剣に迷いがある、と同田貫に言われたのは、稽古を終えて自主練をしていた時だった。
曰く、前よりも一打を繰り出す時のタメが長くなったと。そんな僅かな差異をも言い当ててしまうのは、やはりこの男の剣に対する並々ならぬ思い入れが、そうさせているのだろう。純粋に驚くと共に、神聖な稽古場に私情を持ち込んだことへの気まずさから、顔を俯けた。
「前に言ったろ。ぶったるんだことしやがったらブチのめすって」
「……そんな物騒な物言いではなかったが」
「今の俺の心境そのままを伝えたまでよ」
「……そうか」
右手に持った竹刀を壁に立て掛け、風の入る通気口の前に座り込む。素振りでかいた汗を拭えば、湿った肌の上を冷涼な風が通り過ぎていき、徐々に身体の火照りが収まっていった。
同田貫もまた国広の隣に座った。ぶっきらぼうな物言いとは裏腹に、その実気のいい男だということを、長い付き合いの中で国広は知っている。よって、彼が言葉通りに弛んだ剣筋を晒す国広を叱咤するためだけに来たのではないというのは、ちゃんとわかっていた。
「……出会いからして間違えてしまったものと、ずるずると関係を続けて、今さら断ち切れないでいる。このままではいけないとわかってるんだが……どうにも離れがたくてな」
「……」
隣に座る男は、何も言わない。そのまま続けろと空気で示され、促されるままに国広は言葉を綴る。
「正直、どうしたら良いのかわからない。断ち切るのが一番良いんだろうが……そうしたくない俺もいる。すまん。俺もまだよくわかってないんだ」
深いため息が漏れた。途方に暮れて、迷子になった子どもが涙目で右往左往している。右に行っても後悔、左に行っても地獄。なんて救いのない。
「よくわからねぇが」
と断りを入れて、同田貫が話し出した。
煮え切らない国広の言葉に苛立たせてしまっていたらと思ったが、盗み見た横顔は至って真剣なもので、少しだけ安堵する。そもそもこの男は、人からの相談事をやれ面倒だだの、そういうのは俺の仕事じゃないだのとぶつくさ言う割には、いざとなれば真摯に受け止めてくれる奴だった。今まで何度、そんな彼の誠実な態度に救われてきたことか。改めて、国広はこの男と出会って良かったと思った。
「つまり、基礎練ぶっ飛ばして手合わせばっかりしてたら、あちこち故障して身動き取れなくなっちまったってことだろ」
「……その例えはどうかと思うが……まぁ、そういうことだな」
「なら、いっそ今まで覚えた型も何もかも捨てて、また一からやり直しゃいいだけの話だろうが。なにも死ぬわけじゃねぇんだ。何度だってやり直して、また積み上げていきゃあいい。体幹トレーニングとかランニングとか、いくらでもやることあんだろ。迷ってる暇があんなら、さっさと腹括りやがれ」
「……!」
目が覚めたような気持ちになった。また積み上げていけばいい。その同田貫の言葉は、沈んだ国広の心に大きな風穴を開けた。
長義との関係を、一か零で考えていた。このままずるずると関係を続けるか、それとも縁を切って二度と会わなくなるか。それが同田貫の言葉でハッとさせられた。何も『今』に拘って考えなくてもいいではないかと。スタート地点に戻って、一度関係をリセットして、また新しく長義と関係を築いていけたなら……長義が頷いてくれさえしたなら。この半端な宙ぶらりんの状態を何とか出来るかも知れない。
「同田貫」
「あ?」
「手合わせ、頼む」
竹刀を持ち、試合前のように軽く一礼する。こちらを向いた男の顔が、好戦的な笑みを浮かべた。
「俺が勝ったら楼閣軒の醤油豚骨ラーメン奢りな」
「それは勝負関係なく奢ってやる」
「言ったな? 男に二言はねぇぞ。なら焼き飯と餃子も追加な。あそこぐぐなびで高評価だったから気になってたんだわ」
防具を身につけ、開始線に立ち、竹刀を構える。開け放たれた扉から入り込んだ風が、校庭に咲き乱れる桜の花弁を乗せて、向かい合う二人の間を横切った。ちらちらと舞い踊る薄紅色が床に触れるその瞬間、苛烈な打ち合いが始まる。
