人と金の中心地・東京の某所。
雑踏の中、息を潜めて歩いた。フードで顔を隠し、人混みに紛れる。偶然擦れ違っただけの人間たちのことなど、誰もいちいち気にも留めない。街はこれだけ人で溢れているというのに、世界にたった一人きりになったような、そんな錯覚に陥って、ほっと息を吐き出した。昔から人の視線は苦手だ。己を見る者たちは、皆ショーウィンドウに並べられた菓子でも物色するかのように、国広を品定めせんと無遠慮な視線を送ってくるから。
止め処なく行き交う人、人、人。ホームに滑り込む列車の滑走音が、絶え間なく響き続ける。耳が痛くなるほどの喧騒を行くこと十五分ほど。曲がりくねった迷路のような道を抜けたその先に、国広が所属するレンタル彼氏の事務所『ティー・アンド・ディー株式会社』はあった。
「おはようございます……」
カランカラン、と音を鳴らして、ドアを開く。だだっ広い事務所の片隅に放置された執務机に、人影はない。ということは二階の面談室だろうか、とあたりをつけた国広は、部屋を後にせんと踵を返した。
「あれ、国広くん来てたんだ」
と、そこで部屋の奥の方から、何者かの声が聞こえる。
「燭台切さん、いたんですか」
事務所に備え付けられたミニキッチンの、ガタついて建て付けが悪くなってしまっている一枚扉。扉としての役目を放棄し、半開きのまま放置されているそれの隙間から、一人の男が顔を覗かせている。男の名前は燭台切光忠。『ティー・アンド・ディー株式会社』の代表を務める男だ。
「うん、今日は事務の子が休みだから、僕が食器洗いしてるんだよね」
ひらひら、とこちらに向かって振られた彼の掌の中には、泡のついたスポンジが収まっている。親しみやすい人柄とはいえ、代表にそんなことをさせるわけにもいかず、「俺がやります」と国広が気を利かせて申し出れば、「いいよいいよ」とあっさり躱されてしまった。こうなった燭台切は絶対に引かない。結局、代表取締役が食器を洗っているのを、アルバイトがただ横で見ているだけという、なかなか悲惨な絵面になってしまい、内心頭を抱えた。
こんなところを長谷部に見られようものならどやされそうだな。ふ、と思う。国広たちアルバイトのシフト管理などを担当している正社員の男は、礼儀や作法に何かと小うるさいのだ。
「今日は荷物の引き取りに?」
ザー、ザーと水の流れる音に、穏やかなテノールが掻き消されていく。
「はい。……今までありがとうございました」
「こちらこそ。君は個人でも十分やっていけるだけの素質を持ってたのに、うちと契約してくれて助かったよ」
「いえ、そんな……」
十人中十人が美男子だと答えるであろう甘いマスクと、軟派そうな見た目をいい意味で裏切る紳士的な態度。今でこそ彼のトレードマークとなっている右目の黒い眼帯は、以前事故に遭った時の傷を隠すためのものなのだとか。また、彼は昔現場で働いていた側の人間だったのだが、顔に傷が出来たのを理由に、レンタル彼氏(彼が現役だった当時は出張ホストという名前だった)を引退したらしい。曰く、名誉の負傷だから今では誇りに思っている、とのことだか……本当のところはどうだかわからない。
何度この男には世話になったか知れない。若く見えるのに、豊富な知識や経験から彼はいつだって国広の相談を真摯に受け止め、親身になって助言をしてくれた。仕事で悩んだ時も、女絡みで困っていた時も、客観的な視点で物事を捉えて、そっと国広の成長を見守り続けてくれた。そんな彼を、国広は己の兄のように慕っている。
「それで、君の知りたかったことはわかったかな?」
きゅっ。
燭台切が蛇口を捻り、水の勢いが止まる。緩やかな沈黙が下りてきた。洗い終わった食器の水気を布巾で拭き取ろうとする彼の手から、そっとずぶ濡れのティーカップを奪う。
「俺がやる。最後にそれくらいさせてください」
「なら、お言葉に甘えようか」
クスクスと笑った燭台切が、濡れた食器たちを国広に託して執務机の方へと消える。
知りたかったこと、か。
燭台切からの問いの答えを、一人考えた。
「君がうちの面接に来た時のこと、まだ覚えてるよ」
ガサゴソと机の引き出しを漁りながら、燭台切が言う。国広がこの会社の面接を受けた時、彼はまだ代表ではなかった。その頃の燭台切は人事担当を任されていて、国広のようなアルバイトたちの採用や正社員たちの配置転換などを管理している立場だったと聞いている。
国広の面接をしたのは彼だった。あの時も、燭台切は国広に問うてきた。この仕事を通じて、君は何を得たいと思う? と。
「あの時の君は『女を寄せ付けない方法』って言ってたね。変わった理由だなって思ったのを覚えてるよ。この業界に来る子たちは真逆の理由が多いから。まあ、でも君の容姿を見て納得もした」
君は綺麗だから。そう息をするように口説き文句を吐く男へ、すかさず「綺麗とか言うな」と噛みつく。これは反射的なものだ。それを知っている燭台切は楽しそうに笑うだけで、大して気を悪くするでもなく続けた。
「僕はね、そんな君がいつかもっと楽に息が出来るようになればいいなと思ってたよ」
はい、これ。
唐突に手渡されたのは、退職に必要な書類一式と僅かな厚みのある茶封筒だ。封筒の方は持ってみると何やら軽く、カラン、と鈴の鳴る音がする。
「……これは?」
「厄除けのお守り。桃の良い匂いがするやつね。見た目もシンプルでカッコいい」
「厄除けって……なんで俺に?」
「女難の相が出てるんだろう?」
「えっ」
――俺たちは女難の相があるに違いない。
そう、前に長義へぼやいたことがあった。だが、燭台切にその話をしたことはないはずだ。ならば一体どうして、彼がその話を知っているのだろうか……?
