山祇討伐隊が天の指示により編成され、本丸からは国広と長義が参戦することとなった。付喪神の参戦は異例ということもあり、二振りを見定めようとする無遠慮な視線こそ気になったものの、されど変に絡まれることもなく。国広たちは一戦力として受け入れられた。
「祟りをもらうこともある。なるべく神堕ちとは目を合わせるな」
国広たちの属する隊を率いることになった雷神が、険しい顔で言う。
「この布を被り姿を隠すといい。呪除けのまじないが掛けられておる。堕ちたとはいえ元神……奴の呪にどれほど効くかはわからぬが、まぁ無いよりはマシだろう」
「……感謝する」
馴染みの戦装束の上から呪除けの布を被り、審神者から持たされた破邪の面をつける。長義のものと色違いの白い狐面は、目元に朱の紋様が描かれ、右頬の部分には『破』の一文字が墨で書かれていた(長義の方は同じ模様が描かれた黒い狐面で、左頬に『邪』の一文字が書かれている)。どうやらこれにも呪除けのまじないが掛けられているらしく、面をつけた瞬間、馴染み深い審神者の神気が国広を取り巻いたのがわかった。
「ハッ、緊張しているのかな?」
隣で支度を終えた長義が、強張った国広の顔を見てすかさず揶揄ってくる。
「……あたりまえだ」
そう素直に返せば、底意地悪い本科は面の向こう側で目を丸くした。
「なんだ、いつになく素直じゃないか。明日は空から日本号でも降ってくるのかな?」
「……神殺しだぞ……緊張しないわけがないだろ」
ふるりと身体を震わせ、前方に広がる鬱蒼とした森を睨みつける。この震えは怖じからか、それとも――。
知らずぎゅうっと柄を強く握り締めていた右掌に、徐に長義のそれが合わさる。それまで俯けていた視線を彼の方へ向けると、呆れたような笑みと共に労りの言葉が降ってきた。
「あまり気張るな。これだけの神が揃ったのだから、気負わずいつも通り刀を振るえばいい……背中は任せろ」
ぽんっと背を叩かれ虚を突かれる。まさかあの長義に励まされるとは思わなかった。てっきり「足を引っ張るなよ偽物くん」だとか、「恥を晒してくれるなよ偽物くん」といった刺々しい言葉で、トドメを刺してくるものだとばかり思っていたのだが。国広が考えていたよりも、彼にも多少は慈悲の心があったらしい。
「……おい、なんかロクでもないことを考えてるだろ」
「……いや、」
「なぜそこで目を逸らすのかな? おい、こっちを向け偽物くん」
「……」
「……お前ね」
「全員揃ったな!」
そうこうしているうちに隊列の先頭から、気迫のこもった声が轟いた。雷神の声だ。空気を震わす男神の一喝に、それまで談笑していた神々の声は鎮まり、皆顔つきが緊張を伴ったものへと変わる。
「これより、元地の神・山祇……否、妖狐・山祇の討伐を開始する! 神堕ちしたとはいえ、元は天狐まで登り詰めた力ある神である! 油断せず全力を出し尽くすこと!」
雷神が言葉を発する度に、圧がビリビリと肌を刺してくる。常の出陣とは比べものにならない緊張感に、国広は自身の初陣の日のことを思い出した。己より格上の相手を前にした抑えきれぬ高揚感、止めようとすればするほど酷くなる緊張、初期刀である重圧。あの時もそうだった。未知なる合戦場へと通じる時空の穴を通る道中、全身に力が入り震えが止まらなかった。そして、近づいてくる嫌というほど慣れ親しんだ戦場の気配に、刀としての本能が疼き出すのだ。
ざらり、ざらり。
本能が理性を削る音がする。早く戦いたい。肉を断ちたい。血に飢えた獣のように息が荒くなってきた。これは刀としての闘争本能か。あれだけ緊張していたのに、いざ戦が始まろうとすると途端に気持ちが昂ぶってくる。さぁ、螺貝を鳴らせ。立ち塞がるモノは、何であろうとこの刀で斬ってやる。だから、一匹でも多く敵を俺に回せ。
(俺を前に出せ……俺が切り拓く……すべて、俺が……おかしいな……?)
