第陸話 青嵐の到来
今日、武道は初恋を捨てる。
そろそろだとは思っていた。小六の夏、ジメジメとした梅雨が明けて、本格的な夏が訪れようとしていた時分。猫を虐めていた中学生たちを咎めた橘日向は、逆ギレした少年たちにより理不尽な暴力に晒されようとしていた。
高圧的に己を見下ろす不良たちは、小学生の日向からすれば恐ろしくて堪らない脅威であろうに。彼女は気丈にも胡桃色の瞳に涙を溜めて、小さな唇をきゅっと噛み締め、泣き出さないよう必死に耐えてみせた。そんな凜とした姿を遠くから見つめていれば、あぁ、好きだなぁ、と。既に風化したはずの、小さな引っ掻き傷のような想いの残滓が、そっと息を吹き返すのを自覚する。
大切だ。愛している。彼女のために何度も過去をやり直して、己の命を賭けるほどに好きだった。
(……ヒナ、今までありがとう)
だからこそ、手放すことにする。彼女を愛しているから。これから起こる悲劇に万が一にも巻き込まれることがあってはいけない。きっと、すべての事情を知る前の世界の日向であれば、この武道の決断を強烈なビンタでもって止めたことだろう。否、ビンタどころか男顔負けの拳が飛んできたかも知れない。それでも、武道は今からする行動に迷いはなかった。
「あの、すみません。あっちで女の子が不良に囲まれてて……」
彼女と出会う過去を変える。
今世で自我が芽生えた時から決めていた。花垣武道と橘日向を出会わせない。たとえそれが、身を切られるほどの痛みを伴う選択だとしても。
(案外呆気ないもんなんだな)
時は過ぎて夕暮れ時。
近くにいた大人に後を任せ、武道は一人きりで帰路に就く。長く伸びる影を踏みつけ、道端に転がる小石を蹴り飛ばした。ぽかりと胸に空いた虚は大きく、どこからともなく通り抜ける隙間風に、薄ら寒いものが込み上げる。
寄る辺ない気持ちになるのは、それだけ彼女の存在が武道の中で大きかったということなのだろう。繰り返される歴史と改変の中で、唯一変わらず北極星のように輝いていてくれた日向。もう二度とその手を取ることができないと思うと、自ずと涙が溢れてくる。
手離したのは武道の方だというのに、まったく未練がましいにも程がある。
「よう、ドブ野郎」
重い両足を引き摺って、ようやく家の前まで辿り着いたその時だ。
「ンだよその不細工なツラ。ただでさえ見れたもんじゃねぇってのに、ますますキショくなりやがって」
挨拶も無しに罵倒された。怒る気力も湧かず徐に視線を上げると、面白くなさそうな舌打ちが降ってくる。どうせ君と違って元々酷い顔だよ。何ら言葉を返すことなくそう内心で毒づいてみれば、男は強引に武道の胸ぐらを掴み上げ、顎で家の方を指し示した。
「お客様だぞ。茶くらい出せやクソヘドロ」
「はぁ……相変わらず口悪いっすね、春千夜君」
「いいから来い」
「そもそもここオレの家なんスけどね?」
瞬く度にバサバサと音が鳴りそうなほどの長い睫毛に、名の通り春を思わせる若葉色の瞳。それから女と見紛うばかりの美貌。頸くらいでカットされた金髪を大胆に掻き上げ、右側へ流したアシンメトリーの髪型が、よく似合っている。
こうして春千夜と会うのは半年ぶりか。真一郎のバイク屋へ遊びに行った時に、武臣に連れられやって来た春千夜と、偶然鉢合わせて以来のことだ。暫く会わないうちに背が伸びたのだろう。以前は武道とそう変わらなかった目線が、僅かに高くなっていた。
「とっとと歩け、グズ」
「いてっ」
今日は家に誰もいない。母は友人たちと買い物に出掛けているし、父も仕事だ。よって静まり返った家に二人きり。気まずい沈黙の中、ひたすら階段を上ることに集中していると、後ろから急に尻を蹴られた。危うくバランスを崩しかけ、咄嗟に階段横の手すりを掴む。
「あっぶな、」
「落ちたら殺す」
ンな理不尽な。
思わずそうボヤきそうになるも、慌てて口を閉ざす。余計なことを言えば、今度こそ階段から突き落とされるであろうことを察したからだ。
「ここがオレの部屋っス。適当に上がってくだ……っ!」
バキッと鈍い音がして、遅れて頬に衝撃がきた。
突然の痛みに悶絶していれば、殴った張本人は何食わぬ顔をして、部屋の奥へとズカズカ歩いて行く。そして、不躾に部屋を見回した春千夜は、比較的スペースの空いているベッドへ目を留めると、散らばった服を蹴落としてから腰掛けた。
「クソきったねぇなこの部屋……テメェなんざヘドロ以下だわ。存在そのものがドブくせぇ」
「ふっつーに傷つくんでやめてくれません?」
