「それでは行ってくる。初期刀よ、本丸のことは頼んだぞ」
「あぁ」
ウミガメの大群が現れたかと思ったら、あっという間に着飾った審神者を背に乗せ、神使たちと共に出雲へと旅立ってしまった。ここから出雲までは十日ほど。その旅路の間、審神者たる海神は神域と定めた海の端から端までを泳ぎ回り、そこで暮らす生き物たちに挨拶してゆくのだという。これも信仰を集めるという大切な神の仕事の一つだ。人の子からの不安定な信仰だけで存在を確立出来るほど、神は強くない。ありとあらゆる自然に宿る純然な魂を維持するためには、そこに棲まうものたちすべてに愛嬌を振りまく必要があるのだと、以前海神自身が愚痴混じりに言っていた。
めんどくさいことこの上ない、との余計な一言付きで。
「さて、主も無事旅立ったことだし、我々も各々持ち場に戻ろう。……浦島! 亀たちと戯れる暇があったら今日の遠征について打ち合わせをしたまえ!」
「げぇっ……はーい……」
「ほら、行った行った!」
パン、パン、と手を叩いて、歌仙が言う。ぼうっと海の向こう側を眺めていた刀たちが目を瞬かせ、皆散り散りになっていった。そして国広もそれに続こうと踵を返した時、ひらりと舞った額の鉢巻きを無造作に掴まれる。必然、ぐんっとつんのめった国広はバランスを崩し、危うく後ろに倒れるところだった。危なかった。
一体誰が、などということは考える必要もない。国広に対してこんなことをする無法者など一人しかいなかった。心当たりのある男を思い浮かべて、思い切り不機嫌そうな顔をしたまま振り返る。
「おい……」
悪びれずに背後に立つ元凶を睨みつけてやれば、そいつは奇妙な虫でも観察するかのような不躾な視線でもってして、こちらを見下ろしていた。
「山姥切、鉢巻きを引っ張るなといつも言ってるだろう!」
国広が声を張り上げると、男が白々しく肩を竦める。
「どっかの猫殺しくんではないが、目の前をうろちょろされると気になるものでね。ていうかお前、結ぶの下手くそなのか? なんで固結びなんてしてるんだよ。解けないじゃないか」
「俺を呼び止める時にいちいち鉢巻きを引っ張るどこぞの誰かのせいで、結び直すのが面倒になっただけだ!」
「まったく色気のない……そら、綺麗にやり直してやるから前を向け」
「結構だ!」
ぷりぷり肩を怒らせて声を荒らげる国広の頬を、面白がるような笑みを浮かべて長義が摘む。ぐりぐりと抓って餅のように伸ばしてくる手を払い落とすと、乾いた音が鳴った。ここまで感情を露わにする国広は非常に珍しい。しかし、周りの刀たちはそんな二振りのやり取りをまたか、といった顔で見事に受け流していた。というのも、国広が長義に威嚇している姿は、ここ最近頻繁に見られるようになった光景だからである。
「いいから大人しく言うことを聞け。この本歌の前で半端な格好を晒すのは万死に値するぞ」
「あんた日に日に言い回しが歌仙に似てきてないか」
「彼の美的感覚は俺と通じるものがあるからね。よく意見交換をするんだ。お前も見習うといい」
「真っ平御免被る」
雰囲気が変わった、と言われるようになったのは、長義の教育係の任を解かれてから一ヶ月程経った頃だった。
