第拾玖話 流星の軌跡
万次郎の出所日が決まった。
そう連絡してきたのはイザナであった。不機嫌そうな、しかし何処か安堵したような声色で、かの暴君は弟の朗報を武道に知らせた。
一時は少年院に収容されることも覚悟したものだが、どうやら半年ほどの保護観察処分で済んだらしい。鑑別所内での彼の態度が、深く反省しているように見受けられたこと。特に問題行動を起こさず、規律に従い模範的に過ごしていたこと。キヨマサが起こした殺人未遂事件に、彼は直接関与していないこと。以上の理由から、少年院に送致する必要はないと判断されたとのことだった。
「オレ泣くかもしれない」
愛機を弄る大きな背中に吐露する。
再会直後に色んな気持ちが込み上げてきて大号泣。果ては万次郎にドン引かれるまでがセット。武道は己の涙腺の弱さを嘆き、また泣いた。
こんなんじゃ真面に話もできやしない。
「心底困ったって顔するアイツが目に浮かぶな」
「笑い事じゃないんスよ」
「いや笑うだろ」
「ヒドイ」
細かく分解された部品たちを、一つ一つ丁寧に触れては確かめる指先に、目が惹き寄せられる。皮膚が硬くなり節張っている、バイク乗りの男の手。あの掌に一体何度救われたことだろう。
力任せに頭をわしわしと掻き回される。ガラス細工にでも触れるような手つきで、戯れに頬を撫でられる。たったそれだけの慰めで、しつこく蔓延る不安も欺瞞も、綺麗さっぱり消し飛んでしまうのだから不思議であった。
「心配しなくてもダイジョーブだって」
武道のお気に入りの白い手が、黒ずんだネジを拭いていく。
「お前なら大丈夫」
その言葉には妙な説得力があった。
思わず彼が言うならそうなのだろうと頷いてしまうような、そんな力が。
「……っし、点検終わり、と」
「ありがとう、ございます……」
「特に問題なかったぜ。ただちょっと汚れてたパーツあったから、拭いて油差しといた」
心なしか喜んで見える愛機のキーを受け取り、店の外まで引いて行く。ここから東京少年鑑別所まで、愛機を飛ばして三十分ほどの距離であった。今から向かえば昼前には着きそうだ。
「あの、真一郎くん……」
「ん?」
「本当に、ありがとうございました」
万次郎の迎えは元々真一郎が行く予定であった。それを武道が無理を言って代わってもらったのである。真一郎とて、弟の顔を見て早く安心したいだろうに、すんなりと武道に譲ってくれたのには感謝しかない。
「別に俺は何もしてねぇよ。お前の方が万次郎と話すこといっぱいあんだろ? 思ってること全部ぶちまけて、スッキリしてこい」
「……うん」
キーを回し、エンジンを掛ける。うっとりと聞き惚れる重低音が辺りに轟き、慣れた操作でエンジンの回転数を上げていった。不意に、万次郎の声が蘇る。
『そこ! そこで半クラにすんの! ほら、ゆっくりレバー戻して!』
頭で考えずとも、自然とバイクに乗れるようになった。
初めの頃はよくフラついて、その度にこっ酷く怒られたものだが、今はそんなことにはならない自信がある。それだけの時が経った。経験を重ねた。叶うなら、あの日武道にバイクの乗り方を教えてくれた彼を、後ろに乗せてタンデムしたかった。そればかりは諦めるしかないのだけれど。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
己の背中を押す声に短く応えて、ついに前進する。
国道をひた走り、六本木の料金所を通過した。首都高に乗ってしまえば後は深く考えず愛機を飛ばすだけだ。雲一つない晴天の下、頭を空っぽにして、バブが歌う調子外れな鼻歌に耳を澄ませる。
