雪が降っている。
とはいえ陸の季節は恐らくは夏だ。外界と完全に隔たれた結界内の神域に、季節という概念があるのかどうかは甚だ疑問だが。しかし一週間ほど前、政府へ海産物の引き渡しに出向いた時は、蝉の合唱がうるさい夏真っ盛りといった風だった。
表情が移り変わるのは何も空だけではない。海もそのあたりはかなり雄弁である。雷神が悪戯に天を荒らせば、雨粒のぶつかる水音がしとしとと物悲しく水中に響き、怒りの咆哮が如き雷鳴も、俺を忘れるなと言わんばかりにしょっちゅう轟く。山の神が怒れば地続きの海底は震え、偶に運が悪い時は深く沈み込んだ海溝が大きくズレ込み、透き通った海中が粉塵で汚く濁った。そして、今目の前で降っている海の雪――マリンスノーとも呼ばれるそれは、年に数回あるかないかといった頻度で、ある日突然なんの前触れもなく本丸の周りに降り注ぐ。
あれは命の輝きだ、と海神は言った。曰く、小さな命の残骸が、神に捧げる最期の舞を踊る瞬間であるのだと。本丸から漏れる明かりに照らされて輝く、水晶の欠片のような粉雪はしんしんと海中を漂い、やがて何処かへ流されていく。まるでいつか見た、灯籠流しのようだった。
「こんなところにいたのか、偽物くん」
ぼうっと離れの縁側から海を眺めていると、寝巻きにしている浴衣の上から上掛けを掛けられる。温もりの残るそれに触れてようやく、自身の身体が冷えきっていたことに気づいた。
「山姥切か」
「まったく。こんなところで何をしているのだか。この本歌を迎えに寄越させるなんて……って、あぁ、そういうこと」
一人勝手に納得したような顔をして、長義が隣に座る。肩と肩が触れ合う近い距離感は、これまでのことを思うと考えられないものであったが、今となっては心落ち着くものとなっていた。国広はさり気無く隣の男の方に体重を預け、じんわり伝わってくる温度に感じ入る。一方で長義はというと、少しの怖じ気を見せながらも自分に凭れかかる存在を、呆れた顔で一瞥したものの。特に何を言うこともなくそのまま放置した。
甘えることを許されている。その事実がこんなにも心を温かくする。
「眠るなよ。寝たらここに放置して帰るからな」
微睡みに落ちていた国広の意識が、辛うじて浮上する。
「……山姥切」
「なにかな」
「いや……何でもない」
浮上したことを見越した彼の手が頬を突いて、むにっと手持ち無沙汰に引っ張った。加減をされているのでまったく痛くない。
あの手入れ部屋での一件以来、国広と長義の距離はぐっと近づいた。心の距離も、身体の距離も。ともすれば兄弟刀たちよりも気を許しているのではと思うほどに、国広は長義に心を開いていた。ただし、偶に勘繰る輩がいるので困るが、二人の関係はあくまで本科と写しというだけのものである。決してそこに恋だの愛だのといった色のあるものは無い。ただ静かに、二振り肩を並べて横に在る。比較の眼差しも、劣等感も、すべてを受け入れて傍に在る。下手な慰め合いもしない。それだけだ。たったそれだけで、国広は救われたように感じていた。
「俺たちの魂は、折れたら本霊に還るんだったか……」
瑠璃玉の中に煌めく光の粒を眺めながら、独言る。今まで折れてしまった仲間たちは、無事本霊の下に辿り着くことが出来たのだろうか。彼らの魂もまた、この眼前に揺蕩う粉雪のように、眩しく、美しいものであったのだろうか。今更、そんなことを考えた。
(俺は本当に……何も見えていなかったんだな)
「不細工な顔」
「ぶっ、!」
鼻を摘まれ、反対の手でデコピンを食らう。地味に痛かった。突然なんだというのだ、この男は。
「何悟りを開いた顔をしてるんだよ。死を語るにはお前はまだ早過ぎる。人間一年生の生意気小僧め」
これでもあんたよりは長く顕現しているぞ! などという反論は認められなかった。曰く、「死んだように生きている奴に人の子を名乗る資格はない」とか。しかし、理不尽な言い分に悶々としていたのも数分のこと。暫く無言で睨み合っていれば、何だかどうでもよくなってしまった。確かに、国広は人の子というには感情が乏しすぎる。顕現された当初の方がまだ人間らしかった。成る程人間一年生。言い得て妙だ。考えれば考えるほどしっくりきてしまう。悔しいことに。
「……荒御魂にさえならなければ、本霊の下には辿り着く。そういうものだ。だから、折れたお前の仲間たちは、大方お前が心配しているような事にはならないよ」
「……そう、か」
「そういうこと。そら、いい加減部屋に戻るぞ。流石に冷えてきた」
