瑠璃に沈む
太陽光の届かぬ海底では、一般的な本丸で育てられている農作物の収穫は望めない。そのためこの海底本丸では、地上にある他所本丸の農産物と引き換えに、新鮮な海産物を譲り渡すことで食糧を調達している。以上の理由から主な内番は馬当番、手合わせ、それから釣りの三種。釣り当番は内番の中で最も人気の当番だ。特に平安太刀や短刀たちには釣り好きなものが多く、加えて嵐などで流れてきた、この辺の海域では滅多に取れない魚たちを釣り上げた場合は、釣り上げた刀に特別ボーナスが与えられることもあるため、小遣い稼ぎに釣り当番をやりたがるものも少なくない。
「歌仙、主に目通り願いたいのだが」
今日の釣り当番に指名されていた国広は、釣り竿とバケツを手に持ち、廊下ですれ違った近侍の歌仙に声を掛けた。サイズからして着物が収められているのだろう桐箱をいくつも抱えた刀は、ゆっくりと優雅な所作でこちらを振り向く。
「おはよう国広。主なら出雲の集いの準備をしておられる。会えることは会えるけど、君も着せ替え人形の巻き添えを食うかも知れないよ」
「出雲……」
言われて気がついた。今は九月後半。十月の出雲大社の集いが近い。今頃神籍に名を連ねる海神たる主は、神々の集いに向けててんてこ舞いしていることだろう。去年の足の踏み場もない御社の惨状を思い出して、国広はさっと顔色を変えた。あれに巻き込まれるなどたまったものではない。
「あぁ……あれか……なら今はやめておく。忠告感謝する」
「僕は大歓迎だけどねぇ。どれも見事な一級品の仕立てだったよ。実に雅だった……」
「生憎俺には雅なんてものはさっぱりだからな」
は、と自嘲すると、残念そうにため息を漏らした歌仙がジト目で国広を見た。そんな目をしたところで着せ替え人形にはならないぞ。念を無言で送りつつ、ふるふると力強く首を横に振る。主といい、この雅と風流を愛する刀といい、国広のことをやたらと着飾りたがるからいけない。神らしく気ままに生きる主は、写しには不相応な豪華絢爛、贅の限りを尽くした仕立ての着物を贈ってきては、戸惑うこちらの反応を見てケラケラと楽しそうに笑うのだ。去年主の命で十二単を着せられ食堂で公開処刑をされた恨みは、たとえ折れても忘れてやらないと密かに心に誓っている。
「まったく。芋ジャージ一辺倒だなんて勿体ない。君は素材が良いのだから、もう少し着飾れば映えるだろうに」
「絶対に嫌だ。だいたい、あんたの好みは派手なんだ」
派手だ、とざっくり切り捨ててやれば、地雷を踏んだのかムキになった歌仙が応戦してくる。
「何を言う! そんなにごちゃごちゃしてない実にシンプルなものだっただろう! あれのどこが派手だと言うんだ!」
「真紅の生地に金糸だなんて! この俺には過ぎる配色だろう! まして神格の高い主の古着だなど、霊力の残滓だけでも重圧が酷くて本気で折れるかと思ったぞ!」
負けじと国広も言い返した。長い付き合いだ。互いに気心が知れている分、情け容赦のない口喧嘩に発展していく。
「それは君が必要以上に主に気後れしているからだろう! そういうのを腑抜けというんだ!」
「なんだと……! 俺は腑抜けじゃない!」
「去年の十二単姿で小動物のように震えていた君を思い出したよ。あれはあれで愛らしかった」
「愛らしい……? 馬鹿にするな! 俺は武人だ! あんたこそ雅だの風流だのにかまけて鈍になったんじゃないか?」
「なに……? あぁ、そこまで言うなら手合わせ願おうじゃないか。どっちが腑抜けか白黒はっきりつけてやろう!」
――こんなところにいたのか偽物くん!
