第弐章 凶星流るる因果
第伍話 堕ちた龍
ズラリと新品のバイクが立ち並ぶ展示スペースの奥。今や定位置となった真一郎の背中を目で追って、時折唸る排気音に耳を澄ませる。今回のメンテナンスはゼファーか。空冷特有のバリバリと乾いた音が、何とも言えない渋さを醸し出していた。
「真ちゃん、それタカちゃんのゼファー?」
退屈そうに欠伸を漏らしながら、若狭が聞く。
「そうそう。いつもの定期メンテなんだけど、んー……ちぃっとキャブレターの錆が気になるから取っとくか」
「スプレー取ってくるワ」
「おう、悪いな」
「ほー、黒塗装にゴールドのホイールってイカしてんな」
真一郎の隣でずっと作業を見守っていた慶三が、興味津々とばかりにボディを覗き込む。釣られて武道も視線を向けると、外装だけでなくエンジンまで黒く塗装されていた。それに加えて各パーツの輝きっぷりといったら。一体何時間磨いたのだと聞きたくなるほど、滑らかな艶を放っている。
このゼファーの持ち主は、相当のバイク好きらしい。
「な、まじ激シブ。てか四本出しの音めちゃくちゃ良くね? やっぱあいつイイ趣味してるわ」
本当にバイクが好きなんだなぁ、と漠然と思った。煙草を燻らせ、何時間も飽きもせずにカチャカチャとパーツを取り外しては洗って、磨いて、塗って、また組み立てて。細部の部品一つ一つに対する扱い方を見ていれば、彼がどれほどバイクを愛しているかわかる。
――なんか、いいだろ?
前の世界で乾に聞かされた時から、ずっとこの光景を見てみたいと思っていた。憧れていた。だけど、もう二度と叶わないのだと諦めていた。
――大人になっても昔やったバカな事、笑いあえる仲間。
それが、今こうして目の前で体現されている。この夢のような現実を噛み締めて、武道は己の記憶へ焼き付けるように、彼らのやり取りを見つめ続けた。
二〇〇三年五月。武道は小学六年生となった。
武術の稽古にはもう通っていない。一通り身体の使い方は学んだし、その道のプロになるわけではない武道にとって、これ以上通い続ける必要がなくなったためだ。それに、今年は色々な意味で激動の一年になる。可能な限り身体を拘束される時間を減らしておきたかった。
「なんかいいよな、こういうの」
初代黒龍の元メンバーたちが和気藹々と騒いでいる姿を見て、乾が眩しげに目を細める。店頭スペースの片隅で、彼らの一挙一動に目を輝かせる子ども二人の眼差しは、格好つけたがりな元不良たちの自尊心をこれでもかと擽ったようだ。初めこそ曇りのない視線に晒されることに、居心地悪そうにしていた男たちであったが、今ではなんやかんや言って武道と乾のことを可愛がってくれている。
「オレも黒龍に入りたい!」
「ははっ、そうかー、黒龍入りてぇかー」
鼻息荒く意気込む乾にカラカラと笑いながら、真一郎が相槌を打つ。
「うん、真一郎君みたいなカッケェ不良になりてぇ」
「最弱王目指すのはやめとけよ。女にモテなくなるぞ?」
すかさず若狭が揶揄うように口を挟んだ。
「おいこらワカ、誰が最弱王だコラ」
「今告白十八連敗中だっけ?」
「二十連敗中ですが何か文句あるか!」
わはは。
場が沸いて、温かなもので心が満たされる。真一郎の店は、いつだって居心地が良かった。誰かしら初代黒龍のメンバーが遊びに来て、昔の思い出を時折引っ張り出してはバカなことを言って、笑って。昔の武勇伝を語られ気恥ずかしそうにする真一郎を、皆んなで揶揄う。真一郎を中心とした穏やかな時の流れが、脈々と続いてゆく。
「けどまぁ、マジな話すると今の黒龍はやめといた方がいいぜ」
だが、そんな和やかな空気はその一言で、緊張を孕んだものへと変わった。
「この前女を殴ってる奴らがいたからノシといたんだが……そいつら何処のチームの奴らだったと思う?」
「……」
「黒龍だよ。黒龍の奴らが、女囲んでリンチするような、そんなクソみてぇなことしてやがったんだ」
未だ怒りが収まらないのか。若狭の握られた拳が、力の入れ過ぎで真っ白になってしまっている。前の世界で少年院を出所した一虎が、堕ちた東卍に対して怒りを滲ませていた姿が思い出された。
じくり。
あの時、一虎に殴られた左頬が痛んだような、そんな錯覚に襲われる。
「黒龍は堕ちた……今ではそう言われてる。初代の頃の面影なんざカケラもねぇよ」
吐き捨てるようにそう言って、若狭は真一郎へスプレー缶を渡した。真一郎は差し出されたそれを黙って受け取り、また淡々と作業に戻る。