殴られたことについては敢えて触れない。春千夜がここへ来た理由は大体予想がついている。ほぼ確実に万次郎絡みのことだろう。万次郎第一主義である春千夜からの一発は、自分が彼にしたことを思うと妥当なもののように感じて、何も言えなかった。
「なんでマイキーを裏切った?」
ほら、やっぱり。
どの未来でも万次郎を王として仰ぎ、必ず彼の一歩後ろを陣取っていた男だ。先日の一件について何も言ってこないわけがなかったのだ。
「テメェはいつだってマイキーマイキーうるさかった。うぜぇくらいに纏わり付いて、マイキーを幸せにするだの、大事な友だちだの、散々ほざいてやがっただろ。なのに何で、今になって裏切った?」
「裏切ったわけじゃないよ」
春千夜の追及を即座に切って捨てる。
万次郎を幸せにしてやりたい気持ちは嘘じゃない。断じて裏切ったわけではない。ただ、手段を選ばなくなっただけだ。前の世界では、彼が傍にいて欲しいと願ったから傍にいた。武道もそれが彼の心を守るためには最善だと信じていた。しかし、結局思い描いていた理想の未来は、あっさり壊されてしまったのだ。他でもない万次郎の手によって。
「マイキーの誘いを蹴って黒龍に入るんだろ? 裏切り以外何があるってんだよ」
「傍にいるだけじゃダメなんだ……オレじゃマイキー君を止められない」
「あァ?」
矛盾した言葉を繰り返す武道に、苛立ちを露わにした春千夜が気色ばむ。
「春千夜君」
「……?」
「オレは外から彼を守ろうと思う。だから、君は何があってもマイキー君の傍にいて欲しい」
若葉色の瞳を真っ直ぐに射抜く。それまで鋭い眼差しで武道を睨みつけていた春千夜が、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。彼がこんな表情を浮かべるのは珍しい。
「オマエ、何言って、」
「春千夜君も昔見ただろ? 万次郎の抱える黒いモノを」
「……っ」
幼い頃、春千夜は万次郎の深い闇を垣間見た。未だ彼の口元に残った傷痕が、万次郎の内に巣くうナニカの存在を証明している。当時の恐怖が蘇ったのだろうか。若干顔色を悪くした春千夜は、おずおずと顔を俯けてほんの少しだけ息を乱した。その目は左右に泳いでおり、普段の暴れ馬っぷりからは考えられないほど、弱々しい様を晒している。
「アレは良くないものだ。いつかまたマイキー君のことを苦しめる。その時に、彼を止められるだけの力が欲しい」
「な、……」
「そのための『黒龍』だ。オレは黒龍を、東京卍會よりもずっと強くて大きなチームにする。いざという時にマイキー君を抑え込めるくらいに」
春千夜は武道の決意を、絵空事の夢物語だと笑うことはしなかった。
ただただ息を呑んで、石のように固まったままこちらを見つめていた。ややあって、泣き出しそうに歪んだ瞳から、ついに一筋の涙が零れ落ちる。武道はそっと濡れた口元へ手をやると、「ごめんね」と小さく呟いた。
「でも……もしもオレが間違えた時は、春千夜君が止めてくれ」
気のせいでないなら春千夜は、万次郎の傍にいることを許すくらいには、武道のことを認めてくれていたと思う。だからこそ、万次郎との一件を知った彼は、裏切られたという気持ちと共に猛烈な怒りに駆られたのだろう。だが、今まで彼が抱える不安や悲しみを紛らわせてくれていた激情の炎は、武道の本音を聞いてからというもの、グラグラと不安定に揺らいでしまっている。
どちらを信じれば良いのか、どう判断するのが適切なのか、本当に万次郎のためになるのは何なのか。春千夜自身、答えを掴みあぐねているに違いない。
「……テメェが命令すんな、クソヘドロ」
謂わば、二人は共犯者なのだ。
大切な誰かを守る方法が違うだけの、同じ志を持つ者。
こつん、と。肩に重みが加わる。触れているか触れていないかの微妙な接触。すべてを預けることに臆してしまう、春千夜なりの不器用な甘え方だった。
「言われなくても、マイキーは俺が守る。雑魚がしゃしゃり出てくんな」
「……うん」
言葉が途絶え、じんわりと伝わる互いの体温に安堵する。
本当にこれでよかったのか、武道は延々と考え続けた。自分が傍にいないことで万次郎がどうなってしまうのか、まったく予測がつかない。だが今回は真一郎もいるし、場地もエマもイザナも龍宮寺もいる。現時点では誰も欠けていない。ならば、武道一人だけが彼の傍を離れたからといって、大きな歪みが生じるなんてことはないはずだ。
だというのに、何故だろう。
「……昨日の集会で、マイキーがオレらに命じた」
