第参話 分岐点
部屋でゴロゴロ寝転がっているだけでも、じっとりと汗ばんでくる盛夏の昼下がり。開け放たれた窓から、時折白南風が深緑の香りを運んでくる。
茹だる頭に容赦なく響く蝉の大合唱。未来の尋常ではない暑さを知っているだけに、今の時代の夏はこれでもまだマシな方なのだとわかってはいるのだが。それでもやっぱり辟易してしまった。気怠げに動き出した武道は、今までフル稼働で頑張ってくれていた扇風機にあっさり別れを告げ、窓やドアを閉め切りリモコンを操作する。
あぁ、素晴らしきかな文明の利器。今までありがとう扇風機くん。これからよろしくエアコン様。
――ピンポーン。
「はぁい」
呼び出しのベルが鳴り、階下で母が玄関に向かって駆けてゆく。誰か来たのだろうか。ベッドの上でぐでんと溶けながら、愚鈍な思考で客の訪れを悟った。とはいえすっかり暑さに参ってしまっている身体に、今更やる気なんてものが芽生えるわけもなく。ただ億劫げに寝返りを打つのみで、敢え無く本日の営業は終了した。
せっかくの夏休みである。今ダラけずしていつダラけるというのか。今でしょ! あ、やばい。これ未来ギャグだったワ。
「武道ぃ、真一郎君が来てくれたわよー!」
「え、真一郎君?」
「よう、武道! 元気か? 死んでるなこりゃ……」
バンッ! と勢い良く入って来たのは、今やすっかり花垣家の常連となった真一郎だった。流石は端正な顔立ちの色男。こめかみに浮かぶ汗ですら爽やかだ。なんとなく腹が立ったので、ベッドに寝転んだままジトッとした視線だけで挨拶を返す。
「なんだぁ? 武道、ご機嫌ナナメだな」
「イケメン爆ぜろ……」
「なんだって?」
「何でもない……」
言ってて虚しくなってきた。渋々起き上がり、真一郎の方へと向き直る。それにしても、アポ無し訪問とは珍しい。いつもならあの自由人な万次郎の兄とは思えないくらいに、律儀に連絡を入れてからやって来るのに。
「何かあったんスか?」
「ふっふっふ……聞いて驚け……実はな……実は……」
「勿体ぶんなアホ兄貴! いつまでこのオレをクソあちぃ廊下に立たせておくつもりだっての!」
半開きのドアを蹴破って怒鳴り込んできたのは、予想外の人物だった。
「イザナ君!」
最後に会った時よりもぐんと伸びた身長、モデルでもやっていけそうなくらいにすらりと伸びた手足、健康的な褐色の肌に肩まで伸びた銀髪。ただでさえ文句なしの容貌にもかかわらず、さらにはオールバックにした前髪の一部が前へ垂らされ、暴力的な色香を放っている。また、紫水晶の瞳はその色の儚さとは裏腹に、ギラギラと野生味に溢れた光を湛えていて、端的に言ってめちゃくちゃカッコいい。
「フンッ。相変わらずの間抜けヅラだな下僕」
「いつ出所したの⁉」
「あ?」
「今日だよ、今日。予定が三ヶ月くらい早まったらしいぜ。マジでビックリしたわ。そんなこと手紙じゃ一言も書いてねぇんだもん」
拗ねた声で真一郎が答える。ツン、と二人を見下ろすイザナはしてやったりとした笑みを浮かべていて、彼が確信犯であったことを物語っていた。
「イザナ君ー!」
「暑い、重い、ウザい。抱きついてくんな」
「ひどい」
思わずイザナに抱き着けば、ベリベリと容赦無く引き剥がされる。
「たくよー、ちゃんと前もって連絡くれてりゃ、出所祝い用意したってのに……」
とりあえずリビングから座布団を取って来て、二人に座ってもらった。その後、真一郎贔屓の母から近所で有名な和菓子屋のどら焼きを差し入れられ、早速二人へ振る舞ってやる。そのままいつもの流れで緑茶を淹れようとした武道はしかし、「こんなクソあちぃ日に何考えてんだボケ」とイザナに蹴飛ばされ、染み付いた下僕根性を何一つ疑問に思わず、彼に命じられた通り冷たい麦茶を用意した。そんな武道の献身を、終始真一郎は複雑そうな顔で見守っていた。
