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TOKYO卍REVENGERS
 第捌話 九十九里抗争

 打倒千葉県警
 そんな強気な文字を三段シートに刻んだ数十台の単車たちが、夜の海辺を睨みつけている。
 ところ変わり、場所は九十九里浜。新宿から一時間ちょっとバイクを飛ばせば辿り着けるその場所に、武道率いる黒龍の面々が勢揃いしていた。木更津洲照羅ステラとの同盟は無事に結ばれ、今はチームメンバー同士の交流タイムだ。元々バイク好きという共通点がある者の集まりである。お互いのカスタムについて熱い討論を交わしたり、自身の愛機を自慢したりしているうちに、同盟前の緊張感はすっかり解けきっていた。
「まさかあの黒龍の総長が、こんなガキだとはなぁ」
 口に咥えた煙草に火をつけ、木更津洲照羅の十代目総長・山下が言う。
「あはは。同盟相手としては頼りねぇっすよね……すんません。でも黒龍はマジで良いチームなんで! 今後ともよろしくお願いします!」
 ガバッと頭を下げれば、「総長がンな簡単に頭下げるんじゃねぇ」と無理矢理顔を上げさせられた。そのまま問答無用で口に煙草を突っ込まれ、ライターを近づけられる。筋モノでいう盃を交わすようなものか。好意に甘えて火種を貰うと、武道の咥えた煙草から白煙が立ち昇り始めた。
「……ふ、」
 す、と。深く息を吸い込んで、久しぶりのタールが染み渡る感覚に、暫しの間酔いしれる。
「お、なんだお前、見かけによらずヤッてたクチか?」
「えーと、まぁ、そんなところっす。初代が喫煙者なもんで……」
「佐野真一郎か! そうか、それなら煙草も慣れてるはずだよな」
 本当のところ、真一郎からは煙草を固く禁じられているのだけれど、ここは言い訳するために彼の名前を使わせてもらった。前世で嗜んだことがあるから、なんて馬鹿正直に答えたところで、頭がイカれてると思われるのがオチだからだ。真一郎の名を利用することに、一応罪悪感はある。多分。少しだけ。「肺が真っ黒になっちまうぞ!」と憤慨する男の顔が一瞬脳裏に浮かんだものの、見なかったことにした。
 次に会う時はしっかりファブリーズしてからにしよう。バレたら色々と面倒だ。
「あと三時間で夜明けか……」
 時計を確認して、武道が呟く。
「共に朝陽を拝むのも乙なもんだが、一応は解散ってことにしとくか」
「ですね」
 木更津洲照羅ステラと黒龍のチームメンバー双方に、解散する旨を伝えておく。よって、ここからは残りたい者だけが残って、帰りたい者は勝手に帰るはずだ。武道も流石に朝帰りをするのは両親の手前憚られるため、あと一時間だけここで過ごしてから帰るつもりだった。
「……」
 そっと目を瞑り、夜の潮風を肌で感じる。
 梅雨明けの少し湿気を帯びた生ぬるい風が、くゆる白煙を何処か遠くへ運んでいった。この空の続く先に、あの人がいる。今頃何をしているのだろう。武道のことなどすっかり忘れて、龍宮寺や場地たちと楽しく馬鹿をやっていてくれれば良いのだが。
 最近は真一郎も武道を気遣って、万次郎の話題を出さなくなった。そのため現状を知ることも叶わず、こうして遠くから祈ることしかできない自分がもどかしい。
「坊主、あんまり夜更かししてママを泣かすなよ」
 ガシガシと乱暴に頭を撫でられ、目を開けた。
「もー、ガキ扱いはやめてくださいって」
 不満げに唇を尖らせれば強面の男が、白い歯を見せて笑う。
「あと身長が二十センチくらい伸びたら考えてやらァ。じゃ、初代様によろしく!」
「ひでぇや、身長のこと気にしてんのに……」
「花垣!」
 山下が去った後、入れ替わるようにして乾がやって来た。いつの間に買ったのやら、両手に大量の花火を抱えている。もしや緊張していたのは武道だけで、隊員たちはピクニック気分で同行していたのでは。不意にそんな疑問が胸を過るも、唐突に鳴り響いた爆発音に思考を遮られて、白浜の方へと目をやった。
