*Rental Love

TOUKEN RANBU
 RentalLove

 閑静な住宅街。
 高級住宅街から少し歩いたところにあるその高層マンションは、大物芸能人や政治家、医者といった富裕層の人間たちが住んでいることで知られている。そんな格差社会の代表格のような伏魔殿のエントランスを、大量生産されたTシャツに黒パーカー、細身のデニムといった無難な出で立ちの青年が通り抜けていった。青年自身は何処にでもいる至って普通の庶民。本来であれば、こんな場所は縁遠い存在である。
 では何故、青年がここにいるのかというと、それは、本日の『仕事先』がこのマンションの二十五階の部屋だったからだ。
「……ここか」
 マンションの表札に書かれた苗字は今時珍しい山姥切。奇しくもそれは、青年――国広と同じ苗字であった。今回の仕事相手が同じ姓を名乗る男からだと知った時は、何の悪戯だと疑心暗鬼になったものだが、どうやらあれは本当の情報らしい。
 ――ピンポーン。
 知らない人間の家を訪ねるのも、もう慣れたものである。こんなバイトをしていれば自宅まで迎えに来いというのは日常茶飯事。今更インターホンを押すのに躊躇いなんて覚えない。流れ作業のようにチャイムを鳴らし、暫くドアの前で待っていると、ややあってからひび割れた音声がスピーカーから漏れ聞こえてきた。
《……はい》
 やはり、男の声だ。国広は途端に湧いて出てきた緊張感を押し殺し、努めて淡々とおきまりの口上を述べる。
「本日はご指名頂きありがとうございました。レンタル彼氏『ティー・アンド・ディー』の山姥切国広です」
《は?》
 しかし、いつもならすんなり出てきた相手と共に、事前に依頼されていた場所でデートをする(今日の場合は映画館だ)……という流れなのに、何だか様子がおかしかった。これは、と。これまでに何度かあったイレギュラーを思い出して、国広は内心憂鬱なため息を吐く。
《どういうことかな?》
「八月十一日に依頼があったので、派遣されました」
《八月十一日……?》
 こういう時はしっかりと依頼日の日付を伝えるに限る。すると、初めこそ訝しげな声を出した男であったが、自身の心当たりに行き着いたのだろう。暫く経ってから、「あー……」という諦めたような声が聞こえて、その直後にドアの鍵が開けられた。
「君がティー・アンド・ディーのキャストか……男部門もあったんだね」
 ドアから顔を出した男は、国広と同い年くらいに見えた。長く伸びた銀の前髪から覗く、気位の高い猫を思わせるつり目がちな目元に、スッと通った鼻筋。同じ男の目から見てもかなりルックスが整っていることが伺える。首元には何処かのブランド名が刻まれた品のいいシルバーアクセサリーが光り、程よく筋肉のついた身体のシルエットを際立たせる、タイトめの黒いVネックシャツが嫌味なくらいに似合っていた。
 レンタル彼氏に依頼してきたくらいなのだ。今からデートに行くつもりは一応あったのだろう。さらさらと流れる銀の髪はソフトめのワックスでさりげなくセットされている。
「ということは……」
「間違えた」
 だろうな。男の反応からして今日の依頼が間違いであったことは薄々察していた。だから今更焦りはしない。特に今回の依頼は客からの直接の依頼ではなく、正社員経由での紹介依頼であったのだ。手違いがあってもおかしくなかった。
「おかしいとは思ったんだ……だが、最近はそういう性的嗜好の人間も増えていると聞いてたから、まぁそういうものなのかと。すまんな」
「こちらこそすまない。今日の依頼費は出すよ。五万で足りるかな?」
 徐に尻ポケットから長財布を取り出した男に、国広はギョッと目を剥き慌てて彼を制止する。
「五万なんて、そんなにもらえない」
「ならいくらだ? ミスオーダーしたんだ。普通より多めには出すよ」
 そうしている間にも誰もが知っている有名ブランドの財布から、続々と一万円札を取り出していっている男を見て、国広は頭を抱えたくなった。住んでいるところからして裕福そうだとは思っていたけれど。これは少し……いや、かなり金銭感覚のズレた別次元の世界の住民だったようだ。
「……依頼費用は高くても一万円くらいだ。別に衣装代や食事代だってかかっていないし、このまま解散ならむしろもっと安くてもいいくらいだ」
「ふぅん……だが借りを作ったみたいで釈然としないな」
 あ、そうだ。
