憎い、という慟哭を聞いた。
前後不覚となった夢の中。己が誰であるのかすらわからなくなり、ただただ人の子を憎いと思う怨恨だけが身の内を支配している。己は神であったはずだった。古くより生き永らえ、人と共に時代を歩み、時に人の子たちに豊穣をもたらすこともあった山の神、そのはずだった。それが何故、言葉も紡げぬ獣の如き醜態を晒しているのか……すべてはそう、奴らのせいだ。
「ヴヴ、ヴ……」
嘗て己が愛しんだ人の子たちこそ、己を鬼へ貶めた何よりもの原因に違いなかった。
神は人の子たちに乞われれば土壌を肥やし、信仰と供物の代わりに豊作を約束した。時に天に棲まう神々と交渉し、恵みの雨を降らせることもあった。人あっての神、神あっての人。正しくその関係を保ちつつ、神はこれまで現に生きる者たちと誠実に向き合ってきた。そして、この関係はこれからもずっと変わらず続いていくのだろう、と。そう信じていた。だというのに、
『山祇様、山祇様……どうかお許しを……』
何故だ? 何故山を切り崩す必要がある。
わざわざ祓い屋など呼びつけこの山の神の社へと参ったかと思えば……なんだそれは。山を切り崩して新たな住み処を作る? では、削られた側の土地に棲む者たちはどうなる。あの一帯に実る木の実を頼りにしていた動物たちは? 数年間供物一つ寄越すことのなかった薄情な人の子たちと、毎日欠かさずこの社へ果実を届けてきた山の獣たち。どちらを優先すべきかなど、わざわざ口にするまでもない。怒りのあまり祟ってやろうかと思った。
そもそも、この山を切り崩さねばならぬほど、人の子たちは住む場所に困っているわけでもなかったはずだ。彼らの置かれた状況など、長年人の子を見てきた神の目にはすべて筒抜けである。十二分に恵まれた土壌に生きるくせに、不必要に大地を痛めつけてまで、さらに領分を広げたいと申すのか。
――恥を知れ、欲深き者共。
どろりとした泥のようなものが腹の底から湧き出てくる。これは良くないものだ。そう頭では理解しているのに、一度決壊してしまえばそれは、己の意識を乗っ取らんと次から次へと溢れ出してきた。
『山祇様……』
――うるさい。
如何なる理由があろうとも、それは山に生きる者たちの命を犠牲にしてまで押し通すものではなかろう。何故わからぬ。斯様な残酷な仕打ちが出来る。果ては許可も得ぬ内に神の棲まう社を取り壊さんとする者共の、何と醜きことか。今までの恩を忘れ、貪欲にあれもこれもと手を伸ばし、縋る様は実に滑稽で浅ましい。愚かにも程がある。
――許さぬ……皆の叫びが聞こえる。子を奪われ、皮を剥がれ、煮て焼かれて……無念を我に知らせんとする我が子たちの声が……。
ここまで慈しんでやったというのに、求められるままにこの力を振るってやったというのに、その返礼がこれか。人の子と共に生きることが出来ると信じた己が道化であったのか。
怒り、怒り、怒り。
燃え盛る炎が内側で揺れている。ぐらぐらと煮立った感情が衝動を煽り、理性を焼き切ろうとする。怒りをやり過ごそうと瞑想に耽る今も尚、庇護下の動物たちが鳴いていた。燃え盛る森の入り口が、白煙を上げながら声なき叫びを上げている。己が子に等しい彼らの呪詛が耳にこびり付いて離れなくなった頃。ついに我を忘れた山の神は大地を揺らし、人の子たちの住む土地を真っ二つに分かちた。崖の底へ突き落としたかの実行者たちは、今頃獣の餌となっていることだろう。だが、もう情けはかけぬ。温情は不要。神の怒りはその後数多の村を燃やしても鎮まらず、何人もの人の子の命を奪ったとて止まることはなかった。
そして災厄と化した神は己の真名を忘れ、神無月に行われる出雲の集会に参列する権利を永遠に失った。
有り体に言えば堕ちたのだ。神は、既に神とは呼べぬ何かになっていた。
――おぉ、この怒りの矛先を何処へ向けたらよいのか。復讐は果たした。かの無礼者たちは皆殺しにしてやった!
きゃらきゃらと笑いながら影から影へと乗り移る。実体を保てなくなったのは最近のことだ。身体が無いことを不便だとは思わない。元より人の子に忘れ去られた身。たとえ身体があったとしても、振るう神としての力などほぼ無いに等しいのだから、あったところで持て余すだけであった。
『半堕天の山神よ。まだ引き返せる。このまま完全に堕ちたくなくば、今すぐその矛を収めるがよい』
はて、発狂の最中、出雲から参ったあの忌ま忌ましき海神の使いは、何と言っていたのだったか。
「失せるがいい、磯臭い海蛇の使いよ……そしてお前たちの主に伝えておけ、次にこの私と顔を合わせる時、其方の命は無いものと思えと……」
雷鳴が轟いた。誰かの声が聞こえた気がする。止まれと、ゆくなと、私を、我を、妾を、責めるようなその声が。
私は誰だ?
神であったもののはずだ。人に愛され、人を愛し、太古よりこの地を守護してきた神であった、そのはずだ。
『わたしは……わら、わ……は……』
意識が薄れてゆく。剥き出しとなった獣じみた衝動が、己の守ってきた大地を壊せと耳元で囁いた。
『だ……れ……』
今日もまた、答えのない問いを虚空に向かって投げつける。
既に己の神名など、土塗れになった枯れ葉の下に埋もれ、もう二度と掘り起こすことは叶わないのだと、知りながら。