*瑠璃に沈む

TOUKEN RANBU

 机とベッドしかない真っ白な部屋の中、誰かが窓辺に佇んでいる。
「あれか、昨日保護されたっていう例の刀は……」
「あぁ……荒御魂になったっていうんで、本霊にも還すことも出来ねぇし、とりあえず保護したそうだ」
「何と哀れな……」
 ――俺を哀れむな。
 脳に直接呼びかけられているかのように、深い憎悪を滲ませた男の声が響く。その声の主は、今己が会いたくて堪らない、あの刀と同じ声だった。突然目の前で再生され出した光景に、国広が呆然としている間にも、人間たちのくだらない世間話は続いてゆく。
「何でもあれの本丸の審神者は神で、高天原の諍いに巻き込まれて障りをもらったらしい」
「主が堕ちかけ弱体化したところを襲撃されたのだとか」
「発狂した審神者は、その後四つの本丸を取り込んで天変地異を起こし、現世に甚大な被害をもたらしたと……」
 ――うるさい。
 手負いの獣の唸り声が、おどろおどろしく頭に反響する。
「時間遡行軍め。襲撃するならばあの審神者諸共攻め落としてくれたなら良かったものを」
 ――何も知らぬくせに。
「初期刀は事件直後から行方不明になったというじゃないか」
「初期刀が裏切ったのでは?」
 ――他ならぬ俺たちを見捨てたお前たちが、その口でアレを語るな!
 そうか、あんたは『そこ』から来たんだな。
 無機質な空間で蹲る哀れな背中を、後ろから眺める。見たことがないほどに弱りきった姿だった。彼からは国広の姿は見えないらしく、気配を気取られている様子もない。今の自分は思念体のようなものなのだろうか。彼が墓場まで隠し通すつもりであったであろう記憶を、無遠慮に覗き見てしまったことに、多少の罪悪感が芽生える。
 部屋の前を通り過ぎる人々の煩わしい声が、彼を苛んでゆく。どんどん小さくなっていくその震える背中を、触れることは叶わないと知っていても尚、そっと摩ってやった。聞きたくないなら、耳を塞いでしまえ。見たくないなら目を瞑れ。寒いなら俺が抱き締めて温めてやろう。
 意味のないことだとわかっているのに、放っておけなくて慰める振りをする。
「山姥切長義様」
 場面が飛び、扉から黒いこんのすけが入ってくる。政府所属であることを証明するIDタグを、それは首輪代わりにぶら下げていた。
「貴殿の元居た時空は、修正が必要な重要分岐点であると判断されました。よって、貴殿にはその精神体のみで過去へ時間遡行して頂き、現世への被害を最低限のものとするため、歴史修正を行って頂きたく存じます」
 ぼんやりと宙を見つめる、どろどろに濁った瑠璃玉に光が宿ったのがわかった。
「俺はまた、アレに会えるのか……」
「ええ」
 独り言とも思える微かな呟きに、管狐が丁寧に相槌を打つ。
「そうか、ならば、ならば今度こそ……」
 今度こそ……。
 ぶつぶつと何事かを呟き、一人思考を巡らせ始めた男を尻目に、こんのすけは簡潔に今回の任について説明していく。

 曰く、失踪した該当本丸の初期刀・山姥切国広の動向は逐一政府へ報告を入れること。
 曰く、該当本丸の審神者とは直接契約を交わすことは禁じる。所属は政府預かりのものとすること。
 曰く、こちらにある肉体は顕現を解いて保管所へ移送後、速やかに浄化したのち本霊へ還されること。
 曰く、一度過去へ飛ばされた精神体は二度とこちらへ戻ってくることは叶わず、片道切符であること。

 それらの条件からして、この任が男の存在を持て余していた政府による、体の良い厄介払いも兼ねていることなど明らかだった。しかしそれでも、男はすべての要求を受け入れ、此度の任を請け負った。聡い彼ならば、政府が何を目論んでこの任務を突き付けたのか、理解しているはずなのに。
(馬鹿なやつ)
 神域に囚われたたかだか写しのために、そんなリスクを冒してまでわざわさ過去までやってくるとは。おまけに自分より写しの方が神格が高いなんて冗談じゃないだとか、写しのくせに自分より目立つ逸話を作って生意気だとか、この期に及んでみっともなく言い訳して逃げている。
(さっさと、認めてしまえばいいのに)
 あんたも、俺と同じ気持ちを抱えてたんだって。
 目を覚ました時には、瑠璃色に囚われていた。
 一面に咲く青い彼岸花。足下に広がる真っ青な海。頭上に広がる、飲み込まれてしまいそうなほどの深い闇色をした夜空。ここは、前に国広が足を踏み入れた時とは何もかもが変わってしまった、彼のためだけにあつらえられた色味のない物寂しい神域。
 月光の差し込む水面に、浮かぶようにして横たわっているのは、国広の探し人で。固く瞼を閉じた青年は、未だ深く眠り続けている。
「長義」
 そっと名を呼び、自らが濡れることも厭わず抱き上げる。もしも目を覚ましたなら、何と言おうか。ありがとう、違うな。よくも騙してくれたな、も違うな。思い浮かんだ言葉のどれもがしっくりこなくて、国広は深いため息を吐き出した。
 やはりこれしかないのだろう。もしも、彼が目を覚ましたのなら。
「長義、『■■■■■』」
 穏やかな寝息のみが聞こえる朧月夜。
 腕の中で眠る愛しい人へ口づけを一つ落とした時、一筋の流星が落ちてきた。
 燦然と輝く空の涙は、凪いだ水面にぶつかると火花を散らして弾ける。そうして形を失った一雫は、漣を立てながらゆっくりと、暗い水底へ沈んでいった。

 あぁ、また。深く、深く、沈んでゆく。

 息も出来ない、二度と還ることの叶わないところまで、深く。今度は一人きりではなく、二人一緒に。

【瑠璃に沈む 完】

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