*RE

TOKYO卍REVENGERS
 第弐話 冬闇と王

 何の変哲もない昼下がりの交差点。影から生まれたような不気味な車が二台、目の前を通り過ぎる。
 昔から霊柩車が嫌いだった。
 あれはいつだって、武道の大切な人を連れて逝ってしまうから。
「あらやだ二台も……この辺で見かけるなんて珍しいわね」
「……」
 近所のスーパーからの帰り道。今日の晩ご飯はビーフシチューだと張り切ってみせた母が、明らかに食べきれないであろう量の食材をカゴに放り込むものだから、止めるのに苦労した。挙げ句、無理矢理荷物持ちにされて辟易していたところにあの車のお出ましだ。元々大して良くもなかった機嫌が地に落ちるのは至極当然のことで、武道は喉元まで出かかった深いため息を呑み込み、じっと息を潜めて霊柩車が視界から消え去るのを待った。
「あっちは鶴蝶君の家がある方面ね。誰か亡くなったのかしら……」
「……カクちゃん?」
 ふ、と過去の記憶が蘇る。小学二年生の二学期、前の世界で鶴蝶は転校した。別れの挨拶も何も一切無く、彼は最初からそこにいなかったかの如く、忽然と武道たちの前から姿を消したのだ。
「……まさか」
「あ、武道。そっちの袋にたまご入ってるから、絶対落とすんじゃないわよ」
「かあちゃん、ごめん。コレ持ってて!」
「え、なに、だからたまごが入ってるからもっと優しく……って、武道⁉」
「オレちょっとカクちゃんち行ってくる!」
 はやく、はやく。
 鶴蝶の家までの道のりを、息を切らしながら全力でひた走る。
(畜生、なんですぐに気づかなかったんだ! 思い出さなかったんだ!)
 鶴蝶が事故に巻き込まれたのはこの時期だ。間違いない。後々聞いた話だと、彼は家族と出掛けた先で事故に巻き込まれ、その時に両親を亡くしたのだという。鶴蝶自身は頭を強く打ったことにより意識不明の重体に。目が覚めた時には両親の葬儀は終わっていて、彼の身元は養護施設預かりとなっていた。
(カクちゃん……っ!)
 これが気のせいならそれでいい。でももし、あの霊柩車に鶴蝶の両親が乗っているのだとしたら。
「ふっ……はぁ、ハァ……っ」
 大きく見開かれた灰青色の瞳の中で、門前提灯の明かりが揺れる。玄関口には鶴蝶の両親の名前が書かれた案内板が立て掛けられており、見たくもないのに嫌でも『葬式・通夜会場』の文字が視界に飛び込んできた。あまりに無情な現実を前に、全身から力が抜けていく。
「カク、ちゃ……」
 膝からその場へ崩れ落ちて、息もままならなくなる。鶴蝶は無事だろうか。まさか死ぬなんてこと、いや縁起でもない。大丈夫、大丈夫だ。彼は生きている。生きているはずだ。
「そこの君、大丈夫かい?」
「……?」
 心配そうにこちらを覗き込んでいたのは、黒い髪を後ろへ撫でつけた、鋭い目をした男だった。顔面蒼白でその場に座り込む武道が目についたのだろう。大人になった鶴蝶の面影が残るその人は、しゃがみ込んだ武道の背中をそっと撫で擦ってくれる。
「あの、カクちゃんは……っ! 鶴蝶君は、」
「……君、鶴蝶の友だちかい?」
「はい、幼馴染みなんです。あの、カクちゃんは……カクちゃんは無事ですか……!」
 男の瞳が気まずげに揺れ動く。小さな子どもに本当の事を教えてもいいのか悩んでいる様子だった。
「教えてください! オレは大丈夫なので! 本当のことを教えてください!」