――オマエが黒龍にいる限り、東卍は黒龍を潰し続ける。
最後に吐かれた男の呪詛が、武道の胸をざわつかせる。
「『黒龍の奴らを縄張りで見つけたら、徹底的に潰せ』ってな」
カチ、コチ、と壁掛け時計の音が響いた。緩やかに、時が流れゆく。
「気をつけろよ」
万次郎の大切な人は全員生きている。なのに、どうして。
瞼の裏でチカチカと瞬く凶星の散光が、消えてくれない。
*
花垣武道が黒龍の十一代目総長に就任した。
その事実は武道がまだ小学生であることや、現在の不安定な黒龍の内情を鑑みて、表向きには伏せられることとなった。
「タケミチ、構成員のリストを持ってきました」
「あ、わざわざありがとうございます」
先日武道の小学校を襲撃した銀髪の男――アキと名乗った少年――から書類の束を手渡される。受け取った紙面にはびっしりと文字が詰め込まれていて、思わず頬が引き攣った。直人のスパルタ指導を受けながら、無理矢理頭に情報を叩き込んだ日々を思い出す。昔の自分は暗記にかなり苦戦したものだが、今世は子ども特有の柔らかい脳味噌が味方であるので、その活躍に期待する他ない。いくらなんでも文字の羅列を目で追い始めて五秒で沈没、なんてことにはならないはずだ。多分。恐らく。
「えっと、かなりの量があるんスね?」
「それなりに人数がいますから。とはいえ、初代の頃は最大で二千人程の構成員がいましたが、佐野真一郎が引退してから、約半数が黒龍を抜けました。現在の構成員数は、ざっと七百人といったところでしょうか」
「それでも七百人もいるんだ……」
少しだけ意外に思う。
それだけ黒龍が残した伝説は偉大だということか。落ちぶれたと嘲笑されても、意地でも黒龍に所属し続けた者たちには、何か他にはない並々ならぬ想いを感じる。良い意味でも、悪い意味でも。嘗て黒龍復興に執着した乾のように。
「こちらには構成員の名前と年齢、前科の有無について書いてあります。実際にどんな人物なのかについては、私かノリたちに聞いてください。知っている範囲でお答えします」
「ケッ! 俺はまだ認めたわけじゃねぇぞ」
坊主頭ことノリが、行儀悪く唾を吐く。
「俺にはじゃんじゃん聞いてくれていいからね。楽しそうだし?」
ナンパ野郎もといショウタが、ヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべて言った。
「昨日も言ったけど、オレのやり方が嫌なら黒龍を抜けてもいいんスよ」
大寿のように圧倒的な力で捩じ伏せて支配下に置く、なんてことは武道にはできないし、するつもりもない。錆び付いた舵を無理矢理切ったところで、いつか限界がくるものなのだ。だからこそ、今の堕ちるところまで堕ちた黒龍を立て直したいと、伝説と呼ばれたあの頃の姿を取り戻したいと、本気で願っている者たちと共に、再び未来を築き上げていきたい。そう思う。
「……チッ」
ノリのように武道のやり方が気に食わない者は多くいるだろう。もしかしたら、また半数以上のメンバーが黒龍を抜けることになるかも知れない。だが、一体それがどうしたというのだ。ヌルいと言われようが、日和ってると言われようが、そんなの知ったこっちゃない。己に向けられる悪感情よりも、設楽のようなダセェ奴らにこれ以上デカい顔をされることの方が、余程見過ごせなかった。
「……」
そして、このリストに書かれた前科者たちの所業を見て、改めて痛感する。
このままでは『黒龍は二度と空を飛べなくなる』、と。
「……原宿警察署に火炎瓶を投げ込んでそのまま逃走。都内複数のガソリンスタンドやバイク販売店で、店員に執拗な暴行を加えた上で金品を強奪」
帰宅途中の社会人女性を拉致して強姦。対抗チームとの抗争に巻き込まれた一般車両数十台を無差別焼き討ち。それ以外にも、違法薬物の不正使用、賭博、放火、恫喝……死者が出ていないのが奇跡なくらいだ。
「反吐が出る」
これは、ここ数年で黒龍が関係した事件の一部である。リストによると、末端の構成員の殆どは現在少年院や鑑別所に収容されているそうだ。また、残りの隊員たちも統制が取れておらず、ゲリラ的に暴走行為を繰り返し、連日逮捕者が出ている始末である。とにかく今の黒龍は何でもアリの極悪チームだった。若狭の言っていた通り、初代の面影は欠片も残っていない。真一郎が当代黒龍についての詳細を話したがらなかった理由も頷ける。まさかここまでとは思わなかった。
「これは全部設楽の指示?」
「いえ、別の幹部による指示です。名前は」
バタンッ!