手を引かれ、立ち上がる。行燈の消えた暗い廊下を歩む時、手は握られたままだった。目の前を行く背中を静かに見つめて、国広は促されるままに足を動かす。中庭を突っ切るその隙に、海神の座す本殿の方を盗み見た。まだ明かりが灯っていることからして、酒呑み仲間の刀たちと共にどんちゃん騒ぎでもしているのだろう。こんな夜半にまでこき使われている神使たちのことを思い、心の中で合掌した。
「なぁ、山姥切」
返事はない。されど意識はこちらに向けられている。そう察して言葉を続ける。
「本霊に還った後も、この本丸で過ごした時の記憶は残るのだろうか」
そんな都合のいい話があるわけないということは理解していた。でも願ってしまったのだ。こうして本丸の彼らと、他ならぬ長義と過ごした日々を、忘れたくないのだと。
「……さぁね」
いつもなら容赦なく一刀両断してくる長義が、珍しく歯切れの悪い返答をする。もしかして、彼も自分と同じように思ってくれているのではないか。人知れず抱いた愚かな期待を胸に忍ばせ、心が浮き足立った。これが勘違いでなければいいのに。長義もまた自分と同じように、国広のことを忘れたくないと思ってくれているならば、どれほど嬉しいことか。そう心躍らせる国広の感情が何処からきているのかなど、今の彼に知る術はない。ただ無邪気に、子どものようにはしゃいでいた。
だから、国広は気づかなかった。
「……少なくとも、お前に忘れられるぐらいなら、俺は――……」
無数の魂の光が映り込む瑠璃の中に、不穏な影が過る。ほんの僅かな時間だけ陰りを見せたそれはしかし、瞬きをしている間にすぐさま平静のものに戻った。だからこそ、そんな長義の一瞬の変化を、気恥ずかしさのあまり顔を背けていた国広が見ることは叶わない。そして、すっかり相手を信頼しきって気を抜いている青年を前に、長義は密やかに笑みを零した。
――可哀想に。
高揚を隠しもせず、恥じらうように外界を臨む国広を眺めて、長義が呟く。初で、純粋で、無垢で。真っさらだからこそ人の感情の機微に疎い。人の子の心に潜む影を見つける目を持たない。そんな赤子に等しい付喪神が、こんなにもタチの悪い物の毒牙にかかろうとしているなんて。ただただ哀れだと思った。
気がついた時には、頭から丸呑みにされている。この愚鈍な男は、腹の中に収まりようやくその時になって気づくのだろう。今まで己が相手をしていたものが、どれほど危うい存在であったのかということを。
「山姥切? なんか言ったか?」
「別に。お前のせいで湯冷めしてしまったかなって言ったんだよ」
「それは……悪い」
「ほんとにね。お前のせいで散々だ。これは少々仕置きが必要かな?」
軽い調子で漏らした長義の言葉に、国広が揶揄うような笑みを浮かべ返す。
「とかいって、お前が相手を嬲ることはしないってのは、もう知ってるぞ。やるなら一太刀でばっさりと、だろ。生憎だが、それでは仕置きにはならないな」
冷涼な色の瞳が国広を射抜く。何かを確かめるような、見定めるような視線を向けられて、それでも国広が揺らぐことはない。
(そういうところが甘いんだよ、偽物くん)
一度手に入れてしまえば、満足すると思っていたのだけれど。人の身とは何とも欲深いものだ。所有欲を満たしても尚、この存在すべてを奪ってしまいたいと考えてしまうのだから。長義は不穏な考えをおくびにも出さずに、フン、と鼻を鳴らしていつも通りに振る舞う。能天気な写し刀は、今も長義の隣で得意げな顔をして口端を緩ませていた。さて、いつまでそんな顔をしていられるのやら。
「お前ほど愚かしい奴を、俺は見たことがないよ」
軽口を叩くことの出来るこの距離感を心地よく思う反面、すべてを壊したくなる。そんな暴力的な衝動に駆られたことを、これはあるのだろうか。否、きっとないに違いない。そして、恐らくこの先もそんな日は永遠に来ないのだろう。心底忌ま忌ましいと思った。とことん真逆の在り方をするこの刀が。
染めても染めても染まらない。
いくら己の色で囲っても、その高潔さは損なわれることなく。庭の片隅に凜と咲く白百合の如く、清廉潔白さを失わない。長義の神経を逆撫でする矜持の軸も、揺さぶろうと完膚無きまでに叩き潰そうと、ブレることはなかった。
嫌でも思い知る。この刀は、自己を維持する上で本歌の存在を必要としていないのだということを。
(これの軸は、名刀工たる堀川国広の第一の傑作というところにある。写しというのは、この男の中では誉れどころかマイナス的な因子でしかない)
考えれば考えるほどに憎らしい。本歌への侮辱もいいところだ。大人しくこちらが用意した枠組みの中に収まっていればいいものを。それを良しとせず一人で在ろうとする姿が、憎くて憎くて堪らない。
そして同時に、強烈に惹きつけられる。
『お主も難儀な奴よな』
