名前を聞きそびれた。
学生証を見せられた時に盗み見ておけばよかったものを。あの時すっかり余裕を失い視野が狭まっていたものだから、うっかり確認を怠ってしまった。これは痛恨の極みというより他ない。己の愚かさに苛立ち、つい舌打ちを漏らしたのは、駅前で男と別れてすぐのことだった。
《初めまして、とでも言えばいいのかな。さっき……》
突然、見覚えのないアカウントからメッセージが届いた。送り主の名前は『長義』。長義という知り合いに心当たりはない。会話の一覧画面に表示されたメッセージの一部からしても、この長義とやらは十中八九あの男のアカウントというので間違いなさそうで。イライラとしながら既読をつけるかつけないか迷い、渋々アプリを開いた。辿々しい手つきで画面を開き内容を確認すると、そっけない挨拶の下にただ一言《逃げたら拡散》とだけ書かれたメッセージと、二枚の写真が送りつけられている。無造作に貼り付けられた写真はおもわず目を覆いたくなるような、己の痴態が写ったそれで、悪趣味極まりない長義からの先制攻撃に吐き気がした。
剣道部のグループや大学の関係者たちから届くメッセージはすべて通知を切り、急ぎのもの以外は既読すらつけずに放ったらかしにしている。こうしてまともにアプリを操作するのはいつぶりだろうか。なんて遠い目になりながら、国広は返信を打ち込んだ。
《わかっている》
それ以外の言葉はない。無意味に男と関わり合いになりたくなかったのだ。しかし、そんな国広の胸中を察しているのかいないのか。空気を読まない男からの返信は案外すぐにもたらされる。
《四月二十三日、十九時半。錦糸町駅前》
指定されたのは、今から一週間後の日曜日。場所はバー『SG』がある場所の最寄り駅だった。タイミングの悪いことに、その日の稽古の予定は午前練のみ。くそ、と毒吐く。この呼び出しに応じることの意味がわからないほど、国広は愚かではない。呼び出しの時間が夜であることは即ち……そういう意味なのだろう。
「……こうなったら、とことん話をつけてやる」
画面の向こうでニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる男の姿を想像し、国広は意気込む。もし万一のことがあったら蹴り飛ばしてやればいい、と気合いを入れ直して、禍々しい空気を放つ己のスマホを尻ポケットに突っ込んだ。
時が経つのは早いもので、生きた心地がしないまま過ごした一週間。無慈悲にも約束の日曜日を迎えてしまった。
「お疲れ様でした」
「……おつかれ」
稽古を終えた国広は、シャワールームで適度に汗を流し、バーに入っても浮かない程度のよそ行きの格好に着替える。腹が空いていたので何か食べてから行こうかと思ったが、そうするとかなりギリギリの時間になってしまうため諦めた。大変不本意なことであるけれど、何より優先すべきはあのいけ好かない強姦男との約束だ。機嫌を損ねてあの写真たちをネットにばら撒かれては堪ったもんじゃない。
(さて、どうしたものか……)
待ち合わせ場所に到着し、目印になりそうな汽車のオブジェの前に立つ。暫くスマホを弄りながら待っていると、行き交う人々の視線がチクチクと突き刺り、何となく顔を上げた。不思議に思い周りを見回せば、己に意識を向けるその殆どが女であることを知る。そこでようやくフードを被り忘れていたことに気づいて、国広は慌ててくたびれたそれを目深に被った。
(油断したな)
いっそカバンの中に常備しているマスクでもして、顔の大半を覆い隠してしまおうかと考える。しかし、それだと長義が国広を見つけられなくなるかも知れないため、やめておいた。ちゃんと来ていたのに気づかれず、すっぽかされたと思われては目も当てられない。今は脅されているのだ。誤解させるような軽率な行動は控えなければ……。
『フード被っちゃった』
『カッコいい〜、誰かと待ち合わせかな?』
『一人の今がチャンスだよね?』
そうして、チラチラと話し掛けるタイミングを見計らっている女豹たちの視線に、刺され続けること数分。時刻が待ち合わせの時間ちょうどになったその瞬間、手に持ったスマホがぶるりと震える。
