後日談 その後の、ふたり
玄関の扉を開けると、見慣れた1DKの部屋が眼前に広がった。一人暮らしにしては広めな室内に物は少なく、必要最低限の家具や家電だけがぽつぽつと点在している。生活感はない。偶に来た世話焼きな従兄弟が、一体これはどういう事なのだと険しい顔で詰ってくるくらいに、そこは人の住む家らしからぬ寒々しさを漂わせているのが常だった。
だが、そんな国広の部屋に最近、急に物が増えつつある。食器棚のマグカップは色違いのセットのものが新たに仲間入りし、一人分しか用意のなかった歯ブラシも二本に、整髪料やシャンプー、リンスといった物ももう一セット増えた。普通ならば、女が出来たのかと言われるのかも知れない。しかし、国広の場合そうではなく、元凶は何かというと……。
「おや、遅かったじゃないか、偽物くん」
「だから、俺は偽物なんかじゃないと何度言えば……」
三ヶ月ほど前に出来たこの彼氏様だった。
男同士なのでおおっぴらには公言出来ない関係だが、自分たちが納得しているのだからそれでいいと思っている。紆余曲折あり、一時は途切れそうになった縁は奇跡的な再会と、この男の怒りの一発により再び手繰り寄せられ、今では立派なパートナー関係を築き上げていた。
「それで、引っ越し屋のバイトは順調かい?」
「……まぁ」
二人用のリビングテーブルの上に買ってきた食材を置き、椅子に荷物を置く。この部屋にソファなんて小洒落たものはないので、硬い椅子に腰掛けて悠然と寛ぐ長義を横目に、国広はビニール袋の中身を漁った。
「今日の夕飯は鍋だ」
長義と出会って早半年。季節は冬真っ只中だ。つい三日前も食べたというのに、また鍋が恋しくなって、気がついたらバイト帰りに材料を買い込んでいた。白菜、豚肉、ネギ、もやし……次々と材料を袋から取り出しながら、国広はぼんやりとこの奇妙な状況について考える。
「俺の家でなくてあんたの家の方が大きいし、過ごしやすいだろ。なんでいつもわざわざうちに来るんだ?」
前から気になっていたことだった。
恋人となってからというもの、何かと長義は理由をつけて国広の家に来たがる。明らかに彼の家の方が交通の便がいいし、広くて家具も上等なものが揃っているので、ここより遙かに居心地がいいはずなのに。国広がいくら言っても長義は必ずこの家に来ようとするのだ。純粋に疑問だった。
「なんだ、来られると都合の悪いことでも?」
ギロ、と睨みつけてくる男の目が剣呑に光る。長義は国広が少しでも女の影を匂わせることを酷く嫌った。彼自身は口にしないが、二人が付き合うきっかけとなった花火大会の日に、国広が依頼人の女を連れていたのをかなり根に持っているのではないか、と漠然とあたりをつけている。一度怒るとしつこいのだ、この男は。報復が怖いので口が裂けても言わないけれど。
「そういうわけではないんだが……」
「もしベッドの上に女物のピアスが落ちてたら、俺は怒り狂ってうっかりお前が気絶するまで犯してしまうかもな」
「……それは絶対にないから勘弁してくれ」
「ははっ」
見るからに一人用ではない大鍋を取り出して、コンロの上に置く。粗方準備が整ったところで野菜を切っていたら、暇を持て余した長義がぴとりと背中に張り付いてきた。腰に腕を回され、ぎゅっと抱き締められる。
「包丁を使ってる時は危ないからやめろって……」
「まだおかえりのキスをしてない」
拗ねたような声で言われ、瞬目する。むすっと膨れた仏頂面の上に猫の耳が見えた。背後で揺れる幻覚の尻尾が、たしたしと不満げに国広の尻を叩いている。思わず、ぷっ、と小さく噴き出してしまい笑っていると、ますます機嫌を悪くした長義が問答無用でキスを仕掛けてきた。その際、ちゃっかり包丁を国広の手から奪っているあたり、この男は抜け目ない。
「……ん、」
「は、……こうしてると何だか、」
開きかけた長義の口が閉じられる。半端に区切られた言葉の続きは、いくら待っていても吐き出される気配がない。
「長義?」
どうしたのだろう、と長義の顔を覗き込むも、今度は肩口に顔を埋もれさせてしまったため、覗き見ることは叶わなかった。この調子では、先ほど長義が何と言おうとしたのか教えてくれそうもない。疑問は深まるばかりである。一体何だというのだ。
「あ……」
その時、国広はふと思いついた。今の自分たちの状況に、強い既視感を覚えて。
「なんか、新婚みたいだな」
ガバリ。
国広が何気なく口にした途端、それまでぐりぐりと額を押し付けていた男が、勢い良く顔を上げる。あまりの勢いに若干仰け反れば、己を抱き締める腕の力がさらに強くなり、がっちりと身体を固定されてしまった。ぐぐ、と苦しいくらいに密着され、息が苦しくなる。この馬鹿力め……っ!