以前審神者が言っていた。お前は神よりも神らしい男だな、と。気に入らないからと他者の在り方を歪めて、手中に収めて、欲するものは骨の髄まで貪り尽くして奪ってみせる。それはまさしく神の所業だと、底意地の悪い笑みを浮かべながら海神は宣った。あれは顕現して初めて顔を合わせた時だったか。お決まりの口上を述べ、審神者の隣に立っていた国広に嫌味を飛ばした直後に、こっそり耳打ちされたのだ。
(神らしいだって? 当たり前じゃないか。俺は曲がりなりにも神なのだから)
ふ、と。隣を歩く男の姿を見る。
自分とよく似た姿をしている、唯一無二の存在。伯仲の出来とまで呼ばれたこの写し刀を、長義はずっと昔から手元に置いておきたいと願っていた。人間たちは二振りが離れ離れであるのをいいことに、皆好き勝手に物知り顔で長義たちを比較し愚弄する。だから隣に在ることこそが、一番正しい道なのだと信じて疑っていなかった。現物がそこに在るのなら、人間たちは間違いなくこう評価する――本歌も写しも双方素晴らしい名刀である――と、手放しに賞賛するだろうと思っていたから。
(だというのに、まさか襤褸布を被って俺と比べられないように自らを貶めていただなんて、夢にも思わなかったけどね)
初めてそのことを知った時は殺意を覚えたものだった。だが、その忌ま忌ましい事実も、喉元過ぎればなんとやら。今のように長義が手綱を握ってあれこれ着飾ってやれば、たちまちボロ刀は美しい姿を取り戻してくれた。その輝きの美しさたるや……金刺繍をあしらった特注の絹織物を羽織らせた時など、思わず長義が見惚れるほどだった。
国広を着飾るのは楽しい。寧ろ、元々美しいものを磨くよりも気分が良かった。その点を踏まえると、アレが己の姿を汚していたのは好都合だったかも知れない。気分が上を向いて、一歩後ろを歩く国広の腰に手を回して引き寄せる。肩がぶつかるほど近づけば、風呂上がりの清潔な石鹸の匂いがふわりと香った。
――雪が、降っている。
生き物たちの魂の輝きが、檻の外側で誘うように踊っている。途切れることのない舞踊を鼻で笑って、長義は今度こそ光から視線を外した。
まったくもって愚かしい。幾ら誘おうとも、長義がこれを、檻の外側へ放つことなどありえないというのに。
*
ただ揺らめく水面に身を任せて、流れのままに揺蕩っていた。
「ん……?」
心地の良い微睡の中で国広が薄目を開くと、辺り一面に咲き乱れた曼珠沙華が視界に飛び込んでくる。未だ身を包む眠気を帯びた穏やかな感覚と、視界に映る苛烈さの差異が何ともちぐはぐで、何処か薄気味悪さを覚えた。
(どこだ……ここは……)
川のせせらぎが聞こえる。見渡す限り続く血溜まりのような赤の中に、生を感じられるものは狂い咲く花の他になく。人はおろか魚や虫の気配さえも感じられなかった。すべてのものが眠りにつく、最果ての世。己が置き去りにされたこの空間に満ち満ちる、痛いほどに清らかな神気から、この場所がどういう場所であるのかを漠然と察する。同時に鳥肌が立った。その事実が指し示すところはつまり、現世での己は既に……。
「彼岸……ここは常世か? 俺は……っ折れた、のか?」
目の前が真っ暗になり、ごうっと旋風が傍を通り過ぎる。温度はない。暖かくもなければ冷たくもない、無機質なそれが低く唸りを上げた。
ついさっきまで国広は審神者が溜め込んだ書類の整理をしていた筈だ。今にも底が抜けそうなオンボロの棚から埃まみれの帳簿を引っ張り出し、保管するものと廃棄するものとで仕分けていく。保管するものは右上に刻印された日付順に並べ直して、新調した保管庫の棚へと並べ直す……といったごく単純な作業をしていた。そして、ついに刀帳の更新記録の確認を、となったところで、ぶつりと記憶が途絶え今に至る。つまり、ここへ至るまでの肝心な部分の記憶が一切残っていなかった。
仮にここが予想通りの常世で、国広の身に何らかのことがあって折れたのだとすれば、一体いつ、どこで、どうして折れることになったというのか。何度思い当たる節を探ってみても心当たりはなく、混乱が深まるばかりで。困惑を隠しきれないまま、それでも必死に思案し続けた。
(……何も無いな)
手持ち無沙汰に周りを見回す。
鮮烈な血色に染まる大地、燃え盛る炎の如き黄昏時の茜空。宙に浮かぶ夕陽は沈むことなく、不気味に顔を半分覗かせたまま、地平線の向こう側で佇んでいる。この空間にはそれ以外何もなかった。温度も、匂いも、感覚も、時の流れですら。五感すべてが凍りついたように極限の虚無を訴えてくる。変わらない景色をじっと見つめていると気が狂いそうになった。
もしもこの空間にたった一人で囚われたまま、延々と生きることになったとしたら。