《喫煙所まで来て》
嫌な視線に耐えてまで外で待っていたというのに。呼び出した張本人は呑気に煙草を吸っていたのか。そもそもあの男は未成年だろうに。ぐわん、と怒りが腹の底で渦巻いた。国広のこめかみに青筋が立つ。ちょっとした意趣返しを兼ねて既読無視をしたまま歩き出すと、立て続けにまたメッセージが届いた。
《そっちは逆。汽車の正面側》
(見ているのか)
険しい顔のまま後ろを振り向く。ズカズカと乱暴に大地を踏みしめ汽車の正面側に回り込み、存外近くにあった喫煙所に辿り着いた。
「やぁ、偽物くん。逆方向に歩いて行った時は何処に行くのかと思ったよ」
元来の目立つ容姿と存在感のおかげで、長義の姿はすぐに見つけられた。
綺麗に浮き出た鎖骨を晒した、襟ぐりが大きめのサマーニットに、上から羽織られたシンプルな濃紺のジャケット。細身のホワイトデニムは彼の持つ冷涼な空気をさらに引き立て、見る者に爽やかな印象を抱かせる。とてもではないが、この堂々と喫煙所に入り浸っている男がまだ未成年で、しかも名門校に通いながらも行きずりの男を引っ掛けて脅迫しているような、素行不良の非行少年だとは思えなかった。見た目で人を判断するものじゃない、なんていうありきたりな先人の教えは的を射ていたのだと、今ならわかる。
「俺は偽物なんかじゃない。山姥切国広だ。あんた、俺のことが見えていたんだろ? なんでここにいることをもっと早くに知らせなかった」
険しい顔で国広が問うと、長義はふぅー、とめんどくさそうに白煙を吐き出す。
「いつもの不審者ファッションで、居心地悪そうにオロオロしてるお前が面白くてね」
「……」
「なに、ちょっとした出来心さ」
この野郎。
脅されている立場でなければ一発殴っていたところだ。なんでこんな男と縁が出来てしまったのだろう。この世に神はいないと真剣に思った。元からそれほど信仰深い方ではなかったけれど。
「さて、行こうか。部活のジャージで来なかったことを褒めてあげるよ」
長義がじゅう、と火のついた煙草を灰皿へ押し当てる。ぐりぐりと先端を潰した後、そのまま吸い殻はくず入れの中に吸い込まれていった。もう用はないとばかりに歩き始めた彼の後を、国広が追いかける。
「行くってどこに?」
警戒心を滲ませた声色で尋ねても、にぃ、と意味深な笑みが返ってくるだけで、明確な答えはもたらされない。それに煮え切らないものを抱えつつ、これ以上不用意に刺激するのは良くないと判断し、その後の言及は避けた。あぁ、通り過ぎる人間たちの浮かれた騒ぎ声が、やたらと煩く感じられる。本当なら国広だって、今頃家に帰って竹刀や防具の手入れでもしていたはずなのに……。
――長義に連れられて入ったその店は、駅から十分ほど歩いた場所にある小洒落たイタリアンの店だった。
圧倒的にチープな雰囲気の飲み屋が多いこの近辺で、こんな穴場があったことに、素直に驚く。一緒に来たのがこの男でさえなければ、国広は新たな店との出会いを素直に喜んだことだろう。そう思うと苦々しいものが込み上げてきて、国広の表情はみるみるうちに歪められていった。ぬけぬけと店員に『予約していた山田です』と告げる男の後ろ姿を、じとりと恨みがましく睨みつける。
「あぁ、そうそう。山田っていうのは偽名だから」
「は?」
突然何を言い出すのか。戸惑いを見せる国広を尻目に、長義は淡々とした口調で続ける。
「本名で予約しておいて未成年なのがバレたら色々と面倒だろう? 馬鹿正直に酒を出すところで身元を晒す奴はいないよ」
「はぁ……」
それはそれは、悪知恵の働くことで。
ていうか、最初から酒を頼むつもりなのか。席に着き、意気揚々とメニュー表片手にワインを頼もうとしている長義を慌てて制した。
「おい、俺の前であんたに酒は絶対に呑ませないからな」
「……なんで」
途端に不機嫌そうな顔をして、長義が国広の方を見る。
「当たり前だろう。あんた、わかってるのか? 身体が成長途中の段階でアルコールを摂取するのは、色々なリスクがあるんだぞ。脳へのダメージだけじゃない。肝臓や膵臓にも負担がかかる。未成熟なくせに自ら毒を飲むような真似をするな」