「そうか……なら、端的に話すね。鶴蝶は意識不明の重体だ。今は横浜の病院で治療している。目を覚ますかは……正直わからない」
「……あ、」
 ヒュッと喉が鳴る。予想はしていたがきっぱりと断言されて、このまま彼が目を覚まさないのではないかと不安になった。ちょっとしたことがきっかけで、未来はいくらでも変わってしまう。その残酷な世界の真理を、武道は痛いほどに知っている。
「仮にあの子が意識を取り戻したとしても、多分君とは会えなくなると思う……すまないね」
「おとうさん! はやくー」
「あぁ、今行く。……ごめんね。それでは、人を待たせているので」
 白いワゴン車が一台、鶴蝶の家の前に停められている。中には男の子どもであろう小さな少女が一人と、少年が二人、それから助手席に男の妻と思われる女性が乗っていた。女性は憐れむ視線を武道へ送り、悲しげに顔を歪めている。その表情の痛々しさに、ズンと胸が重たくなった。男は車の方へ歩いて行くと、最後に武道に向かって一礼し、運転席へ乗り込む。すぐにエンジンがかかり、車はゆっくりと動き出した。
「うあ……っ、あああ、」
 オレが、もっと早くこのことを思い出していれば。
 ダンッダンッと壁を殴りつけ、行き場のない怒りをぶつける。変えられたはずなのだ。鶴蝶の両親が事故に遭わないようにすることだってできた。それは前の世界の記憶を持っている武道にしかできないことだった。また武道は、チャンスを棒に振った。振ってしまった。
「カクちゃん、……ごめん、オレ、」
 知ってたのに。カクちゃんが死にたくなるほど悲しい思いをすることを知っていたのに。ぽたぽたと流れ落ちる涙が、コンクリートの色を変える。自分の無力さがやるせなくて仕方なかった。
 結局日が暮れて風が冷たくなるまで、武道は鶴蝶の家の前で泣いた。
 枯れ果てたんじゃないかと思うほどに泣いたのは、今世に生を受けてから初めてのことだった。
 いなくなってしまった幼馴染みを探したい。
 そう真一郎に相談したのは、一週間ほど前のことである。
「で、あれからお前が言う『額に大きな傷があって片目の色が違う子ども』を探してみたんだけど、」
 風音に掻き消されないように、真一郎が少し声を大きくする。
「この前話した俺のもう一人の弟な。祖父さんがそいつの預けられてる施設を教えてくれてさ。この前行ってみたんだわ、そこに。そしたら、お前が言ってた特徴のガキがいて……なんか見覚えあるなぁって思ったら、男前三歳児二号クンだったわけ」
 トンネルを抜ける。パッと視界が拓けて、唐突な眩しさに目を細めた。男の腰に回した腕の力を少しだけ緩め、武道はそっと姿勢を正す。
「だからその男前三歳児って何スか」
「男前の三歳児のことだよ」
「はは、そのまんまじゃん」
 十一月になった。鶴蝶が事故に遭ってから二ヶ月。あれから鶴蝶が運び込まれた病院について、手当たり次第探してみたものの、残念ながら見つからず。ならば施設の方はどうかと真一郎に協力を仰いでみたら、今までの苦労が何だったのか、というくらいにあっさりと居場所が見つかった。
(そうだよ、真一郎君はイザナに会いに二人の暮らす養護施設へ行ったことがある。最初から協力してもらえばよかったんだ……)
 ――オマエはさあ、『こう』なりすぎ。視野狭すぎ!
