっていた小石を蹴り飛ばす。砂場では幼馴染みのタクヤと鶴蝶が、寒さで手を真っ赤にしながら、泥団子をピカピカに磨き上げていた。宝石職人にでもなるつもりなのか、あの二人は。黙々と泥団子を仕上げている子どもたちを眺めつつ、未就学児の集中力はやっぱり末恐ろしいな、などと考える。この世に生まれ直してから三年経つのに、未だ心は童心に染まれそうもなかった。この調子では、どう足掻いても三十路手前のくたびれた精神から逃れられそうもない。
「たけみち! なにやってんだよ! おまえもどろだんごつくろうぜ!」
顔を泥だらけにした鶴蝶が、一人ブランコに座り込んでいた武道へ声を掛けてくる。
「このままだとおまえ、ふせんしょーだぜ!」
「いや、ふせんぱいってやつだろ」
「え、そうなん?」
冷静に訂正したタクヤと鶴蝶が、不思議そうに互いを見合った。
やっばい。オレの幼馴染みたちがクソ可愛い。大人になった二人は、可愛げなんてものとは縁遠い存在だったにもかかわらず、子どもの頃の二人はちょっとまずいレベルで愛らしかった。よくこんなんで人攫いに遭わなかったな。段々と見当違いの方向で心配になってきた武道は、そこでハッと気がつく。昔、人攫いに遭いかけたのはオレの方だったわ、と。
「武道ー! そろそろ帰るわよ!」
「えー、たけみちかえんのかよ」
「ボクまだあそびたいよ」
鶴蝶とタクヤが不満げな声を上げた。
「ごめん、かあちゃん迎えにきちゃったから……」
公園の入り口で武道の母が手を振っている。隣にはタクヤの母親の姿も見えた。二人とも若い。未来の武道とそれほど歳が違わないせいで、違和感が凄まじかった。それにしてもタクヤの母親は相変わらず美人で羨ましい。しかし他人の目から見れば羨ましい限りな麗しのお母様も、いざ自分の母親となれば例外なくおっかないのか。タクヤは母の顔を見るや否や肩をビクッと震わせた後、しょんぼりと項垂れた。
「ボクもかえる……」
「タクヤもかよ……」
「またあしたな! カクちゃん!」
バイバイ! と互いに大きく手を振り合い、武道たちは公園を後にする。そういえば、鶴蝶の母親はまだ迎えに来ていなかったな。不意に思い立って、武道は隣を歩く母へ尋ねた。
「カクちゃんのかあちゃんは?」
すると、一度時計を確認した武道の母が、不思議そうに返す。
「あら? そういえばいつも同じ時間に迎えにくるのに、今日は来てなかったわね」
「……オレ、ちょっとカクちゃん家まで送ってくる!」
「え、武道⁉」
思い立ったらすぐ行動。母が止める声を無視し、全力で走り出す。まだ鶴蝶がいるかはわからないけれど、とりあえず先程遊んでいた公園まで急いだ。身体は三歳児といえど、中身は三十路だ。まだ小さな子どもに過ぎない鶴蝶を一人残していくのは、どうにも心配だった。
「ハァ、は、……いた!」
鶴蝶はまだ砂場で泥団子を磨いていた。
