*瑠璃に沈む

TOUKEN RANBU

 今日は一段と雷神の機嫌が悪い。
 ひっきりなしに鳴り響く雷鳴が、本丸内の空気をピリリ、と引き締めた。審神者たる主は何度結界に雷撃を食らおうと気にする素振りは見せず、淡々と審神者の執務をこなしている。政府からの書状に目を通す澄ました横顔からは、焦燥も憤慨も感じられず、この海神が雷神をまったく相手にしていないことが見て取れた。
「主様! 大変です!」
 バタバタとけたたましい足音を立てて執務室へ入ってきたのは、本日元亀三年の越中へと向かう手筈であった第三部隊隊長・平野藤四郎だ。如何なる時も冷静沈着、柔軟に物事を捉え隊を率いる平野は、滅多に動揺した姿を見せない。よって、これは余程のことがあったのでは、と察した国広は、無意識のうちに左手側へ置いていた本体を手に取った。敵襲か、それとも政府の立ち入り監査か。どちらにせよ、いざという時は初期刀たる己が矢面に立たねばなるまい。
 片膝を立てた状態で待機していると、平野は捲し立てるようにして慌ただしく語り始めた。
「数百発に及ぶ雷撃の影響で、磁場に乱れが生じております。これでは安定した時間遡行は難しいかと。ましてやあの雷は、今までのようなただの雷ではありません。雷神による神通力を練りこまれた強烈な一撃……一度でもこの身に喰らいましたら、分霊でしかない我らの身など容易に顕現が解かれましょう」
「……ふむ」
 雷神と海神は腐れ縁で、過去何度か衝突したことがある二柱であったという。だが、流石にここまで執拗に攻められていることには疑問を持ったようだ。「奴は今何処にいる」と審神者が一言問うと、平野はただ一言「門前に」とだけ返し、そこでようやく審神者は重い腰を上げた。
「門を開けよ。今日の出陣は取り止めじゃ。野蛮で品が無く、まこと残念な頭をしていると言えど、曲がりなりにもアレも神。客人として手厚くもてなしてやれ。私はこの書類だけ片付けたら松の間へと向かう」
「承知致しました」
 平野が飛ぶように執務室から出ていく。それを無言で見届けて、審神者は国広の方へ振り返って言った。
「国広や、お前は山姥切長義を呼んでこい。……彼奴の話など聞かずとも、内容は大体予想出来るわ」
 その日の本丸はちょっとした騒ぎになった。何せ滅多に訪れることのない珍しい主の来客だということで、厨を取り仕切る刀たちは腕によりをかけて豪勢な膳を用意し、それに負けじと骨董品好きな歌仙や大般若が、床の間に美濃焼の花器に活けられた華やかな活け花を飾った。そして、芸に秀でた江派の刀たちが、和琴を持ち出したあたりでついに主から待ったがかけられ……客間に持ち込まれた諸々の後片付けを、すべて国広が行うはめになった。
(というか誰だ、どさくさに紛れて机の下に酒瓶を隠し入れた奴は)
 犯人は大体予想がつくが、次に顔を合わせたら暫く禁酒令を出してやる。八つ当たり半分にそう心に決めて、ゴロゴロと出てくる一升瓶たちを片っ端から回収袋に入れていった。
「では門を開けます! 皆さん、歓迎の用意を……っ」
 すべての準備が整った後、ついに門を開く時が訪れた。しかし平野が門を開けると同時、彼が言葉を言い終える前にゴゥッという轟音が辺りに響き渡り、突然地響きに襲われる。
「うっ……!」
「なんだっ!」
 眩いばかりの光が視界を埋め尽くし、思わず両腕を顔の前に翳す。ぐらぐらと揺れる地面はまるで、大蛇が足下を這いずっているかのようだった。暫くして眩しさが薄らいでいった頃、恐る恐る瞼を開くと、目がチカチカするド派手な赤と金が現れる。それが雷神の纏う装束の色なのだと悟って、国広は身を強張らせた。バチバチと電気を迸らせながら仁王立ちするその様は、天を司る由緒正しき神というよりは戦場を食い荒らす荒神そのもので。その迫力に、雷神を取り囲む多くの刀剣男士たちは息を呑む。
「出迎えご苦労! 邪魔するぞ蛇女ァ!」
「……偽物くん」
「……っ! あ、あぁ」
 すっかり気圧されて棒立ちになっていれば、それを咎めるように隣に立つ長義が小突いてくる。
「雷神よ、主から話は聞いている。門を開けるのが遅くなってすまなかった。俺の名は山姥切国広。客間までは俺が案内しよう」
 緊張から声が震える。国広の姿を捉えるや否や、目をパチパチと瞬かせる男神は何処か幼く映った。それから何を思ったのか、「ほぅ……!」と感嘆の声を上げた彼の神は、訝しげに眉根を潜める国広の傍へ寄ってきて、興奮気味に語気を強める。
「貴殿、なかなかに良い見目をしておるの! 付喪神なぞ所詮は妖の端くれだと侮っておったが、ここの者たちは皆清い霊力を漲らせておる……! 良い、良いぞ! 山姥切国広とやら、俺の寝所に侍る栄誉を与える!」
「は?」
 あの蛇女め、こんなに見栄えのする物どもを侍らせて楽しんでおったとは……! などと宣い、悔しそうな顔をする雷神を唖然と見つめる。一瞬何を言われたのかわからなかった。寝所に侍る栄誉? ということはつまり、国広はたった今この荒々しい天の神からそういった誘いを受けたということで、もし首を縦に振ったなら、この神と夜な夜な如何わしい行為を……?