 暫く何事かを考え込んでいた男は、突然何かを思いついたとばかりに声を上げた。てっきりこのまま解散するのだろうと思っていた国広はというと、そんな男の様子に首を傾げる。そこまで気に病む必要はないと思うのだが、男は相当義理堅い性格なのか、単に人に借りを作るのが許せないタイプの人間なのか。それならばと代替案を提示してきた。
「部屋の掃除、炊事、洗濯」
「……は?」
「自宅デートみたいなものだと思えばいい。本来俺が買い取るはずだったお前の時間を使って、少し肉体労働をしてもらうだけだ」
「……性的サービスは会社の規定で禁止されています」
「誰がお前なんかに勃つか。自惚れるな。ほら、さっさと入りなよ」
 大抵こういうタイプの人間は、もっと警戒心が高くてそうそう自宅に他人を上げないのではなかろうか。男よりももっと釈然としないモヤモヤを抱えつつ。国広は渋々指示通りに部屋へお邪魔することにする。もしあそこで解散していたのなら、今頃は自宅に帰って一週間後に提出予定のレポートを進めようと思っていたのに。そう考えると何とも無意味な時間を過ごしているように思えてきて、気分が落ち込んだ。
「適当にかけてて」
 そう言ったきり、男はキッチンの方へ向かう。広々としたリビングルームに置き去りにされた、無駄に大きな対面式のソファに腰掛けて、国広は男を待った。それから、あまり他人の家をジロジロと見るのは良くないとわかっていても、つい出来心で部屋の中を見回す。
 極端に物が少ないモデルルームのような家だ。現在売り出されているものの中では恐らく最大サイズなのだろう大きな薄型テレビが、西洋を思わせるレンガ調の壁に嵌め込まれている。その部分以外の壁は全部がガラス張りとなっており、街一帯を一望出来る部屋の眺めは、圧巻の一言だった。男以外に人の気配はない。荷物も見当たらないので、贅沢なことにこの家には男独りで住んでいるのだろう。そこまで確認したところで、両手にティーカップを持った男が戻ってきたため、自ずと国広の意識は男の方へと向けられた。
「何か珍しいものでもあったのかな?」
「……別に。掃除が必要なほど汚いわけではないな、と」
 部屋を凝視していたのを気づかれていたことに、若干気まずい思いをしながら答える。
「あぁ……確かにそうだね。でも水回りの掃除は面倒だし、せっかくだからお願いしようかな」
 そこから二人は色々な話をした。互いの年齢(なんと同じ大学二年だった。格差社会の酷さを目の当たりにして遠い目になったのは秘密だ)、通っている大学、専攻している学科、趣味、レンタル彼氏に依頼した経緯、互いの彼女歴……話せば話すほど、驚くほどに男――長義と国広は共通点が多かった。特に彼女遍歴に関しての一致具合は眼を見張るものがあり、どんどん話は盛り上がっていく。
「女っていうのは碌なもんじゃないね。人を散々財布代わりにしといて、最後にはプライドを傷つけられたからって思いきりビンタだ。何が不満なんだろうな? 欲しいものは買ってやったし、連れ歩くのに俺は十分な素材だろ? セックスだって上手いし」
 身も蓋もない言い方になっているのは、互いにそれなりに打ち解けたが故だ。
 そんな彼の赤裸々な愚痴に引くことも憤ることもなく、うんうん、と何度も頷きながら国広は話を聞き続ける。まったくの同意見だった。セックスが上手いとかそこらへんの話は置いておいて。女が碌なもんじゃないという意見には全面的に同意する。こちらをいいように振り回しておいて、最終的につまらない男とか何とか理由をつけて次の男へ乗り換えられる……という経験は、国広とて何度も経験してきた。よって、長義の話に共感することは多かった。
「この俺を袖にするなんて……何様のつもりなんだ」
 そう語る長義の背後に般若が見える。なんと、モテそうだと思っていた長義は、最近彼女にフラれたばかりなのだとか。曰く、「どうせ私のことなんて本気じゃないんでしょ!」と一方的にヒステリックに叫ばれて振られたとのこと。レンタル彼女に依頼しようと思ったのもそれが主な理由らしい。「どうせ本気じゃないんでしょ!」というならば、こっちだって薄っぺらい偽物の恋愛ごっこをしてやる……という何とも捻じ曲がった鬱憤発散目的の利用だったそうだ。
(こいつもこいつで、色々と大変だったんだな……)
 憎々しげに過去のあれこれを語られて、国広は同情を覚えると共に彼に触発されて嫌な記憶が蘇ってくる。彼の話を聞きながら、赤べこよろしく頭を振っていたら、お前もこの際だから吐き出せばいいと言われたので、お言葉に甘えて最近あった出来事をぶちまけることにした。