体育会系の部活に入っているため、国広は健康管理に人一倍気を使っている。苦言を呈したのは純粋に、自らの身体を一切顧みない長義の行動の数々を見兼ねてのことだった。強姦魔とはいえ未成年は未成年。歳は二個しか違わないけれど、大人が庇護してやらねばならない立場であるのは変わりない。一方、長義はそんな国広の言葉が心底意外であったようで、先程までの剣呑とした雰囲気からは一転、空気を和らげて驚きの表情を露わにした。
「……なんだ、その目は」
「いや……」
擬音語をつけるならばきっと、キョトン、というのが相応しいのだろう。目をパチパチと瞬かせ、軽く見開いた彼は今までにないほど無防備で。何をそんなに驚くことがあるのか、その表情の裏側に隠された意図が読み取れず、国広はさらにその眼光を鋭いものにした。
「言っておくが、煙草もだからな。さっきは周りに人がいたから敢えて言わなかったが……あれは肺活量に支障が出る。今はやめておけ」
あと、老けるぞ。
最後に一言付け足して、長義の手元からドリンクメニューを奪う。適当に目を滑らせて何を飲もうか決めあぐねていると、長義が突然噴き出した。
「はは、老けるって……っ」
「……?」
腹を抱え、くっくっと引きつけを起こしたみたいに笑う男を、訝しげに見やる。
「お前はそこを気にする? ってところを気にするよね。でも驚いたな。万一のことがあった時に責任が取れないとか、てっきり自分の保身ばかり気にするのかと」
「……勿論、それもある。未成年に飲酒させたと騒がれたら、俺の大学は大会出場停止になるし、部も退部……スポーツ推薦だから大学も退学になるからな」
「……本当にお前の世界は、剣道を中心に回っているんだね」
綻んだ目元から送られる視線は優しい。鋭く、冷たい、刺すような空気を常に纏う彼からは想像もつかないほど、その表情は柔らかかった。己の世界は剣道を中心に回っている。その言葉を丁寧に咀嚼し、噛み締めるように首を縦に振る。
「当たり前だ。俺は堀川刀流剣術一の傑作と言われるほどの剣士なんだ。直系ではないから当主にはなれないが……家の誇りにかけて、俺は剣を振るっている。兄弟たちに恥じぬ剣筋を、俺は見せ続けなければならない……それが、俺に出来る唯一の『孝行』だから」
幼い頃に母は死んだ。
写真も残っていなければ、どんな人物だったかもわからない。家の者に聞いてもよくわからないの一点張りで、詳しく教えてもらえなかった。母亡き後国広に残されたのは、『山姥切』の苗字のみ。それが己と母を繋ぐ唯一の接点だった。幼い頃に聞いた父の話によれば、母の家も名の通った剣術流派を継ぐ由緒正しい家系らしく。そのせいもあって頻りに、その名に恥じぬ振る舞いを心掛けろと激励された。
多忙を極める父と会える時間は限られていたけれど、それでも家族には恵まれていた方だったと思う。長男の山伏は正妻ではなく妾の子で、次男の堀川が本妻の息子且つ正統な跡継ぎ。多少複雑な家庭環境ではあれど、そんなことを微塵も感じさせないくらいに兄弟たちとは仲が良かった。末弟で妾の子で……しかも他の剣術流派の家に生まれた女を母に持つ国広は、本来であれば排他的な家風において蔑ろに扱われてもおかしくなかったのに。それでも皆、国広のことを愛してくれたことには、感謝しかない。
ここまで育ててくれた父の期待に応えたい。山伏や堀川を支えたい。どうにかして恩義を返したかった。このことは、まだ誰にも言ったことはなかったが。その意思が、骨の髄まで植え込まれた誇りが、今も国広に剣を振るわせている。
「お前は義理堅いんだな。俺には……到底真似できそうにない」
沈黙が降りてきた。空気が凍ったとか、そういう悪い意味ではなく。幼子を静かに見守っているような、不思議なそれ。
「あんたの家は、その……」
「お前の家と似たようなもの、かな。だが俺はお前のように素直に自分の立場を受け入れようとしなかった。いや……出来なかった」
胡散臭い笑みを貼り付けて、当然のように嘘を吐く油断ならない男。それまで抱いていた長義への印象を裏切る予想外な言動や態度に、内心大きく戸惑った。この男は一体何がしたいのだろう。今日だって、そのままホテルに連れ込もうとすれば容易に出来たはずだ。だというのに何の気まぐれか。国広のためにわざわざ小洒落たイタリアンの店を予約して、こうして静かに人の話に耳を傾けている。