想像するだけで心底ゾッとする。自我を失う前に、何とかしてこの空間から脱出しなくては、と気持ちばかりが急いた。ここから解放される手段など、何一つ思いつきやしないのに。
(まずいな。息が……)
息苦しい。陸に打ち上げられた魚のように、惨めにはくはくと口を開閉する。頭のてっぺんから足の先まで、潔癖なほどの神気に浸されて窮屈さを覚えた。あれだけ厭うていた瑠璃色の檻に閉じ込められるより、ずっと悪寒が止まらないでいる。この空間を満たすそれは、不思議なことに己の霊気の質に限りなく『近い』というのに、このまま此処にいてはいけないという危機感ばかりが募っていった。
ゆっくりと、されど着実に己が作り変わっていく感覚。手足の末端からじわじわと侵食されていくそれには、痛いほど身に覚えがあった。これは、そう、あれだ。長義に霊力の上塗りをされている時の、あのゾクゾクとしたそれ――。
「クソッ……」
どうしたら外に出られる。わからない。この神域の主さえわかったなら、直接交渉のしようもあるのだが。向こうから接触のない今ではそれも不可能だ。かといって自力で脱出するには己の器では、情けないことに太刀打ち出来そうもない。何か突破口はないものか。
『……荒御魂にさえならなければ、本霊の下には辿り着く。そういうものだ。だから、折れたお前の仲間たちは、大方お前が心配しているような事にはならないよ』
「ホラ吹きめ」
思わず毒吐く。あの大嘘つきめ。絶賛今国広は、迷い子ならぬ迷い魂になっているではないか。国広がこうなっている以上、先に逝った仲間たちが無事本霊の下へ辿り着いた保障など何処にもない。今度会った時は一言文句を言ってやろう。そんな八つ当たりじみたことを考えながら、国広は腰の辺りまで生えた曼珠沙華を乱雑に掻き分けた。
「……誰だ!」
カチッ。
その時、微かに鯉口を切る音を耳が拾って、勢い良く振り向いた。音は背後から聞こえてきた。今まで一切気配を気取らせなかったことに、国広の警戒は最高潮に達する。
「ここにいたのか」
国広が目にしたモノは、黒い靄に包まれた人の影だった。だが、その声は痛いほど聞き覚えのあるそれで。声だけでなく話し方も、立ち居振る舞いも、その細身のシルエットでさえ、黒で塗り潰されていようともピタリと記憶の中の男の姿と一致していた。
「……っ」
瞬間、全身の毛穴がぶわりと開く。あらゆる臓腑が縮み上がり、トドメに心臓を一突きされたような心地になって、言葉が詰まった。あれは、紛れもなく己の本科だ。たとえ色が無くとも、輪郭が朧げであろうとも、それだけは断言出来る。だがそれならばおかしなことが一つだけあった。ここに満ちる清浄で濃密な神気。それは、目の前の影から強く感じられる。あれが長義であるというならば、何故己と同じ神格の低い付喪神の、ましてや分霊でしかない彼が――分霊どころか残滓と化したこの影が――これだけの強い神気を纏っているというのだろうか。疑問が尽きなかった。
「生意気な。お前は写しの領分を超えた。この怒り、どうしてくれようか……」
影が抜刀する。するりと静かに抜き出された美しい刀身に斜陽がぶつかり、チカチカと鋭く光を反射した。刃の角度が傾く度に辺りに散らばる光輝の在り方は、ズタズタに切り刻まれた肉塊が、血飛沫を上げながらあちこちに飛び散ってゆく様によく似ている。そして、満開の花々を踏み潰し、ゆっくりとこちらへ近づいてくる男は慣れたように本体を指先で弄ぶと、静謐な闘気を放ちながら身構えた。
「……っ」
今にも斬りかかってきそうな気配に、国広もまた己の本体を抜く。
「なんのことだ。領分を超えたとは、一体……」
「弁解など要らん。御託はいい。ただお前はここで、この本歌の手で地に引き摺り落とされ……無様に散ればいい」
残像すら捉えられなかった。瞬きすら許されぬ刹那、一気に間合いを詰められ、胸を貫かれていた。今までには考えられない程の圧倒的な力量差。受け流す余裕も、躱す隙すら与えられず。指先一つ動かすことのないまま、むざむざと急所を貫かれた。
「ガッ……は、」
「……ここで朽ちるには、まだ早い」
ヒュー、ヒュー、と胸に開けられた風穴から息が漏れる。言葉を返す程の力もなく、血と共に流れ落ちる霊力が、着実に国広の体力を奪っていった。何故、どうして。己を殺した男を信じられないとばかりに見つめて、その答えを彼の一挙一動に探す。だが、その目にギラつく殺意は本物で、加えて躊躇いのない攻撃や今も尚収められぬ殺気からして、長義は本気で己を屠るつもりであるのだと改めて痛感した。
「なぜ……」
