One Night Love
カウンター裏に所狭しと並べられた酒の瓶。世界中から集められたラベルはスタンダードなものから年代物の希少酒まで混在し、ある種の世界地図を描いている。
この、ありとあらゆる酒という酒を網羅した豊富な品揃えこそ、国広が好むバー《SG》の売りであった。何と言ってもウイスキーに目がないオーナーのイチオシは、一体どこで知り合ったのか、とあるアメリカの資産家から譲ってもらったという無銘のスコッチウイスキーらしい。何故かラベルが剥がされていたため断定は出来ないのだが。味や香りの特徴的にベン・ネヴィス六十三年ものではないかとのことである。勿論、ラベルがないためこれは売り物として表には出していない。
まぁ、ウイスキーは守備範囲外でもっぱら日本の吟醸酒を好む国広に、その価値の高さは今ひとつピンとこなかったので。表に出ていようと出ていまいとそれほど惜しくはないのだけれど。その話を聞く度に悔しそうな顔をする常連たちの姿を見ていると、それだけ価値のあるものなのだろうなと漠然と思うのだった。
「兼さーん!」
ぼんやりとバックバーを眺めていると、隣に座った兄がカウンターでグラスを磨いている男に声を掛けた。兼さんというのはその本名を和泉守兼定といい、兄の親友であり相棒で、一日に一度は兄との会話の中で話題に上がってくるほどの近しい人物である。とはいえ国広と和泉守自体はそれほど親しいわけではなく、兄に連れられて和泉守がバイトしているこの店に来る時のみ、少しだけ言葉を交わす程度の仲だった。
「おー、国広! 来てたのか」
和泉守が兄の名を呼ぶ。
国広と兄は二人共名を国広という。また、正真正銘血の繋がった兄弟であるものの母親が異なり、苗字が違った。兄の姓は堀川で、国広は山姥切。国広の生まれた家は少し特殊で、そこで産まれた子どもたちの名には父親と同じ名前を、性は母方のものをそれぞれ受け継ぐという、一風変わった習わしが存在する。これは日本刀の銘打ちを基に定められた風習であるとか、後継争いが起こらぬよう正妻と妾の子の扱いを差別化するためだとかなんとか教えられたが、本当のところは何故そんな独自ルールが存在するのかは誰もわかっていない。
確かなのは堀川の名を継ぐものが次期当主になるということだけだ。ということで、山姥切の姓を持つ国広には、後継云々の話は昔から関係ないものだった。
「今日は珍しくオフだったからね。兼さんがちゃんと仕事してるか見守ろうと思って」
「ばっか、ちゃんとやってるっての。お前こそこんなとこで油売ってて、由緒正しき剣術流派のお家元の……しかも次期当主が大会で負けたら洒落になんねぇぞ。つか、お前んちがうるせぇだろ」
よ、弟くん。
兄からこちらに視線を移した和泉守が、軽く右手を挙げる。それに小さく頭を下げて、軽く挨拶した。今の国広は黒いパーカーのフードを頭からズッポリ被っていて、なるべく顔を外に晒さないようにしている。しかし、そんな不審者極まりない国広の姿も、和泉守たちにとっては見慣れたもので。彼らが国広の格好について深く突っ込むことはなかった。
「山姥切も大会近いんだろ? こいつの無茶振りに律儀に付き合う必要はねぇからな」
「いいんだよ、兄弟のことは! 兄弟は普段から根を詰め過ぎなんだから。偶には休養しないと」
む、と不満げに口を尖らせた堀川が、和泉守を睨む。睨まれた当の本人は苦笑し、お前も大変だな、と軽い調子で労った。何か言わなければと思ったが、元々口下手で気の利いたことを言える性分でもなし。今思ったことをそのまま口にする。
「……竹刀を握っていないのは落ち着かない」
「ほら見ろ。自主練したがってんじゃねーか」
「兄弟、ダメだよ! この前腰に違和感があるって言ってたでしょ。大会前なんだし、故障には気をつけないと……」
「ほれ、いつものな」