何と言えばいいのか言葉に詰まった。悔しげに顔を俯ける彼らのことを思うとやるせなくて、でも一介の小学生でしかない武道にはどうすることもできない。せめて自分が中学生だったなら。ガキだからと舐められることもなく、チームに入って黒龍を立て直すことだってできたかも知れないのに。ままならぬ現状がもどかしくて仕方なかった。
「……っ」
隣で話を聞いていた乾も同じことを思ったらしい。前のめりになって何事か言いかけた彼の口を、武道は咄嗟に掌で塞いだ。
「それならオレが」
「ダメだよ、イヌピー君」
この状態の黒龍に乾一人で行かせるわけにはいかない。乾が今の堕ちた黒龍に染まってしまえば、前の世界の二の舞になりかねないからだ。それに、九井がそんな危険なチームに乾を一人で飛び込ませるとは思えない。九井と乾が二人一緒に黒龍入りするとなると、もっと最悪の事態になることだって考えられる。
「イヌピー君が黒龍に入るなら、その時はオレも一緒だ」
一年。たった一年だ。その間だけ待って欲しい。
「花垣……」
その後暫く続いた沈黙は、乾がポッと頬を赤らめたことであっさり破られた。
「あ……ぅ……わかった。ならその時まで待つ……」
「ゴッホン」
わざとらしく真一郎が咳払いをする。若干据わった目でじとりと睨まれ、武道が首を傾げると、砂でも噛んだみたいな顔をした慶三が呟いた。
「息子のエロ本見つけた母親の気分」
「ブフッ」
それから若狭と慶三が一足早く店を後にして、乾もまた塾帰りの九井を迎えに行くと言って帰っていった。唐突に訪れた静寂の下、店に二人きりとなった武道と真一郎は、特に言葉を交わすでもなくそっと隣で息をする。
「……俺さ、前にも言ったけど、黒龍を兄弟に継がせるのが夢だったんだ」
ぽつり、ぽつり、と。降り出した雨のように真一郎が話し始める。
「確かに前まではそうだった。でも今は……よくわかんねぇ」
「……」
「当代の黒龍の酷さについては、他の奴らからも話を聞いてる。とてもお前らには聞かせらんねぇようなことも平気でする……一言でいえば極悪のチームだ。そんな堕ちるとこまで堕ちたチームを弟に継がせようとするほど、俺の目は曇ってない」
話しながら自分の心の整理をつけている。
真一郎の話に無言で耳を傾けていた武道は、何となくそう感じた。あれだけ黒龍を大切に思っていた男だ。飄々とした顔をしていたけれど、ショックでないわけがない。当代の黒龍を語る真一郎の声には色濃い失望と、諦観と、それからどうしても消し去ることのできない僅かな未練が滲んでいた。
「なぁ、ダセェこと言っていいか?」
「……うん」
「それでも俺は、黒龍が大事なんだ。俺の宝なんだよ。やっぱり諦めらんねぇ」
オイル汚れで黒ずんだ雑巾をぎゅうっと強く握り締めて、真一郎が唇を噛み締めた。自分の作ったチームだ。特別な思い入れがあるに決まっている。武道が覚えた悔しさなどとは比べ物にならないほど、歯痒い思いをしてきたことだろう。
「……今から言うことは忘れてくれ」
「内容によりますかね」
「そこは素直に頷くところじゃねぇの?」
へらりと笑った男が、わざとらしく肩を落とした。少しは力が抜けたみたいだ。やはりこの男はそうでなければ。伝説の不良に暗い顔など似合わない。
「黒龍は、お前に継いで欲しい」
「……っ」
「万次郎じゃダメだ。アイツが今の黒龍を継いだら、多分染まっちまう……あれで不安定なとこがあるから。でも、お前なら黒龍を正しい方向へ導くことができる。何でかわかんねぇけど、そう感じるんだ……」
馬鹿なこと言ったな。忘れてくれ。
最後にそう呟いて、真一郎は再びゼファーを弄り始めた。
正直嬉しく思わなかったと言ったら嘘になる。真一郎に黒龍を託す言葉を贈られた時、武道は純粋に誇らしい気持ちになったのだ。だが、それ以上に不安の方が大きかった。本当に自分が、今の状態の黒龍を立て直すことができるのか。狂った暴走龍を乗りこなすだけの大器が、己にあるのか。任せとけ、と胸を張って言い切れるほどの自信がどうしても持てない。
(いや、なに日和ってんだオレ。決めただろ。絶対に未来を変えてみせるって、誰も死なせないって、皆んな助けるって、そう決めただろうが……ッ)
ここで逃げたらキヨマサたちから逃げ出したあの頃の自分と同じだ。逃げた結果はどうだった? 死んだように生きる毎日。親しい友も恋人もおらず、常に後ろめたさがついて回る孤独で空虚な人生。そして己は、こんな自分を愛してくれた大切な人を失ってから初めて、その存在の大きさに気づく大馬鹿者と成り果てた。
(考えろ……オレが黒龍の総長になればどうなるか……無い頭を振り絞って考えろ!)