ヒートアップしていった二人を鎮めたのは、地を這うような一声だった。
ハッと我に返って背後を見やると、青筋を浮かべた長義が庭先に立っている。手には釣り用のバケツと釣り竿が握られていて、国広と目が合うや否や、彼はイライラした心中を隠そうともせずに盛大な舌打ちをした。尋常でない怒髪天の形相を前に、舌戦を繰り広げていた二振りの頭がみるみるうちに冷えていく。すっかり闘志の萎えた国広たちは長義の方へ向き直ると、僅かに一歩後ずさった。
「……やまんば、ぎり」
「今日は釣り当番だと言っただろう! いつまで俺を待たせるつもりだ! さっさと来い!」
肩を怒らせて先に行ってしまった男を見送る。取りつく島もないといった彼に、掛ける言葉が浮かばなかった。とりあえずこれ以上待たせては抜刀騒ぎになりかねないと、慌てて国広は長義の後を追うべくバケツに突っ込んでいた釣り用の長靴に足を突っ込む。すると、隣で呆気にとられていた歌仙が、小さく呟いた。
「……よりにもよって君が山姥切の教育係だなんて。今年で二年目だったか? ……主の気まぐれにも困ったものだ。本丸の壁にいくつ大穴を開けるつもりなんだろう」
「……さぁな。神なんてものは皆気まぐれなんだ。その場だけ楽しければそれで良しってな。何も考えちゃいないさ……邪魔したな」
規定の釣りポイントに到着した時には、長義は既に撒き餌をカゴにセットし終わっていた。気まずげに国広がやってくると、長義はそれを一瞥した後、竿を結界の外に向かって振るう。今日は水の流れが穏やかなようだ。外に放り出された釣り糸は激しい海流に攫われることもなく、撒き餌をばら撒きながら大人しく水中を漂っている。
長義に続き国広もまた竿を振った。持ち手の部分を専用のスタンドに固定すれば、後は獲物が掛かるのを待つだけだ。魚の方から結界の中は見えない。よって、暫く重苦しい沈黙の下、手持ち無沙汰にぼーっと変化の少ない海の中を眺め続ける。
「……主が出雲出立の準備をされているらしい」
耐えきれずに沈黙を破ったのは国広の方だった。努めて平坦な声でもってして、先程歌仙から聞いた世間話に興じる。とはいえ、相手が相手なので壁打ち覚悟での虚しい独り言のようなものなのだけれど。
「だから、今は御社には近づかない方がいいと思う……着せ替え人形にされるから」
「去年のお前のようにか」
ビキリ。空気が凍る。一番触れられたくない逆鱗に彼は触れた。しかし神経を尖らせた長義相手に怒鳴るわけにもいかず、怒りや悔しさから両手を震わせながらも、国広は気丈に振る舞おうとする。ここで会話を放棄することだけはしたくなかった。今は表面上穏やかそうに返している長義だが、その実まだ怒りが完全に引いたわけではないことを、怒気を滲ませた彼の声色が如実に告げているからだ。油断してはあっという間に抜刀コースになりかねない。
「……それは忘れてくれ」
「忘れる? 無茶言わないでくれるかな。ある日突然俺の写しが、主の霊力を纏った別人のような姿で現れたんだぞ。神に嫁入りでもするのかと思って、柄にもなく驚いたさ。あんな強烈な記憶を忘れるなんて無理というものだよ」
「嫁っ……お前も一度味わってみろ。あの霊力の重圧を……そんな能天気な感想なぞ一切抱かん」
「ハッ、真っ平御免だね。あんなものを着せられる前に切り刻んでやる……まんまと着せられたお前が間抜けなのさ」
こちらの想像以上に会話が成り立っている。話題が話題なので精神の摩耗が凄いことになっているが、長義から本気の威嚇をされながらする口喧嘩に比べれば、こんなものは可愛いものだ。ふぅ、と人知れず息を吐きながら、軽いジャブのような会話を続けていると、長義の方の釣り竿が大きく軋んで獲物が掛かったことを知らせる。見れば五つある釣り針にアジが三匹食いついていた。
「……」
「……」
また沈黙が訪れる。眼前の海は冴え冴えと澄んでいて、穏やかな海流に乗って魚の群れが目の前を行き交った。赤、黄色、銀……様々な彩色のそれらはされど不思議と青に馴染み、その色を水彩画の如く滲ませるようにして、景色を華やかに彩っている。