ほろり、と涙が溢れる。ただただ悲しかった。傍に在れと言ったあの長義と、わかり合えたような気がしていたのに。号を巡るあれこれが解決したわけではなかったけれど、言葉通り常に国広の隣にいてくれた彼は、国広を愛でてくれていた、そんな気がしていた。しかし、やはり彼の中に積もり積もった恨み辛みは、消えたわけではなかったというのか。
悲しい。
ずくずくと痛む胸の傷を、黒い靄を纏った刃がさらに深く抉る。口から溢れた血が踏み潰した赤い花を鮮やかに染め上げ、生々しく滑り気を帯びていく様を、静かに眺めていた。
「……安心して本霊の下へ還るがいい。俺の写し」
ざあっと。風が吹いた。彼岸の花々が揺れ、真っ赤な花弁が舞い上がる。この世界から己の存在が弾き飛ばされようとしている。掠れゆく意識からそのことを悟って、咄嗟に未だ己を貫いたままの男の利き腕を掴んだ。
「ちょ、うぎ……」
「写しのお前が背負うには過ぎたる業だ。返してもらうぞ……国広」
ちゅっ。
額に軽くキスが送られる。それは国広がよく眠れない夜に必ず彼がしてくれた、まじないのようなものだった。皮肉なことに己に触れる掌の温度は何ら変わらない。ただ違うのは、互いの在り方。これからはもう、彼の傍にはいられない。
国広はこの世界から直に消えることとなる。その代わりに、彼がここに閉じ込められるのだろう。この物寂しい、生き物の気配のない孤独な世界の狭間に。そこまで思い至ってから、彼を一人にしてはならないという強烈な衝動が駆け抜けて、何かに突き動かされるままに己の右手に力をこめた。
「だめ……だ……長義……」
彼を引き止めたいのに、目蓋が急速に重くなる。とてもでないが目を開けていられない。眠っている場合ではないというのに……。
「やめてくれ……俺も……お前の……そば、に……」
「愚かな子……」
影の手が国広の瞳を遮る。
黒で塗りつぶされた存在に、顔はなかった。それでも、最後に覗き見えたその顔は、微かに笑っていたような気がして……国広は眩しいものでも見たかのように、ふ、と目を細めた。彼の微笑みは、いつだって己の瞳に映すには過ぎたる美しさであったから。
長義、と呼んだその声が、彼に届いたかどうかは終ぞわからなかった。叶うことならば、この手を握り返して欲しい。それだけを切に願って、国広の意識は無情にも落ちた。
視界を埋め尽くす黒の中、深く、深く、沈みゆくことしか出来なかった。
「……っ! はぁ、は……っ」
勢いよく身体を起こしたら、そこは見慣れた書庫だった。あたりに散らばった紙の束に、窓から差し込む夕陽の紅が重なる。その悲しいまでの美しさが、先程まで目の当たりにしていたあの景色と重なって、自然と国広の目元を涙が伝った。
「夢か……」
なんて不穏で、報われぬ夢か。
むくりと起き上がり、書類を汚してしまわぬようジャージの袖で涙を拭う。己の横たわっていた場所を見ると涙の跡がくっきりと残っていて、墨の滲んだそれが廃棄予定の書面であることにホッと息を吐き出した。重要書類を汚したとあっては大問題である。それなりの罰は避けられぬだろう。それから徐に、手元に転がっている刀帳へ意識を向け、何気なく頁を開いた。
頁を捲る指先は汗を掻いて湿っている。汚さぬよう気をつけながら慎重に開いた箇所は、己の本科たる男の名が刻まれるべき場所だった。
(確か、ここらあたりに……)
はらはら、はら……。
彼の情報が載る頁を開いたのは、単なる思いつきだった。特に意味もない純粋な好奇心から。起き抜け特有のぼんやりした意識も手伝って、ゆるりと手を動かす。だが、目的の頁に辿り着いた頃には、国広の靄の掛かったような意識は一気に覚醒を促されることとなった。
その理由は、ただ一つ。
「あぁ……」
この空疎な感情は何というのだろう。失望にも似た諦め。怒りにも似た悲しみ。その根源へと辿り着きかけた気がするが、後少しというところで思考を止めた。何となく、知らない方がいいと思ったから。
指先が触れたその頁は、白紙だった。
初めから何も書かれていないのがわかる、ただの白紙。そこでようやく国広は合点がいった。この本丸にいる山姥切長義は、きっと。
(……何処かで、俺はわかっていた。あいつが『違う』ことを)
――この本丸に正式に属している刀ではない、ということを。
*
「また政府からの連絡か」
「あぁ、戻ったのか」
部屋に戻った国広を出迎えたのは、端末を片手に何事かの仕事をこなす長義であった。部外者が現れたというのに、彼は画面を隠そうとする素振りを見せない。寧ろ見ろと言わんばかりに堂々と画面を映しているのを見て、国広の眉根が僅かに顰められた。
「……部外秘の情報じゃないのか」
「前も言ったと思うが? 同じ事を何度も言わせられるのは、俺は好きじゃないんだ。いい加減理解してくれないかな」