彼と会ったら、何から話せばいいだろう。
武道は今日、万次郎にタイムリープのことを打ち明けると決めていた。
(最初から全部話そう。長くなるけど……オレのこと、マイキー君に知ってほしい)
北池袋の料金所を降り、直進する。
朝の出勤ラッシュを脱しているためか、車の通りは少なかった。左折して道なりに進むと、ようやく《東京少年鑑別所前》の看板が見えてくる。
無意識の内に、ハンドルを握る手に力が入った。
「ここが……」
一見すると学校のような門構えのそこは、しかし物々しい白い塀がぐるりと周囲を取り囲む、閉鎖的な場所だった。彼が出てきたらすぐにわかるよう正門前に愛機を停めて、武道はこの中で万次郎が過ごした一ヶ月間に思いを馳せる。
寂しがり屋の少年が、たった一人きり。外部との接触を完全に断たれ、狭苦しい部屋に押し込められている図は、想像すればするほど胸を切なく締めつけた。
『マイキーはね、今でも使い古したタオルケットを握り締めてないと寝れない、弱い男の子なんだ』
嘗て彼の妹に託された言葉を反芻する。
賑やかな家族に囲まれて育った彼にとって、この場所で迎える夜はさぞ静かであったことだろう。もしかすると、上手く寝つけない日もあったかも知れない。とある未来の、黒々とした隈を作った彼の姿が、瞼の裏で蘇る。痩せぎすで青白い顔をした青年には、常に噎せ返るほどの死の匂いが纏わりついていた。
「タケミっち……?」
落雷が脳天を撃ったような衝撃を受けた。
俯けていた顔を上げ、慌てて声の方へ視線を巡らす。
「……マイキーくん」
薄鼠色の上下スウェット姿の少年が、唖然とした表情で立ち尽くしている。身嗜みに気を配る余裕がなかったのか。ピンクゴールドの髪は結われることなく、ボサボサのまま放置されており、無精ひげも伸びっぱなしになっていた。
ぽすん、と。
軽い音を立てて、最低限の荷物が詰め込まれたボストンバッグが、地面に落ちる。
「なん、で……っ」
泣きそうに顔を歪めながらも、決して涙を見せやしない。そんな意地っ張りな子どもの下へ駆け寄り、そっと身体を抱き寄せる。
少し痩せただろうか。背中に腕を回した拍子に思う。薄らとできた隈を指先で辿り、やはり眠れていなかったのかと哀しくなった。こういう時こそ支えてやりたかったのに。いつも自分は、肝心な時に彼の傍にいてやれない。
己の無力さに歯噛みする。
「……おかえり、万次郎」
小刻みに震える肩が、びくりと跳ねた。
「……で、」
「……?」
「っなんで来たんだよ!」
力一杯突き飛ばされ、たたらを踏む。予想外にも返されたのは激しい拒絶で、一瞬何をされたのか理解が追いつかなかった。思わず惚けてしまうも、すぐに万次郎が走り出そうとしていることに気がつき、咄嗟に彼の腕を掴み取る。
「マイキーく、」
「やめろよ、おかしいだろ! オレのせいでタケミっちは……!」
「違う。あれはマイキー君のせいじゃ、」
言葉は最後まで続かなかった。
万次郎が大きく身を捩り、拘束から逃れようと本格的に暴れ出したからだ。ジタバタと足掻く両手を抑えつければ、今度は即死級の蹴りが飛んでくる。間一髪のところで避けるも、これがあと二発も三発も続いていけば、無事では済まされないのは火を見るより明らかだった。
「離せ!」
尋常でない拒絶の仕方に困惑しつつ、その細腰にしがみつく。どんなに宥めても抵抗は酷くなる一方で、されど己の直感は『絶対にこの手を離すな』と訴えていた。
バキッ!
