第肆話 天命を攫む
ダンッ!
強烈な打撃音とともに床に叩きつけられ、息が止まった。受け身を取ったはずなのにビリビリと背中が痺れる。周囲が固唾を飲んで見守る中、武道はゆらりと立ち上がった。やられてもやられても倒れない粘り強さは唯一の取り柄だ。こんなことぐらいでビビるタマじゃない。
「もう一本、お願いします!」
合気道と柔道に加えて空手まで習うことになった。
ひょんなことから佐野家との交流が増えた武道が、合気道と柔道を習っていると万作に漏らしたことがすべての始まりである。その話を聞いた万次郎が、『それなら空手も習おうぜ!』とちょっとそこまで散歩行こうぜくらいの軽いノリで武道を誘い、それに便乗した万作と真一郎がいつの間にやら外堀を埋め、それ以外にも何だかんだあった結果、武道はとうとう佐野空手道場に通い始めた。
もうかれこれ一年程前の話だ。
ちなみにイザナも同じように佐野家の洗礼に遭っていたはずなのだが、彼は上手いこと逃げ切ったようである。つくづく要領の良い奴め。
「タケミっちー、飽きた」
ぽす、と肩に重みが加わる。猫のように擦り寄ってきたふわふわの金髪を、とりあえず雑に撫で回してやった。どうやらまたいつもの発作が出たらしい。
「またそんなこと言って……サボったら師範に張っ倒されますよ」
「でもオレ天才だし稽古要らなくね?」
「今全世界の凡人を敵に回しましたね」
「タケミっちが味方でいてくれるなら世界が敵になったって勝つよ」
「これ以上人間やめないでください」
すっかり萎えた様子の子どもを背中にひっつけたまま、武道は道場の端へ移動する。万作は他の生徒の指導中であるし、武道は身内枠での特別参加だ。多少休憩を多めに挟んでも文句は言われないだろう。そんな打算を働かせたが故の、堂々たるサボりであった。
「タケミチ、お前も大変だな」
場地から同情を多分に含んだ視線を送られる。本当に、と頷きそうになるのを寸でのところで耐えた。何故ならそんなことをしようものなら、万次郎が面倒なことになるのは目に見えているからだ。これは予測ではなく確信。今までの経験の賜物だった。
「は? おい場地、何オレの許可なしにタケミっちの名前呼んでンの? そんなにボコられてぇ?」
耳聡い万次郎がすかさず噛み付く。
「お前……心狭過ぎて普通に引くわ」
「あはは……」
「タケミっちはオレのだし。そこんとこちゃーんと理解しとけよな」
昔から思っていたことだが、万次郎は独占欲がすこぶる強い。事の発端になったプラモデル然り、頑なに洗おうとしないボロボロのタオル然り。お気に入りを見つけたら極端に他人から遠ざけようとする様は、まるで宝物を土に埋める犬のようだ。
「別にテメェのもんじゃねぇだろうが」
場地が冷静にツッコむと、万次郎が拗ねるように唇を尖らせる。だって、とぐいぐい道着の裾を引っ張ってくる子どもの駄々は、幼げで可愛らしい。
「……だってタケミっち、オレのこと一生かけて幸せにしてくれるって約束してくれたもん」
「えっ」
一生とまで誓った覚えはない。
そうは思ったものの深くは突っ込まない。何となくそうしてはいけない気がした。
「タケミっちは俺のダチだし……」
「あ、はい。オレはマイキー君の友達っスよ!」
「ダチィ……? よくやるわ……」
「コラァ万次郎! サボっとらんと稽古せんか!」
「やべっ」
祖父からの叱責にぴゃっと持ち場へ戻った万次郎が、哀れな生徒を捕まえて組み手を始める。南無阿弥陀仏。骨は拾ってやろう。手を合わせ心の中で念仏を唱えていれば、目にも留まらぬ速さで放たれた強烈な蹴り技によって、万次郎の相手が吹っ飛ばされていった。すげぇ、何メートル飛んだんだ。マジでバケモンじゃん、あの人。
