ふわふわとした綿毛のような感触がして、目が覚めた。
意識こそ覚醒しているものの、依然として瞼は閉じられている。奪われた視界の中で木漏れ日の光がちらちらと揺らめくのがわかった。あぁ、また奴が来ているのか、と。不自然に動き回る輝きの残滓に意識を傾けて、ぼんやりと自覚する。
「食ってしまおうか」
べろり。
毛繕いのつもりなのか。ぬるりとした生温かい舌が、頬を舐め回す。その物騒な言葉とは裏腹に、肌で感じる尾の動きは国広を守るかの如く、柔らかく己を包み込んでいた。
「あんたは、俺を食わない」
「……」
ひくひく、と。尾が小刻みに揺れる。動揺しているのだろう。なかなか腹の底を見せぬ飄々とした表情からは想像がつかぬほど、尾の動きは雄弁だ。目は口ほどに物を言うとよく言うが、彼の場合多弁になるのはこの肌触りの良い四本の尾だった。ちなみに、指摘すると絶対に次から文字通り尻尾を出さなくなってしまうので、このことは国広だけの秘密にしている。
「……何をわかったような口を利いてるんだよ」
「違うのか?」
「お前の耳は飾りかな? 俺は前からお前を食うと宣言していたはずだけど?」
ほらな。言っているそばから、尾の先が国広の顎を撫で上げる。まるで大切な宝物を愛でているかのように、そこにある存在が確かに手の中にあるか確認するように。
今でこそこうして和やかに会話をしているが、これでも初めて出会った頃は恐ろしいと思ったものだった。しかし、ここ数年同じことを繰り返されていればいい加減慣れてくるというもので。彼の『食ってやる』がただの口癖のようなものに成り果てて、本心から言っているわけではないことは、とっくの昔に悟っていた。
(まさかこんなことになるとはな……)
そもそもの出会いは、国広が運悪く怪奇に巻き込まれてしまったのがきっかけだ。近所にある廃れた抜け殻のような廃神社。通りすがりに同情を覚えてしまったのがいけなかったのだろう。物の見事に神隠しに遭ってしまった国広は、夢とも現とも言い難い何処かへ連れ去られ、一度は彼岸に片足を突っ込んだ。そこへ暇潰しにと乗り込んできたのがこの性悪狐――基、長義であった。
『神格落ちすれすれの没落神が、なけなしの力を振り絞って呼んだはいいけど、それが原因で力尽きてしまうなんて。呆れて物も言えないね』
どうやら国広を呼んだ神とやらは、神隠しをしたせいで力尽きて深い眠りについてしまったらしい。あの時長義がこなければ、あのまま国広は時の止まった空間で気が狂いそうなほどの時間を過ごすことになっていた……というのは、後から聞いた話だ。
「……何」
隣で寄り添う狐の、銀色の毛並みを撫で上げる。ふわふわのツヤツヤだ。美しい獣は物言いたげな表情でこちらを睨みつけてきたが、そんな視線はなんのその。ツンケンしたその態度を受け流し、国広は黙々と長義の毛艶を堪能する。
「……夢を見た」
「は?」
「古い神社の夢だ。俺とあんたは二人揃って鳥居の前に立っていた」
「……」
あれは、そう。春だ。暖かな風が吹き、今日のように木漏れ日が揺れる穏やかな春の陽気。神社に植えられた御神木の、樹齢何千年という桜の木は満開に咲き誇っていた。
一面が薄紅色に覆われた視界の片隅に、小さいけれど立派な社があった。参拝客はそれほど多いわけではないけれど、時たま人が訪れては無病息災や家内安全といった、人の子らしいささやかで可愛らしい願いを残していった。その姿を、よく神社へ通っていた、まだ己の膝くらいの背丈をした童たちが少年から青年へ、そして好々爺となるほどの時を、国広は夢の中でずっと見守り続けていた。
「あんたと二人……いや、もう一人誰かがいた気がする。俺は、あんたたちと共にいられるのが嬉しくて、誇らしくて、堪らなかった……んだと思う」
「……そう」
夢現、微睡みに浸りながらポツポツと語っていると、頭上から上ずった声が落ちてきた。いつもの毅然とした長義の態度からとは打って変わった弱々しいそれを怪訝に思い、薄目を開けて彼の顔を覗き込もうとするも、そんな国広の見え透いた考えはすぐに切って捨てられる。目を掌で覆われ、視界を奪われる。触れた肌の感触が暖かい。ぬくぬくとした獣特有の熱が心地よく、ふ、と身体の力を抜くと、『気を緩めすぎだ』と指先で強めに額を弾かれた。
「夢の中の俺は、本当にあんたのことが好きだったんだな」
「……えっ」
これは寝惚けているからだ。
そう誰に向けることもなく言い訳をして、狐の頬へ両の手をあてがう。ひこひこと動く尾の感触を楽しみながら、ゆっくりと男の顔へ己のそれを近づけた。
「くにひ、」
「……」
唇は、ここか。
ちゅ、という可愛らしい音を立てて吸い付いたそこは想像以上に柔らかく、また、酷く既視感を覚えるもので。押し寄せる懐かしさと切なさにギュウッと胸を締め付けられた。
「お前、さっきのは、どういう……」
「……眠い」
途端に重くなってきた瞼が、睡魔の訪れを告げる。
「遅刻する前に……起こして、くれ……今日は代筆が……頼めなかった、から……」
痛いくらいに尾で締め付けられた腰が悲鳴を上げていたが、それ以上に鉛の如く重くなった身体は言うことを聞かず。結局焦った声で詰め寄る長義の問いに大した返答は出来なかった。
瞼の裏側が、鮮やかな薄紅に支配されていく。一面咲き乱れる甘やかな香りを放つ桜の花が、意識を捕らえて離さない檻のようにも思えた。
*
「……クソッ。思い出したんじゃないのかよ」
悔しげな声に悲壮感が増すにつれて、尾の動きは忙しなくなり、国広の身体を抱く力も強くなる。
まだこの愛し子が大学とやらに向かうまでには時間がある。それまでの間、どうにか夢渡りでも何でもして蘇りかけた記憶を掘り起こせないものかと――、
「……待たされるのは好きじゃない。あんまり遅いと、問答無用に食ってやるからな」
一匹現に取り残された狐はぐるぐると考え続けるのだった。