傍にはタクヤが作ったものが無造作に転がっている。一人寂しそうに背中を丸め、母親の迎えを待っている鶴蝶の姿に、武道は居ても立っても居られず駆け寄った。
「カクちゃん!」
「たけみち……?」
吊り目がちな目がまん丸に見開かれる。
「なんで? かえったんじゃねぇのかよ」
「オレも遊び足りなかったからさ! 一緒にあそぼ!」
鶴蝶の瞳が少しだけ潤む。
「おう!」
汗を拭くフリをして、乱雑に袖で涙を拭った鶴蝶は、ニカッと満面の笑みで頷いた。
それからは鶴蝶と一緒に遊んだ。泥団子作りに秘密のアジト探索、ジャングルジムをどっちが早く登れるか競争したり、滑り台を逆走してみたり。気がつけば夢中になって公園を駆け回っていた。元来外で遊ぶことは好きだ。いつもなら大人の精神が邪魔をして、ある程度のところでセーブしてしまいがちな武道は、今日は鶴蝶に付き合い全力で遊んだことで、あっという間に今にも寝落ちしてしまいそうな有様となってしまった。
「たけみち、ねむいのか?」
「んー……」
目がしょぼしょぼする。やたらと瞼が重い。
「お、おい、ねるんじゃねぇよ……たけみちっ」
一方の鶴蝶は、公園のベンチでうつらうつらと船を漕ぐ武道を心配そうに覗き込み、どうしたものかと困り果てた。一人ではまだ家に帰るのは難しい。かといって大人を呼びにいくにしても、この状態の武道を置いていくのは、流石の幼い鶴蝶でもダメだとわかる。加えてもうすぐ日は暮れてしまうのに、鶴蝶の母親はなかなか迎えに来ない。小さな子どもの心の中で、不安の芽が育っていった。そして、限界まで膨れ上がった感情が一気に爆発するまでは、すぐのことだった。
「うわぁん! どうしよー!」
うわぁぁぁん!
大音量で泣き始めた鶴蝶の声にびっくりして、武道が飛び起きる。
「え、え⁉ カクちゃんどうしたの⁉」
「かあさぁあああん!」
「カクちゃん⁉」
「うるっせぇぞガキコラァ!」
何とか鶴蝶を泣き止ませようと武道が立ち上がったその時、
(うわっ、やべぇ!)
公園の入り口から、見るからにガラの悪そうな中学生たちがズカズカと入ってきた。こんな三歳児の子ども相手に怒鳴りつけるような男たちだ。弱い者いじめしかできない小者だと理解していても、今の小さな身体しか持たない武道たちには、十分な脅威であるわけで。最悪の事態を想定して武道の顔から血の気が引いていく。
(カクちゃんだけでもどうにか逃がさないと……)
「な、なんだよおまえら……!」
すると、たった今大泣きしていたとは思えない気丈さで、鶴蝶が武道の前に出る。
「カクちゃん、ダメだ! 下がって!」
「なんだぁ? テメェ、いっちょまえにヒーロー気取りかよ!」
「そーんなちっこい身体で俺らに勝てると思ってンのか⁉ ああ⁉」
「……ったけみちはおれがまもる!」
鶴蝶の両手が震えている。初めて見る不良たちを恐れているのだ。それはそうだ。だって、あの喧嘩屋と恐れられた鶴蝶は、今やただの三歳児なのだから。
(だから、俺が守らねぇといけねぇのに……っ!)