「……お前、あー……クソッ」
何か言いかけた男が、またもや途中でやめてぐりぐりと頭を擦り付け始める。さっきから見せる謎の行動の意味がわからなくて、国広はとりあえず頬を擽る銀髪を撫ぜた。さらさらと指の間を流れるそれが気持ちよくて、ついつい必要以上に掻き回してしまう。一方で、長義の方は満更でもないらしく。国広からもたらされる戯れを大人しく受け入れていた。
ふ、と気持ち良さげに細められる目が、彼が接触を嫌がっていないことを表している。
「……俺たちが新婚夫婦なら、旦那様はどっちだろうな?」
心の底に温かなものが溢れてくるのを感じて、堪らず彼の頭ごと抱き着いた。
「……っ俺に決まってるだろう。お前は俺のオンナなのだから。調子に乗るな」
「誰がオンナだ」
ちゅう、と眼前の唇に吸いつく。目眩がした。あんまりにも幸せで。
その後何度も口づけを交わして、最後に強く抱き締め合う。二人が身動いだ衝撃で、鍋の中に張った水がたぷんと揺れた。そうだ、調理の途中だった。そこでハッと我に返り、流されそうになっていた自分を叱咤する。まずは夕飯を作らなくては。買ってきた食材がダメになってしまう。
「これ以上は歯止めが利かなくなりそうだ」
なんて言いながらも、長義は国広を離そうとしない。尚も己をホールドしている男へ、国広は茶化すように言った。
「食事にするか、風呂にするか、それとも俺にするか……聞いてやろうか?」
「お前、そんなに俺の夕飯になりたいのかな?」
「冗談だ。……その目、やめろ」
ギラ、と物騒な光を湛える瑠璃色を、掌で覆い隠す。不満げにぶつくさ言いながら離れていった男は、早速料理を再開した国広を見て、今度は満足そうに微笑んだ。そんな男の笑顔に高鳴った鼓動を慌てて押し殺し、頭を振って煩悩を払い落とす。
危ない危ない。場の空気に流されるところだった。ここで流されたら明日の朝まで飯抜きコースまっしぐらだ。
「そら、出来たぞ。豆乳鍋だ」
鍋ごとテーブルの上に置くと、長義は感心したような声で揶揄した。
「へぇ……お前にしては洒落たものを出してくるじゃないか」
「キムチ鍋はあんたが食えないからな」
「食えないんじゃない。食わないだけだよ」
げしっと机の下で脛を蹴られ、痛みから小さく呻く。当の加害者は知らん顔で先に鍋をつつき始め、国広の恨み言には無視を決め込んだ。このマイペース男め。礼儀正しいのか暴力的なのかどっちかにしろ。でも、そんな表に見せない一面をチラつかせられる度に、逐一ときめいてしまう自分が一番末期なのだろう。つくづく惚れた方が負けとはよく言ったものである。
「あぁ、そういえば来週レポートの提出があって忙しくなりそうだ」
「ならあんたの家に行った方がいいか?」
「いや、ノートPCをここに持ってくる。その必要はないかな」
それから二人は鍋をつつきながら、互いの近況について語らった。大学のレポートが増えて四苦八苦していること、大学の友人から合コンに誘われて断るのに苦労したこと(長義の地雷を踏み抜いて危うく喧嘩になるところだった)、新しい引っ越し屋のバイトが思ったより性に合っていたこと、燭台切が国広が辞めたのを未だに惜しく思ってくれていること。次から次へと移ろう話題は尽きることなく。まるで初めて会ったあの時のようだなと笑い合う。そして、ここで酒が入れば完全再現だと悪ノリした結果、近所のコンビニへ買い出しに行って、酒を飲むことになった。この時点で二人は、既に場の雰囲気そのものに酔っていたのだと思う。