「このバイトをする前に、二年くらい家庭教師のバイトをしていたんだが」
「うん」
「ある日大学の前で小学生の頃から担当していた生徒が待ち伏せしていて、突然婚姻届を渡された。記入済みのやつだ。どういうことだと理由を聞いたら、結婚してって言ったら頷いてくれたからと。……小学生の言葉だからと舐めてかかっていた俺も悪いが……断ったら親から大クレームを入れられて、危うく警察沙汰になりかけた」
「それは……なかなかに酷いね」
「それだけじゃない」
 こめかみに青筋を立てた国広の勢いに、長義が頬を引き攣らせる。話をしていいと言ったのは長義の方なのだ。別に構うこともない、と彼の反応は気にせず国広は話を続けた。どうせ今後会うことはない相手だ。今ぐらい好きに愚痴ったって何の問題もないはずだ。
「この前は知らない女と勝手に付き合っていることにされていて、その女の彼氏に大学の食堂で怒鳴られた。おかげで俺は彼氏持ちの女に手を出した最低男だ……誤解を解くのに一ヶ月もかかった。別れた元カノからは復縁を乞う連絡が次から次へと入ってくるし、ストーカーまで湧いて引っ越しすることになったし……どいつもこいつも……っ」
「……うん、もういい。もういいんだ……とりあえず紅茶でも飲みなよ」
「いただく」
 ずるる、と音を立てて紅茶を啜る。何とも言えない空気が二人の間に流れた。生温かい目で見つめられ、その視線の意味を探る。これはあれだ。同情、憐憫、安堵……俺よりももっと酷い目に遭っている奴がいたのかという、自分を見下す目だ。
「その目、気に入らないな……」
「はいはい、クッキーもいるか?」
「食べる」
 むぐむぐと出された菓子を食らいながら、ふと思い出した。自分がこの部屋にきた理由を。これでは自分がサービスをするどころか接待されている側ではないか。いくら渋々長義の提案に乗ったとはいえ、流石の国広もこのままではまずいと焦り始める。せめて水場の掃除と、食器洗いと……夕飯の支度は、この高級食材に慣れていそうな男の舌を納得させるだけの自信がないので、回避したいところだ……あとは洗濯くらいか? それぐらいはして帰らなければ。
「さて、水回りの掃除だったか。仕事はちゃんとやるぞ」
 かちゃり、と。
 空になったティーカップをソーサーへ置き、その場で立ち上がる。腕捲りをしてやる気満々といった風に指示を待っていると、長義はそんな国広を一瞥した後、気怠げに言った。
「もういいよ。プロの家政婦に頼んだ方が綺麗にやってくれるし。それよりまだ愚痴り足りないな……もういい時間だし、飲みにでもいくか?」
「……行く」
 一緒に行くのが俺でいいのなら、とぼそぼそと確認すれば、今更何言ってるんだと鬱陶しげに一蹴される。散々つまらない男だと言われて振られ続けてきた国広だ。会話が下手な自信だけはやたらとある。しかし、そんな自分でもいいのだと、何を当たり前のことをと言わんばかりに飲みに誘ってくれた男に、国広はほわほわと心が浮き足立つのを感じた。初めこそ気難しくて取っつきにくい、典型的な金持ち男かと警戒したものだが、話してみればなんてことはない。彼もまた、国広と同じただの大学生だった。
 一度打ち解けてしまえば、これまで男に対して感じていた親近感はさらに大きなものとなっていった。

「らっしゃーい!」
「二名様ですね〜。二名様ごあんなぁーい!」
 飲みに行こう、と言っても、高級住宅街のど真ん中にある長義のマンションの周りには、酔っ払いたちがうろうろと徘徊する繁華街なんてものは当然ながらない。ちょっとそこまで、ということが出来ないので、せっかくだからと少し遠出をすることにした。
 何度か電車を乗り換えて揺られること三十分。金曜の夜ということもあり、繁華街は仕事帰りのサラリーマンや、ちょっと羽を伸ばしにやってきた学生たちといった人々で賑わっている。わいわい、ガヤガヤ、と騒がしい大通りを長義と肩を並べて歩き、途中見つけたチェーン店の居酒屋へ入ることになった。長義は意外なことにこういった大衆向けの店には慣れているようで、特別何の反応もせずに、店員に案内されるがまま店の奥へと歩を進めていく。
「てっきりシェフを呼んでくれとか言い出すかと思っていた」
 思ったことをそのまま伝えれば、不快そうに顔を顰めた長義が得意げに鼻を鳴らす。
「俺もお前と同じ大学生なんだけど。ゼミの集まりとかで何度か来たことぐらいあるさ」
(何度か……?)