 昔言われた相棒の言葉を思い出す。本当にそうだな、千冬。武道はこうと決めたら、それしか見えなくなるところがある。せっかく未来に起こる出来事を知っているのだから、もっと器用に先回りして動けばよかった。真一郎から顔が見えないのを良いことに、懐かしいやり取りを思い返して苦笑する。
「お、武道見てみろよ。海だぞー」
 風を感じながらの、横浜ベイブリッジから臨む展望。
 雲一つ無い澄み渡った冬の青空。時折ひらひらと白い花びらのような風花が散り、漣が太陽の光を反射して、キラキラと輝いている。あまりの美しさに呼吸を忘れた。唖然と絶景に魅入られていると、そんな武道の様子を察してか。真一郎が楽しげに笑い出す。
「な、湾岸線走ってよかっただろ?」
「うん……っ」
 冷たい風が容赦なく肌を刺した。剥き出しの眼球が乾燥から涙で潤む。ズキズキとした痛みが走り、そこでようやく己が瞬きすら忘れ、景色に魅入っていたことを自覚した。慌てて強く目を瞑るももう遅い。せっかくの絶景なのに、痺れるような痛みが尾を引いてなかなか目を開けられなかった。
「もうすぐ着くぞ」
 十分もすれば景観はがらりと変わった。
 広大な自然風景から喧騒溢れるビル群へ、それから住居の立ち並ぶ雑多な住宅街へ。二人を乗せたバブは、一軒家の建ち並ぶ細い道をいくつか曲がると、とある建物の前で動きを止めた。
「ここが……」
 簡易的な館銘板には《社会福祉法人 子ども支援センター やすらぎ》と書かれている。鶴蝶とイザナが暮らす児童養護施設だ。
「すんません、佐野っス。イザナいますか?」
 玄関口から中を覗き込み、真一郎が声を掛ける。そのまま二人で施設内へ入ろうとした時だった。
「真一郎!」
 パタパタと軽い足音が近づいてくる。
 部屋の奥から現れた褐色の肌を持つ少年は、満面の笑みを浮かべ、真一郎の下へ駆け寄ってきた。
(イザナ君だ。若いなぁ)
 さらさらの銀髪に紫水晶と見紛う瞳、それから日本人離れしたその美貌。今の彼は小学六年生といったところか。純粋に慕っている兄へ向ける快活な笑顔は、あの傍若無人の権化とは思えぬ可愛らしさである。だが、それまで少年が見せていた無垢な表情は、真一郎の隣に立つ武道を目にした途端一変した。
「何、コイツ」
 冷め切った目だ。排除することを厭わない危うい目。久しぶりに向けられた剥き出しの悪意に身震いすれば、紫苑の瞳が獲物を見定めるように細められた。
「オレ、花垣武道っていいます。真一郎くんのダチです」
「……」
「オレはここに幼馴染みを探しに来ました。あの、イザナ君、」
「気安くオレの名前呼んでんじゃねぇ。殺すぞ」
「こらっ」
 すかさず真一郎がイザナの頭へ拳骨を落とす。勿論痛くないよう手加減されていた。これも兄弟の戯れ合いのうちに入るのだろう。イザナは不満げに真一郎を睨みつけはしたものの、満更でもなさそうだった。
「えっと……あの、」
「ンだよ」
「ここに鶴蝶って子はいますか!」
「はぁ? 鶴蝶?」
「イザナ!」
 記憶にあるものよりも低くなった声。完全に声変わりを終える前の少年の声が、イザナの名前を呼んだ。
「っ!」
 鶴蝶だ。鶴蝶がいる。生きている。
「か、カクちゃあああん!」
 感情のリミッターが外れた武道が、戸惑うイザナを置いて大号泣しながら鶴蝶の方へ飛んでいった。
「イザナ、お前上着忘れて……、ぐえ! 何だよテメ……って、タケミチ⁉ お前タケミチか⁉」
「うえええええん! カクちゃあああん!」
「うるさっ」
「感動の再会ってやつだなー。滅茶苦茶うるせぇけど」
 温かい。ちゃんと息をして動いている。意識不明の重体と聞いて、彼の無事を直接確かめるまでは心配で夜も眠れなかった。