紺瑠璃がこちらを見た。感情の見えない目で。その目で見るなと咄嗟に叫びそうになった。
「ねぇ、偽物くん」
「俺は偽物じゃ……」
外は真昼間らしい。水面の輝きが頭上をちらついて、光の雨が降り注いだ。水で満たされた薄暗いこの空間に似つかわしくない、神々しい宗教画のような一場面。美しい男は桜色の唇を歪めて、優しげな表情からは考えられないほど鋭い眼差しを国広に送っている。息が止まった。肺呼吸の仕方を忘れてしまったみたいに。周りを取り囲む青に囚われて、身動きが取れなくなった。
「お前はあの時、本能的に主の霊力を拒絶していたようだけど……」
その先を聞いてはいけない。
強烈に思って、両手で耳を塞ぐ。いつのまにか目の前に立っていた男がその手をそっと外し、国広の瞳を覗き込んできた。
「俺の霊力は、受け入れるんだ? 不思議だね?」
日常と化した味気ない口づけが、当たり前のように行われる。最早儀式だ。国広の霊力を長義が上塗りするための。徐々に蓄積されていく毒が、血脈に乗って全身に回ってゆく。その過程が苦しくて、痛くて、臓腑がよじれそうなほどの苦痛を与えられながら、長義の霊力が国広の霊力を食らわんと好き勝手に暴れ回る。
これほどまでに暴力的な口吸いがあるか。
相手を食らわんと、骨の髄まで味わい尽くしてやらんとする猟奇的なそれに、せめて膝をつくまいと必死に耐える滑稽さよ。長義の霊力を、国広は何故か拒絶することが出来ない。他者のものならば、体内に入る前に拒絶することが出来るのに。与えられるがままに、受け入れるしかない。どれほど心が拒んだとしても。
「うっ……」
「心が拒んでも身体が受け入れる。これはやはり、俺とお前が本歌と写しだからなのかな?」
「知らな、ァ……ん、」
「そら、俺の目を見てごらん」
とぷり。
水の跳ねる音を聞いた。青で満たされた瑠璃玉が二つ。その中に蕩けきった顔をした己の姿が映り込んでいる。屈辱だった。その様はまるで、長義の霊力をもっと欲しいと強請っているように見えたから。
「い、やだ……っなんで、んぅ……ッ! なん、で……!」
「あぁ、泣いてくれるな、俺の写し……そんなに怖いか、可哀想に……」
柔く頭を撫でて国広を憐れむ様はまさしく神だ。気まぐれに苦痛を与えては甚振られる側の反応を見て楽しんでいる。己が主と同じ。それでいて主よりも残忍だ。
主が神という特殊な事情のせいか、この本丸の刀たちは神としての側面が強い。皆気まぐれで奔放で自由で、勿論しなくてはならないことは熟すが、それ以外のところでは気ままに生きていた。そして、それはこの目の前の男も然りで、やたらと己の号に拘るこの男は、国広から号を奪い返すということに執念を燃やしている。
タチが悪い。己のやりたいように国広を嬲って、それを見て楽しみながら霊力を塗りかえようとしてくるなんて。それが神としての本能だから、なんて免罪符を掲げながらこの身を食らう男が、心底憎らしい。
「覚えておいで」
「……っ」
「俺こそが、本歌『山姥切』。お前は、俺の写しだ」
そんなもの、言われずともわかっている! 言おうとして、喉が引き攣って声が出なかった。抵抗すら許されない圧力が、内側から湧いて出てくる。体内に回った長義の霊力が、逃げを打つ国広の両足を掴んで離さない。怖い。本能的な恐怖が膨らんでゆく。宥め方も知らないそれを押しとどめられるのは、目の前の男だけ。男に心の臓を握られているような錯覚に陥って、足が震えた。
「お前は確かに主の刀だ。だが、お前が存在しているのはこの本歌あってのこと。主の刀である前に、俺の偽物なのだということを、」
――どうか、ゆめゆめ忘れてくれるなよ。
ゆらり、ゆらりと、釣り竿が揺れている。釣り針にかかった哀れな獲物たち。ぼやけた視界に映るそれらに己を重ねて、耳を犯す呪詛を恨み、国広はそっと目を瞑った。
*
ひっきりなしに雷が鳴っている。
