*One Night Love

 五月には関東大会があり、個人戦も団体戦も無事予選を突破した。順当に駒を進めた国広たちは、六月にインカレが控えている。稽古は一層厳しさを増し、弱点を克服するフェーズから仕上げの段階に入っている。先週発表されたエントリーメンバーには、昨年同様国広と同田貫の名があり、変わったことと言えばずっとメンバー入りしていた先輩が一人、実力のある新入生部員と入れ替わりとなったことぐらいだった。メンバー落ちした先輩は、四回生。今年が最後の全国大会だった。
 地獄の合宿を乗り越えた後、長義とは三度ほど会った。
 合宿後に設けられた丸一日の休養日には、二人で映画を見たりカフェで時間を潰したりとまったりした時間を過ごし、後の二回は稽古を終えた後に夕食だけ共にした。一般的な友人同士の距離感を保ちながら、健全そのものな時間を長義と過ごすことに、酷く違和感を覚えることもあったけれど。それも慣れてしまえばどうってことはない。
 国広は友人として、長義に心を開きつつあった。時折強姦から始まった関係であることが頭から抜け落ちてしまうほどには、年下のこの男を可愛がっていた。
「それで、明日はようやく休養日だと」
 関東大会からずっと休みなく稽古漬けの毎日を送ってきた部員たちに与えられた、久方ぶりの休養日。その前日の稽古終わりに呼び出された国広は、女の好みそうなパンケーキの専門店で、やたらとキラキラふわふわした雰囲気に似つかわしくない、ボリューミーなランチセットを頬張っている。
「あぁ……最近疲労が蓄積されているからしっかり身体を休めろとのことだ。……たく、このインカレ間際に休養なんて……」
「お前みたいな練習狂いのお馬鹿さんがいるから、監督は無理をしてでも休養日を捻じ込んでいるんだろうよ」
 ――で、その竹刀は? 
 低い声で指摘され、内心どうして機嫌が悪くなったのか首を捻りながら、国広は答える。
「自主練するために持ち帰った」
「お前は馬鹿か?」
 不満げに唇を尖らせた国広へ、長義がぴしゃりと言い放った。
「連日稽古続きのボロボロの状態で、休養日にまで竹刀を振る馬鹿がいるか。いつ連絡しても『素振り中』『筋トレ中』『日課のランニング中』……このままじゃ、故障するのも時間の問題かな」
 ぐうの音も出なかった。毎度思うのだがこの男は本当に年下なのだろうか。私服姿しか見たことがない国広には、やけに大人びた雰囲気を纏う目の前の少年が、己より五つか六つ年上の男に思えてならない。
「……やっぱりあんた、老けてるぞ。煙草はやめた方がいい」
「話を逸らさないでくれるかな? あまり余計な口を叩くと……犯すぞ」
 それきり、国広は固く口を閉ざした。何故なら、長義の目が本気だったからだ。
 こうしてある程度の時間を共に過ごすようになってからというもの、長義がそれを本気で言っているのか、そうでないのかくらいは読み取れるようになった。正直に打ち明けると、彼の地雷を盛大に踏み抜いて、ホテルに連れ込まれてヤられそうになったことは一度や二度ではない。先日のディナーでやらかしてしまった時も、例に漏れず近くのラブホテルに連れ込まれて、酷い目に遭わされた。
 激怒した長義の冷め切った無表情が怖くて、涙目になりながら白旗を揚げたあの夜のことは、叶うならば記憶の奥底に葬り去ってしまいたい黒歴史である。あの後、どうしてか興奮し始めた長義に『責任とれ』と逸物を咥えさせられた時は、呼吸が出来なくて死ぬかと思った。
(……そういえば、何だかんだで最後までされたのは、あの最初の日だけだったな)
 かなり際どいところまでいったことは多々あれど、あれから長義が国広を最後まで抱いたことは一度もない。
(こいつは、何のために俺と会ってるんだ……?)
