*Rental Love

TOUKEN RANBU

 極彩色の青空が、頭上に広がっている。
 絵の具をぶちまけたような空を遮る無粋なものは、何も無い。断続的に響く波の音に紛れ、偶に何処かから流れてくる風鈴の音色に耳を澄ませていれば、夏の足音までもが聞こえてくるような気がした。
「国広! 置いていくぞ」
「あぁ、悪い」
 至る所に散らばる夏のカケラに誘われるように、白砂の上を歩き出す。
 茹だるように暑い、夏。
 長い大学生の夏休みも、残すことあと一週間をきっている。早々に課題を終わらせた国広には特にすることもなかったため、ただ惰性に依頼が入ればバイトをするという毎日を送っていたのだが。最近ではそのほとんどの時間を長義と過ごすようになっていた。
「なんで海なんだ?」
「夏っぽいから」
 さらりと答えてみせた男の整った横顔を盗み見る。
 今日は海、その前は貸し切りのプール、軽井沢の別荘で避暑、なんてこともあった。勿論、映画館や水族館、流行りのショッピングモールに某有名テーマパークといった、所謂定番デートコースというやつも漏れなく網羅してある。この夏だけで長義と行かなかった場所はないのではないかというほどに、国広は色んなところへ連れ出されていた。
(よくわからんな……)
 この状況も、彼と自分の関係も。
 実のところ長義と会うといっても、それはプライベートで会っているわけではない。これは、あくまでレンタル彼氏と依頼者という立場を前提とした上での『デート』だった。よって、当然会う度に料金は発生するし、会社の規定で客と個人的な連絡先を交換するのは禁止されているため、未だに二人は互いの連絡先を交換していないままである。まぁ、国広は会社からあらかじめ依頼者の資料が送られてくるために、長義の登録情報はすべて把握しているのだが。
 以前、長義ならば仕事としてではなく、プライベートで会いたいと伝えたことがあった。しかし、予想外にも彼はその提案に頑なに頷こうとせず、あくまで客として国広と会いたい、の一点張りで……。当然のことながら、それで国広の方が納得いくわけもなく。互いが意見を譲らぬ結果、派手な口論に発展し、危うく殴り合いになりかけた(ああ見えて意外と長義は血の気が多いのだ)。
 以来、かなり複雑ではあるものの、国広が折れる形でこの謎の逢瀬は続けられている。
「偽物くんは貝拾いよりも、釣りとかの方が好きそうだね」
 浜辺に落ちていた桜貝を拾い上げ、太陽に翳す。ぼうっと薄紅色のそれを眺めていると、長義が声を掛けてきた。
「だから偽物ではないと何度言えば……まぁ、確かに釣りは好きだ。従兄弟や幼馴染みと何度かバス釣りに行ったことはある」
「へぇー、バス釣り?」
 バスというのは、肉食魚の外来種として有名なあのブラックバスのことである。つまりバス釣りはその名の通りブラックバスをターゲットとした釣りのことを指しており、そのゲーム性の高さから、釣り人たちから絶大な人気を誇っているアウトドアアクティビティの一つといえた。だが、釣りをしない人間にはあまり馴染みの無い言葉なのだろう(単に長義が俗世のことに関して無知なだけなのかも知れないが)。不思議そうにこちらを見る長義に、国広は軽く説明してやる。
「ブラックバスをターゲットにした釣りだ。結構面白いぞ。あいつらは賢いし勘が鋭いから、少しでも気を抜くと罠だと気づかれてすぐに逃げられる……釣り上げる時の手応えもあるから、釣りをする人間の中ではなかなか人気が高い」
 へぇ、と感心したような声を出して、長義がスマホを取り出した。バス釣りについて興味を持ったようだ。暫くスマホ画面と睨めっこしていた彼は、やがて一通り調べて満足したのか。スマホの電源を落として尻ポケットにしまった後、国広の方へ向き直り言う。
「楽しそうだね。今度俺たちもやってみるか」
「っ! 行く」
 爛々と目を輝かせて頷けば、おかしそうに笑った長義が国広の髪をわしゃわしゃと掻き乱す。
「ふふ、はいはい。楽しみにしておけ」
 次に会う約束をしたところで、国広はふ、と周りを見渡した。
 先程から思っていたことだが、夏真っ盛りのシーズン中だというのに、この海には極端に人が少ない。否、少ないを通り越して皆無だった。もしかして立ち入り禁止とされている海岸に来てしまったのではないかと、内心不安に思っていたところ、そんな国広の心中を見透かしたかのようなタイミングで、長義が語り出した。
「ここはプライベートビーチなんだ。俺の家が持っているわけではないけどね。一族所有のものだ。共有名義だから、俺も自由に使わせてもらってるってわけ」