「クソ生意気なガキだなァ」
「おらぁガキが嫌いなんだわ。泣き声がうっさくてしょーがねぇ」
こめかみに刺青を入れた男が、気怠げに指を鳴らす。
「いっちょ締めるか」
「そうだな」
ニヤニヤと底意地悪い笑みを浮かべながら、頭らしき男が二人の方へ歩いてきた。咄嗟に武道を庇う鶴蝶の手を取り、ぐいっとその身体を引き寄せる。武道が何とか鶴蝶の前に立つと、後ろの方からこちらを見ていた男たちが、ヒューッと揶揄するように口笛を吹いた。
「アンタらにカクちゃんはヤらせねぇ!」
「へぇ……」
「三歳児相手に本気になるような屑に、オレは負けねぇからな!」
「言ってくれんじゃねぇか、クソガキが!」
男の右手が高々と掲げられる。
突然公園の外灯が点灯した。ついに日が沈み、夜の気配が色濃くなる。
「あ……っ」
もうダメだ、と思った。
普通に考えて、ある程度身体が発達した少年に殴られた三歳児が、無事で済むわけがない。せっかく最初からやり直せたのに、これが最後のチャンスかもしれないのに、こんなところで終わるのか。こんな、スタート地点にすら立てていない圏外で、本当に終わってしまうのか。
「ダッセェことしてんじゃねぇぞ! クソ野郎どもが!」
武道が殴られる覚悟をして固く目を瞑った直後、ドゴッ! という鈍い音が響いた。すっかり聞き慣れてしまった、人が殴られた音だ。
「……?」
しかし、覚悟していた痛みはいくら待てどもやってこない。恐る恐る目を開くと、武道たちを背に庇うような形で、黒髪の少年が立っていた。
「テメェらそれでも不良か⁉ ガキ相手に殴りかかるようなダセェ奴らが、不良名乗ってンじゃねぇよ!」
「んだと、テメェ誰だコラァ!」
「ヤッちまえ!」
「調子乗ってんじゃねぇぞクソが!」
突然乱入してきた男に邪魔をされた不良たちが、苛立ちを露わにすぐさま殴りかかっていく。三対一という不利な状況にもかかわらず、器用に男たちの攻撃を躱した少年は、何発か拳を食らいながらも男たちに強烈な蹴りを入れていった。
その一度見たら忘れられない足使いに、脳裏に焼き付いて離れないあの男の背中が重なる。
「チッ……! 覚えてろよ!」
お決まりの台詞を吐き捨てて不良たちが去っていったのは、乱闘が始まって三十分ほど経った頃だった。
「あー、いってぇ」
何発もらっても倒れないどころか、隙あらば蹴りや拳を繰り出す少年を前に、不良たちは怯んで逃げ出した。圧倒的に喧嘩が強いというわけではないけれど、絶対に倒れてなるものかという少年の気迫と根性に、不良たちが気圧されたが故の勝利だった。
「すげぇ……」
たとえ腕っ節が強くなくても、喧嘩で圧勝できなくても、それでも守ると決めたなら、身体を張って最後まで守りきる。その姿は、まさしく武道が憧れたヒーローの姿そのものだ。
(あれ……これって、)
ぐるりと世界が廻る。
ずっとずっと昔、前の世界の武道が今と同じくらいの歳の頃。同じようなことがあった。あの時は鶴蝶と母がいた。まだ遊び足りないと泣き喚いて駄々を捏ねた武道に、不良たちが絡んできて……。泣いたらダメだってわかっていたのに涙が止まらなくなり、母の背中に隠れているだけの自分を酷く情けなく思った。そんな中で、怖い気持ちを押し殺し、母を守ろうと男たちの前に飛び出しかけた時のことだ。
『女こどもに手ェ出すようなクソ野郎が、不良名乗ってんじゃねぇよ!』
少年が、颯爽と武道たちの前に現れたのは。
(この人……もしかして、)
武道が、ずっと憧れ続けたヒーロー。黒髪のポンパドールに、着崩された真っ黒い学ラン。ヒーローみたいだってはしゃいだ武道に、優しく笑いながら頭を撫でてくれた人。大人になるに連れて記憶から薄れてしまった、武道の原点ともいえる大切な人。
「大丈夫か? 坊主ども」