いってぇ。容赦なく頬を殴られる。マジで痛いな、クソ。手加減されているとはいえ、あの無敵のマイキーの一撃だ。このまま防戦一方ではノされてしまいかねない。数々の修羅場をくぐり抜け、己の限界を嫌というほど思い知っている武道の判断は速かった。
「話を、聞けって……!」
万次郎の注意が逸れた隙に足払いを掛け、バランスを崩した身体をそのまま地面へ引き倒す。すかさず仰向けに転がった腹の上で馬乗りになれば、怒りから万次郎の顔がカッと赤く色づいた。
「ってぇな、退けよ!」
「何なんだよさっきから!」
視界の端が、徐々に滲んでいく。
「言えよ! アンタが何考えてんのか全然わかんねぇ!」
よれた襟元を掴み、ぐらぐらと窶れた肢体を揺さぶった。
次から次へと溢れてくる涙が鬱陶しい。だが食うか食われるかの修羅場中。己の意志と関係なく流れるそれを、いちいち拭っている余裕はなかった。ここまできて絶対に逃してなるものか。また殴ろうとしてきたら、渾身の寝技をお見舞いしてやる。そう鼻息荒く男を睨みつけてやると、ふ、と組み敷いた身体から力が抜けた。
「こんなとこまで来てするほどの話って何? そんなにさっさとケリつけたいってか?」
片手で目元を覆っているせいで、万次郎の表情は伺えない。だが心なしかその声は震えているように聞こえた。
「何も今じゃなくてもいいだろ。無理だ、そんなの。情けねぇけど、今はまだ……」
「? どういう意味で、」
「ちゃんと、腹括るから。あと少し……少しでいいんだ」
もう少しだけ時間をくれ。頼む。
沈黙が降りる。血が出るほど強く噛み締められた唇に、無敵と称された少年の脆さを見た。何と言葉をかけようか迷い、果てにだらりと項垂れた左手へ触れる。緊張のせいか、指先は冷たくなっていた。
「オマエのこと、ちゃんと諦めるから。もう二度と欲しがったりしないから……」
時折嗚咽を漏らしながら、万次郎がうわ言のように繰り返す。
初めて目の当たりにする男の弱りきった姿に、武道は途方に暮れた。一体何がそこまで彼を追い詰めているのだろう。諦める? 欲しがったりしない? あの天上天下唯我独尊の我が儘男が、そんな殊勝なことを言い出すだなんて。何がどうしてそうなったのか。
「さっきからどうしたんだよ……アンタらしくない」
「ぅ、……っ」
「万次郎」
彼がここまで思いつめている理由はわからない。だが、これだけは言える。
今の彼を、一人にしてはいけない。
「もう帰れ……」
「やだ」
「っ、」
「ぜってぇイヤ」
草露の如く滴る涙を、乱雑に親指で拭う。いつもと立場が逆だな。すっかり冷静になった頭で漠然と考えた。
「お騒がせしました」
何事かとこちらを伺っていた施設の従業員に笑いかける。
喧嘩じゃないですよ。殴ってないですよ。あ、いや、一発か二発は食らってしまったけれど。とりあえず自分たちは無害です。そんな主張を込めたつもりであったのだが、何故か従業員はヒッと短く声を上げ、そそくさと建物の中へ逃げ帰ってしまった。
まずいな。このままでは現行犯で、再び檻の中へぶち込まれてしまいそうだ。今度は彼だけでなく自分も道連れで。
「行こう、マイキー君」
「タケミっち……でも、」
拘束を解き、フラつく身体に手を貸して起き上がらせてやる。
「いいから乗って」
所在なさげに突っ立つ彼へ、ハンドルにぶら下げていたメットを放った。綺麗な放物線を描いたそれは、真上に陣取る太陽の光を反射して、万次郎の手の中に吸い込まれていく。
「お願い、万次郎」
上手く笑えていただろうか。
また拒絶されるのではないかという恐怖を押し殺し、なるべく柔らかく笑んだつもりであった。しかし痛々しく顔を歪めた万次郎の反応を見る限り、どうやら彼を安心させようとした武道の目論見は、完全に当てが外れたらしい。
「ズリィよ、そんなの」
「……」
「タケミっちにそんな顔されて、オレが断れるわけないじゃん……」
おずおずと座席に跨がった万次郎が、武道の腹に腕を回す。ひとまず話ができそうな状態となったことに、ホッと安堵の息を吐いた。身体を冷やさないよう、予め持ってきていた上着を渡して、ちゃんと彼が羽織るまで見届ける。
「……フラついても蹴らないでくださいね」
キーを回し、エンジンを吹かした。小舟を思わせるゆっくりとした動きで、いつになく丁寧に愛機を走らせる。