「……そうだったのか」
 改めて、彼と自分では住む世界が違うのだと痛感する。国広の実家は九州の片田舎にある酒蔵で、地元ではそれなりに知られた蔵ではあるけれど、全国的に有名な大企業とかそういうわけではない。感覚は至って庶民的な一般家庭だ。
 逆立ちしたって、長義と同じ感覚にはなれない。ブラックカードなんて夢のまた夢だし、あの超高級マンションで一人暮らしなんて、一介の学生の身では絶対に許されない。実家は一番年上で昔から酒蔵の手伝いをしていた従兄弟が継ぐことになっているため、国広自身は後継として縛られることもなく、自由にさせてもらっているが……。たとえ国広が実家を継いでいたとしても、多分国広の給料は長義のそれの十分の一程度なのだろうと思う。彼の実家について詳しく聞いたことは無いため、一体彼がどれほど大きな会社でどれほどの役職を与えられるのかはわからないけれど。何となく、そうなのではないかという予感はしていた。
「あそこの洞窟が涼しくて、子どもの頃はいつもあの中で寛いでた」
 蒸し蒸しと身体の内側に籠もるような暑さの中、鈍くなった頭で形容し難い哀愁に浸っていると、長義が浜辺の片隅に放置された洞穴の方を指差して言った。つられて彼の視線の先を目で追えば、荒削りの岩肌が剥き出しになり、ぽっかりと大きく口を開けたそこに向かって、海水が流れ込んでいるのが見える。加えて水で満たされた小道の両脇には足場があり、大人二人が横に並んで歩いても十分なほどの幅があるのが見て取れた。
「行ってみるか?」
「あぁ」
 じりじりと肌を焦がす射光から逃れるように、二人は涼しげに佇む洞穴を目指し歩き始める。
「……意外と広いな」
 何とは無しに呟いた声が反響した。
 まだ日が照っている時間だからか。洞穴の中は思ったほど暗くない。奥行きはそれほどなく、穴の中はだだっ広い空間が広がっているだけで、子どもが好きそうな秘密の抜け道だとか、冒険が始まりそうな二手に分かれた道だとか、そういうものは残念ながら無さそうだった。
「……蝙蝠いないんだな」
「げっ、いて欲しいの? 俺は絶対遭遇したくないね」
「分かれ道もない」
「……冒険は始まらないぞ?」
 ぷっ。
 どちらからともなく噴き出した。やはり、考えることは同じか。子どもの頃の長義が、目を輝かせて期待に胸を膨らませながらこの洞穴に入ったのかと思うと、それだけで笑いが込み上げてくる。
「それで拗ねて此処で不貞腐れてたのか」
「お前は妙なところで察しがいいね……」
 ぶす、とした顔になり、すっかり臍を曲げてしまった男の頭を、そっと撫でる。「子ども扱いするな」と睨まれはしたが、手を払い落とされることはなかった。彼なりに国広のことを受け入れているのだと思えばこそ、むず痒いような気持ちが波紋を広げる。
 不意に、岩肌に縁取られた洞穴の向こう側を見た。嫌みなくらいに晴れ渡った青空と、日の光を反射して漣が揺れる透き通った海。そんな二つを分かつあの水平線は、己と長義を隔てる一線だ。空と海は同じ青でも、決して交わることはない。似ているようで根本的に違う。限りなく近い本質でありながらも混ざり合うことはありえない、そんな隣り合っているくせに相反する存在。
「なぁ、長義」
「ん?」
「抱いてくれないか」
 するりと言葉が滑り落ちていた。
 あれから二人が身体を重ねたことはない。あの日のセックスは酔いに任せた勢いだった、と。友人の距離を保ったまま逢瀬を重ねることで、予防線を張っておきたかったのかも知れない。まだ大丈夫。自分たちはまだ引き返せる。互いに向け合う気持ちは着々と育っていっているにもかかわらず、断ち切る勇気もないくせして、往生際悪くも本気でそう信じていたのだ。
「突然何を……」
「忘れられない」
 だが、もう無理だ。
「忘れられないんだ……」
 この男が欲しい。どうしても。そんな欲は尽きることを知らず、身の内を食い荒らすばかりで、一向に開いた傷口は癒えることがない。それならば、いっそとことん傷ついてしまえばいいと思った。ここで拒絶されて、こっ酷く振られてしまえば、諦めもつくのではないかと。
「……会社の規定で性的サービスは禁止されてるんじゃなかったのかな」
「見てみろ」
 とん、とん、と文字盤を叩き、ローマ数字の刻まれたそれを長義の前に翳す。
「レンタル時間は、もう終わってる」

 そこから二人の間に会話はなかった。

