黄梅もいつのまにか花を散らし、桜が咲いた。閉ざされた南庭の池は漣を取り戻し、月明かりを反射して緩やかに波打っている。とぷ、と水の跳ねる音が聞こえては、水面近くまで浮上した色鮮やかな錦鯉たちが、気まぐれに水面から顔を覗かせた。はくはくと口を開閉しているあたり、エサの催促をしているのだろう。何も持っていないぞ、と両手を広げてみせれば、彼らは悠々と泳ぎ去っていった。
あっさりとした去り際に現金なものだと呆れつつ、浮かしかけた腰を再び沈め、またぼんやりと景色を眺め始める。
「……」
春が来た。失われた色彩が、蘇ろうとしている。
厚く降り積もった眞白の雪は、いつの間にか解けていた。皆が寝静まった丑の刻。無人の釣り殿から外界を眺めていると、不意に風に乗って甘い香りが流れてくる。慣れ親しんだ春の花の匂いにうっとりと目を細め、ようやく訪れた微睡みに身を任せてしまおうと思ったその時。脳裏を冷涼な空気を纏った刀の存在が掠めていって、国広はほう、と物憂げにため息を吐いた。
(……やまんば、ぎり)
季節は確かに春だった。だが、彼の刀の心は凍てついたまま、一向に解ける気配すらなく閉ざされ続けている。彼がやってきてすぐ、一度話し掛けられてから此の方、国広はまともに長義と話をすることをしてこなかった。国広の方が気まずく感じていたというのもあるが、長義の方から頑なに避けられていたからだ。
寂しい、と思う。写しとしての性故か、本丸の仲間として芽生えた情故かはわからないけれど。彼と話すことすらままならぬ現状は、些か辛いものがあった。
「……今日も、渡せなかった」
かさり、と懐から取り出したのは、皺だらけになった一通の手紙。口下手な自覚のあった国広は彼へ宛てた手紙を書いて、常に持ち歩いては渡す機会を伺っていた。
だが、もうそんなもどかしい日々も終わりだ。明朝、国広は修行へ旅立つ。修行へ旅立てば、山姥切国広の個体は主の刀としての意識が強くなり、山姥切の号に対する引け目や後ろめたさといった負の感情を、表に出すことが少なくなるのだという。そうなればこの手紙だってお払い箱だ。手紙に書き綴られた想いだって、終わった過去のこととして、己の内で昇華することが出来るはず。そう、きっと。この燻る感情の数々を……。
今この瞬間存在するこの想いは、何処へいくのだろう。
しわくちゃの手紙を指先で弄びながら、考える。長義へ向けられた、根深く仄暗い、この計り知れぬほど大きな感情の行く宛てを、国広は知らない。それが本当に昇華される確証だって、ない。
びりびり!
祈りを、願いを、想いの丈を詰め込んだ手紙を、破いていく。裂いて、裂いて、裂いて、小さくなった亡骸を、ふぅっと息を吹きかけてばら撒いた。
その瞬間、勢いよく吹き抜けた春風に、それらは攫われていった。桃色の花弁と共に、想いの残滓が暗がりの奥へ消えていったのを最後まで見送り、国広は立ち上がる。悔いはない、といっては嘘になる。正直、後悔だらけだ。彼との関係が中途半端なまま修行に出るのは、何とも言い難い違和感というか、しこりのようなものが喉奥につっかえているような感じがする。だが、ここで立ち止まるのだけは嫌だった。親父たる刀工国広の第一の傑作として、その名に恥じぬ生き方をするために。
そう、俺は、
――決して立ち止まるわけにはいかないのだ。
クスクスと小さな笑い声が響く。茶目っ気のある童の高い声。声は複数あり、楽しそうに何事か話している。ヒソヒソと、コソコソと。
「どんな顔をするのかしら」
「きっと驚くに違いないわ」
「涙を見せたなら、優しく乾かしてやりましょう」
「彼を追いかけるなら追い風を」
「背中を押してあげましょう」
数枚の桜の花弁に紛れ込んだ白い残骸を、春風が運ぶ。やれ順番はどうだ、それは右端だ、そっちは左端だ、なんてせっつき合いながら。
翌朝、いつものように早起きをした部屋の住人が、部屋の襖を開く時。廊下に置かれたビリボロの手紙を見たならば、きっと男は驚きのあまり目を月のように丸くするに違いないわ。さぁ、夜明けは近い。日の出はもう、すぐそこまで迫っている。
早く急いで、と互いに急かし合いながらお節介を焼く風の精たちは、翌朝、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてこの手紙を読み、ドタバタといつにない乱暴な足音を立てて本丸を飛び出していく男の姿を、笑うことになる。
――『俺』を見てくれ。あんたが好きだ。
どうか、どうか。破り捨てるには勿体ない愛しさの詰まった恋文を、受け取ってやっておくれ。
次の日。二人の旅路を喜ぶ精霊の歌が、春風に乗って本丸中に流れた。