「初めてのネンショーはどうだったよ」
ニヤニヤと笑いながら真一郎が問う。イザナからの手紙には、交友関係について『下僕が増えた』としか書かれていなかった。恐らくその下僕というのは、極悪の世代の面々のことであろう。そのことを予め察していた武道は、イザナが彼らの影響を受け、また道を踏み外してしまわないか心配で堪らなかった。
「どうもこうも、手紙に書いた通りだって」
「その日何したとか、どんな講義受けたとか、そんな話ばっかりだったろ? 他にも何かなかったのか? 例えば、友達ができたとか……好きな子ができたとか!」
「ネンショーは学校じゃねぇんだわ。ムサい野郎ばっかのところで、ンなもんあってたまるか」
呆れた声でイザナが言う。
母オススメのどら焼きは、既にまるごと彼の胃袋に収まっていた。どうやらかなりお気に召したらしい。当たり前のように武道の分のそれを奪おうとしてくるので、全力で回避してやった。今のところ上手いことやり過ごしているが、強奪されるのは時間の問題であろう。とはいえ、こういうのは抵抗する姿勢を見せることが重要なので、そう易々とくれてやるつもりはない。
「それにしても、無事に出てこれて良かったっス。イザナ君が少年院に入るって聞いた時は、マジでびっくりしたんですよ。……あ! オレのどら焼き!」
憤慨する武道の右頬を、真一郎がしつこく突き回してくる。
「お前大泣きして鶴蝶に慰めてもらってたもんなぁー?」
「真一郎君は黙ってて!」
もー、とぷりぷり怒りながら真一郎の手を振り払い、皆んなの分の茶のおかわりを注いで回る。すると、むっつりと膨れた武道の左頬を、唐突にイザナが掴んだ。掴まれた、と思った直後に、今度はグイーッと肉を伸ばされる。
「いてててててて! なに! 何なんスか⁉」
「おー、伸びる伸びる。やーらけぇー……なんだこれ、餅かよ」
「いっだぁ! 痛いって! マジでアンタ何考えてんのかわかんねぇ!」
半泣きで真一郎の方へ助けを求めるも、彼は慈愛の眼差しをこちらへ送るばかりで、一向に助けようとしてくれない。この人の弟愛はちょっと時と場合を選んだ方がいいと思う、と。味方が誰もいない絶望感に打ちのめされながら、武道は独りごちた。そして、ひとしきり頬の柔らかさを堪能したイザナが満足したところで、ようやく理不尽なイジメから解放される。
この中で武道が一番精神的に大人であるはずなのに、立場が弱すぎて泣ける。勘弁してくれ。
「なぁ、イザナ」
それまで緩みきっていた雰囲気が、急に引き締まった真剣なものへと変わった。無意識のうちに居住まいを正して、続けられるはずの言葉を待つ。隣に座るイザナもまた、武道と同様に崩していた足を改めて、視線だけで言葉の続きを促した。
「お前さ、黒龍継ぐ気ある?」
ごくり、と息を呑み込んだ。
前の世界でのイザナは、真一郎から黒龍をイザナと万次郎の二人に継がせたかったと聞かされ、大きくショックを受けた。自分だけの兄ではなかったという現実を突きつけられた彼の深い絶望は、後に二人の関係に亀裂を入れるきっかけとなり、さらに血縁関係に纏わる真実を知った瞬間に、それは決定的なものとなった。
この問いは、鬼門だ。
「いつかお前にって思ってたんだ。兄弟でつないでいくのが夢だった」
「……」
イザナは何も答えない。ただ静かに真一郎の言葉に耳を傾けている。
「黒龍はお前……そして、万次郎に継がせたいから、」
「悪い、真一郎。オレは黒龍を継がない」
え、と間の抜けた声を漏らしたのは、誰か。