そんな三人の会話に割って入ってきたのは、制服の白いシャツを胸元まで開いた、ガタイの良い色男だ。毛先に向けて黒から金色にグラデーションの掛かった派手な髪色や、着崩された制服、さらには本人から垂れ流される色香もあり、一見軟派に見える男であるが、その実勤務態度が至って真面目なことを常連たちは知っている。オーナーの親族なのだというその店員は、両手に持ったグラスを国広と堀川それぞれの前に置くと、簡単にカクテルの説明をし始めた。
「堀川のはハイランドクーラー。砂糖は少し多目にしてある。山姥切のは日本酒ベースのカクテル。前も飲んだことあるだろ? ファンタスティック・レマンってやつだ」
ブルーキュラソーの鮮やかな青が映えたカクテルが、目の前で揺れている。堀川は甘酸っぱい味のものを好み、国広は甘さは控えめでスキッとした後味のものを好む。そこらへんの好みを良く知る男は、いつも元のレシピに少しだけアレンジを加えて酒を提供してくれた。
「長曽祢さん、ありがとう」
「いいってことよ。つまみはミックスナッツでいいか?」
「はい!」
「んじゃ、ごゆっくり。あぁ、和泉守はゴミ出し行ってきてくれ。今日は多くてな」
「へいへーい」
そこから暫くは堀川と一緒に、ナッツをつまみながら酒の味を楽しんだ。途中始まったジャズバンドの生演奏は、先週のピアノ演奏に引けを取らず雰囲気の良いもので、時折会話が止まっては心地良い音に聴き入った。そんなことを幾度か繰り返しつつ時間を過ごしていると、おもむろに堀川が立ち上がり、コソコソと耳打ちしてくる。
「僕、ちょっとお手洗いに行ってくるね」
「あぁ」
荷物台に置かれた堀川のショルダーバッグを、それまで彼が座っていた椅子の上に置いておく。事情を知らない者が隣に座らないようにするための対策だ。また、国広に声を掛けてくる物好きな女たちに対しての予防線でもある。このような酒を扱う店では、皆アルコールが入って気が大きくなりがちで、偶にしつこい逆ナンに遭うことがあった。その回数が両手両足の指の数を超えたあたりから、国広は己で出来うる限りの女対策をしている。パーカーのフードで己の容姿を隠しているのもそのためだ。
自分では特になんとも思ったことはないのだが。国広の持つ日本人離れした金の髪と、真夏の緑葉を閉じ込めたかの如き鮮やかな碧色の瞳は、剣道で鍛え抜かれバランスのとれた若々しい躯体も相まって、女たちに堪らなく魅力的に映るらしい。その煩わしさといったら。いっそ不細工な顔に整形してやろうか、なんて全世界の女を泣かせ、男たちを敵に回し兼ねないことを思いつくほどで。最近では女に姿を見られるだけでイライラしてくる始末だった。
「やあ。隣、いいかな?」
今日はやけに堀川の帰りが遅いな、と。あまりの遅さに首を捻り始めた時だった。国広の左側から、若い男の声で話し掛けられた。
「……どうぞ」
「ありがとう」
慣れたように席についた男が、数席離れたところで客と談笑していたバーテンを呼びつけ、オーダーを通す。フードに遮られた狭い視界の片隅で捉えた男の腕には、高そうな腕時計がこれ見よがしに付けられていて、男がそれなりに裕福な立場にある人間であることが伺えた。
「……」
「突然すまないね」
唐突に男が謝った。国広の訝しげな視線に気づいたのかも知れない。何となく気まずいものを抱えながら小さく頷くと、クスクスと控えめに笑った男が言葉を続ける。
「一人酒はつまらないだろう? 誰か話し相手が欲しくて」
「それなら他を当たった方がいい。俺はあまり会話が得意じゃないからな……」
「いや、君がいい。だって面白いじゃないか。その不審者っぽい格好とか……それでよく出禁にならないね?」
ズケズケと人の気にしているところに土足で踏み込んでくる男に、必然国広の眉根が寄る。何だこいつ。早く堀川が帰ってきたらいいのに。逆ナンよりも面倒そうなのに捕まってしまった、と舌打ちしそうになるのを、寸でのところで耐えた。だが、そんな国広の心中などお見通しと言わんばかりに、男が再び楽しげに笑う。
「なんで初対面のあんたにそんなことを言われなければならないんだ。放っておいてくれ」
流石に腹が立ち国広は隣の男を睨んだ。
が、それがまずかった。