「僕の甥っ子が楽しそうに君の話をしてたから。ほら、ミスオーダーの」
「え、……甥っ子……? え?」
衝撃的な爆弾発言をしてくれた張本人は、「その反応が見たかったんだ」と呑気に言いながら笑っている。長義が燭台切の甥っ子。まさかとは思うが、国広と長義のあれこれについて燭台切が知ってるだなんてことは……ないか。青から赤へと忙しなく顔色を変えた国広は、一瞬過ぎった最悪の考えを慌てて振り払った。もし知っていたとしたら、彼のことだから早々に国広たちを叱りつけてきそうだ。枕営業は絶対にダメだと、いつも口を酸っぱくして言ってくるような男だから。
逆を言えば、ここ最近の長義との爛れた関係を知られてしまったら、色々な意味でまずい。自惚れではなく彼から弟のように可愛がられていた自覚はある。説教なんて一時間では済まないだろう。ましてや彼の甥っ子に国広の方から身体の関係を迫ったと知られれば……最終的に国広の顔色は真っ青を通り越して白くなった。
「君たちが出会ったのは偶然とはいえ、二人があんなに仲良くなるのは少し意外だったんだ。なんていうか、君たちって性格も考え方も真逆だろう? それに、長義くんはどちらかといえばプレイボーイ気質だったし、国広くんは女性に苦手意識があって……だから、あんなに長義くんが生き生きと君のことを語る姿は、びっくりだったし微笑ましかったなぁ」
何だかおじさんっぽい言い方になっちゃったね。
カッコよくないな、と燭台切が苦笑する。それよりも、国広は燭台切が言った言葉の方が気になって仕方なかった。生き生きと国広のことを語っていた? 彼が? いつも澄ました顔で、渋々国広の好意に応えてやっているのだと言わんばかりの態度を崩さなかった彼が?
「そう、ですか」
やっとの思いで絞り出した声は震えていた。
会いたくて堪らなくなる。もうやめてくれ。思わせぶりな態度を取られて、身分不相応にも期待した。想いを返してくれない長義に焦れて、苦しくなって身勝手にも逃げ出した。もう、彼を想うのは辛い。バクバクと急速に鼓動を逸らせていく心臓が悲鳴を上げて、長義の存在を頭の片隅へ追いやろうと躍起になる。もう二度と、あの息苦しい場所に戻りたくない。
「これからも、長義くんと仲良くしてあげてね」
「……はい」
「あ、そうそう。もう辞めるって言ってる国広くんに、こんなことをお願いするのは申し訳ないんだけど……」
カチカチ、とマウスをクリックする音が響いて、燭台切が何かを印刷し始める。びっしりと文字で埋め尽くされた複数枚にわたる資料を手渡されて、国広は瞬目した。資料の中身は、とある客のプロフィール情報。ただの客ではない。国広を何度も指名してくれた常連客で、ここ最近多忙なのかぱったり指名が無くなった女だ。
「……この人」
「君が最後だって知ったらどうしても一日だけ時間が欲しいってね。彼女、いつになく焦ってたから可哀想になっちゃって……」
本当なら、ここで断るのが当たり前だった。もう国広は九月いっぱいで辞めた身だ。一人の女の我が儘に付き合う義理はないし、燭台切だって断ったところで怒りはしないだろう。
「……予約日はいつですか」
だが、気づいたらそう口に出していた。意外な返答だったのか、燭台切の左目が僅かに見開かれる。
「十月六日の夜十八時から二十一時」
かさり。
手の中の資料が乾いた音を立てる。
「川崎の花火大会の日だよ」
*
星の見えない、分厚い灰色のカーテンに覆われた空の下、砂利混じりの土手道を行く。芳ばしい香りを放ち食欲を刺激する出店たちに、暗がりを照らす、ずらりと道なりに吊り下げられた赤提灯。高架下を潜り抜け、はしゃぎ回る子どもたちの横を通り過ぎれば、待合所となっているスペースの片隅で依頼人の女が仁王立ちになって待ち構えていた。
「私に何も言わずに辞めようだなんて、随分と薄情なんだな?」
ひくり、と頬が引き攣る。これはかなりご立腹の様子だ。それはそうだろう。最近こそ滅多に会わなくなっていたとはいえ、それまでは週に二度ほどは指名されていた太客なのだ。誰よりも長く共に時間を過ごしてきたし、国広なりに他の客たちよりも気を許していた自覚はある。そして、そのことはこの女自身も理解していたはずだ。そんな矢先の国広の退職。それはそれは驚いただろうし、憤ったに違いない。
「その……すまん」
「お前はいつもそうだ。こちらが少し気を緩めればふらふらと……今度首輪でもつけて散歩してやろうか?」
その今度、はもう訪れない。
そんなことは、聡明な女ならば百も承知のはずだ。苦笑を浮かべながら国広がもう一度「すまん」と謝ると、呆れた視線を寄越した彼女はがっちりと左腕にしがみついてきた。
「もういい。今日はこれまで以上に奉仕してもらうからな」
水縹色の浴衣を纏い可憐に着飾った女は、数年ほど前に結婚を前提に付き合っていた恋人に振られたことがきっかけで、レンタル彼氏に依頼するようになった客だった。出会った当初はかなり表情が暗く、元の気の強さも相まって手がつけられない荒れ方をしていたのだが。何度か会うにつれて段々と雰囲気が柔らかくなってきて、今ではすっかり気位の高い猫くらいには収まっている。
「ん、少し小腹が空いたな……」
「なら焼きそばでも買ってやろう。ネギ焼きと迷うところだが……」
「両方頼もう。二人で分ければいい。金は俺が出す」
「……いいから、薄情者は私に甘えてろ」
女の仕事はとあるアパレルメーカーの女社長だ。両親も名の知れた大企業の経営者であり、そういった独特の家庭環境からもプライドが高い上に金遣いが荒い。
「その、すま――」
「謝るくらいなら礼を言え。前にそう教えたはずだが?」
「……ありがとう」
「わかればいい」
良い意味で女らしくない彼女と国広は、不思議と波長が合っていたらしく。二人でいる時に、他の女と一緒にいるような煩わしさを感じたことは無い。こういう女と付き合ったら、楽なんだろうなとは思う。何度か考えたことはあった。この女だけではない。キャストと依頼者として出会った魅力的な女たちを見る度に、何故俺はこういう女と付き合ってこなかったのだろうかと、割と真剣に思い悩んできた。一時は自分が女たちをダメにしているのではないかとすら思ったほどだ。
「人が増えてきたな」
「……混雑は嫌いだ」
「手を繋ごう。はぐれたら困る」