長義の提案を呑み、彼の傍で自分探し(色々と考えることはあるが、とりあえずは自分の在り方を見つめ直すのが目的ということで、自分探しと呼んでいる)をすることにした国広は、長義の進言により堀川派の部屋から刀派の分類のない離れ部屋へと移ることとなった。また、同時期に長義も身を落ち着けていた長船派の部屋から出て、今では国広と同室になっている。この突然の引っ越しについて、外野は色々と煩かったけれど、主の「興が乗った! よいよい、自由にせよ!」の一言で強引に決められてしまえば、一介の刀でしかない自分たちにはどうすることも出来ず。皆渋々従うしかなかった。
ちなみにそんな周囲の様子をコーヒー片手に黙って眺めていた長義は、審神者に意味深な笑顔を向けられたことが相当腹立たしかったらしく。八つ当たりよろしく隣に座っていた国広の頬を抓ってきたものだから、それを見た堀川派の兄弟たちが再び殺気立ち猛反対しだしたのは完全なる余談である(激怒した物の筆頭たる堀川は未だ闇討ちの機を虎視眈々と狙っているため、長義一人では迂闊に夜道を出歩けない)。
「山姥切」
ところ変わって――鉢巻きを巻き直すついでに手持ちの布を取り替える、と言われて戻った山姥切部屋にて。
ヴィンテージ感のある革張りのソファーに優雅に腰掛けた男へ声を掛けた。いくつかの衣装を押し付けて満足したのか。国広が着替えている合間に早速自分の仕事に取り掛かり始めた男の手には、政府時代から使用しているという端末が握られている。端末を弄りながら紅茶を嗜む彼は、呼び掛けた国広へ視線一つ寄こさず、犬猫を呼ぶように人差し指でちょいちょいっと手招いた。明らかにこちらを見下したそれにムッとして無視していると、端末に注がれていた視線が不意にこちらへ向けられる。
「偽物くん、こっち」
ポンッと掌で叩かれ座るよう促されたのは、長義の膝の上。最近やけに気に入っているこの男の定位置だ。勿論大人しく従ってやる義理はないのでそれもまた無視を貫くと、今度は不機嫌そうな顔で男が立ち上がり、襟ぐりを掴まれ強制連行されてしまった。本気で抵抗すれば回避することは容易いのだが、それだとこの後のご機嫌とりが面倒なことになるので、許容範囲内ならばなるべく彼の思う通りに動くようにしている。とはいえ元来負けず嫌いの上に矜持の高い国広のこと。長年顕現したことで培われた、俗世に染まりきった口の悪さも相まって、長義と口論になることはそれなりの頻度であった。
「俺は偽物じゃない……それより山姥切、昼餉の時間だ。ここで油を売っている暇はないぞ」
「わかっている」
仮想モニターに展開されていたのは、襲撃された本丸跡の写真たちだった。枯れ井戸に汚染された畑、木片と化した馬蔵、土に埋もれた刀の破片。血痕こそ無いもののあちらこちらに残る刀傷が、現場の凄惨さを物語っている。これは明らかに政府の機密情報であろう。自分が見ていいものではないのでは、と思い恐る恐る長義の方を伺うも、彼は素知らぬ顔で作業を続けており、国広を咎めることはなかった。
「お、おい……これ、俺が見ていいものじゃないだろ」
ニィ、と長義の口角が吊り上がる。底意地の悪い笑みだ。国広が動揺する様を見て面白がっているとわかる。
「構わない。お前は俺の写しであり俺の一部だ。ならば俺が見るのもお前が見るのも大して変わらないよ」
それは暴論では?