「長義、眠いのか?」
「それはお前だろ。目蓋が半分落ちてるぞ」
「バレたか……」
ふふ、と。酒で浮ついた気分のまま笑う。自分が酒を飲むと表情筋が緩みまくるということは、長義と潰れるまで酒を飲んで知ったことだった。ふわふわ、ゆらゆら。小舟の上に乗っているかのような穏やかな酩酊感。テーブルの上には悪ふざけで買った日本酒の一升瓶が、ほぼ空になった状態で鎮座している。
胃袋は限界だった。もう何も入りそうにない。
「ちょうぎ……」
両手を差し出して強請れば、アルコールで顔を赤らめた男が深くため息を吐く。何だ、そのため息は。気に入らないな。むにゃむにゃと呂律の回らない舌で喧嘩を吹っかけるも、はいはいとおざなりに流されてしまって相手にもされない。俺を酔っ払いと侮っているのか。そんなの許さない、もっと構え。とっ散らかった思考回路で色々なことを口走りまくった気がする。だが、その言葉の数々がどれだけ相手を煽っているかなんて、所詮酔っ払いに判断出来るわけがなかった。
「その生意気な態度、後でたっぷり後悔させてやるよ」
そんな、どこまでも上から目線の宣戦布告をされたきり、国広はベッドに転がされて放置されてしまう。
「ちょうぎ!」
「いい子で待ってなさい」
それからガチャガチャと食器の当たる軽い衝突音が部屋に響き始めた。間も無くしてザーッと水道の音が聞こえて、最後に『お湯はりをします』という機械的な女の声が流れる。その間、僅か二十分ほど。あの男、最近部屋の主よりも家事が手慣れてきてないか……? テキパキとした彼の動きを眺めつつ、国広は何処か擽ったい気持ちになった。これでは本当に新婚夫婦そのものだ。
「さて、待たせたかな」
ギジリ。
安物のベッドが軋む。己の上に乗り上げてきた男が、はらはらと落ちる銀髪を掻き上げた。香り立つ壮絶な色香にはっと息を呑む。
「そら、甘やかしてやるから何をして欲しいか言ってみろ」
「……っ」
ぐ、と長義の首へ手を回し、己の方へ引き寄せる。おずおずと彼の耳元へ唇を近づけ、内緒話をするように小さな声で囁いた。
「……長義、」
ーー愛して欲しい。
そこからは長義の独壇場だった。
アルコールで思考が蕩けきっていた国広を、彼はさらに溶かすように腕の中でドロドロに甘やかして、滅多に言わない愛の言葉なんかも囁いた。長義も酔っているのかと思いきや、されどいつも通りよく回る口と意識がはっきりした様子から、そうではないと不意に浮かんだ考えを一蹴される。揺さぶられて、啼かされて、よがり狂って……長義が国広から強請る言葉を引き摺り出しては、望み以上の快楽でもってしてさらに溺れさせてくる。頭の中が長義でいっぱいになって、他の何も考えられなくなった。
「ァッ……ん、あ、」
「くにひろ、」
「むぅ、ンん、……ッ」
唐突に口づけられ酸素が足りなくなる。陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクとさせていたら、舌を捻じ込まれてしまってさらに呼吸が苦しくなった。
「好きだと、言え……っ」
胡座をかいた長義の上に、向かい合う形で国広が股がり、その男根を奥深くまで咥え込んでいる。ばちゅん、ばちゅん! と激しく腰を打ち鳴らしながら、男が言った。情事中の彼はどうしてか、頻りに国広へ好意の言葉を言わせたがる。何がそんなにも彼を不安にさせているのか、それはわからない。想いを伝えたのは国広からであったし、どちらかといえば、長義の方が国広の想いに応えた側だろうに。にも拘わらず、そうやって己の心の在り処を確かめたがるその理由が、国広には皆目見当もつかなかった。