「うん!」
「あ、ありがとう! あの、」
「ん?」
「にいちゃん、ヒーローみたいだった! カッコよかった!」
純粋な子どもの武道が顔を出す。目をキラキラ輝かせて、すごい、すごい、とはしゃぐ無邪気な子ども。少年は記憶の中のそれと違わぬ笑顔のまま、武道たちと視線を合わせるべく、その場へしゃがみ込んでくれた。それから、母よりもずっと強い力で、ぐしゃぐしゃと二人の頭を掻き回す。
「ヒーローか。嬉しいこと言ってくれんな。お前もダチ守ろうと中学生相手に堂々と立ち向かってさ、カッコよかったぜ」
「にいちゃん、名前は?」
「名前?」
「にいちゃんの名前!」
きょとん、と目を瞬かせた少年の顔は整っている。
目鼻立ちや雰囲気が、心なしか佐野万次郎に似ている気がした。
「佐野真一郎」
「え、」
「俺の名前。佐野真一郎っての」
――オレ、十コ上の兄貴がいてさ。
ふと訪れる懐古の瞬間。
突如として引っ張り出されてきた追憶の光景は、授業をサボって出掛けた昼下がりの土手道。
万次郎と龍宮寺の二人と、自転車でのんびりと走った。気まぐれに万次郎がぶらぶらと身体を揺らすものだから、運転していた武道は偶に転びそうになって、ハンドルを握る両手がフラつく度に、彼は容赦なく背中へ頭突きしてきた。そして、焦る武道を他所に、万次郎が楽しそうに笑う。
――無鉄砲な人でさ。自分より全っ然強ぇ奴にも平気で喧嘩挑んじゃうの。
ずっと不思議に思っていた。
真一郎を知る者たちが、武道と真一郎が似ていると、ことあるごとに言ってきたことを。黒龍の初代総長として、東京中の不良たちを束ね、周りから尊敬されていた伝説の男と、どうして武道が似ていると思うのか。まったく理解ができなかった。
何てことはない。武道が憧れ、そうなりたいと願ったその人が、佐野真一郎だった。それだけのこと。
「さの……しんいち、ろう……」
ようやく全部繋がった。武道のヒーローは、佐野真一郎だったのだ。
「ようし、坊主たち。家まで送っていくぜ」
「えっと……」
「真一郎でいいよ。んじゃ、どっちから送って行こうか」
「鶴蝶!」
三人で歩き始めてすぐに、鶴蝶の母親が駆けて来る。見るからに不良然りとした真一郎と一緒にいるところを見て、不安になったようだった。
「あ、かあさん」
「おばさん、違うんです! 真一郎君はカクちゃんとオレを助けてくれたんです!」
さっきの出来事を詳しく説明すると、鶴蝶の母は何度も真一郎に頭を下げる。礼を言われる度に真一郎が居心地悪そうにしている様子が、まさに思春期真っ只中の不良少年という感じで、武道の目に微笑ましく映った。
「武道くんも一緒に送っていくわ」
「じゃあ、俺はここで……」
「……真一郎くん!」
こちらに背を向け歩き出した真一郎を、咄嗟に呼び止める。
「また会える⁉」
必死になって声を張り上げれば、真一郎は苦笑しつつも頷いた。
「またいつかな」
社交辞令だとわかっていたけれど、心が温かなもので満たされる。嬉しくて仕方がなかった。憧れの人に再び会いたいという気持ちを、否定されなかったそのことが。
「うん! 絶対また会おうね!」
「おう」
「絶対だからね!」
小さくなる真一郎の姿が完全に見えなくなるまで、その大きな背中を見つめ続ける。
(絶対に真一郎君を死なせない)
暗がりを照らす外灯の下、改めてそう心に誓った武道は、何故か不機嫌になった鶴蝶に急かされるまで、その場に突っ立っていた。痛いほどの冷たい風が、晒された頬をそっと撫でていく。
季節は冬。
春になれば武道たちは幼稚園へ入園することになる。きっと一ヶ月後には真一郎が黒龍を立ち上げて、伝説に向かい一直線に駆け抜けてゆくのだろう。三歳児のこの身体では、あの黒龍一強時代に直接関わることができないのが、もどかしくてもどかしくて堪らない。