 ただ衝動に任せて噛みつくようなキスをして、互いを貪り合う。長義の身体を高めるべく、国広は唇、首筋、胸、臍……と徐々に口づける場所を降下させていって、同時に彼の服を脱がせにかかった。皺一つない白いシャツをはだけさせ、カチャカチャと高そうな革のベルトを外す。自分が彼の身体を舐める水音と、布擦れの音が洞窟内に反響し、そんな情事を彷彿とさせる音一つ一つにまで興奮を煽られた。
「いやらしいね……」
 やわやわとまだ芯をもっていないそれを揉む。対して、国広の逸物は既にそれなりの硬度を持っていた。そのことに気づいたのだろう。あの真夏の空のような涼やかな色なれど、ギラついた光を放つ苛烈な瑠璃色が、欲を孕んだ視線でもってして眼下の国広を射抜く。しかし、その瞳に浮かぶ熱量とは裏腹に、まだまだ臨戦態勢とは言い難い長義のそれは、自身に埋め込むには柔らかく。国広はムッと不満げに唇を突き出してから、今度は下着越しに先端を刺激してやった。
「ん……」
「……っ」
 くっと彼が息を詰まらせたのが嬉しくて、国広の動きはどんどん大胆なものになっていく。
 下着から半勃ちになったモノを取り出し、ぱくりと先端を咥え込む。竿の部分は手で扱き、時折思い出したように裏筋をべろりと舐め上げた。仕上げにじゅるるっと大仰に音を立てて尿道を吸い上げれば、ビクッと長義の腰が震える。感じている。自分の一挙一動で、あの性欲とは無縁そうな涼しい顔をした長義が、ギラギラした雄の目を晒して心乱されている……。そう思えば思うほど、国広の身体は昂ぶっていった。
「……は、自分に挿れるブツを育てるなんて……随分とモノ好きなことで」
「は、むぅ……」
「足りないな。もっと奥まで咥えなよ」
「んんっ……!」
 国広にまんまと反応させられたことが癪に障ったようだ。急に声を低くした長義が国広の後頭部を掴み、その後大きく腰をグラインドさせた。ぐっぐっとみっちり喉奥まで埋め込まれた長義の半身は、国広が触れ始めた時とは段違いに大きくなっており。今や挿れるには十分なくらいの硬さに変化している。
 じゅぶっじゅぶっと溢れる唾液を絡みつかせながら、律動する剛直を愛した。何度も吐き気に襲われたけれど、国広が苦しげに呻く度に喉が締まる感触が相当イイのか。長義の肉棒はみるみるうちに硬度を増していく。
「……っぐ、」
 先走りと汗の入り混じった雄の匂いが、己の情欲に直撃する。
「……んぶ、むぅっ!」
 あと少しで長義が達する――そう確信した瞬間、口の中からずるりと彼自身が引き抜かれて、寂しさからはくはくと唇が虚しく開閉した。
 なんで、と迷子のような声で嘆く。
「……、こんなところで無駄打ちするつもりは毛頭無いんでね」
「な、」
「イくならお前の中にぶちまけたい……」
 あれだけ悲壮感を漂わせていたというのに、現金なことである。彼のその言葉を耳にした途端、きゅんっと物欲しげに内側が締まった。おまけに、ふー、ふー、と息を荒らげながら言われてしまえば、国広はその先を期待せざるを得なくて。今すぐ欲しくて堪らなくなる。
「長義、」
 そこで国広は、突然ごそごそと地面に放り投げられたショルダーバッグを漁り始めた。そして、目当てのものを探り当てると、再び長義の下へと戻る。またあの日のようなことがあるかも知れないと、未練がましく諦めきれなかった己が、密かに持ち歩いていたもの。こんなものをデート中にずっと持っていたのかと呆れられるのが嫌で、長義には知られたくなかったのだが……そんな一時の恥よりも、今この瞬間の好機を逃したくない。その気持ちの方が勝った。
「これ、使ってくれ」
「……お前っ」
「き、気持ち悪いよな……こんな、」
 国広が長義に手渡したのは、ローションとコンドームだった。
 男同士の性行為には、この二つが必需品であることは知っている。だから、もし万一長義とそういう風になった時には、これらを使おうと思って荷物に忍ばせていたのだった。
「……偽物くん」
 びくり。
 肩が揺れる。長義がどんな顔をしているのか見るのが怖くて、俯けた顔を上げることが出来なかった。
「これ、ずっと持ち歩いてたんだ?」
「……」
「やらしいやつ」
 居たたまれない。長義の責めるような言葉がグサグサと心に突き刺さって、泣きたくなってくる。
「……そんなに抱いて欲しかったんだ」
「あ、あぁ……長義に、抱いてほし――」
 続けられるはずだった言葉は長義の口内へと飲み込まれていった。