 わんわん泣きながら鶴蝶に抱き付いていると、呆れたようにため息を吐き、鶴蝶が腕を回してくる。小さな身体を震わせ嗚咽を漏らす武道を、彼は優しく宥めてくれた。そして、そんな二人の様子にイザナはすっかり毒気を抜かれたようで、「クソ雑魚過ぎてムカつきもしねぇわ」などと武道を罵倒し、それまでダダ漏れにしていた不穏な空気をいつの間にやら離散させていた。
「テメェ下僕の下僕だってんなら早く言えよ。無駄にイラつかせやがって」
「いや理不尽」
 武道の頬を餅のように伸ばしながら、イザナが命じる。
「オマエ、今日からオレの下僕な」
「なんで⁉ 文脈おかしくない⁉」
「うるせぇな。オレの下僕の下僕なんだから、オマエはオレの下僕でもあんだよ」
「いやオレ、カクちゃんの下僕じゃないからね⁉ 幼馴染みだからね⁉」
「仲良いなー。イザナがちゃんと歳下の子の面倒見てやってるなんて……お兄ちゃんちょっと感動してる……」
「真一郎君……?」
「オラ下僕、コーラ買ってこい」
「タケミチ、俺も一緒に買いに行ってやるから」
「普通にひでぇ。もう誰も信じらんねぇ」
 それからは四人でよく遊ぶようになった。
 土曜日になると、真一郎と都合を合わせて鶴蝶とイザナの施設へ通う。懸念すべきは親の外出許可であったが、武道の母は鶴蝶に会いに行くと言ったら喜んで送り出してくれたため、小学生にありがちな『面倒な親の干渉問題』については容易くクリアしてしまった。となれば、必然四人で遊び回ることに躊躇がなくなるわけで……ほぼ毎週のように武道たちは顔を合わせるようになっていた。
 真一郎はいずれイザナを佐野家で引き取りたいと考えているらしい。ただ、それには手続き上どうしてもややこしいアレコレが絡んでくるとのことで、なかなか進捗は思わしくないようだ。武道は真一郎の努力を傍で見てきたから知っている。だからこそ、今世こそは彼らの関係が拗れることなく、本当の意味での兄弟の絆を育んでいってくれることを、願うばかりであった。
「よし、今日は何処行くか」
 今日も今日とて、《やすらぎ》へ向かう道中。
 見慣れた湾岸線から臨む景色を一望し、真一郎が聞く。
「先週中華街行きましたし、港とかどうスか?」
「冬の海かぁ、確かにアイツらにもこの景色見せてやりてぇな!」
 あっちはどうだ、そっちはどうだ、と意見を出し合い、結果海へ行くことが決まる。そして、いつものように施設の駐車場にバイクを停め、イザナたちと待ち合わせているリビングルームへ向かっていると、けたたましい音と共に職員室の扉が開かれた。
「佐野さん! イザナ君が……!」
 慌てて走ってきた職員の女性から、イザナの身に起きたことを聞かされる。
「な、」
「……っ」
 胃の腑が凍りつくような心地になった。曰く、イザナが外出中に不良の集団に襲われ、重傷を負って病院に運ばれたのだという。今は辛うじて意識があるようだが、骨折部位は腕、あばら、膝、足首の計五箇所に及び、さらには折れた骨が内臓を傷つけ、一時は意識を失くしていたとのことだった。
「真一郎君!」
「……っイザナ!」
 急いで真一郎にバイクを飛ばしてもらい、教えてもらった病院へ駆けつける。嫌な音を立てる心臓を必死に落ち着かせながら、二人はほぼ同時に黒川と書かれた病室へと雪崩れ込んだ。部屋へ入ってすぐ、ベッドの上に横たわる包帯でぐるぐる巻きにされたイザナの姿が目に入る。
「イザナッ!」
「イザナくん……!」
「……うっ、」
 二人が傍まで近づくと、緩慢に瞬いたイザナが、無理矢理身体を起こそうとして苦しげに呻いた。
「バカ! 絶対安静だよ!」