竹刀のぶつかる乾いた音に、酔い痴れる。
この音だ、と思った。久しく聞いていなかった、鋭い一閃から生まれる音。面の下でにたりと笑って、突き、払い、打つ。もう、迷わない。
「面……っ!」
首を洗って待っていろ。姿のない相手に宣戦布告して、力強く床を踏みしめる。同田貫の渾身の一打を払って打ち込んだ払い面は、ここ最近で一番綺麗に決まった一本となった。
*
その通知が届いた時、長義は「ついにきたか」と思った。
《話がしたい》
それ以外に何も書かれていない簡潔なメッセージは、長義のそれといい勝負である。自分でも言っていたが筆無精だという国広からのメッセージは、いつも長くて十文字程度の短いものばかりだ。しかも、その内容のどれもがその日に食べたい夕飯のリクエストだったり、長義からの誘いに対する可か不可の返事だったりする。
まぁ、長義から送られるもの自体が大概短いので、人のことを言えた義理ではないのだが……もう少し色気のあるやり取りをしたいというのが本音だった。
《何の話?》
《直接会って言いたい》
チッと舌打ちをする。大方この関係を解消したいとか、そんなところだろう。最近国広がやけに思い詰めた様子だったのは知っている。
「……そんなの、絶対許さない」
次に会うことになっていたのは、来週の日曜だった。今は大学も高校も春休み中。学生は皆暇を持て余している。だが、それはあくまで何の部活にも所属していない一般生徒たちの話だ。国広たちのようにいわゆる強豪校と言われる部類の体育会系の部に所属している者は、長期休暇になれば毎日部活に明け暮れ、却って授業のある日よりも多忙になるのが常だった。
「おー、おー、おっかねぇ顔」
何と返事をしようか考えていると、聞き慣れた声が思考に割り込んでくる。
「やあ、猫殺しくん。悪いが今君に構っている暇はなくてね。そこらへんの猫じゃらしで遊んでおいてくれないかな?」
「呼び出したのはお前だろうが! 馬鹿にすんのも大概にしろ! ……にゃ! てめぇ、今日という今日はぶん殴る!」
高々と宣言した割には加減のされた拳を避け、長義は苛立ちを露わに言った。
「本当にお前に構ってる時間はないんだよ」
「ハッ! 何だよ、ついに性格が悪ぃのがバレて振られたか?」
今まさにそうなりかかっているとは口が裂けても言えず、こめかみに青筋が立つ。大体、この俺から逃げようだなんて考えが甘いんだ。あの写真だってまだフォルダに保存されたままだし、こちらには未成年だという最大の切り札がある。今更どのツラして逃げおおせようというのか……。
「……な、なんだよ。もしかしてマジ……なのか……?」
「なに『図星ついちゃった』みたいな顔してるんだ。引っこ抜くぞ」
「何処を、にゃ!?」
慌てた様子で股間を隠す素振りをする男を、冷めた目で見る。そんな汚いものをわざわざ長義が直接手を下して引っこ抜くわけがなかろうに。尻尾だよ、その目に見えないけど無駄に楽しそうに揺れてるムカつく尻尾。まぁ、国広のモノならば、触るどころか扱くのも舐めるのもやぶさかではないのだが。
いけない、こんなことを考えていると余計にイライラしてくる。
《わかった。それなら個室のある店を予約する》
店員を呼びつけて勢いのまま酒を頼んだ。こうなったらやけ酒だ。
そう、今長義は居酒屋にいる。大学生たちがよく出入りするような、安っぽいチェーンの居酒屋に。すっかり飲酒が板についた長義は、偶にむしゃくしゃした時には南泉を呼び出し、こうして外で酒を呑むことがあった。それは逆も然り。そもそも国広と再会したバーに行ったのだって、元々はいい店を見つけたと言って南泉が長義を呼び出したのが、きっかけだったりする。最近は年齢確認の重要性が云々うるさく言われているが、それなりに混雑した時間帯を狙っていけば、余程怪しい行動をしない限りされることはない。流石にクラブは身分証明書の掲示が義務付けられているので、まだ立ち入ったことはないが。この悪友とはそれなりの数の店で杯を酌み交わしている。