 ガチッと歯がぶつかるほどの勢いで唇にかぶりつかれ、舌を割り入れられる。息をする暇も無いくらいに夢中にキスをして、受け止めきれなかった唾液が口端を伝った。何度も角度を変えて、噛みついて、貪って、羞恥も不安も興奮も、そのすべてがズブズブに溶かされていく。まるで、獣だ。理性もへったくれもない。ただ空腹を満たすために獲物を貪る二匹の獣。
 素早く下着ごとパンツを引き抜かれ、下半身が剥き出しになった。恥ずかしいなどと言っている暇もない。本当に一瞬の出来事だ。肩から羽織ったシャツはボタンは全部外され、ほぼ引っかかっているだけの状態にさせられる。その後、土で汚れることも厭わずに、長義は乱雑に国広の衣服を投げ捨てて、次いで性急に己自身の服も脱ぎ始めた。
 きゅぽんっ。
 ローションのキャップが外され、胸が跳ねる。今から自分はこの男に犯されるのだ。餌の前でよだれを垂らして待つ犬のように、国広は浅ましく疼く身体を持て余しながら、長義から褒美を与えられるその時を待つ。
「尻を出せ」
「……あ、」
「悪いけど、俺も余裕がない」
 どうしていいかわからずその場に立ち尽くしたままの国広に焦れたらしい長義が、ぐっと腰を鷲掴んできて無理矢理身体を反転させられる。ゴツゴツした岩肌に押さえつけるようにして国広を追い詰めた後、彼はどばっと雑にローションを国広の尻たぶに垂らして、性急に穴の中へ指を突き入れてきた。
「……なぁ」
「ぁっ、ん……なに、」
「お前、まさか慣らしてきた?」
 ぶわっと花が咲くように顔が真っ赤に染まった。彼の言うことは本当のことだ。今日だけではない。実は国広は、長義とデートすることが決まっている日には、必ず後ろを解してから会っていた。これも、触ればわかることとはいえ、叶うなら知られたくなかった秘密の一つだ。
「っすまな、」
「……お前、俺をどうしたいわけ?」
 盛大な舌打ちが聞こえて冷たいものが喉元を通り過ぎていく。やはり、ここまであからさまでは引いてしまっただろうか。彼に嫌われるのは嫌だ、とついに涙目になった国広は、意を決して後ろを振り返って……驚愕から目を見開いた。
「見るなっ」
 慌てて長義に目を塞がれたが、もう遅い。国広は見てしまった。彼の顔が、国広と同じがそれ以上に真っ赤になっていたところを。
「……好きだ」
 ほろり、と零れた言葉に力はない。一生言うつもりのなかった言葉が思いがけず溢れてしまった。そんなあまりにも無防備に生まれた言葉であった。
「お、まえ……なぁっ!」
 ずちゅんっ! 
 何の前触れもなく一気に貫かれて、は、と短い息を吐く。あまりの衝撃に、気をやってしまいそうになった。限界まで膨らみきった彼の怒張は十分解してきたはずの穴をさらに押し広げて、みちみちと収縮を繰り返す肉壁を強引に割り開いていく。嬉しくて、本当に嬉しくて、何とか寸でのところで堪えていた涙が、ついに頬を流れていった。
「ぁあっ! あ、……んっ!」
 ゴリゴリ、と前立腺を抉られ、腰を打ちつけられる。恥骨が尻たぶに当たる度にバチンッバチンッと激しい破裂音が発せられ、凄まじい快楽と衝撃に流されないよう意識を保つだけで精一杯だった。あまりの気持ちよさに逃げを打とうとする腰は、がっちり長義に掴まれていて、逃げるどころかさらに深く繋がるべくグイッと男の方へ引き寄せられる。抜けるギリギリ手前まで引き抜かれれば、いかないでと縋るようにきゅうっと穴が引き締まり、再び突き入れられた後には、男から与えられるすべてを余すことなく食らって、そこは歓喜からヒクヒクと引きつけを起こした。
「そら、お望みの味は如何かな?」
「は、あ、アッ、ダメ、あっ……なんか、だめ!」
 内腿がガクガクと震える。
 力が入らなくなってカクンッと膝が折れたら、すかさず腰に回された長義の腕に抱え上げられ、ぴったりと身体が重ね合わさった。飛び出た岩に救いを求めるようにしがみついていた指先は、快楽を逃そうと力いっぱい握り込まれたせいで真っ白になっており、いつのまに引っ掛けたのか爪の先なんて折れてしまっている。
 もう限界だ。これ以上はおかしくなってしまう。
 視界が白く染まっていき、脳内で頻りに警鐘が鳴っている。絶頂の予感から身を震わせた時、長義の手が国広の肉棒を掴んで、先端を爪で引っ掻いた。それが、トドメだった。
「アッ、やめ、出る……っ! でちゃ、あ、ァ、アアア!」
 ぶしゃあっ! 
 激しい水音と共に己が達したのがわかった。強烈な射精感に頭を殴りつけられ、五感も思考も吹っ飛ぶ。気持ちいい、気持ちよすぎておかしくなる、熱い、痛い……。達したことでぼうっとした頭のまま、休息を求めて乱れた息を整えようと深呼吸をする――しかし、
 ズンッ! 