「うわ、テメェ! こっち来んな!」
「オラオラ! そんなへっぴり腰で情けねぇぞ黒龍! それでも東京の天下かぁ?」
「調子乗んなよクソ洲照羅が! コラァ!」
「爆竹投げんなって! うっわ! ぎゃー!」
 大口を開けて笑い、手に持った花火を投げ合う不良少年たち。その純粋な年相応の姿を眺めていると、何だか可笑しくなってくる。どれだけ悪ぶっていても、彼らもまだ子どもなのだ。色んな事情があって、発散場所を探しているだけの、ただの子ども。
(万次郎も……あんな風に笑っていてくれれば、それだけでいいんだけどな……)
 バチバチ、ドンッ。バチバチ、パンッ。
 乾に分けてもらった手持ち花火を楽しみつつ、はしゃぎ回る隊員たちの姿を見守る。
「……?」
 だが、僅かな違和感を覚えて武道は視線を彷徨わせた。何だろう。何かがおかしい。嫌な予感に胸が騒いで、凪いだ心をざらついたものが撫でていく。この気味の悪い感覚は、一体。
「花垣? どうした?」
「何だ……? よくわからない。イヌピーく、」
 バブーッ!
 鼓膜を劈く、特徴的な排気音。聞き間違いなんかじゃない。嘘だ。嘘だと思いたい。
「……っみんな! すぐ戦えるように準備して! はや、」
 猛スピードで近づいて来た音の群れが、武道の指示を遮った。夜を照らすヘッドライトの明かりが、暗闇に慣れた網膜を焼き焦がす。反射的に目を瞑り、ゆっくり瞼を開いてゆくと、黒い特攻服を着た集団が土手からこちらを見下ろしていた。
「なんだアイツら……?」
「トーマン……『東京卍會』だ……っ!」
「なんでアイツらがこんなところに……」
 ざっと見たところ数百人以上はいるだろうか。
 完全に包囲されたことを悟り、こめかみに冷や汗が伝う。何故こんなところに渋谷を拠点とする彼らがいるのか。まさかツーリング先が被ったとか、そんな平和な理由ではあるまい。何より東京卍會の隊員たちが放つこの殺気。あの男が何らかの命令を下したに決まっている。そう、例えば『黒龍を潰せ』とかいう、明確な命令が。
「ターケミーっち♡」
 ひくり。
 小さく肩が揺れる。久しぶりに聞く男の声。最後に聞いたときよりも少しばかり低くなったその声が、親しげに武道の渾名を呼んだ。
「千葉のチームと同盟組むんだって?」
「……っマイキー君!」
「タケミっちさあ、あの日オレが言ったこと覚えてる?」
 ――オマエが黒龍にいる限り、東卍は黒龍を潰し続ける。
 忘れたくても忘れられない。万次郎と決別したあの日、武道に吐かれた呪詛は、二年経った今でもまだ息をしていた。忌ま忌ましいことにずっと、碇の如く武道の両足を縫い止めて、深い場所まで食い込み続けている。
「てことで、邪魔しに来ちゃった♡」
 さて、龍狩りのお時間だ。
 酷薄な笑みを浮かべながら、万次郎が開戦の狼煙を上げた。それを合図にドッと東卍の隊員たちが押し寄せてきて、穏やかな海辺の景色は、瞬く間に混沌を極めた戦場と化してゆく。元々勢いがあり、今回奇襲する側となった東京卍會と、不意を突かれる形となった、同盟を結んだばかりの黒龍と木更津洲照羅ステラ。状況的に黒龍側が不利であることは明らかだった。
「東京の天下は東卍じゃー!」
「ここで息の根止めてやんよ! くたばれ黒龍!」
「火を寄越せ!」
「余裕ある奴は片っ端から花火に火をつけろ!」
「花垣総長には指一本触れさせるな!」
 されど厳しい戦況の下、黒龍と洲照羅の二チームは初めての共闘とは思えぬほど、ぴったりと息の合った連携を見せる。
 洲照羅の隊員が手に持った爆竹を東卍の奴らに投げつけ、相手が怯んだところを黒龍の隊員が沈めていく。東卍側と黒龍側の人数はほぼ互角。しかし黒龍側は洲照羅の援護のおかげで、徐々に劣勢から盛り返してきた。となれば、後は必然的に経験値の高さが活きてくる。