「……」
天を仰げば、分厚い雲が空を覆っていた。星は見えない。薄いベールのような朧雲の向こう側で、輪郭をなくした月明かりが、もの寂しい夜空を彩った。不意に、ある光景が脳裏に浮かび上がる。闇をその身に纏った龍が、雲霄を裂き天へと昇ってゆく、現実離れした情景。
その力強い羽ばたきに希望を見た。
未来は変えられる。今ならまだ間に合う。
「たけみちー! はやく!」
逸る気持ちを抑え込み、武道は駆け出した。
翔る龍の姿を追い掛けて。
*
いっそ死にたくなるくらいに、強烈な後悔の凄惨さを知っている。
雨の中、己の血に塗れたタイヤを、ひたすら殴り続けた薄月夜。痛切に力が欲しいと願った。大切な人を守れるだけの力を。あれはトリガーである直人を失った後、十二年前の過去に戻った時の話だ。
(やれることは何でもやってやる)
あの時限りなく死に近い場所に立っていた武道を、こちら側へ引き戻してくれたのは橘日向だった。だが彼女はもう武道の傍にいない。今後関わるつもりもない。皮が擦り切れて血塗れになった拳を止めてくれた、相棒の千冬だって、まだ出会ってすらいなかった。けれど、あの日武道を救ってくれた彼女たちの言葉や想いは、未だ色褪せることなく胸の奥深くに刻み込まれている。
武道は諦めない。何度失敗したって、絶望を味わったって、死ぬほど後悔することがあったって。絶対に諦めない。
ここまで繋いでくれた皆の想いを、無駄にはしないと誓ったから。
――真一郎との出会いから三年の月日が経った。
武道は小学生になった。一般的な小学生よりも身体が華奢で、目ばかりが大きい女顔だからか。入学早々やんちゃな上級生たちに絡まれたり、返り討ちにしたイジメッ子の半グレ兄弟が出張ってきて乱闘になったりと、前の世界よりも遙かに波瀾万丈な学校生活を送っている。
喧嘩が万次郎ばりに強くなれるとは思っていない。でも、最低限の受け身や相手を一瞬怯ませるくらいの反撃はできるようになっておきたい。真一郎と思わぬ出会いを果たした武道は、その一心で三歳から柔道と合気道を習い始めた。そのおかげか、ほぼ毎日のように仕掛けられる理不尽な襲撃を、今のところ全部返り討ちにすることができている。
ちなみに空手を習わなかった理由は、偏に自分には向いていないと判断したからだ。空手道は体格の大きさや、純粋な腕力と脚力が、勝敗を左右するところがある。勿論フィジカルに恵まれなくても勝つ者はいる。ただし、それは自らの欠点を補うだけのテクニックを身につけた者、というのが大前提の話だ。その境地に至るには、それこそ空手道の師範代を目指すくらいの勢いで、稽古に打ち込まなければ難しいだろう。今の武道にそこまでするほどの意気込みはない。あくまで武道は人を守れるだけの強さが欲しいだけで、武術の道を究めたいわけではないのだ。
そして何より、大変不本意なことではあるが。大人になった武道は寺野サウス並みの体格に恵まれることも、柴大寿並みの破壊的な腕力の持ち主になることも、佐野万次郎並みの強靱な脚力を得ることもない。こればかりは子々孫々受け継がれてきた花垣一族の遺伝の問題なので、諦めるしかなかった。
「武道、今日も『真一郎くん』のとこ行くのか?」
すっかすかのランドセルの中に宿題のプリントを詰め込んで、タクヤが問う。
「うん。ほら、今日は真一郎君の高校の卒業式だからさ」
「あー、そっか。ならお祝いしなきゃだな。そういうことなら俺先に帰ってるわ」
「悪ぃなタクヤ。んじゃ、行ってきまーす!」
じゃな、と短い別れの挨拶を返したタクヤに手を振り、武道は教室を後にした。
真一郎とは小学校の入学式の日に、偶然再会した。上級生たちに囲まれ、傷だらけになりながら喧嘩していたところを、集会帰りの彼が通りかかったのだ。