「ん、すきッ……す、ァアッ! や、そこごりごりする、な……っ」
すき、すき、と。狂ったように繰り返す。積もり積もった言葉の分だけ、またさらに想いが膨らんでいった。
「ハ、はぁ……」
二人の限界は近い。肉壁に包まれる感覚に目を瞑り感じ入っている男が、途端に可愛く思えて、国広は徐に両足を男の腰へ絡めた。そのままより深く繋がるべくグイッと腰を落とすと、不意打ちを食らった長義が焦った顔をする。ふん、酔っ払いと侮るからだ。少しだけ胸がスッとして笑えば、苦虫を噛み潰したような顔をした長義が、国広の鼻を摘んできた。地味に痛いし、何より苦しい。
「んー、……長義、もっと……」
「……っ、このばか」
「はぅ、アッ……! ああ!」
ズンッと突き上げられ、腰が浮いた拍子に限界まで引き抜かれた時の、排泄にも似た感覚が堪らない。再び突き入れられる時にわざとらしく前立腺を掠めていく肉棒が、ぐりぐりと奥を拓いて、みっともなく喘ぎ身悶えた。限界まで割り開かれた内腿が小刻みに痙攣し始め、身に覚えのある強烈な熱の濁流が腹の底から込み上げる。
「あ、出る……ッ! 出るから、あ、ん、ァァア!」
びゅるる……っ。
二人同時に果て、どちらからともなく顔を寄せ合い、涙混じりの塩っぽいキスを交わした。
「はー……」
どさり。力尽きたように狭いシングルベッドの上に倒れ込んだ男が、うぞうぞと腕を彷徨わせて国広の身体を探り当てる。暫く互いの汗がつくことも厭わず、生まれたままの姿で抱き合っていると、次第に国広はうとうとと微睡み出した。
「ちょうぎ……」
「……ん?」
腰に巻きついた長義の腕に掌をあてがい、身体を起こそうと片腕をつく。
「ベッド、狭いだろ……今客用布団を……」
「要らないよ」
ちゅ、ちゅ、と。顔に、身体にと満遍なくキスの雨が降ってくる。
「俺は、この狭苦しいベッドでお前を抱き締めるのが好きなんだ……」
上機嫌な声で言われたのは、そんな予想外の独白。達した直後の浮き足立った気分の下、意図せずして滑り落ちたのであろうそれはきっと、本来なら国広には聞かされるはずのなかった彼の本音だ。その言葉を聞いて、国広はようやくわかったような気がした。何故、彼が国広の狭い部屋にわざわざ通い詰めるのかを。
「ふっ……」
「どうした?」
「いや……何でもない」
長義には秘密にしといてやろう。
国広が彼の本音に気づいてしまったことを。それから、そんな長義の本音に触れて、これ以上ないくらいに幸せな気持ちになったことも。
*
二限目の授業が終わり、昼休みとなったタイミングで、尻ポケットに入れていたスマホが震えた。
《今大学か?》
一言だけの簡略的なメッセージは、晴れて恋人となった男からのもの。今までは彼と連絡を取るには無粋なことに事務所を介さなければならなかったため、こうして直接やり取りをしていることには新鮮な驚きと、浮ついた喜びを覚えてしまう。いや、元はと言えば己が変な拘りを持って、彼と一線を引いたのが原因なのだが。その件についてはとりあえず頭の片隅に置いておいて、彼と気軽に連絡を取り合えるこの関係を、純粋に嬉しく思う。
《大学にいる。今からランチだ》
早速そう送ると、意外にもすぐに返信があった。
《あんたの大学って食堂は外部者も出入り自由だったよな?》