はぐれないようにと手を繋ぐと、女は当然とばかりに鼻を鳴らして指を絡みつかせてくる。「幼子じゃないのだから」と不満気に吐き出された声には、隠しきれぬ喜色が滲んでいた。猫のように吊り上がった目元に嵌め込まれた、二つのコバルトブルーに、品良く結い上げられた緩くウェーブを描く銀髪。自信で溢れていて、プライドが高く、我が強い。されど、憎めない。まるで長義のようだ。そう気づいた途端、息苦さを感じて繋いだ掌に力を籠める。すると、静かに女の方も応えるように手を握り返してきた。
「辞めた後はどうするつもりだ」
屋台の行列に並んでいる最中、暇を持て余していた時だ。女が毅然とした声で問うてきた。レンタル彼氏と客として一線を引き、何処までもビジネスライクを貫いてきた女が、初めて境界線を越えた。その思いがけぬ事実に一瞬面食らうも、国広は素直に答える。
「さぁ……どうするんだろうな」
「来年は就活だろう。のんびりしてる暇はないぞ」
「あー……」
「雇ってやろうか」
に、と。悪戯っぽく女が笑う。八割の嘘の中に、二割の本音を忍ばせて。それを匂わせてきた時点で、彼女は国広に選択を委ねていた。それが察せられないほど、国広は愚鈍ではない。
「……誰も俺を雇ってくれなかったら、泣きつくかも知れないな」
我ながらズルイ返答だ。正直、揺らいでいる。でも、ここで女に甘えるのは良くないということも、同時に悟っていた。
迷いの末に出した中途半端な答えなど、後悔しか生まないと相場が決まっている。迷って、悩んで、期待して……あわよくばと思いながら関係を続けてきた先に、絶対に越えられない一線が横たわっていて、結局己は諦めた。あの時の虚しさも、悲しさも、身を切られるような切なさも、出来ることなら二度と味わいたくはない。また同じことを繰り返すのだけは御免だった。
「お前は顔だけはいいんだ。会話はつまらないがな。だがその見目が営業の武器になる。私はお前のことをかなり買っているぞ?」
ズケズケと遠慮のない女の言葉に、国広は表情を緩ませる。
「ふ、……やっぱりつまらないのか、俺は」
「逆に気が利く性分だと思っていたのか?」
「いや、ちゃんと自覚している」
「そうか。自覚すらしていなかったらどうしようかと思った」
それから二人は河川敷に並べられたテラス席へと移動して、売店の安っぽい味に舌鼓を打ちながら談笑に耽った。花火の打ち上げまでは後三十分。食事を終え、飲み物を買って一服していると、急激に河川敷へ人が流れ込んでくる。これは、そろそろ国広たちも場所取りに行った方がいいかも知れない。そう考え、また手を繋いで歩き始めた時のこと。ふ、と思い立って、国広は女に言った。
「なぁ、変なことを聞いてもいいか?」
すぅ……。至る所から白煙の立ち上る、生温い空気を吸い込む。
「内容によってはビンタが飛ぶかもな?」
「茶化さないでくれ」
「はは、いいよ。言ってみればいい」
「あんたは、本物の恋をしたことがあるか」
手に汗が滲んだ。緊張して、表情が強張っているのが自分でもわかる。吐き出した声も若干震えていた。無様だ。人知れず自嘲する。
どうしても忘れられない人が、いる。涼やかな色合いとは正反対の苛烈な印象を与える、目の前の女とよく似た美しい男。彼と出会ってから見えた世界は鮮やかで、あんまりにも眩しく、綺麗だったものだから。今まで見てきたもののすべてが色褪せて目に映るようになってしまった。
「……あるよ」
女が、祭りの喧騒に掻き消されてしまいそうなほどに小さな声で答えた。国広以外の誰にも聞かせるつもりはないのだと、牽制するような響きでもってして。それは、ともすれば誰にも打ち明けることなく世界の片隅に置き去りにしようとしていたものを、最後だからとこっそり見せてくれたのだと、咄嗟に察せられる微かな言の葉。女の覚悟が感じられるそれを、国広は丁寧に咀嚼する。
「でも、叶わなかった」
どくり。
心臓が嫌な音を立てる。脂汗が出た。彼女もまた、国広と同じだったのか……。
「悪い……」
「だから謝るな」
こればかりは縁だ。仕方のないこと。
切なさなど微塵も見せずに挑発的に笑む女。そんな彼女と今の自分が重なって、気づいたら手が伸びていた。
「……あんたもか」
ぽん、ぽん。
眼下の頭を撫で、無理矢理捻り出したぎこちない笑みを向ける。目を見開いて固まった女を、今にも泣き出しそうな子どもを慰めるような感覚で、そっと抱き締めた。とん、とん、と軽い力で背中を叩けば、腕の中の女が大仰に肩を揺らして驚きを露わにする。そういえば、客に自分からここまでの接触をしたのは初めてだな。そう国広が気づいたのと、女が意を決したとばかりに顔を上げたのは、ほぼ同時だった。
「……キスをして欲しい」
今度は国広の方が驚かされる番だった。
「え、……」
今まで女の方から性的な接触を強請られたことはない。勿論、他の客からして欲しいと言われたことはあった。だが、国広はそのすべてを断ってきた。常連の客ならば、国広が頑ななまでに性的なものを匂わせる触れ方をしないのは、良く知っている。だから、長く関係を続けてきた女たちから、そういうことを強請られたことはなかった。
しかし、無理だとわかっている一線を、彼女は越えてきた。長義とのそれを踏み越える勇気を持てなかった国広とは違って。彼女は無理だとわかっていても、越える努力をした。そんな女が、国広にはとても眩しく映って、長義のことを忘れる良い機会なのではないかとすら思えてきて……。
「……わかった」
ゆっくりと顔を近づけていく。胸がきりきりと痛んだ。違う、これは彼ではない。本当に求めている人ではない、と心は未練がましく悲鳴を上げていたけれど。そんな声には聞こえないふりをする。女が目を瞑り、吐息がかかるほどに距離が近くなって、国広もまた目を瞑った。そのまま、あと少しで唇同士が触れる、そう薄らと理解した次の瞬間――、
「へぇ……俺との約束を破っておいて、随分とお楽しみのようで?」
喧噪の中でもはっきりと聞き取れるその声は、明らかに国広たちに向けられたものだった。
「な、」
まさかと思い女と慌てて距離を取る。この声、まさか……いや、そんなはずがない。仮にこの声の主が彼だったとして、あの日何も言わずに姿を消した国広を見かけても、話し掛けてくるわけがないだろう。だって、彼は今頃国広の顔も見たくないほどに怒り狂っているはずだ。それくらいのことをやらかした自覚はある。
「……っ」
ぎゅっと拳を握り締め、ゆっくりと声の方へ振り向く。浴衣を着て着飾った者たちで溢れる往来。人混みに紛れそこに立っていたのは、
――バキッ!