安酒に溺れ気分よく騒いでいる男女の隣で、軟骨の唐揚げを摘みながらジンバックを飲み始めること数分。やきもきした気持ちで南泉を揶揄いながら返事を待っていると、机上に置きっぱなしにしていたスマホが新しいメッセージの着信を告げた。
《昨日引っ越した。一人暮らしになったから、俺の部屋でよければ来るか?》
「は?」
上擦った声が飛び出て、慌てて周りを見回す。幸いにも他の客たちは皆各々の会話に夢中で、誰も長義の素っ頓狂な声を聞いた者はいないようだった。向かいに座る南泉については敢えて触れない。これは空気だ。別に恥の一つや二つ見られたところでどうでもいい。
《行く》
気分としては、その二文字を打つのに一時間くらい掛けたような心境だった。まさかの申し出に、それまでの苛立ちも怒りも吹っ飛ぶ。我ながら現金なものだ。しかし、想いを寄せる人から自宅に……それも一人暮らしになったからと招かれるなんて、それで浮かれない男がいようか。いや、いない。
「今度は気持ち悪ぃ顔になってやがる……」
「そうだね。君の無駄話に付き合ってやれそうなくらいには気分がいい、かな」
「いや、本気で気味悪ぃからやめろ、にゃ」
人間というのは一度負のループから抜け出すと、色々と吹っ切れるもので。あれだけ会うのを渋っていたというのに、褒美をちらつかせられた途端に日曜日が楽しみになるのだから、手に負えない。
――そしてようやく迎えた約束の日。
「ここか……」
送られてきた住所を頼りに地図アプリを駆使し、長義は国広のマンションの前に立っている。
綺麗で管理の行き届いたマンション、というのが第一印象だった。何となく六畳一間の古いアパートで暮らしてそうなイメージを持っていた長義としては、少々意外である。玄関ホールの自動ドアを潜り抜けると、一番に目に留まったのは、壁に埋め込まれた客用のインターホン。整然と並ぶ数字のボタンを前に、一度深呼吸をして緊張を紛らわせる。
(……まさかこの俺がこんなに緊張するなんて、ね)
覚悟は決まった。どこからでも掛かってこい。そう気合いを入れ直し、ついに国広の部屋番号を押す。ピンポーン、というありふれたチャイムの音が鳴り、その後すぐに国広が応答した。
『……はい』
「俺だ」
ピッピッという小さな音が鳴り、玄関ホールとマンション内を隔てていたドアが開かれる。
『解錠した。上がってきてくれ』
「どうも」
国広の部屋に辿り着くまでの道のりが異様に長く感じた。特にエレベーターに乗っている間の時間ときたら。十一階に着くまで狭い空間に流れていたあの重苦しい空気は、まるで通夜のようだった。
部屋番号の記載された札を頼りに、奥へ進む。国広の部屋は一一〇三。角から二番目の部屋だ。表札の『山姥切』という三文字を見て、湧き上がってくる何かを噛み締めつつ、長義はドアの横にあるインターホンを押す。こんなに緊張したのは生まれて初めてかも知れない。扉の向こう側からドタドタと足音が近寄ってくるのを感じていると、そう間も置かずに内側からドアが開かれた。
「……いらっしゃい」
「ん……邪魔するよ」
部屋に入ると、荷解きがまだ終わっていないダンボールが、部屋の片隅にいくつか置かれていた。元々使用していた家具を持ってきたのだろう。真新しい部屋にしてはやけに使用感のあるソファとダイニングテーブルが、何ともちぐはぐな印象を抱かせる。
次に長義の目を引いたのは、部屋の奥に置かれたシングルベッドだった。なんの変哲も無い、如何にも大量生産されてそうな安物のベッド。しかし、あそこで国広が……と思うと腹の底から熱がこみ上げてきて、これはまずいと慌てて見なかったふりをする。部屋に来て早々に襲いかかるなんて最低な真似は、流石の長義もしたくない。