 そりゃ、掘られないに越したことはないし、国広だってわざわざ自分から進んで抱かれたいわけではない。ただ純粋に疑問だったのだ。始まりが始まりなだけに。
「……おい、聞いてるのか」
「え……?」
 思考の海に沈み込んでいると、肩を叩かれ意識が現実へ引き戻される。呼び起こした張本人の方を見れば、怪訝そうな顔をした長義が、既に身支度を調えて立っていた。
「何ちんたらしてるんだ。そら、さっさと荷物を纏めて店を出るぞ」
「会計は」
「お前が間抜け面でぼうっとしているうちに済ませたよ」
 今回の食事代は長義が払う番だった。年上としてのプライド云々で絶対に会計を譲ろうとしなかった国広であるが、ある日『呼び出しているのは自分なのにいつも会計が国広なのは、まるで奢り目的でたかっているようで矜持が傷つく』と言われてしまって。その主張には確かに一理あると思ったため、三度に一度は長義持ちで食事をするということで話がまとまったというわけである。
 妙なところは律儀な男なのだ。酒も煙草も嗜む不良少年なのに。
「次は何処に行くか……ディナーの店の予約時間まではたっぷり時間もあることだし。最近出来た新宿の商業ビルにでも――」
 長義の言葉が不自然に途切れる。無音になった空間に断続的なバイブ音が響いた。音の発生源は長義のポケットから。ずっと鳴り続けていることからも電話だろう。
「急ぎの用じゃないか?」
「……そうかもね」
 ちらりと一瞬だけスマホに視線を向けた長義は、されど電話に出ようとしない。
「俺は気にしない。出てやればいい。逃げたりはしないから大丈夫だ」
 そこまで言えば渋っていた彼も諦めたようで。これ見よがしに、はぁーっと長いため息を吐くと、一言国広に断りを入れた。
「……ここで待っていてくれ。少し静かなところで電話してくるから」
「わかった」
 長義の姿が雑踏に紛れて消えてしまった後、会話する相手もなく、すっかり暇を持て余してしまった国広は、近場にあった広場のベンチに座り、ぼうっと空を眺める。広場はそれなりの広さがあった。普段は高いビルたちに占領されている空は、今や夏の木々が伸び伸びと枝を広げるように、無限に広がる青を見せつけてくる。鳥が視界を横切り、青に溶けて消えてゆく。咄嗟に『違うな』、と思った。
 長義の瞳の色とは違う。
(あいつはもっと深い青で……ギラギラしてて……)
「別れねぇっつってんだろうが!」
 その時、男の怒鳴り声が鼓膜を劈いて思考が止まった。ざわざわと周囲がどよめき、ぽっかりと空いた人混みの中のスペースに、何気なく視線を向ける。
「やめてよっ! そういうところがヤダって言ってんのよ!」
「ふざけんじゃねぇ! いいからこっちに来い!」
「いやっ!」
 見るからに痴情のもつれというやつだ。別れたがっている女と、別れたくないと激昂する男の醜い諍い。ただそれだけなら、野次馬たちも「よくやるよな」程度でスルーしたことだろう。ところが、男が今にも手を挙げそうな勢いで女の手首を掴み、人気のない方へ引きずっていくものだから、流石に傍観を決め込むつもりだった者たちも危機感を覚え始めた。
「おい、あんた」
 ほぼ反射的に身体が動いていた。
 このまま連れていかれてしまえば、女は無事では済まないに違いない。男の国広でさえも、少し油断したばかりに薬を盛られて同じ男に掘られたのだ。力で敵わない女なら尚更、男の好きなようにいたぶられるだけであろうことは明白だった。
「んだテメェ」
 血走った目を向けられる。怒りに我を忘れて理性を失っている、手負いの獣のような目だ。しかし、いつも試合や稽古で名だたる剣士たちから殺気に近いプレッシャーを与えられてきた国広には、安っぽいチンピラ男の威嚇など赤子の虚勢に等しい。
「嫌がってるだろ。その手を離してやれ」
「んで、テメェにんなこと言われなきゃなんねぇんだよ! このフード野郎! 死にてぇのか!」
「っ!」
 頭から被っていたフードを乱暴に引き剥がされる。
 敢えて避けようとしなかった。素人相手の下手な受け身は怪我に繋がる。インカレはもうすぐなのだ。こんなところでくだらない怪我を負うわけにはいかなかった。
