*RE

TOKYO卍REVENGERS
 最終話 十一代目黒龍

 節季師走には猫の手も借りたい、とはよく言ったもので。十二月に突入した途端、武道も例外なくその多忙さに目を回すこととなった。
 黒龍が営んでいる飲食店を始めとした各店舗の運営と、所有している収益不動産の経営管理。さらに最近本格的に手を出し始めたFXの収支報告と予算会議に追われ、その他にも山のように雑務が舞い込んでくる。
 一足先に力尽きた九井の屍を超え、黒い衝動(仮)が爆発寸前の大寿を宥め、時に乾の天然ぶりに振り回されたり癒やされたりしつつ、何とか終わりが見えてきた今日この頃。測ったかのようなタイミングで横浜の王様から召喚命令を受けた一同は、這う這うの体で指定の場所へと愛機を走らせたのであった。
「このクソ忙しい時に……」
 蒼白の顔色で九井がぼやく。
「マジふざけんな殺す気か」
 いつになく語気を荒らげてアキが吐き捨てた。
「ここぞとばかりに血ハロの件持ち出しやがって。あの陰険サド野郎」
「殺られる前に殺ってやる」
「マジで殺されるから悪口大会はそこまでにして……」
 怒濤の勢いで噴き出してくるイザナへの不満に、挙動不審になりながら武道が諫める。
 イザナから来るよう指示されたのは、横浜有数の某高級中華料理店だ。九井のツテで何度か足を運んだことのあるその店は、上層階に完全個室が完備されており、人に聞かれたくない話をするのに最適な場所だった。
(はぁ……嫌なこと思い出した)
 そういえば、あの時使ったのも今回のような中華料理店だったか。不意に、トラウマ級の未来の映像が脳裏を掠め、陰鬱な気分になる。巨悪と化した東京卍會の最高幹部となり、まんまと稀咲に利用され、最愛の恋人を手にかけた愚かな自分。もう二度と来ることのない未来だと理解してはいても、やはり忘れることはできない。
「相変わらずボスは中華料理屋が嫌いだな」
 目敏く武道の異変を感じ取った乾が、淡々と指摘した。
「あー……まぁ、色々とね」
「気分が悪くなったらすぐに言ってくれ。俺が連れ出してやる」
「ありがとう。そうなった時はよろしく……」
「おい、そろそろ着くぞ。気ぃ引き締めろ」
「うん」
 横文字の長ったらしい名前のホテルに併設された高級中華料理店《飛龍閣ひりゅうかく》。近隣には名だたる百貨店たちが顔を並べており、後ろを振り向けば出航を控えた観光用クルーザーが停泊している。その絢爛たる雰囲気に圧倒されながらも、ホテルの駐輪場へ愛機を預けに向かえば、天竺のチームステッカーを貼り付けたバイクが何機か停められていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました、花垣様」
 店に入るや否や黒服の従業員に出迎えられ、店の奥へ通される。
 ここまでのVIP対応をされるとは、本当に天竺はカタギなのだろうか。それとやけに場慣れしている己の部下たちが恐ろしくて堪らない。武道の記憶が正しければ、ここまで仰々しい対応をされる店なんて、まだ数えるほどしか行ったことがないはずなのだが。とはいえわざわざ藪から蛇を出すつもりもないので、俄に芽生えた不穏の種には見て見ぬフリを決め込んだ。
(沈黙は金。言わぬが花。知らぬが仏……)
「こちらのお部屋でございます」
 晩餐は既に始まっていた。
 回転式のテーブルの上を埋め尽くす料理の山。ツバメの巣のスープ、フカヒレの姿煮、干し鮑のステーキ……中でもテーブルの真ん中に陣取っている北京ダックが、圧倒的な存在感を放っている。
 部屋に一歩入った瞬間から食欲を刺激する香りにあてられ、単純な腹の虫がぎゅるっと鳴いた。さーせん、と形だけの謝罪を口にして、これまた気持ちの入っていないお辞儀を披露する。恥じらいの心はとうに捨てていた。それよりも早く飯を食いたい。中身は三十路と言えど身体は十代。魚より肉を欲するお年頃。意地汚いなどと言う勿れ。体裁や建前なんかさて置いて、武道はこんがり焼き上げられた北京ダックを、一刻も早く確保したくて堪らなかった。
「遅ぇ。とっとと座れ」
 開口一番そう言い放ったのは、この場の絶対的支配者たる横浜の王である。ムッと顔を顰める乾たちを視線で制し、武道は空いていた彼の左隣に腰を下ろした。そして最優先事項である北京ダックを店員に切り分けてもらい、いそいそとカトラリーへ手を伸ばす。
「下僕テメェ、このオレに挨拶も無しかオラ。偉くなったもんだなァ?」
「いてっ」
 が、フォークを掴もうとした右手は、敢えなく傍若無人な隣人によって叩き落とされてしまった。
「揃ったな。なら本題に入るぞ」
「え、オレの北京ダック……あいてっ」
 イザナからの突然の呼び出しは多々あれど、ここまで堅苦しいものは初めてだった。まして天竺の幹部が勢揃いしている場に呼び出されたことなど一度もない。