知りたいと思った。興味が湧いた。国広の家と似たような事情を抱えていると語った長義の表情は、とても嘘を吐いている風には見えなかったから。
「今後も受け入れるつもりはない。だから、俺は酒を呑むし煙草も吸う。でもそうだな……今日だけは酒を我慢してやるよ。他でもないお前に免じてね」
それから二人は腹がいっぱいになるまで料理を堪能し、世間話に花を咲かせた。まさかこの男とこんなにも穏やかな時間を過ごすことになるとは夢にも思わず……また、長義の存在を自然と受け入れ始めている己に酷く驚きながら、やれ高校生活は退屈だ、だの大学生活は稽古ばかりだ、だのと互いの近況について語り合う。帰る時にはどちらが金を出すかで揉めたものの。生まれて初めて振り翳した『年上権限』を行使し、どうにか年下の学生に金を払わせるという事態を防いだ国広はしかし、その後「男の矜持を傷つけられた」と怒り心頭にへそを曲げた長義を宥めるのに骨が折れた。
警戒心はいつの間にかどこかに飛んでいってしまった。
それは、長義が最後まで熱心に国広の話に耳を傾け、あの悪夢のような出来事についてを蒸し返そうとしなかったのが大きい。あの場でちらりとでも脅しをかけてこようものなら、きっと国広は意地になって帰ってしまっていただろう。これは後から気づいたことなのだが、長義はそういう駆け引きが異様に上手い男だった。
そして何より、一番国広が意外だったことといえば、
「……しないんだな」
「何が?」
「いや、……あんた、わかって聞いているだろう」
なんと今日はそのまま解散となったことだ。
「お生憎様、相手には困っていないんだ。溜まってないから今日はいい」
ふふ、と楽しげに目を細めて国広を見つめる長義に、怖じることなく突っかかる。
「ならあの写真を――」
「それは無理」
「……チッ」
ダメ元で言ってみた要望を取り付く島もなく突っぱねられ、舌打ちをした。相手が不快に思うだろうとか、そんな気遣いは今更だ。この男には国広が親にも見せたことがないようなところまで、余すことなく全部見られている。そう思うと自ずと身体の力が抜けた。相手は強姦魔で、いつまた襲われるとも知れぬ相手であるのに。
「次はいつ会える?」
「来週いっぱいは合宿でここにはいない」
「なら再来週は?」
「……大会前だからな。毎日が練習漬けだ」
このままのらりくらりと躱してやろう、なんて思いながら頭を回転させていると、そんな国広の意図を察したのだろう。あの冷たい笑顔を浮かべた長義がばっさりと斬り込んでくる。
「質問を変えよう。お前の休養日はいつだ?」
美形の笑顔の威圧感は半端じゃない。ここで断ったらまずいことになる。本能が警鐘を鳴らし、思わず「再来週の水曜」と口に出していた。しまった、と後から我に返ってももう遅い。国広の予定をしっかり聞き取った長義が、満足そうな顔をして「その日はあけておけ」と命令してくる。
「嫌か?」
嫌だ、と言ってしまえたならよかった。当然、あれだけのことをされた国広には、拒否する権利はあると思う。だが、国広の苦言一つで酒を我慢したり、思っていたよりも熱心に話を聞いてくれたりといった、素直な姿を見てしまっては、何となく無碍にしにくかった。だって、もしかしたらと思ったのだ。もしかしたら、彼の反抗的な態度や踏み外しかけている道を正すことが出来るのではないかと、そう期待してしまったのだ。
「……嫌じゃ、ない……とは言えない。あんたにされたことは簡単に許せることではないんでな」
「……」
長義の表情が若干曇る。悲しんでいるというよりは、思い通りにいかないことへの苛立ちを押し殺しているような顔だ。
「だが、会うくらいなら構わない」
「……そう」
「会うだけだからな」
「わかったよ。二度も言わずとも理解できる。俺は優秀なんでね」
うんざりとした心中を隠さぬ嫌みな物言いとは裏腹に、はぁ、と隣で吐き出された息には若干の安堵の色が含まれている。滅多に自信満々な態度を崩さない長義にしては珍しい。急に男の顔が見たくなって横を向いたが、間近に迫った駅のホームを見据える端正な横顔は、感情の読めない無表情だった。