 取り去られたフードの下から現れた美貌に、男は息を呑む。その傍で怯えきっていた女も、国広の容姿を見るや否や大きく目を見開き、唖然と魅入られていた。周囲の野次馬たちも同様の反応で、そんな女たちの様子が心底気に食わなかったのだろう。男はさらに顔を真っ赤にして怒り出し、その攻撃の矛先を完全に国広一人へ絞り込んだ。
「そのお綺麗なスカした顔を、今すぐ見れねぇミンチにしてやんよ!」
「きゃっ!」
「どいてろブス!」
 さっきまで別れたくないとか言って縋っていた女に対して『ブス』とは。今の男には、国広をボコボコにすること以外は眼中にないのだろう。呆れたやつめ。だから女に愛想を尽かされるのだ。
「そこのガキ! それを寄越せ!」
「ひ、……く、くるなっ」
「寄越せっつってんだよ!」
 近くにいた子どもが持っていた新品のバットに目をつけた男が、子どもの方へ走り出す。咄嗟に子どもを庇おうとした父親を男は蹴り飛ばし、泣いて父親に駆け寄ろうとした子どもからバットを奪った。無理矢理パッケージを破って捨てた男が、国広のいる場所目掛けて一直線に駆けてくる。致し方ない。背中に背負っていた竹刀に手をかけ、竹刀袋から本体を取り出した。
「あんたは向こうに行ってろ」
「で、でも……っ」
 顔を真っ青にした女が、不安げに国広を見上げる。
「そこにいられても邪魔なだけだ。なに、一瞬で勝負をつけてやる」
 女が離れたところへ避難したのを気配で感じ、国広は意識を男へと集中させる。喉元への突きは、流石にまずいか。死なれては困る。となれば、バットを振り被ったところを狙っての胴打ちが妥当か……。
「……参る!」
「何が一瞬で勝負をつけてやる、だ」
 生意気だよ、偽物くん。
 え、と驚きから目を見張った瞬間、竹刀を握る国広の手に、誰かが触れた。
「竹刀を渡せ」
 圧のある言葉で身体を縛られ、碌な抵抗も出来ないうちに、竹刀を奪われる。流れるような動きだった。
「そら、お前の死が来たぞ!」
「死ねオラァァア!」
 勝負はあっという間についた。常人の目ではきっと、何が起こったのかわからなかったに違いない。それほど一瞬の間に起きた出来事だった。だが、並外れた動体視力を持つ国広の目には、確かに男が――長義が、脳天に振り下ろされたバットを払い、右肩へ一突き入れ、直後ガラ空きになった胴へ強烈な一打を放ったのが見えた。
(な、……っ)
 どさっ! 
 それなりに体格のいい男が、衝撃で吹っ飛ぶ。尻餅をついた男の顔には驚愕と恐怖が張り付き、それまでの威勢が嘘のように地べたで縮こまっていた。吹っ飛ばした距離は三メートルといったところか。とても高校生の力とは思えない。
 あれは間違いなく『斬る』動作だった。剣道ではそのルールの特性上、自ずと『斬る』のではなく『当てる』方に重きが置かれる。したがって、国広は幼い頃から受けていた家の稽古で身についた斬る癖を、現在の剣道部の指導者に怒られたことが数え切れないほどあった。だからこそ、わかる。長義のそれは、まさに真剣を使うことを見越した『斬る』動き……それも洗練された剣術の型であるということが。
(なんて、美しい……)
 無駄な力の一切を省いた独特の構えから生み出される、荒ぶる鬼神の如き強烈な一打。その一振りに込められた重みや、しなやかで迷いのない剣筋に、一剣士として強く惹かれる。
「……チッ。鈍ったか」
 ――ねぇ、君。
「ひ……っ」
 ビュン、という鋭い風音と共に、竹刀の切っ先が男の喉を捉える。
「それ以上こいつに何かしてみろ。次はその首落としてやるからな」
 逃げ出そうとした男の薄汚れたスニーカーを、長義の磨き抜かれた黒い革靴が思い切り踏みつけた。また、それまで首筋にひたりとあてがわれていた竹刀は、今度は右膝の皿の上へと狙いを定めている。利き足の皿を突き崩せば、必然逃げ出すことは困難になる。人体の構造を熟知し、実践的な戦い方をする剣術流派。どこか見覚えのある構えや打ち方の型に、国広は必死になって、己の記憶の中にある様々な流派の型を思い浮かべた。
「そこの君、こいつを押さえておいてくれないか」
「は、はい!」
「国広、行くぞ」
「えっ……長義、」
 慌てて駆けつけてきた警官の姿を見るや否や、長義は男のことを傍で見ていた者に預けて、国広の手を引き走り出す。無論、警官や野次馬たちは二人を引き留めようとしたけれど、全速力で走る国広たちのスピードに追いつくことは出来ず。結局二人は事情聴取もなにもかもを放棄して、その場から逃げ去ってしまった。