(いやいや、俺は処女……はともかく、ど……童貞だ。こんな名の知れた神を相手取るなど……待て、そもそも俺は主の刀だ。他所の神にうつつを抜かしている暇は……!)
 当たり前のように自分が上であると、信じて疑わない国広である。
「何だ、満更でもないのかな?」
「いっ……!」
 ダンッ! 思い切り足を踏まれて短く悲鳴を上げる。足先を的確に狙った一撃はかなり重く、痛みに慣れた国広とて生理的な涙が浮かんだ。長義の奴め、なんて容赦のなさだ。だが、おかげで散り散りになっていた思考が舞い戻ってきた。フォローにしては乱暴過ぎるので、決して礼は言わないが。これ以上無様を晒すことがなくなったという点に於いてだけ、小指の爪の先くらいは感謝してやる。
「い、いや、雷神。悪いが俺はそういった誘いは……」
「照れるな照れるな。恥じらう様などまるで乙女ではないか。ますます俺好みよ。して、隣のお前は毛色こそ違えどコレと見目が似ておるな? よしよし、お主も俺の寝所に侍ると良い! 両手に花ってやつだな!」
「なっ、長義はダメだ……! あ、いや……俺は、その……」
「……行くわけがないだろう」
 不機嫌そうに長義が言う。しかしそっぽを向いてしまったその顔は若干赤く染まり、声は嬉しそうに弾んでいた。そんなに神からの誘いが嬉しかったのだろうか、と胸をもやつかせた国広だが、その実長義は国広が必死になって阻止しようとしてくれたのが嬉しかっただけだった。まさか顔を赤らめた長義が「可愛いなこいつ」と死ぬ気で浮かれ気分を律しているとは露知らず。国広は満更でもなさそうに見える本科に対して、どんどんイライラを積もらせていく。
 肝心なところで分かり合えない二人であった。
「雷神よ、お戯れもそこまでになさってください。我らは神籍の末端に在る付喪の神故、貴殿のような大神をお相手するには、些か役不足にございます。何卒ご勘弁を」
 粛々と断りを入れる長義に、ついに国広はほっと胸を撫で下ろす。だが一息ついたらまた腹が立ってきた。自分だけがこんなにも振り回されているなど甚だ不本意である。国広が誘われた時なんて、長義は顔色一つ変えずにその様を眺めていたというのに。
「ぶふっ」
 ややあって雷神が楽しそうにケラケラと笑い出し、一人百面相している国広の額を小突いた。
「ぐ、ふふっ……本来であれば俺の誘いを無碍にするなぞ首を刎ねられたとて許されることではないが……まぁ何、俺もすこーし揶揄ってみただけのこと。元より手付き相手に手を出すほど飢えてはおらぬ。大目に見てやろう」
「……手付き?」
「偽物くん、無駄話をしていないで早く彼を案内して差し上げろ。主ももう客間に向かっている頃だろう」
 ふ、と雷神の言った言葉が引っ掛かるも、長義に急かされ慌てて気を引き締める。何はともあれ、主から任された雷神の案内役だ。ここは上手く誘導せねば、と改めて気合いを入れ直した。そんな国広の隣では長義が雷神を睨みつけており、対して雷神はそんな彼を心底面白そうな顔で言外におちょくっている。しかし、自分に与えられたお役目を全うしようと前を向いた国広は、そんな水面下で繰り広げられていた見えざる攻防の存在を知ることはなかった。
 松の間に雷神を通した時には、海神は上座にて既に待っていた。
「出雲ぶりだな、蛇女」
「はて、千年ぶりではなかったか? 喧しい犬め」
 出会い頭に軽いジャブを喰らわせ合い、雷神は下座に腰を下ろす……のかと思えば、その予想を裏切って男は大股で上座の方へと近づいてゆく。まさかの事態に国広たちがギョッと目を剥き、彼の動きを止めようと一歩踏み出した時には、審神者は戦を知る無骨な手によって頭をわし掴まれていた。
「貴様……! この俺がわざわざ足を運んでやったというに、上座でふんぞり返っている奴があるか……っ!」
 雷神が怒気混じりに吠え、ぐぐぐ、と海神の頭を掴む手に力を籠める。
「何故お前のために私が降りねばならぬ! お前なぞ下座どころかせいぜい部屋の隅で縮こまっておるのが似合いじゃ! 座布団を敷いてやっただけ有り難く思え……!」