「ぐっ!」
だが、男の姿をこの目で捉えた、と。そう確信した直後、国広の視界に映る世界は横倒しになっていた。
「国広!?」
「おい! 何やってんだよ山姥切!」
自分が殴られたことに気づいたのは、周囲が騒ぎ出してからだった。ぽかん、と口を開けて己を殴った犯人――長義を見上げると、鬼の形相で怒りを露わにした彼が、今にも人を殺しそうな目で国広を睨みつけてくる。どうして、何故、彼が己の目の前に立ってるんだ? もう二度と彼と顔を合わせることはないと思っていたのに。これは夢なのだろうか。唖然としたままぎゅうっと頬をつねれば、ちゃんと痛覚がある。ということは、これは現実……?
「ふざけるなよ、俺のオンナのくせに!」
空気が凍りつく。あれだけ煩かった音がしんと静まり返り、戸惑いという名のどよめきが走ったのが空気でわかった。野次馬根性の観衆の多いこと多いこと。国広の依頼人は青褪めた顔で長義の方を見ていて、長義の友人らしき少しガラの悪そうな男もまた、それに負けず劣らず顔面蒼白に、国広を見てくる。
「今さら女を抱けると思うな」
「ちょ、うぎ……?」
「馴れ馴れしく俺の名を呼ぶな! 偽物の分際で!」
尻餅をついて立ち上がることすら出来ずにいる国広の腕を、長義が掴む。怒りのあまりこちらの声などまるで届いちゃいなかった。そのままぐっと力任せに引っ張られて、強引にその場に立たせられる。
「国広……っ」
後ろで依頼人の女が名前を呼んだ。それに振り返り、「……すまない」と謝罪の言葉を口にする。女の顔は真っ青で、今にも泣き出しそうな顔をしていた。なのに、長義を振り切って彼女の下へ駆け寄ることも、慰めることも出来ない国広は、レンタル彼氏失格であろう。それでも、せめてちゃんと彼女に話をしてからこの場を去ろうと、国広が女の方へ足を踏み出した時……それを拒むように女が悲痛な声で叫んだ。
「……っ誰かの身代わりなんて御免だ! 他人のお下がりなんて要らん! 何処へでも行ってしまえ!」
あ、と思った時には急速に遠ざかる喧騒の気配を背中越しに感じながら、国広たちは明かりのない暗がりへ向かって走り出していた。
ザク、ザク、と砂利混じりの土手道を猛スピードで進んでいく。延々リピートされていた和楽器演奏のBGMは、鈴虫の鳴き声へ。そしてソースの匂いで溢れていた生温い空気が、草の匂いで満ちた澄んだ秋のそれへと変わる。何処に行くんだ、という国広の問いに、返される声はない。あるのは肌を刺す沈黙。凍てつく冬の気配を纏った冷たい風が、二人の間を通り過ぎてゆく。
「……この馬鹿が、」
もうどれくらい歩いただろうか。急に胸ぐらを掴まれ、国広は高架下の柱に背中を押し付けられた。あまりの勢いと衝撃に、かは、と小さく息が漏れ、痛みを感じるより先に頭上から怒声が降ってくる。
「この俺の下から逃げ出した挙げ句、よりによって女に縋るなんて……お前、本当にふざけるなよ!」
ガタン! ガタン!
橋の上を列車が通り過ぎていった。耳を劈く轟音をも掻き消すほど大きな声で、長義が絶叫する。そしてもう一度、頬に脳髄をも揺さぶられるほどの衝撃が走った。
「いっ……」
「なんとか言ってみろよ負け犬が!」
「……っ俺は負け犬なんかじゃない!」
暫く愕然としていたものの、度重なる罵声にハッと我に返って反論する。
「尻尾巻いて俺から逃げ出しておいて、負け犬以外の何がある!」
「元はと言えば、あんたが悪いんだろう!」
バキッ!