「長義」
「……っ」
びくり。肩が揺れる。勢いよくこちらを振り向いた長義の顔に、ようやく人間らしい表情が浮かんだ。年相応なあどけないその顔が、何だかおかしい。
「名前、これも偽名だったか?」
ラインの、と付け加えると、そこではっとした彼は「あぁ……」と納得のいった風に声を漏らす。否定はされなかったので、恐らく彼のことは長義と呼んで問題ないのだろう。そう解釈した国広は、特に深く気に留めることなく言葉を続けた。
「次はあのバーに行こう。あんたと最初に会ったあそこだ」
「思い出したのか」
唖然と長義が呟く。意外そうな声の響きは彼の心からの驚愕を物語っており、つい口角が上がった。
「あの日の朝は混乱して、ところどころ記憶が飛んでいたからな。だが、流石に酒で意識を飛ばすまでのことぐらいは覚えている……そういえばあんた、あの酒に薬を盛ったろ」
ギロリ、と隣を睨む。ずっとおかしいと思っていたのだ。酒には強い方である国広が、男から手渡された酒を一杯飲み干した途端、意識が朧気になり果ては気を失ったのだから。しかも長義に抱かれている間の記憶はなく、朝まで国広の意識は沈み込んだままだった。それは流石に酔い潰れたというには異常なことだろう。
「……盛った、と言ったら?」
「通りでな。変だと思ったんだ」
頭が痛くなりそうだった。盛った薬は何だろうか。睡眠薬か、意識が飛ぶレベルで強力な媚薬か。今の国広の状況からして、依存性のあるものではなさそうなので、その点に関しては心底安心している。とにかく後遺症が残るようなものでなくて良かった。
「まさか大麻とかじゃないだろうな……?」
「俺がそこまで愚かだとでも?」
ドスの効いた声を出した男が、自分のしたことを棚に上げて不本意だと遺憾の意を示す。この様子では恐らく、法に触れるようなものにまでは手を出してなさそうだ。二重の意味でホッとした。
「ならいい。次からそういうのは絶対にやめてくれ……副作用が出て稽古に支障が出たら困る」
「気にするのはやっぱりそっちか。まぁ、今後どうするかは、お前の行い次第かな」
「あんな薬を使わずとも話くらいは聞く。あんたの呼び出しにも出来る限り都合を合わせるから、やめてくれ」
無言が続く。押し黙っている長義は、何事かを考え込んでいた。暫く険しい表情のまま下を向いていた彼は、やがて答えが出たのか視線を国広の方へ向け、神妙に頷く。
「……わかった」
「ん」
特徴的なメロディーがホームに鳴り響いた。先程電光掲示板で確認した電車の到着時刻は、あと一分後。駅にひしめく会社帰りのくたびれたサラリーマンや、集団で日本の夜を楽しむ外国人観光客。会話に夢中になっている若い男女の後ろに並んで、手持ち無沙汰に国広と長義は電車を待った。
視界の片隅で切れかけの蛍光灯が、チカチカと点滅している。
悪くないな、と思った。長義に呼び出され、再会するまではどうなることかと思ったけれど。自分の考えていた以上に彼と過ごした時間は穏やかなもので、存外居心地が良かった。
「……じゃあ」
「国広」
先に電車を降りようとする国広を、長義が呼び止める。制止の声に振り向くと同時、頬に柔らかな感触があたった。
「な、」
「またな」
に、と意地の悪い笑みを形作る長義は、すっかり見慣れた『らしい』彼で。ぼうっと呆けていると警笛を鳴らされ、慌てて車体から身体を離した。
じろじろとこちらを無遠慮に見てくる者たちの視線が煩わしくなり、被ったフードをさらに下へずり下げる。あの目、すごく気に入らないな。すごすごと逃げるように駅を後にすれば、人気のない通りへ辿り着き、ほっと胸を撫で下ろした。くそ、油断した。今日は何も手を出してこないと思っていたのに。最後の最後でまんまとしてやられてしまった。
「……っ、と」
ぶるぶると尻ポケットから振動が伝わる。
今頃楽しげに笑んでいるであろう、メッセージの送り主である不良少年のことを思い浮かべて、国広はすぐに返信してやるものかと大人げなく無視を決め込んだ。
*
ドンッ! パシン! パンッ! パンッ!