国道を抜け、首都高に入っても尚、二人の間に会話はなく。万次郎は感情の読めない無表情のまま、置き去りにされていく景色をぼうっと眺めていた。何処か遠くを見る黒曜の瞳には、一体何が映っているのだろう。
気になったけれど、わざわざ尋ねることはしなかった。
「さむ……」
冬の到来を告げる凩が、剥き出しの肌から熱を奪い去っていく。十一月某日、世間は既にクリスマスモード一色で、浮き足立った空気が流れていた。
設置途中のイルミネーションライト。店のショーウィンドウに飾られたクリスマスツリー。あちこちに貼られているホールケーキの予約ポスター。赤、緑、金とお決まりの色彩で飾り立てられた街並みは、未来と大して変わらない。
(もうすぐ……)
だがそんな景色はそれほど長く続かなかった。みるみるうちに都心の街は工業地帯のそれへと様変わりし、人工的に作られた色とりどりの電飾の輝きは、無機質な蛍光灯の明かりへと形を変えてゆく。
倉庫やコンテナが立ち並ぶ、とある湾岸沿いの埋立地にて。愛機の排気音に紛れた波の音が、物寂しい哀歌を奏でた。
「タケミっち、」
潮の匂いが鼻につく。目的地は近い。
不自然に鼓動のペースが上がり、呼吸が速まる。行きたくない。思い出したくない。思い出せ。忘れるなんて許さない。嫌だ。苦しい、悲しい、哀しい、愛しい――。
「なぁ、ここって……」
「うん」
ギャァッ! ギャア……。
遥か彼方を飛ぶカモメの群れが、けたたましい鳴き声を上げて一斉に飛び去った。
「未来で、オレたちが死んだ場所だよ」
*
花垣武道はタイムリーパーだ。
果たしてそう言われて、すんなり信じる人間はいるのだろうか。
「は……? 何だよそれ。冗談……」
答えは、否である。
「ここで、オレはアンタに撃たれて死んだ」
ザザン……と相槌を打つかの如く、コンクリートで塗り固められた堤防へ、白波が押し寄せた。
肌に纏わりつく湿り気を帯びた潮風と、すべてを洗い流さんばかりに降り頻る秋の長雨。死に際に鼻腔を掠めた火薬の匂いから、あの人と最後に交わした言葉の一言一句まで、まるで昨日のことのように思い出せる。あの日、武道は万次郎に銃で撃ち抜かれ、死んだ。今から十四年後の未来で。享年二十八歳であった。
「次に目が覚めた時、オレは赤ん坊になってた」
ごくり。
どちらともなく喉を鳴らす。先程からやけに口が渇いてしかたない。ふ、と短い吐息を漏らし、束の間の平静を取り戻した。油断するとすぐにアテられてしまう。過去を語るには、蘇る情景の数々が如何せん生々し過ぎた。
「二〇〇三年八月十三日。強盗事件に巻き込まれ、佐野真一郎が死亡」
「……?」
「二〇〇五年十月三十一日。血のハロウィンの抗争中、場地圭介死亡」
「お、おい」
「二〇〇六年二月二十二日、東京卍會の敵対チームから襲撃を受け、佐野エマ死亡」
「やめろ……っ」
「同日、銃を隠し持っていた天竺隊員が抗争中に発砲、部下を庇い黒川イザナが死亡」
「やめろって!」
「二〇〇八年七月七日、『花垣武道』を庇い銃弾を受け、龍宮寺堅死亡」
「……っ!」
「ぜんぶ、オレが救えなかった人たちだ」
皆の命日はちゃんと覚えている。忘れられるはずがない。万次郎は頑なに足を運ぶことはしなかったが、武道だけは毎年欠かさず彼らの墓参りに行っていた。
自分が救えなかった人たちの墓標に手を合わせ、己の背負った業の深さを再確認する。無言で己を責め立てる亡者の声を聞いているうちに、此岸と彼岸の境界が危うくなり、ふとした拍子にすべて投げ出し消えたくなった。そして、そんな日は決まっていつも、万次郎が四六時中べったりくっついてきて、浮ついた武道の両脚に深々と楔を打ち込んだ。
武道が勝手に離れていかないように。『花垣武道』の所有者は誰なのか、骨の髄までわからせるために。
「何回も過去をやり直した。何か一つ過去を変えては、未来がどうなってるか確認しに行って……なかなか思い通りにいかない現実に、オレのこの行動に意味はあるのかって何度も心が折れかけた」
それでもたまに、彼が昔みたいに笑ってくれるから。その笑顔ひとつで、救われた気持ちになれたから。武道は万次郎の傍に在り続けた。それが不毛な献身であると理解していても。
「アンタはよくオレのことをヒーローだって言ってくれた。でもさ、違うんだ。あの頃のオレにとって、アンタの存在こそがヒーローだった……」
それから武道は、己と万次郎の身に何が起きたのか語っていった。