「無理するな、イザナ」
「誰が馬鹿だ殺すぞ下僕……!」
 起きていること自体辛いだろうに。それでも武道へ凄んでみせる根性は、流石と言わざるを得ない。
「ほんとに……っ無事で、よか……っ」
 ポロッ。
 涙が零れ落ちる。一つ溢れてしまえば歯止めが利かなくなって、武道はボロボロと泣きながら崩れ落ちた。恐る恐る褐色の手首へ触れると、力強い脈動が己の指先を押し上げる。
 生きている、そう頭では理解しているのに、前の世界で見たイザナの死に顔が脳裏をチラついて離れない。今自分は何処にいるのだろう。今は何年何月何日だっけ。天竺との抗争は……いや、今はまだ天竺は結成されていないはずだ。なら、どうしてイザナはまた死にかけている? そもそもここは現実なのか? オレは、何だ? 花垣武道という人間の輪郭が徐々にあやふやになっていく。
(もうこれ以上、誰も奪わないでくれ)
 嫌だ、誰も死んで欲しくない。あの人を苦しめたくない。
 もうこれ以上奪わないで、連れて行かないで。呼吸が酷く乱れる。過呼吸の前兆だ。元々武道の精神はタイムリープを繰り返した影響で、危うい均衡を保っていた。それが鶴蝶の一件でかなりの負荷が加わることとなり、果てはトドメを刺すかの如く、今回の騒動が起きた。よって、ただでさえ不安定になっていた武道の心が、限界を迎えるのは時間の問題であったわけで。
「カヒュッ」
「……! 武道!」
「下僕っ」
「あ、が……っ」
 ヒュ、ヒュ、と乾いた音がする。息が上手く吸えない。呼吸の仕方を忘れてしまったみたいだ。思考がぐるぐると廻り、走馬灯のように仲間の最期ばかりが再生される。日向、敦、場地、千冬、龍宮寺、直人、それから――万次郎。
「チッ、過呼吸か。おい、深く息しろ!」
「袋、ビニール袋は……!」
「もう……だれ、も……」
「喋んな! 息することだけ考えろ!」
「イザ、ナ、く……イザナ、く……ん……」
 ぎゅうっと力強く抱き締められる。震える手でイザナの服を握り締め、何処にも行かないでと乞い願った。
「あぁ、オレはここだ。ここにいる」
「死んじゃ、やだ」
「……んな簡単にくたばるワケねぇだろ。バァカ」
「武道、ここにゆっくり息を吐け。そうそう……ゆっくり、ゆっくり……吸って、吐いて、」
 ようやく呼吸が安定すると、武道は眠るように意識を失ってしまった。穏やかな寝息を立てる子どもを抱き上げて、真一郎はホッと胸を撫で下ろす。一方、武道を落ち着かせるために、気合いと根性だけで身体を起こしてみせたイザナは、今も尚激しい痛みに苛まれ、俯きがちに固く唇を噛み締めていた。
「悪いなイザナ。痛いだろうに無理させちまって」
「いや……平気」
「もういいから寝とけ。治るもんも治らねぇぞ」
 平気だと言い張るが、痩せ我慢なのは明らかだ。顔色が悪い。真一郎は右手でイザナの背中を支えてやり、彼をベッドに寝かせてやった。すると何を思ったか。イザナは天井を見つめたまま動かなくなり、ややあって、ともすれば聞き逃してしまうほどの小さな声で呟いた。
「真一郎」
「ん?」
「……ありがと」
 ――タケミチにも伝えといて。
 そう言ったきり彼はプイッと反対側を向いてしまい、もうオマエらに用はないと言わんばかりに、シッシッと左手で追い払う仕草をした。素直じゃない弟の態度に苦笑しつつ、真一郎は「無茶すんじゃねぇぞ」とだけ伝え、イザナの病室を後にする。
「……あいつ、初めて武道のこと名前で呼んだな」
 せめてコイツが起きてる時に言ってやればいいのに。
 ツンツンと悪戯に子どもの頬を突けば、むずがる声が上がる。その穏やかな寝顔に、帰るのはもう少しだけ寝かせてやってからにしようと決めて、真一郎は待合室の方へと歩き始めた。