「適当に掛けていてくれ。夕飯の支度をするから……」
「……お前の手作りか?」
「そうだが……あー、無理にとは言わん。嫌なら出前でも、」
「いや、いただこう」
食い気味になってしまったのはご愛嬌だ。
そうか、と満更でもなさそうな相槌を打った国広が、椅子に引っ掛けていたエプロンを手に持ち、キッチンの前に立つ。エプロンの色は黒だった。国広の白い肌にはさぞ映えることだろう。なんて、どうしてか裸エプロン前提で考えている自分に気づき、ハッと我に返った。やはり相手のプライベートな空間に足を踏み入れるというのはダメだ。調子が狂う。
国広の『話』とやらが持ち出されたのは、少し辛めに味付けされたカレーで腹を満たし、腹を休めていた時のことだった。食後の茶を出された後、あからさまに表情を固くされれば、どんな鈍い者でも『そろそろか』と勘づくというもので。自ずと長義の背筋は伸び、本格的に聞き入る態勢になる。
「今日は突然すまなかった。話が、したくて……」
そう改まって語り出したその表情は、至って真剣なものだ。ふぅっと息を吐いた後、国広はまたおずおずと続ける。
「ずっと考えていた。このままあんたと身体の関係を持っていてもいいのかと」
「……」
「俺は嫌だった。前にも言った通り、俺はあんたを大切に思ってる。だから、こんな半端な関係のままなのは、その……」
――とても、苦しい。
ぐっと、膝の上に置かれた拳に力が入る。爪が食い込むくらいに強く、握り締めた。
(大切、ね)
残酷なことだ。国広の言う『大切』というのは、あくまで弟分に対する親愛のようなもので。されどそれは、長義が想う形とは違う、混じりけのない純粋な好意だった。そんなもの、長義は欲しくはない。己が求めるものは、もっとドロドロとしていて粘着質な、それこそ相手を囲ってでも己の手中に収めていたいという、欲まみれのそれだ。幼子のままごとのような淡い感情など、要らない。
「こんな関係は互いのためにならない」
これだけ狂おしいほどに想っているというのに。そんな己の内側に気づこうとしない男が、心底憎らしい。
「だから……、」
憎い、憎い。あの頃と同じだ。テレビの画面越しに見つめる長義の手は、いくら伸ばしても届かない。かすりもしない。掴むは、いつも虚ばかり。彼が輝けば輝くほど、どんどん手の届かないところに行ってしまう。それが妬ましく、羨ましく、それでいて強く惹かれて、ままならなかった。それがようやく触れることの許されるところまで落ちて来たかと思えば、このザマか。
「終わりにしよう」
ぶちり。
不穏な音が鼓膜の内側で響く。気がつけば己は向かいに座る国広の腕を掴み、ずんずんと乱暴な足音を立ててベッドの方へ向かっていた。これでは同じ事の繰り返しだ。そうわかってはいても、やはり想像の中で別れを告げられるのと、直接言われるのでは、受ける衝撃も押し寄せてくる激情の大きさもまるで違う。自分の感情が制御出来ない域にまで、あっという間に達してしまった。
「うわっ……!」
ベッドの上に国広の身体を投げ込む。強く背中を打ったのだろう。一瞬、痛みに歪められた顔を、冷めた目で見下ろす。
キャパオーバーとなった心は悲鳴を上げ、今も地べたに這いつくばりもがき苦しんでいた。なんと、滑稽な。嘲笑が漏れる。もう、どうでもいい。逃げられるものなら逃げてみろ。また追いかけて、今度という今度は骨の髄まで思い知らせてやる。自分が、どれほど狡猾で執念深い男を引っ掛けてしまったのか。優しく甚振りながらじっくりと教えてやる。
「な、長義……っ! 話はまだ、」
「いいよ。どうせ想像がつく。そんな忌ま忌ましいこと、ちらりとも耳に入れたくない」
さぁっと青褪めた国広の顔が、理性が残っていた時に見た最後の顔になった。
「お前はただ、俺に愛されていればいい」
今も昔も、俺にはお前だけ。ならお前も、俺だけで十分じゃないか。
なぁ、そうだろう?