「長義っ、どうして逃げる!」
 がっちりと右手を掴む手をそのままに、前を走る長義が答える。
「これ以上面倒事に巻き込まれて堪るか、時間の無駄だ!」
 人気のないところに向かって走った。人の多い駅前から遠のき、オフィスビルの建ち並ぶ通りを抜け、マンションや一軒家が多い市街地に出る。一駅分は走ったと思う。息を切らし、足がじんじんと痺れ始めた頃。とある工事中のビルの裏手にやってきた二人は、そこでようやく立ち止まった。
「はぁ……は、」
「……っここまで来れば追っては来ないか」
「ちょう……ぎ、」
 聞きたいことが沢山あった。今までそんな素振りを見せたことはまったくなかったのに、どうして剣を握る姿があんなに様になっていたんだとか、あの剣筋はどこで学んだのかとか。気になりすぎて気持ちばかりが急いた。
「あんた、なんで……っ」
 どうして教えてくれなかったのだ。あんなに綺麗な型で刀を振るうことが出来るなら、剣道とは少し毛色が違えど、剣術談義に花を咲かせることも出来たであろうに。ましてや国広の実家は古武道の中でも名の知れた方の、伝統ある剣術技法を継承する家系だ。予め彼の実力がこれほどだと知っていれば、そっちの話だって出来たのに。
 国広は長義のことをあまりにも知らな過ぎる。
 学校と年齢は知っている。しかし彼の本名はわからない。どこに住んでいて、どういった家に育って、何が好きで、何を嫌うのか。いつまで経っても長義の考えていることが読めない。理解出来ない。そりゃ、始まりこそあんなだったが。何度も会ううちに長義の人となりがなんとなく掴めてきて、国広はとっくに長義へ心を開いている。それなのに……肝心の彼が腹の底を見せようとしないのだから、報われない。
 長義を知りたい。前々から芽生えてきた欲が、ここにきてさらに大きく膨れ上がる。今以上に彼のことを深く知れたなら、きっと国広は長義のことを、もっと……、
(もっと……?)
「いいかい、偽物くん」
 ふ、と。心を掠めた形容し難い感情に想い馳せていれば、険しい口調で幼子を諫めるように、長義が言う。
「これだけは覚えていろ。俺にとっての剣道は『鬼門』だ」
「鬼門……?」
「深入りしてみろ、どんな鬼が出るかわからんぞ」
 それきり、長義は何を言うこともなかった。国広がいくら問い詰めたところで、今の彼がそれ以上のことを話すとも思えず、追及は諦める。
 剣道を『鬼門』と比喩した彼の胸中は推し量ることが出来ない。ただ、あんなにも美しい剣筋を持つ男が、何かを恐れるように、傷ついたように、悲痛な表情で剣を語る様があまりに衝撃的で。彼も己と同じく剣道を愛しているものだとばかり思っていた国広は、酷くショックを受けた。

 *

 長義がどこの剣術の流れを汲む男なのか。
 その答えは、案外すぐにもたらされた。唖然としながらやっとのことで家に帰り、今日あったことを同居している堀川へ伝えたところ、その構えや剣筋の特徴に心当たりがあると言い出した彼が、ある一枚のDVDを持ってきたのだ。
「これ、四年前の全中の映像。偶然見つけたんだけど、この子とっても綺麗な剣筋してるから、思わずDVDに焼き増ししちゃったんだよね」
 リビングのテレビに映し出されたのは、全中予選が行われている慣れ親しんだ武道館だ。本部席後方の紅白幕には、《第◯回全国中学校剣道大会》と書かれた吊り看板がぶら下げられている。どうやらテレビ放送を録画したものらしい。右上のテロップには《男子団体戦決勝》の文字が。左下には今から試合を行う白と赤それぞれの、選手の名前と校名が表示されていた。
 そして、白側の大将名を見た国広は、驚きのあまり言葉を失う。
「山姥切……長義……?」
 何かの見間違いかと思って、選手名のテロップ部分を凝視した。だが、何度見てもそこに表示された名前は同じで、白の大将が付けた名札に書かれた『山姥切』の三文字に、嫌が応にも目を向けてしまう。
(どういうことだ。偶然……? いや、だが山姥切なんて苗字、)
「……これは後で知ったことなんだけど」
 動揺を露わにする国広の肩をポンッと叩いて、堀川が宥める。
「この人の実家は長船の宗家なんだって。聞いたことあるよね、『長船神刀流』。千五百年以上の歴史を持つ伝統ある剣術流派だよ。比較的新しく派生したうちとは比べ物にならないくらい古くて、格式高い流派さ」