アキから詳しい話を聞いていると、幹部専用のアジトの扉が蹴破られた。バタバタと慌ただしく雪崩れ込んできたのは、こめかみに青筋を立てた乾と、冷たい笑みを貼り付けた九井の二人で。そのあまりに物騒な形相に、武道は何事かと立ち上がる。
「イヌピー君にココ君! どうしたんスか? 何かあったんですか⁉」
「近い。離れろ」
脇目も振らずに武道の下へ駆け寄ってきた乾が、ぐっとアキの肩を押し退ける。
「どうもこうもねぇ……」
突然の乱入者に目を瞬かせる武道たちを他所に、地を這うような声で乾が凄んだ。
「何があったか詳しく教えろ。一言一句正確にな。……面倒だからって適当ヌかしたら許さねぇ」
「ボス、まぁた勝手に色々やらかしたらしいじゃねぇの? 今回ばかりは俺も庇いきれねぇな。諦めて全部ぶち撒けちまえ」
「あっ」
冷凍庫並みの凍え切った空気の中、間の抜けた声が転がり落ちる。
(やべえ)
そういえば二人に総長になったこと、言ってなかった。
*
「ありえねぇ。マジでないわ」
九井がぐちぐちと独りごちる。
黒龍の内部抗争に巻き込まれ、集団リンチに遭っただけでは飽き足らず。追い打ちを掛けるかの如く、助けに来た万次郎と衝突し……その結果、図らずも黒龍と東京卍會は全面対立の構図となってしまった。しゅん、と身を縮ませている武道へ向けられる、二人の視線は冷たい。武道が報告を怠ったことで、知らぬ間に面倒ごとに巻き込まれていたのだから、彼らの怒りはごもっともである。
「あー、マジ腹立つ。迂闊にボスを一人にした自分に腹立つ」
「一番イラつくのは、掌返して花垣の側近面してるアイツらだ。気に食わねぇ。殺す」
「ほんとにすいません! あと、イヌピー君は落ち着いてクダサイ……」
アキたちのことについては、正直武道も判断を下しかねている。万次郎に堂々と啖呵を切った姿を見て惚れ込んだと言われたが、彼らが本気でそう思っているのかは甚だ疑問であった。あんな私情まみれの言葉の何処に、心揺さぶられるものがあったのか。心底謎である。
「ま、反省会はここまでにして。気持ち切り替えていこうぜ。これから大事な商談だからな?」
ペロリ。
舌を出して、九井がおどけてみせる。
「そっスね」
「あぁ」
すべてを知った乾たちにこっ酷く説教された武道は、なんやかんやあって黒龍の総長として、初めてのお務めをすることとなった。本日のミッションは、乾たち一推しの幹部候補、柴大寿の勧誘である。
「大寿はオレらと同じ中学で、喧嘩が強いって有名なんだ」
まだ若干拗ねているらしい乾が、むっつりと顔を顰めたまま説明する。
「お前の正式なお披露目をする前に、手っ取り早く戦力を確保しちまいてぇ。アイツの腕っ節の強さならきっと、大抵の奴らは蹴散らせるだろ」
「問題はあの暴君の手綱が握れるかどうかって話だ」
柴大寿の名前は地元の不良たちの間ではかなり有名であった。己に歯向かう者は拳一つで地に沈め、一度仲間となれば飴と鞭を絶妙に使い分けて忽ち虜にしてしまう。あの十代目黒龍を率いたカリスマ性は、この頃から健在だったようで。手がつけられないレベルの凶暴性に反し、彼に対する取り巻きたちからの評判は頗る高かった。
叶うなら今回の接触をきっかけに、柴家で横行している暴力の方も何とかしてしまいたいのだが。相手はあの大寿である。色々と不安が尽きない。
「ボス?」
「ん? あぁ、ちょっと考えごとを……ほんとにこんな方法で大丈夫かなって」
ちらり、と九井が抱えている『とっておき』の方へ視線を送る。
「安心しろ花垣。もしダメでも、オレがこの命を懸けてお前を守ってやる」
「イヌピーくん……」
「はいはい、もうすぐ着くからなー。気ぃ引き締めろよー」