*
もう何度達しただろう。
熱に浮かされる頭で考える。時折己の上で腰を振る男の汗が腹に落ち、その水滴が肌を伝う感触にまで感じてしまった。
「は、ぁ……ハッ……」
ぐちゅ、ずちゅ、と卑猥な水音を立てる入り口は、激しく出し入れされたせいで泡立っている。ゴポリと白濁が零れる感触が、何とも言えず気持ち悪くて。さらには中出しされてしまったことへの怒りと、話を聞いてすらもらえなかったショックとで、最早身体も心もぐちゃぐちゃだった。
どちらのものとも知れぬ精の匂いが、部屋中に充満している。視覚も、聴覚も、嗅覚も……五感すべてが男に犯し尽くされ、自分が男の所有物になったような錯覚に陥った。すっかり男の形を覚えた穴は、年下のくせに立派な大きさのそれを根元まで咥え込み、狂喜しながら肉壁をうねらせている。はしたない。熱を上げていく身体とは裏腹に、心が冷え切っていく。いくら繋がろうと、触れ合っても、本当の意味で国広と長義が結ばれることはないのだ。ならばこんな恋人同士の真似事のような行為に、何の意味があるのか。
貪られれば貪られるほど、芯の部分が凍り付いていくのを、他人事のように眺めた。
「うっ……ひ、く……、」
視界が歪む。ひっきりなしに上がる嬌声と嗚咽とで、呼吸が苦しかった。
意識を失いそうになれば軽く頬を張られ、強制的に覚醒させられる。ここまで手酷く抱かれたのは記憶にある限り二度目だ。そこまでするほど、国広の想いが煩わしかったというのか。
「泣くな」
「アッ……は、ぅ……あ、あ、」
好きだ。心の底から、愛している。身体だけではなく、本当は心だって繋がりたかった。
「……っ」
「ちょう、ぎ……ごめ、」
ぎゅっと、己の顔を覗き込む男の頭を抱き締める。
虚しい、悲しい。助けてくれ。もう何も考えたくない。己が今縋りついている男は、国広をこんなにした張本人だというのに、混沌に沈んだ頭ではその判断がつかない。馬鹿のひとつ覚えみたいに、何度も何度も長義の名前を呼んだ。律儀に「どうかしたかな?」と返事をしてくれる彼の声は、されど感情の一切をそぎ落とした冷たいそれだ。
「す、き……」
聞きたくない、と。そう言われてしまったけれど。それでも溢れてしまう感情の捌け口を見出せないのは、辛い。
「ふ……っ、ちょうぎ、すき、だ……っ」
すき、すき。
「え……?」
不意に、律動が止められた。
一体どうしたのかと顔を上げると、ポカンと口を半開きにした男の顔が映し出される。何をそんなに驚くことがあったのだろうか。長義の驚愕が伝染して国広の方まで呆けてしまい、二人の間に流れる空気が固まった。その時、動きを止めた剛直を咎めるようにナカが波打ち、未だ男を受け入れたままであったことを思い出す。
「今、すきって……」
「あ……すまん。お前は、聞きたくないと言っていたが……つい……」
「ちょ、ちょっと待ってくれないかな」
聞きたくない? 何を? 何のことを言っているんだ?
立て続けに問われ、その勢いに思わず仰け反る。みるみるうちに血の気を失っていく彼の顔が浮かべる表情は、いつになく必死の形相だ。
「何って……俺が告白して、もう一度関係をやり直そうと言おうとしたら、お前が聞きたくないと……」
はぁあ……と嘗てないくらいに深いため息を吐かれたのは、その直後のこと。そして、勘違いでないのなら……国広の後腔に突き入れられた長義の分身が、どんどん萎えていっている。
「……一度抜くぞ」
「んっ……」
ずるり。
突然逸物を抜き出され、声が漏れる。すぐにベッドの上で正座した彼は、何やら思い詰めた様子で、己は何か変なことを口走ってしまったのだろうかと急に不安になってきた。
「長義……? ん、」
軽く唇を啄まれる。それだけでは足りなかったのか。そのまま続けて、ちゅ、ちゅ、と同じ場所へキスを落とされ、果ては力なく投げ出された手の甲へと口づけられた。さっきからおかしい。一体どうしたというのだ。今まで散々身体を重ねてきたけれど、彼が行為を中断するなんてことは一度もなかったのに。
(まさか、)
己の気持ちを知って、行為が続けられなくなるほど萎えたとか……?