「へぇ……綺麗な色の目をしてるじゃないか。隠しておくのが勿体ない」
ぱさり、という乾いた音と同時に、視界が広がった。フードを取り去られたのだと判断し、衝動的に横を向く。国広の地雷を踏み抜いた男の発言や行動にいい加減我慢の限界で、一言二言文句を言ってやろうと男の姿を見た――のが、運の尽きだった。
直後、国広の身体は石化したかのように固まる。
「……っ」
時が止まる。緩やかに流れていた音楽が途切れ、周りの声が聞こえなくなった。温かみのあるオレンジ色の光が手元のグラスに反射し、ちらちらと揺れる。
目に飛び込んできた男の顔はとてつもなく美しかった。国広の色彩とは真逆の銀色の髪に、海とも空とも言い難い深い青色の瞳。薄い唇が形作る貼り付けたような笑みは、己の魅せ方を熟知している者が浮かべるそれで。冷たい印象を受ける反面、強く意識を惹きつけられた。しかしその一方で、まるで見目のいい人形が無理矢理表情を作っているような猛烈な違和感を覚え、その薄気味悪さから本能的な恐怖を覚える。
「あぁ、やっぱり美しい。とても綺麗だ」
この男に関わってはいけない。
いつもなら「綺麗とか言うな」と反射的に突っかかる己が、この時ばかりは何も言葉を発することが出来なかった。
「あんた……」
「お待たせ致しました。『春の雪』でございます」
こちら清酒をベースにジンを加え、さらにグリーンティーリキュールを……と説明を始める店員の声が頭に入らない。
「これは、君に」
――まるで君の瞳の色のようだろう?
と男が怪しく耳元で囁く。ぞわりと悪寒が背筋を走り、トイレに向かったまま帰らない堀川のことを思った。
誰でもいいから、助けてくれ。
矜持も何もかもをかなぐり捨てて叫ぶ国広の願いは、しかし男によって呆気なく一刀両断される。
「そういえば、君の連れ。トイレの前でバイトくんと随分と楽しそうに話し込んでたよ。ほら、あそこ」
「え……」
男が視線で示したトイレのある方を見ると、そこでは和泉守と堀川が何やら楽しそうに話をしている。あの調子ではまだ彼がこちらに帰ってくることはなさそうだ。何だか裏切られた気持ちになって、国広は内心頭を抱えた。
「だからさ……ね? 俺たちは俺たちで楽しもうじゃないか」
男に勧められるがままに、差し出された酒に口をつける。
緊張もあったのだろう。口当たりのいい国広好みな酒の味に、二口、三口、とどんどんピッチが上がっていった。途中男の手が腰に回されたのはわかったが、酔いの回った頭は男からの接触を拒むだけの判断力を残しておらず、その後の近過ぎる距離感も何もかもを受け入れてしまう。
そして、グラスに残った最後の一口を飲み干した後、国広の意識は完全に途絶えた。
連れが酔い潰れたので連れて帰るという男の弁解を聞いたのは、運が悪いことに新人のバーテンで。そのまま静かに店を後にした二人を引き止める者は、誰もいなかった。
*
「ん……」
ちらちら、と眩しさを感じて、それまで沈み込んでいた意識が浮上した。微睡みの中で薄目を開くと、視界の端で白いカーテンが揺れている。はて、ここはどこだろうか。見慣れぬ光景に内心首を捻るも、寝惚けて鈍った思考回路では到底答えに辿り着けそうもない。
(気持ちいいな……)
開け放たれた窓からは、風に乗って仄かな桜の香りが流れ込んできた。いつも稽古をしている道場裏に植わっているそれと同じ匂いだ。一度意識してしまえば最後、妙な安心感に包まれ、覚醒しかけた頭が再び夢現の狭間に落ちていく。カーテンの隙間から差し込む陽の光がぽかぽかと暖かい。横たわるベッドは深く沈み込み国広の身体を優しく受け止め、直接肌に触れる柔らかな枕からは洗い立ての柔軟剤の匂いがした。
「おや、また眠るのかい?」
とにかく、身体が重い。本格的に寝る態勢に入ると、すぐそばから何者かに話しかけられた。誰だ、こんなに気持ちのいい眠りを妨げようとする無粋な奴は。
「あと、ちょっと……」
「これはこれは、随分と寝汚いな。こちらはお前の目覚めをずっと楽しみに待ってやっていたというのに」
目覚めのキスでもしてやろうか?