なんていうツッコミが入れられるような空気でもなし。おっかなびっくりといった様子で国広が画面を眺めていれば、クスクスと楽しげな笑い声が降ってくる。そして、徐に頭を撫でられた。金の髪を弄ぶ手袋越しの指先が、戯れに耳たぶを摘んでは軽く引っ張る。人前では雑な態度を取ることがほとんどなこの男は、二人きりの時だけはこうして慈しむような手つきで触れることが増えた。その温もりが心地よくて、満更ではない自分がいることも自覚している。
(変な奴……)
長義はきっと、愛だの慈しみだのという甘ったるい感情からそうしているわけではないのだと思う。何よりその目が雄弁だった。ギラギラと獲物を狙う物騒な光を宿しているくせに、その奥には冷めたものを秘めている。そんな印象を受けるのは、元々の瞳の色彩が冷淡な色をしているからかも知れない。兎にも角にも、国広は長義から向けられる情に、人間らしい熱が孕んでいるとは思えなかった。
これはただの勘だ。確証はない。ただ、自分のこういう時の第六感はあまり外れることはないのだと、国広は自負している。
「これを吹聴するようなら折ればいい話だからね。俺はやると言ったらやる容赦の無い刀だ。お前も知っているだろう?」
猫を可愛がるような手つきで顎を擽られ、気持ち良さから目を細める。確かにこの男は折ると言えば折るだろう。顔色一つ変えずに、その切れ味の鋭いご自慢の刃で、洗練された動きでもってして首を刎ねるに違いない。痛みさえ残さず、ただ肉を断ち切った熱さだけを残して。男の傍に己の首が転がる様は容易に想像出来た。
(こいつのコレは一体どこからきてるのか……親愛? 憎悪? いや、ちがう。一番近いのは……)
所有欲、か。
コレクター癖のある審神者のことを思い出す。自分の気に入ったものを蔵にしまいこんで、使うこともなくただ愛でているだけの残酷な神の姿。物は使われてこその物である。しかし神という生き物は、お眼鏡に適った物は殊更大事にしまい込んで、蝶よ花よと壊れないように愛でようとする。囲われる側の物の気持ちなど、はなから汲み取る気すらない。選ばれてしまった不運なモノは、神に逆らうことも許されず蔵の中で死んだように生きるのだ。
長義は、どちらかといえば人に近い付喪神としての意識よりも、神としての意識の方が強い状態で顕現された個体であった。否、他所本丸から流れてくる山姥切長義の話を聞く限り、恐らく元々彼はそういった性分の刀であったのだろう。持てる者として与えようとする博愛に近い高慢さ。揺るがぬ絶対的な高潔さと自信。彼の世界は、基本的に彼自身とその他という二つの存在のみで成立している。されど、そこに突然イレギュラーとして割り込んだのが、彼の写し刀・国広だった。
(あぁ、そうか)
だからなのか、彼が国広に執着を見せているのは。彼の言葉を借りるのなら、国広が『長義の一部』であるから、彼は国広のことを何かと傍に置きたがり、自分好みに染め上げようとするのか。そう考えると、今までの態度のすべてに説明がついた。同時に落胆した。
(……落胆? 何故だ? 俺は別に、こいつに何かを期待していたわけじゃない)
わからない、自分が。長義のこともわからないことだらけだけれど、それ以上に自分の感情がよくわからなかった。審神者の力でこの世に受肉し、人の子として生きるようになって早数十年。未だに人の子の心は未知だ。他の刀たちはどうなのか知らないが、国広は偶にこのわからないという感覚が、酷く恐ろしく感じる時がある。まるで、影に足を取られて動けなくなってしまったような、先の見えない暗がりに迷い込んでしまったような、そんな……。
「……吹聴などしない」
喉が渇いた。カラカラに干上がった喉から声を絞り出して、長義の求める言葉を口にする。
「なら要らぬ気遣いだ。黙ってそこで大人しくしてるんだな」