もう前までの自分じゃない。守られてばかりは嫌だと奮起し身体を鍛えた。前と同じ流れを辿るだけではダメだと悟り、運命にすら抗った。特に今年は激動の年。六月に万次郎たちが東京卍會を結成し、八月には真一郎が殺される。特に真一郎の店で起きた強盗殺人事件だけは、どうあっても回避しなくてはならない。
そう、どんな手を使っても。
(黒龍を継ぐといってもすぐには無理だ。最低でも小学校を卒業してからじゃないと。ただ、黒龍次期総長の肩書きはあって損はない)
それとも中学入学までは誰かに総長代理になってもらおうか。首のない天使と呼ばれた芭流覇羅のように。総長の素性を隠して代役を立てるなら、武道の年齢問題についてはひとまずクリアできる。とにかく時間がない。何といっても、あの東京卍會が増長しそうになった時は、黒龍が抑止力とならなければならないのだ。地に堕ちたとまで囁かれる黒龍の力で、あの猛スピードで勢力を拡大していった東卍を抑えるとなると、今から準備してギリギリ間に合うかどうか。
「……オレ、やります」
――オレの人生は苦しみだけだった。
武道の心に深く傷を刻み込んだ男の声が、頭の中に木霊する。あんな顔、彼に二度とさせたくない。万次郎を巨悪になどさせてなるものか。
「真一郎君、オレ黒龍を継ぐ」
「え、……?」
「そんで東京一の……ううん、『関東一』のチームにしてみせる」
覚悟は、決まった。
この先に延びる修羅の道。後ろを振り向くことは許さず、ただひたすら前へ前へと羽ばたき続ける。すべての願いと後悔を背負い、天の頂きに還るその日まで。決して翼を休めはしないと、初代黒龍総長の名に誓おう。
「武道……」
「真一郎君の作った黒龍の名前は、正直スゲェ重いけど。オレ、初代黒龍みたいな誰もが憧れるチームを作りたい」
空色の瞳に太陽の輝きを宿して、少年は笑う。
「道を踏み外す奴がいたなら、ぶん殴って正しい方へ導いてやる。苦しんでる奴がいたなら、当たり前のように手を差し伸べてやる。一方的に他人を痛めつけるのでも、強さを見せつけるわけでもなく、いつだって助けを求める誰かの救いになりたい」
「……っ」
「初代総長へ誓う。オレは、オレたちは、正しいことに力を使う。誰かを傷つけるのではなく守るために、この拳を振るう」
まさに絶句。今の真一郎の心情を一言で表すなら、まさにそれだった。今まで弟分として可愛がってきた少年に、焦げつきそうなほどの熱視線で射抜かれて、そんな高潔たる誓詞を捧げられては、何も言えなくなる。
「……前から思ってたけどさ」
「?」
「お前、マジで小六?」
突拍子もなく問われた武道は、軽く面食らった顔をすると、ふ、と柔らかに微笑んだ。道端に咲く小さな野花が、気紛れに駆ける春風に靡く様を彷彿とさせる仕草。何でもない光景にもかかわらず、不思議と惹きつけられる表情の綻びに、真一郎は目を奪われる。
「やっぱり、真一郎君とマイキー君って似てますね」
「え、突然なに」
「何となく思っただけっス」
停滞していた時の流れが、再び動き出す。
途中でほっぽり出してしまっていた作業の続きに戻った真一郎は、ぼんやりと窓の外を眺める武道の横顔を盗み見た。丸みを帯びた幼い輪郭を残す少年の浮かべる表情は、やはり何度見返しても、それなりの年数を経てきた者のそれで。しかし、その歪な在り方を察しはすれど、敢えてその違和感の正体を問い詰めようとは思わない。
心の何処かできっと、言葉はなくとも通じ合えるこの曖昧な関係が、何より得難いものなのだと知っていたから。この関係を壊したくなくて、真一郎は今日も見て見ぬふりをする。
歯止めが利かなくなりそうな己の心から、彼を守るために。
やがて飛ぶことに疲れた小さな友人の、羽休めの場所として、己の隣を選んでもらえるように。
*
その日は雨が降っていた。
起き抜けからうんざりするほどの湿気た朝。窓を覗き込めば鼠色の分厚い雲が空を覆い隠している。まともに青い空を拝んだのは、一体いつのことか。ここ最近はずっと曇天が続いていた。