「黒龍は目の前の敵をぶっ潰すことだけ考えとけ!」
「テメェら! ここは俺らのホームだ! 他所モンに好き勝手させんじゃねぇぞ!」
「おう!」
 木更津洲照羅は暴走族がその昔、カミナリ族と呼ばれていた頃から続く老舗チームであった。
 道路交通法が整備され、警察の取り締まりが一層厳しくなり、暴走族の数自体が年々減っていく昨今の時勢。不良はダサいという世間の風潮に逆らってでも、脈々と受け継がれてきた古豪の血は伊達ではない。即席で黒龍の動きに合わせ、サポートに徹する者と誘導に回る者とで役割を分けてみせた彼らは、見事に東卍側の人間を翻弄していった。
「すごい……」
 襲い掛かってくる敵を躱しながら、武道は呟く。
「花垣、俺から離れるなよ」
「はい! でも俺だってやればできるんスよ!」
 油断した相手に背負い投げを食らわせて、また一人東卍の隊員を沈める。
 いざという時に誰かを守れるよう、幼い頃から合気道や柔道を習っていたのだ。今その成果を発揮しなくてどうする。乾に背中を預け、少しずつ余裕が出てきた武道は、目の前の敵に集中することにした。大ぶりな拳にはがら空きの腹を狙い、勢い任せの蹴りには、相手の力を利用し投げ技をお見舞いする。一つ一つ的確に攻撃を捌きながら、少しでも東卍側の戦力を削いでいった。
「……アイツらもやるな」
 乾が言葉を溢したその時、白い特服を着た男たちが、一気に十人ほど吹っ飛ばされたのを見た。周りが倒れ伏す中、唯一立っている男は東京卍會のナンバーツーである龍宮寺で。彼以外にも一騎当千の働きをする隊長格のメンバーたちに、そう一筋縄ではいかないか、と焦りが生じる。
「よそ見してんじゃねぇぞ!」
「……ぐっ!」
「花垣!」
 視界の外から拳が飛んでくる。咄嗟に両腕を顔の前で構え、ダメージを相殺した。だがすべての衝撃を殺すことはできず、上半身が僅かに仰け反る。
「よーう、クソドブぅ! 相変わらずくっせぇなぁ!」
「……っ春千夜君」
 影から這い出るように現れたのは、胸元まで伸びた金髪を一つに束ね、黒いマスクをした男。万次郎と場地の幼馴染みである彼は、武道とも浅からぬ縁のある東卍の伍番隊副隊長・三途春千夜だ。
「雑魚のくせして、いっちょまえに猟犬なんざ侍らせてンじゃねぇぞ! このクソビッチが!」
 流暢に吐き出される春千夜の暴言に、乾がいち早く反応する。
「あ? テメェ……口の利き方に気をつけろ。……殺す」
「イヌピー君! 後ろ!」
 眼前で黒髪が舞い、乾の後頭部目掛けて鋭い蹴りが入れられる。だが、その一撃は寸前で躱され、不意打ちを狙った男はそのままバランスを崩した。そして、その僅かな隙を突き乾が鉄パイプを振り抜くも、男は身軽に腰を捻り、すぐに体勢を立て直してしまう。
(場地くん……っ)
 これは拙いことになった。よりによって戦闘に特化した隊長格が二人。地力のある乾はともかく、二人のうちどちらかを相手取るにしろ、武道一人だと些か役不足感が否めない。
「久しぶりだなタケミチィ! 悪ぃがちっとツラ貸してもらうぜ!」
「え、」
「な、花垣⁉」
「テメェの相手は俺だ! この犬畜生が!」
「……、くそっ!」
 突然乱入してきた場地に俵担ぎされ、武道はどこぞへ連行されていく。万次郎の怒りを考えると、あのまま場地たちにボコボコにされるかと思ったのに。まさか連れ攫われるとは想定外だった。ということは、このまま万次郎のところまで連れて行かれて、彼直々にタコ殴りにされるのだろうか。
 あながち有り得ないとも言い難い己の予想に、血の気が引いていく。
「えっ、あの、なに? え?」
「黙ってねぇと舌噛むぞ」
「あぐぇっ」
 言わんこっちゃねぇ、なんてカラリと笑う場地からは、何故だか殺気を感じない。それどころか古くからの知り合いに向けるような、親しげな態度を取られて困惑した。一体この男は何を考えているのだろう。思えば前の世界でも、場地の思考は読み辛かった。こんな時につい、千冬がいれば、と。甘えが出てしまう自分に嫌気が差す。