竹刀のぶつかり合う破裂音が稽古場に響き渡る。あちらこちらで打ち合う部員たちの声も加わって、床がびりびりと震えた。
「やぁぁぁぁあ!」
「メェェェエエエン!」
熱気のこもった練習まっただ中の剣道場。国広の所属する黒泉館大学剣道部では、大学の所有する宿泊施設で春秋の年二回だけ大規模な合宿が行われる。強豪校というだけあり、部員数が百を超える黒泉館では、全部員が参加出来る合宿というのはそれほど多くない。しかし、今回はその数少ない全員出揃う一斉稽古ということで、一軍に入りたい二軍・三軍の部員たちは皆死に物狂いで練習に励んでいた。
一方、そんな彼らからギラついた視線を送られている側の主力選手たちも、その空気にあてられて緊張感が張り詰めている。
「手で打たんと肩で打たんかバカタレ! 山姥切、身体の力を抜け!」
「はい!」
監督から指示が飛ばされ、返事をする。
「構えを崩すな! 足が上がりすぎだ! 左足で蹴って右足は踏み込め!」
「はい!」
五回面の後に切り返し。一振り一振りに気合いを込めて、相手の面に打ち込んでいく。これが終わったら二回突きからの切り返しだ。突きは相手の喉元を狙うため危険が多く、半端な集中力で挑むと取り返しのつかない事故にも繋がる。突きの入る基礎練は数ある稽古の中で最も神経を使うものだった。
「休憩!」
「……っはい!」
「山姥切くん、これ」
「あぁ、すまん」
マネージャーの用意してくれたドリンクボトルとタオルを受け取る。蒸れた面を取り去れば入り口から入り込んだ気持ちのいい風が肌を撫で、誘われるように風上の方に歩いていった。
稽古場の裏にある手洗い場は、幸い誰もいなかった。
施設内に設置されたウォータークーラーは、今頃きっとゾンビのようになった部員たちによる行列が出来上がっていることだろう。上向きにした水道の蛇口をひねり、頭から水をかぶる。そうして顔の火照りが引くまでひたすらに水を浴び続けていたら、誰かに名前を呼ばれたような気がして、国広はおもむろに顔を上げた。
「んだよ、お前もいたのかよ。俺が独占出来ると思ったのに」
「……同田貫」
この男の名は、国広と同じ二年の同田貫正国という。高校も一緒で、かれこれ四年以上同じ主力メンバーとして鎬を削り合ってきた間柄だ。彼とは、今でもそれなりに気安い関係を築いており、偶に立ち話をする程度には交遊がある。
同田貫とは、個人戦では何度も敵として竹刀をぶつけ合ってきた。しかし、団体戦では味方として剣を振るっていたこともあり、国広の最大のライバルであり戦友でもあって……さらにこと私生活においては、友と呼ぶには距離が遠く、知り合いや顔見知りというには近しい微妙な距離にいる。気安くはあれど、完全に気を許すわけにはいかない。何とも奇妙な関係の相手だった。
「あー、あっちぃ」
「まだ夏は先だというのにな」
「夏合宿ならアイスの差し入れもあるってのによ……この時期じゃ、せいぜいが温くなったスポドリぐらいだぜ」
黒い短髪と強面な顔。時折覗かせる獲物を狙う猛禽類の如き鋭い眼光は、面の下から相手を威嚇する際には大きな効果をもたらす、この男ならではの強みだ。変わらずぶっきらぼうな態度と言葉で国広に接する様は、ともすれば無礼で無遠慮極まりない。だが、その遠慮のなさがかえって気が楽な相手だった。
「お前さ、」
ザーッという水音を聞きつつ木陰でぼうっとしていると、マイペースな調子で同田貫が話しかけてくる。
「女出来たってまじか?」