『気象庁は先程、関東甲信や九州北部などが梅雨入りしたとみられると発表しました。関東甲信では例年より三日遅い梅雨入りで……』
寝ぼけ眼を擦りながらリビングへ降りると、不意につけっぱなしにされたテレビ画面が目に入る。気象速報を読み上げるキャスターの声は淡々としていて、退屈な日本史の授業でも聞いているような気分になった。すかさず武道を襲った睡魔が、甘い誘惑を仕掛けてくる。
『明日にかけて梅雨前線が西日本から東日本へ停滞するため、広い範囲で非常に激しい雨になる恐れがあります。明日の朝までに予想される雨量は……』
こくり、こくり、船を漕ぐ。あと五分。あと五分だけ。
「ぼうっとしてないで早く食べちゃいなさい。遅刻するわよ」
キッチンで忙しなく動き回っていた母が、朝食の盛り付けられた皿をテーブルに置いた。恨みがましい目で母をじとりと見上げるも、それ以上の険しい視線を返されて、渋々牛乳の注がれたマグカップに口を付ける。そして、サクサクと小気味良い音を立てながら、武道はトーストを囓り始めた。
陰鬱な天候に引き摺られてか身体が重い。このまま学校をサボってしまいたいところではあるが、ある程度不良に寛容だった溝中とは違い、小学校はすぐさま保護者へ連絡がいってしまう。学校から報告を受け、激怒した母の鬼のような形相を思い浮かべた武道は、すぐさまサボるという選択肢を打ち消した。中身三十路が情けないとは言う勿れ。いくつになっても母親とは恐ろしいものなのだ。
(今日はイヌピー君たちと初めての集会か……)
真一郎に黒龍を継ぐと宣言してから、武道はいの一番に乾と九井に協力を仰いだ。
本当は二人を巻き込みたくなかったのだが、乾のあの様子では一人で暴走しかねないし、九井は九井でそんな乾の暴走に自ら巻き込まれにいくだろうことは、容易に想像できる。自分の見ていないところで好き勝手されるくらいならば、初めから協力者にしてしまう方が余程安心だ、と。そう判断したが故の勧誘だった。
ちなみに二人に話をしたら、こちらが拍子抜けするほどの二つ返事で了承された。曰く、元々中学になったら何処かのチームに入るつもりであったとのこと。後に乾から『花垣の誘いがなければ、一人で黒龍に乗り込むつもりだった』と聞き、冷や汗を垂らしたのは余談である。
「じゃ、いってきまーす」
「いってらっしゃーい」
学校へ行って、退屈な授業を受けて、仲の良い友人たちと連んで、体力が底をつくまで遊ぶ。いつもとなんら変わらない日常が、延々と繰り返される。飽きもせずにやってくるルーティンを、ただ消化するだけの一日。今日もそんな日になるはずだった。
その、はずだった。
パラパラとまばらな雨がそぼ降る放課後。
今日の集会はファミレスでいいか、なんてのんびり考えつつ教室を出た時のことだ。周囲がやたらと騒ついていることに気がついたのは。
(なんだ……?)
ざっと周りを見回してみると、まず校門前でたむろっている集団が目につく。よく見れば何人かは武道のクラスの子どもたちで、残りの三人はここら辺ではあまり見かけない顔だった。
見るからに沸点の低そうな筋肉隆々の坊主頭に、ヘラヘラと笑うナンパ野郎、それから一人冷めた目をして子どもたちを見下ろす銀髪の男。着崩されたあの学ランは、恐らく隣の学区の中学校のものだろう。あそこは確か、黒龍の縄張りであったはずだ。目立つ不良はすべて黒龍に潰されたと聞いているから、だとすればこの男たちは黒龍のメンバーか、あるいは彼らのパシリか。
何にせよ、和やかとは到底言い難い空気を放つ彼らの様子に、本能が警鐘を鳴らす。
「おいガキども、『ハナガキ』はまだかよ⁉」
「ヒッ……!」
「さっきから言ってんだろ! タケミチは先に帰ったって!」
たったそれだけの会話で、武道は今何が起きているのか正確に読み取った。
(カチコミか……!)