思考がどんどん悪い方へと転がり、息を呑む。ひと度思いついてしまえばそれが正解としか思えなかった。仮に国広の予想が本当のことだとしたら、暫く立ち直れない。食事だって碌に喉を通らなくなるだろう。もし顔を合わせるのも嫌というくらいまで拒絶されてしまったら、自分は……果たして気が狂わずにいられるのだろうか。
「勘違いをしていた……お前が俺から離れたがっていると」
「そんなこと……っ!」
「だから、無体を強いた。本当にすまない……」
そう言い終えるや否や、彼は深く頭を垂れた。
(謝られた……?)
今日は本当にどうしたんだ。あのプライドが高く、いつも自分の思うがままに振る舞う奔放な男が、頭を下げるなんて。驚きのあまり言葉を失い、唖然と長義のつむじを見つめる。そして、水面に映り込む月のような冷涼な銀が、はらりと耳元から溢れた時。国広はある考えに行き着いて顔色を変えた。
「……もう、会いたくないのか」
「は?」
そうだ、そうに決まっている。本気になられて迷惑になったから、縁を切ってやろうと。だから、最後ぐらいは今まで好き勝手したことを詫びてやるくらいはしてやろうと、そういうことか。
「これで最後にするつもりだろう……? その、……萎えるほど、俺のことを嫌いになったから」
つ、と。泣きそうな顔で長義の股間へ視線を下ろす。見るに堪えない情けない顔をしているのは自覚済みだ。すると、その視線の意味を察した彼が、茹で蛸のようにカァッと耳まで赤くした。さらにはプライドを刺激されたが故か、頬を引き攣らせる。その後、死刑判決を待つ罪人のような気持ちで返事を待っていれば、バツの悪そうな顔をした長義が、おずおずと話し出した。
「……これは、あれだ。あまりにも俺が愚かだったから……自己嫌悪で萎えただけだ。言っておくが、俺がお前の身体に欲情しないなんてことは、絶対ない」
「……っ」
「あー、クソッ! 最悪だ……こんなことになるなら、さっさと言っておくんだった」
――好きだ。
ぐっと引き寄せられ、甘やかな低い声が直接耳の穴に吹き込まれる。何を言われたのか理解が追いつかなかった。「へ、」と間の抜けた声を出して目を見開くと、何かを懇願するような、切望するような……まるで捨てられるのを恐れる子犬のような瞳をした長義の顔が、焦点がぼやけるほど近寄ってくる。
「ん、む……ぅ」
「……はっ」
戯れに舌先が突き入れられ、くちゅくちゅと口内を舐め回す。もう何度もイかされたというのに、また下腹部が疼いた。こんなの、期待してしまう。
「いま、あんた――」
「降参だ、国広」
ぎゅうっと力一杯抱き締められ、いよいよトドメを刺される。
「ずっと……好いていた」
「おれ、も」
「……馬鹿。お前よりも俺の方が、年季が入ってるんだよ」
それはどういうことなんだ、と問おうとしたら、口封じのためにキスされて、有耶無耶にされてしまった。明日の自分が覚えていられるかは自信がないが。もし記憶が残っていたら問い詰めてやろうと、こっそり心のメモに記録しておく。
(あぁ……)
想いを通わせた後のセックスは、こんなにも気持ちのいいものなのか。一方的に蹂躙されるのではなく、共に熱を上げていく行為の愛おしさよ。情交とはよく言ったものだ。情を交わす。まさしく、今の自分たちに相応しい。
「ふ、……」
「……国広?」