 退院祝いは何にしようか、なんてのんびり考えながら。


 *


 自分だけの国が欲しかった。
 オレという王がいて、王を崇める国民がいて、誰もが寂しさとは無縁のところで生きている。行き場のない奴らの居場所となるような、そんな国が。
 ――これからは一人だから、強く生きなさいよ。
 それは、母から贈られた最後の言葉。
 六歳の頃、イザナは妹と引き離され、一人施設に入れられた。なぜ自分だけ施設に入れられることとなったのか、理由はわからない。ただ、少なくともここで言えることは、オレは妹と天秤に掛けられて、見事にふるい落とされた側の人間だった、ということだ。もう十二になったのだ。流石にそのくらいの現実は見えている。
 ――何処にもいかないで。
 ずっと、一人だった。一人だと思っていた。
 お世辞にも綺麗とは言い難いくしゃくしゃの泣き顔を晒して、必死に己の存在を乞う子どもの姿を思い出す。あれほど強烈に感情を揺さぶられたことは、誰かを強く抱き締めてやりたいと思ったのは、生まれて初めてのことだった。
(タケミチ……)
 鶴蝶の幼馴染みで、オレの下僕。いつかオレが作った国に、住まわせてやってもいいと思う子ども。鶴蝶とも真一郎とも違う、イザナの特別。
「オレのためにアイツが泣いたんだ」
 ぐちゃり。
 拳に生温かい感触が伝わる。幾度となく殴りつけた男の顔面は、見るも無惨な有様と成り果てていて、鼻は一目見てわかるくらいに、大きく左へ曲がってしまっていた。おまけに執拗に殴りつけた頬は真っ赤に腫れ上がり、歯が何本か折れている。しかし、相手がそんな満身創痍の状態にもかかわらず、イザナは淡々と男を殴り続けた。一発、二発、三発、四発、五発。やめてくれと泣き叫ばれたって、往生際悪く暴れて抵抗されたって、やめてなんてやらない。
 だって、コイツのせいでイザナの特別は過呼吸まで起こしたのだから。
「真一郎にも心配かけちまった。平気な顔してやがったけど、ちょっと半泣きになってたんだ」
「ヒッ」
「なぁ、わかるだろ? 全部オマエらのせいなの。オマエらが二人を泣かせたの」
 ゴスッ、バキッ、ボキッ。
「ガ、ァ……ッぐぁ、」
「二度とオレに刃向かう気が起きないように、徹底的に潰してやるよ」
 その日、声にもならない絶叫が、横浜の廃工場に響き渡った。


 *


 イザナが少年院に入ることになった。
 そう教えてくれたのは鶴蝶だった。散々泣いたのだとわかる真っ赤な目をして、彼は施設へ遊びに来た武道と真一郎に、そこへ至った経緯を説明してくれた。
「去年の十二月に、イザナがリンチに遭っただろ。その犯人らに一人一人お礼参りしたらしい」
「お礼参り……」
「特に主犯の奴らはボッコボコにして、全員病院送りにしたって」
「ボッコボコにして病院送り……」
 思っていたよりもハードな内容に、武道と真一郎は唖然とする。前の世界のイザナを知っている身としては、彼の苛烈さは馴染みのあるものなので、そこまで驚くことではないのだけれど。可愛い弟としての顔しか知らない真一郎は、かなりショックを受けているようだ。驚きすぎて何も言葉が出てこない様子である。
「元はといえばあいつらがイザナを襲ったことが原因だし、死人が出たわけでもねぇから……少年院に入るっていっても長くて一年くらいになるんじゃないかって、鈴木さんが言ってた」
「そっか……」
 彼が連れて行かれてしまう前に、話をしたかった。話をした上でイザナが間違ったことをしていたなら、ちゃんと叱ってやりたかったし、あまり派手にやんちゃをすると、心を痛める家族がいるのだと伝えたかった。別れの挨拶もままならず、一人きりであんなところへ入れられるのは、不安だったろうに。