 同じ山姥切の姓を名乗る者の実家が、あの長船の宗家。初めて知る事実に、酷く混乱する。
『お前の母の生まれた家は、名の通った剣術流派を継ぐ由緒正しい家系だ。その山姥切の名に恥じぬ振る舞いをするんだぞ』
 嘗て父に言われた言葉が、頭を巡った。
 国広を生んで間もなくして逝ってしまった母の家は、堀川と並ぶ名だたる名家だったという。噛み合わせが悪いまま無理矢理回り続けていた歯車が、ようやくピタリと嵌まったような気がした。そうか。そうだったのか。本家から見て何処までの範囲を山姥切とするのかはわからないが。もし母と長義の親がそれなりに近い血筋の人間だったならば……自分たちはそれなりに濃い血縁関係を持っているのかも知れない。
「あ、僕が言ったことは内緒ね。口止めされてたから」
「あぁ……」
「あ、見て見て! ここ! この面が凄かったんだよ!」
 画面の中の長義は、面白いくらいに素早く相手から一本を取っていく。正直、相手選手との実力差があり過ぎると感じた。全国大会の決勝戦とは思えない、一方的な試合だ。お世辞にもいい試合とは言えないそれを食い入るように見つめていると、堀川が興奮を残したまま語り始める。
「彼にはお兄さんがいたはずなんだけど、なんか家でゴタゴタがあったらしくて……それで代わりに長義くんが次代当主に決まったんだって。それは父さんに聞いた」
 不意に堀川が画面の中の長義に視線を移し、口を閉ざす。次代当主に選ばれた。その事実が指し示すところの本当の意味を、兄が見せる同情の色を帯びた眼差しから確信させられた。
「そうか、なら……もう剣道はしない、のか……」
「だろうね……継承者なのに型が変わったら困るから。だから、長義くんもこれ以降試合で見なくなったってことは、多分……」
 伝統を守るものに、変化は許されない。
「そう、か……」
 家の伝統を守るために、長義は剣道を辞めさせられた。成る程確かに、これは鬼門だ。
 あの剣筋を目の当たりにした時、急激に焦がれた。もっと彼が剣を振るうところを見ていたくて、同時に悔しく思った。ここまでの域に達するために彼自身が積み重ねてきた鍛錬は、きっと並大抵のものじゃない。それを、すべてぶち壊しにするかのような不健全な行動の数々。赤の他人にそこまで口を出される筋合いはないと言われてしまえば、それまでだけれど。どうしても許せなかった。
 そうだ、己はあの冴え冴えとした一閃に、心奪われたのだ。
 強烈な一打を脳天に食らったような衝撃でもってして、脳裏に焼き付いて離れなくなった。まだあの時覚えた興奮が、身体の奥底で燻っている。永遠に冷める気配のない熱が、ずっとぐらぐらと煮えている。
(もっと見ていたい)
 手合わせがしたい。話がしたい。全部知りたい。腹を割って語らい合い、何も気負うことなく全力でぶつかり合うことが許されるなら、国広はどんなことだって出来るだろう。そう決意してしまうほどに、長義の剣は美しかった。
 有り体に言えば、惚れたのだ。彼の剣に、救いようがないくらいに。加えて長義と己が血縁関係にあると知れた今、弟のように思っている彼をこのままにしておくことはしたくなかった。
「あ、そうだ。兄弟、」
 自分に何が出来るだろう。まずは酒と煙草をやめさせて、一緒に稽古をして……そういえば今日、彼は小さく「鈍ったか」と呟いていた。ならば、ランニングとストレッチから地道に初めて……。己に本当の弟が出来たような気持ちになって、ふよふよと浮き足立つ。今まで末っ子として育ったが故に、初めての感覚にすっかりのぼせ上がっていた国広は、されど続けられた堀川の言葉によって、撃ち落とされることとなった。
「言うか迷ったんだけど、もう兄弟も大人だし……。実はね、長義くんと兄弟は従兄弟同士なんだ。それで、その……気分を悪くしたらごめんね。兄弟のお母さんは他流派の家の子どもを産んだせいで、今長船から勘当されてて……だから、兄弟はあんまりあの家と関わらない方がいいと思う。傷つくのは、兄弟の方だと思うから……」
 頑なに母のことを教えようとしなかった周囲の人間たち。
 人目を忍んでこっそりと父から打ち明けられた、母の家のこと。
 勘当の二文字が重々しく国広の肩にのしかかった。浮かれた気分なんて一瞬で何処かへ飛んでいってしまうくらいに、それは、あまりにも非情な忠告だった。