 東卍との縁を断ち切ったのは自分のくせに。何を今更、寂しいだなんて……。
「この場で言うのもなんだけどよ。ありがとな、タケミチ」
「へ?」
 喋りながらも器用に黒龍の追っ手を躱し、場地が続ける。
「真一郎くんのバイク屋だって知らずに、俺ら盗みに入ろうとしてたからよ。止めてくれたお前には、めちゃくちゃ感謝してンだわ」
 だから、ありがとな。
(あぁ、そうか)
 この人は、敵でも味方でも変わらないんだ。
 そう思い至って、場地という男の器のデカさに感嘆する。千冬から、場地にまつわるカッケェ話の数々は、うんざりするほど聞かされていた。それこそ関わったのはごく短い時間であったにも関わらず、一方的に彼を知った気になるくらい。沢山の思い出を共有してきた。
 そうだ。知ったような気になって、本当は何も知らなかった。場地もまた、死ぬべきではない人だった。今世で彼が何の後悔も罪悪感も抱えず、堂々と生きている姿を見られたことに、涙腺が緩む。
「……ッズ、」
「あン? げ、何泣いてんだオマエ」
「ううう……場地ぐん!」
「俺の特服汚したら、速攻落として引きずるかんな」
「やっぱり場地君は場地君だった……」
 場地に連れて来られたのは、やはり万次郎のところであった。
「やっと来たか……タケミっち」
 高みの見物と決め込んでいた万次郎が、それまで腰掛けていたバブから立ち上がる。
 ピンクゴールドに染められたさらふわの髪に、血色の悪い青白い肌。未来の彼を彷彿とさせる暗い瞳が、じっとりと武道の姿を捉えて離さない。なんでそんな顔をしてるんだ。場地に抱えられたまま、一番に思ったことはそれだった。万次郎が幸せであるように。そう願った結果の別れであったはずなのに。どうしてそんなに、苦しそうな顔をしているのか。
「……二年だ」
「……」
「二年、オレたちが顔を合わせることはなかった」
 黒龍と東京卍會。
 お互いに険悪な空気となっていたことは自覚していた。街で出くわしたが最後、東卍の奴らから急に襲われる。黒龍も黒龍でただ一方的にしてやられるわけでなく、仕掛けられればやり返す。今度はやられる前に仕掛けていく。そんなことを繰り返した結果、東京のあちこちで小競り合いが起きるようになった。
 二チームの関係が悪化していく一方なのを、周囲の不良たちはいち早く察した。そのうち、面白がってどちらかの味方につく者や、巻き込まれることを恐れて距離を置き、様子を窺う者も現れた。そうなれば東京の勢力図は大きく変わっていく。やがて両者は、東京の二大勢力として認識されるようになっていった。
「本当に……久しぶりだね。マイキー君」
 しかし、二チームの仲の悪さが公然の事実として世間に知れ渡る中で、それでも総長同士がぶつかり合うことはなかった。互いに何となく、そうなることを避けていた節がある。
 今までずっと、彼から目を背け続けていた理由は、自分でもはっきりとはわかっていないのだけれど。今はとりあえず、そんな諸々の複雑な事情については置いておくとして。此度の一件について、武道は言いたいことが山のようにあった。
「とんだご挨拶だな、万次郎。突然奇襲かけるだなんてダセェ真似、アンタらしくもない。いつから東卍は、そんなクソみたいなことするようになったんだ?」
「ァア⁉ マイキーがダセェだと⁉」
 万次郎を守るように立ちはだかっていた龍宮寺が、武道の言葉に気色ばむ。
「ケンチン」
「……チッ」
 今にも殴りかかってきそうなほど激昂していた彼だが、万次郎の牽制に従い、渋々矛を収めた。どうやら彼らの関係は前の世界と変わらないらしい。何となく眩しく感じて、ふ、と視線を下へ落とす。今の武道には手を伸ばすことすら許されない、その近い距離感。羨む気持ちには蓋をした。