「んアッ!?」
 嫌でも意識を引き戻される。絶頂に達して、ぎゅうううっと収縮した内側を、そんなものは関係ないと言わんばかりに蹂躙するモノ。深々と埋め込まれたそれは国広に休息を許さず。容赦なく脱力しきった身体を突き上げた。
「はー、……二回目」
「えっ……ん、ぁっ」
「もう一回だ、国広」
 嘘だろう。流石の国広も想定していなかった事態に、内心焦り出す。あわよくば抱いてくれたら良いとは思っていたけれど、彼がここまで乗り気になってくれるとは思っていなかった。
「あ、むり……っ」
「ここまで煽っておいてそれは無いんじゃないかな?」
 はー……。
 深く息を吐き出した長義が、国広の肩口に顎を乗せてくる。すりすりと甘えるように頬ずりをしてくる様は、今の今まで激しく己を犯していた男と同一人物とは思えないほどに可愛らしい。耳たぶを甘噛みされ、ふっと吐息を耳の穴に吹き込まれれば、達した直後で敏感な国広の身体は簡単に反応してしまった。さらにぐちゅぐちゅと無遠慮にナカを掻き回され、また軽くイッてしまう。
「はぁー、はー……、ん……っ」
「くにひろ……」
 ゆっさゆっさと戯れに腰を動かされる。自力で立つことすら困難になった身体は、男にされるがまま心許なく上下に揺れた。水底に生える海藻にでもなった気分だ。波の流れに身を任せてゆらゆらと揺れる。自分では何も考えずに誰かに依存して、どろどろに溶けきった頭で快楽に身を任せる……。なんて、楽な生き方なんだろう。
 ピクッピクッと腰が跳ねる。あまりに深く長義のものが埋まっているものだから、爪先が宙に浮いていた。とろとろに蕩けた肉壺が、今も尚熱く滾っている欲望を食み、己の意思とは関係なく一滴でも搾り取ってやらんと甘く絡みつこうとする。
「えっろ……」
「あ、んた……ヤる時に、そればっかりしか言わなくなるな」
「お前がえろいのがわるい」
「んんっ」
 動くから。それだけを端的に告げて、長義の腰が本格的な律動を再開する。
「そ、な……っん、ぁ」
 ぐりっと奥を抉られた。反射的にナカを締めつければ、背後から覆い被さってくる男が「あー……」とのぼせきった声を出す。想い人にそこまで感じてもらえて、嬉しくない者はいまい。まんまと長義の思惑通りに再び火がついた国広の身体は、すっかりその気になってしまって。その後の陵辱にも等しい一方的な快楽の暴力を、健気に受け止め続けた。
「は、ぁ……」
 目の前を、悠然と泳ぐ深海魚が通り過ぎていった。
 洞穴に流れ込んだ海水が、たぷたぷと音を立てながら揺れている。長義と行為に耽っている間に、結構な時間が経っていたらしい。太陽はもうとっくに沈んでしまっていて、代わりに満ちた月が顔を出していた。
 穏やかな黄金色の光が漣に反射し、洞穴の中が青い輝きで満たされる。海の住民たちの泳ぐ静かなる海底。二人以外に誰もいない、真っ暗な水底へ沈んでしまったような、そんな錯覚に陥って。何だか無性に泣きたくなった。
(あぁ……)
 不意に、気づいてしまった。
 これだけ、己を求めてくれているというのに。
(『好き』とは、言ってくれないんだな……)
 流れた涙は海水に溶けて消える。吐き出した想いも、叫びも、水面に向かい浮かんでいく泡となって、いつかは弾けてしまうのだろう。
 虚しい、悲しい。
「国広……」
「ちょう、ぎ……」
 ――こんなに近くにいるのに、やはり、彼は遠い。

 喉が、渇く。
 視界の端で揺れる新緑を目に入れる度に、喉の渇きに苛まれるようになったのは、いつからか。最近、何かが足りない気がして、ふとした瞬間に思考が止まることが増えた。打ちかけの文書を保存して、愛用のスマホを尻ポケットに入れる。騒がしい学生食堂の中をぐるりと見回して、何かを探した。自分が何を探しているのか、それは長義自身にもわからない。
「おっ、いたいた。山姥切ぃ~! 席取ってあるぜー」
 喧噪の真ん中で、ひらりと掌が舞う。どうやら大学の親しい友人たちが、長義の分の席を取っておいてくれていたようだ。
「あ、長義くんだぁ~」
「やぁ、お疲れ様」
「今日も南泉たちとお昼? 私たちも一緒してもいい?」
「課題の話をするから、あまり面白くないんじゃないかな。だからまた今度ということで」
 友人たちの固まっているテラス席の方へ歩いて行く途中、何人かの女子たちに声を掛けられる。やれ一緒に昼食をしようだの、放課後に遊ばないかだのとあの手この手で誘われるも、適当に流して目的地を目指した。そして、用意された自分の席に着くや否や、ほっと一息入れる暇も無く友人の南泉から揶揄われる。