「あ、武道」
「真一郎君」
万次郎が無双していくのを一歩離れたところから応援していると、開け放たれた窓から真一郎が顔を覗かせた。
「やってんなー。週六で武術稽古て……お前将来格闘家にでもなんの?」
「人の母親誑し込んで、逃げ場塞いだ奴にだけは言われたくねっス」
「誑し込むって人聞き悪りぃな」
カラカラと笑う真一郎の声に、心が緩んでゆく。彼と会うのは随分久しぶりだ。
また一つ歳を取って、武道を取り巻く環境は大きく変わった。イザナは少年院で出会った極悪の世代の面々や幼馴染みの鶴蝶を引き連れ、横浜で天竺を立ち上げた。愛機を吹かし、威風堂々と湾岸線を爆走する、真っ赤な特服の男たちの存在は横浜の不良たちの憧れで。次から次へと入隊希望者が後を絶たないのだとか。
鶴蝶はイザナを支えるために日々奔走しており、ここのところ武道とまったく会えていない。イザナもイザナで、総長として多忙を極めているのか。時折気紛れに寄越される超長文手紙以外に、彼との接点は皆無となってしまった。何だか寂しい。
「あ、そうそう。今度イザナたちと釣り行くことになったんだけど、お前も来る?」
「釣り? 行きたい!」
「なら決まりな! 今週の土曜は空けとけよ」
「なーにしてんの」
唐突に腹を締め上げられて、グェッと蛙が潰れたような声が出た。後ろを振り向けば、そこには案の定万次郎が立っている。一体どうしたというのか。地を這うような低い声は、明らかに彼が不機嫌であることを示唆しているのに、その顔があちこち跳ねた武道の黒髪に埋もれてしまっているせいで、肝心の表情は窺えない。
「一緒に釣りに行こうって話してたんすよ。あ、マイキー君も一緒にどうスか?」
「万次郎が来るなら足になってくれる奴用意しねぇとな」
武道は俺とタンデムするとして。鶴蝶はイザナに、万次郎は武臣にでも乗せてってもらうか。
テキパキと段取りを決めてゆく真一郎へ、武臣を引っ張り出してくるなら、千咒と春千夜も連れて行きたいと意見する。真一郎はそんな武道の突拍子もない提案に嫌な顔一つせず、そっちの方が楽しそうだなとあっさり納得して、さらに引率者として若狭と慶三の名を挙げた。彼のこういう、すべてをありのまま受け入れてくれるしなやかさが、純粋に好ましい。
「なら人数多いから武臣くんにはいっそ車で来てもらって――」
その調子で真一郎との話に夢中になっていると、突然ぐん、と腹に回された腕に力が籠められる。
「タケミっちはさ、オレのダチでしょ……」
「ん? 何当たり前のこと言ってんスか?」
「なのに何でそんな、シンイチローとばっか喋ってんの? オレのこと無視すんの?」
ズッ。
小さく鼻を啜る音が聞こえて目を剥いた。慌てて万次郎の方へ視線を移すと、一人心細げに身を震わせた少年が、武道を抱き締めながら泣いている。
「タケミっちはオレのなのに……っ」
「マイキー君、」
「オレのダチだって言ってたくせに!」
頬に強い衝撃が走って、気がついたら地面に這いつくばっていた。唖然と顔を上げると半泣きになった万次郎が、間抜けヅラを晒した武道をキツく睨みつけてくる。なかなか思考が追いついてこない武道は口を半開きにして、万次郎の乱心をその大きく見開かれた空色の瞳で捉え続けた。そして、奇しくも武道の浮かべた表情は、真一郎がしていたそれと酷似していた。
「……っ!」
そんな二人を前にした万次郎が、もう我慢ならないとばかりに、再び大きく右手を振り上げる。
「武道!」
ドゴッ!