ビリビリと大地すら揺るがす振動が何度も国広たちを襲い、結界の張られた境界線沿いに閃光が走っては弾かれた。主たる海神曰く、あれは気まぐれで暇を持て余した雷神による挑発行為らしい。悠久の時を生きる神は大抵が暇を持て余している。そんな彼らは偶に退屈を嫌い、好戦的なモノほどこうしてちょっかいをかけてくるのだ。今回のは、審神者へ近所に棲まう山神との冷戦状態を解き、さっさと決着をつけよという催促の意味なのだとか。そんなくだらない理由で天変地異を起こすのだから、神という存在の身勝手さたるや迷惑極まりないものである。
「雷神め、煽りよる。嵐を呼んで漂流物をけしかける気か。あのいけ好かぬ山の神の神域に横流しにしてくれるわ」
荒れだした海の様子を眺めながら、執務室で筆を取っていた審神者が吐き捨てる。
「主、それでは雷神の思う壺だ。出雲前だぞ。山神との喧嘩は帰ってからにしろ」
「フンッ、構うものか。このクソ忙しい時に鬱陶しい。老害どもは纏めて我が海の藻屑にしてやろう」
本日の近侍を務めていた国広の忠言虚しく、主はさらに苛立ちを増した様子で唸った。この様子では今日のうちに何隻か船が沈むであろう。いざという時に助けに出られるよう、こんのすけに事前に報告しておくか……なんて考えつつ、国広は目の前の書類の束を片付けていった。ちなみに国広たちが沈んだ人の子たちを助けに行くという選択肢はない。刀にとって海水は大敵のため、刀剣男士たちが助けに向かうことは物理的に出来ないのだ。
「して、山姥切国広や。お主が本科の様子は如何か」
ゴロゴロと雷鳴が轟いて、次いでカッ! と視界が白く染まる。次の書類のページを捲る国広の手が止まった。そんな国広の様子を見て、審神者がくつりと意地悪く笑う。
「お主にアレの教育係を命じてもう二年よ。ほれ、存分に聞かせるがよい。乱藤四郎たちが愛らしくはしゃいでおったぞ。なかなか楽しいことになっておるのだろう?」
こめかみに青筋が刻まれた。審神者はそんなあからさまなこちらの一挙一動のどこが面白いのか、ころころと鈴を転がすような声で笑っている。腰ほどまである豊かな白髪が流れ、神気の残滓である黄金の光の粒が、せせらぎに群がる蛍の如く周りを飛び回る。一見畏怖を覚えるほどの神々しいその様は、人の子の目には大層美しく映るに違いない。しかし今やすっかり見慣れた国広には、ただただ忌ま忌ましく映った。こうしている時の主は大抵碌でもないことを企んでいると知っているからだ。
「あんたに話すような事はない」
「それだけアレの匂いを纏わりつかせて何を言う! どうだ、もう褥は共にしたか? アレは見目に反してなかなか手荒く扱いそうだからな、負傷したなら隠さず報告するのだぞ」
「やめてくれ! 俺たちはそんなんじゃない!」
「むぅ……彼奴もヘタレよな……いや無自覚故か。それはなんとも……難儀な……」
一周回って哀れになるわ。
相変わらず意味のわからないことを審神者はブツブツ言っている。ここ最近の長義の態度を思い出して、国広は苦虫を噛み潰したような顔をして拳を握った。気のせいでなければ、いつにも増して長義に絡まれる頻度が増えている。加えて二人きりの時にしかやらなかった霊力の上塗り行為を、彼自身何をどう開き直ったのか、他の刀たちの前で堂々と仕掛けてくるようになって――一週間ほど前に食堂ですれ違い様にやらかされた時の周りの反応は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図であった。特に堀川派の怒り心頭具合は凄まじく、抜刀騒ぎに発展しかけたために審神者自身が直接出向きその場を諌める、なんていう異例の事態が起こったほどだった(あの時の主はかなり楽しそうな顔をしていたことをここに記しておく。生涯この恨みは忘れない)。おかげで波風立てぬ本丸生活を望んでいる国広としては、うっかり四六時中襤褸布に包まっていたく成る程の精神的ダメージを受けた。もう極めているのに。極めているのに……。
挑発的なマウント行為を繰り返す長義を嗜める物もあれば、敢えて長義を煽ったり国広を案ずる物も在る。