――今ならば、『何だって出来る』気がする。
「……偽物くん?」
様子のおかしい国広に、長義が聞こえるか聞こえないか程度の声で呼び掛ける。反応はなかった。意識を集中していたからとか、そんな理由でなく。今の国広は我を失っているように見えた。作り物のように無機質な表情を浮かべる相貌に、今までの彼とは別物になってしまったみたいで、長義の背筋に冷たいものが走る。
「国広、お前……」
「総員、前へ!」
おおおおおおお! 雄叫びを上げながら、ついに神々は西の霊山『御嶽山』へと侵攻を開始した。今は桜の映える春真っ盛り。されど山祇が堕ちた影響か。御嶽山の木々は花どころか葉すら抜け落ち、枯れ枝を晒す凄惨な骸で溢れていて。その山全体を覆う異様な雰囲気に、一歩境界内へ足を踏み入れた二振りのこめかみには、嫌な汗が滲んだ。
「はぁぁあ!」
ザシュッ。
暗がりから湧いて出てきた妖たちを、国広は一太刀で斬り伏せてゆく。身体が羽のように軽かった。重力を感じず、思うがままに本体を振るい続ける。返り血に染められた刀身は赤く輝き、月に照らされた闇夜の中に数多の流星を描いた。
「ぁあっ……ふ、ははっ」
いつの間にか国広の顔には笑みが浮かんでいた。
楽しい、楽しい。
荒ぶる戦神の如く。猛る武神の如く。肉を斬り、骨を断つ。あれほど自身に絡み付いていた鉛のような重圧は、今や見る影もない。
「国広! 待て! くにひろ!」
「ハハ……」
何も聞こえない。誰の声も、誰の悲鳴も。感じるのは刀身が裂く肉の感触と、燃えてしまいそうな熱さだけ。そのまま身を任せてしまえば良い、と誰かが囁いた。己が思うがままに進めば良い、と。その声は、確かに自分と同じモノであるはずなのに、自分のものではないみたいに気位の高さが透けて見えて、気紛れで、どこまでも神らしい声だった。
「行くな! 国広!」
「はぁ……はぁっ……何故止める?」
こんなに楽しいのに。
視界に飛び込んでくる敵を次々と殲滅してゆく。ただ、斬ること以外何も考えられなかった。もっと、もっと強い敵が欲しい。己の力をすべて注いでも尚余りある強さの。何処にいる。自分は何を求めている? 誰を探している?
「やま……つみ……」
そうだ、山祇だ。神堕ちした哀れな大妖。あれならば、きっと国広の力を思う存分振るえるはず。そう簡単には壊れないに違いない。
「国広、戻ってこい! そのままいけば帰れなくなるぞ!」
帰る、何処に?
(本丸……主の下に……)
衝動に呑まれ、自分で自分がわからなくなっていた。己という存在の軸を見失いつつある。しかし長義に言われ、少し頭が冷えた。何をしていたのだろう、自分は。あの異常なまでの高揚感が急速に遠ざかっていって、国広はようやく我に返る。これはまずい、となけなしの自制心が働き始めたその時だった。
ドゴォッ!