前の世界のイザナは、あんなにも黒龍を継ぎたがっていたのに、どうして。
「約束しちまったんだ、オレたちの国を作るって。天竺という、みんなの居場所となる大きな国を」
だから、悪い。
小さく頭を下げたイザナは、どこまでも誠実だった。真っ直ぐに前を見据える瞳の中に、豪炎の如く燃え盛る強い意志が宿る。身に纏う覇気はまさしく王と呼ばれるに相応しく、ハッと目を瞠るほどの威厳があった。一体何が、それほどまでに彼を変えたのだろう。唖然と目の前で起きた出来事を眺めていると、不意にイザナが武道の方へ視線を寄越す。
「黒龍、コイツに継がせりゃいいんじゃね?」
「へ?」
「この下僕、真一郎に似てるし」
「ええ⁉」
驚きのあまり胃がひっくり返りそうな心地になりつつ、必死に首を横に振る。
「そ、そんな、無理だって。だって真一郎君は万次郎君に……」
あれ、そういえばイザナって万次郎の存在を知らないはずでは。自分以外に弟がいると初めて知ったからこそ、あれだけの衝撃を受けていたのだし。だとすると、今の彼は些か平然とし過ぎなのではなかろうか。
「あの……イザナ君、」
「武道が黒龍の総長? 何それ、めっちゃくちゃ良いじゃねぇか!」
「だろ?」
「あの泣き虫で情けなくて不憫カワイイ武道が総長って、何かすっげぇ面白いけど、俺武道なら黒龍任せても良いと思う!」
「オイ」
「泣き顔がブサイクで肝心なとこ格好つかないクソ雑魚下僕だけど、黒龍継ぐ器ではあるんじゃねぇの?」
「いやただの悪口」
黒龍にも失礼だわ。あらゆる方面に謝れこの野郎。
イザナにそれとなく万次郎のことで探りを入れたくても、本人を他所に二人が盛り上がり過ぎて間に入れない。というか、先程からえげつない悪口を言われている気がする。とばっちりもいいとこだ。若干遠い目になりながら、二人のやり取りを聞き流していると、武道と同じ疑問を抱いたのだろう。真一郎が躊躇なくイザナの懐へ踏み込んでいった。
「あれ、そういや俺万次郎のことお前に言ってたっけ?」
「どうせ俺の弟とかそんな感じだろ」
「そうそう! お前の弟! 歳は武道の一コ上で、今月の二十日に十歳になんの!」
「へぇー」
「……」
「武道? お前さっきからどうした? 何かおかしいぞ?」
あまりに普通に流されて、驚きを通り越して怒りが込み上げて来る。何だそれ。あんなに心配していたのに、気を遣ってやっていたのに、何事もない顔して人を散々ディスりやがって。オレの今までの苦労は何だったんだ。真一郎たちの関係が拗れないよう、いざって時にどうやって二人の仲を取り持つか、必死に無い頭を働かせて考えていたオレの苦労は……。
「もう嫌だアンタら!」
「うわっ、何突然キレてんだよ。生理前か?」
「サイテー! そんなんだから告白二十連敗するんだよ!」
「うるせぇ! まだ十九連敗だわ!」
「ハッ、まだ記録更新してんのかよ。ダッサ」
「真一郎君とイザナ君の馬鹿ァー!」
カラン、と音を立ててグラスの中の氷が溶ける。窓越しにくぐもった蝉の鳴き声が届けられ、賑やかな喧騒に掻き消されていった。
とにかく、恐れていた真一郎とイザナの決別は暫く起こらなさそうだ。血縁関係についての話をまだしていないので、依然として油断は許されない状況だけれど。ひとまず二つ目の難所はクリアできたと思っていいだろう。
そう安堵していた武道はすっかり忘れてしまっていた。
二〇〇〇年八月。未来の千咒が泣きながら語った、万次郎が抱える『黒い衝動』の発露の瞬間。四人の幼馴染みの間で起きた血塗れの惨劇を。
武道にとって大きな分岐点が、ついにやってくる。
*
もうすぐ夏休みが終わる、という日だった。