長義は満足そうに鼻を鳴らして、するりと国広の頬を撫でた。要するに、お前に見られたところで取るに足らないことなのだ、というところか。何とも侮られたものだ。極めてから弱体化している身とはいえ、同じ刀としてこうも見下されるのは腹に据えかねる。修行に出たことを少しだけ後悔した。極める前のあの頃なら長義との実力も拮抗していただろうし、そう簡単に折られることはなかったはずなのに。力任せに押し切ろうというのなら、徹底的に応戦してやったものを。
国広の機嫌が一気に急降下したことに気づいているのか、いないのか。それとも国広の機嫌などどうでも良いと歯牙にも掛けていないのか。その後、長義は何通かの自分宛ての報告書に目を通してから、静かに端末の電源を落とした。
「さて、昼餉に行くぞ。偽物くんはさっさとそこの姿見の前に立て」
「偽物じゃないと何度言えば……」
「早く」
「……」
視線で指示されその通りにする。国広の顔には思い切り不本意です、と書いてあったけれど、そんな遠回しな苦言はことごとく無視されてしまった。長義と同室になって早二週間。この身支度チェックももう慣れたものである。
「……たく、お前があれこれうるさいから……俺は戦装束にしろと言ったのに」
「鉢巻きで遊ぼうとするからだ」
「まぁいい。ジャージなら鉢巻きも必要あるまい。どうせ今日出陣予定はないんだろ? ただ、芋ジャージの男を隣に歩かせる趣味はないからね。たとえ内番着といえど、あんなセンス皆無で怠惰極まりない格好は本歌として許せない」
「あれは堀川派共通のジャージだぞ。兄弟たちを侮辱するな」
「はい、駄々をこねるのは終わり終わり。いいからその場で一回転しろ。布はこれ、シューズはあれ」
テキパキと着せられたジャージは、長義と揃いの黒ジャージだ。通気性が良く細身のシルエットで、長船派に共通するデザインのものである。何が嬉しくてこの男とお揃いコーデなんてものをしなきゃならないのか、なんて内心愚痴っていると、顔にシルクのような手触りの白布を投げつけられて、理不尽にも早く着替えるよう急かされた。
さらりと肌の上を滑る極上の手触りの一枚布。布コレクターの国広にはわかる。この布はかなりの高ものであることを。しかも、さりげなく四方に金糸で刀紋が刺繍されていることからして、何処で仕立てたのかオーダーメイドの一点物のようだ。いつの間にこんなものを作ったんだ。長義の並々ならぬ美意識の高さに思わず唸った。
「んー……」
着替え終わったら最終チェックだと上から下まで舐めるように眺められ、首筋に鼻先を近づけられる。スンッと鳴らされた鼻は明らかに国広の匂いを嗅いでおり、驚いて大きく仰け反った。しかしそんな国広の反応など御構い無しに、男はどんどん距離を詰めてくる。
「な、にして……、」
「ん、これでよし。行くぞ」
「はぁ?」
何が優で何が不可なのか。つくづくこの男の判定基準がわからない……。呆れ果ててその場に突っ立つ国広の手首が掴まれ、強引に引っ張られた。部屋の戸締まりをして食堂へ向かう道中、長義が上機嫌に鼻歌を歌い出す。嫌な予感がした。何となく、このまま食堂に行ったら面倒事に巻き込まれる気がする。捨て身の覚悟で「忘れ物をした」と言って悪足掻きをしてみるも、「後にしろ」と一蹴されてしまい頭を抱えた。そしてついに食堂まで連れて来られてしまい、いい加減腹を括るしかなくなる。
「山姥切、ちょっと待っ……」
がらり。
食堂の引き戸が引かれ、二人はすっかり定位置となった奥まった座席へと向かう。ざわざわとした喧騒が耳に入るも、二人が食堂に入った途端、空間は水を打ったように静まり返り、一斉に視線が向けられた。何だかやたらと注目を浴びているような気がする。驚いて目を瞠っている物、唖然としている物、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている物。その反応はバラバラだ。まさか長義の身だしなみチェックに漏れがあったか? それとも、長義に何らかの形で嵌められたのか? よもや額に肉とか書かれてないよな……? 冷や汗を流す国広の近くで、既に昼餉を食べていた南泉たちが苦々しく呟いた。