国広が苦言を呈すも聞く耳を持たない。それに小さくため息を吐くだけに留めて、国広は極力画面を見ないよう視線を逸らしながら部屋の奥へと向かった。風呂上りで火照った身体を包むジャージを脱ぎ去り、就寝時に着ている浴衣へと袖を通す。簡単に着付けて帯を締めると、長義の座す執務机の方へと近づいていった。
「……山姥切」
カタカタ、とキーボードを叩く音が部屋に響く。
ちらりとこちらへ視線を寄越した男は返事もせず、ただ視線だけで続きを促した。
「あんたは……いや、」
「何かな? 何か言いたいことがあるなら言えばいい」
「……よく政府と連絡を取っているなと思っただけだ。部屋にいてもいつも忙しないし」
刀帳に載っていない長義の名前、やたらと政府と連絡を取り合っている姿、さらには審神者に対する一戦引いた態度。思えば違和感はいくつかあった。では、この男は誰の刀であるのだろう。国広は、未だ政府の管理下にあるのではないかと睨んでいる。そうすぐさま繋がりを勘繰ってしまう程度には、長義は政府と密に連絡を取り合っているように見えたのだ。
「別に? 政府顕現だった刀は皆こんなものだろう。南海太郎朝尊も未だに政府への出張が目立つしね。それに俺は元役職持ちだから……そういう刀は、本丸配属になったからといってハイ解散ってわけにもいかないのさ」
デキる刀はこれだからいけない。
なんてわざとらしく肩を竦め、のらりくらりと躱そうとする男に、白けた視線を送る。敢えて「そうか」とだけ返して深く追求をしないでいると、「もっとキラキラした童子のような目をして崇めてくれても良いんだよ?」とか何とか彼らしからぬ軽口を叩かれた。まともに取り合う価値もないそれらを乱雑に受け流して、核心を誤魔化そうとしている男からさりげなく意識を逸らす。
腹の探り合いにおける引き際は肝心だ。これ以上藪を突いて下手に刺激をしたくなかった。ただでさえ隙のないこの男。こちらの警戒心を察知されてしまえば、かなり厄介なことになるに違いなかったからだ。
(……こいつに本気で隠蔽されたら、暴くのは骨が折れるだろうからな)
後々のことを考えると、やはりここはあっさり引いておくべきである。その辺の駆け引きは国広の苦手とするところだが、そうも言っていられない緊急事態に、やり方を選んでいる余裕などなかった。
「さて、」
ぱたん。
長義の手元に置かれたノートが閉じられ、男がぐんと伸びをする。使い古されたデスクチェアが、ギシリと音を立てた。
「あと少しで入力も終わる。こっちの仕事さえ終われば構ってやれるから、もう少しいい子で待ってるんだよ」
「別に構って欲しいわけじゃない」
「へぇ? なら散歩でも行くか?」
「犬扱いするな」
「ははっ」
国広がぐるぐる考え込んでいる間も、キーボードを打つ手は淀みない。長義はこちらに疑問を持った様子もなく、まだ作業に没頭しているようだった。そのことに、人知れず胸を撫で下ろす。
(わからないな……)
夢に見たあの出来事を思い出す。黒い影と化した長義によって、胸を貫かれたあの悪夢を。思わず柄を握った手が震えてしまうほどの凄まじい殺気を放ちながら、冷徹に刃を振り下ろしたあの男は、今目の前にいる彼とは違うのだと、頭ではそうわかっていても、どこか引っかかるものを覚えてしまって。つい身体が緊張から強張ってしまう。
(切り替えろ……あれは夢の話だ。それより現実のことを考えなければ……)
再びゾクリと背筋に悪寒が走ったのを機に、このままではまずいと慌てて頭を振る。悪い方向にいきがちな考えを無理矢理正し、意識を目の前の男へ戻した。聡いこの男の前で下手な隙を見せればそれこそ命取りだ。些細な違和感を見逃してくれるほど、長義は手ぬるい奴ではない。
(さてと……)
話を戻そう。
長義が政府所属の刀であるとして、この本丸に潜入している理由は何なのか。これは勘だが、悪意を持って入り込んでいるのではないと思う。
ただ、刀帳に名前が載っていない時点で、長義の事情は審神者も認知している事だと考えていいだろう。何故なら新しい刀を顕現させたならば、審神者は謀反を防ぐため刀剣男士の心臓とも言える真名を縛り、その呪そのものを刀帳へ封じる儀が必須となる。となれば、一度は刀帳を開いたであろう彼女が、長義の頁が無いことに気づかないことは考えにくかった。
(初期刀は俺なのにな……)
自ずと導き出された結論に、自嘲が漏れる。肝心なことも知らされずして何が初期刀か。途端に己の肩書きが薄っぺらいものに感じられて、胸の奥を冷え切った風が吹き抜けていった。
あの海神のことだ。何かしらの考えがあってのことであろう。それでも、唯一人の主に裏切られたように感じてしまうのは、酷く理不尽なことであることは理解はしていた。理解しているのだが……一度マイナス思考に陥れば延々悩み続けるのが己の性分。どうにも気落ちしてしまうのは致し方ないことであった。まるで極める前の自分に逆戻りしてしまったみたいだ。滑稽で、何とも愚かしい。