 これだけのメンバーを集めておいて、一体何の話だろうか。怪訝な顔を隠しもしない黒龍幹部と、そんな黒龍側の反応を見て、完全に面白がっている様子の天竺幹部。互いの空気に多少の温度差はあれど、イザナは粛々とこの奇妙な食事会の開宴を告げた。
「今回お前らを呼んだのは他でもない、天竺・黒龍間での同盟について話をするためだ」
 ぴたり、と。一斉に黒龍幹部の動きが止まった。
 同盟だと? あれだけ対等な同盟関係を拒否し、黒龍の傘下入りを望んでいたイザナが、どういう風の吹き回しだ。
「叶えたい夢がある。そのためにはオマエらの資金力が必要だ」
「夢……?」
「オレは国を作りたい。居場所のない奴らに居場所を与えてやれるような、そんな国を」
 将来的に孤児院を作りたいのだと、イザナは語った。そのためにはある程度纏まった金が必要だとも。
 血のハロウィンの一件で港区と品川区を手にした天竺は、毎月献上される黒龍のみかじめ料の多さに驚いたらしい。また、これほどまでの資金力を持つ黒龍ならば、傘下入りに拘るよりも一刻も早く同盟関係を結び、何らかの取り引きを持ちかける方向へ舵を切った方が、利が大きいと判断したそうだ。
「なるほどな。あんたらの考えはわかった。そういうことなら早速ビジネスの話といこうじゃねぇか」
 本格的な交渉モードに入った九井が、さっと居住まいを正す。金作りの才能と交渉力の高さにおいて、彼の右に出る者はいない。九井に任せておけば黒龍の不利になることはないだろう。
「花垣、エビチリ食うか?」
「食べる」
 長い話になりそうだ。
 手持ち無沙汰となった乾が、甲斐甲斐しく武道の取り皿に料理を乗せてくる。九井以外のメンバーたちも、武道が食事を再開したのを見て箸を動かし始めた。
 一応総長という立場ではあるものの、基本的には交渉ごとに武道が干渉することはない。素人の自分があれこれ口を挟んだところで、却って邪魔になるだけであるし、何より九井の実力に全幅の信頼を置いているが故に、すべての決定権を彼に預けているのだ。よって今武道ができることは、目の前の料理たちを精一杯味わうことだけである。
 あ、このエビチリめちゃくちゃ美味い。
「正直俺は社会福祉法人絡みの知識は皆無だ。そのあたりおたくらと詳しくすり合わせがしたい。ウチの税理士にも同席してもらうから、金額とかの細けぇ内容はまた後日改めてってことで」
「おう」
「とはいえお遊びじゃねぇんだ。ウチにもそれなりの見返りがなけりゃ話にならねぇ」
 ――さて、アンタらは俺たちに何を差し出せる?
 悪い顔をして九井が嗤う。楽しそうでなによりだな、なんてのんびり考えながら、今度は小籠包を囓った。もっちもちの皮の中から熱々の肉汁が溢れ出し、コクのあるさっぱりとしたスープが、油っぽさを程よく打ち消してくれる。柚子の皮をすりおろした特製の芥子ペーストをつければ、爽快感が増してやみつきになった。これは中毒になりそうだ。
「花垣、小籠包も良いがエビ餃子も美味いぞ」
「わ、すげぇうまそう! 食べる食べる」
「まずは労働力だ。オレは施設関係にはツテがある。金銭的な事情で進学せず職を探している奴らの中から、とりわけ優秀で使える奴を紹介する」
 能天気な武道たちの会話をぶった斬り、イザナが答える。雄弁な紫水晶の瞳は、生き生きと輝いていた。
「次に港区と品川区のみかじめ料を一割減らす。どうだ?」
「そういや灰谷兄弟が齧ってるアパレルブランド、海外にツテを持つ繊維商社を探してるらしいな」
「……あ?」
 わざとらしいほどの話題転換だった。突然話を振られた灰谷兄弟が、訝しげに眉根を顰める。イザナはというと、九井の狙いにいち早く気がついたのだろう。不愉快げに舌打ちした後、苛立たしげに目で話の先を促した。
「ウチが出資してる繊維商社の中で、条件に合いそうなところがある。よければ紹介してやろうか?」
「……何が目的だ」
「そう警戒すんなって。純粋なビジネスの話だよ」
 バチバチと新たな火花が散る傍らで、武道は乾が勧めてきた目玉焼き付きの伊勢海老炒飯を頬張る。パラパラの米一粒一粒に伊勢海老の風味が染み込んでおり、文句なしに美味しかった。ちなみに目玉焼きは贅沢にも名古屋コーチンの卵を使っているらしく、半熟トロトロの黄身を割って米と絡めると、まろやかな卵の甘みが舌の上で溶けていく。
 これぞ最強の味変。もうやたらとべっちゃりした母の炒飯には戻れない。
「お、海老春巻きもある」
 それにしても、先程から乾が勧めてくるもの全部が海老料理なのは何故なのか。
 あ、今度は海老焼売取ってる。
「――てわけで、俺らの提示する条件は以上だ」
 武道が乾の偏食ぶりに圧倒されている間に、九井たちの話が終わったようだ。天竺側の面々は揃って苦虫を噛み潰したような顔をしており、これは相当九井に好き勝手やられたのだなと当たりをつける。
 どうだ、うちの経理担当はすげぇだろ?