狙いは間違いなく自分だ。タクヤが必死に庇ってくれているようだが、イライラを募らせた男たちに今にも殴られそうになっている。このままにしておくのは危険だ。
「オレに何か用?」
不穏な空気を醸し出していた集団が一斉に武道の方を向く。
「タケミチ……ッ来んな!」
「なぁんだ、『花垣』いんじゃーん」
「チッ、舐めた真似しやがって!」
嘘に気づいた坊主頭が舌打ちし、タクヤを殴ろうと右腕を振り上げた。直後、武道が丸太のような手首をわし掴む。そのまま相手の力を利用して捻り上げ、流れるように地面へ引き倒した。
「……ハ?」
転がされた男は何が起きたのかわからない、といった顔をしている。
周りでイキがっていた連中も、ただの小学生に反撃されるとは思ってもみなかったのだろう。皆、無様に倒れ込んだ坊主頭とその背に跨がる武道のことを、口を半開きにして凝視していた。
「ガキ相手にマジになるとか、どこまでダッセェんだよ」
上手く注意を引き付けることに成功した武道は、敢えて挑発的な笑みを形作る。
「……っんだと、」
「で、何の用? わざわざ小学校まで迎えに来てくれるなんて、手厚い歓迎じゃん」
敬語は使わない。小馬鹿にしたような口調で相手のヘイトをすべて自分へ向けさせる。この場にいる子どもたちには指一本触れさせない。半泣きになって震えながらも嘘を吐いたタクヤや、武道が見つからないよう男たちの注意を逸らしてくれていたクラスメイトたち。誰もが武道の大事な人だ。こんなクソだせぇ奴らに簡単に傷つけられていい存在ではないのだ。
「この……ッ」
「ノリ、いつまで遊んでいるつもりだ。花垣を見つけたならずらかるぞ。サツでも呼ばれたら厄介だ」
顔を真っ赤にして怒り狂う坊主頭を、どうやらリーダー格であるらしい銀髪の男が窘める。
「アキさん……チッ。このガキ、後でじっくりヤキいれてやっから覚悟しとけよ」
銀髪の男に短く咎められただけで、今にも殴りかかろうとしていた坊主頭は拳を収めた。しかし、その直後には血走らせた目で宣戦布告してくるものだから、武道もまた負けじと睨み返す。
「花垣武道、お前には俺たちと来てもらう」
「……断ったら?」
「頷くまで、この場にいるガキどもを一人ずつ殺していく」
懐から取り出されたのは、折り畳み式のサバイバルナイフだ。扱い慣れた様子からして、武道を脅すためのハッタリというわけではなさそうである。殺ると言ったら殺る。どんよりと濁った黒い眼が、言葉にせずとも明確にそう語っていた。
「……わかった」
「タケミチ! ダメだ! 行くな!」
「ちーっと黙ってろ、な?」
「大人しくついてってやるから、タクヤたちには手を出すな!」
苛立たしげにタクヤを殴ろうとした泣き黒子の男を制すると、静かにこちらを見据える銀髪の男と視線がぶつかる。ゾッと鳥肌が立った。底の見えない深淵を覗いているような、一切の感情が削ぎ落とされたその瞳は、あの人によく似ていた。
「……ノリ」
「ウ、ウス」
泣きじゃくりながら武道を引き留めようとしてくるタクヤに、「大丈夫だ」と笑いかけて宥め、銀髪の男が示したバイクの後ろへ飛び乗る。
「タケミチ……ッ」
「タクヤ……! やめとけって!」
「今度こそ殺されちまうぞ!」
クラスメイトたちが止める中、必死にこちらへ手を伸ばす幼馴染みの声には聞こえないふりをして。
武道は、己の平穏をぶち壊した乱入者と共に、耳障りな爆音を撒き散らしながらその場から走り去った。
*
(あそこは……工場かなんかか?)