「偽物くん」
寝る支度を調えていた国広の動きが止まる。柄へ手を掛け、互いの間合いを計るような、刹那の緊張感が張り詰めた。ごくり、と生唾呑み込んで次の言葉を待っていると、いつものように淡々とした口調で男が話し掛けてくる。
「今日の手合わせはどうだった?」
拍子抜けした。何だ、ただの世間話か。無意識のうちに吐き出された安堵の息に気づかず、国広は答える。
「あ、あぁ……偽物ではない、が不思議なほど調子は良かったぞ。身体も軽くて、一振りが軽く感じた。これなら、」
この分なら昼だろうと夜だろうと、どんな戦に出たとしても遅れはとるまい。そう続けようとした言葉は表に出ることはなかった。
「んぅっ……⁉」
「鼻で息をしろと、前に教えたはずだけど……?」
後ろを振り向くと同時、いつの間にかすぐ傍に来ていた長義に口付けられて驚愕する。驚きのままに身を固くしていると、薄く開かれた唇の隙間から舌が差し込まれ、さらに深く貪られた。いつものように唾液を流し込まれ、霊力の込められたそれを従順に飲み込む。
それから何度も、雛が親から口移しで餌を与えられるように、国広と長義は深いキスを重ねた。
「は、ぁ……」
「調子が良い、ね……やはり馴染まないか」
「山姥切……?」
「まったく忌ま忌ましい……」
染み付いた汚れでも払う手つきで、直接肌の上を滑る掌。そこに性的な意味は見出せず、ただただ困惑する。
「……クソッ」
浴衣の合わせ目が乱され、帯を引き抜かれる。しゅるり、という布擦れの音が、やけに耳にこびりついた。今まで口吸いをされたことは多々あれど、それ以上の行為は匂わされたことすらない。だからてっきり、長義にその気はないのだと思っていたのだけれど。これはだいぶ、まずい状況ではなかろうか……?
「何が……」
「……もうこんなに浸かっている。お前に自覚はないのか?」
「さっきから何の話だ、おい……山姥切……っ」
長義は国広の話に聞く耳を持たず、素知らぬ顔で行為を続けようとする。焦った国広が下半身に迫った彼の右手を咄嗟に掴むも、その場凌ぎの拙い抵抗はあっさり振り払われてしまった。
「この本丸の刀たちは異常だ。お前たちにはその自覚はないんだろうが……神格の高い海神である審神者の影響を強く受けて、急速に神気が高まっていっている。最年長で縁の強い初期刀など、その最たる例だ」
審神者の影響? 神気の高まり? どういう意味だ。必死に思考を巡らせるも何のことかさっぱり想像がつかない。確かにこの本丸の刀たちは、他所の本丸の刀たちよりも神寄りの存在として顕現している。だが、それのどこが異常だというのか。長義が何をそんなに懸念しているのか理解出来なくて、隙あらばこの行為を中断させてやろうと目論んでいた国広の身体は、石になったように固まり、唖然と己に覆い被さる男を見上げるだけだった。
「神に寄ることは悪ではない。許容範囲内ならばな。だが、お前は枠を外れかけている。お前は審神者と一番縁が深く、間近で長い間彼女の神気を浴びていた。よって今のお前は独立した一柱の神として完成しかけていると言っていい」
「……っ」
「……自覚も無しに写しの神格が本歌に勝るとは。無自覚ほど腹が立つとはこのことか」
「んん……⁉」
チッ、と一つ舌打ちを零して、長義が唇へ噛みついてくる。とてもでないが情を交わすとは言えない行為によって、体内を循環する霊力が次々と塗り替えられていった。色彩豊かなキャンバスの上に墨を塗りたくるようなそれは強引が過ぎて、反射的に身体が異物を拒絶する。胃が引き攣り、手足が意味もなくバタバタと暴れ出す。怒涛の勢いで流れ込んできた長義の霊力が血脈を圧迫して、今にも弾けてしまいそうだった。
あまりの熱の質量に、恐怖心ばかりが煽られる。怖くて仕方なかった。山姥切国広という存在がいびつに歪められていっている――そんな己の存在を揺るがしかねない暴力的な感覚が、口づけを深めれば深めるほど強くなっていったからだ。
(これは、まずい……っ)
刀剣男士には皆、己という存在を確立するための核となるものが存在する。それを捻じ曲げられてしまえば、その時点でその者は己を見失い、真名を失い無銘の鉄屑へと成り果てるのが運命であった。だからこそ、この行為は拷問以外の何者でもなく、耐え難い苦痛を伴う。
痛い。痛いというよりも熱い。熱した鉛玉を飲み込んだような、身体の内側から火で直接炙られているような、そんな途方もない苦しみが国広を苛んだ。熾烈な戦争に身を置いて半世紀になれど、未だ嘗てこのような責め苦を味わったことはない。