 深くは突っ込むまい。藪をつついて蛇が出たら反応に困るからだ。
 初めはビール一杯だけで済ませるつもりだったのだが、話がどんどん盛り上がるにつれて酒のペースも上がり、気づいたら単品ではなく飲み放題プランを追加注文していた。酒のバリエーションが若干減ったことに長義は不満そうにしていたけれど、量を飲むと腹を括ったからには心臓にも財布にも悪い単品飲みは、庶民の金銭感覚では躊躇われる。かといって、馬鹿正直にそんなことを話そうものなら男の矜持が傷ついてしまうので、最終的に「男は黙ってビール一択だ。それなら何も問題はないだろう」という下手くそ過ぎる言い訳をした国広は、その時点で相当酔っぱらっていた。
「俺たちは女難の相があるに違いない。名の通り、先祖が曲がりなりにも女を切ったから、呪われてるんじゃないか?」
 真剣な顔をして言えば、アルコールが入って笑い上戸になった男が腹を抱えて笑い出す。
「ははは! それは愉快な考察だ!」
 ひーひー言いながら豪快に笑い続ける男は、相当酔いが回っているのか。店員が回収し忘れた空のビールジョッキに日本酒を注ぎ始めた。しかも何故そこで親切心を発揮したのかわからないが、なみなみ日本酒を注いだジョッキを国広に手渡してくる。流石にそれは無理だ、と反射的に断ろうとしたものの、アルコールによって著しく判断力が落ちた頭では上手く拒否の言葉を伝えることも出来ず。気づいたら半ば無理矢理押し付けられてきたそれを受け取ってしまっていた。
 じぃっとジョッキを見つめてぐらぐら揺れている国広を他所に、長義はさらに日本酒をオーダーし、届けられたそれを今度は己のビールジョッキに注いでいる。ビールと日本酒が合わさったそれは、よくわからない毒薬と化した。地獄絵図だ。だが気分は悪くない。ふわふわとした思考回路は、今日知り合ったばかりの女難仲間兼戦友を得たことで、嘗てないほどに舞い上がっている。今ならチャレンジメニューの特大ジョッキビールだって一気飲み出来そうだ、などとそんなバカなことまで考えた。
「お前はこの山姥切の姓で顔を売っているのだから、今日から俺の偽物くんだ!」
 あぁ、酔っ払いはタチが悪いな。
 典型的な絡み酒と成り果てた男を前に、国広はちびちびとビールジョッキに注がれた日本酒を消化していく。俺は偽物じゃない、と反論したところでそんなものは糠に釘、暖簾に腕押し。わかりきったことであったが、言われっぱなしなのは、元来負けず嫌いな国広にはどうにも我慢出来なくて。それからは偽物偽物と呼ばれる度に、ネチネチと反論してやった。
「何でお前、こんなに嫌な目に遭ってるのにレンタル彼氏なんてやってるんだ?」
 もう数えるのも億劫になるほどにグラスを空けた頃、思い出したように長義が問うてくる。ここまで愚痴を垂れておきながら、国広のしているバイトのことを不思議に思うなという方が難しいというのは、我ながら自覚していた。だからこそ、変にはぐらかすこともせずに正直に事のあらましを説明する。
「あんまり面白くない、つまらない、と言われるものだから、人並み程度には女の扱いに慣れておきたいと思ってな。それに、こちらが嫌だと思っても向こうから寄ってくるんだ。厄介ごとにこれ以上巻き込まれないためにも、自衛の方法を学んでおきたかった……依頼を受ければプロフィールが送られてくる時に、女がどういうものを好んでいるかとか、どういうシチュエーションに憧れているかとかがわかるだろう? だから、このバイトは俺には色々と都合がよかったってわけだ。バイト代も結構弾むしな」
 まぁ、そんな努力も今のところは無駄に終わっているのだが。
 そう自嘲すれば、それまでふにゃふにゃとしていた長義が、唐突に表情を引き締める。こちらを見る目には同情や憐憫といった類いの感情は一切なく。ただ静かに、国広の目を見つめていた。
 凪いだ海の如く、二つの瑠璃色の瞳が穏やかに光を反射する。その輝きにかかれば、居酒屋のギラギラしたやけに自己主張の強い照明の光も、たちまち宝石を引き立てる添え物のジェムライトと成り果てた。さらさらと流れる銀髪に、白い肌、そして瑠璃の双眸。こうして真正面から向き合っていると、計算され尽くした愛玩人形の造形よりも、男の容姿は整っているんじゃないかとさえ思えてくる。これは女が寄ってくるはずだ。自分のパサついた金髪の地毛を指先で弄びながら、国広はその深緑の瞳を細めた。
「俺は思うんだが、」
 至って真剣な声色に、身構える。彼は国広の話を聞いてどう思ったのだろう。不毛なことをしている馬鹿な奴と鼻白んだか、それとも宿敵とはいえ女に対して不誠実だと軽蔑したか。どちらにしてもあまりいい印象は持たれていないに違いない。話を聞いていただけでも、長義の女嫌いは相当なものだ。その女と敢えて関わろうとしている時点で、国広に対し嫌悪感を抱いてもおかしくないと思った。
「山姥切国広」
「……なんだ」
「俺とお前は、同じ苗字だ」
「……?」
 何を今更。訝しげに長義の方を見ると、彼は何とも言えない顔をして一心に手の中のジョッキを睨みつけている。苗字が……一体何なんだ。変なところで区切らないで欲しい。続きが妙に気になるではないか。
「つまり、俺たちは男同士だが、もう結婚しているに等しい」
「は?」
 この先二度とこんな声を出すことはないだろうと確信するくらいに、国広の口から漏れたそれは間の抜けたものだった。こいつは、今何と言ったのか。結婚? 誰と誰が? 