「もう少年院に入ってるとなると……面会とか手紙のやり取りとかは、それなりに制限が厳しいだろうな……」
 ぽつり、と真一郎が呟く。
「でも真一郎君はイザナの兄貴なんだし、家族なら問題ないんじゃねぇの?」
「あー……うん、そうだよなぁ……」
 鶴蝶の無邪気な質問に対し、真一郎は苦笑を返した。
 そうだ、鶴蝶とイザナは知らない。イザナが真一郎たちと血の繋がりを持たないことを。多分、こちらから入院中のイザナへ接触するのは、彼らが想像するよりもずっと困難を極めることになるだろう。少年院は『入院中の者との面会や手紙は三親等までの関係者のみに限る』という、厳しい制限があったはずだ。書類上正式な家族となっているわけでもなく、事実血縁関係もない真一郎がどこまでの接触を許されるのか、かなり危ういところであった。
「……まずいな、」
 真一郎もすぐにその可能性へ行き着いたらしく、彼は頻りに口元を手で触り、深く考え込んでいる。
「真一郎君、施設の職員の人らに交渉してもらって、何とか手紙だけでもやり取りできそうにないスかね」
「……! ああ、そうだな!」
 俺、ちょっと鈴木さんのところ行ってくる。
 ドタドタと慌てて部屋を出ていく真一郎を見送り、武道は鶴蝶へ向き直った。
「カクちゃん……」
「ンな目で見んなよ、バカミチ。俺は大丈夫だからさ」
 幼い頃を彷彿とさせる快活な笑顔を浮かべ、鶴蝶は武道の頭を撫で回す。イザナが少年院に入っている間、鶴蝶はここで一人になってしまう。イザナのことも勿論心配だが、施設に取り残されてしまう形となった鶴蝶のことも気掛かりだった。
「たった一年だ。どうせアイツのことだから、すぐに我慢できなくなって、予定より早く帰ってくるに決まってる。それに、」
「……?」
「お前らがいるしな。寂しくなんてねぇよ」
 じん、と鼻奥が痛んだ。
 視界が滲み、鶴蝶の笑顔がぼやけてゆく。
「ふはっ、オマエほんっと昔から泣き虫だよなぁ」
「うるさいな、カクちゃんのせいだろ」
「ほら、胸貸してやっから思いきり泣け」
 鶴蝶が両腕を大きく広げ、ドンッと自分の胸を叩く。
「うう……カクちゃあん……っ!」
「はいはい」
「この男前三歳児二号めー!」
「なんだそりゃ」
 色々な感情が押し寄せてきて、精神年齢が三十路を越えるにもかかわらず、武道は大人気なく鶴蝶に泣きつき慰められた。そして、暫く経ってから帰ってきた真一郎の表情を見て、人知れずホッと息を吐く。憂いのない、スッキリとした顔をしている彼の横顔には、隠しきれない喜色と安堵が滲んでいたから、きっともう大丈夫だ。
「嫌って言ってもカクちゃんに会いに来るからね」
「おう」
「イザナ君が帰ってきたら怒って暴れるぐらい、いっぱい遊んでやろうぜ!」
「いやそれはちょっと……」
「おーい、武道ー、そろそろ帰るぞ」
「はぁい! それじゃあまたね、カクちゃん!」
 バブへ跨がった真一郎に続き、武道もいつもの定位置へ腰を落ち着ける。数えきれないほどしてきた真一郎とのタンデム。怒涛の一日を終えて疲れた身体に、バブ特有の腹の底まで響く重低音が心地よい。
 陰影の蔓延る逢魔が時、濃密な夜の気配を帯びた紫紺の空を、ほむらを纏った円環が黄金色に焼き尽くす。頭上を流れる鱗雲は茜に染まり、昼と夜の顔が入り乱れた極彩色が、磨き抜かれたバブの躯体くたいに映り込んでいた。艶めいた輝きを帯びた宵の光が、瞳の奥で万華鏡の如く表情を変えてゆく。
「武道」
 不意に、名前を呼ばれた。