再び、鈍い音が響いた。今度は国広が殴られた音ではない。国広が、長義を殴った音だった。
「あんたが、俺をめちゃくちゃにしたんだ! あんたとさえ出会わなければ……っ俺は、」
――本物の恋を教えてあげる。
あぁ、まんまと植えつけられたさ。本物の恋というやつを。だが、一方的に種を蒔き、芽吹かせておいて、花開いた後は知らん顔とは、残酷にもほどがある。
長義は国広が抱えていた苦しみも、何もかもを知らないから、理解出来ないから、そんな理不尽なことが言える。つまりそれは、長義は国広と同じ感情を抱いていないことを意味していて……。今の彼はただ子どもがおもちゃを取られた時のように、自分のお気に入りが手の中から取り上げられて、癇癪を起こしているだけ。負け犬なんて言われる筋合いはつゆほどにもなかった。だって、そもそも彼は自分と同じ土俵に上がってすらいないのだ。勝ち負けもクソもない。
「俺はあんたに好きだと言った。だがあんたは俺に好きだと言ってくれなかった……! あれ以上傍にいたら気が触れそうで……っ、そんなこと、何もわからなかっただろ? あんたは、何も知らないからそんなことが、」
視界が壮絶な光に覆われて、スパークした。
花火だ。星の見えない空に打ち上がる大輪の花。金、赤、緑、青、鮮やかな色彩で描かれる花々が、失われた夏をもう一度蘇らせる。
「……言わずともわかれ、馬鹿」
硝煙の匂いが鼻腔を刺す。写る世界は極彩色。夏の空を切り取ったような群青が、視界いっぱいに広がる。唇に触れた熱はあの日と同じで、目を見開いて驚愕していると、確かめるようにもう一度口づけられた。
「好きだ」
涙が溢れる。この野郎、ふざけるな。何が言わずともわかれ、だ。そんなのわかるわけないだろう。ただでさえ長義は普段の態度が態度なのだ。自分が愛されているかどうかなんて、そんなの察せられるわけがない。
「……っ無茶、言う……、な……っ」
ぅっ、ひっく。
言いたいことは山ほどある。文句も、悪態も、舌打ちだってこれ見よがしにしてやりたい。本当ならもう一発ぐらいそのお綺麗な顔に入れてやりたい。だが、口から溢れたのは必死に押し殺した末に漏れた僅かな嗚咽と、熱い吐息で。考えるよりも前に、衝動的に目の前の男へ口づけていた。
「ん、……っ、ぅ」
「ふ……、お前、そんなだから女に振られるんだよ」
息継ぎの合間に、この期に及んで長義が煽ってくる。
「あんたこそ……っ、そんなだから女にビンタされて逃げられるんだ」
「言ったな」
何度も、何度も、角度を変えてはキスをして。茹だる頭で夢中になって、お互いを貪った。
腹に響く爆発音が、遠くから反響してくる。咲いては散って、また咲いて、散る。一瞬で消えてしまうあの儚い花たちのように、一度潰えた恋心は、また大きな花を咲かせて星の見えない夜に彩りを添えた。
何度だって、潰えても咲き誇る。
この痛みも、苦しみも、愛しさも、永遠に消えはしない。
そんな本物の恋をした。そしてこれからも、自分たちは恋をし続ける。そんな予感がした、夏を置き去りにしたはずの秋。
国広と長義は、恋人となった。
*
駅から少し外れた裏路地で偶然見つけた、けばけばしい電光掲示板に照らし出された『HOTEL』の文字。ギラギラと独特の存在感を放っているそこを見つけるや否や、国広たちは迷いなく空き部屋にチェックインした。
「ん……、は、ぁ」
ぴちゃぴちゃと水音を立てながら、部屋に入って早々、今まで離れていた分を取り戻すように夢中にキスをする。互いに舌を絡め合わせながら直に肌をまさぐれば、必然身体は熱くなり、下半身の高ぶりも緩く兆し始めた。
「まさかまた、こんな安っぽいホテルに来ることになるとはね」
しかも付き合って初日に。
苦々しげに言う長義がキスを中断し、ぐりぐりと国広の肩口へ額を擦り付ける。そんな駄々っ子と化した恋人が可愛くて堪らなくて、国広は無防備にこちらへ曝け出された首筋へと口づけを落とした。
「……仕方ないだろ。他は花火目当ての観光客でいっぱいだったんだから」
「付き合った初日の夜だぞ? 高級ホテルのスイートだって不十分だというのに」
ちら、と。こちらに視線を寄越した長義の顔は、不満げに歪められている。秀麗な眉は顰められ、気の強そうな目元は拗ねて細まり、涼やかなコバルトブルーが欲を閉じ込めてギラギラとした光を湛えていた。込み上げる衝動と野生じみた本能を必死で押さえ込んでいる様は、己の内側で燻っていた熱をさらに煽り立ててくる。
敵わないな、と思う。彼のことを忘れようとして、距離を置いた。まさか自分から逃げ出したような男を、彼が覚えているわけがないと、そう予想して。しかし、結果的に彼は国広を忘れることはなかったし、それどころか再会した時など向こうの方から追いかけてきた。自分は存外、この男の中でそれなりの存在になれているのかも知れない。そうちょっとだけ自信がついたのは秘密だ。
「……部屋なんてどうでもいい。俺は、……早くあんたが欲しい」
ちゅ。
ガバッと勢いよく顔を上げた彼から、隙あらばと唇を奪う。唇をくっつけたまま、間近で真夏の青空を彷彿とさせる双眸を覗き込むと、徐々に長義の目元が赤くなっていった。照れているのか、可愛い。桜色に色づく花弁を甘噛みし、ぺろんと舐める。汗のせいか。そこは少しだけしょっぱかった。石のように固まった彼はこちらをただじっと見つめているだけで、自ら動こうとする気配はない。それをいいことに、国広は動きを積極的なものにしていく。
首筋を食む。舐め、甘噛みし、時折眩しいほどの白い肌に強く歯を立てる。すん、と鼻を鳴らして匂いを嗅げば、汗の匂いが入り混じった香水の香りが鼻腔を過ぎった。長義の匂いだ。何だか嬉しくなって、その後も犬のように匂いを嗅ぎながら、次は耳朶を食む。耳孔の中へ舌先を突き入れると、くちゃくちゃという大仰な水音が鳴って、長義が僅かに身動いだ。反応している。自分の手で、舌で、唇で。国広の興奮は最高潮に達し、思わず腰を擦りつける。
「は、……すきだ」
ずっと触れたかった。想いが返されないのなら、彼の重荷になりたくないからこそ、自分もまた溢れる想いを隠さなければと心に決めた。以来、頭の何処かでセーブしながら長義に触れてきた。一方的に身体を貪られた時も、愛されていると勘違いしそうになるほど、どろどろに甘やかされながら抱かれた時も。ただ、気持ちを押し殺した分だけ苦しさが積もっていって、身体は満たされているはずなのに酷く虚しくなった。