なんて楽しげな声色で宣われ、それまで半分眠っていた意識が完全に覚醒した。待て、いや、待て。キス、だと。この状況は流石におかしい。俺は今どこに寝かされているんだ? それに話しかけてくる男は誰だ? なんでこんなに近いところから知らない男の声がする?
「はぁ!? ……て、いっ……つ、!」
がばり、ぼふっ。
慌てて上半身を起こそうとして、身体中の激しい痛みに耐えきれず情けなくもベッドへ出戻る。倒れこむ時の間の抜けた音が心底忌ま忌ましかった。
ズキズキと痛む箇所は身体全部。特に下半身の鈍痛が尋常ではない。股関節はストレッチで無理矢理割り開かれた後みたいに筋肉痛になっているし、言葉にはし難いあらぬところは裂けたのではないかと思うほどの鋭い痛みを訴えている。今の自分の身体を言い表すならまさに満身創痍という言葉が相応しい。そこまで冷静に自身の身体の調子を確認した国広は、次の瞬間視線を下ろして驚愕した。
「え、……?」
「はは、どうかしたかな。そんなに慌てて」
「いや、どうって……これ、」
肌に無数の赤黒い痣が散っていた。ご丁寧にも服の上から見える場所は避け、外から見えない場所を重点的に狙ってつけられたそれは、勘違いでなければ、その……キスマークというやつではないだろうか。
「……っ」
今己の置かれた状況を、急激に理解していく。だが、理解したはいいものの完全にキャパオーバーとなった心は、物的証拠の数々を突きつけられても尚、受け止めるべき現実を拒み続けた。
「ま、さか……」
「あぁ、やっと理解した?」
仰向けになった身体の自由は依然として利かない。ならば、と首だけ回して隣を見る。すると、声の主たる年若い男がにやにやと底意地悪い笑みを浮かべて、国広の百面相を眺めていた。
「あ、あんた、……誰だ」
国広の隣に寝転がっていた男は、己と同じ歳くらいの年若い男だった。どこか見覚えがあり記憶を探るも、ズキズキと痛む頭がそれ以上の詮索を許さない。日の光に照らされて透き通るような輝きを湛える銀の糸。前髪のかかる瞳は吸い込まれそうなほどに澄んだ深い蒼だ。国広と同様一切の服を纏っていない姿は、惜しげもなくその白い肌を曝け出しており、首筋の一カ所だけぽつんと赤い花が咲いている。あれはもしや、己がつけたものなのか……? 咄嗟に居た堪れなくなり視線を逸らした。
とにかく、文句のつけようのない美丈夫だ。
「俺? さぁ、誰だろうねぇ」
クスクスと楽しげに笑う声からは、獲物を甚振って楽しんでいるような酷薄さが滲んでいる。
「……はぐらかすな。これは一体どういうことだ」
自分でも聞いたことがないような低い声が出た。のらりくらりと躱す男を掴み上げてやりたい。だが言うことを聞かない身体でそんなことが出来るはずもなく、国広はただ眼光鋭く目の前の男を睨みつけるだけに留まった。
「どういうことって、見たままだけど? お前の粗末な頭ではそんなことも理解できないのかな?」
「さっきからごちゃごちゃと……」
「はいはい。じゃあ、教えてあげるよ」
――セックスした。