突然、大地を揺るがすほどの轟音が山頂付近から伝わってきた。瞬間、国広はその音が発せられた場所目掛けて、弾かれたように走り出す。
「国広……っ! クソッ!」
慌てて長義も後を追うが、国広の方が遥かに速く思うように追いつけない。これも神霊化の影響かと舌打ちをする。
「山祇を見つけたぞォ!」
「躊躇うな! 射て! 射てぇーい!」
国広がその場に駆け付けたときには、討伐部隊は悠に十メートルはあろうかという大きさの巨大な狐と戦っていた。
大きさの割にすばしっこい九尾の狐は、木々を薙ぎ倒しながらあちこち駆け回り、隙あらば鋭い爪で敵を引き裂き、九つに裂けた尾で自らを取り囲む者たちを弾き飛ばしていく。最早完全に自我を失い、野生の獣と化したようだ。己の領分である山の中を、狂ったように暴れ回っていた。
近づくことすらままならない現状に神たちは焦れる一方で、大半の者たちは九尾から距離を取り、術による遠距離攻撃へと移行していた。だが、相手は元神。術の耐性もそれなりにあるようで、その効果は芳しくない。前線では物理攻撃を得意とする雷神たちが剣やら弓やらで奮闘しているが、それも長丁場に成る程先程のように蹴散らされ、このままでは形勢が不利になるのは目に見えていた。ここにきて打つ手無し。正真正銘崖っぷちの危機である。防戦一方に追い込まれた雷神たちは必死に思考を巡らせた。何か、他に手はないものか……。
「我々では相性が悪いか……!」
腰まで伸びた黒髪を振り乱し、女神が苦々しく言う。
「逸話持ちの刀はどうした! 早くここへ呼ばぬか!」
「ぐっ……ガァアッ!」
「鳴神!」
不意を突かれ背後から尾で殴られた雷神が、視認出来なく成る程遠くに飛ばされていった。残る神たちは皆満身創痍だ。皆何処かしら怪我をしており、息が上がっている。
「くそっ……何故これほどまで……」
「あの瘴気の濃さ、これはただの神堕ちではないぞ」
「山祇様……ッ一体誰がこのような惨いことを……!」
その言葉を聞いて国広は気がついた。山祇がやたらと苦しがっていることに。
『グガァァァアアアッ!』
じゃらじゃら、と。黒く染まった身体にぐるりと絡みつく、赤い鎖のような刻印。後ろ足から首まで伸びる呪縛の痕跡から、身の内に留めきれなくなったどす黒い瘴気が、噴き出すようにして漏れ出ている。その様に既視感を覚えた。原形を辛うじて留めているだけの影のような身体、酷く苦しそうに戦う宿敵の咆哮、瞳の奥にギラつく赤い血のような怨念の光。
「時間遡行軍……ッ」
山祇のそれは、奴らとまったく同じだったのだ。そこまで思い至って、愕然とする。一体何故、よりにもよって神が、こんなことに……。
「っ、よくも……」
砂利混じりの土を踏みしめる。九尾の背後に回り込み、高々と跳躍し空中で体勢を整えた。月を両断するように振り上げた『山姥切国広』を握る両の手に、ありったけの力を籠める。
「斬る……っ!」
捉えた、と確信した。
山祇がもがき苦しんでいる間に晒されていたその首を。このまま振り下ろしたなら一息に断つことが出来るだろう。そう思っていた。そしてその確信は間違っていなかったはずだった、それなのに――。
キィンッ!
「なっ……!」
「させないよ……! 偽物くん!」
視界の外から突然現れた長義によって、その刃は防がれた。全力の一太刀を受け止められた反動で、両手がジン、と痺れる。予想外の事に国広の集中に乱れが生じた直後、脇腹を強打され森の中へと吹っ飛ばされた。咄嗟のことだったので受け身が取れず、無防備に地面に叩きつけられた国広は、数メートルほど地面を転がった衝撃で一瞬意識を飛ばしかける。
「……なぜだ、長義!」
頭を振り、ブラックアウトしそうになった意識をギリギリ繋ぎ止める。あと少しだったのに。まさかの味方からの妨害に、激しく憤慨した。
「お前にはあれを殺させない」
「何を、」
「そこで黙って見ていろ」
「そんなことを言われて納得するわけがないだろう……っ⁉」
あまりに身勝手な言い分に、思わず長義に掴みかかる。面に隠された、神経を逆撫する飄々とした顔を見て、ますます怒りが爆発するのを自覚した。怒りに任せて男の面を払い落とすも、長義は眉一つ動かすことなく。国広からもたらされる無体を静かに甘受する。そんな、余裕ぶっている態度の一つ一つがまた癪に障った。