「……っ」
 それでも、本気で心配そうな目をして言い切った堀川へ、物わかりのいいフリをして「わかった」なんて言いたくなくて。
「兄弟?」
「いや……、」
 再びテレビへ視線を戻せば、既に映像は終わり画面はブラックアウトしている。どちらが勝ったのか最後まで確認していないが、あの分では長義の高校が優勝したのだろう。真っ暗になったテレビ画面には、迷い子のような情けない顔をした己の姿が映り込んでいた。

 *

 ――長船神刀流剣術。
 千五百年以上もの古い歴史を持つ、とことん実戦を意識した殺人剣法である。人間の体の構造を熟知し、どこを狙えばより確実に相手を倒せるか、ということへ徹底的に重きを置いた剣筋は、緻密且つ豪快。目にも留まらぬ速さで的確に弱点を突き、相手の体勢を崩してから、トドメに繰り出す『絶刀』と呼ばれる強烈な一打でもってして、完全に相手の息の根を止める。まさに神をも恐れる柔も剛も併せ持つ必殺真剣。それが長船流だ。
 長船の家督を継ぐのは『山姥切』の名を持つものという決まりがある。時代遅れも甚だしい世襲制で伝統を守ってきた長船は、どうにもその考え方そのものが古臭くなりがちで。他の剣術流派と交流を持つべからず、本家嫡子こそ長船の当主たれ、という極端に排他的な家風だった。
「長義さま、学校でいらっしゃいますか」
「……あぁ」
 玄関の引き戸に手をかけたその時、後ろから嗄れた声で呼び止められる。
「本日は十九時より稽古がございます。その後、ご当主が長義さまのお顔を見たいと――」
「悪いが、今日の帰りは遅い。生徒会の用向きがあるのでね。父上には詫びを入れておいてくれ」
「……左様でございましたか。それでは、そのように申し伝えておきましょう」
「では、行ってくる」
 温度のない声、淡々とした事務的な会話、チラチラと向けられる、こちらを見定めるかのような不躾な視線。何もかもが不愉快だった。先程の使用人が、多忙な父の代わりに長義を監視するため、傍に仕えていることは知っている。家でボロを出したことは無い。煙草も飲酒も、適当な言い訳をつけて稽古もせずに、夜の街を出歩いていることも。まだ誰にもバレてはいなかった。長義が何かとへりくつを捏ねて稽古を避けていることには、皆察しているところだと思うが。
 このまま鈍になってしまえばいいと思った。錆びついて何も斬れぬ刃になってしまえばと。そうすれば父は兄に逃げられた反動で、さらに酷くなった『継承者』への執着から、目が醒めるのではないか。そうあわよくばを期待して始めた酒と煙草。落ちるところまで一度落ちてしまったなら、ほとぼりが冷めてからまた鍛え直せばいいだけの話。とにかく家の干渉を振り切りたくて、それまでのストイックさとは打って変わって、己を痛めつける行為を繰り返してきた。
「馬鹿にするのも大概にしろ……」
 この山姥切長義が、剣道と家業の両立が出来ないとでも? 
 取り上げられた竹刀は、目の前で折られた。全中を制覇し、高校でも推薦入学が決まっていて、これからという時に剣道を辞めろと言われ、拒んだ結果の惨劇だった。さらには部屋に置いてあった防具袋までもを庭の池に投げ入れられて……それまで保っていた糸がプツリと切れたあの時のことは、今でも鮮明に覚えている。暫く茫然自失と水浸しの道具たちと折れた竹刀を前に立ち尽くしていた記憶は、二度と思い出したくない最悪なものだ。
 ずっと惚れ込んだ剣があった。
 その剣筋を魅せる男はどこか己に似た容姿を持ち、されど己とは正反対の華やかな色彩をその身に宿す、同じ『山姥切』であれど『山姥切』ではない男だった。いつか大会などで堂々とやり合って、絶対に打ち負かしてやりたいと思っていた。彼を知ったあの日から、ずっと、追いかけ続けてきたのだ。なのに……。
「山姥切国広……」
 あれはきっと覚えていないだろう。
 幼い頃に一度だけ、国広は父親に連れられ長船の敷地を跨いだことがある。それは、長義の父の妹と関係を持ったことへの謝罪と、二人の間に生まれ、山姥切の血を色濃く継ぐ国広の顔見せのためだった。
 あの時子どもたちは席を外せと部屋から追い出されたため、長義は奥の座敷で父たちが何の話をしていたのか、今となっては知る術はない。しかし後から聞いた話によると、長義の父は大層激怒し、激しく堀川の当主を叱責したらしい。よってあれ以降、堀川の人間が長船に関わろうとすることはなく。父の妹は鬼籍に入った後も尚、勘当が解かれることはなかった。