「宣戦布告なら二年前にしたろ? オレは責任感の強い男だからサ。過去の自分の言葉通りに実行しただけだよ」
 白々しい。東卍幹部たちの顔を見てみろ。味方でさえも呆れた目を向けているではないか。五分前に言ったことも気分次第で反故してしまう、根っからの自由人のくせして。本当によく言ったものである。
「でも、今までは君が自ら出向くなんてことはなかったはずだ。それがどうして、こんなに事をデカくした? 県外のチームにまで迷惑をかけて」
「東卍としては、縄張り荒らした奴らに報復しただけだけど?」
「は?」
「今日、渋谷区のインターでブイブイ言わせてたじゃん。先に縄張り荒らしたのはソッチだろっつってんの」
 確かに高速に乗るために、一時的に渋谷区に入ったことは認める。だが、東卍の縄張りであることもあり、あまり目立つことのないよう、十分に配慮しながら走っていた。あれを理由に攻め込まれるなら、それこそ新宿や品川といった主要都市を拠点としている黒龍は、連日連夜乱闘騒ぎが勃発していることだろう。とてもではないが、正当な理由とは認められなかった。
「そんなの、」
「てかさぁ、いい加減わかれよ。んなことはどーでもいい唯の建前なんだわ。オレが黒龍に仕掛ける理由なんざ一つしかねぇだろ?」
「……っ」
「花垣武道、オマエだよオマエ。オマエがすべての元凶なんだよ」
 急激に膨れ上がった怒気をぶつけられ、息を呑んだ。
 血走った眼の奥で隠しきれぬ憎悪の炎が、ゆらゆらと不安定に揺れている。ドスの利いた声色は、相手を徹底的に屈服させ、支配せんとする色がこれでもかと滲んでおり、物騒な響きを有していた。
「なぁ、何でオレから離れてったの? 傍にいてくれなかったの?」
「く、……っ」
 空気に呑まれるな。
 屈服してはならない。己の肩には沢山のものが乗っている。ここで折れては彼らを危険に晒すことになるのだ。絶対に、膝をつくな。
「もう二年だよ、タケミっち。そんな長い間、オレらは代理戦争してたんだ。でもさ、もうそろそろ終わりにしようぜ。オレももう限界」
「何、言って……」
「タケミっちの意思なんて関係ねぇ。オマエが欲しいから、無理矢理にでも手に入れる。縛り付けてでも、またオレの傍にいてもらう。そんだけ」
 怒りに満ちた表情から一変。恍惚とした甘やかさを身に纏い、高らかに告げられた宣言は、まるで死刑宣告のようだった。
「もう我慢なんてしない。してやらない」
 コツ、コツ。
 靴音を響かせて、焦らすようにゆっくりと万次郎が近づいてくる。そこでようやく場地が腕の力を緩めてくれて、武道はその場へ落とされた。その後、無様に尻餅をついた己の顔を、光の失せた黒曜石が覗き込んでくる。あっという間に、ともすれば唇が触れてしまいそうなほど近くまで、男は距離を縮めてきた。
「なぁ、早くオレのモノになって」
「……ま、んじろ」
 すり、と手の甲で頬を撫でられる。吐息が肌を掠め、擽ったさから身を捩った。だが、すかさず両頬を掴み上げられ、無理矢理視線を合わせられる。
「オレが『イイ子』でいられるうちに、オレだけのタケミっちになって」
「それは、……っん、」
 断ろうとした瞬間、口を塞がれた。
「ン、ん⁉」
 何が起きたのか理解できず混乱する。一方で、唇に触れた柔らかい感触が、万次郎が己に口付けていることを、明確に知らせてきた。何がどうしてこうなった。軽くパニックに陥る。
「ちょ、マイキー⁉」
「え、あっ、まじ? 何かおかしいと思ったらそういうことか⁉」
 何全部察しましたみたいな顔して納得してるんですか、ドラケン君と三ツ谷君。ぺーやん君はパーちん君の目を塞ぐのをやめましょう。そんな猥褻物みたいな扱いされたら普通に傷つきます。一虎君は……一切興味無しですか。マジか。というか、何で誰もマイキー君を止めてくれないんスか。明らかに今、オレ襲われてますよね。え、合意じゃないの見ててわかりますよね?