《五つ星ホテルから引き抜いたシェフが学食を作っていることで有名だからね。わざわざ外から食べにくる人は多いよ》
《わかった》
「……なんだあいつ」
長義の大学のことを聞いてくるなんて珍しい。内容的にこれ以上返信することもなくなって、用済みとなったスマホを再びポケットにしまった。
そういえば、と思う。国広はあれで食べ物にはうるさい。一時期ルームシェアをしていた従兄弟がかなりの腕前で、そんな従兄弟の手料理を食べ続けていたから、舌が肥えてしまったのだと本人が言っていた。また、バイト柄高級志向の店へ出入りすることも多かったため、そういった店の味も知っているし、テーブルマナーを自然と覚えたとも。ならば、一度国広を長義の大学のランチに招いてやってはどうか。不意に脳裏を過ぎった考えに、それは良い案だと一人頷く。
長義のテリトリーで、もぐもぐと口を動かしながら、美味な料理たちを前に表情を緩ませている彼を見るのは……うん、存外悪くない。悪くないどころか非常に優だ、優。
(今度連れてきてやるか)
「なーに気持ち悪い顔してんだよ! ……にゃ!」
ドスッと肩へ衝撃があり、次いで重みを感じた。無遠慮に肩にのし掛かってきた男の方へ、冷たい一瞥を送る。せっかく人が幸せな妄想に浸っていたというのに、この躾のなってない野良猫は……。
「自慢ではないけれど、俺の顔はそれなりに見れたものだと自覚していてね。さて、気持ち悪い顔というのは誰のことかな?」
顎を容赦の無い力で掴み上げ、顔を近づけ凄む。なんだかわからないが、長義の機嫌を酷く損ねてしまったらしいことに気づいた南泉が、慌てて「悪かったって!」と反省しているのかそうでないのかよくわからない謝罪を寄越した。半端な謝罪が一番神経を逆撫でするとわからないのかな、この無礼者め。腹の虫が収まらないので、もっと力を入れてやる。ギリギリと不穏な音がしたが、そんなの知ったことか。
「おやおや、羨ましいことになってるじゃないか! 新手のプレイかい?」
「……君は相変わらずだな」
そこにさらに亀甲が加わって、ややこしいことになる前に長義は南泉から手を離す。前に「羨ましいなら君にもやってやろうか」と八つ当たり半分で突っかかったら、「僕にも相手を選ぶ権利があるからね」なんて斜め上の方向からプライドをへし折られたことがあるので、以来長義の亀甲に対する扱いは微妙に慎重なものとなった。そんなつもりは毛頭なかったのだが……何となく振られた体になって、一人謎の敗北感に苛まれるのは、もう二度とごめんだ。
「そういえば、さっき凄く美人な子に声を掛けられてね」
興奮が忘れられないと言わんばかりの声で、亀甲が言う。
「へぇ、君がそんな話をするなんて珍しいじゃないか」
僅かに驚きを露わにしながら長義が返せば、亀甲は意味深に笑った。
「フフ……食堂の場所を聞かれたものだから、そこまで一緒に来たのさ。今頃は女の子たちに囲まれているんじゃないかなぁ」
「……女の子?」
ということは、美人な子というのは男か。てっきり女だと思っていた長義が面食らっていると、食堂の入り口から色めきだった声が聞こえてきた。
「名前はなんていうんですか? どこの大学?」
「……山姥切国広。黒泉館だ」
「えー! それなら近いですね! 今日はお一人で?」
「あぁ」
「顔があか〜い。可愛い!」
「……? あんたの方が可愛いぞ」
クソが。
一番に思ったのはそれだった。黄色い声を上げて纏わりついている女に対して思ったわけではない。女性というのはそういう生き物。既に諦念を抱いているからこそ、女たちに対して長義が何を思うこともなかった。腹が立つのは男の方だ。