 誇らしげに隣のイザナへ視線を送れば、全力のデコピンをぶちかまされ悶絶した。
「では、十一代目黒龍・横浜天竺による同盟が成立したことを、ここに宣言する」
 最後に鶴蝶が締め括り、イザナが立ち上がる。
 武道もまた席を立ち、二人は向かい合った。そして、ゆっくりと噛み締めるように総長同士握手を交わす。
 ついに、この時が来た。イザナのチームと同盟を結ぶ日が。これを機に東京・神奈川のチーム間で不可侵協定が結ばれることになる。今までに何度か県境付近で諍いが起きていたが、今後はそういった衝突も少なくなるだろう。それに資金援助をするにあたって、黒龍側に有利な条件をいくつか引き出せたことも大きい。
「これもしかして、ついに関東制覇じゃね?」
 気の抜けない食事会を終え、膨れた腹を擦りながらゆく駐輪場までの帰り道。弾んだ声で誰かが言った。皆その言葉にしみじみと頷き、感慨深そうに相槌を打つ。
「まだだよ」
 まだだ。関東制覇までにあと一チーム、足りない。
「ボス? まだ……って、まさか」
 都内のチームはその殆どを傘下に収めてきた。県外のチームも、関東圏で活動するチームは一通り同盟を結んでいる。
 しかしそんな中で唯一、黒龍に膝を屈しないチームがあった。
 ――東京卍會。
 佐野万次郎・通称無敵のマイキー率いる新進気鋭の暴走族。隊員数は黒龍に比べると少ないが、こちらが隙を見せようものなら躊躇なく喉笛に噛みつかんとしてくる、統率の取れた油断ならないチームだ。
「……東卍喰うぞ」
「っ!」
「おい大将、それは――」
 ずっと憧れてきた。あの人の背中を追いかけ続けた人生だった。守りたい、幸せにしたい。そんな真綿で包み込むような庇護欲にまじって、そのでっかい背中を追い越したい、喰らいたいという獰猛な衝動を抱くようになったのはいつからか。
 友人や恋人なんて関係なく一人の男として、あの佐野万次郎に勝ちたいと思った。
「オレ、マイキー君とタイマン張る」
 だって、オレは不良なのだから。
 拳一つで天下を掴む。そんな夢に焦がれている《不良のヒーロー》なのだから。


 *


 懐かしい場所だ。落書きだらけのトタンを前に過去へ思い馳せる。
 愛美愛主との抗争を止めようとして襲撃されたり、聖夜決戦の後、未来へ帰る前に集合写真を撮ってみたり。そんな在りし日の記憶は、今でも鮮やかに色づいたまま、この胸の奥に刻まれている。
「ボス、ここが……?」
「うん」
 東京卍會のアジトだよ。
 渋谷区某所にある廃工場。昔は廃車の解体所であったその場所は、今では東卍の創設メンバーたち専用のガレージとして使われている。前の世界では何度か出入りしていたものだが、今世の武道は東卍隊員ではないため、訪れたのは今日が初めてであった。
(懐かしい……本当に)
「それにしてもボッロいアジトだな」
 興味深そうに辺りを見回し、九井が言う。
「まぁ、元廃工場なんで……」
 東卍のアジトができるまでの経緯は、昔万次郎から教えてもらった。
 それは、この場所を見つけた当時のこと。何ら手入れも施されずに、数年間放置された廃工場の状態とは酷いもので。雑草は室内にまで生い茂り、腐食したトタンの屋根や壁には大穴が空いていたという。そんな雨風も凌げぬ荒れ果てた廃墟を、しかし彼らは地道に修繕していき、時には愛機の整備道具を持ち寄ったりして、少しずつ過ごしやすいアジトにしていった。
 謂わばこのアジトは、彼らが今まで培ってきた絆そのものなのだ。
「でも、良いなって思います。こういうの」
 ボロいとか汚いとか、そんなのは関係なく。
 ただ大切で何物にも代え難い、彼らだけの聖域。
「花垣……」
 色んな感情が込み上げてきて目の前の建物を眺めていると、そっと手を掴まれる。
「イヌピー君?」
「……お前は東卍に――」
「こんなとこまで何の用だクソビッチ」
 途中まで続いた乾の言葉は、突然の乱入者によって遮られた。
 声のした方へ振り向けば、顔の半分ほどを黒マスクで覆い隠した男が、こちらを睨みつけている。男以外に東卍のメンバーは見当たらない。自らの王に絶対従順な彼にしては珍しく、独断での行動だったのだろう。その表情には何処となく気まずさが見て取れた。
「春千夜君……」
「あ゙? ボスになんて口利いてやがるテメェ。ぶっ殺すぞ」
 今にも飛び出していきそうな乾を慌てて止める。
「イヌピー君、この人はオレのダチっす。だから大丈夫」
「誰がテメェなんかと。虫唾が走ること言ってんじゃねぇぞクソビッチ。緩いのは股だけにしとけ」