武道が見てきた無数に枝分かれした未来の話。万次郎が顚落していくまでの経緯。初めて彼が人を殺した日のこと。その事件を機に未来へ帰らない選択をした武道と、そんな武道をずっと傍に置き続けた万次郎の歪な関係について。話すことはいくらでもあった。初めこそ唖然とした様子で武道の話に聞き入っていた万次郎はしかし、徐々に顔色が悪くなり、すべての事情を語り終えた頃には固く拳を握り締め、じっと苦痛を耐えるように顔を俯け黙り込んでいた。
「東卍の創設メンバーが次々と殺され始めた時のことだ。オレは初めて本気で万次郎に楯突いた。アンタとした約束をどうしても果たしてやりたくてさ……」
「タケミっち……」
「お互いに余裕がなかったんだ。誰かの命日が近くなると、どうしてもオレたちは不安定になる。タイミングが悪かった……」
真一郎の命日から一ヶ月後、ついに武道と万次郎は衝突した。今までにないほど激しく、取り返しがつかないほどに。その結果、武道は彼に殺され、再び時を遡った。
「以上、花垣武道の波瀾万丈な人生でした」
敢えて茶化して終わる。はは、と軽く笑ってみせれば、少年は痛ましげに眉を顰めた。
「頭がおかしいって思う?」
「いや……」
「正直に言ってくれていいよ。オレが君の立場ならイカレてるって思うだろうから」
「……オマエの言ってること、信じるよ」
ようやっと絞り出されたその声は、哀れなほどに掠れている。
「今までのタケミっちの行動にも納得した」
その口では万次郎を想っていると宣いながら、絶対に傍にはいてくれない矛盾。ずっと腑に落ちなかった点の辻褄が合い、万次郎は決まり悪げに目を伏せる。
「……ずっと黙っててごめん。オレの行動や言動が、未来にどう影響するのかわからなかったから」
「うん。大丈夫、わかってる……」
「もう二度と、アンタにあんな苦しい思いはして欲しくなかった。今まで苦しんだ分、誰よりも幸せになって欲しかった。ただ、それだけだったんだ……」
碌でもないな、という呟きを拾った。ともすれば誰にも聞かれずに、波の音に掻き消されていたであろうそれ。ハッとして視線を上げれば、暗く翳った瞳の奥で落陽の炎が揺れている。
「……オレはやっぱり、どの世界でもオマエを不幸にするんだな」
嫌な予感がした。覚悟を決めたような、心の底から失望したような、されど彼らしい吹っ切れた顔をして、万次郎が武道の方へ向き直る。
ボサボサのピンクゴールドの髪、くたびれた鼠色のスウェット、目の下に薄ら残る不健康な隈。本来なら似ても似つかぬ目の前の窶れた少年と、無敵と称された東京卍會初代総長の姿が、ぴたりと重なる。
「さよならだ、タケミっち」
「……え?」
「オマエとの縁を切らせてもらう」
他人に戻ろう、と彼は続けた。
このまま二人が一緒にいても、万次郎だけ救われるばかりで、武道は摩耗していく一方だ。そして消費し、消費される一方的な関係は、遅かれ早かれいつか必ず破綻する。いよいよ武道に限界が訪れてしまえば、万次郎は再び自分を抑えきれなくなり、容易く狂ってしまうに違いない。それまでの武道の努力など、何もなかったことにして。
「敵対チームの頭同士で、名前だけ知ってる程度の赤の他人。きっと、それがお互いにとって一番良い距離感だ」
二人は近づき過ぎたのだ。空と海は決して交わることはない。翼のない海の生き物は、暗い水底から指を咥えて天を仰ぐことしか叶わない。また、その逆も然り。何人たりとも、延々と続く水平線を踏み越えることは不可能なのだ。
元を辿れば、万次郎と武道は出会わなかったはずの人間だった。その運命を武道の異能が捻じ曲げ、二人は出会った。出会ってしまった。だから歪んでしまったものを、在るべき形に戻す。それこそが今自分たちに求められている最適解なのだ。そう一息に言い切った万次郎は、武道が大嫌いなあの笑顔を浮かべていた。
「今までごめん。もうオレに縛られなくていいよ」
「……」
「どうか……幸せになってくれ」
頭が言語を理解することを拒んでいる。鉛玉でも飲み込んだかのように喉がつかえて、声が出なかった。
突如訪れた《無》。一人取り残された世界の片隅で、ただただ呆然と突っ立っているだけの虚無の時間が、武道の思考を奪う。何も考えられないし、何もできない。植物みたいにただそこに在るだけ。
(な、に……それ)
硬直した身体に、ゆっくりと血が通い始める。冷えきった指先がピクリと痙攣し、直後に込み上げてきたのは激情だった。
「ふざっけんなよ……!」
――バキッ!