二撃目の拳は武道を庇った真一郎の頬に沈んだ。
「シンイチロー、……?」
「イッテェ……」
「し、真一郎君……」
倒れ込む真一郎へ伸ばされかけた掌はしかし、パンッ! と乾いた音を立てて、万次郎の手により払い落とされる。
「……っタケミっちのばか! もう知らねぇ!」
肩を怒らせ離れていく背中を、黙って見つめる。彼の姿が完全に見えなくなって、ようやく我に返った。そうか、殴られたのかオレは。不思議と怒りは湧いてこない。ただただ、傷ついた目をした万次郎の表情が目に焼き付いて離れなかった。さらには後になってじくじくと痛み出した頬の熱が、やけに生々しい感覚となって、身の内に巣くう不安や罪悪感を煽り立ててくる。
「武道、大丈夫か?」
「うん、……真一郎君は?」
「めっちゃ痛い。痛過ぎて泣きそう。小学生
でこの威力とか、アイツの腕力どうなってんのよ」
気丈に振る舞っている真一郎だが、彼が一番動揺しているに違いない。不本意とはいえ、万次郎が心から憧れて慕っている兄に本気で手を出したのは、これが初めてだったから。
「追いかけろよ、武道」
「っ!」
「俺は大丈夫だからさ。なんせ殴られ慣れてるし!」
ニカッと白い歯を見せて笑う男に苦笑した。
ちゃんと冷やしてくださいね、とだけ言って武道は走り出す。思い返してみれば自分は、彼を追いかけてばかりだ。その背中に憧れて、圧倒的な強さに惹かれて、転んでみっともなく泣きべそをかきながらも、ここまで駆け抜けてきた。悲しい時こそ笑顔を浮かべる男の心に、寂しがりな子どもの影が隠れていることも知らないで。
「マイキー君!」
後悔なんて、あの時だけで十分だ。
「……たけみ、っち」
もう何度も足を運んだ万次郎の部屋の扉を、遠慮なく開け放つ。道着のままベッドの上で蹲る少年の手には、あちこち汚れたボロボロのタオルが握られていた。
「なんで来たの……オレ、怒ってんだよ」
「うん」
「タケミっちと真一郎のこと、あんな思いっきりぶん殴ったのに、なのになんで……」
「うん」
――なんで、まだ追いかけてきてくれんの?
こちらを警戒する野生動物を手懐けるように、そっと手を差し伸べ、彼の方から近づいてくれるのを待つ。
「……」
ややあって、躊躇いがちに伸ばされた掌を、武道は今度こそ両手でしっかり握り締めた。そして、騎士が忠誠を誓うかの如く、真っ白な手の甲へ唇を落とす。ちょっとキザかな、なんて内心自嘲しながら、精一杯の誠意の形を臆病な子どもに見せつけた。
「言ったでしょ。オレは万次郎を幸せにしたいんだって」
「……、」
「オレ、キミの笑った顔が好きなんです」
だからさ、笑って。
ドンッと勢いよく飛びつかれて、背中からベッドに倒れ込む。無防備に転がった武道の腹へ顔を埋めて、子どもはぐずぐず鼻を鳴らした。必死に泣き顔を隠す彼を微笑ましく思いながら、ふわふわの金の猫毛を撫でつける。
「もっと……」
落ち着きを取り戻した万次郎が、ぽつり、ぽつり、と本音を吐露してゆく。
「よそ見しないでオレを見て」
「オレの傍から離れないで」
「オレ以外と仲良くしないで」
彼が独白してくれた、すべての望みを叶えることは難しいけれど。できる限り叶えてやろう、と。そう奮起してしまう武道は、やはり万次郎に甘いのだろう。
「あとは……」
「はは、多過ぎっすよ。オレそんなに覚えらんないって!」
「いいよ、別に覚えなくて。タケミっちが忘れちまっても、オレが覚えておくから」
瞼を腫らし、不器用に口端を歪めながら、万次郎が言った。
「タケミっちがずっと傍にいてくれるなら、きっとオレはどんな時だって笑っていられるんだ」