 すかさず海神の方も言い返した。二人視線が絡まるや否や、冷え切った神気同士がぶつかり合って、バチッと火花が散る。それを合図に、大人気ない二柱の攻防は激化した。
「お主が上座など千年早いわ!」
「ざっけんな! 上座はこの雷神様専用席って決まってんだよッ!」
「たかだか一二〇〇年かそこらしか生きておらぬ分際で、何を偉そうに!」
「るっセェこの老害!」
「クソ餓鬼がァ!」
「主! 落ち着け!」
 二柱の罵り合いはその後暫く続いた。力の強い神同士の喧嘩は、周りにやたらと圧を撒き散らすだけにタチが悪い。やっと大人しく二人揃って上座に座すことが決まった時には、国広と長義は圧に呑まれてすっかりやつれてしまっていた。こうなっては礼儀などあって無いようなもの。ようやく落とし所を見つけたのに、また蒸し返すのも面倒だ。明らかにおかしい席順には目を瞑り、二人は早々にこの状況を立て直すことを諦めた。
「さて、ふざけるのもここまでだ。海神よ、俺がこの陰惨な場所へわざわざ足を運んでやった理由、心当たりがないとは言わせぬぞ?」
 二柱を取り巻く空気がガラリと変わる。突如として国広を襲った、喉を掻き毟りたくなるような猛烈な息苦しさ。それは、神たちが互いに牽制し合い、己が領分へと相手を引き摺り込んでしまおうとするが故の緊張感であった。国広たちは神格がそれほど高くない付喪神であり、さらには本霊でもない分霊の身だ。そのため、このような純度の高い神気に満たされた、神域にも近いテリトリーを用いてのマウント争いに巻き込まれては堪ったものではない。
 ぐっと唇を噛んで耐え忍んではいるものの、気を抜けばあっという間に意識を持っていかれそうになった。
「さぁて、わからぬな。私はこの通り、引きこもり故――」
「山の神が堕ちた」
 痛いほどの沈黙が降りてきた。牽制はまだ続いている。海神はさほど動揺した素振りを見せず、寧ろ雷神がそう告げることを最初からわかっていたみたいだった。
 山の神が堕ちた。
 雷神の言ったそれが本当のことなのだとしたら、それはかなりまずいことになる。今までこの日の国は、大地を司る神々の統括である山の神と、海を司る神々の統括たる海神の微妙な力の均衡のおかげで安寧が保たれていた。海が大地を侵食すれば、また大地も海を侵食する……その際限なき営みの繰り返しがあってこそ、島国の形はここに完成したのだ。しかし、その片翼が失われたとなっては、海神の方も共倒れになりかねない。大地が枯れて海の領域が広がれば広がるほど、人の子たちは海の存在を嫌忌し、疎むようになるだろう。そうなれば当然、信仰も減る。それでは神は生きられない。信仰あってこその神なのだから。
「あるじ……」
 顔を真っ青にして、国広が審神者へ呼び掛ける。飄々とした表情を貼り付けた海神のかんばせは凪いでいて、やはり堕ちる気配など微塵も見られなかった。
「なんだ、彼奴が倒れたからとて、この私に大地の浸食を自重せよと? 地を食うは我が宿命、そしてこの私の本性なるぞ? 出雲の連中は、それを控えよと申すか?」
「のぅ、蛇女。貴様、その力失いかけておるな?」
「……っ」
 大丈夫、主は堕ちない。そう安堵しかけたのも束の間、尚の追撃に大きく息を呑む。海神は何も答えなかった。薄々感じ取っていた審神者の異変を容赦なく言い当てられて、やるせなさと主を失うかも知れない恐怖が心を蝕む。そこで無意識のうちに握り締めていた拳を、そっと長義の手が包み、安心しろと言わんばかりに撫で摩られた。
「無礼にも程があるぞ、犬。このまま海の底に沈んで果てるか? 貴殿の身は鯨の死骸程ではないが、さぞ良質な養分になろうて。海の民もいい餌が降ってきたと諸手を挙げて喜ぼう」
「出来るものならな。昔の貴様ならまだしも、今の貴様に後れを取る俺ではないわ。些か己を過信しておるというものよ、愚神め」
 バチンッ! という弾ける音がして、間一髪のところで避けた雷神の頬から血飛沫が上がった。圧縮された水の刃が、雷神目掛けて放たれたのだ。指一本動かさずにその様を見ていた海神は、忌ま忌まし気に目を細め、「仕留め損ねたか」とだけ呟く。