「面会は無理だったけど、イザナと手紙のやり取りができるようになった」
「そっスか。よかった……」
「お前のおかげだ」
 すれ違う車のヘッドライトが、薄闇に紛れた二人の姿を浮かび上がらせる。
「ありがとう」
 泣きたくなるほど、優しい声だった。
 ぎゅうっと彼の腰に回した腕に力を入れて、涙を堪える顔を見られないよう額を擦り付ける。澄ました顔で運転に集中する真一郎は、そんな武道の思惑なんてとっくに勘づいているであろうに、いつものように茶化してくることはなかった。ただ黙って、武道のやりたいようにさせてくれている。その気遣いにまた泣きそうになって、ズッと鼻を啜り、漏れ出る嗚咽を誤魔化した。
(ほんと、カッコいいなぁ……)
 いつもヘラヘラしているくせに、こういう時だけカッコよくなるのは反則である。告白十八連敗中なのが不思議なくらいだ。
「手紙、楽しみっスね……」
「うん」
「イザナ君が出所したら海行きましょう、海」
「ならそれまでお預けだな」
 イザナは結局前と同じように少年院に入ってしまった。このままいけば、彼はあの『極悪の世代』と呼ばれた危険人物たちと、邂逅を果たすことになるのだろう。
 確か前の世界でのイザナは、リンチしてきた集団の主犯格だった男を、男の親兄弟や友人に至るまで徹底的に潰して回り、絶望の淵に叩き落とした上で自殺にまで追い込んだ。しかし、今世での彼はそこまで凶悪なことはしていない。少年院に入ったという事実こそ変わらないけれど、罪状が前より軽くなっているこの状況。あくまで誤差の範疇でしかないこれらの微妙な変化が、後々どんな結果へ繋がってゆくのか。
(何となく、悪い方には進まない……気がする……)
 チラリ、と真一郎の方を盗み見る。真一郎さえ生きていれば、イザナは壊れない。そう確信している。多少拗れることがあるかもしれないが、それでも二人は最後には良い兄弟関係を築いていけるはずだ。
(だって、真一郎君だし……)
 思考の海に浸っていると、グゥーッと不満げに腹の虫が鳴く。
「あ、帰り遅くなっちゃったし、今日うちでご飯食べて行きません?」
「え、マジで? うっわー、めちゃくちゃ行きたかったけど、今日は実家に帰ることになってて……妹が飯作ってくれるんだ」
 心底残念そうな声で、されど照れ臭そうに頬を掻きながら、真一郎が嘆いた。
「そっか……ならそっち優先してください! 妹さんも真一郎君が帰ってくるの楽しみにしてるだろうし」
「今度武道の家遊びに行かせて」
「いっスよー」
「よっしゃ! なら早速帰ったら計画立てようぜ」
 道のりは長い。でも、必ずやり遂げてみせる。そのためにはまず、ぐちゃぐちゃに絡まり合った運命の糸たちを、一つ一つ丁寧に紐解いていかなくては。
「手紙に、」
「ん?」
 オフィスビルの立ち並ぶ、狭苦しい東京の空を見上げる。
「……あんまり待たせると、オレが大泣きしながらイザナ君の名前を連呼して、少年院に乗り込みますって書いておいてください」
「ぶっ! ……了解!」
 玉座に坐す王の如く、堂々たる輝きを放つ天狼の星。その鮮烈な瞬きを眺めていると、不確定要素だらけの未来へ抱いていた不安や恐怖心が、少しずつ薄れてゆく。
「やべぇ、イザナがどんな反応するのか見たくなってきた」
「イザナ君を困らせるためなら、究極の駄々捏ね三歳児になってやりますよ!」
「あははっ! 想像するだけで面白すぎるだろ!」
 二人分の笑い声は、白い吐息と共に冬の闇へ溶けて消えてしまう。
 新たな季節の足音は、もうすぐそこまで迫っていた。
 今年の春、武道は小学三年生になる。


error: Not selectable