「お前が女子の誘いを断るなんてな……明日は槍でも振るんじゃねぇの? ……にゃ」
 友人の南泉とは、付属中学時代からの付き合いだ。知り合ってからかれこれ七年ほどの仲になる。彼の特徴的な語尾は幼い頃からの癖らしく。本人曰く、どんなに意識していても、呪いのように猫の鳴き声のような語尾になってしまうのだとか。変な奴、と思いはすれど、性格や仕草まで猫じみた男は見ていて飽きないので、友人というよりは観察対象の珍獣として可愛がってやっている。
「はは、俺はそんなに見境無く女を誑かす男に見えるのかな?」
「息をするように女を落とす嫌な奴だとは思ってる。にゃ」
「心外だなぁ」
「でも実際、長義くんは変わったよね」
 二人の会話に割り込んできたのは、南泉と同じくらいに長い付き合いの亀甲だ。白を基調としたきれいめファッションがトレードマークな彼は、その品の良い所作の端々から育ちの良さが滲み出ている(ちなみに、荒っぽい言葉遣いや雑な行動を取りがちな南泉も、それなりに良い家の出だったりする。彼の場合遅れてきた反抗期のせいで、一見そう見えないだけだ)。
「そうかな?」
「うん。前までは来る者拒まず、去る者追わずって感じだったのに、最近は随分と落ち着いたなって。僕としてはもうちょっと尖ってくれていた方がゾクゾクしたんだけど」
 亀甲の言い分に、長義は苦笑してしまう。確かに、少し前までの長義はそういうところがあった。次から次へと寄ってくる女の相手をするのが面倒で、女避けも兼ねて、途切れなく誰かしらと付き合っていたのを覚えている。
「わっかんねぇぞぉ? 誰も知らねぇとこで食い散らかしてるかも」
「君たちが俺のことをどう思っているのか、よくわかったよ……とりあえず、猫殺しくんは明日の二限の出欠表の話はナシだな」
「はぁ!? おいおい、そりゃないぜ! あと、俺は猫殺しじゃねぇ! にゃ!」
「フンッ。猫でも殺さなければ、そんな語尾になるものか」
 ――俺たちは女難の相があるに違いない。名の通り、先祖が曲がりなりにも女を切ったから、呪われてるんじゃないか? 
「ぶふっ」
 不意に、初めて会った日に国広が言っていた言葉を思い出して噴き出してしまった。何なんだ、曲がりなりにも女って。山姥は女のうちに入るのか? というか、山姥と女を同列に扱う時点で、あいつの認識は大概酷くないか? 
 それから暫くツボに入ってしまって笑いを堪えていると、南泉と亀甲が化け物でも見たかのような顔をして長義の方を見た。これはまずい。これでもクール系で通っていたつもりだったのに。国広のせいで長義のイメージがぶち壊しだ。どう責任を取らせようか。
「いやぁ、これはまた……」
「何と言うか、丸くなったね、きみ」
「……ふ、ランチを頼んでくる」
 席に荷物を置いて、そそくさと逃げるようにその場を後にする。食堂の中へ入ると、一直線にキッチンカウンターを目指した。
 今日のおすすめメニューがカレーうどんであることを確認した長義は、財布を取り出す際に尻ポケットに入れっぱなしだったスマホが震えていることに気づく。画面を確認してみれば、そこに表示された通知の内容はメールの着信を告げるもので。送り主の名前は『ティー・アンド・ディー株式会社』だった。国広がキャスト登録されているレンタル彼氏の運営会社だ。
《予約時間のご連絡 九月八日木曜日十六時~十九時 待ち合わせ場所……》
 自然と頬が緩む。呼吸が少しだけ楽になったような気がした。
 国広とは学校が始まってからも度々会っている。散々夏休みの間に会ったのにまだ会うのか、と我ながら思うけれど。彼と行く場所なら何処だって、初めて見た場所のようにキラキラと輝いて見えるのだから仕方ない。
(まさかこんなことになるとはね)
 本当のことをいうと、彼との関係は夏休みの間だけにするつもりだった。だからこそ、長義は頑なに国広と会うのは会社経由での依頼というスタンスを貫いていたし、決して二度目の過ちが起こらないよう酒の量やその場の雰囲気などにも、細心の注意を払っていたのだ。あの時の自分は馬鹿だった。一線さえ越えなければ、国広と自分の関係は『少し仲の良い友人』という枠組みに当て嵌めることが出来るのだと、本気で考えていたのだから……。
『長義』
 脳裏で、己の名を呼ぶ彼の声が反芻される。心臓が脈打った。心なしか鼓動が早くなって、体温が上がる。
 国広と共に過ごすにつれて、もっと彼のことを知りたいと思うようになった。共通の悩みを持つあまりにも近い距離にいる存在。友人とも恋人とも言えない名前のない関係に、始めこそ心地よさを感じていたものの、次第に物足りなさを感じ始めた。そんな時だ、あの日がやってきたのは。