 怒涛の勢いで思考回路が動き出し、周りの様子が一気に目に入ってくる。突拍子もない万次郎の行動に、皆余程動揺しているのか。誰一人として彼を制止してくれる者はいなかった。かくなる上は、と。今度は舌を入れてこようとする万次郎の猛攻に抵抗しつつ、必死に彼の幼馴染みたちの姿を探す。
 というか、まずい。唇を噛み締め過ぎて血が出てきた。一応これでも今世のファーストキスなのだが。初キスどころか初ディープキスまで奪われそうになってる挙げ句、レモン味でなく血の味の猟奇的なキスだなんて冗談じゃない。
「むむ、むぐっ……!」
「クチ、開けろって! この……! 噛むんじゃ、ねぇ……ッ」
「むぅー! ぐ、ぅ! むむむ!」
「うっわ、マジか……ついに自覚しちまったか?」
「うおぇ……っ」
 その仁義なき攻防は、慌てて駆けつけてきた乾たちがこの惨状を見てガチギレし、万次郎や周りで放心していた東卍幹部に殴り掛かるまで続けられた。
「サツだ! 逃げろ!」
 それから近所の通報を受けた警察が駆けつけてきて、長い長い深夜の逃走劇が始まることとなる。
 何もかもうやむやのまま解散したせいで、「木更津洲照羅のメンバーと連絡先を交換するの忘れた!」と嘆くメンバーが続出したり、はたまた深夜テンションのまま、東京卍會にカチコミしに行こうとする面々を止めたりと、それからもまぁ、色々と……本当に色々とあったのだが。奇跡的に逮捕者はゼロだったので、終わり良ければすべて良し。
 ――ということには、残念ながらならなかった。
「花垣、ちょっと来い」
「躾のなってねぇ化け猫に噛まれたところを消毒してやる」
 何とか警察の追っ手を振り切り、帰ってきた新宿総本部にて。乾と九井が恐ろしい形相で武道を呼び出した。
「オレのファーストキス……ファーストキスが……」
「……っ!」
「イヌピー! ストップ! やめろ! 気持ちはわかるが、マジで今から殴り込むのだけはやめろ! な!」
 青褪めた顔で愛用の鉄パイプを握り締め、部屋を飛び出そうとする乾を、九井が羽交い締めにして止める。いつもなら一緒に乾を宥める立場に回る武道は、生憎儚く散った己のファーストキスを嘆くばかりで、まともに機能していなかった。ということは、暴走する乾を制止する役目は、自ずと大寿に回ってくることになって。
「めんどくせ」
 しかしながら先の乱闘で疲労困憊だった大寿は、かなり投げやりになっていた。
 九井がストレスで禿げようが、乾が一人で東卍に乗り込み自爆しようが、武道がショックで寝込もうが、正直なところどうでもいい。それより一晩中暴れまくった身体は限界を迎えており、いい加減シャワーを浴びて、泥のように眠りたかった。
「大寿! テメェ覚えてろよ!」
 よって、いくら九井に吠えられたところで、大寿に動く気は毛頭ない。人間様の三大欲求をナメるな、という話である。
「殺す! いつかゼッテェ殺す! あのクソ野郎! よくも俺の花垣を……っ!」
「うわーん! 大寿くぅううん!」
「ハァー……」
 十一代目黒龍が平穏を取り戻すのは、まだ少し時間が掛かりそうだ。
 これから先、己に降り掛かる被害とそれに伴う苦労を思い、無意識の内に深いため息が漏れる大寿であった。


 *


 奈落に落ちる夢を見る。
 漣が煌めく水面が遠ざかり、光も音も届かない深海へ、ゆっくりと沈んでいく。やがて辿り着いた先には、赤く熟れた曼珠沙華が咲き乱れていて。満開の花々は己の指先に触れた途端、パッと弁を撒き散らし、そのまま波に揺蕩った。