それから、猛スピードで突っ走るバイクに揺られること数十分。雨のせいで濡れ鼠と化した武道が連れて来られたのは、場末の廃工場だった。
「降りろ」
端的な指示に従って、黙ってタンデムシートから降りる。ぴちゃ、という水の滴る音がやけに重く響いた。
錆びついたトタンの壁、天井から吊り下げられている壊れたクレーン、埃を被って放置された大型の加工機。トドメに彼方此方にゴミや折れたバットが散乱している様は、まさしく廃墟と呼ぶに相応しく。改めてここへ連れて来られた意味を考えると、ただでさえ朝から最悪だった気分が底辺まで落ち込んだ。嫌な予感しかしない。
「初代に気に入られて調子こいてるっていうガキは、お前のことだな?」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべた白い特服姿の男が、奥の部屋から現れる。すると、それまで散々威張り腐っていた男たちが挙って頭を下げた。間違いない。この男が当代黒龍の総長だ。
「設楽さんお疲れ様です!」
「おう、頭上げろや」
ドカッと部屋の真ん中に置かれたソファに腰掛けて、設楽が言う。
「小一で学校の頭張って、報復に来た野郎どもを片っ端からノシたって噂はマジなのか?」
「……そう聞いています」
「でも設楽さーん、こいつ滅茶苦茶弱そうっす。やっぱり噂はガセだったんじゃ?」
「ぶ、はは、ははははは!」
突然、ゲラゲラと設楽が笑い出した。武道を連れてきた三人の顔が、あからさまに強張る。何がそこまでおかしいのか、腰を折り曲げて笑い転げる設楽は呼吸を整えると、肉食獣のようなギラついた視線を武道へ送った。
「疑わしきは殺す。疑わしくなくても気に入らなければ殺す。初代のお気に入りだってんなら、総長争奪戦に加わるかも知れねぇしな。邪魔になる前にとりあえず殺っとくのが安パイだってもんよ」
なんとなくコイツらの目的が読めてきた。
つまりは真一郎と親しくしている武道が気に入らないのだ。それだけでなく黒龍の総長の座を巡った、内部抗争も絡んでいる様子。これは厄介なことになった。
「ここ数年の黒龍は世代の入れ替わりが激しい。三ヶ月で総長交代なんてこともザラにあった。うかうかしてたらいつ寝首掻かれるかわかったもんじゃねぇ」
「……」
「こんなガキがこの俺に何か出来るとは思えねぇけどよ。初代が絡んでくるとなると話は別なんだわ。初代の威光ってのはあながち馬鹿にできねぇ……あの人がコイツを総長に推したら……」
バキンッ!
設楽が足を置いていたテーブルが折れた。怒りに任せて蹴られた衝撃で、真っ二つに割れたのだ。
狂ってやがる。前の世界で初めて黒龍と邂逅した時に感じたことと、まったく同じことを考える。否、前よりも酷いかもしれない。大寿が十代目を務めていた頃は、良くも悪くも組織として統制されていた。圧倒的な暴力と恐怖でもって縛り上げられた結果であったが、ある意味そのおかげで黒龍内部の状況は安定していたともいえる。
しかし、目の前のこの男にそこまでの力があるとは思えない。何人もの猛者たちと戦ってきた武道だからこそわかる。
――この男は、総長の器じゃない。
「てなわけで、ちぃっと痛い目見てもらうぜ」
それからはほぼ一方的なリンチとなった。
一対一ならまだ何とかなったものを、次から次へと黒龍の隊員たちが湧いてきて、数にモノを言わせて容赦なく襲い掛かってくる。顔も身体も至る所を殴られ、蹴られ、踏みつけられ、散々痛めつけられた。
しかしどれほど絶望的な状況となっても、武道は諦めなかった。勝てるとは思っていない。いくら武術を嗜んでいるとはいえ、相手は中学生だ。フィジカルの差ばかりはどうにもならない。それにこの人数差である。勝てなくて当たり前の負けイベントも同然だった。それでも譲れないものがあるから、絶対に引けない理由があるから、何度殴られたって武道は立ち上がり続ける。隙あらば相手を殴りつける。
そう、武道はブチギレていた。
こんな卑怯なことを平気でやってのけるクソ野郎どもが、黒龍を名乗っていること自体に虫唾が走る。真一郎が黒龍にかけた想いを知っているからこそ、コイツら全員ぶん殴ってやらなければ気が済まない、と。煮え滾る闘志を胸に漲らせていた。
意地を張る理由なんて、それだけで十分だった。
「くっそ、しつけぇなこのガキ!」
「いい加減大人しくしろや!」
しつこく食らいついてやる。どこまでも、どこまでも。
相手の喉笛を噛みちぎるまで、何度だって牙を剥いてやる。
「殺れるもんなら殺ってみろやあああ! オレは引かねぇぞ! 黒龍をこんな風にしたテメェらを絶対に許さねぇ!」
「……っ」
「テメェらみたいな腰抜け共が、黒龍名乗るなんざ百万年早ェんだよ!」
「……ッそんなにお望みなら殺ってやンよ! アキ、ナイフ持ってんだろ。寄越せ!」
傍に控えていた銀髪の男の懐を漁り、設楽がナイフを手にする。カチャッという乾いた音が、やけに耳についた。
「設楽さ、」
「オラ死ねクソガキィ!」
避けられない。既に満身創痍の身体は鉛のように重く、回避するための足は震えて使い物にならない。右腕は関節が外れてだらりと垂れ下がり、攻撃をいなすことすらできそうになかった。武道の方へ向かってくる設楽の動きが、やけにゆっくりに映る。
ここまでか。
救いようのない諦観が心を犯す。死にたくない。こんなところで、まだ何も変えられていないのに。万次郎を救えていないのに――。
「どうやって死にてぇ?」
咄嗟に理解が追いつかなかった。
「が、ぁ」
ドッ!