「お前……山姥切臭ぇ……にゃ」
「……紫の上計画か……やるね。雅さには欠けるけれど」
「なっ……!」
山姥切、どういうことだ! 切実な声で叫ぶ国広の隣で、件の男は涼しい顔をしたまま立っている。思い切り顔を顰めた刀たちから、幾つかとんでもない苦言を飛ばされたところで、国広は今すぐ布を被りたい衝動に駆られ手の中の白布を広げた。
「見るな……俺を、見るな……っ」
頭からすっぽり布を被った国広は、金糸の刺繍の施された美しい白布の外側で、長義が愉悦に浸りきった笑みを浮かべていることなど知らない。
「……お前な、マジでタチ悪りぃ……、にゃ」
「俺の写しは美しいだろう?」
小声にそんな会話が交わされていることにも、今の国広には気づく余裕はなかった。
*
審神者が不在の本丸で、しかし出陣自体は制限されることなく平常通り行われている。出雲の会合が終わるまであと三日ほど。負傷した刀たちは、皆幸いなことに軽傷程度で済んでおり、神気で満ちた手入れ部屋で身体を休めていれば問題なく完治出来ていた。
もうすぐ主が帰ってくる。
しかし、その油断が仇となったのだろう。その日出陣した国広率いる第一部隊は、鉢合わせた検非違使と激しく交戦することとなり、結果重傷者が出てしまった。
「国広の旦那! あと少しだ! 持ち堪えてくれ……っ!」
「ぐ、ぅ……っ!」
目を瞑る。真っ黒の視界の中で青い稲妻が走っている。何度も目にしてきた現象だった。雷撃に紛れて現れる鳥肌が立つほどの禍々しい気配と、心を折らんとする凄まじい殺気。善悪関係なく時代の異物を取り除くことを目的とする奴らには、もう何振りもの刀を折られた。沢山の仲間たちが犠牲になった。その中には兄弟刀たちも含まれる。叶うならば、この手で一振りでも多く奴らを狩ってやりたい、と。そう怒りのあまり冷静さを欠いてしまったのが、今思えば最大の悪手だった。
カッとなって振りかぶったその瞬間を、背後から迫っていた敵短刀に斬りつけられ、気がついた時には鮮血が散っていた。
「……最悪だ」
怒りに我を忘れるなんて。部隊長として失格だ。
「……だが、よかった」
思わず呟く。気の抜ける安堵の言葉を。不幸中の幸いにも、重傷者は国広だけだった。これがもし、自分のせいで他の誰かが深傷を負ってしまっていたらと思うと、想像するだけで胸が押し潰されそうになる。自分だけで、本当によかった。
それから、国広が安堵する理由がもう一つある。こればかりは誰にも吐露出来ない、ともすれば軽蔑されかねない酷薄極まりない安堵の理由が。
(俺にもまだ、仲間を折られて怒るということが出来たのか……)
ぼんやり考えつつ、咳き込む。砂利混じりの地面に、いくつかの赤い花が咲いた。
「何がよかったって?」
ほぅっと息を吐き出したその時、低く押し殺したような声が降ってくる。朦朧とした意識で瞼を開けると、ぼんやりと霞んだ視界の中に玉鋼の輝きがちらついていた。やがて霧が晴れ、目に飛び込んできた瑠璃玉が、煮え滾る何かを燻らせながらこちらを睨みつけているのを目の当たりにして、国広は思わずヒュッと喉を鳴らす。
「やまんば、ぎり……?」
いつの間に傍に寄って来ていたのか。やっとのことで帰還した本丸の庭の片隅。脱力した身体を薬研に預けたまま、呆気に取られる。
「お前、よかったと言ったな。それは何に対してだ? 答えろ」
「ぁ……ぐ、」
「旦那? だんなっ! クソッ……! 長義の旦那、込み入ったことは後にしてくれ。とにかく早く手入れ部屋に運ぶぞ!」
視界が薄れていく。意識が遠のき、五感が失われてゆく。久しぶりに近く感じる常世の気配に、されど国広は拒むことなく、その接近を受け入れた。
「お、おい、!」
「ん……?」
泥濘に沈みゆく意識の中、薬研の慌てた声が鼓膜を劈く。なんだろう。がくりと力の抜けた身体が、突如ふわりとした浮遊感に包まれた。感覚のなくなった足が宙に浮き、ぶらぶらと揺れているのが振動で伝わってくる。平衡感覚を失っているため確信は出来ないけれど、どうやら横抱きにされているようだった。赤子のように不安的にぐらつく頭を、傍にあった固くて温かな何かに預け、荒い呼吸を繰り返す。