彼の言っていることの意味がわからなかった。そこで黙って見ていろだなんて。山祇を討伐するのが国広たちの役目であるのに、どうしてそれを阻むのか。これは立派な裏切り行為ではないか。せっかくの好機をふいにされた怒りと、裏切られたことへの失望とで、心はもう滅茶苦茶だ。泣きたいんだか殴りたいんだかわからない気持ちを抱えて、国広は目の前で未だ己を静観し続けるだけの男を一方的になじる。
「どういうことだ……! 言え! 長義……!」
襟ぐりを掴んだ左手は力を入れ過ぎて真っ白になってしまっている。何か言い訳があるなら言ってみろ。この男のことだ、きっと何か理由あってのことなのだろう。このまま激情に任せて長義を責め立ててしまいたい自分と、あくまで彼を信じたい自分がいて、縋るような思いで男の言葉を待った。
しかし、男から返されたのは、冷淡な一言で。
「二度言わせるな。お前はそこで見ているだけでいい。あれは俺が殺る。……邪魔立てするならお前も斬る」
「……まっ」
血飛沫が上がった。
がくり、と糸が切れたように右膝が折れ、地面に倒れる。唖然と己の下半身に目をやった国広は、そこで初めて己の右足首が斬られたのを知覚した。すっぱりとした綺麗な切り口に躊躇いは感じられず、初めから男がそうするつもりであったことがひしひしと伝わってくる。
「ちょ、うぎ……?」
「足の腱を切った」
「え……?」
「もう立てまい。俺が片付けてくるから、お前はそこで寝ていろ」
そう言ったきり、長義がこちらに背を向ける。
涙は出なかった。あまりのことに理解が追いつかなくて。
猛スピードで離れていく銀髪の付喪神が天高く舞い上がり、先の国広と同じように刀を構えたのを見た。そして切っ尖から放たれる、美しい一閃。滑らかな鈍色に月光が反射する。途端に噴き出す鮮血の花。地獄から這い出てきたような獣の慟哭が、何も出来ぬまま地べたに転がるだけの、無力な己の心と共鳴した。
ズシンという重量感のある音と共に九尾が倒れ伏す。最早形を保っていられなくなった瘴気は、霞の如く空気中に溶けて消えゆき、すべてが終わった後には何も残らなかった。
「なぜ、だ……ちょう……ぎ……」
神々の歓声に湧く戦場の中で、一人どん底に落ちていく心境を味わいながら。どくどくと流れ出る血の量に耐え切れず、ひっそりと。木陰に身を潜めた国広は意識を失った。
*
花の匂いがする。甘やかで、清らかで、春を思わせる桜の香りが。
「ん……」
意識が浮上し瞼を開ける。光の差し込む方へと緩慢に首を動かし、すぐに後悔した。闇に慣れたこの目には、麗らかな春の日差しはあまりにも眩しかったからだ。
目を刺すような陽光の明るさに、反射的にぎゅっと目を瞑る。少し心に余裕が出てきて外界へ意識を向けると、枝葉の擦れる微かな音が穏やかに鼓膜を震わせた。再び顔の向きを元に戻し、呆然と天井を見上げる。
「……」
見覚えのある木目の染みは、本丸にある国広の自室のものか。だとしたらいつの間に帰ってきたのだろう。夢うつつの心地でゆるゆると思考を巡らせていると、徐々に意識が暗転するまでの出来事が思い出されてきた。
『そこで黙って見ていろ』
冷え冷えとした瑠璃玉が、光を失った翡翠を射抜く。
『あれは俺が殺る。……邪魔立てするならお前も斬る』
次の瞬間、糸が切れたように感覚を失う右足。繰り返し再生されるのは無様に倒れ込む己の醜態と、艶やかに宙を舞う銀色で。
(長義……なぜ……)
記憶が鮮明になるほど増していく胸の痛みに、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
「起きたのか」
止まることを知らぬ記憶の奔流に終止符を打ったのは、凜とした女の声だった。
「……っ」
いつの間に入ってきたのだろう。国広が横たえられた布団の傍に、主が座している。慌てて上体を起こそうとするも、脱力しきった身体はまるで自分のものではないかのように力が入らず。また、他ならぬ主に「寝ておけ」と制されてしまったことで、国広は渋々起き上がることを諦めた。
「ある、じ……?」
「痛むところはないか?」