一瞬にして設楽の姿が視界から消える。慌てて周囲を見やれば、黒龍の隊員たちは全員地に倒れ伏していて、設楽は鉄屑の山の中で気絶していた。
「ナニ一発で気絶してんだよ。オラ、起きろ」
「う、」
「起きろっつってんだよ」
ぐったりと横たわった設楽を殴り続けているのは、武道と同じくらいの背丈の少年だ。見慣れたピンクゴールドの髪、どんな相手も一撃で沈める強烈な蹴り技、自他共に認める無敵の男。まさか、そんなまさか。
「マイキー君……何で、ここに……」
「それはこっちの台詞なんだけど?」
ぐるん、と勢いよくこちらを振り向いて、万次郎が捲し立てる。
「タケミっちの幼馴染みの……なんだっけ? とにかくソイツからうちに電話掛かってきてさ。タケミっちが危ねぇから真一郎出してくれってずっと泣き喚いてんの」
「タクヤが……」
「真一郎は家出てるからそもそもいねぇし、てかタケミっちのピンチならオレを頼ればよくね? わかってねぇよな」
むぅっと唇を尖らせて拗ねてみせる万次郎は可愛らしい。設楽の顔面を足置きにしていなければの話だが。
「ここらで悪さする奴なんて黒龍に決まってる。オレのダチも散々世話になったんだ。そのうちぶっ潰そうって話になってた。コイツら潰すためにわざわざチームだって作ってやったんだぜ?」
最後にガンッと設楽の顔面を蹴り上げて、万次郎は鬱陶しげに濡れた前髪を掻き上げた。雨の中急いで駆けつけてくれたのだろう。彼の服も身体も、水が滴るほどびしょ濡れになってしまっている。
万次郎の目から見た武道は、きっと散々な状態に違いない。瞼が腫れて右目はまともに開けられなくなっているし、かなりの量の鼻血が出ている。服は自分の血だか相手の返り血だかで汚れてボロボロ。殴られ過ぎて全身の痛覚が麻痺している上に、特に手足の感覚なんて、痛みどころか感覚そのものを失くしている有様だった。ここまでくれば嫌でも自覚する。ひと目見ただけで眉を顰めたくなる惨状であることを。
「『東京卍會』っていうんだ」
ひくり。武道の肩が僅かに揺れる。
「オレらが結成したチームの名前。あ、ちゃんとタケミっちの役職確保しといたんだぜ! 親衛隊長! ちなみに春千夜は親衛隊副隊長な。めちゃくちゃキレ散らかしてたから、一発は覚悟しといた方がいいかもな。タケミっち♡」
ドクリ、と嫌な音を立てて心臓が跳ねた。指先が急速に冷えてゆく。東京卍會は前と同じ流れで結成された。創設メンバーの面子もほぼ変わらないはずだ。いいな、とは思っていた。全力で肩肘張って生きていたあの頃は、本当に楽しかったから。
謂わば今世の彼らの存在は憧れで終わっていたのだ。何処か他人事のように感じていた。だからこそ、自分の名が東京卍會の創設メンバーとして刻まれるだなんて考えは、カケラも思い浮かばなかったのである。万次郎に誘ってもらえたのは喜ばしいことだ。最高の誉れだ。けれど、その気持ちには応えられない。
「マイキー君、ごめん。オレ、東京卍會には入らない」
武道はどこまでも万次郎と対等であることを望む。そして、そう在るためには、彼の下につくのではダメなのだ。それに、真一郎との約束のこともある。あの日の誓いだけは、死んでも違えるわけにはいかない。
「……は?」
万次郎の目が大きく見開かれる。何と言われたのかわからない。信じられない。そう語る彼の表情は言葉より多弁だった。
「な、んで」
「……」
痛いほどの沈黙が降りる。ここにきてようやく、ズキズキと全身が痛み始めた。なんてタイミングが悪い、などと舌打ちしそうになって、唇を噛む。あぁ、頭が痛い。血を流し過ぎた。もう立ち上がる体力すら残っていない。
「なぁ、答えろよ。何で東卍に入らねぇの?」
「……黒龍に入るから」
ブラックドラゴン。
唖然と万次郎が繰り返す。武道の言葉が断定的だったことで、万次郎はその決意の固さを察したらしい。みるみるうちに顔色が悪くなり、武道を射抜く黒曜の瞳に剣呑とした光が宿り始める。
「は? なんで、タケミっちはオレのもんだろ? なのになんで、黒龍?」