「……殺ス」
「イヌピー君ストップ! これが春千夜君のデフォだから! 気にしたら負け! だから鉄パイプしまってくださいー!」
 せっかく春千夜のフォローをしたのに、あっさり無駄にしてくれる。乾の血の上りやすさも相当なものだが、春千夜の口の悪さも大概だった。
 武道を前にした春千夜は、口の悪さが普段の十割増になる。武道ならこの男はそういうものだと知っているので、罵倒されたところで一々怒ったり不快になったりはしないのだが、今は最悪なことに過保護三銃士がついていた。これ以上春千夜に口を開かせて、彼らを刺激するのは非常にまずい。目的を達成する前に場外乱闘なんて真っ平御免だ。
「春千夜君、マイキー君はいる?」
 今更和気藹々と世間話をするような仲でもないので、早々に本題へ斬り込む。すると、嫌そうに顔を顰めた春千夜が、舌打ちと共に一蹴した。
「は? いたとしてもテメェなんかと会わせるワケねぇだろうが」
「頼むよ」
 若草色の瞳が、見定めるようにスッと細められる。次いで武道の上から下まで眺めてから、後ろに控える乾、九井、大寿の順に視線を滑らせていった。
 四人が今纏っているのは、黒龍の正装たる特攻服だ。つまり此処には、花垣武道ではなく黒龍十一代目総長として足を運んだのだという意思表示である。また、強引に乗り込むのではなく、きちんと部下へ話を通して、東卍総長への面会を希望している。この状況で、幹部といえど一介の隊員に過ぎない春千夜が、関東最大規模のチームを率いる総長の意向を無碍にすることはできないはずだ。
「……チッ」
 ただし、相手が佐野万次郎にしか従わない、あの三途春千夜でなければの話だが。
「えっと、……」
 駄目だったか。沈黙が長引くにつれ、じわりと緊張から手汗が滲む。
 もし春千夜が武道たちを受け入れてくれないのならば、強行突破も辞さない構えであった。元より黒龍は東卍に仕掛けにきているのだ。体裁を守るため一応上品に振る舞ってはいるが、一枚皮を脱ぎ去れば牙を剥き出しにし、暴れ出したくてうずうずしている獰猛な龍が隠れているのである。
 ここまできて、引くという選択肢はなかった。
「……早く来い、グズ」
「っ!」
 徐に男が背を向けて、冷たく言い放つ。驚きから唖然と彼の背中を目で追っていると、さっさとしろと急かされた。
「無駄にデカい肩書きしやがって。テメェが黒龍の総長じゃなきゃ速攻ヤキ入れて、ゴミ捨て場に放り出してやんのによ」
「ははは……総長やっててよかったー」
「へらへらすんなビッチ」
 建物横に停められている数台のバイクの横を通り過ぎ、入り口へ向かう。
 記憶の中にあるよりも落書きの数が増えていることに気づき、つい笑みが溢れた。あの自己主張の激しい虎のマークは、きっと一虎が描いたものだろう。あちらは春千夜のものか。王命遵守だなんて彼らしい。
 前の世界ではありえなかった光景だ。何度も挫折して、思い通りにいかないこともあったけれど、ようやく掴み取ったこの未来をずっと守っていきたいと思う。
「おい、花垣に見蕩れてんじゃねぇ。カマ野郎が」
 このまま順調に万次郎の下へ辿り着けそうだと、ホッと胸を撫で下ろした矢先のことだった。それまで大人しくしていた乾が、唐突に毒を吐く。
「誰がカマだこの野郎!」
「テメェのことだよクソ睫毛。さっきからネチネチと女みてぇな絡み方しやがって。タマついてんのか?」
「あ゙⁉」
 案の定安い挑発に乗りに乗った春千夜が、掴みかからん勢いで食いついた。やばい。我慢が嫌いだと豪語しているこの男。このまま抑えておけるとは思っていなかったが、もう少しだけ耐えて欲しかった。
「イヌピー君、春千夜君、待っ……」
「テメェこそ女みてぇなツラしてキャンキャンうっせぇんだよ犬畜生がよォ。雌犬は雌犬らしく尻尾振って媚びとけや!」
「雌犬だァ? 俺は雄だ! いや、花垣が言うなら頑張るが……やっぱり無理だ」
「知らっっっっねぇよ! 何ほざいてんだ色ボケ駄犬が! 張ッ倒すぞ⁉」
「イヌピー君! これ以上オイタするなら帰らせますよ!」
 こんなところで天然ぶりを発揮しないでくれ。余計なことまで口を滑らせそうだったので、慌てて牽制する。春千夜とて友人の性事情など微塵も興味が無いであろうに、なまじ察しが良過ぎるせいで、明確に言葉の真意を理解してしまうあたり同情を禁じ得ない。
「オイ! 想像すんな! 花垣が減る!」