 堀川としては長船と完全に縁が切れた不幸な日。されどその時、長義は運命的な出会いを果たした。そう、その後ずっと、人生の半分以上の時間を特別な存在として心に居座らせることになる、山姥切国広と。
『あんた、暇か? 暇なら俺と手合わせ頼む』
 あの頃から国広は国広だった。
 小さな紅葉のような手が竹刀を握り、用意された客室の片隅で暇そうにしていた長義に、手合わせをしろと言ってくる。昔から、彼の世界は剣道を中心に回っていた。
 当たり前だが竹刀を握り始めて間もなかった長義が、既にクラブに所属し、めきめきと頭角を現し始めていた国広に勝てるわけがない。それに加えて、二年の年の差というのは身体面の差もそれなりにあり、今思えば技術的にも身体的にも、彼から一本を取れるはずがなかった。しかし、だからといってあからさまに手加減されてそれを良しとするほど、長義は殊勝な性格ではない。手加減するな! と怒鳴った己の言葉通り、加減無しでボロボロに負かされた時から、長義の理想とする剣士の姿はずっと国広になった。
「おー、今日は随分遅かったじゃねぇの」
 教室に到着すると、一年からの腐れ縁である南泉が話し掛けてきた。先日の席替えで偶々前の席になったこの男は、長義に酒と煙草の味を教えた、学内ではちょっとした有名人な不良だ。
「本当は体調不良だと言ってサボってしまおうかと思ったんだけど、やめた。今日は抜き打ちの小テストがありそうな気がしてね」
「げっ……! マジかよ……にゃ」
「冗談だよ。エスパーじゃあるまいに。俺にそんなことがわかるわけがないだろ」
 いや、本当は前回の授業中に、それとなく教師が仄めかしていたんだけどね? 
 不良なのに猫の鳴き声のような語尾で話す、先祖代々猫に呪われているという不思議な男。学校指定の黒いブレザーの中からは、派手な金刺繍の施してある黒シャツが覗き、首には同色のチョーカーが巻かれている。本人のあっけらかんとした人柄も相まって、彼は素行の割に皆から構われる中心人物的な存在だ。風紀委員に何度も注意された目立つ金髪は地毛。鋭い目つきに、ガンつける時に見せる細められた瞳孔は、まるで猫そのもの。長義はストレスが溜まってくると、この男をおちょくって発散するのが、ちょっとしたマイブームだった。
「今日は一服行くのか?」
「昼に少しだけ……猫殺しくんは?」
「だから、その呼び方やめろっての……! にゃ! 俺も行くから、そん時鍵持ってくわ」
「了解」
 先祖が化け猫を斬って呪われたというのだから、猫殺しくんってあだ名はなかなか的を射ているだろうに。その安っぽい呼び名が気に入らないのだと言う南泉は、毎回律儀に否定してくる。そんな反応もまた面白い。
 あっという間に時間は過ぎて、昼休憩になった。予鈴が鳴り、終わりの挨拶をして、弁当片手に長義たちは教室を後にする。行き先は屋上。どんなコネを使ったのか。屋上へ繋がる扉の合い鍵を持つ南泉のおかげで、長義たちは誰にも知られず学内で煙草をふかすことが出来ている。完全に封鎖された扉は年一回の屋上清掃の時のみ開放されて、それ以外は年中閉ざされっぱなしだ。そんな状態なものだから、教師たちもまさか合い鍵を持った生徒が封鎖された屋上に入り浸り、非行に走っているなんて夢にも思っていないのだろう。おまけに長義は生徒会長で、屋上清掃の日もすべて把握している。普通に考えて、長義たちのこれがバレるわけがないのだ。
「まーた彼女か……にゃ」
 早速スマホを取り出してSNSアプリを立ち上げた長義を、南泉が冷たい目で見てくる。
「まだ恋人ではない、かな。このまま俺から離れられないように、ずぶずぶに溺れさせる予定」
「うげぇ……おっも……」
「年季が入ってるからね。好きなように言うがいいさ」
 尻ポケットから煙草を引っ張り出し、慣れた手つきで取り出す。銘柄はセブンスター。一本でなかなか吸い応えがあり気に入っている。一度南泉に勧められてマルボロに浮気したが、結局この煙量感が恋しくなって出戻ってしまった。初めは家への反抗のために始めた喫煙が、今やそれなりに嵌まり込んでしまっているのは自覚がある。
《今週の金曜が道場の点検でオフになった。肉が食いたい》