「……」
「真一郎か? 兄貴がお前に何か言ったのか?」
「オレは自分の意思で黒龍に入ることに決めたんだ。真一郎君は関係ねぇ」
東京卍會に入れば万次郎の傍にいられる。でも、それではダメだ。ダメなのだ。傍にいるだけじゃ、前の世界と何ら変わらない。同じことを繰り返してしまう。
いくら武道が傍にいたって、万次郎は止まってくれなかった。今でも覚えている。初めて彼が人を殺したのは高校生の頃。龍宮寺が殺された日だ。あの日も雨が降っていた。血と汗も、その身に背負った罪と罰も、彼の心に僅かばかりに残されていたはずの大切な何かでさえ、無理矢理洗い流そうとするかのような雨が、二人の身体を冷たく濡らし続けた。
「オレは初代黒龍に憧れた。今の黒龍ではなく初代黒龍に。だから、今の黒龍を立て直して、いつか、」
いつか、君と肩を並べて同じ景色を見たい。
後半の言葉は胸の奥にしまい込んだ。これはあくまで自分のエゴだ。彼に押し付けるべきではない。
「……んだよ、それ」
だが、そんな武道の心境を万次郎が汲み取れるわけもなく。
「またシンイチローを選ぶのか……?」
「マイキー君……?」
「また兄貴なのか。今までも、これからも、ずっと、……ずっと!」
無理だよ。
思考が止まる。流れるように自然と吐き出されたものだから、一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「無理だよ。だってオマエはオレより弱いじゃん。タケミっちに黒龍を立て直すなんざできるわけない。だから、オマエは東卍に入ってオレの後ろで――」
「っ!」
か、と頭に血が上った。ここまで万次郎に対して憤りを覚えたのは初めてのことだ。
気がつけば手が出ていた。身体はとっくに限界を迎えているというのに、人間は感情が振り切れると、容易くその先へと踏み越えられるらしい。我に返った時には万次郎の頬に武道の拳が入った後だった。
「アンタより弱いから、アンタの後ろに隠れてのうのうと守られてろって?」
「……、」
「オレをみくびるな! アンタ一人におんぶに抱っこされなきゃなんねぇほど、オレは弱くねぇ!」
それを、アンタが言うのか。他でもない、こんなオレを認めてくれたアンタが。
聖夜決戦の後、大寿にボコボコにされた武道を連れ出して、万次郎は言ってくれた。オマエは強いと、本当に大切なことは喧嘩に勝つことではなく、自分に負けないことなのだと。ボロ雑巾みたいな風体をしていた武道を前に、それでも万次郎は迷いなく言い切ってくれたのだ。
あの日贈られた言葉たちが、どれほど武道の支えになったか。救いとなったか。
「そこで指咥えて見てろ、万次郎」
顔を俯けた彼の表情は見えない。
「オレたちは黒龍だ。もう二度と『堕ちた龍』だなんて言わせねぇ。こっから這い上がってやる」
黙って守られてなんてやらない。寧ろ、オレがアンタを救ってみせる。アンタが道を外れた時に、ぶん殴って連れ戻す抑止力となる。そのためなら死んだっていい。
「オレが黒龍を天に導く! アンタは、そこで黙って見とけ」
雲の切れ間から光芒が降り注ぐ。
雨は止んだ。天より示された道標を辿るように、地上の龍は翼を広げ、縦横無尽に空を翔け巡る。運命に爪を立て、悪戯好きな女神を睨みつけ、邪魔なモノを蹴散らすように、その強靭な羽ばたきはやがて逆巻く風となる。
「……いいぜ。そっちがその気なら、」
ゆっくりと、万次郎の顔が上げられた。
だらりと垂れた前髪の隙間から、こちらを憎々しげに睨む黒い双眸が覗く。その鋭い眼差しに今までのような好意はない。在るのはただ、武道に向けられた尋常でないほどの敵意と憎悪。それから、行き場を失い蜷局を巻く、狂気を孕んだ妄執のみ。
「何度だってテメェを引き摺り落としてやる……二度と飛ぶ気にならないように、その手足を切り落として翼をもいで、地獄まで叩き堕としてやる……っ」
忘れるな、と彼は言った。
「オマエが黒龍にいる限り、東卍は黒龍を潰し続ける」