長義が何を考えているのかは国広にはわからなかった。皆の前でわざわざあんなことをするのは、己の方が格上と見せつけるための、謂わば見せしめか何かのつもりなのだろうと思えば、一方で彼は自分たちに干渉されることを酷く疎んでいるようにも見える。周りから構われれば構われるほど、一度箍が外れたら感情のコントロールが効かなくなってしまった幼子のように、彼は国広に当たり散らすことが増えた。何をしても怒鳴られ、機嫌を損ねるので、おかげで国広もまた開き直って受け流すことを覚え始めたところだ。
これまでの数々を思い出し遠い目になっていると、ひとしきり笑った審神者が楽しげな声で宣う。
「いやはや歪な縁よな。互いに喰らい合っておるかと思えば、その強烈な縁の太さで存在証明すらしておる。お主ら揃って図太いものよ。して、祝言はいつにする?」
「……」
「だんまりか! それもまたよし。言霊の縛りは厄介故な。それがよかろうて」
言霊、と言われて心臓が嫌な音を立てた。付喪神といえど神は神。放つ言の葉には力が宿る。
『お前は審神者の刀である前に俺の写しだ。その号で顔を売っていた偽物め。本歌山姥切ここに在りと俺が直々に示してくれる』
幾度にも渡って言い聞かせられてきた言ノ葉。忘れた頃に何度も何度も吹き込まれたそれは、長義の姿が見えない時もぐるぐると体内を巡って、体内に取り込まれた彼の霊力と共に己の血肉を貪らんとする。己が徐々に侵食されていく感覚は、いくら国広がそうではないと否定したところで、世に浸透していってしまった山姥切の号の在り方と重なった。号を奪われる感覚というのも、まさしくこのような言い様のない悍ましい感覚であったのかも知れない。長年顕現することも叶わず、ただ黙って国広が山姥切と呼ばれているのを見ているしかなかった彼を思うと、やりきれない気持ちになった。
しかし、あの頃の自分に何が出来たというのだろう。どうにもならなかったではないか。いくら主張したところで、一度そうと広まってしまったものを正すのは困難だ。それに、そもそも山姥切の号を巡る逸話には諸説あり、そのどれもが信憑性などないあやふやな伝承でしかないのである。長義から理不尽な怒りをぶつけられることに、いい加減辟易してきたのも事実だった。
「山姥切国広よ」
黒く澱んできた思考を散らすように、ぴしゃりと審神者の声が割り込む。
「思考を止めてはならんぞ。停滞すればその澱みは溜まり、いずれお主を呑み込むであろう。お主らの和睦は難しいのやも知れぬ。それだけ数奇な運命だ。……残酷なほどにな。一方が伏せば、また一方も倒れるだろうよ。だが諦めてはならぬ。彼奴の言葉に耳を傾け、理解しようと尽力せよ。さすれば共に生きる道も見えてこよう」
かたり、と筆を置く音が部屋に響いた。相変わらずひっきりなしに轟く雷鳴がうるさい。結界に阻まれたはずの雷を脳天に食らったような衝撃を受けた。それはまさしく審神者の言霊だ。神託とも言える。今まさに、国広はこの海の神による忠告を胸に刻まれた。深いところに、容赦なく抉り取るように。
「俺には、」
声が震えた。恐れからか、怒りからか。それが何処からくる震えなのかはわからない。
「俺には、あんたの言っていることがよくわからない……あんたは俺を山姥切の教育係につけると命じた時も、似たようなことを言っていた。だが……この二年間で俺は悟ったんだ。俺たちは関わってはいけない存在なんだと……理解云々以前の問題なのだと」
「ほぅ……だから彼奴から離れたいと?」
興味深そうに目を細め、審神者が先を促す。兼ねてより抱いていた考えを見透かされて、びくりと身体が震えた。
「あんたは知らないかも知れないが……俺たちは今までのほとんどを離れて存在していたんだ。一箇所に並べられたことなど数えるほどもない。だからこそ人の子は傍にない理想で塗り固めた虚と俺たちを比べ、勝手に優劣をつけた。……特に俺は、写しだと侮られ軽んじられることが多かった」
審神者は目を瞑り、国広の悲痛な叫びを静かに聞いている。閉じた瞼の裏側では、今まで二振りが辿ってきた軌跡を思い描いているのだろう。何となくそう思った。
「だが一箇所に在れば在るでこうして反発してしまう。俺たちは何もかもが真逆なんだ。その在り方も、考え方も、矜持の軸も……何もかもが違う。共に生きる方法は、あんたの言った通り何処かにあるのかも知れない。だが俺は、それを探そうとは思えない!」