おもむろに、長義の首へ腕を回す。身体を起こし、自ら強請るようにしなだれ掛かると、長義は予想外の行動に出た国広に、躊躇いがちに瞳を揺らした。自分から迫る時は飄々としているのに、いざ自分が迫られると戸惑う彼が愛らしい。
「弟だと……思っていた」
額を肩に擦り寄せる。すん、と匂いを嗅げば、長義が好んで身につけている香水の香りと汗の匂いがした。落ち着く。愛しさが溢れて、止まらなくなる。貪欲な心はもっともっとと際限なく彼を求め続け、抱き着く腕に力が籠もった。我ながら呆れてものが言えない。長義はこんなにも己を想ってくれていたのに。そんなことにも気づかず不用意なことを宣って、深く傷つけてしまった。反省してもし足りない。
あれだけ頑なに彼を弟だと言っていたのは、今思えば無意識下に張られた一種の予防線のようなものだったのだろう。あるいは願掛けだったのかも知れない。彼が離れていかないようにという、切実な願いを込めた。
「恋なんて碌なもんじゃない。すぐに消えてなくなる。あんたとだけは、ずっと離れたくなかった……だから弟で十分だった」
「それ、は……」
「……ダメだってわかっていた……兄弟にも言われたからな。母さんのこともあるから……長船とは関わらない方がいいと」
「な、!」
「それでも、一緒にいたいと思ってしまった……もう、とっくに手遅れだ」
無理だ、無理なんだ。
今更、長義を知らなかった頃の自分に戻ることなんて、出来やしない。
「……くにひろ、」
噛みつくようなキスをした。呼吸を奪い去る、深くて激しいそれを。そこから先は言葉も無く、ただ無我夢中に互いを貪り合った。
腹の上に吐き出された乾きかけの残滓を菊門へ塗り込み、慎重に指を増やしながら穴を広げられる。とはいえ少し前までずっと彼を受け入れていたのだ。痛みはなく、そこは今にも挿入出来そうなほどにすんなり解れてくれた。
「アッ……ん、」
暇を持て余した長義の左手が、胸の飾りを引っ掛ける。
「ん……はぁっ」
ヒリヒリとした痛みが疼きに変わり、乳首に吸い付く男の頭へ、もっと、と上半身を押し付けた。
「ふ……欲しがりだな」
「まぁ、な……だから、そら」
ごろん。
唐突に国広が長義を押し倒し、その上に馬乗りになる。それだけで、国広が何をしようとしているのか漠然と察したのだろう。面食らった顔をした彼は再び顔を赤らめ、躊躇いがちに国広の腰へと手を伸ばしてきた。
するり、と肌を滑った両掌が、官能を刺激するべく不埒に腰を這い回る。
「っお前から言い出したんだから、最後までちゃんとやれよ?」
頬はまだ少し赤いまま。けれどもそれを隠すように余裕ぶった笑みを浮かべ、長義が挑発してくる。
「……言われなくても」
恐る恐る自分の尻穴へ手を伸ばした。長義には好きなように触れさせていたその場所だが、自分で触ったことはない。いまひとつ踏ん切りがつかず固まっていると、何か言いたげな顔をした長義が擦り寄ってきて、擽ったさから小さく笑った。
「なぁ、」
「うん……? ふ、」
「……良い眺めだな」
「……っ! ん、」
ぐぷっ。
窄まりに指を入れる。散々弄られて奥の方まで白濁を塗りつけられたそこは、早く長義を迎えたいと言わんばかりに熱くうねっていた。まるで女の性器ではないか。こんな恥ずかしいところを今まで想い人に晒していたなど……羞恥だけで死ねる。比喩ではなく本気でそう思いながら、尚も腰をゆらゆらと揺らした。
「まだか」
冬を思わせる青瑠璃が、己の痴態を映す。
「いや、今いれる……から……っ!」
「待てない」
「はぁ、っ!?」
ずちゅん!