「そういえば、山姥切って苗字珍しいですねー」
どさくさに紛れて腕に触れるな。あいつもあいつだ。さっさと振り払え。
「長義君と一緒だ!」
人をダシにして意識を引こう作戦には無反応か……そこは褒めてやる。
「もしかして兄弟だったりして!」
「ふっ……それはわからんぞ。夫婦なのかも知れない」
「やだぁ〜、冗談上手いんだからぁ」
(デレデレしやがって……俺のオンナのくせに……)
女の前で不用意に笑顔を見せるな。
あと、夫婦『なのかも知れない』じゃなくて夫婦なんだよ!
ヒクヒクと頬が痙攣し、長義の纏う空気がみるみるうちに冷えていく。そんな己の変化をいち早く察知した南泉が、長義の視線の先にいる男の存在に気づき、「げぇっ」と声を上げた。そこで、南泉が花火大会の時に国広と顔を合わせていたことを思い出す。
「や、やまんばぎり……顔やべぇって……にゃ」
「あいつ、俺のなくせして生意気だと思わないか。あんな可愛い顔を無防備に晒すなんて、俺に喧嘩売ってるのかな?」
なまじレンタル彼氏なんてバイトをしていたものだから、女の扱いに慣れているのがタチが悪い。長義の機嫌が氷点下を突破したことを悟り、南泉がぼそりと「めんどくせ」と呟いたのが耳に入った。全部聞こえてるぞ、猫殺しくん。間髪入れずに指摘すれば、猫よりも猫らしい男は蛇を前にしたそれのように、ピャッとその場で縮み上がる。
「……お前が勝手に一人で喧嘩売って、大特価セールで買ってるだけだろ。マジで同情するぜ、あいつ……にゃ」
「は? 何絆されてるんだよ。惚れたら斬るぞ」
「斬る? 縛る方が興奮すると思わないかい?」
「もうやだおまえら」
そうこうしているうちに国広がこちらに気づいた。
長義の姿を見つけるや否や、ぱぁっと表情を明るくしてこちらを見る姿が愛おしい。心なしか、どんなにセットしても治らないアホ毛が、感情に合わせてふよふよと動いているように見えた。そんな可愛らしい一面まで公衆の面前で晒すとは……可愛さ余って憎さ百倍。割と本気で腹が立ってきた。
「長義……!」
これ以上彼を見ていると要らぬことを口走ってしまいそうだ。そう思い、長義がその場を後にしようと踵を返したその時。周りを取り囲んでいた女たちを掻き分けて、国広が長義の下へ駆けてくる。その姿を見るだけで、現金なことに長義の苛立ちは少しだけ鎮火した。他の誰でもない自分を選んで走り寄ってくる様が、仄暗い優越感を抱かせたからだ。
「やぁ、偽物くん。まさかうちの大学に来ていたなんて。お前はほうれんそうという言葉を知らないのかな?」
吐き出された言葉には突き放したような響きと棘がある。だが国広は長義の嫌味など慣れきっているため、大して気にもせずに会話を続けた。
「偽物と呼ぶな。あー……すまん。近くまで来たから、つい……」
「さっきのメッセージもこういうことだったのか。来る時は一言連絡を入れろ。それに、」
ーー大学キャンパス内で恋人と待ち合わせなんて、夢の極みだろうが。
「げほっ……ごほっ……」
「大丈夫か?」
「なんでもない……」
間一髪のところで余計なことを吐かなくて済んだ。無理矢理言葉を飲み込んだせいで唾が気管に入ってしまい、派手に咽せ込む。後ろで南泉が化け物でも見るような視線を送ってきているが、頑として無視を貫いた。あの男、覚えてろよ。さらりと流している風に見せかけて、しっかり心のメモに記録しておく。長義は淡白そうに見えて執念深いのだ。