厳つい改造バイクを乗り回し、黒い特服を纏う部下たちを引き連れた高校生は、悪ガキといえど唯の小学生に過ぎない子どもの目に、大層恐ろしく映ったことだろう。案の定上級生たちはビビりまくって、全員尻尾を巻いて逃げ出した。
『あれ、お前あの時の男前三歳児か?』
『真一郎君⁉』
当然、武道は犬のように尻尾を振りまくりながら、憧れの真一郎の下に駆け寄っていった。それからあまりのくたびれ具合を哀れに思った真一郎が、黒龍のアジトで手当てしてやると言い出し、半ば拉致同然の勢いでバイクの後ろに乗せられて、今の関係に至るというわけだ。
「真一郎君、こんにちはー!」
元気いっぱいに挨拶しながら、錆び付いた扉を開け放つ。初代黒龍のアジトであるこの場所は、ゆくゆくは真一郎の経営するバイク屋《S・S MOTOR》となるテナントビルだった。バイク屋を始めるための準備は既に殆ど終わっており、室内にはズラリと新品のバイクが並べられている。
「おー。おかえり、武道」
「真一郎君もオツトメご苦労様っス!」
「ヤクザの出迎えかよ。お前らほんと、どこでンな言葉覚えてくるんだ……」
部屋の奥から制服姿の真一郎がのそのそと歩いてくる。胸ポケットには造花のコサージュが飾られており、整備中のバイクの隣に卒業証書の入った筒が転がっていた。
「荷物ここに置いていいっスか?」
「どーぞ適当に。ちょっと待ってろ。お茶持ってくっから」
自分の尻が隠れるほど大きいランドセルを、そこら辺にポイッと投げ捨てる。客用のソファの上で行儀良く待っていると、ややあってマグカップを二つ手に持った真一郎が帰ってきた。ソワソワしながら真一郎を見上げる武道に、彼は呆れたように笑い、マグを置いて両手を広げる。
「ん、」
「へへっ」
勢いよく腕の中に飛び込んで、武道はぎゅうっと真一郎の腰に抱き着いた。少しだけ気恥ずかしいやり取りだが、海外の挨拶だと思えば慣れないこともない。というか、真一郎に抱き締められるのは何だか安心するし、彼が生きていることを全身で感じられることもあって、恥ずかしかろうと何だろうと、今更やめられなくなってしまったのが正直なところであった。
「真一郎君、高校卒業おめでとう!」
「おう、ありがとな」
「これ卒業祝い!」
「え、わざわざ用意してくれたのか。開けていい?」
「もちろん!」
丁寧に開かれた包装紙の中から出てきたのは、黒革のキーケースだ。バイクの鍵を付けるのに丁度いい大きさで、本革だから長く使える。母の手伝いをしてコツコツ貯めてきたお小遣いを奮発し、悩みに悩んで選んだプレゼントだった。
「めちゃくちゃカッケェじゃん! ありがとう!」
「どういたしまして」
早速付けてみるか、と愛機の鍵を取り付ける真一郎の横顔を盗み見て、武道はにこにこと表情を緩ませる。自分のセンスは信用ならないので母に相談したのだが、そうしておいて良かったと心底思った。もし武道が選んだなら、よくわからないカエルだかクマだかの顔が描かれた、ダサいロゴT一択だったろうから。
「どうよ、似合う?」
「似合う! オトナの男って感じ!」
「マジで嬉しいわ。ありがとう、武道」
くしゃくしゃと頭を撫でられ、笑い合う。あぁ、幸せだなぁ。改めてこの奇跡を噛み締めた。
その後、二人は互いの近況を報告し合った。それほど久しいわけでもないのに、次々と言葉が流れ出てくるのだから不思議である。二人はいつもそうだった。話す時は途切れることなく話し続けるし、静かな時はとことん静か。だが沈黙は決して居心地の悪いものではなく、それどころか心は穏やかに凪いですらいる。
「てなわけで、昨日も帰りに囲まれて……」