 一体ナニを想像したと思ったんだイヌピー君よ。春千夜君の顔が真っ赤なのは照れているのではなく、怒りの沸点が焼き切れそうになっているからである。この期に及んで不名誉なこじつけはやめて差し上げろ。
「っし、てねぇわ! うるせぇ! ふざけんな! クソ! クソ! なんで俺がこんな……クソッ、気色悪ぃ!」
「こらッ! 春千夜君をイジめんな!」
「もうやだお前ら。マジでさっさと帰れ」
 ついに春千夜が扉へ手を掛けた。ギシリ、と重々しい開閉音が響き、道が拓かれる。
 天井から漏れる真冬の淡い陽ざし、踏み固められた土に幾重も刻まれたタイヤ跡に、でかでかと壁に描かれたチームの名前。懐かしい。あの頃に戻ったのかと一瞬錯覚するほど、そこは何一つ変わっていなかった。
「あー? 遅ぇぞ三途」
「春千夜ォ、しょんべんに何時間掛けてンだよ」
(ドラケン君……場地君……)
 龍宮寺と場地が、帰ってきた春千夜を揶揄う。彼らの様子を見る限り、外で待つ武道たちの存在は気づかれなかったらしい。とりあえず領土侵犯を咎められ、有無を言わさず半殺しにされるのではないかという心配は杞憂であったようで、人知れず安堵する。
(千冬……三ツ谷君に八戒、パーちん君とペーやん君もいる。それにスマイリー君とアングリー君も)
 東卍の幹部メンバーたちは、積み上げられた端材の上に腰を下ろし、何事かを話し合っている最中であった。さっと視線を巡らせ確認してみると、運が良いのか悪いのか、なんと幹部全員が勢揃いしている。トラブルでもあったのか。彼らの間に流れるものものしい空気に、思わずゴクリと息を鳴らした。
「兄貴⁉」
「え、大寿?」
 一番に反応したのは八戒だった。ほぼ同時に大寿の存在に気づいた三ツ谷が、軽く目を瞠り立ち上がる。
「なんで大寿が……」
「タケミっち!」
「う、わ!」
 胸元に凄まじい衝撃を受けた直後、嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いがふわりと香った。視界いっぱいに広がるピンクゴールドに、飛び掛かってきた者の正体に思い至る。
「あ、マイキー君こんちは」
「なになに、何でタケミっちがここにいんの? ついに東卍入る気になった⁉」
 目をキラキラさせて万次郎が詰め寄ってきた。二人の関係が進展してからというもの、既に何度となく繰り返された熱烈な勧誘。かの黒龍が乗り込んできたというのに、あくまでもマイペースを貫く彼に苦笑しつつ、武道は首を横に振る。
「すいません、オレは黒龍に骨を埋めるって決めてるんで……」
「えー」
「いや何普通に挨拶してんだよ、マイキー。敵チームが乗り込んで来てンだぞ」
 冷静な副総長に首根っこを掴まれ、万次郎は武道から引き剥がされていった。同様に武道もまた大寿に抱え上げられて、彼らから物理的に距離を取らされる。
「大将、テメェ目的を忘れたか?」
「そうでした……」
 しまった。万次郎といるとつい彼のペースに流されてしまう。無意識に彼を優先しようとしてしまうのは、長年染み付いた癖のようなものだった。今回ばかりは目的が目的なので、しっかりしなくてはならないというのに。呆れきった部下たちの視線が痛い。
「三途もあっさり通してんじゃねぇよ」
「っス。クソガキが泣き喚いてウザ……うるさかったんでしかたなく」
「いやナチュラルに話盛るのやめてください」
「で?」
 ギロリ、と敵意の眼差しに射抜かれる。
「天下の黒龍様がウチにわざわざ何の用?」
 流石は万次郎の右腕。冷静沈着且つ武に秀でた東京卍會副総長だ。ガンの付け方一つとっても迫力が違う。
 先程までの緩んだ空気が一変し、途端にピリついた緊張感が張り詰める。東卍の面々は武道たちを取り囲むようにして立ち塞がり、あからさまに威嚇してきた。少しでも対応を誤れば即座に乱闘となるであろう、一触即発な状況下。それでも凜と背筋を伸ばし、堂々と武道は布告する。
「昨日、黒龍は天竺と同盟を結ぶことになりました」
「な、」
「っ!」
 東卍側に動揺が走る。関東エリアの殆どを手中に収めた黒龍と、神奈川を統べる天竺が同盟を結んだ。それは実質黒龍が関東統一に王手をかけたことと同義であった。
「そして我らがボスは完全なる関東制覇をお望みだ」
 九井が挑発的に舌を出す。
「黒龍の傘下に入れ、東京卍會」
 人というのは怒りが過ぎるとフリーズしてしまうらしい。ごっそりと表情を削ぎ落とした男たちは、暫くその場で固まった後、一斉に怒りを爆発させた。
「ざけんじゃねぇ!」
「はいそうですかって、なるワケねぇだろが!」