「あぁ……」
こちらを覗き込む海神の顔は、なんだかやつれて見える。
「……すまない、手間をかけさせた」
「よいよい、あのようなこと瑣末ごとよ」
手入れをしてくれたのだろう。傷が深く千切れかけていた右足首も、地面に叩きつけられた衝撃で折れたのだろう肋骨も、今はすっかり元通りに治癒されていた。素直に礼を言えば、涼しい顔で流される。
「俺は……一体……」
「山祇は討たれたと聞いた。ご苦労であったな」
「あぁ……」
討伐終了後、七日ほど眠っていたのだと、審神者は教えてくれた。手入れを終え、自室にて療養している間、国広は一度も目覚めぬばかりか寝返り一つ打たずに、昏々と眠り続けていたのだと言う。身体の傷はそこまでのものではなかったが、如何せん神核の部分が酷く損傷していたらしく。それが原因で昏睡状態に陥ったのではないかというのが、海神の見立てであった。
神核の損傷。
必死の形相で「行くな」と引き止めた長義のことを思い出す。山祇討伐作戦の日の晩、国広は明らかに何処かおかしかった。身体が異様に軽くて、これまでにないほど力が漲って、元々そこまで好戦的なわけではないにもかかわらず、戦の匂いに堪らなく興奮して……山姥切国広という刀が別の何かになってしまったような、そんなおぞましい感覚に囚われた。
(あれは何だったんだ……あんなの、まるで……)
そこで、ふと。脳裏に青瑠璃の持ち主が浮かぶ。そうだ、あいつはどうした。国広にここまで手酷い傷を負わせておきながら、見舞いどころか謝罪も何もなしとは。一言も二言も三言も文句を言わねば気が済まない。
「……長義……そうだ、長義はどうした。あいつ、よくも俺の足を……っ」
「落ち着け、身体に障る……ここに山姥切長義はいない」
「いない?」
予期せぬ返答に固まる。
どういうことだ。国広と一緒に帰還したのではなかったのか。ここにいないということは、出陣か何かで本丸を空けているのだろうか。それとも、まさかとは思うが仲間に手をかけたことを咎められ、刀解処分になったのでは――。
「奴は刀解などされとらん」
放っておけば悪い方に向かいがちな国広の思考など、すべてお見通しとばかりに、ぴしゃりと言い切られる。では何故、あれはここにいないのか。無意識のうちにあの男の気配を辿ろうと、国広の意識が部屋の外へと逸れ――そこで、妙な違和感を抱いた。
「……?」
一瞬、自分の感知能力がバカになったのかと疑った。何故ならこの本丸内には、国広と審神者以外の気配が一つも感じられなかったからだ。長義がいないどころか、あれだけ居たはずの刀剣男士たちの気配が軒並み消えている。その異常な現状に気づくと同時に、国広の顔からみるみるうちに血の気が引いていった。嫌な予感が胸を過ぎる。言いようのない不穏な何かが、己の預かり知らぬところで着実に背後へと迫っている。気づいたところで二度と取り戻せない。そんな、予感が。
「どういうことだ……これは、いったい……」
「この本丸にはもうお前しか残っていない」
「……っ」
「他の刀たちは、皆顕現を解いた」
「な、ぜ……」
薄々察してはいたものの、改めて現実を突きつけられ絶句する。
言葉が出なかった。口煩い歌仙も、唯一甘えを見せることが出来た兄弟刀たちも、見るだけで癒やされた短刀たちも……個性の強い刀たちのすべてが、もう既にここにはいない。一人現世へ取り残されたことへの絶望と、そんなことも知らず呑気に眠りこけていた己自身の不甲斐なさ。それから、彼らの最期に立ち会わせてもらえなかったことへの悔しさと憤りで、発狂しそうになる。辛うじて正気を保てているのは、偏に目の前にいる主が、毅然とした態度で国広に接してくれていたからだった。これで彼女が少しでも取り乱した素振りでも見せようものなら、きっと国広も冷静ではいられなかっただろう。
それにしても、と思う。刀剣男士としての性か。荒れ狂う嵐にも負けぬ己の不安定さよりも、平然としたように見せかけている彼女の、その顔色の悪さがどうにも気になる。
「お前もそんな顔が出来たのだな……もっと感情に乏しい奴かと思っておった」
「……俺もびっくりだ。なぁ主、」
「私はじきに堕ちる」