「あれ、長義くんの友人だったのか」
「あんた、さっきの……!」
と、そこで長義の隣にいた亀甲が、国広に声を掛けた。灰青の瞳は興味津々とばかりに輝き、驚きを露わにした国広を捉えている。何となく面白くなくて、長義はその視線を遮るように国広との間に割って入った。次いで、つ、と咎めるような視線を後ろの男へ送ると、彼は何事かを察して「へぇ〜!」と大袈裟に声を上げ、南泉の背中をバシバシと叩き始めた。いいぞ、もっとやれ。「痛えよ! にゃ!」と叫ぶ南泉を前に、長義が密かにほくそ笑む。
「君、もしかして長義くんの……」
「最近知り合ってな。偶然バイト先の関係で知り合ったんだ。『友人として』仲良くさせてもらっている」
しかし、国広がさらりと投下した爆弾により、長義の笑みは瞬く間に凍りついた。
「は?」
今何と言った? 友人として?
いや、こんな公衆の面前でマイノリティーな関係性を暴露するのは、かなりリスクが高いというのは理解している。ましてやこの大学はそれなりの家の出の生徒たちが多く、そういったスキャンダルが歓迎されない風潮が根強いのだ。それでも、国広の口から自分たちの関係を隠すような言葉が出たのは衝撃が大きかった。これ以上彼の口から自分たちの関係を否定する言葉を聞きたくない。そう思っているのに、残酷にも国広と亀甲の応酬は続いていく。
「なんだ、てっきり君が本命かと思ったのに」
「本命? 俺は男だぞ。そんなわけないだろ」
「うーん、そっか。そうだよねぇ」
「当たり前だ」
「国広」
自分で思っていたよりも低い声が出た。
それまで亀甲と談笑していた国広が、ピクッと僅かに肩を揺らす。国広の発言に、理解はしても納得は出来ない。こればかりは心の問題だった。
「せっかく来たんだ。うちの大学のランチを堪能するといい。あちらの席が空いているから、二人で食べよう」
一分の隙もない笑みと共に言うと、国広が不安げな顔をする。そんな彼の様子には気づいていたものの、敢えて素知らぬふりして南泉と亀甲の方を見た。すると、俺たちのことは気にするなと静かに首を横に振られる。流石は付き合いの長い二人だ。そんな彼らの好意に甘え、長義は未だ戸惑っている国広の腕を掴むと、一目散に奥の席へと向かった。
「なぁ、長義……」
「……」
わいわい、がやがや。騒がしい学生食堂の真ん中を、二人は進んでいく。
「俺は……何かしてしまっただろうか? もしかして、顔に出てたとか……っ」
「……お前はちゃんと繕えてたよ」
そう、お前は完璧に『友人として』振舞っていた。だがそれを不満に思い、身勝手にも不快に感じているのは、すべては長義の我儘だ。
席を取った二人は荷物を置き、キッチンカウンターでランチセットの注文を済ませた。昼餉の用意が調って手を合わせ、二人一緒食事をする。会話は無かった。周りの喧噪ばかりがやけに耳について、箸を持つ手がみるみるうちに重くなっていく。まるで手枷でも嵌められているようで、長義は堪らず箸を置き、前を見た。
「……」
国広もまた、長義を見ていた。
「何かな」
「……いや、」
もごもごと口籠った男は、険しく眉根を潜めて何事かを思案している。ややあって、言いたいことが纏まったのだろう。再び長義に向き直った国広は、一つ一つの言の葉を丁寧に紡ぎ出した。
「嘘を吐くのは苦しいなと思って……」
そう言ったきり、国広は一度口を閉ざす。そして、グラスに注がれた水を煽って、続けた。