「オラ下僕、ちょっと付き合え」
「え、あの、オレまだ宿題が、」
「いいからとっとと乗れ!」
「尻に火がつかないとやらない派の貴重な宿題タイムがぁー!」
花垣家の前に停められた、傷一つない新品同然なCBR。『親切な下僕から譲り受けた』のだという疑惑だらけのイザナの愛機は、この真夏の炎天下に忠犬の如く主人の帰りを待ち続けていた。
イザナによって俵担ぎにされた武道は、そんな自慢の愛機のタンデムシートへ乱雑に放り投げられる。そして、運転席に座った男の腰へ手を回すよう命じられ、慌てて言われた通り縋り付いた。ボッとエンジンの掛かる音が鳴った次の瞬間、身体全体に猛烈な負荷が掛かる。この見事な加速力と、バルブが切り替わった瞬間に上がる、弾けるような排気音。流石は未来でも根強い人気を誇るホンダの名車である。
「何処行くんスかー?」
目的地が不明なことに不安を覚えて、何気なく聞いてみる。
「兄貴のトコ」
「あ、《S・S MOTOR》!」
「ちげぇー」
否と返されて、一瞬思考が止まった。真一郎のバイク屋でないとしたら、それ以外で考えられる場所は一つしか思い浮かばなくて……。
「え⁉ てことはまさか、」
「そゆこと」
――真一郎の実家に行く。
空手道場を営んでいるだけあって、広大な敷地に建てられた純和風の一軒家。佐野と書かれた表札の出ている数奇屋門は、その歴史の重さを見る者に感じさせる。今世の武道は初めてだったが、前の世界の武道は、何度かこの家の敷居を跨いだことがあった。それでもインターホンを鳴らすのを躊躇ってしまうほどの荘厳さに、武道は早くも帰りたい気持ちでいっぱいになる。
佐野家ということはいるのだ、ここに。人生を何度もやり直してまで、どうしても幸せにしてやりたかったあの男が。会いたかったのは確かだ。未来を捨ててまで傍に居座り続けた想いは伊達じゃない。しかし、もう少し心の準備がしたかったというのが本音である。今彼と再会したら、きっと自分は馬鹿なことを口走りながら、大泣きするに決まっているから。
「し、真一郎君は今日俺たちが来ることは……?」
「知らない」
「それって不味くないスか⁉」
「別にいいだろ。いつでも来いっつって住所と地図押し付けられたし」
行くぞ、と短く言ってイザナが佐野家の門を潜る。道場に通う生徒たちのために、基本的にこの表門は開放されたままだ。事前に真一郎からそのことを教えられていたのだろう。イザナの足取りには迷いがない。
(イザナ君、緊張してるな……)
暇さえあれば軽口を叩く王様が、むっつりと黙り込んでいる。
もしかすると武道を連れて来たのは、一人では心細かったからなのかも知れない。となると、あんなにセットで行動している鶴蝶を連れて来なかったのは、不安がっている自分の姿を見られたくなかったからか。そう考えればこの傍若無人の権化も可愛らしく思えてくるのだから、自分も大概単純である。
「……押せ」
「え?」
「さっさと押せ!」
「はいはい」
ピンポン。
玄関口の呼び鈴が短く鳴る。隣に立つイザナの肩が、ビクッと大きく揺れたのには気づかないフリをした。
『はい』
「……」
『……あの?』
一向に喋り出す気配のないイザナの方を見上げると、軽く顎で指示される。どうやら名乗りも武道がしろということのようだ。この男、意外と緊張しいなのか。笑い出したくなるのを堪えて、仕方なく武道が二人分の名前を伝える。
「黒川イザナと花垣武道と申します。真一郎くんはいらっしゃいますか?」
『黒川イザナ⁉』
小学生にしては丁寧な口上過ぎたかと若干焦りが生じるも、イザナの名前を聞いた途端、インターホン越しの声の様子が明らかに変化したため、そんな後ろ向きな思考は瞬く間に吹っ飛んだ。