「これは俺の写しだ。写しの不始末は本歌が片付けるもの。よって手入れの手伝いぐらいはしてやろう」
それからどれほどの時が過ぎたのか。
ギリギリのところで保てていたと思っていた意識は見事に飛び飛びとなっていて。いつの間にか国広は手入れ部屋の寝台に寝かされていた。鉛のように重い身体を動かそうと力を入れるも、動くのは指先だけでその他の場所はピクリともしない。麻酔の効いている腹は引き攣れた感覚だけ残して、痛みはすっかり消えていた。
「……ぁ、」
何気なく視線を横へ向けて、己の寝かされた寝台の横に何者かの姿があることに気づく。否、誰か、などと言ったところで白々しいだけだった。先程から突き刺すような視線で国広を見下ろす刀は、他ならぬ己の本科たる山姥切長義その人である。バチンッと音が鳴る勢いで国広と目を合わせた彼は、温度のない目をゆっくりと細めて勿体ぶるように口を開いた。
「これだけは言っておく」
ザシュッ。
顔のすぐ横を、長義の本体が貫く。切っ尖は頬に一文字の傷をつけ、柔らかな布団ばかりか床までをも貫通した。カタカタと漏れ聞こえる金属音に、刀を握る男の手が小刻みに震えていることを知る。
「お前がそんな腑抜けたまま戦場で散るというならば、そんな恥を晒す前にこの俺がお前を折る」
「……っ」
「せめてもの情けと知れ。犬死にした腑抜けとして逝くよりも、俺の錆びとなり逝く方がいくらかの箔もつくというものだ……また同じことを口にしてみろ。問答無用で叩き斬ってやる」
悪かった。
するりと謝罪の言葉が口から漏れていた。今回のことは、国広の油断が招いた失態だ。しかも危うく自分だけではなく他の刀たちまで巻き込むところだった大失態。そう簡単に許されていいことではない。今も脳裏に国広が斬られた時の仲間たちの顔が、鮮明に思い出される。斬られた国広よりも痛そうな顔をして、自分を責めて、辛くて堪らないといった表情を浮かべていた。あんな顔をさせておいて『よかった』などと、決して言ってはいけないことだった。
「……初期刀であるお前が折れた後の本丸のことを、一度でも考えたことはあるか」
「……それ、は」
「忌ま忌ましいことに、この本丸ではお前が最古参且つ最も信頼されている刀だ。そのお前が折れた時、この本丸は精神的支柱を失い一気に崩れる。そこを突かれたら本丸は終わりだ。お前には前に見せてやっただろう? 襲撃された本丸の末路を。この本丸がああなる可能性について、お前は今まで一度でも真剣に考えたことがあったか?」
ふるふる、と。力なく頭を横に振る。枕に金髪が擦れて、思うように動かない身体がもどかしかった。
ちゃんと向かい合って話がしたかった。この話は、到底横たわったまま聞いていていい話ではないと思ったから。ちゃんと国広の至らぬ点を指摘してくれる長義に、誠意を返したかったのだ。だがそれは今の状態ではままならない。悔しくて唇を噛むと、それを咎めるように長義の人差し指がそこにあてがわれる。そのまま指先は柔らかな感触を丁寧になぞっていって、最後に無造作に散らばった髪へと移った。くしゃくしゃに掻き乱された後、優しく金糸が撫でつけられる。
「……お前は本当に愚かだね」
手入れ中の発熱した身体には、少し冷たい掌の温度が心地良い。もういいだろうか。このまま一人で抱えなくても。ふ、と考える。俺は俺だという気持ちは変わらないし、親父の傑作としての誇りも忘れていない。だが今だけは、己を自分の一部だと宣うこの男に寄り掛かってしまいたくなった。国広が彼の一部であるならば、今まで抱えてきたものを少しだけ彼に預けても許されるのでは、なんて。武人にあるまじき腑抜けたことを考えて。
自分を撫でるその手に擦り寄って、深く息を吐く。躊躇いはあった。己の胸の内を明かすなんてこれが初めてのことで、拒絶されたらと思うと踏ん切りがつかなかったのだ。