 夏休みが終わる一週間前。もう一度、国広を抱いた日。
「よう、山姥切。飯、頼まねぇの?」
 ハッと我に返って、横を向く。メニュー版の前で突っ立っていた長義を不思議に思ったのだろう。同じ学科の同輩が、待機列に並ぶ気があるのか問うてきた。
「あ、あぁ……迷ってるから、先に頼んでいいよ」
「そう? ならお言葉に甘えてー」
 流石に二度目は言い訳が利かない。ちゃんと頭では理解していた。しかし、彼から誘われた時に衝動的に、欲しいと思ってしまった。その時点で逃げ道など、とっくに塞がれていたのだ。
 そこからは坂道を転げ落ちるように国広を求めて、後戻りの出来ないところまで溺れてしまった。もう二度と浮上することの叶わない、深くて暗い、彼と己の二人きりの海の水底へ。あの諦めたような笑顔も、不安げに揺れる若葉色の瞳も、触れればしっとりと手に吸いついてくる滑らかな触り心地の白い肌も。素通りするには、長義は国広の全部を知り過ぎてしまっていた。
 彼の抱き心地を一度でも知ってしまったからには、大人しく我慢するなんて殊勝なこと、出来やしなかった。
(重症だな……)
 テラスに繋がる窓外を眺める。のびのびと枝を広げた木々に身を委ねた、青々と茂る深緑たち。風に攫われ、さわさわと葉擦れの音を響かせるそれの下で、木漏れ日が揺れている。
 彼の瞳を彷彿とさせる緑。しかし、あれではないと心が頻りに否を唱える。彼の目は、もっと透明で澄んでいて、溌剌とした輝きを湛えていて……偶に子どものように悪戯っぼい色を映すあの美しさは、かの幻の宝石と呼び声の高いパライバトルマリンでも及ばない――本気でそう思った。
「……馬鹿だな」
 無理だ、絶対に。忘れられるわけがない。何故自分は、彼との関係を一時のものだと割り切って考えようとしていたのか。あまりの愚鈍さに頭を抱える。
 これはダメだ、と思い知らされたのだ。彼を抱いたあの日に。もう絶対に手放せないと、痛感させられてしまった。
(……くにひろ)
 名前を呼ぶ度に、想いが溢れていく。
 いつか、この膨らみきった長義の想いが、長義を取り巻く環境が、純粋無垢な彼を穢してしまうのではないか。あの美しい瞳に影が落ちる日がくることを、長義は何よりも恐れている。
 窓外の深緑が揺れる。
 腹が減った。この空腹は、ただの食事で満ち足りることはない。この期に及んで二人の関係に名前をつけることを怖じている己を、心底愚かだと罵って。彼と己を繋ぐ小さな端末の背を、そっと愛おしげに指先でなぞった。

 己の下で誘うように揺らめく白い細腰を、痕が残るほどに強く掴んだ。

「アッ……あ、!」
 ぐっと己の半身を奥へ突き入れれば、肌に触れる掌から彼の震えが直接的に伝わってくる。長距離マラソンでも走った後のように、二人して荒く呼吸を乱して、一心不乱に行為に夢中になった。
 会話はない。いつものことだ。国広と行為に耽る最中に、会話らしい会話をしたことは一度も無い。しかし、それは今までに付き合ってきた女たちとのそれのように、無駄話に付き合うのが面倒だからとか、さっさと事を済まして解散したいからだとか、そんな最低な理由からではなかった。情けないことに、ただ彼の身体を貪ることに集中し過ぎて、言葉すら忘れてしまうのだ。
 ぴったり彼の背中に張り付いて、ぎゅっ白い肢体を抱き締める。そのままぐっぷぐっぷと律動を楽しんでいたら、肌が白むほどの強い力でシーツを掴む手が目に入り、窘めるようにそっと己の掌で彼のそれを包み込んだ。そして、無理矢理固く閉ざされた蕾を花開かせると、一本一本指を絡め取るように握り締める。
 ナカを刺激する度に、きゅ、きゅ、と力の籠められるそれが、途轍もなく愛しい。
「は、ぅ……うっ」
「声、我慢するなって」
「で、も……」
「聞きたい」
 言い終わらないうちに国広の口へ指を突っ込み、固く閉じられていたそこをこじ開ける。
「ぁあっ! な、んれ……っひろ、い、」
「はいはい、可愛い可愛い」
 一度深みに嵌まったら抜け出せない。この熱くうねる中に欲を吐き出したいという頭以外に、余計なことを考えられなくなる。
「くにひろ、」
「んん、あ、ぁ、ちょうぎ、ぃ」
 身を捩ってこちらを向く、可愛い人。彼の意図するところを察して顔を近づければ、ちゅっと触れるだけのキスを贈られ、さらに情欲を煽られた。あぁ、犯したりない。もっと、もっとだ。長義の手の中で乱れて、泣いて、縋って、恍惚とした顔で善がる様を見たい……。