離れているのが普通だったのだ。離れた場所で、好き勝手に言われることには慣れていた。しかしまともに並べられて比較され、挙げ句失望されたらと思うと、正直足が竦んで動けなくなった。国広には長義のような絶対的な自信がない。山姥を斬った記憶もなければ、極めた今でさえ常に写しであるという劣等感を抱いている。在るのは新刀の祖とまで称された刀工堀川国広の第一の傑作という自負と、審神者に見出された初期刀である誇りだけ。それ以外には何もない。
「俺たちは似て非なるものだ。近い存在でありながら遠い。俺たちの間にある深い溝も、開いた距離も、今更埋めようだなんて欠片も思っちゃいない……だから、」
「そうか。ならば教育係は本日をもって外そう」
明日の天気を述べるように、軽い調子で審神者は言った。思いの外あっさり通った要望に呆気に取られていると、気まぐれな神は「どうした?」なんて無邪気に首を傾げて問うてくる。こういうところが、恐ろしいと思う。神というのは総じて気まぐれで無垢なもの。何も知らぬ赤子が地べたを這う蟻を知らず踏み潰した時のように、時にして残酷なことをそうと認識しないまま行ってしまう。国広の願いは叶えられた。だというのに、なんなのだろうか。今、大切な何かを失ったような、越えてはならない一線を越えてしまったような、そんな気がして。全身から汗が噴き出した。
「離れるならそれもまた一興。元より気まぐれに始めた遊戯よ。強制的なものでもなし、お主の好きにすればよい。……彼奴がそれを許せばの話だがな」
最後の言葉は雷鳴に紛れて聞こえなかった。行燈に照らされた薄暗い執務室が、窓外の影響でチカチカと点滅する。
ついに本格的な嵐がやってきた。張り巡らされた結界に走る電流に、叩きつけるように流れ込む漂流物。海底から掘り起こされた旧文明の残骸が、結界に衝突しては海神の力によって西の霊山目掛けて流されてゆく。いつもなら周りを泳いでいる魚たちは、雷撃を恐れて何処かへ逃げ去ってしまっていた。ここにあるのは、歪められた座標の上に成り立つ不安定な神の本丸のみ。
コン、コン、コン。
執務室の扉が、勿体つけるように三度ほどノックされた。静まり返った空間に反響した音の方へ、何気なく国広は振り向く。
「入れ」
端的な審神者の返答に従い、悠々と部屋へ入ってきたのは、恐ろしいほど鋭利な光を湛える瑠璃玉を持つ、銀髪の付喪神だった。
「おい……! 何処に向かうつもりだ!」
執務室を出た国広は、長義に腕を引かれて本丸の廊下を引き摺り回された。長義の表情はこの角度からでは伺えない。だがその後ろ姿からして、彼がかなり怒っているのが伝わってくる。
「いいからついてこい」
「いやだ、離せ……!」
何がしたいのだ、こいつは。
先程までの審神者との会話を思い出す。この男が部屋に入ってきた時には、ここまで彼は怒りを露わにしていなかった。この男の放つ空気が一気に冷え切ったのは、審神者から国広が長義の教育係を外れると聞かされた直後だった。
「……山姥切、痛いっ」
「くどいぞ、あまり喚くと叩き斬る」
「……っ!」
向けられた殺気は本物であった。ここまでの激情を向けられたのは初めてのことだ。何がそんなに気に入らなかったのか。長義の教育係に関しては、彼自身以前から嫌がっていたこともあり、すんなり承諾するものと思っていたのに。彼は審神者からその話を聞かされた途端、表情をごっそり失って顔を青ざめさせていた。
尋常な反応ではなかった。
「山姥切……頼む、話をしたい。あんたはずっと俺とのパートナー関係を解消したいのではなかったのか……? 元々審神者に無理矢理命じられて始まった関係だ。未だに解消していない奴らもいるが……あんたはもう十分本丸での生活に慣れたし、何よりあんた自身がずっと嫌がってたことだろ? 何をそんなに拒む必要が……、」
「黙れ」
すらり、と美しい刀身が不気味に輝いた。抜き身の刃を首筋にあてがわれる。息を呑み、彼の目をじっと見つめ返す。こんな時に目を逸らすことこそ愚かだということを、国広は長年の経験から学んでいた。ここで怖じ気付いて目を逸らせば、その瞬間この首は胴から離れる。これは予感ではなく確信だった。