「おらぁバカだけどよ! テメェらが喧嘩売りに来たってことぐらいはわかンぞ!」
「パーちんのミジンコ並みの脳みそでも、テメェらの言ってることがクソだってことは理解できてんぞゴラァ!」
「表出ろや! 倍にして買ってやらぁ!」
 そりゃそうなりますよね。うんうん。赤べこよろしく頭を振る。これが逆の立場だったら武道とて激怒しただろう。特にあの舌ペロはマジで腹が立つ。うちの経理担当は本当に人を煽るのが上手い。
「てわけでさ、部下の人たちも納得してないみたいだし……」
 いつになく大人しくしている男を真っ直ぐ見据えて、武道は言った。
「タイマン張ってくれよ、佐野万次郎」
 しん。
 騒がしかった建物内が、水を打ったように静まり返る。
「……本気?」
 小さな声だった。
 だがまるで耳元で囁かれたかの如くはっきりと、彼の言葉は届いた。
「勿論。オレが勝ったら、東卍には黒龍の傘下に入ってもらう」
 吊り上がった眼が、ゆるりと眇められる。優美な獣のような仕草であった。例えるなら格下の敵を前に、どう甚振ってやるか考えている捕食者のそれ。己が勝つのだと信じて疑わない傲慢さが、言葉の端や視線の動き一つ一つに表れている。
「もしアンタが勝ったら、」
「なら、オレが勝ったらそこのクソ犬捨てて来てよ」
 すらりとした白い指先が、不躾に武道の隣を指し示す。
「タケミっちの浮気者。オレだけを可愛がってくれるんだと思ってたのに、そんな野良犬まで拾ってくるなんて。オレ、まだ納得いってないんだけど?」
「あ゙?」
 あんまりな言い種に乾が青筋を立てた。
 一週間ほど前のことだ。三人の時間を設けて、万次郎に乾との関係について話した。これから三人でお付き合いをしていきたいと思っていることも。
 万次郎はかなり独占欲が強い。話を聞いた直後は、それはもう烈火の如く怒り狂って手がつけられなかった。だが、武道に宥められ頭が冷静になっていくにつれ、自身の危うさを改めて自覚したのだろう。さらに未来で実際に起きた出来事を交えつつ、万次郎と武道が二人きりで関係を築いた場合のリスクを語れば、彼は静かに頷いた。
『やっぱ、オマエら二人だと碌なことにならねぇな』
 武道が万次郎に二、三発殴られ、それにキレた乾と万次郎がド修羅場を繰り広げた時の言である。
『俺は花垣が大事にしてるモンも全部大事にするって決めてんだ。花垣がお前のことを大事に思ってるなら、俺にとってもお前は大事な奴だ』
 男としての器のデカさを見せつけられた心地であった。また、それは彼も同じであったのだろう。最終的にその言葉がトドメとなり、万次郎は三人での交際に理解を示してくれた――はずだった。
「なんで……?」
「理解はした。コイツがどんだけタケミっちを支えてきたか、タケミっちにとってコイツがどれだけ大事なのか、オレら二人だけで関係を築くのがどれだけ難しいか……全部ちゃんとわかってる。でも納得はしてない」
 頭では理解できても心が伴わないことはある。
 万次郎はずっと、割り切れない心情を抱えて、一人思い悩んでいたのか。
「オレはやっぱりタケミっちを独り占めしたいよ。オレにはオマエだけでいいし、オマエにもオレだけでいい」
「な、」
「オレの我が儘でタケミっちが傷ついても、怒っても、……嫌われたって、お互いの唯一でありたいと思ってる。なぁ、オマエならこの気持ち、わかるだろ?」
 それまで頑なに乾と目を合わせなかった万次郎が、ついに視線を絡ませた。憎悪を煮え滾らせた暗い瞳に、されど乾は怯まない。
「あわよくば花垣を攫っちまいてぇとは思ってる。花垣が嫌がるからやらねぇけど」
「……え、重っ」
 ボソッと九井が呟く。緊張感が一気に無くなった。あとサラッとカミングアウトされたせいで、東卍のメンバーたちから凄い目で見られている。いや、確かにやってることは二股かけている最低野郎なのだが、これには深い事情がありまして……。
「あのマイキー相手に二股? しかも全員男の三角関係?」
「え、やばッ」
「そりゃ三途にクソビッチって言われるわ」
「アイツも偶には的を射た渾名付けンだな」
「今まで悪口のレパートリー少なって思ってて悪かったな」
「テメェら斬り殺されてぇの?」
 無理過ぎる。昔の仲間たちにクズ男のレッテル貼られてドン引かれるとか、こんな仕打ちある? 春千夜まで被弾しているし、最早カオスだ。千冬は昼ドラじゃんとか言って目をキラキラさせるのやめろ。
「ね、だからそのクソ犬はゴミ捨て場に戻してきて?」