めりめりと焦れた亀頭が侵入してきた直後、一気に最奥まで貫かれて意識が飛んだ。なんて奴だ。何も言わずにいきなり下から突き上げるなんて。さらには偶々なのかそうでないのか、良いところをピンポイントで抉られてしまい、腰砕けになる。膝立ちすら保てなくなって長義にもたれかかった。足が震えている。先程強制的にイカされた時の余韻は、まだ身体の中に残っていた。あまりの衝撃で気をやりそうになったが、寸でのところで意識を繋ぎ止める。
「ぁ……は、」
長義が動く気配はない。どうやら馴染むまで待っていてくれるつもりらしい。だが、それも一体いつまで続くものか……。と、ぼんやり考えていたら、こてん、と小首を傾げた彼があざとく問うた。
「動いて欲しい?」
「……な、」
「お前が言うまで動かない。なぁ、俺にここを、奥まで犯して欲しい?」
乱暴に尻たぶを揉まれ、穴が締まる。すかさず耳元で「締まったな」と囁かれて、居た堪れなくなり顔を俯けた。いちいち報告してくるな、くそ。確信犯め。やっぱりかわいくない。
「くにひろ?」
「……いわ、ない」
「俺も辛い。早くお前のここを突きたいんだ。それから、もっと奥まで犯して、犯し尽くして……俺のものだって証明したい」
つ、と。爪の先まで整えられた指先が、雄の根元から下腹、そして臍のあたりまでを順に辿っていく。指先が触れるその下を長義の怒号が犯す様を想像して、喉を鳴らした。その間にも国広のナカはきゅんきゅん長義のモノを締め付けて、欲を煽り続けている。
は、は、と短く息をする。餌を前にした躾のなってない犬のように。『待て』はそろそろ限界だ。国広も、長義も。
「長義……」
「……」
「お、犯して……っあ、ァア!」
言い終わるか終わらないかというタイミングで、ズンッと大きく突き上げられた。薄い下生えがじょりじょりと尻に当たり、相当奥深くまで挿入されているのをまざまざと実感させられる。みっちりと咥内を満たした肉棒は擦れる度に感じるところを掠め、気を抜くとすかさず咎めるように前立腺を狙ってくるから、タチが悪かった。
「あー……たまらない」
「ぐ、ぅ……んあっ、ちょ、ぎ……っ、アッアッ」
ゆっさゆっさと上下に揺さぶられ、嫌々と顔を振る。今までにないほど奥まで貫かれて、初めての感覚に、待って、お願い、止まって、と制止をかけるが、興奮しきった彼が動きを止めることはなかった。
「国広、」
不意に、頬に温かいものが触れた。何とはなしに顔を上げると、うっとりとした顔でこちらを見る長義の姿が、視界いっぱいに映し出される。
「やっと……」
「……え、?」
「俺を、見た……」
言葉を返す暇も与えず、言葉も嬌声もすべて彼の唇に吸い込まれていく。
腰のラインを辿り、頬を撫で、耳裏を擽っていた彼の左手が、汗でこめかみにへばりついた金糸を払い落とした。愛しそうに触れる指先は、言葉にせずとも国広に向ける感情の意味を明確に表していて。度が過ぎる多幸感に溺れてしまいそうになる。
この深く暗い青に溺れて、呼吸すら奪われたなら。この身体の爪から先まですべてを、彼に捧げたことになるのだろうか。
たった一太刀で心奪われてしまった。
神をも恐れる必殺剣術。彼の剣を知ったその瞬間から、国広は既に長義の間合いの中に足を踏み入れてしまっていたに違いない。さらには間合いを見誤るだけでは飽き足らず、その一閃の輝きに魅入られ、とうの昔に戦意喪失していたというのだから、剣士失格である。そもそも相手の鞘から刀身が抜かれたことに気づかなかった時点で、逃れることなど元より無理な話だったのだ。
「長義、好き、好きだ」
「っ、」
「ぁ……すき、ん、ぅ……っ!」
ズズ、と秘孔を犯され、コツコツと最奥をノックされたその時。腹の底に溜め込んだ想いのカケラが、言葉となって溢れ出す。国広が好意を言葉に乗せれば乗せるほど長義の動きが激しくなり、終わりまで一気に駆け抜けた。精を放った後、折り重なるように倒れ込み、射精後独特の倦怠感に苛まれながらも、だらだらとキスをしたり触れ合ったりなんかして甘いひと時を過ごす。
熱くて、熱くて、溶けてしまうのではないかと思った。炉で熱され形を失う鉄屑のように、ドロドロになるまで燃やされ続け、溶けて、混ざり合い、一つになれたら。それ以上幸せなことはない。
「国広」
ただただ、愛しさが降り積もる。
「す――、」
ちゅう。
続けられるはずだった愛の言葉を、今度は国広が奪い去る。これはちょっとした仕返しだ。今までずっと、奪われ続けてきた意趣返し。
「長義……愛してる」
猫のように吊り目がちな双眸が、月のように丸くなる。
その様をクスクスと笑ってやれば、我を取り戻した彼が頸に噛み付いてきて、互いに眠気が襲ってくるまでひとしきり戯れ合った。