これまた国広の思考を読んだような、容赦のない一言。まんまと心を揺さぶられる。海神の視線が、開け放たれた障子の向こう側へと移った。慈愛に満ちたその目は、堕ちかけている神が見せるものではない。
「もう、お主たちを顕現する力さえ……私には残されていないのだ」
話をしよう、と。審神者が続けた。
風が吹き、薄紅色の花弁が舞い上がる。海神がつい、と右手を挙げただけで日は傾き、あっという間に夜となった。「夜桜もまた、粋なものよ」と庭先に広がる趣景を前に、満足げに笑む姿が、今にも消えてしまいそうなほどに儚い。
本丸の頭上に広がる水面の動きに合わせ、ゆらゆらと揺れる月明かりが、中庭に植えられた桜の木に漣を映し出す。本丸を取り囲む瑠璃に染められ、遥か昔から見知っていた馴染みのある桜色が、闇夜に青白く浮かび上がる様は、ゾッとするほど美しかった。この世のものとは思えない絶景を楽しむのが、たった二人ぽっちであるのはもったいない、そう思えるくらいに。
「お前の本科が何処へ行ったのか、知りたいか?」
ひくり。
未だ身体の自由が利かぬ国広の指先が、小さく震える。
「……顕現を解かれたのでは」
「あれは私の刀ではない。流石に他人の所有物を、私の一存で放つことは出来んよ」
お前も知っていただろう? 透き通った水縹の瞳が、心の内に秘めたものすべてを暴かんと見つめてくる。言葉に詰まった。事実、彼がこの本丸の刀ではないことを、国広は知っていた。だが、長義との関係を壊したくないがために、見て見ぬ振りをしてきたのもまた事実だった。そのことが審神者に筒抜けだったと知って、居心地の悪さを覚える。それに、聡明なこの神のことだ。そこまで知られているのなら、今まで何も知らされていなかった国広が初期刀としてのプライドを傷つけられたことも、長義に向けた想いと疑心暗鬼の狭間で一人悶々と葛藤していたことも、すべて悟られていたに違いなかった。
まったく人が悪い。否、彼女は人ではなく神であるのだが。
「山姥切長義は、」
静かに、目を瞑る。閉じた瞼の裏側で、美しい男が国広を嘲笑った。不細工なツラだね偽物くん、なんて揶揄が今にも聞こえてくるような気さえする。
(……さびしい)
そう、寂しかった。傍にいろといったのはあいつなのに。あっさり国広を置いていくとはどういう了見だ。今すぐ奴の胸ぐらを掴んで、一発殴ってやりたい。置いていくなと、離れないでくれと、みっともなく縋ってしまいたい。だがそんな無様な懇願だって、あれがいないことには話にならないのだ。
帰ってきて欲しい、国広の気が触れる前に。せめて最後に一目だけでいいから会いたい。そして触れさせて欲しい。長義の温度をこの身に刻み付けたい。それが叶ったなら、後生大事にこの想いを抱えて、本霊の下へ還るから。だから、長義。
「此度の勲を讃え、褒美として神々に座を用意された。そして神格化の条件を満たしたが故に、天に召し上げられた」
(俺の手が届かないところへ、行かないでくれ)
記憶に焼き付いて離れない、何処かで見た赤い、赤い彼岸花。恒久に変わることのない黄昏時の茜色。生から切り離された不変の空間に、閉じ込められることの恐ろしさといったら。少し記憶を掘り返しただけで震えが止まらなくなる。
あんな場所に、彼は召し上げられたのか。気が狂いそうになるほどの孤独に耐えながら。今も、一人で。
「そん、な……」
(そんな、ことって……)
あぁ、彼は前に言っていなかったか。
『この本丸の刀たちは異常だ。お前たちにはその自覚はないんだろうが……神格の高い海神である審神者の影響を強く受けて、急速に神気が高まっていっている。最年長で縁の強い初期刀など、その最たる例だ』
忌ま忌ましそうに吐き捨てた彼の顔が、今でも鮮明に思い出せる。
『神に寄ることは悪ではない。許容範囲内ならばな。だが、お前は枠を外れかけている。お前は審神者と一番縁が深く、間近で長い間彼女の神気を浴びていた。よって今のお前は独立した一柱の神として完成しかけていると言っていい』
やっと理解した。山祇討伐の時のあの昂ぶり。あれは、国広が一線を越えようとしていたことの現れだ。それを長義が必死に引き戻そうとしてくれていたのだ。