 イヌピー君のお家はゴミ捨て場じゃありません、とても立派な一軒家です。反論したいのは山々だけれど、このままでは延々とツッコみ続ける羽目になりそうなので諦める。
「……それは無理っス」
「なんで?」
「今のオレは、花垣武道じゃなく黒龍十一代目総長として此処にいるんで。そういう個人的なやつはその……また後日話し合いって事で」
「……ふぅん。あっそ」
「それで? そちらさんが勝ったらウチが東卍の傘下に入る。それでいいか?」
 見兼ねた大寿が軌道修正を図る。いつも尻拭いさせてしまって申し訳ない。
「ウチの大将が御所望なんだ。タイマン受けてくれるよな? 東京卍會初代総長さんよ」
「うーん?」
 どうしよっかなー。
 不満げに頬を膨らませた万次郎が、意趣返しにはぐらかして焦らしてみせる。黒龍など敵じゃないと思っているからこそできる、舐め腐った態度だ。あからさまな挑発に黒龍の面々が殺気立つ。これまで武道の意を汲み静観していた面々も、チームを軽んじられたとなれば、いつ我慢の限界に達してもおかしくない。そうなればタイマンどころではなくなってしまう。
「万次郎……」
「いいぜ。タイマン、付き合ってやるよ」
 わ、と東卍側が湧いた。あちこちから野次が飛び、玉座に座る男の口元が弧を描く。凄艶な笑みだった。鳥肌が止まらなくなるほど歪で、貪欲な笑み。
「おい、マイキー!」
「オレが負けると思う?」
「そういう問題じゃなくてだな……!」
 龍宮寺の制止を振り払い、万次郎が前に出る。
 そのまま肩から羽織った特服を脱ぎ、軽く準備運動を始めた。
「ほら、来いよ」
「……っ!」
 先制は武道だった。体勢を低くし、足を払う隙を窺う。しかし相手は無敵と称されるほどの、才能の塊のような男だ。ただ突っ立ってるだけなのに、なかなか隙が見つからない。
「そんなトロいパンチ当たんねぇよ?」
「この……っ」
 拳を振りかぶれば避けられ、鳩尾に一発食らってしまう。
 一瞬息が詰まって噎せ込むも、すぐに体勢を立て直して蹴りに備えた。武道の意識を的確に刈り取る目的で繰り出された、核弾頭のような蹴り。丁寧に受け身を取ればテンポが遅れ、次の攻撃に防御が間に合わなくなる。
(やっぱつえぇな、この人……っ!)
 完全にこの男の攻撃を防ぐのは無理だ。相討ち覚悟で間合いを詰める。胸ぐらを掴み、頬を殴られながら拳を振り抜けば、万次郎のこめかみに強烈な一撃が入った。
「いっツ……!」
「まだまだぁ!」
 武道が一発入れるまでに、万次郎から三発もらう。それも並の不良ならば、一発だけでKOされてしまう程の威力のものを。そんなことを繰り返していれば、必然身体はボロボロになっていくわけで。
「……っ、もう諦めなよ、タケミっち」
「うらぁ!」
「これ以上やったら死んじまうって……」
「うるっせぇ!」
 諦めるだぁ? ふざけんな。
 腫れ上がった瞼に、止まらない鼻血、息をする度にヒリつく口端の傷痕。口に広がる血の味が不快で、プッと唾を吐き出す。フラフラの両足を叱咤し、気力だけで食らいついている満身創痍な状態。それでも諦めるなんて選択肢はない。オレは黒龍の総長だ。初代の意志を受け継いだ十一代目黒龍なのだ。
 死んでも、勝ってやる。
「お、おい」
「フラフラじゃねぇか」
「止めた方がいいんじゃね」
「ボス……!」
「ココ、駄目だ。花垣の好きにやらせてやれ」
「だが……っ」
 そんな凄惨たる有様に、それまでお祭り騒ぎで観戦していたギャラリーたちの空気も、流石に心配の色が濃くなっていく。だが、誰もこの戦いを止めようとはしない。否、できなかった。
 何度だって立ち上がり続ける武道の背中が、『止めてくれるな』と言っていたから。
「オレたちが、天下を掴むんだ」
「っ!」
「諦めて堪るかぁぁあああ!」
 刹那、万次郎の動きが止まった。
 深い闇色の瞳が大きく見開かれ、振り上げられた武道の右手を一心に見つめている。しかし、明らかに様子がおかしくなった万次郎に、対峙している武道はおろかギャラリーたちでさえ、誰一人として気づいた者はいなかった。
「オラァ!」
 ゴッ。
 鈍い殴打音が響き、硬直した身体が吹っ飛ぶ。殴った当の本人さえ戸惑うほどの、呆気ない終わりだった。
「え?」
 仰向けに倒れ込んだ万次郎が立ち上がる気配はない。
「万次郎?」
「……」
 不安になって口元へ掌を近づけると、幸いなことに息はしている。ということはあれか、気絶しているのか。まさか武道のあのパンチで……?