秘めやかな睦言にも似た、甘さを孕んだ言ノ葉の響きに酔いしれる。徐々に重たくなってゆく瞼が、さらなる微睡みを誘った。雲の上で二人、くるくると終わらないダンスを踊っているかのような浮ついた酩酊感。ほどよい疲労も相まって、武道の意識は忽ち遠ざかっていく。
「タケミっち、……ごめん」
僅かに痛みを残す右頬を撫でられる。泣きたくなるほど優しい手つきで、何度も、何度も。次に目を覚ました時、彼の姿が一番に目に映り込んだならば、とても幸せな気持ちになるのだろう。目を閉じる直前に覗き見た、少年の笑顔へ思いを馳せつつ、武道は今度こそ完全に意識を手放した。
「まん……じ……ろ……」
「……タケミっち」
満たされた声で紡がれる、人の名を象った福音が、二人の胸の奥にしんしんと降り積もる。
*
太陽が落ちた。
そう錯覚するほどの猛火であった。
「あ……」
パチパチと火の粉が飛ぶ。風に煽られ、大蛇の如く身をくねらせた黒煙が、大きく口を開けてこちらを睥睨していた。徐々にこちらへ近づいてくるけたたましいサイレンの音、地鳴りのように唸る業火の息吹、周囲に群がる野次馬どもの騒ぎ声。張り詰めた緊張が臨界点に達した時、それまで煩わしくて仕方なかった喧騒が、急激に遠ざかってゆく。
バシャッ。
頭から水を被る。妙に思考は冷静だった。予めこうなることを知っていたとはいえ、燃え盛る炎の中に飛び込むなんて無茶は、流石に初めてのこと。もっと動揺してもおかしくないというのに。
(助けなきゃ……助けて、未来を変える……)
瞳の中で揺れる紅緋色の影が、おいでおいでと怪しく手招く。誘われるようにフラフラと歩き出した。そこからは勢いだ。己を制止する声たちを無視して、燃え盛る家の中へ飛び込んでゆく。
(凄い煙だ……なるべく吸わないようにしないと……っ)
玄関扉は先客が壊してくれていた。煙が充満していて視界が悪い。何一つ見落とすことのないよう目を凝らし、一階部分を見回していると、不意に二階から物音が聞こえた。ミシ、ミシ、と階段を踏み鳴らす音が降りて来て、白煙の向こう側にぼんやりと佇む人影が、やがてはっきりとした二人分の輪郭を縁取る。
「あんた……」
ぐったりした様子の子どもを背負った少年が、突然現れた武道を見て驚きに目を瞠った。
「他に人は⁉ 誰か残ってる⁉」
「……っもう一人、多分二階の奥の部屋に、」
「わかった!」
「あ、おい!」
会話もそこそこに一目散に教えられた部屋へと向かう。
「赤音さん!」
床に倒れた少女は意識を失っていた。煙を多く吸い込んでしまったようで顔色が悪い。少女の頬を何度か軽く叩き、名前を呼び掛けてみても、彼女はピクリとも動かなかった。
自分より頭ひとつ分背の高い身体を横抱きにして、武道は部屋の扉ではなく、ベランダへ繋がる窓へと向かう。火元は恐らく一階部分だ。先程確認した時に、キッチン部分の燃え方が特に激しかったように感じられた。自分がこの家に突入してから既に十分ほど経過している。今頃一階はとてもでないが脱出できる状態ではなくなっているだろう。となれば、必然的に脱出経路は限られてくる。
「思ったより高くないな……」
幸いなことにベランダの下は庭だった。芝に覆われた地面はコンクリートよりも遥かに柔らかいし、着地時に多少の衝撃は和らげられるはず。ざっと目測で距離感を計算しつつ、今からすることを思えば、却って赤音の意識が無くてよかったかも知れない、なんてことを漠然と考える。
「よしっ!」
覚悟は決まった。赤音の頭や首を庇うように抱え直して、ベランダから飛び降りる。ワアッという騒めきがどこからともなく上がった。うるさい。見せ物じゃねぇんだぞ。好き勝手傍観する野次馬たちへ毒を吐き、きゅ、と顎を引く。宙を舞うその刹那、視界の端に唖然とこちらを見上げる二人の少年の姿が、映り込んだような気がした。
ドスッ!