「俺たちは女にほとほと愛想を尽かしている」
「あ、あぁ」
「暫く女を作る気はない」
「俺もだ」
「だが性欲はある。一人で慰め続けるのは虚しい。何より男のプライドが許さない」
「それは……ちょっとわからんな」
「つまり、俺たちが付き合えば丁度いいと思わないか」
「……っ!」
 それは例えるなら、霧の深い砂漠にゲリラ豪雨が降ってきたような、霞を切り裂くように雷が落ちてきたような、まさしく青天の霹靂というやつだった。
 バクバクと心臓が煩い。アルコールで火照った顔がさらに赤くなり、汗が止まらなくなる。なんて奴だ。突然何を言い出すのかと思っていれば……そんな誰にも予想もつかないことを考えていたなんて。
「長義」
 吐き出された声は震えていた。
「あんた……天才か」
 あまりに、感動してしまって。
 ここにシラフの誰かがいたのなら、盛大にツッコミを入れてくれていたのだろう。しかし残念なことに、ここには二人の暴走を止めてくれる者はいなかった。「同じ苗字の奴が結婚してるというなら、佐藤さんは大変だな」「山姥切の苗字は少ないから、俺たちは運命だ」「違いない」……ストッパーのいない酔っ払い同士の会話は、どんどん斜め上の方向へと飛んでいく。ここまできたら誰でも察することが出来ると思うが、アルコール漬けになった国広の頭は、先程新人店員が割ったグラスよりも粉々に粉砕して壊れていた。
「店を出よう」
 そうと決まれば話が早い。テーブルの端に備え付けられたタッチ型の注文用タブレットを起動させ、会計ボタンを押す。間も無くして店員が席にやってきて、国広が財布を取り出す暇もなく、長義が懐からカードを取り出し支払いを済ませてしまった。ちなみに、カードの色は黒だった。
「偽物くん」
「だから、俺は偽物じゃないと何度も……」
「可哀想なお前にこの俺が施しを与えてやる」
 店を出て駅へ向かう途中、まだ人の目があるというのに、長義が国広の手を握ってくる。しかし不思議とまったく拒む気にはならず、手を繋いだままコンクリートに塗り固められた雑踏を歩いた。生温い風が駆け抜ける晩夏の夜。アルコールによって高まった体温は、決して気持ちの良いものとは言えなかったけれど。それでも彼と接触しているのは落ち着いた。
 まるで真冬に飲むホットココアのような、そんな何とも得がたい安心感が、彼の掌のようにそっと優しく己を包み込んでくれる。この感覚を何と呼べば良いのか、国広にはわからなかった。ただ、この手をずっと離したくないと、彼の存在を傍で感じていたいと、そう強く思う気持ちだけははっきりしていた。
「俺が本物の恋を教えてあげる」
 ふふっと上機嫌に笑った男が、宣言する。
 動きを止めていた秒針が、再び動き出す。そんな、何かが始まる予感に、胸が躍った。今まで恋愛ごとで散々な目に遭ってきた自分でも、知ることが出来るのだろうか。彼が言う『本物の恋』ってやつを。
「……教えて、ほしい」
 喉が詰まって、言葉が出ない。次から次へと溢れてくる感情が身体の内側を満たして、今にも弾けてしまいそうだった。そんな中で何とか絞り出した声は期待と不安がないまぜになった、我ながら情けない声で。そんな国広を慈しむような目で見つめた長義が、幼子にするそれのように、わしゃわしゃと頭を掻き乱す。
「うわっ」
「……可愛いやつ」
 今日のレンタル時間は、もうとっくに過ぎている。
 ――性的なサービスは会社の規定で禁止されています。
 不意にお決まりの定型文が脳裏を過ぎったけれど、そんな無粋極まりない言葉は一瞬で思考の外に投げ捨てられ、存在ごと忘れ去られていった。
 赤、青、緑、白。電光掲示板の色とりどりの明かりが、雑踏に埋もれる二人の輪郭を照らし出す。チカチカと点滅し、揺らぎ、視界の片隅で流れていく有象無象を、国広は長義の肩越しに眺めた。じわじわと水彩絵の具が滲んでいくかの如く、身体の隅々まで染み渡る蒸し暑い夜の空気を、深く、より深くまで、胸いっぱいに吸い込みながら。

 玄関扉を開いた瞬間、雪崩れ込むようにして長義の部屋の中へ押し入った。そして、扉が閉まると同時に待ちきれないとばかりに壁に身体を押し付けられ、真っ先に唇を貪られる。
「んぅ……っ」
 最初はアルコールの匂いのする軽いバードキスを、次は舌先で唇の形をなぞられて、最後にちゅ、ちゅ、と何度か吸いつかれる。子どもっぽい愛撫に、ふふ、と小さく笑ってしまった。彼の彼女遍歴を聞いていたから、もっと凄いことをしてくるかと思ったのに。いざ事に及ぶとなると、存外初心で可愛らしい接触ばかりをしてくる。その後もクスクスと笑いながら長義からのキスを受け止めていると、彼の眉根が僅かに顰められ、ひやりとしたものが胸を過ぎった。
 まずい。プライドを刺激してしまっただろうか。
「長義……?」
 不安になった国広は、そっと上目遣いに長義の顔色を伺う。
「そうやって余裕ぶっていられるのも今のうちだよ」
 どういう意味だ、と吐き出されるはずだった言葉は、吐息すら奪い去る激しいキスによって、あえなく潰えてしまった。