「は?」
突拍子もない話に虚を突かれた。女とは、彼女のことか? 何故そんな話になっている。まったく心当たりがなく困惑した顔で同田貫を見ていると、彼は豪快に頭を振って水気を切り、なんでもないことのように宣った。
「今まで剣道以外興味ありませんって顔してたお前が、スマホの着信を気にしたり、竹刀を握ってねぇ時はずっと落ち着かなそうにしてたりってので、先輩方が怪しんでた」
成る程、状況は理解した。大変不本意な誤解に泣きたくなってくる。スマホの着信を気にしていたのは、長義からのメッセージを気にしていたからだ。あれは返事が少しでも遅れるとすぐに不機嫌になる。だが、拗ねて面倒になったからといって放置しておくと、今度はあの精神を抉ぐる卑猥な写真を送りつけてくるので、そういうわけにもいかないのだ。
「誤解だ。俺に彼女なんていない。大会前だぞ、そんな弛んだことができるか」
「だよな、山姥切だもんな」
それは一体どういう意味だ。
突っ込みたくなるのを必死に耐えて、同田貫の関心が他のことに移るのを待つ。下手なことを言ってボロを出すのだけは避けたかった。絶対にバレたくない。未成年の男に薬を盛られて持ち帰られた挙げ句、そのまま掘られて写真を撮られ脅されている、だなんて。バレたら色んな意味でおしまいだ。
「お前がんなぶっ弛んだことしてようものなら、道場の床に這いつくばらせてやってたわ」
「……這いつくばるのはあんたの方じゃないか?」
「あ? 喧嘩なら買うぞ。俺は義理堅い男だからな。きっちり五倍にして返してやるぜ」
練習後の自主練で手合わせすることを約束し、二人は稽古場の方へと歩き出す。
稽古場から宿舎までを繋ぐ一本道の桜並木は、花見のピークを過ぎ所々新緑が入り混じっていた。そういえば、と。今年は季節の移ろいに意識を向ける余裕がまったく無かったことに気づく。とはいえ一年中稽古漬けなため、今までちゃんと風情を楽しんだことはないのだが。少しくらい美しい頃の桜を見ておけばよかったと、地面で踏みつけられ土まみれになった花弁を尻目に、思いを馳せる。
「後半はサーキットを行う。皆、五人で組んで各自準備するように」
「はい!」
本格的な夏はまだ先にも関わらず、とにかく暑くて堪らなかった。春のカラッとした空気は、熱気のこもった道場内ではむさ苦しいそれに塗り潰されて、瞬く間に掻き消されてしまう。
「はぁぁぁあ!」
一打入魂。
書いて字の如く、その一打、一振りに魂を込める。己の揺るがぬ芯が軸となり、迷いのない剣筋でもってして貪欲に勝利を求め続ける。
「山姥切! その『斬る』癖を直せと言ってるだろうが! 斬るんじゃない、当てろ!」
「……、はい!」
誇れる人間になりたかった。人の目を気にして、隠れるばかりの己と決別したくて、面を被りひたすらに竹刀を振るい続けた。家で鍛錬していた時の癖を直すのは難しく、何度も厳しい注意を受けてきたけれど、ようやく監督の教える型が形になりつつある。
もっと、上へ。
高みを見たい。高校では四大大会で個人戦も団体戦も頂点を掴み取った。大学に入り二年目。フィジカルの差によるハンデも微妙なルールの変化への慣れも乗り越えて、やっとここまで辿り着いたのだ。ここでふるい落とされてなるものか。
「山姥切!」
「はい!」
一線を断つ。限界を、断ち切り、切り拓き、その先の向こう側へ。
己の剣道は、まだ終わらない。目の前の道は、延々と続いていくのだ。
手を伸ばしたその分だけ。