細身の身体が吹っ飛び、夜露に濡れた地面へ倒れ込む。
何が幸せになってくれ、だ。自分一人が我慢すれば、すべて上手くいくと本気で信じているところが、また腹の立つ。大体我が儘の化身のようなこの男が、珍しく殊勝なことを言い出す時は、武道の最大級の地雷を踏み抜くフラグなのだと、昔から相場が決まっているのだ。案の定碌でもないことを考えやがって。
「ってぇな、何すんだよ!」
「それはこっちのセリフだわバカ野郎!」
尻餅をついた男の胸ぐらを掴み上げ、力加減など一切せず存分に揺さぶる。
「縁を切るだぁ? アンタ、オレがいなくてちゃんと生きていけるのかよ!」
「な、」
「オレがいなけりゃまともに息も出来ないくせに! すぐ狂っちまうほどオレのこと大好きなくせに!」
ずるずると鼻水を啜る。次々と溢れてくる涙が邪魔で、服の袖で乱雑に目を擦った。翌日赤くなるだの目が腫れるだの知ったものか。できることなら元栓を一生閉めきってやりたい。こちとら真剣なお話をしてるんだ。邪魔すんな。
「逃がさねぇぞ」
地を這うような低い声で言う。
「今更独りになんてしてやらない。何度アンタに殺されたって、アンタの傍に居座ってやっから」
死んでも化けて出てやる。生まれ変わったなら地の果てまで追いかけて、その手を掴んで離さない。オレの持っているもの全部捨ててでも、佐野万次郎の幸せを望み続ける。どんな悲惨な未来に辿り着いたって、絶対に。
「……うっせぇな」
ぷっ、と血の混じった唾を吐き捨て、万次郎が唸る。
「いくら欲しがっても、オマエはオレのモノになってくれなかったじゃねぇか! オレと同じ気持ちを返してくれないくせに! はなっから返すつもりもないくせに! 期待させるようなこと言うな!」
ドゴッ!
今度は逆に武道の身体の方が吹っ飛ぶ。ブチギレた状態の万次郎の一撃を受け、歯の一本か二本持っていかれたかと焦った。肩を強打した痛みから暫く動けないでいると、体勢を立て直した万次郎が武道の腹の上に跨がり、もう一発拳をお見舞いされる。
「ぐっ……!」
あんだけ弱っていたはずなのに、拳の威力はまったく衰えていない。それどころかさらに破壊力が増している。化け物か、この人は。ブチッと頭の奥で何かがキレる音がして、武道もまた応戦する。
「このやろ……!」
地面を転がり、上へ下へと互いの位置を入れ変えつつ、泥仕合を続けること数十分。二人の服は土塗れの返り血塗れ、青あざと切り傷だらけの顔面は腫れ上がり、誰かに見られれば通報待ったなしの散々な有様となった。
「アンタと同じ物差しで測るな!」
渾身の右ストレートが決まる。
「い、っ! クソが……ッ」
「オレのアンタへの想いは確かに、アンタが求める形とは違うかも知んねぇ!」
ならば、この彼への執着はどう説明すればいい?