頭を庇い身体を回転させながら、肘から肩へ、そして背中から腰へと順にダメージを分散させてゆく。柔道で培った受け身の技術は、着実に武道たちの受けるはずだった衝撃を半減してくれた。
「いって……」
腕の中の赤音を確認する。頭や首を強く打った様子はない。手足には着地した際にできたと思われる小さな擦り傷こそあるものの、それ以外で目立った怪我は無さそうだった。彼女が無事なことに安堵する一方で、再び気を引き締める。無事着地に成功したとはいえ、ここでぼうっとしている暇はないのだ。とにかく安全な場所まで移動しなければ。
「赤音さん……っ!」
痛む身体を叱咤して立ち上がると、門から黒髪の少年が駆け寄ってくる。一重瞼の涼しげな目元が印象的な、小学生くらいの男の子。意識のない赤音を泣きながら掻き抱く彼の横顔に、元部下である九井一の姿が重ねられる。
「あかねさ、……あぁ、良かった……赤音さん、赤音さん……っ」
(ココ君……)
彼の初恋の人は死ななかった。
愛する人と間違えて親友を救った前の世界の九井は、一瞬でも『彼女の方を助けていれば』と考えてしまい、その情の深さ故に自責の念に囚われてしまって――結果、彼は堕ちるところまで堕ちてしまった。そして、彼の才能を利用しようと近づいてきた輩を逆に搾取していくうちに、巨大犯罪組織の幹部にまで昇り詰めたのである。唯一生き残った彼の親友でさえも置き去りにして。
(もう、彼にそんな道は歩ませない)
目の前で零れ落ちてしまった、彼が当たり前のように掴めるはずだった幸せ。一度は失われたはずのそれは今再び、彼の手の中に還ってきた。武道が、彼らの未来を変えたのだ。
(……ミッション、コンプリートだ)
「早く彼女を安全なところへ。オレ、さっき飛び降りた時に腕を痛めてしまって……代わりに運んでもらえませんか?」
感動の一場面に水を差すのは憚られたが、そうも言っていられない。ぷらん、と無気力にぶら下がった右肩を庇う仕草をしてみせれば、優秀な元部下はハッと正気に戻って、今自分たちが置かれた状況を思い出したようだった。
「あぁ、勿論だ。任せておけっ」
九井が赤音を抱き上げ、乾の待つ場所まで武道を誘導する。
這々の体で三人が外へ避難すると、そこは戦場と化していた。防火服を纏った消防隊員たちが周辺住民の避難誘導を行い、一部の隊員が怒声に近い大声で応援要請を掛け続けている。素人の目から見てもやけに火の回りが早いと感じていたが、やはり彼らも同じ事を思ったらしい。通信機片手に現場の状況を説明する男の顔には、隠しきれぬ焦燥が滲んでいた。
「逃げ遅れた人はどれくらいいる⁉」
「火元となった家の子どもたちは、先程全員救出されたとのことです!」
「クソッ! 風が強いな……このままじゃ周りの家も巻き添え食らうぞ!」
「家の北側に向かって重点的に放水しろ! 火元は裏庭のダストボックスだ!」
「放火の可能性が高い! 警察はまだか⁉」
裏庭のダストボックス、放火。
物騒な単語が聞こえてきて自ずと聞き耳を立ててしまう。てっきりキッチンが火元だと思っていたのだが、彼らの会話を聞く限り、キッチン横の勝手口に置かれていたダストボックスが火元であったようだ。それも、放火による火事。苦い気持ちを噛み潰しながら消火活動を見守っていると、数台の救急車が到着する。
「乾青宗君! 青宗君はいるか!」
「乾赤音さんはこちらへ!」
急いで九井が赤音を救急隊員のところまで連れていく。すぐさま彼女の身体に酸素マスクが取り付けられ、救急車の中へと運び込まれていった。その後、付き添いができそうな家族はいるかと問われ、まだ意識のある乾が「両親は仕事でいません」と静かに首を横に振る。この場で唯一の肉親である乾自身は、今にも意識が途切れてしまいそうな有様で、とても赤音の付き添いができそうな状態ではない。すると九井が自ら手を挙げて、彼女の乗る救急車への同乗を申し出た。
「イヌピー、悪い……」
「気にするな。赤音の方が危ない……お前がついててやってくれ」
そして二人を乗せた救急車は、そのまま搬送先の病院へ向かうべくサイレンを鳴らして走り去っていった。
「では青宗君はこちらへ。ここに仰向けの状態で寝てください」