もう我慢しなくてもいいのだ。
そう思うと、箍が外れてしまう。手持ち無沙汰に放り出されていた彼の手を取り、指を一本一本確かめるように絡めていく。きゅっと握り返されて、気持ちをひた隠しにしなくてもいいという免罪符を与えられたような気持ちになった。こんなことでは愚かな自分は調子に乗ってしまう。
「……はぁ、」
「くにひろ」
あぁ、こわい。
綺麗に浮き出た鎖骨へ噛みつく。噛み痕が残ってしまった。長義は許してくれるだろうか。
「長義、ちょうぎ……」
沢山名前を呼びたい。今まで、躊躇って無理矢理飲み込んだ分も全部。いっぱい名前を呼んで、呼ばれたい。
愛されたい。
「ねぇ、国広……俺のこと、好き?」
するする、と国広の金糸を梳く爪の先まで整えられた指先。白くて、ゴツゴツしていて、でも綺麗な形をしている。あの手が、いつも国広の身体を暴き、犯し、溺れさせてきた。また、彼の手で自分は何も考えられなくなるまでの快楽に突き落とされてしまうのか……。想像しただけで腰に甘い痺れが走った。
「……言って、国広」
「すき」
「……っ」
「早く……一つになりたい。あんたは言わなくてもいい。あんたがあの時くれた言葉があるから……」
――好きだ。
夜空に打ち上がる大輪の花を背に、彼が吐き出した愛の言葉。あれだけあれば十分だ。もう何も望まない。
そんなひたすらな献身と、思慕。人知れず国広の健気さに胸を打たれた男が、慌てて口元を手で覆ってそっぽを向く。一方で、国広はその場で膝立ちになり、長義のベルトをかちゃかちゃと外し始めた。前を寛げたスラックスをそっと下へ落とし、中から現れた膨らみを下着越しに撫で摩る。
「ふっ……大きくなってるな」
先走りで色を変えたチャコールグレーのボクサーパンツ。国広に反応してくれた証だ。愛おしげにそこへキスを贈ると、中に押し込められた長義の逸物がびくんと脈打った。
「……、」
頭上から期待のこもった静かな眼差しが降ってきた。見ずとも、その目が何を望んでいるのか察することは容易い。男の求める通りに国広は剛直を取り出して、焦らすように先端へキスを贈った。ちゅ、ちゅ、と何度か口づけていれば、そっと後頭部を押されて腰を押し付けられる。早く舐めろ。早く咥えて、奥まで突かせろ。そんな遠回しの催促には無視をして、亀頭をいじめ尽くす。
むわり、と漂ってきた雄の匂いに脳髄が震えて、その衝撃の強さに息を呑んだ。くびれを舌先で刺激していくうちに、一気に立ち上がった男のモノが愛しくて、嬉しくて……恍惚とした笑みを浮かべて国広はついに雄を咥えた。
「ぅ、……っ」
じゅるるっ、じゅぶっ、ずちゅっ。
性交を思わせる卑猥な音が部屋中に響き、長義の腰が小さく跳ねる。ふー、ふー、と息を整える呼吸音が、彼の限界の近さを物語っていて、国広はそれまでおざなりになっていた精嚢への愛撫も始めた。左手でやわやわと一対の玉を揉み込んで、掌の中で転がしてやる。右手は竿を緩やかに扱いて、偶に思い出したように裏筋を指先で辿った。
いつもセックスの最中やけに饒舌になる長義の口は、今回ばかりは余裕が無いのか。揶揄することなく国広の奉仕に身を任せ、大人しく閉じられている。いつもこれくらい静かならいいのに。長義に知れれば拳が飛んできそうなことを考えながら、国広は目の前の男への愛撫に没頭した。
「んグッ、んっ……ぅ、ふぅ、」
「はは、そんなに嬉しそうに俺のを咥えて……っ、いつからそんな淫乱になったんだ? ……ぐっ……、」
長義の限界は近そうだ。そう直感した国広は、前後の動きをさらに速めて、えずくほど奥まで怒張を咥え込んだ。反射的に収縮した喉の動きがかなり効いたらしく、長義の口から漏れ出る声に焦燥が滲む。
「……ふ、っ……クソッ」
「ぐ、ぅ……んんっ!?」
このままスパートを掛けて絶頂させてしまおう。そう意気込んだその時、突然頭を掴まれ、思い切り喉の奥を突かれた。
「ゲホッ……ごほ、ぐ、ぅ……むぐ……ッ」
「そんなに欲しいならいくらでもくれてやる……っ、そら、」
苦しい、痛い、でもそれ以上に……嬉しい。普段理性的な男が本能のままに腰を振り、自分の身体で感じている。その何と蠱惑的なことか。
終わりは唐突にやってきた。何度か突かれた後、ズンッ! と最後に深く一突きされて、喉奥で欲望が弾ける。じわじわと染み入るように生温かいものが口内に広がっていき、受け止めきれなかったものが口端から垂れ落ちた。それすら勿体無いとばかりに舌先で舐め取り、これ以上零さぬよう口元を掌で覆う。
「げほっ……ゴホッ、うっ、」
そして、一部気管に入ってしまい盛大に咽せ込んでしまうも、何とか吐き出さずに飲み干した。
「……」
ごくん、ごくん、と小刻みに動く国広の喉の動きを、長義は食い入るように見つめていた。その目は静かに獲物を狙う肉食獣のそれのように、物騒で生々しく。常にない熱視線に射抜かれていることにすら、ゾクゾクと肌が粟立つ。なんて目をしてるんだ、この男は。何だか妙に照れてしまって、その先への期待から熱い息を吐き出した。
「は……、ちょっと零してしまったが……殆ど、飲めたぞ」
あー。
口を開いて、全部飲めたとアピールをする。考えるよりも先に行動していた。あまりに卑猥な国広の一撃を諸に食らってしまった長義はというと、あー、だの、うー、だのとよくわからない獣のような唸り声を上げながら頭を抱える。
「お前ね……」
「……?」
「今のは絶対お前が悪い」
「長義? 一体どうして、……ぅわっ!」
次の瞬間、国広は長義に抱え上げられ、部屋の大半を占める大きさのベッドの上に転がされていた。あっという間に服を剥かれ、己の上に覆い被さってきた長義自身も豪快に残りの服を脱ぎ捨てる。仰向けに寝転がりながら唖然と彼を眺めていると、にやりといい笑顔を向けられて鳥肌が立った。
期待からではない。嫌な予感というやつだ。自分は何か間違えたかも知れない。そう一瞬で悟らざるを得ないほどの警鐘が、大音量で脳内に鳴り響いている。
「言っとくけど、絶対逃がさないから」
「なに、が……」
「お前が嫌だと泣き叫んでも絶対にやめてやらないから」
何をするつもりだ!?