「まだ、わからないのか……?」
本丸中に響き渡っていたありとあらゆる音が消える。その声は迷い子のように不安げで、今にも泣き出しそうなものだった。いつも自信に溢れていて、堂々とした物言いをする彼らしくない。雷光に照らされ、ぎらりと光る瑠璃色が潤んでいるように映ったのは、疲弊した思考回路が見せた錯覚か、幻か。それはまるで、斜陽を反射した波打ち際のように物悲しく、壮絶なまでに美しかった。
――あぁ、この男こそが己が本科なのだ、と。
その圧倒的な美しさに納得がいった。すとん、と何かが落ちてきて、丁度よくぽっかり空いた穴にそれが嵌まった。
「長義……?」
いつの間にか長義の本体は鞘へしまわれ、代わりに黒革の手袋を脱ぎ捨てた青白い掌が、国広の頬にあてがわれる。彼の荒々しい気性とは裏腹に割れ物に触れるかのような手つきで、こめかみ、瞼の上、頬を冷え切った肌が滑っていった。それから親指でやわやわと唇の弾力を弄ばれ、最後に金糸を撫で付けられる。的確に手で顔のパーツを辿りながら、こちらを睨みつける瑠璃の瞳には、必死になって国広の造形を確かめる焦燥めいた光が潜んでいた。
「……お前は俺の写し、なんだよな」
出会わなければどれだけよかったか。
そう続けられた言葉が、胸にずしりと重くのしかかる。
互いに別の刀であったなら。国広が、数ある長義の写しの中に埋もれる程度の作品であったなら。逸話が、どちらのものなのか明確であったなら。ここで出会ったことを、手放しに喜べていたのだろうか。たらればの話をしたところで意味がない。既に国広は、写しにもかかわらず本科と伯仲の出来とまで讃えられ、名の知れた刀工の最高傑作とまで謳われた山姥切国広として、長義と出会ってしまった。後戻りのきかないところまで、二振りはきてしまったのだ。可能性の話をしたって虚しくなるだけである。
「……俺は、審神者の刀だ。そして、親父の最高傑作」
「……」
腰に腕を回されて、引き寄せられる。突然男の腕の中に閉じ込められ一瞬身体が強張ったものの、とくとくと脈を刻む鼓動の音を聞いているうちに強張りは解けていき、そっと肩に擦り寄った。人の形をとった今でさえ、自分たちの造形は似ている。身長だってあまり変わらない。
「だがあんたの写しであることもまた、変わらない事実だ……」
どうしたらいい。審神者は、共に生きる道があると国広に告げた。本当に、そんな道はあるのだろうか。こうして熱を分け合っている今は、不思議と穏やかな気持ちのまま過ごせているけれど。それでもひとたび霊力を取り込めば猛毒と化し、それは身の内で暴れ回る。号に関してもそうだ。互いに存在を喰らい合う歪な縁を結んでいることに変わりない。似ているのか、似ていないのか、こうなってはよくわからなかった。頭の中がぐちゃぐちゃになって、考えることを放棄する。今はただ、珍しくも心許ない気持ちで己に縋るこの刀を、安心させてやりたい。今まで抱くことのなかった温かな気持ちが湧いてきて、触れたくて堪らなくなる。その理由は、まだよくわからない。
「……俺にはあんたがわからない。どうしたら、俺はあんたを安心させることが出来るんだろう……」
掠れた声で呟かれた言葉に、長義が応える。
「……傍にいればいい。俺の隣に並び、写しとして堂々としていれば……離れたところでどうせ元の地獄に戻るだけだ。せめて悪足掻きの一つや二つしようじゃないか」
「……あんたと比べられたくない」
「本歌と写しである以上は諦めろ。あの比較の目は俺たちが在る限り付き纏うものだ。まともに受け止めていたら気が狂う。ある程度受け流せ」
無茶を言ってくれる。その比較の目が何より恐ろしくて、国広は襤褸布を纏い、己の衣を自ら汚していたというのに。やはり根本的に考え方が違う。縁もゆかりもない刀の方が余程自分に似た物がいよう。誰よりも強い縁を結んでいるくせして、真逆の在り方をするこれが、不思議でならなかった。
「俺には、とても……」