ふらつく身体を隊員に支えられながら、乾が担架の上に寝転がる。
「……お前、」
彼らとはここでお別れか、と。一人しんみりした気持ちになった時だった。踵を返してその場から立ち去ろうとしていた武道へ、予想外にも乾が声を掛けてきた。
「え?」
「名前は?」
水浅葱の瞳に射抜かれる。
今にも倒れてしまいそうなほど弱っていたとは思えぬくらいに、強い視線だった。
「……花垣武道」
「はながき……たけみち……」
「南東京の救急が受け入れ可能とのことです」
息を切らしながら走ってきた救急隊員が、現場監督らしき女性へと報告を入れる。
「お姉さんと同じ病院ね。では青宗くん、行きましょうか」
赤音と同じように酸素マスクを取り付けられ、乾もまた救急車に乗せられた。慌ただしく彼らが去っていき、その場に一人取り残されることとなった武道は、現場の状況確認をしている警察官の方へと歩いて行く。自分が家の中で見た光景や、救急隊員たちの言っていた言葉。それらを全部伝えたら家に帰ろう。夕飯の時間に遅れたら母がとやかくうるさいだろうから。
「あの、すみません」
二〇〇一年十一月四日。
紅葉の盛りを迎えた秋の宵、天命を攫んだ。
本来死ぬはずだった人間の死を回避する。そんな違えようのない摂理をひっくり返してみせたというその事実は、先の見えない暗がりで独り足掻いてきた武道にとって、理想の未来への道を拓く一筋の光明となった。
*
――キーンコーンカーンコーン。
昼一番の終業を知らせるチャイムが鳴る。待ちに待った冬休みだ。年末は何処に遊びに行くのか、初詣は誰と一緒に行くのか等、浮き足だった様子の子どもたちが教室ではしゃいでいる。
「タクヤんちは年末は親戚の集まりに行くんだっけ?」
大量の宿題のせいで重くなったランドセルを背負い直し、武道が問う。
「んー、多分? 今年の夏に叔父さんが亡くなったらしいから、もしかしたらナシになるかもだけど」
体操服の入ったサブバックを振り回しながら、タクヤが答えた。
二人一緒に教室を出ると、廊下で何人かの男女が暇そうにたむろしている。チラチラとこちらを見やる女子たちは、きっとタクヤのことが気になるのだろう。昔ほど病弱ではなくなった彼は、ここ最近体育の授業中に倒れることがなくなった。また、必要最低限の運動ができるようになったおかげか。常に青白かった肌の色は段違いに明るくなり、美人な母親譲りの甘い顔立ちをしていることも相まって、何気に年上の女子たちから根強い人気を博している。
「タケミチはマサル君ちに遊びに行く感じ?」
「去年と同じならそうなるかなー。でもわっかんね。真一郎君ちに泊まりに行くかもしんねぇし」
「ああ、真一郎クンね。相変わらず仲良いのな」
「タケミチくん、学校お疲れ様っしたー!」
タクヤと話しながら歩いていると、校門前で待ち構えていた数人の上級生たちから、一斉に頭を下げられた。入学式早々に武道へ喧嘩を売ってきた挙げ句、返り討ちにされた面々だ。
「え、あ、うん。そっちもお疲れさま……」
「家までご一緒します!」
「いや、間に合ってま」
「今日給食ないから腹減りましたよね⁉ メシ買ってきますか⁉」
「家で食べ」
「宿題重いっスよね! 俺馬鹿だから代わりにやるのは無理スけど、家までお持ちますよ!」
「相変わらずグイグイくるな……そのノリ誤解を生むからやめてほしい、切実に」
隣に立つタクヤはすっかり慣れたもので虚無の顔をしている。周りの女子たちはガッツリ引いているし、頼みの綱である学友たちも、皆関わりたくないとばかりに我関せずを貫いていた。はて、何故こんな面倒なことになったのだっけ。
あぁそうだ、こいつらの兄弟とかいう半グレの奴らに絡まれてから、すべての歯車は狂い出したんだ。
「そんな! 俺兄貴から『真一郎さんの弟分の面倒をちゃんと見てやれ』って頼まれてるんスよ!」
「俺だってコウ兄から喧嘩に負けたら舎弟になるのが流儀だって聞いたぜ」
いや誰だよコウにぃ。
突っ込んだら負けなので敢えて無視を決め込むも、武道本人の意向を差し置いて、彼らは一方的に自分の事情を捲し立ててくる。
(いやさぁ……中身三十路のフリーター男が、小学生の舎弟侍らせてふんぞり返ってるって、めちゃくちゃダサくね?)