「ん、ぁ……っ」
 薄く開かれた唇の隙間から、長義の舌が侵入してくる。ずちゅずちゅと性交を思わせる卑猥な水音が響き、されるがままに口内を犯された。さっきまでとまるで違う大人のキスに夢中になっていたら、今度は着ていたシャツをたくし上げられ、無遠慮に滑り込んできた彼の掌に直接肌を撫で回される。
「……っ」
「……敏感だね?」
 つ、と横腹を撫で上げられれば、擽ったさからビクビクと腰が震える。
「は、……んな、わけ……」
 次いで胸の飾りを爪で引っ掻かれ、無意識のうちにもっともっとと強請るように胸を突き出した。自分でも信じられない行動を取ってしまったことに、酷く戸惑いを覚える。直後に押し寄せてきた驚愕と羞恥に思い切り後頭部を殴りつけられ、鈍い頭痛まで襲ってきた。恐る恐る顔を上げれば、そこにはニタリとしたり顔で笑う確信犯の男。この野郎……もう絶対に反応してなるものか。対抗心が芽生えてぐっと奥歯を噛み締めると、不意にそれまでひたすらに己の身体を弄っていた男が動きを止めた。
「んっ……?」
「これ、咥えてて」
「んぐっ」
 がばり。
 捲り上げられたシャツの裾を、口の中に詰め込まれる。必然、国広は自らシャツを捲り、長義の眼前に己の裸体を進んで晒しているような格好になって……それを上から下まで舐めるように視姦した男は、「えろ……」と一言呟いた。
「気づいてるか? 乳首がたってるの」
「ふ、ぐ……ん、んんっ」
 熱い。アルコール特有の火照りと、長義にいいように高められた身体の熱が合わさって、ぐつぐつと煮え滾る熱湯の中へ放り込まれたような心境に陥る。差し詰め今の己はまな板の鯉といったところか。酒でぐでんぐでんに蕩けた頭と身体で、無防備にまな板の上に横たえられ、今日知り合ったばかりの男にこの身すべてを委ねる。そう考えると何だか笑えた。何をしているのだ、自分たちは。
 しかし、もっと可笑しいのは、冷静に考えれば異常な事態であるはずなのに、長義とこうしていることに国広がまったく違和感も抵抗感も覚えていないことだった。つくづく救いようがない。あぁ、実に愉快だ。楽しい、楽しい。
「ははっ」
「何笑ってるんだよ」
「いや、あんたなら……こうして触られるのも許せるなって」
「……っな、」
 ずっと小さな頃から知っていた幼馴染みのような。血の繋がりのある兄弟のような。あるいは長年連れ添った番のような。どうにも他人とは思えない、同じ珍しい『山姥切』の姓を持つ男。あの酒の場で冗談めかして語らったように、自分たちは運命なのではないかと。半ば本気で考えてしまった自分は、現実主義者とは遠くかけ離れた、夢見がちな空想家であったらしい。
「危なかった……」
「?」
「お前ね、あんまり煽るんじゃないよ」
「煽ってなどない……なぁ、もっと触ってくれ」
 ふてくされた顔でこちらを見つめる長義の頬を、するりと撫でる。髪へ指を絡ませれば、さらさらと水のように流れる銀糸が滑らかに解けていった。その薄い唇で、身体中に口づけられたなら。さらなる快楽を想像して期待から身震いする。愛して欲しい、痕が残るほどに吸いついて、舌を這わせて、甘噛みして欲しい。欲を挙げればきりがなかった。
「お強請りなら、もっと可愛く言って欲しかったかな」
 ちゅう。
 唇にキスを落とされ、下腹部のあたりをぐっと押される。
「自分で尻の穴に指を突っ込んで、」
 悪戯な指先が、ぐにぐにと形が変わるほどの力で尻を揉みしだいた。
「広げて……」
 尻たぶをぐぱっと左右に割り開き、無防備に顔を出した穴の上を、布越しに撫でられる。
「俺の前でいやらしく腰をくねらせながら、『ちょうだい』って縋ってみせたら、考えてやる」
「……っだ、誰がするか!」
 反射的に叫んでいた。冗談じゃない! バッと両手を尻の方へ持っていき、長義の手を虫でも振り払うかのように叩き落とす。そんな国広の慌てる様を底意地悪い笑みを浮かべて眺めていた男は、徐にぐっと顔を近づけて、低い声で宣った。
「なら、指図しないことだ」
 ガリッ。
 唐突に首筋に噛みつかれ、勃起した乳首をぐりぐりと押し潰される。生意気だと、鋭く己を射抜く瑠璃色が明瞭に告げていた。これは一線。それ以上領域を越えようものなら手酷くするぞ、と。この男は暗に国広を脅しているのだ。
(ふん……望むところだ)
 獲物を甚振ることを楽しんでいるかのような嗜虐的な眼差しを、真っ向から睨み返す。すると、不敵に笑んだ長義が、今度は膝立ちになって国広の股間を凝視しながら、器用にベルトを外し始めた。いくら男同士といえど、流石にそこまで見つめられると気恥ずかしくなってくる。もぞもぞと居心地悪そうに身を捩れば、これ幸いとばかりに前を寛げたスラックスをずり下げられ、中途半端に脱がされたそれに両足の身動きを封じられてしまった。
「はっ……先走りが漏れてるよ、偽物くん」
「だから、俺は偽物なんかじゃな……っ!」
 じゅる、じゅるるっ! 