「……俺は、怖いんだ」
髪を撫でていた手の動きが止まる。冬を思わせる寒々しい色をした双眸は、その眼差しで続きを促してきた。
「もう何度も仲間が折れたのを見てきた。この本丸の裏側にある墓地に、折れた刀の破片を埋めた回数だって数えきれないほどにある。最初は悲しいと思った。仲間を折った敵を憎らしいとも……だが、最近は……仲間が折れた時のことを遠くに感じている自分がいる」
まるで一枚薄い膜が張られているみたいに。いつ弾けるかわからない泡の内側から、暗く揺蕩う海の中を眺めている。目の前で起こるあらゆる出来事が現実味を帯びない形で再生されている。そんな奇妙な感覚に苛まれるようになったのは、いつからか。激化する一方の戦争に終わりは見えず。時間を跨がって行われる戦争は長引けば長引くほど、この歴史修正は意味があることなのかという疑問ばかりが膨らんで、余計なことを考えてしまう。そして戦うために雑念を必死に削ぎ落とし、切り捨てていく過程で、国広は大切にしていたものまで一緒に捨ててしまった。そのことに気がついたのは、初鍛刀として本丸に顕現した乱が一年前に折れた時だった。
あれが決定打だった。あの日から、国広とこの現世の距離は一気に遠ざかっていった。自分のことを他人事のように感じて、周りの景色が色褪せて見える。そんな日々を送っているうちに、どんどん心は枯れていった。
「悲しいと、思っている。思っているはずなんだ。だが……泣けない。感情が乱れることがない。昔は主に呆れられるほど泣いたのに……俺はこんなに薄情だっただろうか? 仲間の死を悼むことも出来ないで、何が初期刀だ……。俺は、でも……俺は、確かに……なんでっ」
「国広の」
初めて、名前を呼ばれた。驚きのあまりハッと目線を上げると、上から覗き込んでいる長義と視線が絡み合う。長義の顔には哀れみも軽蔑も、国広が予想していたようなものは何一つ浮かんでいなかった。そのことに少しだけ安堵して、無意識のうちに強張っていた身体から力を抜く。
「お前は少し、優し過ぎただけだ」
「……それ、は」
「この本丸の最古参はお前だ。つまり、一番長らく戦場に身を置いているのもお前ということ。だから、そう……少しだけ。少しだけ、疲れてしまったのだろう。人の子の心というものは摩耗する。そして、一度入ったヒビは元には戻らない。お前は誰よりも長く戦ってきたせいで心が傷だらけになって、痛みに慣れてしまった。それだけだ……」
慣れとは、罪ではない。それはただの悲しみの副産物でしかない。何故なら、痛みを感じずともその心は確かに傷ついているのだから。
そこまで続けて、一度長義は言葉を切った。真正面からこちらを射抜く眼光の強さにたじろぎつつ、魅入られたように男の顔を見つめ返す。相変わらずその表情は何を考えているのか読めなかった。それでも軟弱者と蔑んだり、侮ったりしているわけではないということはわかる。不思議なものだ。一度存在を認めてしまえば、こんなにもこの男の傍は安心する。あれだけ苦手意識があったのに。
「……あんたの、手」
「ん?」
「それ、……好きだ」
淡く微笑んで、先程から頬にあてがわれている男の掌に自らを押しつける。長義の瞳が僅かに見開かれた。いつもなら痛いくらいに真っ直ぐな視線も不安定に揺らぎ、動揺を露わにしている。その反応は意外だった。
「……痛むか?」
長義の指先が長義に切られた傷口を辿り、ピリッとした痛みが走り抜ける。素直に頷くと何を思ったのか男の顔が近づけられ、血の滲んだ傷痕を舐められた。その後、流れるように唇が重ねられて、甘露の如き霊力を流し込まれる。
やはり、国広の霊力とは真逆の性質のそれは、喉を通り過ぎる度に粘膜を焼き、幾ばくかの痛みを訴えた。そして痛み以上に、中毒じみた甘さが咥内に広がった。
「ん、ぅ……」
「……は、」