ダサい以前に犯罪臭すら漂う。身体は小学生とはいえ心は大人な武道としては、そんな悲惨な絵面になることだけは全力で避けたかった。大体入学式で絡まれた時でさえ、小学生相手に拳を振るうことに躊躇いを覚えたのだ。これ以上の精神的負荷は御免被る。
「てなわけだから俺らはタケミチくんの舎弟なんスよ!」
「えーっと……」
「タケミチくん、俺らのことを存分に使っ」
「花垣が困ってんだろうが。失せろ」
バキィッ!
いい加減うんざりしてきた武道が、どうやってこの場を切り抜けようか思案し始めた頃だった。突然横から飛んできた黒い何かによって、それまで武道の周りを取り囲んでいた上級生たちの姿が一掃された。
「ヒューッ、イヌピーやるぅ」
「……」
ゆうらりと武道たちの前に現れた少年は二人。黒髪に一重瞼の涼しげな面立ちをした少年と、金髪碧眼の華やかな色彩を纏う中性的な容貌の少年。こんなに目立つ二人を見間違えるわけがない。
(ココくんとイヌピーくん⁉)
少年たちの正体は、まさかの九井と乾であった。
「久しぶりだな、花垣」
先程上級生たちを吹っ飛ばした黒い物体は、どうやら乾のランドセルらしい。傷だらけでボロボロの散々たる状態を見るに、それは未来の彼でいうところの鉄パイプのような扱いをされてきたようだ。肩紐の部分なんて振り回し過ぎて千切れかけていた。
「な、なんで……?」
「?」
「なんでいきなり、みんなをぶっ飛ばしたのかなって……」
「困っていたようだったから、とりあえずシメた」
遠巻きにこちらを見る周囲の様子などものともせず、乾がいけしゃあしゃあと返す。じっとこちらを見つめる瞳は、あの日と変わらず真っ直ぐな強い光を湛えていた。
(とりあえずシメたって……この頃からイヌピー君ぶっ飛んでたんだな……)
乾の額には、前の世界と同じように火傷痕が残ってしまっている。ただ以前とは異なり痕の色はかなり薄く、その大きさも額の左端にちょこんと鎮座する程度で済んでいた。これくらいなら前髪を伸ばしてしまえば、あまり目立つことはなさそうだ。
こんなところでも前との変化を実感するとは、何だかとても感慨深い。
「えっと……」
「あぁ、名乗ってなかったな。乾青宗だ」
「俺は九井一。江東区の放火事件の時、イヌピーたちを助けてくれたのってお前だろ? ずっと探してたんだ」
まさか二人が自分を探していたとは思わず、驚きから目を見開く。確かあの時、乾には名前しか伝えていなかったはずだ。だというのに何故、武道の通う小学校がわかったのだろう。純粋に疑問を抱いていると、その様子を察した九井がここに至った経緯を説明し始めた。
「お前の名前は有名なんだよ。なんせ初代黒龍総長が猫可愛がりしてる弟分だっていうし?」
「入学早々上級生の奴らをシメて、学校の番張ってるって噂もあった」
「噂を聞けば聞くほど、どんなヤベェ奴だよって思いながら来てみれば」
「……意外とフツーなんだな」
「ぷっ、おいおいイヌピー。俺らのヒーロー様にそりゃあんまりじゃねぇの?」
「ディスってんスか? ディスってますよね?」
前を思い出す軽口の応酬に懐かしさが込み上げる。何の負い目もなく彼らが仲良くしている姿は、元々そう在るべきものとして生まれてきたのだ、と言われても不思議に思わないほどに、とてもしっくりくるものだった。