 蕩けるような眼差しでもってして、国広から送られたメッセージを眺める。向こうから誘ってくれたことが嬉しくて、いつになく緩んだ表情を晒してしまった。
《店は俺が予約しておこう》
《いや、この前先輩に教えてもらった安くて美味い焼肉屋がある。そこに行こう》
 ふぅーっと白煙を吐き出して寝転んだ。ジャケットが汚れようがどうでもいい。会いたくて堪らなくなった。
 国広と再会するまで、剣道を奪われた日からはより一層強く、彼のことを想ってきた。恨みもした。長義は道を断たれてしまったのに、何故あいつだけが剣道を続けているのかと。山姥切国広の名が世間に知らしめられた、彼がまだ高校三年生の時に行われたインターハイ。団体戦、個人戦共に圧倒的な実力差を見せつけて勝利した、あの国広の試合を、長義はテレビ越しに観ていた。悔しかった。とても、言葉では言い表せないくらいに。だって、長義があのまま何の問題もなく高校でも剣道を続けていれば、僅か一年間の猶予ではあれど、国広と戦うチャンスがあったはずで。そのことを思うとやりきれない気持ちになった。
(お前は山姥切であって、山姥切ではない)
 国広が活躍する度に、父の纏う空気が剣呑なものになっていく。言うなれば、あれは『山姥切』の偽物。そう思わなければやってられなかった。
(そこは、俺の場所なのに……)
 国広とやり合う相手選手に、殺意に等しい嫉妬と憎悪を抱いた。救いようがない。本当に。綺麗な感情だけを彼に向けられない己が、心底嫌になる。
「抱きたいなぁ……」
 偶然バーで彼の姿を見かけた時は、心臓が口から飛び出すかと思った。あのバーの存在を教えてくれた南泉には、本人には言わないが頭が上がらない。
「お前なぁ……最低ここに極まれり」
「もう半年も抱いてない。ずっと生殺しだ。俺はよく耐えてる方だと思うんだけど?」
「まぁ、お前にしてはよくやってんじゃねぇの……にゃ。自分勝手が服着て歩いてるような奴がよ」
 バーで国広を見かけて通い詰めて、あの男の来店ペースを掴むまでに一ヶ月。そこからいつもあいつにべったりな兄が、国広から離れる隙を狙うこと二ヶ月。そしてようやく千載一遇のチャンスが訪れて、絶対にものにしたいがために南泉から分けてもらった睡眠薬まで盛って、あの一晩を手に入れた。
 涙ぐましい努力だったと思う。南泉曰くやることが極端過ぎてドン引き、だそうだけれど。あの日の自分によくやったとスタンディングオベーションを送りたいくらいには、あの一晩は人生で最高に幸せを噛み締めた情熱的な夜だった。
「そんなに言うなら抱けばいいじゃねぇか。もう何べんも会ってんだろ? にゃ」
「これだから猫殺しくんは……好きな子は大事にしたいっていう気持ちがわからないのか? そんなだからマドンナに猫ちゃん扱いされて振られるんだよ」
「う、うるせぇ! そのことは忘れろ! 大体お前が人を大事にとか、出来るわけねぇだろうが、にゃあ! 想像だけで昼飯吐くわ!」
 そもそも初っ端から強姦した時点で手遅れなんだよ! 
 実に耳に痛いことを言われて顔を顰める。確かにあの時はどんな形であれ何とか繋がりを持ちたくて、些か強引な手に出てしまった。あれから国広の警戒を解くのにどれだけ苦労したことか……正直、もっと手段を選べばよかったと若干後悔している。バーで口説いて口説いて口説きまくって、絆されてきた頃に丸呑みにするとか、そんな風に。
「いや、結局食う気満々じゃねぇか。……にゃ」
「そりゃ、連絡先なんて着拒したら終わりだからね。いざとなったら脅して縛り付けておけるくらいの材料は握っていなければ」
「……相手が心底可哀想になってくるぜ」
 要は長義に想われてしまったのが運の尽き、ということだ。
 国広が聞けば顔を真っ赤にして怒り出しそうな不埒なことを考えつつ。長義はいそいそと愛しい人に送るメッセージをしたためる。そのままちゃっかり二つ先の約束までもを取り付けて、手の中の煙草を灰皿に押しつけた。楽しみだ。自ずと満足げに口角が吊り上がる。
「あ、そうだ。あのマドンナって俺のことが好きらしいよ。残念だったね、猫殺しくん」
「てっめぇー! ブッコロス! にぁあー!」
「あっはっは!」


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