少女漫画に出てきそうな甘いセリフを、サラッと言ってのけてしまう基礎スペックの高さが妬ましい。武道が目に痛いイケメンの輝きにおののいていると、それまで二人のやり取りを静観していた九井が、重いため息を落とした。そんな自分は関係ねぇみたいな顔をしているが、九井も大概端正な顔立ちをしていることを自覚した方がいいと思う。
とはいえわざわざ口にはしないけれど。羨ましさが爆発しそうになるので。
「着いたぞ」
大寿がよく顔を出すという会員制のバーは、新宿の裏路地を進んだ先の一角にあった。何の変哲もない雑居ビルの三階。案内板もなければ店の看板すら出ていない。知る人ぞ知るアングラの入り口だ。
「中一でこんなところを出入りするってどうなんだ……」
「大寿だからな」
「おう、何せ大寿だから」
「大寿君って一体……?」
ますます大寿の生態について謎が深まったところで、三人はついに店内へと足を踏み入れた。カランカラン、と客の来店を告げるドアベルが、老舗の喫茶店を彷彿とさせる。
「わ……」
店内に入った武道の耳を、微かに流れるクラシックが悪戯に擽った。入って三秒、されど早々に思い知る。この店は一流だ、と。
頭上に吊り下げられた青いランプが、広々とした店内を淡く浮かび上がらせる。白い壁には音の無いモノクロ映画が映し出されており、今は亡き著名な外国人女優の笑顔が、見る者をノスタルジーに浸らせた。そして、何よりも目を惹くのは、カウンター裏の壁一面に設置されたバックバーだ。天井まで届くほどの大きな酒棚には、所狭しとボトルが並べられていて、その銘柄の多さに圧倒される。
(えっと、大寿君は……いた)
目的の人物は、予想外にもあっさり見つかった。
「大寿、少し話がしたいんだが」
「ア?」
大寿はカウンターの隅で珈琲を啜っていた。元々その苛烈さとは裏腹に、意外と落ち着いた一面も併せ持つ男である。未成年とは思えぬ体躯の良さもあって、この格調高い店の雰囲気に驚くほど馴染んでいた。
「一年C組の九井一だ。そこまで時間はとらせない」
ずいっと、九井が大寿の前へ出る。
「同じく一年C組の乾青宗だ。できれば個室で話したいのだが……」
乾がバーテンの方へ視線をやると、その意を汲んだ男が粛々と頷いた。どうやら既に部屋を用意してくれていたようである。すぐに鍵を渡されて、一言「上の階へどうぞ」とだけ示された。そしてバーテンは何事もなかったかのように、再びカクテルを作り始める。
「で、話って?」
バーの上階にある客室で大寿と三人が向かい合う。部屋のソファに腰を落ち着けるわけでもなく。扉に凭れ掛かったままこちらを睨む大寿の姿は、まるで優雅に寝転びながら尻尾を地面に叩きつける、不機嫌な百獣の王のようだ。
「まずは自己紹介させてください。オレは花垣武道。黒龍の十一代目総長をさせて頂いてます」
「……」
頭の上から足のつま先まで、じっとりと値踏みする視線を向けられる。こんなガキが総長か、と言葉は無くとも鼻白む気配が感じられた。これはなかなか手強そうである。だが、いくら難しいからといって、諦めるわけにはいかない。これからの黒龍に、大寿の存在は必要不可欠なのだから。
「今日は大寿君を勧誘しに来ました。これからオレたちは、堕ちるところまで堕ちた黒龍を立て直すつもりです。そこで、大寿君に力を貸して」
「断る」
断られるだろうとは思っていた。何せあの暴君である。自分が上に立つことはあっても、誰かの下になるなんて、到底許せることではないのだろう。しかも総長は彼の弟と同い年の小学生だ。このプライドの塊のような男が納得するはずがなかった。
「ココ君……っ!」
「了解、ボス」
こうなったら『とっておき』の出番だ。武道の呼び掛けに応え、九井が手に持っていたアタッシュケースを机の上に置く。そのままパカリと中身を開けば、大寿が「は?」と素っ頓狂な声を上げた。おお、この男のこんな気の抜けた声が聞けるなんて。武道は場違いにも感動を覚える。