「は?」
「俺が突っ込む方で、お前が女役。これでいい?」
「な、……っ!」
身も蓋もない言い方にかぁっと顔が熱くなった。照れのせいではない。自分は男で、つい先日成人を迎えたいい大人だ。生娘でもあるまいに、今更卑猥な言葉の一つや二つで照れるなんてことはない。それでも顔を赤くした理由とは、事が事だというのにあまりにお粗末な男の態度に対しての怒り故だった。
普段は寡黙で感情の起伏の少ない国広だけれど、その実短気で怒りっぽい。そんな彼が怒りの沸点を越えるのはすぐのことで――、
「ふざけるなっ!」
ぶん、と勢いよく右手を振り上げる。そのまま男の頬めがけて一直線に振り下ろされた拳は、しかし男に届く前にあっさり受け止められた。長年剣道で鍛えてきた国広の俊敏性に反応するだなんて。まさか止められるとは思わず、一層警戒心が強くなる。
「急に人に殴りかかるだなんて、手癖が悪いな……」
「……っ」
「これは仕置きが必要、かな?」
男の艶を孕む甘やかな声が耳の中へ直接吹き込まれ、腹の底がぞわぞわした。
「おい、……んっ!」
その直後、躊躇うことなく唇を奪われて目を見開く。
キスをしている。しかも男と。いくら整った顔立ちの美丈夫とはいえ、生憎国広にそっちの趣味はない。抵抗するべくジタバタと痛む両足を叱咤して足掻いてみるも、今度は本格的に身体の上に覆い被さられてしまって、動きを封じられた。まずい。目に見えて国広は焦り始める。このままでは非常にまずい。うぞうぞと怪しく蠢く男の手が菊門をなぞり出し、貞操の危機を感じた。みるみるうちに血の気の失せていく国広を見て、男はうっそりと余裕ぶった笑みを浮かべる。
(掘られる……!)
「ねぇ、なんか勘違いしているようだけど」
ぬるり。固く引き結んだ唇を無理矢理割り開き、男の舌が入ってくる。
「……んぅ、はぁっ、ぁ……げほっ……ひ、ぁ!」
好き勝手国広の口内を舐め回して、男の舌はあっさり引き下がっていった。代わりに指の先が綻んだ穴に突き入れられ、無遠慮に柔い肉壁を押し潰す。痛みは無かった。というより、全身が痛くて痛覚が麻痺していた。そして、最悪なことに使われた形跡の残るそこはローション塗れで、必死に拒絶する心を嘲笑うかのように、ぬるぬると男の指を食んでいる。己の身体のことなのに卒倒しそうになった。まるで尻の穴だけが別の生き物のようだ。
「お前、昨日ノリノリだったんだよ?」
「そんなわけがないだろう!」
ちゅぽ、という悍ましい音がして、男の指が中から出ていく。
嵐のように過ぎ去った怒濤の責め苦から解放され、放心状態になっていると、男からさらなる爆弾を落とされて憤慨した。ノリノリって、んなわけがないだろう。嘘を吐くならもっとマシな嘘をつけ。生理的な涙を浮かべたままギロリと睨みつければ、はぁっとこれみよがしにため息を吐いた男がわざとらしく肩を竦める。いちいち態度が鼻につく奴だ。きっちり落とし前をつけさせたら二度と俺の前に顔を見せないと絶対に約束させてや……。
『あっ! ん、やァ……ッ!』
はぁ?