そんな切実な叫びは長義からもたらされた口づけによって、見事に封じられてしまった。
わ、と声を出した拍子にぬるついた舌を割り入れられ、口内を蹂躙される。間髪入れずに悪戯な掌が伸びてきて、暫くふらふらと肌の上を彷徨っていたそれがついに胸の尖りを捉えた。国広がいつもより性急で荒々しいキスに夢中になっている隙に、ぎゅうっと強く乳首を握られて高い声が出る。
「ひゃ、あっ」
「ふふ、可愛い」
慌てて声が出ないよう口を塞ぐも、却ってそのことが長義の嗜虐心に火をつけたらしい。さらに責め苦が酷くなり嬌声が我慢出来なくなってきた。
「ちょ、ぎ……待ッ……、!」
「聞こえないなぁ」
カリ。尖りを噛まれいやいやと首を振る。すっかり勃ち上がっていた半身を握られて、容赦無く扱かれた。先走り汁を絡められてぬるぬると擦り上げられればひとたまりもない。熱い、気持ちいい。はくはくと口を開閉し、そのうち声を抑えることも忘れ喘いでいると、体を反転させられてうつ伏せの体勢へと変えられた。そのままズイッと腰を引かれ、猫が伸びをした時のような格好になる。
「あ、待て……起きる、から……っ」
「いいよそのままで。寧ろこれの方がやりやすい」
「ひっ……なんで、」
尻が大きく後方へ突き出している。まるで自ら長義へ強請っているようだ。そう自覚した瞬間、羞恥が天上突破して何とか体勢を立て直そうと足掻いた。しかし、奮闘も虚しく身体は無様に崩れ落ちるばかりで、ガタガタと震える腕はもう力が入りそうもない。なんて屈辱だ。これでは、発情した雌猫同然ではないか。
「……なぁ、お前知ってる?」
「ん……?」
今にも逃げ出したいという気持ちで羞恥に耐えていると、真白の双丘に男の手があてがわれた。そのままやわやわと揉みしだかれて、今度は左右に割り開かれる。視線を感じる。否、長義は間違いなく国広の剥き出しになった後孔を見つめていた。恐る恐る後ろを振り向くと、案の定コバルトブルーの瞳があらぬところを凝視している。何が嬉しくて恋人に自分の秘部をガン見されなきゃならないんだ。居た堪れなさと気恥ずかしさから、国広は無意識のうちに内側を収縮させてしまう。すると、浅ましく刺激を待つ穴がきゅ、きゅ、と蠢いて、それを直視した長義が嬉々として口を開いた。
「期待するとココ、待ちきれないって口をぱくぱくして強請ってくるんだよ」
ココ、と言いながら、窄まりを指先でなぞられる。顔が熱くなった。だが、収縮は止まらない。
「やめ、」
「いやらしい穴だ。俺を求めてもうこんなにヒクついてる」
どぱっ、と部屋に備え付けられていたローションが、尻たぶに掛けられた。
突然身を襲った冷たい感触に身震いしていると、徐に熱い掌で丹念に塗り広げられていく。菊門の周りを撫でるくせして、決して中へ入り込もうとはしない手の動きが、心底恨めしい。男が、国広に何を言わせたいのかがあからさまなほどに伝わってくる。きっと、長義は国広の方から言わせたいのだ。己の奥深くまで貫いて愛して欲しいと、寂しくうねる内側を犯してほしい、と。
「……お強請りの仕方、忘れてないだろ?」
暫く楽しそうに尻を撫で回していた男が、歌うように言い募る。殴ってやろうかと思った。それが出来たら苦労しないのだけれど。
「言わな、い……」
「へぇ?」
「ンッ……」
「じゃあ、俺のコレは要らないのかな?」
ぺちぺちと国広の尻を叩いているのは、恐らく長義の逸物だ。その後、焦らすようにローションで滑りを帯びた肌の上を擦られて、ゆっさゆっさと腰を動かされる。偶にわざとらしく穴に先端を引っ掛けるあたり底意地が悪い。
「ぁ、……長義、」
「んー?」
ぬちゅ、ぬちゅ。入りそうで、入らない。先端が少しだけ期待から綻んだ窄みに埋まるも、すぐに抜き出されてしまって欲ばかりが溜まっていく。
「……ほし、い」
「何が?」
キッ、と睨みつけた先にある男の顔は、ニヤニヤとした碌でもない笑顔。悔しくて泣きそうになった。死んでも泣いてなどやらないが。長義の掌の上で良いようにされていることが腹立たしくて、瞬間的に羞恥よりも怒りが上回る。そっちがそのつもりなら、こちらにも考えがある。せいぜい挿れなかったことを後悔しろ……!