見捨てられるものならとっくの昔に見捨てていた。こんなわからずやで我が儘で物騒なDV男。もし万次郎にやられたことを世間に公表したら、彼は問答無用でムショ送りの上、武道は真っ先に精神科病棟にぶち込まれるだろう。怖かったね、もう大丈夫だよ、全部忘れて幸せになろう。そんな無責任で薄っぺらい慰めの言葉を掛けられながら、彼を忘れるための治療を懇切丁寧に施される羽目になるのだ。
だがそんな選択はしなかった。
武道はどれだけ辛くても苦しくても万次郎の傍にいようとしたし、未来で自分が殺されることがあっても、彼を恐れたり離れようとしたりすることはなかった。どうやったって、彼を嫌いになれなかったからだ。
「でもどんな地獄に堕ちたってアンタと一緒にいたい。誰に責められようと、アンタの隣に立っていたい。アンタが幸せじゃなければ、オレの人生意味がないって思うんだ。思っちまうんだよ!」
「……っ」
「オレだって、アンタがいないと正気を保てないんだ! これが……これが愛じゃないなら何だっていうんだ!」
血を吐くような叫びだった。
最後に振り下ろされた武道の拳は、万次郎の顔面すれすれを通り過ぎ、ヒビ割れたコンクリートへと叩きつけられる。
「こちとらもうとっくに腹括ってんだ! テメェの方が日和ってんじゃねぇよ……!」
「ぁ、……」
「無理に決まってんだろ! オレたちは離れられない運命なの、そういうモンなの! 黙って受け入れて、今度はオレが幸せにします、くらいのこと言ってみせろやァ!」
組み敷いた万次郎の頬に、ぽたぽたと水滴が落ちる。止めようと思っても止まらない。情緒はぐちゃぐちゃで、最早自分がなんで泣いているのかもわからなかった。
「あーもう、何これ。止まんねっ」
「タケミっち」
唐突に腕を掴まれ、引き寄せられる。
眼前に迫る整った顔が切なげに歪められ、性急に唇を奪われた。そのままキツく抱き締められて、赤子をあやすように優しく背中を叩かれる。
「オマエさ……オレのこと好き過ぎだろ」
「……っ」
「いいの? オレ、オマエのこと幸せにしてやる自信ねぇよ?」
ず、と鼻を啜る音がする。武道ではない。瞳を潤ませた少年は不安げに視線を彷徨わせ、聞こえるか聞こえないかの小さな声で零した。いつも自信満々な男の、これほど腑抜けた姿を知っているのは、世界中探しても己くらいであろう。自惚れではなくそう思った。
「別に? アンタにそんな甲斐性期待してないし。無理でもオレがアンタを幸せにするんだから無問題っすね」
「……不幸になっちゃうかも」
「上等。オレの目が黒いうちは、反社落ちも自殺も心中もさせないっスよ」
へらへらと笑って答えれば、きゅ、と鼻を摘まれる。
「タケミっちのくせに生意気」
ぐりぐり。首筋に額を擦り付けられた。大きな犬が懐いているみたいな仕草だ。その凶暴性に見合わぬ可愛らしさに、無いはずの母性が擽られる。海風に煽られ、すっかりボサボサになってしまったピンクゴールドの髪を、思う存分撫で回す。やめろよ、なんて口先だけで拗ねてみせる少年の、そのぎこちなさといったら。
もっと、他人からの好意を素直に受け入れられるようになればいい。とはいえ時が経てば、彼も自然と周囲に甘えられるようになるのだろう。この世界には、武道以外にも彼を慕う兄妹や仲間たちが、沢山いるのだから。
「……あーあ、もう一生離してやんね。離れようとしたら殺すから」
「そっちこそ。また縁を切るなんてふざけたことヌかしたらブッ殺してやる……」
みんな生きている。生きて、笑って、泣いて、たまに馬鹿やって殴り合いの喧嘩になったりして、顔にでっかい青痣をこさえながら、肩を組んでまた笑う。何ら罪を背負うことなく、何者にも縛られることなく、自由にそれぞれの生を謳歌している世界。
一度でいいから、そんな未来が見てみたかった。
「タケミっち」
「……っ、うん」
「ありがとう」
波の音がする。
泣きたくなるほど穏やかなそれが、燃え盛る夕空へ鎮魂歌を捧げた。血塗れの煤けたコンクリートに横たわる、忌まわしき過去の残像が、白昼夢の中に消えてゆく。