「この先あんたの友人や、俺の友人……家族にも嘘を吐き続けるのかと思うと、やはりクるものがあるなと……」
「嫌になったか」
遮るようにして、鋭く言った。国広がその先に続けようとしている言葉を、どうしても言わせたくなかったのだ。
嘘を吐くのは苦しい。だが、嘘を吐かなければ共にいられない。男同士の関係は世間的にまだまだ理解に乏しいところがあり、それまで親しくしていた友人でさえも、同性と交際していると知ったことで離れていくことがあると聞いた。最悪な場合は血の繋がりのある家族に勘当されることもあるとも。南泉と亀甲がそうなるとは思えないが、万一ということもある。
ーーおおっぴらにはせず、自分たちの関係は隠しておこう。
それは、交際を始めた時に二人で決めたことだった。
「……別れないからな」
「は……?」
「逃げたら地獄の果てまで追いかけてやる」
きょとん、と。国広が鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。苦しいからって、逃げることなど許さない。もう二度と、彼を失った時の喪失感を味わうなんて御免だった。もし彼が、また長義との関係を拒むというのなら、その時は……彼の両足を斬ってでも傍に縛り付けてやる。
今までの交際相手にそこまでの思い入れを抱いたことはない。どうやら自分でも気づかぬうちに、国広に対して酷く執着していたようだ。
「別れるって……あぁ、そうか。そういうことか」
ははっ。
突然国広が笑い出して頭にカッと血が上った。何がおかしい。こちらは真剣な話をしているというのに、あまつさえそれを笑うとは。しかし、彼の笑顔がとても……幸せそうな、満ち足りたものに見えたから。長義は何も言えなくなった。
「悪い、そういうつもりで言ったんじゃない。ただ俺は、いつか俺たちの関係を堂々と話せる日が来たらいいなと……それが言いたかっただけだ。俺だってあんたと別れるつもりは毛頭ない。とっくに覚悟を決めていたからな。今更の話だ」
いつか。
そのいつかは、いつ訪れるのだろう。一寸先は闇。何が起こるかわからない不明瞭な世界に、光が差す。その瞬間を見た。
「いつか、ね」
噛み締めるように、言葉をなぞる。
「あぁ……いつか、だ」
「お前は本当に……予想の斜め上をいくね」
さらりと未来の話をするのか、こいつは。しかも、当然のように二人一緒にいるという前提で。そうだった。この男のそういうところに惚れたのだ。無自覚で、純粋で、真っ直ぐで。偽りの言葉を吐かない、そんなところを好いたのだ。
「……良き時も悪き時も、富める時も貧しい時も」
「ん? なんか言ったか?」
「お前が今とても不細工な顔をしてるなって言ったんだよ」
「な、ぶさ……っ」
「くっ……そら、その顔。ほんと不細工だなぁ」
いつか、が本当に訪れたなら。その時は、この続きの口上に誓い、永遠の愛を捧ごう。それまではせいぜい振り回して、掻き乱して、この男の反応を存分に楽しんでやる。そんなことを考えた、昼下がりの午後。先の見えない未来が明るいものに思えた。そんな幸福に溢れた日常の中、長義は日替わりランチのメインである煮込みハンバーグを、口いっぱいに頬張った。
「はい、一口。仕方ないから慈悲をやろう」
「いらん!」
「意地になるなって」
これが幸福の味か。
口の中に広がる濃厚なデミグラスソースと肉汁を咀嚼して、噛み締めるように呟いた。
【後日談 その後の、ふたり 完】