「主!」
 思わず大声で叫んだ。目の前で神殺しなど本気で勘弁してほしい。
「おうおう、怖や怖や。そういえばここが貴様の領分であることをすっかり忘れておったわ。さて、引く手数多の大神たる俺はそろそろ退散するとするか」
 ジャラジャラと首や耳からぶら下げた装飾品の数々を揺らして、雷神が立ち上がる。その顔は言葉とは裏腹に嫌味なくらいに余裕ぶっていて、海神はあからさまに顔を歪めた。
「……海神よ」
 慌てて帰りを見送らんと国広が障子に手をかけた時。唐突に雷神は立ち止まって海神を呼ぶ。これまでのふざけた口調から打って変わって真剣な物言いに、自ずとこの場にいる全員の動きが静止した。
「大国主様は次の満月の夜、山祇を討伐すると息巻いておいでだ。そして、御方曰く『貴殿はあれの影響を強く受けやすい。比叡の山には決して来るな。代わりに今その身に侍らせている風変わりな戦力を貸し与えよ』と。ここで断れば……貴様も同類とみなされ討伐対象となるだろう。……選択を間違えるなよ」
「鳴神……」
「ほれ、山姥切だったか? 名から察するに、丁度良い逸話持ちがそこにおるじゃろう。二振りもな。貴様は黙ってそれを我らに差し出せば良い」
 雷神は振り向き様に国広たちの方を見た。否、見た、なんて言葉では生温い。正しくは射抜いたのだ。国広たちが、決して反論出来ぬように。此度の大国主からの伝令通り、嘗て山の化け物を斬った逸話を持つ二振りの刀を、確実に戦場へ誘い出すために。
 主たる海神は、既に力を失いかけている。思えばおかしな点は多々あった。出雲へ向かう途中、わざわざ自身の治める領地を巡り、信仰集めをして回っていたり、前まで頻繁に衝突していた山神との争いに消極的な姿勢を見せていたり、本丸の御社に引きこもったきり出てこないことが続いたり。そんな彼女だ。この雷神からすれば、それこそ指先一つで消し飛ばすなど造作もないことに違いない。
 それを踏まえた上で、この天の神は国広たちを脅しているのだ。必ずや山の神を殺せ、と。
「心配せずとも、我々は山祇討伐に微力ながらお力添えを致しましょう。ですから雷神よ、どうかその殺気を収められよ」
 審神者を庇うように前に進み出た長義が、雷神を嗜める。その殊勝な態度に満足気に鼻を鳴らした彼は、先程までの冷え冷えとした空気が嘘のように、身に纏うそれを元来の明朗なそれに変えた。幾分か軽くなった空気に、国広は思わずほうっと息を吐く。
「そこな銀色の」
「……」
「これもすべて、貴殿の掌の上か?」
 底の見えぬ深い青を閉じ込めた、二つの瑠璃玉。冷えびえとした輝きを湛えるそれが、鋭く光る。
「……さて? どういう意味かな?」
「フンッ……狸め。尻尾を隠すつもりならもっと上手くやるが良い。見ていて鳥肌が立つわ」
 最後に長義と雷神の交わしていた会話の意味だけは、国広が理解出来る事はなく。また、恐らく長義自身も、国広にわからせるつもりは微塵もないのだろうと察した。その証拠に雷神と会話を終えた彼は、神を見送る道すがら、特に説明しようとすることもなく。沈黙のまま殿を務めている。ただ、どうしてか。雷神と言葉を交わす長義が、とても遠い存在に思えて――気がつけば国広は、長義を引き止めるように彼のジャケットの裾を掴んでいた。
 行くな、と。
 言ってしまいそうになった。寸前で言葉を飲み込んだのは、彼の目がいつも通りの温度を取り戻し国広の姿を捉えてくれたから。
「長義……」
「何かな?」
 離れないでくれ。どうか、目の届くところに在ってくれ。
 そんな細やかな我が儘はついぞ外へ吐き出されることなく、喉奥で潰えた。ドクドクと脈打つ心臓は、いつになく早鐘を打っている。
 だがいくら彼が己を見て微笑もうとも、言葉をかけてくれようとも、嫌な胸騒ぎはずっと消えてはくれなかった。


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