 パンツ越しに緩やかに上を向いた半身にしゃぶりつかれ、ガクン、と足から力が抜ける。そのまま床にへたり込みそうになるも、咄嗟に機転を利かした長義が身体を支えてくれたため、幸いなことに尻を床に打ちつけることはなかった。
「あ、なにして……っ」
 壁にもたれかかりながらずるずるとその場に座り込み、一息吐いた頃。胸まで捲り上げられたシャツの中に彼の頭が入ってくる。驚きのあまり悲鳴に近い声が出た。
「ん……もう、そこ……や、」
 乳首を舌先で捏ね回され、しつこいくらいに嬲られる。初めのうちは何も感じなかったそこは、熱心にいじめられているうちにぷっくりと腫れてきて、終いにはピリピリと鋭い快感を拾うようになった。これが乳首開発ってやつか。感心しながら長義の動きを観察していれば、ちら、と訝しげな視線を送られて慌てて何でもないと頭を振る。まさか長義のセックスの作法を参考にしていた、なんて絶対に知られるわけにはいくまい。もし知られたら羞恥と屈辱のあまり、このマンションの窓から飛び降りてしまいそうだ。
 今現在自分たちがどれだけ恥ずかしい行為をしているのかということを棚に上げて、そんなことを考えた。
「女みたいに胸で感じるようになっちゃって……恥ずかしいね?」
「うう、……」
 悔しくて獣のような唸り声を上げる。
「俺は、女じゃない……、ん、」
「じゃあ、お前のここはちゃんと仕事をしてくれるんだ?」
「ひっ……!」
 突然ガッと股間を掴まれ、血の気が引いた。当然だ。そこは何よりも大事な男の急所なのだから。握り潰されるのではないかという本能的な恐怖から身を強張らせるも、そんな国広の様子などお構い無しに、長義はやわやわと玉を揉み込んでは欲を煽ってくる。さらにそれだけでは飽き足らず、玉を揉みしだいていた手が己の半身へ伸ばされたところで、国広はある違和感を覚えた。
(あれ……?)
 緩やかな快感が下半身に広がっていく。しかし、勘違いでなければ、いつもよりも感度が鈍っているような……。その証拠に、己の半身は少しだけなら芯をもつものの、ピクリとも起き上がる気配がない。それは何故か――理由は明らかだった。
「あっ……む、りだ……勃たない……っ」
 酒の飲み過ぎで肝心な時に役に立たなかった。
 そんな失敗談は、男なら誰しも耳にした覚えはあるだろう。よもやそんなテンプレのような失敗を、国広が体感することになるとは。くそ、失態だ。これでは長義に好き勝手やられてしまう。女のように突っ込まれてアンアン喘ぐ趣味は、生憎国広にはない。てっきり今晩は自分が抱く側に回るものだと思っていたのに……っ。
 ちらり。
 そういえば、と。長義の下半身へ目をやった。確か彼は、国広よりももっと酒を飲んでいたはず。それなら、長義も国広同様、下半身が使い物にならなくなっているのではないか、と期待した。しかしそんな淡い希望は、次の瞬間長義に下半身を擦り付けられたことで、呆気なく打ち砕かれてしまう。
「残念。俺はまだまだ元気だ」
 ひく、と頬が引き攣る。なんと、あれだけ酒を飲んだというのに、彼の下半身は兆していた。天を仰ぐ剛直が、今か今かと肉壁を暴くその時を心待ちにしていて、目の前が真っ暗になる。そんな、嘘だろ……。しかも同じ男として敗北感を覚えるほどに長義の逸物が大きい。こんなの絶対に入るわけがない。無理だ。
「絶対に無理だ……尻が裂ける」
 顔を真っ青にしながら嘆くと、ぎゅっと抱き締められて額にキスを落とされる。
「優しくするから安心してくれ」
「いや、ほんとに……むり……」
「考えてみろ、国広」
 不意打ちで名前を呼ばれ、心臓が高鳴った。己の顔を覗き込む長義の瞳に、それまでの嗜虐的且つ挑発的な色はない。どこまでも真摯な眼差しで国広を見つめる彼の表情は、あの時、自分たちの関係を運命だと告げた時のそれと同じもので。そんな彼の突然の変化に、「まさか、また何か天才的なことを思いついたのか……!」と斜め上の発想に至る国広も、大概思考回路が支離滅裂だった。
「お前、女とのセックスはどうしてた?」
「どうって……」
 今ここでそんなことを聞くか? デリカシーのない男め。