『少々お待ちください!』
ややあって玄関口から顔を覗かせたのは、万次郎の祖父である万作と、小さな女の子だった。
「君が……イザナ君かね」
「……はい」
万感の思いを込めて、万作はイザナの名前を呼ぶ。短いながらも言葉を交わした二人の声は、微かに震えていた。
「イザにぃ!」
「オマエ……エマか?」
「にぃー!」
自分の腰ほどしかない小さな身体を受け止めて、イザナがその場にしゃがみ込んだ。ぎゅうっと少女を抱き締め返す彼の目には、薄らと涙が浮かんでいる。前の世界では見られなかった兄妹二人の再会。幼い頃に交わした約束が、ようやく果たされた瞬間を前に、武道の視界が涙で歪んだ。
「あの……積もる話もあるでしょうし、オレ家の前で待ってます」
武道の申し出に、万作はゆっくりと首を横に振る。
「いやいや、そんなわけにはいかんよ。君も家に入るといい。茶ぐらい出させてくれ」
「でも……」
「いいからオマエもついてこい」
下僕、と呼ばないのはエマたちがいるからだろう。妹の前で汚い口は利くまい、とイザナなりに我慢しているようだ。本当は不安で堪らないから一緒に来て欲しいのに、素直にそう言えないイザナの気持ちを汲んで、今回は武道が折れてやることにする。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
二人が通された客間からは、満開の白い花を咲かせた木槿の生け垣が臨めた。陽に照らされ、涼風に攫われる枝葉の揺らめきと共に、さわさわと心地よい葉擦れの音が鼓膜を擽る。遠く向こうからは子どもたちのはしゃぐ声が響き、武道はゆるりと空色の瞳を細めた。穏やかだ。この先に待ち受ける過酷な運命をカケラも感じさせない、凪のように落ち着いた晩夏の午後。
「茶を用意してくる。少し待っていてくれ」
徐に万作が席を立つ。必然、三人になった空間で、尚もエマは絶対に離すまいとイザナの腕にしがみついていた。微笑ましいその光景に、武道はそっと客用のソファから立ち上がる。
「……やっぱり二人で話してください。オレ、ちょっと庭を散歩してきます」
「は? おい、タケミチ!」
「にぃ! 行っちゃヤだ!」
「エマ、ちょっと離せ……って、げぼ……ッオイ!」
もう被った猫が剥がれかけてますよ、なんていう揶揄い文句を胸に、そそくさとその場を離れる。幸いにも縁側に突っ掛けサンダルが置いてあったので、ありがたく拝借して外へ出た。
向こう側に見えるのは道場だろうか。時折ダンッという打撃音が響いて、音に合わせて掛け声が上がる。住居スペースと思われる二階建ての建物の周りには、家を取り囲むように木槿や躑躅が植えられていた。手入れの行き届いた庭だ。その一方で、雑草一つ生えていない剥き出しの真砂土の至る所に、バイクのタイヤ痕が残されているのが佐野家らしい。
「久しぶりだな……マイキー君の家」
最後に来たのは、万次郎が唯一の肉親である祖父と縁を切り、独り逃げるようにして家を出ようとしていた日の夜だった。まさか武道が突撃してくるとは夢にも思わず、驚きに目を見開き絶句する彼の顔は見物だった。そして、唖然と突っ立つ彼に向かって言ってやったのだ。『どんな事があっても、アンタの傍から絶対に離れてなんてやらない』、と。
「懐かしいな……」
「――っ! ああ!」
「っ!」
もう二度と取り戻すことの叶わない、遠い記憶をなぞっていたその時、か細い悲鳴が聞こえた。獣が唸るような悲痛な声だ。衝動的に一歩大きく足を踏み出し、声が聞こえた方へと走り出す。嫌な予感がした。久々の感覚に冷や汗が止まらない。間に合え、間に合ってくれ。どうか、どうか!