「これは前金の一千万円です」
ドスッ。
武道の言葉に合わせて、九井が札束を取り出す。
「貴方の暴力をオレに買わせてください」
「……は?」
本日二度目の素っ頓狂な声だ。余程ショックを受けたのか、完全に固まってしまっている。どうしたものかと隣に立つ二人へ視線を送ると、彼らは少しだけ憐憫を乗せた眼差しで大寿を見ていた。
「護衛のお仕事のようなものだと思ってもらえれば。今の黒龍は長年の内部抗争によって疲弊してしまっていて、今にも外部のチームに潰されてしまいそうなんです」
事実、六本木の灰谷兄弟や東京卍會から、頻繁にちょっかいを掛けられている状況だ。このままいけば近いうちに、今の統率を失った黒龍は潰されてしまうだろう。内部の敵も厄介だが、外部の敵の方が今の黒龍にとってずっと危険な存在である。最早内輪揉めをしている場合ではないのだ。そして、その危機を隊員たちが自覚していないことこそが、一番の問題だった。
「契約書もあります。金に糸目はつけません。希望の額を提示してくれれば、可能な範囲で叶えましょう」
「……お前、何言ってるかわかってんのか」
「大寿君。オレはね、一つだけ確信してることがあるんです」
大寿の瞳が僅かに細められる。武道に対し、彼は興味を持ってくれている。そう確信した。
「大体のことは金と権力があれば何とかなるんです。暴力の介入は、ただ勝利を確定させるための小さな一手に過ぎない。まぁ、結局のところ世の中は金ですよ、金。権力は金で買えますからね。金が一番なんです」
「ボス、金金言いすぎ。お行儀が悪いぞ」
すかさず九井が嗜める。最近九井は武道の行動や言動に口煩くなった。まるで甲斐甲斐しく面倒を見る母猫のようだ、というのはアキの言葉だったか。
「大丈夫だココ。そんな花垣もオレは受け入れる」
「花垣全肯定野郎はちぃっと黙ってような。無自覚だからタチ悪ぃんだよな……」
ああもう、と唸って九井が頭を抱える。
「ココ君?」
「ココ? どうしたんだ?」
「クッ……ハハ、ハハハハ!」
武道と乾が首を傾げて顔を見合わせていると、突如として大寿が笑い出した。
腹を抱えて大きな背中を丸め込み、ヒーヒー言いながら笑い続けている。まさに抱腹絶倒という言葉がぴったりなほどの笑いっぷりだ。何がそこまでツボに入ったのかはよくわからないが、少しだけ交渉の難易度が下がったようなので良しとする。もしこれでダメなら……どうしようか。主に株や不動産で荒稼ぎした財産が通用しないとなると、後は国家権力を買収するくらいしか思い浮かばなかった。悪党初心者はまだまだ悪事のレパートリーが少ないのである。こればかりは経験がすべてなので、諦めるしかない。
「いいぜ。その話、ノッてやるよ」
ニ、と不敵に笑って、大寿が右手を差し出してくる。
「え、」
「あんまり情けねぇザマ晒すようなら、俺が総長の座を奪っちまうからな。せいぜい頑張れよ、ボス?」
交渉が成立した安堵から小刻みに震えてしまっている手を、恐る恐る前へと伸ばす。武道よりも二回り近く大きな手を握り返せば、大寿はまたブハッと噴き出した。この男、もしや意外と笑い上戸なのだろうか。それより力加減を忘れられた右手がめちゃくちゃ痛い。
こうして大寿の黒龍入りが決まり、武道たちの黒龍立て直し計画は、また一歩前進することとなった。
後日、契約書の条件に《自らの生命を脅かされた場合を除き、黒龍外での暴力の提供を固く禁ずる。 ※プライベート含む》という一文がしれっと書かれていたため、家庭内で振るわれていた愛の暴力が金の暴力に捩じ伏せられる、という珍事件が発生することになるのだが。この時すっかり油断していた武道は、自分が契約書に爆弾を仕込んでいたことなどすっかり忘れて、呑気に浮かれていたのであった。
*
その日、黒龍内に激震が走った。