 内心ぼやきながら、このままでは話が進まないので渋々歴代彼女とのアレコレを思い出す。頑張って色々と尽くしてやろうと思っていた時期もあったが、何かとケチをつけられるようになってからは次第に性行為が面倒になっていき、最終的には棒は貸してやるから勝手に上に乗って楽しんでくれと、匙を投げた覚えが……。
「……黙秘権を行使する」
 我ながら酷い。酷過ぎる。見るからに女の扱いに長けていそうな長義に、こんなことを話すのは躊躇われた。またあの同情と憐憫の眼差しで見下されたらと思うと、堪ったものではない。
「はぁ……これだから偽物くんは」
 しかし、何かと聡い長義は、枯れかけの花のように萎れてしまった国広の様子に、すべてを悟ったのだろう。はぁーっと深くため息を吐いてから、呆れた声で言った。
「どうせ面倒だからと勝手に上に乗って勝手に動けってスタンスだったんだろ」
「……っ何故それを!」
「ところで、俺は手ずからヒンヒン喘がせるのが好きだ」
「は……」
 ぽかん、と口を半開きにして、今この男がなんと言ったのか反芻する。テズカラ、ヒンヒンアエガセルノガ、スキダ。ダメだ。カタカナにしたところでもっと意味不明の呪文になるだけだった。またもや突拍子も無いことを言い出した長義に、ドン引いた視線を浴びせて国広は後退る。とはいえ真後ろは玄関扉で、限界まで背中が引っ付いているため、あくまで心情的に距離を取るという意味なのだが。
「だから、俺は自分で動いてヒンヒン喘がせるのが、」
「もういい、わかった」
 残念だ。彼の天才的な発想にはとても期待をしていたのに。そうだった。普段の彼はどうなのかわからないが、酒に呑まれたこの男のタチの悪さは折り紙つきだった。今更そのことを思い出して、萎えてしまった心と身体を一人持て余す。
「ここまで言ってもわからないか……いいか、よく聞け」
「……なんだ」
 長義を見る国広の目は冷たい。されど長義はそんな視線など歯牙にも掛けず、堂々としていた。仕方ないので最後まで話を聞いてやるか、と。そんな彼の強い信念に免じて一応話を聞く態勢にはなってやる。
「お前は動くのが面倒で、勝手に動いて欲しい派」
「あぁ」
「俺は自分で動いて相手を乱しまくって、ぐちゃぐちゃにしてやりたい派」
「あんた、もうちょっと言い方ってもんが……っあ!」
「そういうことだ」
 前言撤回だ。やっぱり長義は天才だった! 
「俺たちの身体の相性は運命的にいいはずだ」
「長義……あんた……やっぱり天才か!」
 興奮のあまり、ギュウッと長義の頭を抱え込んでしまった。
 可愛くてたまらない猫を相手にするように、ぐりぐりと頬擦りをして懐いてみせれば、長義はフンッと満足げに鼻を鳴らして国広の頭を撫でてくる。やっぱり、長義の掌は落ち着く。そうか、俺たちは苗字だけでなく身体の相性的な意味でも運命的な相手だったのか……。
「じゃあ、そういうことだから。まずは風呂に入ろうか」
 よっこいしょ。
 ジジくさい掛け声と共に担ぎ上げられて、ぐわん、と脳髄が揺れた。俵担ぎにされたせいで胃が圧迫され、食べたものが出そうになる。耐えきれず「うっ……」と蛙が潰れたような呻き声を上げると、「吐いたらソファでぶち犯すからな」だなんて悪魔のような宣戦布告をされ、断頭台の前に立たされた気持ちになりながら束の間の拷問に耐え続けた。
「隅々まで洗ってやるから」
「えっ」
「だから、覚悟しておけ」
 気持ち悪さに耐えている時だ。いい笑顔で、絶世の美丈夫がまるで明日の天気でも話すかのように、死刑宣告を下した。そこで、国広はとんでもないことを聞き流していたことに、ようやく気づかされる。
「あ……」
 バクバクと心臓が大きく脈打つ。だがそれは興奮からではない。男の作り物めいた美しい笑顔の裏に潜む、猟奇的な影に、情けないことに怖じてしまったからだ。
(これは……間違えたかも知れん)
 そうなのだ。この男、こんな優男な形をして、自分の手でヒンヒン喘がせてぐちゃぐちゃにするのが趣味という、とんでもない悪癖を持った酔っ払いなんだった……。そして、その爆弾発言が本当のことなのだと思い知らされるまで、あと数分。
 次の日の朝、互いに二日酔いで痛む頭を抱えながら、通夜のような空気に打ちひしがれるまで、あと――。


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