「オレのこと、見捨てないでいてくれてありがとう」
「……、っ」
「オレを愛してくれて……っありがとう」
泣いている。あの人が。
どれだけ辛くても泣かなかったあの人が、自分と同じように涙を流している。
「マイキー、く、ん……」
「うん」
「マイキーくん、マイ……キーく……、っぅ゙ぅ、マイキーぐぅ゙ん゙!」
「ぶは、きったねぇ泣き顔!」
運命に散々弄ばれて四肢をもがれたマリオネットが、人間であろうと必死に足掻いているような、無様で滑稽な人生。クソ以下の掃き溜めみたいな生き地獄で、泥水を啜って生き延びてきた。
――こんなに幸せでいいのだろうか。
疑心暗鬼になりながら、恐る恐る手を伸ばす。臆病な掌はすぐに捕まって、一本一本丁寧に指先を絡め取られた。手を繋いでも、タイムリープすることはない。何らかの情景が流れ込んでくることも。
恐らくこれからもう二度と、武道が過去へ戻ることはないのだろう。
これで正真正銘本当に、花垣武道のリベンジは終わったのだ。
(そっか……終わったのか……)
もう全部、終わったのなら。欲しがってもいいのだろうか。
「マイキーくん」
「んー? なぁに、タケミっち」
ホットミルクにハニーシュガーをたっぷり垂らしたような甘ったるい声で、万次郎が返事をする。
「マイキー君を、オレにください」
「は、ぇ?」
「オレ……万次郎の全部が欲し、」
「……ちょっと黙って」
「ッん、ぅ」
無理矢理口を塞がれ、吐息ごと彼の口内に呑み込まれてしまう。
ちゃんと最後まで言いたかったのに。武道がどれだけ万次郎を求めているのか、知って欲しかったのに。当の本人は感情の一切を削ぎ落とした無表情で、ひたすら武道の唇を貪る行為に夢中になっている。
「ぁ、まんじろ……まっ、て、……んァ、」
「ふ、」
「なっ、んで……」
上顎を擽られ、柔らかい舌同士が絡まる。ぴちゃぴちゃといやらしい水音が身体の内側から鳴る度、官能を煽られた。それに硬いモノを太腿に擦り付けられているようだ。気持ちいい。理性はダメだと叫んでいるのに、武道もまた腰が揺れてしまう。気持ちいい、気持ちいい。ダメだ。足が震える。これ以上は、もう……。
「ぷ、は」
「は……、」
「も、だめ……」
酸素が足りない。
へなへなとその場で仰向けに寝転がり、ぽうっと男の顔を見上げる。己を好き勝手食い散らかした猛獣は、変わらず真顔のまま目をギラつかせていて、その眼差しの獰猛さに全身の毛が逆立った。
「万次郎……?」
「ねぇ、タケミっち」
遠く向こうでサイレンの音がする。東京の夜は今日も賑やかだ。
「オレの全部、もらってくれる?」
オマエをオレのモノにしてやりたい。
そんな目をしながら、その口は実に献身的な言葉を吐いている。怖い男。だがそれ以上に美しい獣だ。これは、オレの、オレだけの。
「うん。全部ちょうだい」
「ふふ」
それまでの無表情が一転、だらしなく緩みきった顔で、少年が嬉々としてキスの雨を降らす。時折仕返ししてやりながら、大人しく戯れを享受していれば、また深い口づけを贈られそうになり慌てて避けた。
「む……なんで避けンの」
「いや、その……ここ外だし」
「いいじゃん人いないんだし。青姦ってやつ一回ヤッてみたかったんだよね」
「は⁉ ちょ、この、ばか!」
頬を叩く。ぺちん、と間の抜けた音が鳴った。
「……ぶはっ」
どちらからともなく噴き出す。よくわからないけど滅茶苦茶楽しい。さっきまで万次郎に対して死ぬほど腹が立っていたし、ムカついてしょうがなかったのだけれど、そんなことも忘れてひたすら笑った。これが青春ってやつか。
大口を開けて笑ったものだから、殴られすぎて熱をもった頬がピリッと痛むも、構わず笑い転げる。
陽が、沈んだ。
天を映した漣の上を、流星が駆け抜ける。
「はは、なんだよもう。てかタケミっち、オマエばかすか殴り過ぎな! 顔いってぇ〰〰!」
「オレだって超いてぇよ! マジ意味わかんねー……ははっ!」
葬式みたいに静かな場末の倉庫街に、二人分の馬鹿デカい笑い声が響き渡った。
月の綺麗な秋の宵。
長い旅路の最後を飾るに相応しい、美しい夜であった。