互いの息遣いが狭い手入れ部屋の中に反響する。これほど個室で良かったと思ったことはない。長義の霊力を受け入れるにつれて身体に熱が灯り、傷口が疼く。血を流したことで失った分の霊力が補われつつあるのだ。
なんとなく触れてみた左頬の傷は治癒していた。それを名残惜しいと感じている自分の心は、一体何処に在るのだろう。人の子となって数十年目にして初めて知る感情の数々に戸惑いを覚えど、それを不快とは思わない。寧ろ足りないと思ってしまう時点で、後戻りのきかないところまできてしまったのでは、と漠然と考えた。角度を変えて深くなっていく口吸いの最中、国広はこっそりと笑む。
「やまんばぎり」
息が乱れ、舌ったらずに名を呼ぶ。霊力は既に十二分に足りていた。もう口吸いの必要はない。
「……なにかな?」
「あともう少しだけ……いいか?」
ここからは、言い訳のきかない行為だ。それをわかった上で、国広は問う。至近距離にある男の美麗な顔が一瞬だけ逡巡した後、複雑そうに歪められた。流石に甘えが過ぎたか。今にも舌打ちをしそうな様子に、やはり言わなければ良かったと後悔が滲み始める。
「……いいよ」
「えっ」
「だから、いいよ」
戸惑いの声は長義の口内に呑み込まれていった。言い終わるや否や強引に口付けられ、吐息すら絡め取る激しい舌遣いに翻弄される。怒涛の勢いでありとあらゆる感情を押し流された。うっすら目を開いて長義の顔を伺うと、彼は目を瞑り、夢中になって国広の唇を貪っている。ゾクゾクした。それは情を交わす行為というよりも、捕食に近いものがあって。一見血生臭さとは無縁そうなこの美しい銀の獣を、国広は純粋に綺麗だと思った。
「は、ぅ……っ、ァ」
「……ん、」
「山姥切?」
「……ふ、もう終いだ。そろそろ見回りの奴が来るだろう」
唐突に長義の身体が離れていき、寂しさが芽生える。余程国広の姿が頼りなさげに映ったようだ。長義が苦笑してもう一度だけ軽く口づけを施し、子どもにするそれと同じように、ポンッと頭を叩いてきた。そんな軽い接触の一つでも、一度熱を帯びた身体は反応してしまって、大仰に肩を揺らしてしまう。
「早く治せよ、偽物くん。お前の愚痴は、また今度ゆっくり部屋で聞いてやるから」
「……偽物じゃない」
「はいはい」
ストン、と障子を開け、長義が部屋から出てゆく。隔てるものの無くなった入り口の隙間から覗き見えたのは、月明かりに照らされた一面の青だ。急に息苦しさを感じて、深く息を吸う。
大丈夫だ、ここに酸素はある。
この本丸に顕現してからずっと、ここは檻のようだと思っていた。周りを深い青に塗り潰された、脱出不可能の完璧な檻の中。長義の顕現した姿も知らないあの頃、どうしてこの青に窮屈さを感じていたのかはわからない。本能的な畏怖故だったのか、それとも別の理由の何かのせいなのか。ただ、その根本的な部分にあの男の存在が深く関わっているということだけは、彼と再会して以来確信していた。
「……どうしたものかな」
ため息が漏れる。こんなところをアレに見られたなら、また腑抜けだ何だと説教されるに違いない。まずは早急に身体を癒やさなければと思い直し、じっと目を瞑った。しかし、先程の頬を紅潮させ己を貪っていた長義の顔が頭に浮かんで、眠るどころか気持ちが昂ぶって目が冴えてしまう。
ぶくぶくと、泡を立てながら沈んでゆく夢を見た。
穏やかに揺れるゆりかごのような海の中へ。沈み、流され、五感をすべて奪われて、優しい檻の中に閉じ込められる。刀身の端から徐々に錆びついていって、鈍となってゆくことの恐ろしさといったら。いっそ折れてしまいたいと願うくらいに、残酷な仕打ちであった。
溺れきった先の海底では、何者かの影が国広の到着を手ぐすね引いて待ち構えている。顔のない真っ黒な影はされど、こちらを見てほくそ笑んでいるであろうことが伺えた。恐怖心はない。その影の正体を、国広は知っていたから。知っていたからこそ、己の行く末を悟り、酷く納得した。
――やはり極めたところで、あの男から解放される日は永劫訪れないのだ、と。