最後に相変わらず上級生たちから絡まれることを伝えると、真一郎がニヤけ顔を隠そうともせず、「俺が締めてやろうか?」なんて言い出した。明らかに面白がっている顔が腹立たしかったので、二次被害を防ぐためにもそれはやめて欲しい、とにべもなく断ってやれば、藪を突いたのは真一郎のくせに割と本気で落ち込んでいて面白い。
一方真一郎は、来週本格的にバイク屋を開業すること、今はその準備のせいで多忙を極めていること、だがそんな忙しさも楽しいと感じていること等を揚々と語った。宝石のように目を輝かせ、迷いなく前を見据える彼の姿が、酷く眩しくて堪らなかったのは秘密だ。
「それにしても学校行って週三で合気道に柔道か。忙しくて嫌にならねぇ?」
「必要なことっスから」
確かに忙しいのは確かだが、稽古は最低でも小学五年生になるまでは続けたいと考えている。いずれ来る強敵を相手にするには、今の自分ではまだまだ足りないと思ったからだ。
「大事な人を守れる力が欲しい」
「……」
「後になってから死ぬほど後悔するなんて、ゼッテェしたくないんです」
マグに淹れたインスタントコーヒーを啜りつつ、真一郎が静かに武道を見つめる。
「オレ、いつかアンタみたいなカッケェ不良になりたいんだ。ヒーローみたいな!」
真一郎が再び思い出させてくれた夢を語れば、万次郎に似た黒い瞳が、キュッと愛しげに細められた。ゆったりと口端が上がり、ほんのり眉尻が下がる瞬間を、息を詰めて眺める。花が綻ぶような淡い微笑みが咲き乱れるその様に、武道は思わず見惚れてしまった。
「お前は俺をスゲェってよく言うけどさ」
「……?」
「俺からすれば、武道の方がスゲェよ」
するり。
子ども特有の丸みを帯びた頬の輪郭を、節張った指先が辿る。伏し目がちな影のある青年の表情が、嘗て見た未来の万次郎の姿と重なって、一瞬頭が真っ白になった。
「尊敬する」
似ている、あの人と。しかし、全然違う。何処が違うのか。
(そうか、)
きっと、自分たちはパズルでいう同じ形をしたピースなのだ。
限りなく近い存在でありながら、一番遠い。同じ台座の中に収まることを許されないモノ。武道と万次郎が互いに欠けたピースを補い合う関係であるならば、武道と真一郎の場合は同じ形であるが故に、一生ピタリとハマることができない、ある意味歪で不完全な関係ともいえた。かといって、互いに反発したりだとか、場所を奪い合ったりだとか、そんなことはなくて。
ただ、相手をひたすらに尊び、慈しみ、愛おしむ。頭のてっぺんから足先まで微温湯に浸かりきっているような、名前のつけられない『特別』。そう例えるのが、一番しっくりくる気がした。
「真一郎君」
こちらを見下ろす男の黒髪が、首を傾げた拍子にさらりと流れる。
「オレも真一郎君のこと尊敬してる」
「そっか」
「うん」
「ありがとうな」
まろい頬を包む掌の上に己の右手を重ね合わせて、ほうっと息を吐く。温かい。生きている。安心する。心が解けてゆく。
「……」
「……」
結局、客人が店の呼び鈴を鳴らすまで、二人は揺り籠のような優しい静寂に身を委ねていた。何か話すこともなく、必要以上に触れ合うわけでもなく。ただ手を繋ぎ、体温を分け合い、眠るように深く息をする。せっかく淹れてもらった緑茶が温くなっても、西陽の差し込む窓辺から黄金色の輝きが失われても、どちらも席を立とうとはしなかった。
「おーい真ちゃん。御祝いに駆けつけてやっ、」
「真一郎? いねぇのか?」
「うわっ! びっくりした。電気くらいつけろよ、な……」
暗くなった部屋の奥。
二人掛けのソファの上で、明かりもつけず窓越しに星空を眺めながら。最初から『そう在るべきモノ』であったかのように身を寄せ合う二人を見て、初代黒龍の男たちは思ったという。
それはさながら、龍が比翼を休めるが如し、と。