あと一歩で付喪神としての枠組みを外れようとしていた己が、あのまま逸話にない神殺しという大罪を犯したなら。ましてやあの場には、国広が神殺しをしたことを証明する生き証人たちで溢れ返っていた。この身に染みついた審神者の神気に加え、新たに神々の記憶へ刻まれるであろう神殺しの逸話。そんな特大級の爆弾をまともに食らって、己の核を歪めずにいられることなどありえない。
あのまま山祇を殺していれば、国広は山姥切国広ではない「何か」と成り果てていたであろう。
「長義は言っていたよ。お前に山祇を斬らせてはならないと。本来ならお主とアレは、前線に立つことなく討伐部隊の後方支援に徹する手筈であった。……だが予想以上に神々が山祇に手こずったのと、お主の神核の暴走騒動で、そうも言っていられなくなってな」
「……待ってくれ、主」
聞きたくない。だとしたら、あの男は、
「……アレは、お主の代わりに山祇を斬った」
やめてくれ。
「お主を守るためにすべての泥を被った」
「……やめろ!」
「お前の身代わりに、長義は完全なる神となったのだ」
ボフンッと音を立てて、布団の上に何かを落とされた。次いで何やら術を掛けられ、途端に身体に付き纏っていた怠さがなくなる。それまでの不自由さが嘘のようだ。
「立て、国広の。その刀を拾え」
ドクン。
掛布の下に隠された足の上に置かれた本体に、目が釘付けになる。心なしか息が荒くなり、脂汗が滲む。どうしてか、この刀を手に取ってはいけないと、ひっきりなしに警鐘が鳴り響いていた。紛れもなくこれは自分自身であるはずなのに、今はその玉鋼の冷たさが怖くて堪らない。
「長義に会いたいか?」
答えは是。
しかし、それを言うことは躊躇われる。刀剣男士としての理性が、暴れ狂う本能を抑えつける。
「主、ダメだ」
やっとのことで絞り出した声は掠れていた。憔悴しきっていたともいっていい。嘗てないほどに、国広が出した声は弱々しいものだった。
「あやつに会う方法が、一つだけある」
「ダメだ」
「お前もまた条件を満たせばよい。あれと同じように天に見染められるのだ。なに、生き証人なら鳴神を呼んである。あんな奴でも、水先案内人には事足りよう」
「あるじっ!」
「斬るべき頸なら、ここにある」
その時、嫌というほど覚えのある禍々しい気配が濃くなった。審神者が床につくほど伸ばされた白髪をざっくり切り落とすと、その下から白い首筋が露わになる。そこにはなんと、あの日見た痛々しい鎖の呪痕が、白い肌に焼きつくようにしてぐるりと巻き付いていた。
「『山姥切国広』、最後の命を申し渡す」
「いやだ!」
涙を流しながら一心不乱に頭を振った。聞きたくない。聞いてはいけない。それだけは絶対にしたくない。審神者が国広に何を求めているのか、命じようとしているのかを、国広は本能に近い部分で察してしまっていた。だからこそ、頑なに拒否をする。たとえ海神の成そうとしていることが正しかろうと、それが国広の望みを叶える結果となるのだろうと、彼女が己に投げようとしている言ノ葉は、心が引き裂かれるように痛むものに違いなかったから。
「海神・蛟を、完全に堕ちきる前に――斬れ!」
「――っ!」
真名を縛っての言霊。配下に下った刀剣男士には到底逆らえない強烈な呪。ふらふらと立ち上がった国広は、布団の上に置かれた本体を手に取ると、利き手になじませるように柄を何度か握り締めた。カチッという鯉口を切る乾いた音が、張り詰めた空気の中で重々しく響く。
「あ、ああ、あああああ!」
嫌だ、やめろ、と心の中で叫んだところで、無駄なこと。
無駄のない流麗な一太刀は、じっとその瞬間を待っていた海神の頸を、寸分違わず正確に捉え迷いなく断ち切った。
スパンッ!
「……見事」
流石は、私の初期刀。
そう言い残して、審神者の身体は瘴気混じりの金の光となって消えた。その場に残ったのは、彼女が纏っていた白い着物と、唖然と長年連れ添った主を見送る哀れな初期刀。そして、その一連の様を見届けた生き証人だけ。
「……蛟、その最期、確かにこの鳴神が見届けた」
「……ぁ、あ」
「そこな付喪神、選べ。このまま顕現を解かれ在るべき場所へ還るか、それとも俺たちの下へ登るか」
さぁ、選べ。
(そんな……もの……)
選択肢など、あってないようなものだった。