「笑えよ、春千夜」
初めに目についたのは、その手を濡らす赤だった。
ぐわん、と脳髄を揺さぶられ、過去のトラウマが蘇る。
――殺したくない……殺したくないんだ……。
銃を握る震えた手。頬を濡らす彼の涙。心臓を貫く刹那の痛み。血の海に倒れた武道を掻き抱いて、万次郎は延々と繰り返した。ただ一言『殺したくない』、と。壮絶な悲しみに埋もれ、息もできない苦しさに喘ぎながらも、やっと零してくれた彼の本音に酷く安堵したことを覚えている。
「笑えよ」
「……ヒッヒッ、」
「『笑え』」
「笑えるワケないじゃないか!」
異様な空気が流れる場へ、一人飛び込んでゆく。
「は? お前誰?」
数年ぶりに再会した彼の目は、最後に見たあの時と同じように、暗く濁っていた。再び彼に出逢うことがあったなら、もっと感動的な何かが溢れてくるのだと思っていたけれど。今の武道を突き動かしているのは、脳天を突き上げる激しい怒りの感情だけだ。
「口が裂けてる。血もこんなに出て……痛いんだ……っ痛いんだよ! こんな状態で笑えるわけないだろう⁉」
「お、おい……やめとけって……」
焦りから顔色を蒼白にした場地が、武道の身体を羽交い締めにしてまで、強く引き留めようとしてくる。そんな捨て身の場地の制止を、武道は感情のままに振り解き、一切足を止めることなく万次郎の下へと歩き続けた。
「てめぇに関係ねぇだろ。そんなに死にてぇの?」
「うるせえええ!」
「!」
周りの目など一切顧みない痛烈な慟哭。鼓膜を劈く凄まじい雄叫びに、あれだけ動揺していた場地はおろか、完全に頭に血が上っていた万次郎でさえも、面食らった顔をした。
「頼むから……っ!」
血だらけの掌を、微塵も躊躇することなく掴み取る。
「お願いだから、キミの大事なモノを傷つけようとするなよ……!」
「……」
「だってこんなの……っこんなの、キミが辛くなるばかりじゃないか……!」
「……、」
「『苦しみばかりの人生』なんて、絶対マイキー君に言って欲しくない! オレは、ただキミに幸せになって欲しいだけなんだ……っ!」
「……っおま、え」
ぽかん、と口を開けて茫然自失した様子の少年が、一人。寄る辺をなくした迷い子のようにその場に立ち尽くしていた。それまでのどす黒く染まった空気など一瞬で立ち消え、残されたのは痛みに呻く子どもが一人と、言葉を失い佇む二人の戸惑いだけ。されどそんな空気の変化など気にも留めずに、怒りのあまり我を忘れた武道は、尚も続けて万次郎へ向けて啖呵を切る。
「キミは!」
「っ!」
「オレに! 黙って幸せにされときゃそれでいいっつってんだよ! バァカ!」
言いたいことは言った。これで変わらないなら、もう知るもんか。ゼェ、ハァ、と肩で息をする武道が、血走った目で場地の方へ振り返る。
「場地君!」
「え⁉ お、おう」
ビクッと肩を跳ね上げた場地が、あたふたと背筋を伸ばした。
「事情をマイキー君のお爺さんに説明して、救急車呼んできて」
「わ、わかった!」
母屋の方へ駆けてゆく場地の背中を見送り、未だ痛みに耐える春千夜の前にかがみ込んだ。口元を抑えた両掌から、ドクドクと血が滴り落ちていく。余程の深い傷なのだろう。かなりの出血をしており、これ以上放置しておくのは明らかに危険であった。
「春千夜くん、大丈夫……?」
「ヴヴヴ……うう……うあ、っ」
「喋らなくていいよ。口は閉じてて……痛い? 痛いよね……大丈夫、大丈夫だから。もうすぐちゃんと手当してもらえるからね……」
小刻みに震える春千夜の背中を撫で摩る。こんなことしかできない自分が情けないが、生憎口元の止血の方法については詳しくない。下手に傷口を触って悪化させるよりも、専門の知識を持った人間に委ねる方が賢明だと判断した。
「ハル兄……」
そこでふ、と。こちらを泣きそうな顔で見つめる少女の存在に気がつく。
(千咒……)
「キミ、この子の妹さん?」
「……っ!」
千咒からの返答はなかった。自分のせいだという自責の念に囚われているに違いない。固く口を閉ざし、俯いて涙ぐむ悲愴な表情は、とてもではないが子どものしていい顔ではなかった。