「あつ……っ、熱い、あつい! 山姥切! あ、ぁああ!」
いつもよりも乱暴で、労りなど微塵も感じられない男の口吸いは、いくら制止の声を上げようと中断するどころかさらに深くなっていくばかりで。生理的に溢れる涙を垂れ流しながら、国広は頻りに喘ぎ続ける。
「だめ、だ……! やまんばぎ……いっ、息が、もぅ、むり……!」
「抵抗するな。大人しく溺れておけ。その方がお互い楽だろう」
息が出来ない。沈む、沈む、底の見えない水底まで。助けてと伸ばす手を掴んでくれるものなど誰もいない。ぼんやりと靄のかかった思考のまま、己を貪る男の肩を掴むと、フ、とこちらを嘲笑う小さな吐息が降ってきた。内から溢れ出てくるものを押し殺したような息遣いに、脳髄がビリビリと痺れて警鐘を鳴らす。
食われる、助けてほしい、わけがわからなくなる。ぐちゃぐちゃになった己の内側が熱く煮え滾り、されどその中でふつふつと、ともすれば見逃してしまいそうなほどに小さな違和感が芽生えた。
それは渇きだった。心では拒みながらも、身体は貪欲に男の霊気を求めている。こんなにも自分は渇いていたのかと、ずくずくと疼き出した腹の底に、嫌でも飢餓を自覚させられた。何故、どうして。答えの出ぬ疑問は混乱と恐慌を呼び、ますます手の震えが酷くなる。
「やまんばぎり……っ」
ぎゅうっと目を瞑り、熱に浮かされた頭で男の名を呼ぶ。
「長義……ちょうぎ……っ」
「……助けを俺に求めるか。体の方が余程自分の状態を理解していると見える」
ぶはっ、なんて色気のない声と共に、唇が離れた。
ようやくこれで終わりか。徐々に離れてゆく機嫌良さそうな長義の顔をぼんやりと眺め、気を緩める。けれど、悪夢はこれで終わりではなかった。下腹部の上を右手でぐっと押さえつけられて、今度こそ完全に乱れきっていた浴衣の合わせ目を肌蹴られる。これで鋭い目つきで己の肌を見つめる、暗く輝く瑠璃玉の熱視線を遮るものは何も無くなった。そのまま暫し呆気に取られていれば、次いで臍のすぐ下あたりを指先でトン、トン、と叩かれ目を瞠る。
その指が指し示す場所の意味は――。
「いや、だ……」
不意に過った考えに、血の気が引く。
まさか、彼はこのまま国広の身体を拓くつもりなのか? いや、そんなはずは……しかし、それならこの行動の意味は? いつの間にか長義の手の中にあるあの小瓶はなんだ? この後自分に待ち受けるものへの恐怖から喉が引き攣る。何か言わなければと思っているのに、言葉が出てこない。
嫌だ、と思った。長義と身体を重ねることに対してではない。こんな形で彼と番うことが、それだけは、駄目だと思った。
「……だめ、だ」
美しい顔が不敵に笑む。宥めるように唇を啄まれ、頬を撫でられた。しっとりと汗ばんだ手は熱い。
「……いい子だから、言うことを聞いてくれ」
「……山姥切、俺は」
ちゅ。
口を塞がれ、言葉を遮られる。それが陥落した瞬間だった。元より国広に、長義の無体を跳ね除けられるほどの強固な意志など、持ち合わせてはいなかった。ただ、それだけのこと。
何故なら己は、ずっと……いつからか、この男のことを……。
「今からお前を抱くぞ、国広の」
肩を押され、背中から押し倒される。己の上に覆い被さってきた男は、相変わらず腹の立つほど飄々としていて、こうなることが当然だと言わんばかりの顔をしていた。
勝敗の分け目はきっと始めからだった。彼からの口吸いを拒みきれなかったあの頃から。共に過ごす時間が増えて、絆されてしまったのが運の尽き。この男がどこから来たのか、何故ここまで国広に構うのかはわからない。しかし、それでも共に在ることを嬉しいと感じるようになってしまった時点で、国広の負けだった。
惚れた方が負け。
そう、国広は、この至ってシンプルな先人の教えに既に籠絡されていた。
「やま……長義」
今更気づくだなど、つくづく己は鈍感で、救いようがない。自嘲しながら、夢で見た時のように男を呼ぶ。
「……ん?」
「はは、……っは、」
よりによってこの男が相手だなんて。
あぁ、なんて。
「何故泣いている?」
「いや……何でも、ない」
こんな冷たい目をした男の、何処がいいのだか。
「……っ」
(敵か味方かもわからない、しかも俺を疎む本科の刀ときた)
夢で見たあの白銀の刃が、ひたりと己の頸にあてがわれている錯覚に陥る。この頸が落とされるのは、そう遠い先の未来ではないのだろう。これは心底報われない。本当に、どうしようもない。
つ、と頬を伝った一筋の涙を、男の舌が丁寧に舐めとった。
泣きたくなるくらいに、慈しまれていると勘違いしてしまいそうなほどに、優しい触れ方だった。