「臆病者の腑抜けめ。俺が傍にいること以上に安心出来ることなどなかろうに」
「あんたは自惚れが過ぎる……」
ぐっと腰に回された腕に力がこもった。背骨が軋むほどの力だ。苦しげな息を吐くと、少しだけ拘束が緩められる。
「何とでも言えばいい。だが変なところで自信満々なお前にだけは、自惚れだ何だと言われたくないかな」
ぴとりと密着すると、反発する心中が嘘のように器に馴染む。暫し抱きしめ合って、互いの存在の大きさを改めて痛感させられた。一度出会ってしまったこの男と、また距離を置いて縁を断ち切るだなど、不可能であることを悟る。思考を止めるなと審神者は言った。ならば、考えろ、考え抜け。国広はどうしたらいいのか。どうしたいのか。
何も考えずにこの男に身を任せ、傍に侍ることなら猿でも出来る。今の己には自らの意思で動くだけの体が、考えるための頭があるのだ。この男の傍に在りながら、今一度身の振り方を考え直す時が来たのではないか。これから先、共に生きる道が見つかるかどうかはわからないが、それが今の自分に示された唯一の道であることは本能的に嗅ぎ取っていた。
「……パートナー関係は解消しよう」
ぎゅううっと、蛇が執着を燃やす獲物を締め上げるように、二本の腕が国広の胴に食い込む。
「だから、これから俺があんたの傍にいるのは俺の意思だ。俺は強要されるのではなく自分の意思であんたの傍にいよう」
弾かれたように顔を上げた長義の顔に、困惑の色が浮かんだ。それはそうだろう。今まで彼に苦手意識を抱いて、一方的に避けてきたのは他ならぬ国広なのだ。どの口で、と罵られても返す言葉もあるまい。
「……その言葉、違えるなよ」
「あぁ。俺も……このまま目を逸らし続けるのは、少し疲れたからな……」
顎を掴まれ、無理矢理男の肩に埋もれさせた顔を上げさせられる。息をするように口付けられ、また霊力を流し込まれた。ピリピリとした感覚が舌の上を刺激し、されど今までのような苦しさはなく、戸惑いを覚える。腹の底に溜まった長義の霊力はいつになく良く馴染んだ。心の持ちよう一つでここまで変わるのかと驚く反面、それをずっと続けられたならばいつか、自分が自分でなくなってしまうのではないかという漠然とした不安を抱く。そんな国広の怖じなどお見通しだとでも言うように、長義はうっとりと微笑み、さらに口吸いを深くした。周りを取り囲む瑠璃に溺れるみたいに、目の前の男にだけ意識が沈んでゆく。
他を見るな、と。
その瞳に映すのは、感じるのは、この本歌だけなのだと、擦り込むようにして執拗に練り上げられる霊力は、どんな甘露よりも甘く、どんな美酒よりも酩酊させられる。
「ん、……ふ、ぅ……っ」
「ふ、……」
がくん。
腰が砕けて崩れ落ちそうになり、脱力した国広の身体を長義が支える。血のように熟れた赤い唇が歪んで、仕上げとばかりに軽くキスを施された。口端から溢れた唾液を舌で舐め取られ、顔中にキスの雨が降ってくる。ともすれば懇ろの仲であると勘違いしそうになるくらい、彼の触れ方は艶っぽくて。この手のことには疎い国広がいくら狼狽えようとも、平然としているこの男が憎らしかった。
「姿形がいくら似ていようとも、生きた年数は俺の方が長い。お前は俺にとっては童も同然。そう恥じることもないさ」
「なっ……!」
「経験なら俺が積ませてやる。いいか、この俺の前でその首を縦に振ったんだ。他の物にこれを許したその時は……そうだな、」
――この本歌が直々に手討ちにしてやろう。
ぽかん、と口を半開きにして長義を見る双眸に、満足げに鼻を鳴らす男の姿が映り込む。早まったかも知れない、などという一抹の後悔は声になることなく、国広の胸中に一滴の染みを落としてぼやけて消えた。未だ雷神は機嫌が悪いらしく、喧しい催促の雷鳴が結界の外で鳴り響いている。
深い青を閉じ込めた瑠璃玉を眺めて、時折光を反射してつるりと輝くそれに見惚れた。幼い反応を見せる国広の頭を、今までにないくらいに優しく撫ぜる男の手の感触は、きっと一生忘れることはないのだろう。
腹の底に広がる温もりに、満たされたものを感じつつ。そんな根拠のない確信を、ぼんやりと抱くのだった。