突然再生されたAV顔負けの喘ぎ声に国広は固まる。こんな時に何でそんなものを再生したのか。突然のことに不意を突かれた国広はしかし、その喘ぎ声がどこか聞き覚えのある声であることに気づき、目の前が真っ暗になった。
『いや、じゃない……だろ?』
『はぅっ……! やめ、も、無理、だからァ!』
『そら、もっと奥を突いてやろう。はぁ……っ、ん、いいね。よく締まってるじゃないか』
『ん~……! 気持ちいいっ、あ、は、ァアッ、気持ちいいから、ダメ、だめぇ!』
ぐちゅぐちゅ、ぱちゅぱちゅ、というノイズ混じりの生々しい水音が、短い間隔で断続的に響き渡る。何というか、すごく激しい。
『……どうしてほしい?』
『ちょうだい、奥にいっぱい……あっ、あ!』
悩ましげな声を上げて喘ぎ声の主が達したのが伝わってくる。顔を上げられなかった。顔を上げたら、この如何わしい音声を再生している端末に映る動画まで直視することになる。己の勘が頻りに告げていた。その動画は絶対に見てはいけないと。だって、きっと、その動画の中で身体を重ねているのは……。
「見ろよ」
「ひ、」
どうにかしてこのまま見ない振りを貫きたかったのに、現実はそう甘くはないらしい。顎を掴まれ無理矢理顔を上げさせられ、眼前に突き出された端末をついに目の当たりにした。
掌サイズの画面の中で熱烈に絡み合っていたのは、予想通り国広と目の前の男だった。二人はどちらのものとも知れぬ体液でドロドロになりながら、無我夢中に閨ごとに耽っていて、互いのことしか見えていないといった様子である。貪り喰っているという表現がしっくりくるそれは、とてもじゃないが一般的に想像する閨事情と同じ行為だとは思えなかった。会話を聞く限りは同意の上での行為のようにも思えるのに、それにしては己を犯す男の動きが乱暴過ぎるのだ。これでは性行為を通り越してただの暴力ではないか、と。一応童貞なりに初体験に夢を見ていた国広は、童貞よりも先に処女を卒業してしまったショックと、盛大に理想をぶち壊された衝撃とで、すっかりまともな思考力を奪われてしまう。
(よく生きてたな……俺)
相手を壊さんばかりに腰を打ち付ける男と、狂ったように嬌声を上げる自分。
組み敷かれた己の両足はそんなに開いたのかと驚くほどに開脚され、尻の穴はずっぷりと深くまで男の逸物を飲み込んでいた。そりゃ痛いはずだ。というか、よく見れば血も出ているし、裂けてしまっているのだろう。
「き……」
「き?」
思わず、といった風に声を絞り出した国広に、こてん、と首を傾げた男が続く。仕草は可愛らしいのに、そのギラついた眼差しは物騒で、まったく可愛くない。
「切れ痔に……なってしまった」
「ぶっ」
気にするのはそこなの?
と何がツボに入ってしまったのか腹を抱えて笑い出した男の頭を、渾身の力で叩く。
「痛いな」
「笑い事じゃない。踏ん張れなくなったらどうする……竹刀を振るえない」
「あー、ごめんね?」
「……」
どうせ右から左に受け流しているに違いない。一目でそうわかる誠意のこもっていないおざなりな謝罪には、徹底して無視を決め込んだ。相手にするだけ時間の無駄だからだ。
頭の中を掠めたのは、大学の剣道部が予定している春合宿のことだった。国広の所属する大学は強豪校なだけあって頻繁に合宿や遠征が組まれている。ライバルも多いため、今ここで休むわけにはいかない。さらには五月に関東大会を控えているのだ。要らぬ怪我に足を引っ張られるのだけは御免だった。
「おい」
「……なんだ」
「お前ね、自分の立場わかってる?」
強姦されておきながら今考えることはそれか、と思われるかも知れない。しかし、国広にとって剣道というのは命そのものなのだ。剣を振るわぬ自分など自分ではない。まぁ、そんな己の事情を知らぬ男からすれば、『竹刀が振るえない』と言われたところで何言ってるんだコイツ、くらいにしか思われないのだろうが。
あぁ、本当に腹の立つ。
「わかっている。俺はあんたに、その……掘られたんだろう。もういい。過ぎたことは仕方ない。それより問題はこの傷だらけの身体だ」
「……わかってないみたいだね」
山姥切国広。
不意に名前を呼ばれ振り向いた。何故、男が己のフルネームを知っているのか。嫌な予感がして眉根を顰める。先程は頭が混乱していて周りを見る余裕がなかったけれど、よくよく観察してみれば、床に捨て置かれた国広のボストンバッグのチャックが全開になっていた。そこから一つの解答を導き出す。
「身分証を見たのか」