「お兄ちゃんは大丈夫だから。安心して、ね」
「う、ぅう……ハル兄、ごめん、」
努めて優しい声で話し掛ければ、箍が外れたみたいに千咒が泣き出す。
「マイ、キー……ほんとは、オ、オレが……ごめ……う、うわぁぁぁあん」
「千咒? 何で、オマエ……」
「……マイキー君はまず手を洗っておいで。それからタオルと水を張った桶と、消毒液を持ってきて欲しい」
「……わかった」
冷静になって周りを見てみて、疑問に思ったことは沢山あっただろうに。それでも、武道は万次郎の追及を許さなかった。
確かに、本当は春千夜ではなく千咒がプラモデルを壊したことも、万次郎の怒りから春千夜が千咒を庇い嘘を吐いたことも、彼が問うたならばすぐ答えに辿り着けたはずだ。しかし、そこで誤解を解いてしまえば、今の万次郎は事実を知り得たことに満足して、そこで終わってしまう。だから、少しでも混乱させたままにして、彼が自分で考える時間を与えてやりたかった。自分で真実を見極めて、誤った判断で無実の人間を傷つけてしまったのだと、ちゃんと自覚する時間が欲しかったのだ。
「春千夜!」
「春千夜、大丈夫かぁ!」
そこからは怒涛の勢いで時が流れた。
救急車が到着し、担架に乗せて運ばれた春千夜に、武臣と千咒が付き添い病院へ。万次郎は万作と真一郎からこっ酷く叱られ、罰として一ヶ月間外出を禁止された上、鬼のような稽古をつけられることとなった。
春千夜が救急車で運ばれた後、場地はひたすら泣いていた。曰く、自分では万次郎を止めることができなかった、自分のせいで春千夜が大怪我を負ってしまった、と。その後暫く己の不甲斐なさを呪い、罪悪感に押し潰されそうになっていた場地であったが。しかし彼がそんな弱々しい姿を見せていたのはその日だけで、翌日からは「次は俺がマイキーを止められるように強くなるんだ」と、目の色を変えて空手の稽古に励むようになったのだから、やっぱり彼は凄い人だと思う。
「なぁオマエ、名前なんてーの?」
泣き腫らした目をした少年にそう尋ねられたのは、いよいよ日が暮れて帰ろうかとなった、宵の頃だった。
「え、」
「名前」
「は、花垣……」
ハナガキ、タケミチ。
口の中で咀嚼するように呟いて、万次郎がポッと頬を赤らめる。
「?」
「そっか……『タケミっち』」
ドクリ。
鼓動が跳ねる。懐かしい渾名で呼ばれ、心臓を鷲掴まれた心地になった。あぁ、やはり目の前の少年はあの男と同じ存在なのだと、改めて痛感させられる。胸を掻き毟りたくなるようなもどかしさと、痛みを伴う切なさ。腹の底から湧き出てくるこの感情の名前を、武道はまだ旨く定義できそうもない。あと少しでわかりそうなのに、正体が掴めそうなのに。そんな葛藤に苛まれること早数十年。年季の入った想いの欠片は、黒ずんだ赤い痕に埋もれて、今にも姿を隠さんとしている。
「タケミっち、今日から俺のダチ! なっ♡」
頭で考えずとも勝手に身体が動いた。
ニ、と屈託なく笑う少年に飛びついて、少し目線が下にある彼の頭を抱き寄せる。
「はい……! オレ、マイキー君の友達です!」
「……っ」
ポロポロと涙を零しながら喜びを露わにする武道を見て、万次郎の身体がピシリと固まる。そんな彼の様子に構わず、武道は熱く火照ったその頬を両掌で撫でつけた。大好きだと、心の底から愛しているのだと、甘く蕩けきった眼差しから想いを溢れさせながら。
「オレさ、ちゃんと春千夜に謝る……」
「うん」
「許してくれるかな……」
「ちゃんと謝れば大丈夫ですよ、きっと」
「そっか」
「うん」
「……ありがと、タケミっち」
「ん……」
愛機に跨がったイザナが迎えに来るまで、二人は抱き締め合っていた。
何ら言葉を交わすでもなく、目を瞑り、口を閉ざし、ただただ互いの鼓動の音へ耳を澄ませる。それだけで満たされた。それだけで、十分だった。
「タケミっち……」
ほう、と熱い吐息と共に名を呼ばれる。
「オレの、――……」
音にもならない小さな囁きは、二人の間を駆け抜けた夏嵐に攫われた。
きゅ、と噛み締められた迷い子の唇が、それ以上の言葉を零すことはなかった。