(前のココ君とイヌピー君は、いくら仲良く見えても深いところで、何処か一線を引いていたみたいだったから……)
九井が乾と決別し、武道が黒龍の十一代目を継いだ日。
乾は自分たちの過去に何があったのか、武道に打ち明けた。あの火事の日に起きたすれ違いや、九井が金に執着するようになった理由。それから……辛い記憶から逃げるように家を引っ越した乾の家族たちが、バラバラになっていくまでの悲愴な顛末。聞いているだけで胸が苦しくなった。彼らの確執は、あまりにも根深過ぎて。二人がすべてを乗り越えて、また新たな関係を築き上げるには、あと一歩相手に踏み込むための勇気も、心の傷を癒やす時間も、少しだけ足りなかった。
「花垣」
凜とした声で名を呼ばれ、無意識に背筋が伸びる。
「ありがとう」
深く、深く頭を下げられた。
一目見ただけで、心から感謝しているのだと痛いほどに伝わってくる、そんな一礼。
「花垣がいなければ、きっと赤音は助からなかった」
「俺だって……惚れた女も、親友も……両方失うことになったかも知れねぇ」
「あの日、二階のベランダから飛び降りたお前を見た時、『コイツだ』って思ったんだ」
す、と少しだけ顔を上げた乾が、熱に浮かされた瞳で唖然とする武道の顔を捉える。
「コイツに『オレの命を預けたい』って、強烈に思った」
――オレはオマエに命を預ける。
九井を救うために、土下座までした乾の覚悟が胸を過った。
「……やっぱり、根っこは同じなんスね」
ぽそりと呟く。音にもならない微かな吐息は、誰の耳に入ることもなく、そのまま泡のように儚く消えた。次の瞬間、武道はニカッと笑い、未だ頭を下げ続ける九井と乾に向かって、努めて明るく言葉を掛ける。
「へへ、じゃあ二人は今日からオレのダチってことで!」
「……っ」
「よろしく! 乾君、九井君!」
二人の前に両手を差し出せば、おずおずと握り返される。九井は終始鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていて、乾は水浅葱の色の瞳を眩しげに細めつつ、ただ黙って武道の手を握り締めていた。
「ココでいいぞ」
「オレも……イヌピーでいい」
その日のことはあっという間に噂となり、『あの花垣武道が新たに狂犬二匹を舎弟にした』という根も葉もない……ようなあるような微妙な噂が拡散されることとなるのだが。この時、感動の再会に気を取られていた武道には、知る由もないことなのであった。それから、
「イヌピー、アイツのこと気に入ったのか?」
「……あぁ」
「ふぅん。珍しいこともあるもんだ」
「花垣といるとこう……胸の奥がフワッとなって、突然発作が起きたみたいにグワッとクる時がある」
「お、おう。……こりゃ重症か? まだ後戻りキくやつか?」
「花垣とずっと一緒にいてぇし、もっと触りてぇ。アイツ困らせる奴らは全員ぶっ飛ばしてやりたくなる。それに何か、見てて危なっかしいから、オレが守ってやらないとって……何だこれ……また頭がフワフワしてきた」
「ダメだ手遅れなやつだった」
なんて会話がコソコソと後ろで交わされていたことも、勿論武道の預かり知らぬところであった。