「まぁね。それで、お前は俺に個人情報を握られていることにもっと危機感を持った方がいいと思うよ? そうだな……例えば、この動画を俺がネットにバラまいたらどうなるかとか。想像してみな」
ガツン、と後頭部を殴りつけられたような衝撃を受ける。その後、じわじわと溢れてくるのは紛れもない恐怖だった。今己は、この男の指先一つで人権を失ってしまうような、いつ破れるとも知れぬ薄氷の上に立っている。そのことを改めて自覚させられて、身も竦むような恐怖が心を支配した。
「山姥切国広といえば、高校の時にインハイで優勝したあの山姥切国広だろ? ふふ、あんなに凜々しい剣士がこうも甘く蕩ける姿を見たら……もうまともに外を出歩けないね? 手始めに大学の剣道部を退学処分ってところかな。いや、それ以上に最悪なことは……」
「消せ、今すぐに消せ!」
端末を取り上げようと手を伸ばすものの、悪夢のようなものを見せつけるだけ見せつけておいて、それは無慈悲にも逃げていってしまう。さらに手を伸ばそうとすれば、ボロボロの身体が痛みを訴えるものだから、それ以上追いかけることは叶わなかった。
「はいはい、遊びは終わり終わり。退学以上にやばいものがあるってこと、わからない?」
「退学以上に……? 何が言いたい」
「俺が今から警察に通報すると、まず間違いなくお前が逮捕される」
「逮捕……?」
それはありえないだろう。強姦したのはそっちだ。寧ろ国広が訴えたら男の方がお縄につくことになるのではないか。男の矜持が傷つくのでそれは最終手段だが。
(何でもかんでも脅せばいいというわけではないぞ……)
馬鹿にしやがって。突拍子もない脅し文句を言われて思考が冷めていく。流石の自他共に認める剣道バカである国広も、強姦した方とされた方のどちらが被害者に分類されるのかぐらいはわかった。とはいえ、試合に勝って勝負に負けては話にならない。男が逮捕されたとしても、動画をバラ撒かれては国広の方が社会的に終わりだ。どこかに打開策はないものか……。
(まずは力ずくであの端末を奪って、壊してから……)
だが、そんな国広の考えは、次に放たれた男の一言でさらに最悪な方向に転げ落ちた。
「俺、未成年なんだよね」
「は……?」
未成年。
頬が引き攣る。まさにとどめの一発。間の抜けた声が出ても致し方ないだろう。ただでさえ青白くなっていた国広の顔が、さらに白くなっていく。
「未成年……?」
「そうだよ」
「うそ、だろう……」
「嘘なものか。そら」
さっきの端末の代わりにひらひらと見せられたのは、爽やかなスカイブルーのプラスチックカード。男の顔写真が入ったカードには、誰もが一度は聞いたことのある名門校の校章と学校名に加え、氏名、生年月日が記されている。いわゆる学生証ってやつだ。
「二〇〇七年生まれ……俺の二個下ということは……高三、か……?」
「よくできました。特別に『優』をあげよう」
ちゅ。
頬にキスを落とされ、ふらふらと崩れ落ちそうになった。否、最初から起き上がることすら出来ずに寝転がっているので、そんなことはありえないのだが。気分的には今にも床に倒れて、そのまま消えてしまいたいくらいだった。
「……そんな、」
「さて、ここでお前に与えられた選択肢は二つだ。俺の機嫌を損ねて警察に突き出され、いたいけな男子高校生を強姦した罪に問われ刑務所行きか、それとも……」
――俺の言うことをよーく聞いて従順な犬になるか。
「さあ、どっちを選ぶ?」
にっこりとそれはもう美しい笑顔で問われたその時。国広に残された道は一つしかなかった。同い年かそれ以上の成人済みかと思っていた大人びている年下の男に、良いように掌の上で転がされている。処理しきれなかった脳はこれ以上の負担はよくないと判断したようで、一切の思考を停止した。
「納得してくれたかな? では、これからよろしく。せいぜい楽しませてくれよ、『偽物』くん」
偽物とはどういう意味だとか、女に困ってませんという顔をしておきながらどうしてよりによって俺なんだとか、そもそもどうして俺はこんな男に抱かれることになったのかとか。色々と言いたいことも聞きたいことも山のようにある。
「手始めにラインでも交換しておくか」
されど深くうなだれた国広には、機嫌良さそうにしている男を問い詰める余裕も、どこから持ち出してきたのか己のスマホを片手に、意気揚々と連絡先を交換し始めた男を制止する気力も、微塵も残っていなくて。ただ唖然と男のやることを眺めていることしか出来なかった。