 あちこちに巨大な鯨の骨や、食い散らかされた魚の死骸が転がっている。噎せ返るほどの腐臭が漂う空間を、無心で練り歩いていると、スクラップにされた鉄屑が白砂の下から顔を覗かせた。
 CB250T。 通称バブ。十三歳の誕生日に兄がくれた、万次郎の愛機。錆びたハンドルは片方が折れて、エンジンにはびっしりと苔が生えていた。咄嗟にこびりついた汚れを払おうとして、やめる。伸ばしかけた両掌は、おびただしい量の鮮血に塗れていたから。大切な思い出まで穢してしまいそうで、怖くて触れることすらできなかった。
 静かだ。痛いくらいに。
 肌を刺す冷たい冬の海。この場所が己の心の深淵なのだと気づいたのは、いつのことだったか。幼馴染みの口を裂いた頃には、既に自覚していた気がする。
 ここは、万次郎の『好きなモノ』で溢れていた。
 東京卍會創設時に着ていた特攻服、東卍創設メンバーで撮った集合写真、兄から譲られたバブ、眠る時に必ず握り締めている擦り切れたタオル。すべて万次郎の宝物だ。
 心の奥底にしまっておきたいくらいに、大事で大事で堪らない、掌中の珠。
 しかし、深淵に散らばる『好きなモノ』は、壊れているものが多かった。朽ち果てていたり、引き裂かれていたり、粉々に砕かれていたり。明らかに誰かが意図的に破壊して回った痕跡があり、万次郎は深い悲しみが凍てつく海に満ち満ちていく様を、ただ黙って眺め続けた。
 嘆き悲しむ資格は無い。
 この凄惨な世界を、誰が創ったのか知っている。それは狂気に身を委ねた自分自身の、成れの果てに他ならなかった。
 ごぽり。
 叫びたくとも声が出ない。代わりに吐き出されるのは、音になり損ねた泡沫だけ。
(助けて、)
 救ってくれ、誰か。自分ではもう止められないのだ。ここは暗くて冷たい。気を抜けば泥濘みに足を取られて、深みに引きずり込まれてしまう。自分が、自分でなくなってしまう。塗り潰されてゆく。何もかも。
 だがそんな絶望的な世界で唯一、形を保っているモノがある。
(タケミっち)
 己を幸せにしてくれると誓った人。
 兄に似て清廉で、誰より眩しくて、憎くて憎くて堪らない人。
 この救いのない海で瞼を閉じたまま、彼は曼珠沙華に囲まれるようにしてそこに在る。みっともなく縋り付いて抱き締めれば、穏やかな鼓動の音が伝わってきて、彼が生きているのだと実感した。
 あぁ、温かい。温かいんだ。武道と共にいれば、己は狂気に呑まれることなく、正気を保っていられる。どうしてわかってくれないの。オレはただ、オマエが傍にいてくれれば、それだけでこんなにも救われるのに。息がしやすいのに。
 幸せ、なのに。
 瞼を開けて、こっちを見て。オレ以外の誰にも笑いかけないで。愛してる。こんな汚らしい水底に連れ去って、二度と浮かび上がらないように、自らの腕の中に閉じ込めてしまうくらいに。心の底から愛してる。
 惚れただの腫れただの、浮ついた感情なんて知らない。こんな呪いじみた手段でしか愛せない。そもそも万次郎のこの想いが、本当に愛なのかも定かでない。それでもただ慈しみたいと、欲しいと、離したくないと、そう想う気持ちは嘘ではないから。
 ――だから、絶対に取り戻す。
 うっそりと微笑んで、眠る彼へ口づける。何度も、何度も、飽きることなく愛を乞い続ける。ゆらゆらと靡く金髪を、赤い花びらで飾り立てて。血に濡れた指先で、その固く閉ざされた唇に紅をさす。
 嗚呼、なんて、なんて、
 美しい。 


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