十代目総長であった設楽がトップの座を追われ、代わりに正体不明の謎の人物が空いた玉座を手に入れた。そんな情報が正式に集会で公表されたのである。しかし、急にそんなことを言い渡されても、すんなり納得できる者などいるはずもなく。何も知らされていなかった隊員たちが、衝撃の世代交代劇の渦中に居合わせた人間たちへ探りを入れるも、何故か皆一様に口を噤むばかりで、頑なに話そうとしなかった。
結局、十一代目総長に関する詳しい情報が出回ることはなかった。
よって、隊員たちが理解したのは、『新しい総長は徹底的な情報統制を強いることが可能なほどの、かなり力のある人物らしい』ということだけで。しかし、何かが大きく変わる予感に、今の黒龍の在り方に不満を持っていた者たちは、皆胸を躍らせたのだった。
それからも、新世代の総長による改革が止まることはなかった。
まずはあらゆる犯罪行為の徹底禁止令。これにより、黒龍の名を使い好き勝手していた者たちに、堂々と制裁を加えられるようになった。次に、激化していた内部抗争について。今後黒龍内での私闘は厳禁とされ、チームや仲間に不満がある場合は、新たに設けられた監査部門を通して、公正な裁決を下されることとなった。
さらには、六本木の灰谷兄弟や、最近勢いを増してきた東京卍會という、外部の強敵に狙われている立場であることも周知された。そこでようやく視野が狭まっていた隊員たちは、今は身内争いをしている場合ではないのだと、我に返ったのであった。
そして極めつけは、大規模な組織改革だ。
第一に、幹部の顔ぶれが一新された。副総長兼総長代理に柴大寿、特攻隊長には乾青宗、親衛隊長は九井一。それ以外にも何名か総長に選ばれた男たちが、幹部のポストを用意されることとなった。一方で、それまでデカい顔をしていた面子は、容赦なく日陰に追いやられ、反発する者は柴大寿の圧倒的な力により、完膚なきまでに屈服させられた。権力争いに敗れた者たちの末路は……わざわざ特筆する必要もないので省略する。世の中、知らない方がいいこともあるのだ。
ゲリラ的に行われていた暴走行為は、定期的に行われるようになった集会で、ある程度制限されることになった。また、隊員同士の交流の機会が増えたことで、仲間内の絆も深まった。今までは同じチームでありながら、派閥の関係で敵対していた者たちも、『話してみれば意外と気が合った』なんてことが何度も積み重なれば、考えも変わるものである。そういった微々たる変化が良い方向に作用したのであろう。それまでチーム内に流れていた殺伐とした空気は、いつの間にか和やかなものへと変わっていった。
勿論、良いことばかりではない。十一代目総長のやり方に不満を持った者もいる。
温くなったやり方を認められない。急激に変化する状況についていけない。規則が厳しくなったことで自由に暴れられなくなった。そういった不満を抱えた者たちは、自ら黒龍を抜けていった。だが、実際のところ離脱を選んだ人間の数は、そう多くはなかった。
黒龍はクリーンな組織へと生まれ変わった。
新たな風が吹いている。これまで着用されていた特攻服も、洗練されたデザインのものへと変わり、まるで統率の取れた軍隊のような当代の在り方に、次第に周囲から一目置かれるようになった。
一年もの時が過ぎれば、『堕ちた龍』などと揶揄する人間は、誰もいなくなった。
それどころか黒龍の特服を着て街を歩いているだけで、あちこちから憧憬を含んだ熱視線が飛んでくる。そうなれば、隊員たちも自分が黒龍であることに誇りを持つようになり、チームの名を貶めるような行いはしないよう、自らを戒めるようになった。
そしてついに、十一代目黒龍は『初代の再来』とまで謳われて、東京中の不良たちにとって憧れの存在となる。
それは飛び方を忘れた黒き龍が、再び大空へと舞い戻った瞬間であった。