「マイキーが負けた?」
「うそだろ」
「まじ、か……!」
「え? え?」
 思わずオロオロと狼狽えてしまう。確かに万次郎に勝つつもりで戦っていたし、どれだけ絶望的な実力差だって諦めるつもりは毛頭なかった。だがこんなあっさり倒せるだなんて夢にも思っていなかった。
「総長が勝ったぞ!」
「関東制覇だ……っ!」
 ある者は信じられないと愕然とし、またある者は歓喜に震える。
「花垣!」
 感極まり抱きついてきた部下たちに揉みくちゃにされながら、武道は擦り傷だらけの拳を、高々と天に突き上げた。
「よっしゃああああ!」
  
 二〇〇五年十二月二十五日
 とある何処かの世界線にて、
 奇しくも黒龍と東卍がぶつかりあったその日。
 堕ちた龍とまで言われた十一代目黒龍はついに、
 関東統一の偉業を成し遂げた。
 十一代目黒龍、横浜天竺、東京卍會
 この三つのチームが主軸となった新生組織は、
 後に日本中の不良から熱狂的に信奉されるチームとなり、
 東の絶対支配者として後世へ語り継がれることとなる。
 三天連合 総大将・花垣武道
 口に出すことすら恐れ多い。
 それは、誰もがおののく不良の頂点に君臨した
 新たなる伝説の名前。
  
 *


 余裕で勝てると思ったんだ。
「タイマン張ってくれよ、万次郎」
 だってあのタケミっちだぜ?
 喧嘩が弱くて泣き虫で、度胸だけが一人前の世界一カッコいい皆のヒーロー。
 無敵とまで称されている自分のポテンシャルの高さは当然自覚している。客観的に見ても、武道が万次郎に勝つなんてありえないことだった。だから最初は『何言ってんだろうコイツ。また馬鹿なこと言ってンなぁ』ぐらいにしか考えていなかったのだ。
「諦めて堪るかぁぁあああ!」
 ――助けてくださいって言えやぁぁああああ゙!
 ドクリ。心臓が高鳴る。身体が沸騰したみたいに熱くなって、軽く意識が飛びかけた。
(なんだ、これ)
 走馬灯? フラッシュバック?
 でもこんな記憶に心当たりはない。愛機で爆走する時よりも速く、目まぐるしく、次々と風景が流れていく。
 喪服を着た人たちと、花に埋もれた兄の身体。棺の近くでエマが泣いている。クラクションを鳴らしながら遠ざかる霊柩車。もくもくと煙突から立ち上る白煙。火葬されている。誰が? エマ? イザナ? じいちゃん? いや、万次郎の家族は生きている。なのにどうして彼らだと思ったんだろう。
 次は墓の映像に切り替わった。
 場地家と書かれた墓石は、忽ちぼやけて共同墓地のそれに変わる。どちらも萎れた仏花が備えられていた。知らないはずなのに、知っている。この花を供えたのは、きっと……。
「っ⁉」
 また場面が変わった。今度は銃を持っている。身体がやけに重たくて、息切れして、眩暈がした。叫び声だか呻き声だか良くわからない音が、ずっと頭の奥で反響している。
 目の前には、黒髪に蒼い瞳を持つ男が立っていた。武道だ。年齢も髪色も違うのに、直感的に確信する。いつも誰かに囲まれて笑っていた彼は、今や見たことないくらいに悲愴な表情で、必死に何事かを叫んでいた。音が途切れ途切れになるせいで、彼が何を言っているのかわからない。
『――っ! ……て、る!』
 何だ。何て言ってんの。聞こえない。聞こえないよ。
 ――アンタが言ったんじゃないか。『挫けそうな時、オレがオレでなくなりそうな時』、
 ぶるり。銃を持つ手が震えた。やめろ。それ以上言うな。セーフティは外されている。殺そうと思えばいつでも殺せるのだ。壊してしまえ。離れていく前に、壊してオマエのモノにしてしまえ。嗄れた不気味な声が甘く囁く。
 ――『オレを叱ってくれ』って、マイキー君が言ったんじゃないか!
 ぶつ切りにされた音が、突然繋がった。
 銃声が鼓膜を劈く。目の前で倒れていく身体、噴き出す鮮血。痛いくらいに既視感のある光景。
「あ、ぁ……ッ」
 意識が、強く引っ張られていくのがわかる。もう何も見たくない。思い出したくない。耳も目もすべて塞いで、消えて無くなろうとした次の瞬間、
「オラァ!」
 ――急に現実に引き戻された。
 錆び付いたトタンの隙間から漏れる陽光が、最高に格好悪くて最高に恰好良い泣き虫のヒーローへ降り注ぐ。零れ落ちそうなほど大きな蒼眼は冴え冴えと澄み渡り、こちらを射抜く夏の日差しを思わせる苛烈な輝きが、咄嗟に瞑った瞼の裏でハレーションを起こした。
 眩しい。
 だが一秒たりとて、この最愛から目を逸らしたくない。永遠に記憶へ焼き付けたい。
 右手が、振り下ろされる。
 土埃が舞い、彼の周りで七色の星屑が瞬いた。殴られる。だというのに恐怖はない。
(綺麗だ……)
 この世に比べるモノなどないというほどに。
 息の根を止められるならコイツがいい。そう、思ってしまった。
「マイキー!」
 気がつけば己の身体は宙を舞っていた。地面に叩きつけられ、五感が遠ざかっていく。このままオレは気絶するんだな。漠然と事実を受け止めて、次第に重くなっていく瞼に抗うことなく身を委ねる。
「タケミっ、ち……」
 あぁ、今度こそ。
 朧気な意識で呟いて、万次郎の視界は暗転した。
 その密やかな覚醒は、誰にも知られぬまま。


error: Not selectable