「あんたがそのつもりなら……もういい」
ずぷん。
自らの指を尻穴へ突き込む。ゆっくりと抜き差しを繰り返し、抵抗感が無くなってから指の本数を増やした。一本、二本……と増やしていくにつれて、指の動きを見せつけるように大仰なものにしていく。ぐぱぐぱと蕾を広げるような動きでナカを掻き回し、記憶を頼りに前立腺の位置を探った。ここを弄るのは前に長義とセックスをした時以来だ。始めこそ自分でそこを弄ることに抵抗を覚えたが、煮え滾る怒りを前にすれば一時の恥などなんのその。次第にコツを掴んで根気強く探っているうちに、シコリのようなものを見つけた。これが前立腺か。
「……は、ぁ、……ん……」
ビンゴだ。トン、トン、とノックするとじんわりとした痺れが内側に広がってゆく。そこでようやく、国広はちらり、と後ろを盗み見た。さて、先ほどからやけに大人しい男が、一体どんな反応を見せてくれるのか……。
「……っ」
すると、唖然とした顔をした長義が、突き刺さりそうな視線でもってして国広の手の動きを見つめていた。その目には隠しきれぬ欲がギラついており、険しく顰められた眉間には皺が寄っている。ざまぁみろ。心の中でほくそ笑む。人を焦らして弄ぼうとするからそうなるのだ。ふふん、としてやったりと笑いながら本格的に快楽を追い始めたところで、後ろの男が動いた。
「……冗談だ、拗ねるなよ」
薄らと汗をかいた背中を唇で辿られる。耳元で囁くその声は切羽詰まっていた。だが、国広の腹の虫は収まっていない。どうしてやろうかと密かに思案していると、焦れた男が未だに穴を弄っていた国広の手を掴んで、ずるりと引き摺り出してしまった。
「あ、っ」
「挿れたい」
ぐっ、ぐっ、と先端を押し付けられる。
「……お前のナカに入りたい」
男が言い終わるよりも、怒張が肉壁を押し分けて捻り込まれた方が早かった。
「なっ……! だ、めだ! まだ許してな、」
「許せ。俺の負けだ」
めりめりと肉に食い込む感触が何とも言えない。指とはまるで違う質量に感じ入り、必死に快楽を逃そうと身を捩った。しかし、後ろから覆い被さっている男ががっちり腰を抱えているせいで、上手く身動きが取れない。
「ぐ、ぅ……」
は、は、と短い息が漏れる。呼吸が出来なかった。内側から内臓を押し上げられていく衝撃が強過ぎて。ゆっくりと己の存在を塗り込むように最奥までめり込んでいく肉棒が、国広の感じる場所を的確に抉り、ゴリゴリと理性を削っていく。久方ぶりの情交は刺激が強く、身体の感覚を置き去りにして次から次へと熱の奔流が押し寄せてきた。まずい。徐々に白んでいく視界を前に、ピリピリとした感覚が背筋を走る。もう、限界だ……。
「アッ……!」
長義の剛直の先端が、最奥にキスをした。その瞬間、強烈な射精感が込み上げて、燻っていた熱が放たれた。
「は、ぁ……なんで、んん……!?」
イッてしまった。挿れられただけなのに。思わぬ事態に頭が真っ白になって、暫くフリーズする。急にナカが締めつけられたからだろう。ぐっと、歯を食いしばって絶頂を耐えた長義が、訝しげに国広の下を覗き込んできた。
「国広? イッたのか……?」
彼の視線の先には、己が粗相をした痕跡が残っている。乱れた白いシーツの上には、言い訳できない量の白濁が散り、小さな水溜まりを作っていた。恥ずかしい。こんなはずではなかった。挿れられただけで達してしまうだなんて、そんな、女のような姿……この男の前では絶対に見せたくなかったのに。
「国広……」
「あ、待て、アッ……!」
ズンッ! と下から突き上げられた。眼前の景色がブレる。息を整える暇もなく、ずぶずぶと激しい律動が始まり、咄嗟に手元に放置されていた枕へしがみついた。待て、と何度言っても長義が止まる様子はない。寧ろどんどん動きは激しくなり、縦横無尽に掻き回す肉棒に、己の意思とは関係なく蕩けたナカが貪欲に絡みつく様が滑稽だった。止まってほしい、怖い、無理、ダメだ……うわ言のように繰り返される言葉たちは男の一突きであっさりと一蹴され、聞き入れられることはない。
「……っ!?」
不意に、得体の知れない何かが腹の底に込み上げてきて、国広は金髪を振り乱して必死に頭を振った。
「だめ、だ、ッなんか……、なんかダメ、あッ……ァァア!」
ぴゅ、ぴゅ、と小刻みに何かが漏れ出たのがわかった。いつもの射精した感覚とは違う。もっと短くて、強制的に押し上げられた結果、溢れてしまった感覚。
「やだ……! 出てる……! ッ、長義、出て、なんか出てる……こわいッ! ぁあッー!」
「トコロテン、かな? いいよ、もっと出して……イけよ!」
ビチャビチャと新たな水溜まりが作られる音が響き、プライドも何もかもをかなぐり捨てて縋りつく。やめてくれと懇願した数は両手では足りない。それでも長義は国広を犯し続け、あろうことかいつもより深く、強く、奥のそのまた向こう側を勃った。
(もう無理……)
これは――本当にダメだ。頭がおかしくなる。
「やめ、そこ……や、ぁ……〜〜ッ!」
ぶしゅぅっ!
何度もイかされたせいで最早精液は透明になっている。粘り気もなくなり、水のようにさらさらとしたそれは尿道からとめどなく噴き出し、国広の胸まで飛び散った。
「あはは、潮吹いちゃったね? まるでオンナじゃないか……そんなに気持ちよかった?」
それを見た長義は心底嬉しそうな声を上げ、ビクビクと全身を痙攣させている国広の首筋へ顔を寄せる。そして、組み敷いた柔肌へと強く噛みつき、獣じみた情交の痕を残した。
「が、ぁ……痛い……」
「でも締まってる……。かわいい……くにひろ、くにひろ」
ぱちゅ、ぱちゅ、と尻たぶに男の恥骨がぶつかる音が鳴る。下生えがじょりじょりと肌に擦れて、そんな些細な感覚にすら感じて仕方なかった。
「ナカに出すぞ……っ、」
そう宣言するや否や、長義がラストスパートを掛けて腰を振る。
彼の絶頂は、いつもより長かった。じんわりとうちに広がる温かな何か。満たされた気持ちになって、微睡みに意識が拐われる。ありとあらゆる感覚が急速に遠のいていって、目の前を白が飛んだ。
「あぁ……うっ……ハァ……ッ」
己の口から出る声は総じて掠れてしまっている。まさに精根尽き果てたといった風に、ついに崩折れてしまった身体は、そのまま寝台の上に倒れ込みピクリとも動かなくなった。全身が脱力して動かない。指先一つ動かせそうになかった。ベトベトの身体は気になるが、このまま眠ってしまいたい。
「おやすみ、国広」
「……ん」
「……好き」
最後に聞こえた言葉は、眠りの淵に立った己が見せた、都合のいいまやかしか。
結局長義へ確認することも出来ぬまま、国広の意識は深い水底へと沈んでいった。
次に目が覚めた時にはきっと、いつも感じていたあの虚しさにも、切なさにも、苦しまされることはない。そんな確信めいた予感を抱きながら。