 かわいい、かわいい。
「なぁ、気持ちいい?」
「はぁ、はぁ……、」
「気持ちいいなら、イイって言ってごらん。そら、」
「んァッ!」
 内側のしこりがある部分を重点的に狙って、浅く突く。ここをいじめてやると、いつも彼は目を見開いて善がり狂うのだ。さっきなんてもじもじと恥ずかしがりながら盛大に潮を吹いてくれたのだから、堪らない。
 組み敷いた身体が悶絶している姿を眺めるのは、想像以上に気分が良かった。普段澄ましたあのお綺麗な顔が、涙と唾液でぐちゃぐちゃに汚れながら、理性なんて全部吹っ飛ばしてただ一人の『山姥切長義』という男を求めてくる。可愛いなんてもんじゃない。頭がどうにかなるんじゃないかと思うくらい、国広の『お強請り』の破壊力は凄まじかった。
「はぁ、」
 苦しい、熱い、痛い……張り詰めた胸の奥が酷く痛んで、苦痛を紛らわすために、ひたすらに腰を振る。彼の一挙一動が愛おしい。好きで、好きで、堪らなくて。それでも言葉に出来ないもどかしさから、さらに行為は激しさを増していった。
「……っ、」
「あーっ、むり、むりだから、ぁ……っ!」
 やだ、やめて、だめ。
 ギシッギシッと耳障りな悲鳴を上げる安物のベッドマットレスが、国広の嬌声の狭間にいちいち割り込んできて煩わしい。
 新宿での飲みの帰りに、耐えきれなくなって急遽近場のラブホテルに雪崩れ込んだまではよかったが。これなら高級ホテルのスイートルームとまではいかずとも、そこそこ良いホテルを予約した方が良かったか。甘い声を上げる唇を啄みながら、そんなことを考える。
 こめかみを伝った長義の汗が国広の背に落ち、乱れたシーツの海へと落ちた。既に何度も果てたことで、どちらとも言えぬ汗や精に塗れた汚らしいそこは、また新たな水たまりを作ろうとしている。
「くにひろ、……っぅ、」
「やめ……ダメだ、もう、あ、だめ、」
 ばちゅんっ! 
 汗で湿った肌がぶつかり合い、大きな水音が響く。根元まで埋め込んだ時にコツコツと先端が固い何かに当たり、わざと大きく腰をグラインドさせて剛直を叩き込んだ。すると、国広は身体を仰け反らせて声にならない悲鳴を上げる。
「……っ、ん、またイッちゃったね」
 ずるん、と。若干萎えた逸物を引き抜き、はくはくと名残惜しげに開閉する尻の穴を凝視する。中に出した白濁とローションが、どくどくと流れ落ちてくる様は絶景だった。
「も……だから、だめって言った……ぁ」
 国広の身体を仰向けにして、ぱかりと両足を割り開く。最早抵抗する元気も残っていない彼は長義にされるがままとなり、卑猥極まりない格好で局部を晒しながら、ぐったりと寝台に寝転がっていた。また、イキ過ぎて感覚が狂ってしまったのだろう。ぷしゅ、ぷしゅ、と小刻みに透明な液体を吐き出し続けるそこへ、長義は労るようにそっと口づける。
「ふふっ……甘い、かな」
「な、! 汚いからやめろ!」
「汚くないよ。お前は綺麗だ」
「き、綺麗って……言うな!」
 さて、どうしてくれようか。
 ドロドロになった身体を抱き締めて、額、こめかみ、鼻先、そして唇へと順にキスを落としていく。とりあえず身を清めるか。そう思い立ち、まだ敏感になっている彼の身体を刺激しないよう、剥ぎ取ったシーツで包んでから姫抱きにすれば、突然もたらされた浮遊感に「うわっ」という色気のない声が上がった。
「なぁ、国広」
「……なんだ」
「今度、川崎で花火大会があるだろう? 結構大規模なやつ」
「……? あぁ」
 顔を赤くし、ぼんやりとした表情で返事をする彼を前に、もう一度昂ぶりが勃ち上がりかけるも、ぐっと堪える。
「行くか。次のデートで」
 一瞬きらりと光った彼の瞳はしかし、すぐにその輝きを失い、また元の色に戻ってしまった。それからややあって、こくり、と小さく頷かれる。
「約束だぞ」
 この時、長義は花火大会へ行くという約束を取り付けたことで、浮かれるあまり気づかなかった。国広がどんな思いでその口約束に頷いたのかを。そして、彼の瞳から光が失われたその理由に。
 些細な彼の違和感に気づけなかった己に後悔することになるのは、その翌朝のこと。

「……どういうことだ」
 早朝。夜明け前の薄暗い部屋の中で、ブルーライトを放つ端末と睨み合う男が、一人。
 男の持つ手の中の端末画面には、無情な一文が綴られていた。

《山姥切国広は現在退職しております。他のキャストの中からお選びください》


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